アフィリエイト広告を利用しています
<< 2016年06月 >>
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
検索
リンク集
最新コメント
チェコの銀行1(十二月二日) by ルイ ヴィトン 時計 レディース hウォッチ (03/20)
メンチンスキ神父の謎(四月卅日) by にっしやん (12/30)
メンチンスキ神父の謎(四月卅日) by にっしゃん (12/30)
メンチンスキ神父考再び(七月卅日) by にっしゃん (12/30)
カレル・チャペクの戯曲残り(二月朔日) by K (08/16)
最新記事
カテゴリーアーカイブ
記事ランキング
  1. 1. 『ヨハネス・コメニウス 汎知学の光』の刊行を寿ぐ(四月十日)
  2. 2. no img 『羊皮紙に眠る文字たち』『外国語の水曜日』(三月十九日)
  3. 3. no img コメンスキー――敬虔なる教育者、あるいは流浪の飲んだくれ(九月廿七日)
  4. 4. no img すべての功績はピルスナー・ウルクエルに(一月廿六日)
  5. 5. no img 「トルハーク」再び(三月廿日)
  6. 6. no img トルハーク四度(十月二日)
ファン
タグクラウド










ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog

2016年06月30日

今シーズンのオロモウツ(六月廿七日)


 サッカーのユーロのチェコ代表について記す前に、オロモウツのスポーツチームの成績について簡単にまとめておく。こんなの日本語で書く人ないだろうし。

 以前、落ちそうだという話を書いたサッカーのシグマ・オロモウツは、先月半ばに行われた最終戦でテプリツェに大勝したものの、一つ上にいたプシーブラムがヤブロネツと引き分けたため、一年でまた二部へと転落してしまった。勝ち試合で無駄に大量点を取ってしまうのは、降格するチームにはよくあることかもしれない。
 二部にいたBチームも、Aチームの成績が上がらないのに合わせて低空飛行で最下位、結局一緒に降格することになった。Aチームが降格する以上、同じカテゴリーにBチームが参戦することは許されないだろうから、どんな成績でも降格することにはなっただろうけれども、残念な成績であったことには変わりない。
 二度目の降格が決定した結果、監督は交代しないようだが、一度目の降格の際には残ってくれた主力選手の多くが移籍することになりそうだ。数年前は代表に呼ばれるんじゃないかと期待していたナブラーティルとU21代表シェフチークのリベレツ移籍が決まったし、元得点王オルドシュは、ドイツの四部リーグのチームと交渉をしているらしい。何とかまた一年で一部に復帰してほしいと思うのだが、難しいかなあ。
 以前は、オロモウツの駅の裏側の地区ホリツェのチームが二部にいて、上位争いをしていたこともあるので、もしかしたらオロモウツのチームが二つ一部に参戦するというプラハ以外ではありえないことも起こるかもしれないと期待していたのだけど、ホリツェのチームが資金難か何かで成績を落として、二部からも姿を消して数年になる。

 アイスホッケーのHCオロモウツのほうは五位でプレーオフに進出したが、プレーオフの初戦準々決勝でプルゼニュに一勝しかできずに敗退してしまった。そのプルゼニュは準決勝でスパルタに負けてしまったのが残念。オロモウツは最終的な順位としては五位という扱いになるのかな。
 サッカーのシグマとは違って、オーナーがどうなるか以外は特に問題は抱えていないので、一部リーグに定着して、アイスホッケーチームのある町としてのオロモウツ復活と考えてもよさそうだ。アイスホッケーは試合を見に行っても、小さな黒いパックが見えなくてわけが分からなくなるに決まっているので、応援しに行ったことはないけど、いつかは優勝してほしいものだ。アイスホッケーはサッカーと比べるとシーズンごとの上下の浮き沈みが激しいので、不可能ではないと思うんだよなあ。

 ハンドボールは、男子のチームはオロモウツではなく、近くのビールの町リトベルにタトラン・リトベルというチームがある。一部リーグに昇格して二年目で、まだ上位のチームには差を付けられているが、今シーズンは上位のチームとも結構いい試合をしていたので、来年以降が楽しみである。昨シーズンは十一位決定戦で勝って、何とか残留を決めたのに対して、今シーズンはリーグ戦は十一位に終わったのに、順位決定戦で、優勢だと思われていたコプシブニツェとブルノを次々と破って九位に進出したのは見事だった。
 ちょっと心配なのは、来年九月開始のシーズンからチェコとスロバキアが共同でインテルリーガというリーグ戦を始めると言っていることだ。男子でも十年以上前に一時期実施されたことがあるし、女子のリーグでは今でも行われているのだが、チーム数は両国合わせて14とか16で行われていたはずだ。そうすると、チェコ側のチーム数が現在の一部リーグの12から減らされるのは必然で、リトベルはインテルリーガではなく、二部リーグに回されることになりそうだ。ハンドボールの二部の試合がテレビで放送されるなんてことはあり得ないから、今年の九月からのシーズンでリトベルの試合が一試合でも放送されることを祈ろう。ハンドボールリーグの上位の安定ぶりを考えると、リトベルが来シーズン上位八位以内に割って入るのは至難の業だろうし。

 もう一つ、オロモウツ地方のハンドボールチームとしては、フラニツェのセメント・フラニツェがある。ベテランを中心としたチーム編成で、リーグ戦の終盤は疲れのせいで勝てそうな相手に負けることもあったが、日程に余裕のあったプレイオフでは、本領を発揮して三位の座を獲得した。ここから上に上がるのは、ベテランが多いことを考えると難しいだろう。いつかはオロモウツ地方から優勝チームが出てほしいのだけど。

 女子のハンドボールでは、オロモウツのゾラ・オロモウツが、長らくチェコのトップチームの一つであり続け、毎年スラビア・プラハやズリーンなんかと優勝争いをしていたのだが、近年モストとオストラバのポルバの台頭を受けて、成績が下降気味である。
 今シーズンもインテルリーガ全体で八位、チェコ側では五位の成績に終わってしまった。一つ上のズリーンと、上位四チームを対象としたチェコ側のプレイオフ進出をめぐって熾烈な争いをしていたようだが、結局勝ち点一の差で、残留をめぐる争い、いわゆるプレイアウト参戦を余儀なくされた。そこでは、安定し戦いぶりでピーセクとベセリーに連勝して、五位を確定させたけれども、かつての強かった時代を知っている者としては、寂しさを隠し切れない。オロモウツに一部チームの存在しない男子よりはましなんだけど……。

 他にもバレーやバスケットなどで、オロモウツのチームがチェコの一部リーグで活躍しているようだが、いかんせん、自分のやったことのないマイナースポーツの結果を追いかけるほどのマニアではないので、オロモウツのチームがどんな成績を残したのかは把握できていない。ただ、バレー、バスケットでは、オロモウツよりも近くのプロスチェヨフのチームのほうが成績がいいということだけは言える。
 自分がやったことのあるスポーツと言えば、ラグビーなのだけど、オロモウツのラグビーチームは、残念ながらチェコ国内の二部リーグに埋没してしまっている。一部に上がったら試合を見に行こうと、ここ何年も考え続けているのだけど、いまだに実現していない。
6月28日18時。


2016年06月29日

イギリス、EU脱退(六月廿六日)



 ついに来るべきものが来た、起こるべきことが起こったというのが正直な感想である。現在のEUという組織の運営を見ていると、遅かれ早かれ、中心から疎外されているどこかの国が脱退することになるのは、予想されることであった。その最初の脱退国がイギリスであることは、EUにとっては幸いなことである。イギリスでの国民投票の結果を突き付けられて初めて、EUが、EUの中心国家であるドイツとフランスが、改革の必要性を口にするようになったのだから。これが、チェコやハンガリーのような数合わせとしてしか考えられていない国だったら、EUが改革に向けて舵を切るようなことにはならなかっただろう。

 今回のイギリスの脱退の原因は、一言で言えば、EUが、ドイツとフランスが、他の加盟国の意見を聞かず、他の加盟国の置かれた状況に全く配慮せず、EU的正義に基づいた法律や、ルールの導入を強要してくることにある。そのくせドイツやフランスには様々な例外が認められている(少なくともそう思われている)。それにうんざりしていたのは何もイギリスだけではない。そのために新しい加盟国、特に旧共産圏の諸国では、どこでも反EU的な風潮を押さえるのに苦労している。今のところは反EUを主導しているのが極右の過激派なので、そちらに対する嫌悪感から、反EUの声はそれほど高まっていないが、何かをきっかけにして社会の空気が一気に反EUに向かう可能性は高い。
 それが、イギリスでの騒動のおかげで、ヨーロッパ基準というものの導入を、これまでの強制から、各国の事情に応じて弾力的に行える方向に変えようということで、EU主要国家の意見がまとまりつつあるようである。これが実現されれば、しばらくは反EUを抑えて、EUの中で改革を訴えようという考えが主流になるだろうから、親EU派は一安心というところだろう。
 ただ、理解できないのは、このEUの方針の変更は、これまでもイギリスや弱小諸国が何度も訴えてきたことなのに、ここまで無視されてきたことである。そして、イギリス脱退に、ドイツ、フランスが危機感を感じた瞬間に、取り上げられるのだからふざけた話である。
 ちょっとカッコつけた言い方をすれば、本来主権を持つ国家が集まってEUという連合体を形成していたはずなのに、いつの間にかEUの主権のもとにそれぞれの国家が存在するという方向に向かい始めたのが問題なのだ。だから、かつての大英帝国の末裔が耐えられなかったのは当然だし、他国の主権のもとに存在するのに慣れているスコットランドや北アイルランドで、EU残留の票が多かったのも当然なのだろう。

 今回のEUの危機を受けて、一つのヨーロッパとか、統一されたヨーロッパなんて言説がしばしば聞かれるが、そんなもん嘘である。嘘でなければ「チェコスロバキア人」並みの幻影である。地理的にヨーロッパが一つなのは、イギリスがEUから脱退しようがしまいが変わらない。そしてEU=ヨーロッパだと、傲慢にも言うのなら、EUの内部は一つではなく、いくつかのグループに分かれている。
 イギリスの国民投票の結果への対応が、図らずも露呈させてしまったが、まずEUの意思決定に決定的にかかわっているのがドイツとフランスである。EC時代の初期加盟国が二つ目のグーループを作る。さらに元西側で遅れて加盟した諸国と、旧共産圏諸国がそれぞれ、第三、第四のグループとなって、EU内での扱いには大きな差別がある。イギリスの場合には、ドイツと、フランスに並ぶ大国でありながら、第三グループにいるという微妙な立場に置かれていたのである。
 こんな状況で、ドイツやフランスの政治家が、EUは一つだとか、加盟国は平等だとか言うのであれば、それは大きな嘘であり、チェコなどの国の政治家が言う場合には、それは願望であって理想だということになる。政治家には嘘つきの能力も必要なのだろうけど。
 そして、政治的に統一されたヨーロッパというものは、これまで存在しなかったし、現在も存在しない。イギリスの誰かが言っていたように、ヨーロッパ統一というのはナポレオンの夢であり、ヒトラーの妄想でもあった。そう考えると、現在の覇権を求めるEUを主導するのがフランスとドイツであり、その構想がウクライナ、ロシアに手を出したことで頓挫に向かい、イギリスによって止めを刺されたという事実は、なかなかに象徴的である。
 これをきっかけに、EUが各国の多様性を尊重した連合体というかつての姿を取り戻してくれることを願ってやまない。そうなれば、チェコなどの弱小国家もEU内で呼吸しやすくなるし、イギリスも国民投票まで行って脱退を可決した甲斐があるというものだ。 

 日本のネット上でも、チェコのテレビでも、イギリスの脱退によってどんな問題が発生しうるかについての議論がやかましいが、典型的なためにする議論である。即時にイギリスがEUから脱退するわけでもないし、脱退したからといって、EU諸国とイギリスとの関係が急速に変わるとも思えない。
 両者が理性を持って脱退後の条件について話し合いを行えば、大部分、特に経済的な面に関してはほぼ現状維持ということになるはずだ。EU諸国にとってイギリスが、イギリスにとってEU諸国が、重要な貿易相手であるという点では、脱退しようがしまいが変わらないのだし、現在の関係が両者にとって都合のいいものであれば特に変える必要もない。ただ、EU側が、加盟国の大半の意向を無視して、脱退したイギリスに対する報復の意味で、厳しい条件を課しかねないという不安はあるが、そんな組織だったらとっとと崩壊したほうがましというものだ。
 おそらく、現在から大きく変わるのは、これまでEUに追随することを強制されてきた移民政策や、ヨーロッパからの労働力の受け入れという部分だろうが、これも現在イギリスで仕事えて働いて生活の基盤を築いている人を、EUを脱退したからという理由で追放するようなことはするまい。新たにイギリスに行って仕事を得るのは難しくなりそうだが、そこは脱退の直接の原因の一つとなった部分だけに、イギリスとしても譲れないところだろう。

 結局、イギリスの脱退可決は、EUという組織そのものには大きな衝撃で、加盟各国の政府にとっても大きなショックだっただろうが、一般の市民にはそれほど大きな影響はないはずだ。むしろ、EUの強権的な態度が改まる可能性があるのだから、いい結果をもたらす可能性も高い。現在のマスコミの論調は、イギリスの決定を批判する風潮を作り出したがっているEU側か、経済的な混乱を引き起こして、そのどさくさにぼろ儲けをしようとたくらんでいる連中の差し金であるに違いない。 

6月28日0時30分。


posted by olomoučan at 07:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2016年06月28日

オロモウツハーフマラソン(六月廿五日)


 本日、オロモウツ市内を舞台にハーフマラソンが行われた。これは毎年六月末の土曜日に開催されているもので、今年で七回目を数えるらしい。今年は運悪く猛暑に襲われ、日中の最高気温は35度近くまで上がり、スタートの午後七時の時点でも、29度ぐらいだった。そんな猛暑の中、走りぬいた参加者たちには、称賛の言葉しかない。
 さて、かつてのチェコスロバキアで、一番有名であったマラソンは、スロバキア東部のコシツェという町で行われていたもので、日本からも宗兄弟のどちらかが出場して、一位か二位に入ったことがあるらしい。チェコ側では特に大きなマラソンの大会は開かれていなかったようである。そのせいか、ヘルシンキオリンピックで、長距離三冠に輝いたザートペクを生んだ国なのだが、それ以後はマラソンも含めた長距離の世界的な選手は輩出していない。
 一体に、チェコの陸上競技というのは、ジェレズニー以降世界的な選手を輩出し続けているやり投げを除けば、突然一人か二人の世界的な選手が登場して、世界選手権やオリンピックでメダルを獲得するという形をとることが多い。人口自体が少なく、競技人口も少ないチェコではすべての競技に、才能あふれる子供が向かうというのは難しいのだろう。ただ、恵まれない環境の中からでも登場してくる才能は、世界に出ても圧倒的な存在であることがある。それが、陸上ではないけれどもスピードスケートのマルティナ・サーブリーコバーであり、かつての長距離のザートペクだったのだ。

 ビロード革命後、そのザートペクがチェコの陸上の長距離選手の低迷を嘆き、それを解消するために設立に尽力したのが、プラハで毎年春に行われるハーフマラソンだった。ハーフマラソンの運営が軌道に乗り定着すると、今度はフルマラソンも行われるようになった。フルマラソンが定着するころになると、チェコでも健康のためのジョギングブームが巻き起こり、いわゆる市民ランナーの数が急増し、普段の練習の集大成として出場できるレースの増加が求められた。プラハ一箇所では、旧市街を走る関係上、出場者を際限なく増やすことはできないのだ。
 そんな流れの中で最初に誕生したものの一つが、オロモウツのハーフマラソンだった。どこまで本当かはわからないが、オロモウツの陸上関係者がお酒を飲んでいるときに、酔った勢いで開催することを決めたとか、半年で実施にこぎつけられるかどうかに、一杯のビールを賭けたという話も聞こえてきた。それを信じてしまうぐらいには、第一回目の開催は急な出来事だった。

 第一回目のレースは、10kmほどのコースを二周する周回コースで行われ、うちから歩いて一分もかからないところを通っている大通りもコースとして使われていた。遠くまで出かけて応援する気はなかったが、本当に目と鼻の先なので、どんなものなのか確認がてら応援に行くことにした。
 アフリカからの招待選手たちが、とんでもないスピードで駆け抜けて行き、完走を目標に自分たちのペースで着実に走るランナーたちに拍手をしていたら、集団の中から、大きな身振りでこちらに手を振ってくる男がいた。誰だよと思ってみたら、サマースクールで知り合ったイタリア人のアレッサンドロだった。出場するという話は聞いていなかったので、嬉しい驚きだった。こういうイベントは、知り合いが出ていたほうが応援しがいがある。
 アレッサンドロには、以前もプラハのマラソンのリレーの部(つまり駅伝)に、チームを組んで出ないかと誘われたこともあるので走っていることは知っていたが、いつの間に出場の申し込みをしていたのだろうか。こちとら出場者を募集していることすら知らなかったというのに。出る気があれば情報が入ってきたのかもしれないけど。
 周回コースだと、トップの選手がゴールする前には周回遅れが発生するので、それが問題になったのか、四回目ぐらいからコースが変更になって、うちの近くの大通りは通らなくなってしまった。それでも、せいぜい五分も歩けばコースの折り返し点が置かれている公園に着くのだ。ということで、毎年沿道の観客をやっている。

 これまでは、一回目のアレッサンドロのように、応援していたら知り合いを発見するというパターンだったが、今年は知人が二人出場することがわかっていた。猛暑だったので無事にゴールまで走りきれることを祈りながら、応援することにした。
 一人は、去年も出ていて一時間二十分弱でゴールしたといっていたので、招待選手以外の中では、結構最初のほうにくるだろうと思って探すのだが、なかなか姿が見えない。一時間三十分とかかれた幟のようなものを背中につけたペースメーカーが登場しても、見えてこないので、見過ごしたのかと思っていたら、朦朧とした表情で走る知人の姿が見えてきた。名前を呼んでも、がんばれと言ってみても何の反応もなかった。去年は余裕の表情で走り抜けていったから、暑さにやられたということなのだろう。
 もう一人は、目標が二時間二十分と言っていたのだが、二時間三十分のペースメーカーの後ろの集団に埋没して現れた。事前に聞いていたのとシャツの色が違っていたこともあって、見落としそうになってしまった。向こうがこっちに気づいて声を出して手を振ってくれなかったら、気づけなかっただろう。スピードはそれほど出していなかったが、飄々と暑さなどものともせずに、軽々と走っていった。
 知人二人は幸い無事にゴールしたようだが、今年は救急車のサイレンが例年以上に鳴り響いていたような気がする。前半のオーバーペースがたたったのか、よたよたと不自然な走り方をしていた人もいたし。来年はこんな猛暑ではなく、肌寒いぐらいのマラソン日和になることを祈っておこう。
6月26日23時30分。


 これまでも、日本の実業団の選手が走ったことがあるみたいだが、今年も一人女子選手が招待選手として走っていたようである。ゼッケンには「た」で始まる名前が書いてあったと思うのだけど、読み取れなかった。一位の選手からはかなり話されていたけど五位ぐらいで通過していった。6月27日追記。

2016年06月27日

サマースクールの思い出(六)――一年目残りの残り(六月廿四日)



承前

 サマースクールも終わりに近づくと、自分のクラスの人たちだけでなく、上のクラスの人たちと食事に行ったり、お酒を飲んだりする機会も増えた。たしか、最後の週の木曜日だったと思う。夜十時ぐらいにほろ酔い気分で寮に戻ってきたら、寮の前のベンチに座ってお酒を飲んでいる連中に呼び止められて一緒に飲もうと誘われた。初日に一番上のクラスにいた人たちだった。
 初日には何を言われているのか、理解できなかったことを思い出して、話せるかどうか不安だったのだが、一言二言言葉を交わしたら、意外とわかったので、誘いに乗った。話してみると、そこにいた全員が一番上のクラスに残ったのではなく、一つ下に移った人もいて、結局一番上のクラスは半分以上入れ替わってしまったらしい。サマースクール体験の豊富らしいアメリカ人の年配の男性が、ここまで入れ替わるのは珍しいねと言って、あのクラス分けのテストじゃ仕方ないかなというようなことを言っていた。
 甘ったるい変なお酒を飲まされながら、意外なことにあれやらこれやら話ができてしまった。もちろん、いくつかわからない言葉はあったが、話せてしまったのである。そして、彼らのチェコ語が、完全ではないことに気づいてしまった。ぺらぺら喋っているけれども、ところどころ発音がおかしくて聞き取りにくいところがあるのだ。
 チェコ人であれば、発音が多少おかしくても、問題なく理解できるのだろう。でも外国人には難しい。それが、四週間の時間を経て、同じクラスの同級生たちの決して流暢とはいえないチェコ語の発音を聞いているうちに耳が慣れてしまったらしい。だからといって、耳の問題さえなければ、一番上のクラスでがんばれたとは思わない。師匠の芸術的な発音のチェコ語を聞いてもわらからないことのほうが多かったのだから。ただ、初日にあそこまで絶望する必要はなかったのだなあと考えて、何とも言えない気分になった。あの絶望があったからこそ、ここまで頑張り通すことができたというのも事実なのだ。
 とまれ、この外国人の同級生のチェコ語が理解できないことを、自分のチェコ語の能力を判断する基準にはしないというのは、翌年以降のサマースクールに臨む際の基本的な態度の一つとなる。翌年も初日の授業では、一年目ほどではなかったにせよ、言葉が聞き取れない同級生が何人もいたのだ。しばらくしたら慣れたけど。

 あとは、特筆するようなこともなく、サマースクールは終わりを迎えた。また来年も来ようねえとか、来年は無理だから二年後に来るとか、そんなことを言っていた連中も結構たくさんいたけど、実際に再会できたのは、そのうちの何人かに過ぎない。夏のバカンスの習慣のあるヨーロッパとはいえ、毎年語学のサマースクールに通うわけにも行かないのだろう。私自身も四年しか続かなかったし。
 最後の試験や成績がどうだったかは、まったく覚えていない。チェコ語の勉強は試験に合格して何かの資格を取るために始めたわけではないのだから、それでいいのだ。大切なのは四週間みっちり勉強できたことである。久しぶりに高校時代の受験勉強のように重点的に、同時にあれよりは多少効率的に、強い意志を以て勉強できたことで、さらに本格的にチェコ語の勉強をしようと決意を新たにすることができた。その結果が、現在のチェコ在住十五年なんてことになるわけだけど、その辺の話はまたいずれ語る機会もあるだろう。

 そういえば、奨学金をもらったのだからと思って、サマースクールのレポートを、帰国後すぐチェコ語漬けの感覚が消えてしまわないうちに作成して、申請の際にお世話になった方に提出したのだった。もちろん、そのために大使館に行ったのではなく、大使館で開催していたチェコ映画の上映会に行った際に、御礼の挨拶をしたついでのことである。今から読み返したら、おそらく間違いと不自然な表現に満ち溢れていることに頭を抱えるのだろうけど、あのときはあれ以上のものは書けなかった。読んでもらえて、間違いのばかばかしさについてでもいいので、笑ってもらえていたら、幸せなのだけど。

 長きにわたってしまったサマースクール一年目の話は、これでおしまいである。二年目、三年目もあれこれ書くことはあるのだけど、ここまで長くはならないと思う。問題はいつ手をだすかだな。
6月25日16時。


2016年06月26日

サマースクールの思い出(五)――一年目残り(六月廿三日)



 一年目の話は二回ぐらいで終わると思っていたのだけど、終わらないので続ける。
 週末の土曜日には、貸し切りバスを使って、遠足に出かけた。一週目の週末に出かけたのが、ナポレオンに関係するスラフコフ・ウ・ブルナとモヒラ・ミール、そしてイバンチツェだった。イバンチツェには、フス派の印刷所があったということで出かけたんだったかな。ただ、途中でバスの運転手が道に迷ってしまって、到着したときには、日の長い七月後半だというのに、すでに薄暗くなっていた。当然、案内してくれるはずだった人も、すでにいなくなっており、結局見学はできたと思うのだけど、えらく待たされて、せかされたのだった。
 二週目には、金曜日の午後から二泊の予定で、プラハに出かけた。とはいっても、ひねくれ者の私は行かずに、オロモウツに残ったのだが。プラハよりもオロモウツが好きだからここに来たんだと主張していた同級生たちや、プラハ中心主義を批判していた先生たちも一緒に行っていたから、裏切り者と叫びたい気分にはなったけれども、同級生たちのいない静かなオロモウツというのもまた、悪いものではなかった。常に喧騒に取り巻かれてちょっと疲れていたのかもしれない。なので土日は、ほとんど出歩かずに寮の中でおとなしくしていたはずだ。

 これで、サマースクールの前半が終わり、翌月曜日から先生が代わった。一番上と二番目のクラスだけは、四週間一人の先生が担当したが、それ以外は二週間づつ教えるようになっていた。前半の先生が大当たりだったので、後半変な先生が来たらいやだなと思っていたのだが、代わりにやってきた普段は教育学部で教えているという男の先生も、なかなかいい先生だった。
 前半の先生が文法的なことをしっかり教えることに重点を置いていたのに対して、後半の先生がむしろ使わせることに重点を置いて、いろいろなことを話させようとしていたのもよかった。単なる自己紹介レベルではなく、自分の仕事や学問などについて、詳しく聞かれて、みんなしどろもどろになっていたけど、こういう体験が次に役立つのである。私自身は、当時関わっていた出版関係の仕事について、うまく話せたものもあるし、どうしても言えなくてあきらめてしまったものもある。それが、後に師匠の下であれこれ質問をして、ちゃんと言えるようになる原動力となったのである。
 この先生が、学生たちを自宅に招待してくれた。全員参加ではなかったが、クラスの半分以上で、その日の授業の後、先生も一緒にみんなで駅に向かった。切符は先生がみんなからお金を集めて団体券を買ってくれたのだけど、車内での検札の際に人数が合っているとかいないとか、車掌さんとあれこれ話していた。かなり散らばって座っていたので、誰がこのグループに属しているのか、確認するのが大変だったらしい。最後は車掌が、よくわかんねえけどいいやみたいなことを言って解放された。
 先生の自宅は、プロスチェヨフの近くの駅のない小さな村にあって、隣村の駅から線路沿いを歩いて向かった。典型的なハナー地方の農家の建物だったのだと思う。鱒がいるからみんなに御馳走しようと言い出して、焼き魚を一人一匹ずつ頂いてしまった。久しぶりの魚は美味しかったのだけど、焼く際にニンニクをおろしたものがべっとりと塗られていたのと、箸で食べられなかったのがちょっとだけ残念だった。そんな歓待を受けたこともあって、話が弾みすぎてオロモウツに戻る予定の電車に乗れなくなって、一本遅い電車になってしまったのも全く気にならなかった。
 前半の先生は、翌年のサマースクールでも教えていたので、あいさつをすることができたのだが、この後半の先生には、残念なことに一年目のサマースクールが終わって以来お目に書かれていない。ただ、今会っても気づける自信はないのだけど。

 三週目の土曜日の遠足には出かけるつもりで、一度は集合場所の駐車場までは行ったのだが、その駐車場にハンドボールチームのバスが停まっていたことから、近くの体育館でハンドボールの試合が行われることがわかって、予定を変更してオロモウツに残った。このときもスイス人のマティアスが、バスのところにいた関係者に話を聞いてくれたんじゃなかったかな。本当に足を向けて寝られない。まあ、毎年そんな存在が増えていくのだけど。
 だから、このときどこに遠足に行ったのかは、いや行きそこなったのかは覚えていない。すでに一度行ったことのあったボウゾフだったかなあ。久しぶりに見るハンドボールの試合は、シーズン前の親善試合で結構面白かった。だからオロモウツに残ったかいはあったはずなのだけど、対戦したチーム名とか、何試合あったかとかは、忘却の彼方である。

 初日には、落ち込んだ姿が新聞に掲載されて恥をさらしたのだが、後半にもまた写真を撮られてそれが新聞に掲載された。ただし、今回掲載されたのは同級生たちとにこやかに話している姿で、前回の写真と比べると、別人のようだと同級生たちにからかわれた。別人に見えたのは、チェコ語の修行の一環として、散髪に出かけて、伸び放題だった髪の毛が、すっきり短くなっていたからという理由もあるはずなのだけど。いずれにしても、置かれた状況の違いを如実に表した二枚の写真だった。これも、いや、二枚そろえていいお土産になった。
6月24日18時。


2016年06月25日

サマースクールの思い出(四)――一年目授業以外(六月廿二日)



 当時のサマースクールでは、学生たちに事務局が発行した食券を、一日当たり二枚、全部で50枚ほど配布していた。コピーして切り刻んで判子を押しただけというちゃちなものだったが、一枚が、たしか60コルナ分の価値があって、足りない分は追加で支払うようになっていた。ただし、どのレストランでも使えるというわけではなく、事務局で選択して契約した五つのレストランでしか使えなかった。

 一つ目は、開始前の夕食会の行われていたホテル・アリゴネのレストランだった。ここはオロモウツの街の真ん中で、授業が行われていた大学の建物のあるところから、共和国広場を抜けて、さらに登っていく通りにあったのだが、昼食よりも夕食を食べに行くことが多かった。ホテルのほうは、知人が泊まったときに中に入ったが、狭くて上り下りしにくい螺旋階段が、街の中心部にある建物の歴史のようなものを感じさせた。
 二つ目のレストランはブリストルといって、コメンスキー通りを、オロモウツ唯一のロシア正教の教会のほうに降りていって、モラバ川にぶつかる手前にあった。このレストランで覚えているのは、二年目か、三年目には指定レストランのリストから姿を消していたのだが、それについて師匠がちょっと衛生上の問題があったのよと言っていたことだ。食中毒でも出したのだろうか。学校からも宿舎からもけっこう離れていて、ほとんど利用しなかったし、我々学生には実害はなかったのだけど。
 三つ目のM、もしくはウ・マテユーというワインレストランがあったところは、現在ビール醸造所のリーグロフカになっている。カテゴリー上はビナールナというワインを飲ませるお店だったのだけど、食事は普通にできたし、ワインよりもビールを飲んでいるお客さんのほうが多かった。ここも学校から結構離れているので、夕食をとりに行くことが多かった。
 カティがコフォラを飲んでいて、みんなに、何それと問い詰められていたのは、大学の図書館の建物、別名ズブロイニツェ(=武器庫)の一階に入っていたレストラン、ズブロイニツェだっただろうか。サマースクールの会場として使われていた建物のすぐ前だったので、昼食、特に午後から面白そうな講義が行われるときには、このレストランを利用することが多かった。ただ、みんな考えることは同じなので、授業の終わる時間によっては、席が空いておらず別の店に向かわなければならないことも多かった。
 そんなときに、向かったのが、共和国広場をから博物館の脇の道を降りていった所にある建物の奥にあるブ・ラーイである。今から十五年以上も前のことで、一般にオロモウツのレストランで出てくる料理に対する満足度は、現在と比べるとかなり低かった。でも、ブ・ラーイだけは当時から満足できる料理が多かった。その分微妙に値段も高かったのだが。このレストランが閉店してしまったのは、本当に悲しい。一階にありながら大きな建物の奥のほうにあって、外からレストランの中を見られなかったのが、客を集めきれなかった原因なのかなあ。

 昼食後、午後からは語学の授業はなく、パラツキー大学の先生たちによる講義がチェコ語で行われた。チェコ語そのものについての言語学的な講義もあったし、チェコの文学や歴史に関しては、チェコ語だけでなく、英語でも行われていた。一年目もすべてではないにしても、いくつかは聴きに行ったはずなのだが、何を聞いたのかまったく覚えていない。チェコ語がまだあまりできなかったので、話の内容をほとんど理解することができなかったのだ。そんなもん、覚えていられるわけがない。

 夕方には、毎週二回、映画の上映会が行われた。有名なチェコの映画や、事務局や先生たちのお勧めの映画を見せてもらっていたのだが、これもほとんど何を見たか覚えていない。ときどき、現地に行ってテレビや映画を見るのが最高の語学の勉強方法だとか、とち狂ったことを言う人がいるが、ありゃ嘘だ。嘘でなければ勘違いだ。
 ある程度文法的なことを身につけた上で見ても、圧倒的な語彙の不足に、手も足も出ない。そんな状態では、知っているはずの単語すら聞きとめることができず、出演者たちのセリフは右の耳から左の耳に抜けていくお経でしかない。ストーリーも理解できないので、文脈から想像することもできないし、そもそも文脈から想像するには、少なくとも過半の単語を知っている必要があるだろうけど、このときは過半数どころか、ほとんどの単語を知らないという状態だったのだ。
 そのおかげで、この年見せられた映画で、覚えているのは、ものすごく長い映画が一本あったことだけだ。面白かったから覚えているのではない。午後七時から始まって、終わったときには十時を過ぎていたために、夕食を食べようと思ってレストランに行っても、料理はもう終わったと言われて、空腹を抱えることになったから覚えているに過ぎない。映画に関しては、雪が積もっていて画面が白くて目が痛くなりそうだったのと、狼に人が殺されるシーンがスプラッタだったのぐらいしか覚えていない。

 映像や音声を使って勉強するには、何度も何度も同じところ、わからないところを繰り返し聴けることが大切だ。そして、繰り返し聞いても聞き取れないこと、聞き取れてもわからないことを、質問できる人がいて初めて、音声や映像というものは、語学学習の教材として役に立つ。チェコに来てチェコ語の海に浸っていれば、そのうちにチェコ語でぺらぺら話せるようになるかもと、漫然と考えていたのだが、その蒙を啓いてくれたという意味で、チェコでの講義、チェコ映画の上映には大きな意味があった。新しい知識は増えなかったし、ある意味苦行でしかなかったけれども、語学の学習に対する態度を改めさせてくれたのである。
 万物須らく学ぶに用うるに足るべしとでもまとめておこうか。

6月24日13時30分。


2016年06月24日

サマースクールの思い出(三)――一年目二日目以降(六月廿一日)



 二日目の朝、学校に行くと、昨日クラス分けの表がはってあった掲示板の前に、ちょっとした人だかりができていた。ここには、午後チェコ語で行われる専門的な講義の内容や、週に二回夕方から上映される映画のタイトルや、週末の遠足の予定などがはり出されるので、毎日チェックするようにと言われていたような気がする。
 それで、自分も覗いたらサマースクールについての新聞記事がはり出されていた。オロモウツのパラツキー大学で行われるサマースクールは、日本的に言うと夏の風物詩のようになっており、毎年テレビのニュースで取り上げられたり、新聞の記事になったりしているらしい。授業前の短い時間の立ち読みでは理解できそうにないので、あとでコピーをもらって、辞書を引き引き読もうと考えていたら、日本人の知り合いに、写真に出てると指摘された。
 見てみると、初日の休み時間に中庭でしょんぼりとしゃがみこんで地面を見つめている自分の姿が写っていた。すぐ隣には、立ってにこにこと笑顔で話をしている二人の人の姿があって、見事なコントラストを作り出していた。恥をさらしたと呆然としていたら、いい記念になるじゃないと励まされた。笑い含みの口調だったから、からかわれたのかもしれないが、職場へのお土産にはできそうだった。いや、お土産というよりは土産話かもしれない。
 かくして、新聞の入手先を聞くために、三度事務局に向かった。記事が載った新聞は、「ムラダー・フロンタ」もしくは、「ドネス」と呼ばれているもので(どちらが正式名称なのか知らない)、全国版ではなく、オロモウツ地方のページに掲載されていた。授業が終わってからだと、一般の売店では売り切れになっているかもしれないからと言って、ホルニー広場にあった新聞社の直営の販売所を教えてくれた。昼食の後に行って、残っていたら買いたいとお願いしたら、ただでもらえてしまった。この時間から売れるとも思えないとか言っていたかな。オロモウツの人は優しいのである。

 この日の授業は、幸せだった。教科書も、先日の中上級向けの訳の分からないものとは違って、初級向けの教科書の途中からだったので、文法事項はすでに日本で日本語で学習を済ませており、問題は先生と同級生たちの言葉が理解できるかどうかだけだった。先生は、きれいな発音でゆっくり丁寧に説明してくれたので、大半は理解できたし、理解できなかった場合でも、何を質問すればいいかは分かった。師匠は発音はめっちゃくちゃきれいなんだけど、特に上級者を相手にすると話すスピードがとんでもなく速くなって、質問さえできないことが多いんだよなあ。素人に毛が生えたような語学学習者に言えたのは、もう一度ゆっくりお願いしますだけだったし。
 同級生たちも、同じぐらいできが悪かったので、みんなたどたどしい発音で、ゆっくりしゃべっていた。そのおかげでちんぷんかんぷんということはなかった。語学のクラスでは、このみんな大体同じぐらいできるというのが重要である。一人だけ飛び抜けてできたり、できなかったりする人がいると、本人はもちろん、先生も大変なのだ。それに気づかされて、遠くから師匠にお詫びの言葉を送っておいた。
 このクラスがよかったのは、みんなチェコ語は下手くそだったけれども、安易に英語や自分の母語に頼らず、何とかチェコ語で表現しようと努力していた点だ。どんなに難しいことでも、とにかくチェコ語で表現しようとして悪戦苦闘する同級生たちの存在は、自分のチェコ語を使う姿勢にもいい影響を与えてくれた。もちろん、何をどう説明しても理解できなくて、グダグダになってしまうこともままあったけれども、それも外国人同士でチェコ語で話す楽しみのようなものだ。

 ただ、残念なことに、時の流れと、三回目のサマースクールの同級生たちの印象が強すぎるせいで、この年の同級生たちの記憶があいまいになってしまっている。フランス人のパトリックだったかとは、翌年のサマースクールでも再会して、名前が出てこなくて申し訳ないことをした。スイス人のマティアスには、いろいろお世話になった。授業中大抵隣に座っていて、わからないことがあると説明してくれたし。イタリア人の畏友アレッサンドロと出会ったのは、この年のこのクラスだったかなあ。カレル・クリルの話で盛り上がったのは覚えているから、多分そうだよなあ。
 昼食の時にコフォラを飲んでいて、授業中に同級生の知らない難しい言葉を使っていたのは、ドイツ人のカティだったかな。フランス人のちょっと姉御肌の確かサーラには、日本に荷物を船便で送ろうとしていたら、航空便にしろって怒られたのを覚えている。当時はチェコからの船便は、飛行機に乗せるなんて話は知らなかったから、言うこと聞いちゃったんだよ。
 他にも何人かいて、顔はうっすらと思い浮かべられるのだけど、名前とか、どんな人だったかとか、本当にこの年の同級生だったのかとか、肝心なことが思い出せない。結構一緒に食事に行ったり飲みに行ったりしたはずなんだけど。

 こんなことを懐かしく思い出していたら、授業中に困ったことも思い出した。動詞が、何格を取るのかを説明するときや質問するときに、みんなラテン語起源のゲネティフ、ダティフなんて言葉を使っていたのだ。「プルブニー」などの順番を表す言葉で済むと思っていて、そんな文法用語は知らなかったので焦った。何だか覚えにくい言葉で、サマースクールが終わるまでに完全に覚えることができなかったんじゃなかったか。今でもいくつか怪しいのあるし。
 それだけではなく、「kdo(誰)」「co(何)」の変化形で、格を示す人もいて、日本語の教科書や辞書の巻末の表をめくるのが大変だった。なぜか、日本で書かれて教科書では、これらの疑問詞の変化形があまり取り上げられておらず、ほとんど全く覚えていなかったのだ。こちらは書く変化だということで、繰り返し繰り返し書いて、必死に覚えたので今では問題なく使えるはずである。でも、覚えた後に、「誰の」は、二格の「koho」を使えばいいと思っていたのに、実は疑問文に使うには、形容詞化した「čí」を使うんだと言われたときには、ちょっと泣きそうになった。
 多分、語学なんてこんなもんなのだ。いくら完全にできたと思っても、完璧にわかったと思っても、それは誤解でしかなく、次々にわからないこと、できないことが出てくる。本当の意味で、母語と同じレベルで外国語を身につけるのは、不可能なことである。それでも、できるようになりたいと思うのが、人間というものなのだろう。
6月23日18時30分。


 この話は書き出すと止まらないだろうと思って封印していたのだけど、実際書いてみたら、いくらでも書くことが出てきてしまう。6月23日追記。

2016年06月23日

サマースクールの思い出(二)――一年目初日(六月廿日)



 初日の月曜日の朝、日本から来ていた人たちと、一緒に学校に向かいながら、前日のクラス分けのテストについて話していたら、嫌な予想をされた。テストは簡単だったし、日本人は文法事項に関してはしっかり勉強して身に付けている傾向が強いので、一番上のクラスに行かされるかもよと言われたのだ。
 当時は、語学学校に通い始めてまだ半年足らず、自学自習を始めてからでも一年になるかならないかだったのである。そんな人間が初めて参加するサマースクールで一番上のクラスでなんて勉強できるはずはないし、放り込まれることはないと思いたかった。思いたかったのだが、前日の試験は妙に簡単で、できないことは一つもなかったし、ミスさえなければ満点だという自信はあったのが、不安をもたらした。こんな簡単なのほとんどみんな満点だろうとも思ったのだが、日本人以外は喋るのが上手な人でも、文法的なことは結構いい加減なことが多く、文法的な正確さを問う試験では、成績が悪くなる傾向があるのだという。

 ちょっとどんよりした気分で、クラス分けが発表されていた掲示板を見に行くとさらに気分は落ち込んだ。予想されたとおり、一番上のクラスに分配されていたのだ。一応、事務局に無理だから下のクラスに行かせてくれとお願いに行ったのだが、何とかなるかもしれないから、試すだけは試してみたらなどと無責任なことを言われて、一番上のクラスに送り込まれた。当時はまだチェコ人的なずうずうしさを身に付けていなかったので、事務局に言われたことを、嫌だなあと思いながらすんなり受け入れてしまったのだ。救いだったのは、学校まで一緒に来た日本人も、すごくチェコ語ができる人で、一緒に一番上に放り込まれたことだった。
 正直に言うと、このときテストの結果が一番上のクラスに入れられるほどよかったことに、そこはかとない満足感を感じていたのも事実だ。そして、口では無理だといってはいたが、頭の中ではテストもよくでできたんだから、もしかしたら一番上のクラスでも何とか勉強できるかも知れないという、今にして思えば、気が狂ったとしかいえない希望を抱いていたのだ。いや希望じゃないな、妄想だな。

 最初の授業が始まってから、その希望、ないしは妄想が現実によって木端微塵に打ち砕かれ、深い深い絶望に取って代わられるまでに、おそらく十分も要さなかったのではなかったか。自己紹介してもらいましょうという、後に我が師となる先生の最初の言葉は理解できた。難しい言葉はなかったし。だけど、それに続いた同級生となるべき人たちの発言が、日本に人のものを除いて、まったくと言っていいほど聞き取れなかったのだ。名前すら聞き取れなかった人も何人かいた。
 それから90分の間は、地獄のようだった。同級生達の発言は、何を言っているかすら聞き取れなかったし、師匠の言葉は聞き取りやすい発音だったのだけど、知らない言葉が多すぎて念仏を聞いているようなものだったし、時差ぼけ気味の頭で師匠の発音の美しさに聞きほれていると知っている言葉すら聞き取れないという絶望的な状況だった。最初の授業で何を勉強したのか、何か勉強できたことがあったのか、まったく記憶にない。ただ絶望感だけは、こうしてあのときのことを書いている今も、確実によみがえってくる。

 授業と授業の合間の休み時間には、みんな中庭に出て夏の日差しとさわやかな空気の中で、知り合いたちと情報交換をしたり、同級生達と会話を楽しんだりしていたが、私はベンチに座る気力も、立ち上がる気力もなく、しゃがみこんで周囲の幸せそうな風景を自分が入っていけそうにないことを悲しみながら眺めては、視線を地面に落としていた。頭の中には、もう帰ってしまおう、サマースクールなんか来ようと思ったのが間違いだったんだ、語学の勉強なんて自分には向いていないんだなんて考えが渦巻いていて、チェコ語はおろか日本語でも話せそうになかった。

 多少の光明が見えた気がしたのは、休憩の後の二コマ目に入ったときのことだ。一時間目にいたはずの人の姿が何人か消えて、新しい人が増えていた。訳知りの日本の方にこっそり話を聞くと、サマースクールでは最初に入れられたクラスに満足できない人が、クラス替えを求めることはよくあることらしい。つまりは、希望すれば下のクラスに行けるということだ。
 下に行けば何とかなる、下に行ってもどうせ駄目だという二つの気持ちの間で揺れながら、90分という時間をすりつぶし、授業が終わったら真っ先に教壇の師匠のところに向かった。勝手にクラスを移る人も多いようだが、日本人としては、まずは担任の許可をもらってからと考えたのだ。
「先生、私にはこのクラスは無理です」
「だろうね。私も下に行ったほうがいいと思う」
 師匠も快く許可をくれたので、心置きなく事務局に出向きクラス替えを申し出た。一つ下でいいよねと言われたのを、ごねて二つ下にしてもらった。ごねたといっても、クラスのリストを見せて、ここ、ここ、ここと繰り返しただけだけど。実は一番下のクラスに行こうと思ったのだが、一番下は英語かドイツ語で教えるクラスしかなかった。大学の授業で取って以来、ほとんど使う機会もなかった英語とドイツ語で、チェコ語のの授業を受ける自信は、チェコ語で授業を受ける自信以上になかったので、チェコ語で授業をする一番下のクラスを選んだのだ。

 もし、自費でサマースクールに参加していたら、初日の最初の授業で諦めて逃げ出していたのではないかと思う。奨学金を出してくれた大使館に迷惑をかけてはいけないという一心で、苦行と化したチェコ語の勉強に耐えていた。ただ、この初日が何の役にも立たなかったかというと、そんなことはない。下のクラスであまり理解できなくて苦しかったときでも、初日の地獄を思い出せば、大したことはないと思えたし、天狗になりかけていた鼻をぽっきり折ってもらえたのもありがたいことではあった。語学の学習においては、勘違いして自分ができるなんて思ってしまったら、成長は止まってしまうのだ。
 そういうことは、重々理解した上でなお、あのときはつらかったと、声を大にして言いたい。けれども、ここまで苦しい思いをしたのだから、できなくなる前にやめてしまったのでは、チェコまで来て苦しんだことが無駄になってしまう。だから、できるようになるまでは、チェコ語の勉強をやめるわけにはいけないという自分でもよくわからない論理で、チェコ語を勉強し続ける理由の一つになったのである。
6月22日22時。


2016年06月22日

サマースクールの思い出(一)――一年目開始前(六月十九日)



 先日知人から、今年の夏、オロモウツのパラツキー大学で行われるチェコ語のサマースクールに参加するという連絡があった。日本にあるチェコ大使館が出しているサマースクール向けの奨学金に申し込んだら、もらえることになったらしい。そういえば自分もチェコ大使館の奨学金をもらって、オロモウツに来たのが最初のサマースクールだった。
 あのときは、プラハ、ブルノ、オロモウツの三ヶ所で行われるサマースクールが奨学金の対象だったのだが、大使館に申請に行ったときに、オロモウツ以外だったら行かないと、担当者に駄々をこねてオロモウツに行かせてもらった。ほかにオロモウツを希望した人がいなかったのかもしれないが、こちらの希望を通してくれた担当の方には感謝の言葉もない。
 当時関っていたあるプロジェクトは、まったく予定通りに進行せず、日々の仕事を考えると、休ませてもらえる余裕はなかったのだが、逆に考えると一人ぐらいなら一月抜けても、本質的には進行に大差がないとも言える状態だったので、大使館から、つまりはチェコの政府から奨学金をもらえることになったのを、口実にして半ば無理やり休みをもぎ取ってチェコに向かった。当時出入りしていたチェコ関係の商社で、スロバキア産のワインやら、ベヘロフカやらを購入して、お詫びのしるしに関係者に配りまくったし、チェコからお土産を買って帰ることを約束させられたけれども、その甲斐は十分以上にあるはずだった。

 出発前には、チェコ語で授業を受けることを想定して、当時通っていたある語学学校の先生に使いそうな文法用語の一覧をコピーしてもらい、空港や駅、ホテルなんかで使いそうな表現をチェコ語会話帳みたいな本から書き抜いて、飛行機の中の退屈な時間を使って覚えることにした。映画なんか見てもただの時間の無駄だし、有効に活用しようと思ったのだけど、実際にはほとんど寝ていたように気もする。
 このときどの経路でチェコに向かったかが思い出せない。当時は、ウィーンまで直行便で入って、鉄道でオロモウツに向かうという知恵がなかったので、成田からどこかの空港で乗り換えてプラハに入ったはずなのだが、パリ、モスクワ、ロンドン、フランクフルトのうちのどこだったか。パリ着早朝四時か五時の飛行機だったような気もするし、乗り換えの関係でモスクワの空港のホテルに一晩監禁されたのがこのときだったような気もする。

 とまれ、プラハの空港のパスポートのチェックも、駅での切符の購入も何とかチェコ語でこなして、チェコに到着したその日のうちにオロモウツに向かった。鉄道の線路も改修前だったし、車両もおんぼろで、鉄道での旅は快適とは言いがたかった。おまけに車内放送がなく、どこまでたどり着いたのかわからなかったので、電車が停車するたびに駅名を確認していた。時刻表の到着時間から、大体わかりそうなものだが、今以上に電車が遅れることが多く、遅れも数分のオーダーではなく、数十分のオーダーだったし、どのぐらい遅れているのかの情報も不確かだったので、まったく当てにならなかったのだ。
 昼間であれば、車窓にスバティー・コペチェクの教会が見えてきたら、そろそろオロモウツに着くと考えればいいということがわかったのは、こちらで生活を始めてからだし、夜の電車の場合は、コペチェク自体が見えないので、停車駅で駅名の確認が必要なのは変わらない。最近は、プラハ行きに使う特急が車内放送を導入していて、停車駅が近づくと教えてくれるので、神経質になる必要がなくなったのが嬉しい。

 オロモウツに着いて、サマースクールの事務局から送られてきた地図を片手にトラムに乗った。90年代の初めに来たときには、ニコルナだった乗車券は、六コルナになっていた。指示通りにナムニェスティー・フルディヌーで降りたのだけど、地図を見てもどっちに行けばいいのかわからず、道行く人を適当に呼び止めて聞いたら、親切に教えてもらえたのを今でも覚えている。オロモウツを選んでよかったと思った瞬間だった。
 この年のサマースクールの寮は、体育学部の寮で、サッカーチームのシグマ・オロモウツのスタジアムと、パラツキー大学の体育館が近くにあった。原則として二人部屋で、一緒になったのはポーランド人の若者だった。うまくもないチェコ語で話したところでは、大学ではなく宗教関係の学校でチェコ語を勉強しているといっていた。チェコのカトリックの教会には、ポーランド人の神父が多いらしいので、チェコ語ができるポーランド人の宗教関係者には需要があるのだろう。ただ、二人ともあまり部屋にいなかったので、交流といえるほどの交流はなかった。

 さて、土曜日に寮に入り、サマースクールの事務局に出かけて必要な手続きを取り、日曜日にクラス分けの試験を受け、大学近くのホテルのレストランで開かれた夕食会にでて、というサマースクールが始まる前のイベントを、すべてつたないチェコ語でこなせてしまったとき、私は自信を持ってしまったのだと思う。クラス分けのテストは簡単だったし、夕食会で自己紹介をさせられたときには、大半の人が英語を使っていたのに、英語ができないからという理由はあるのだが、チェコ語で自己紹介できたし、俺って意外とできるじゃないみたいな感想を持ってしまったのだ。
 その根拠のない自信は、サマースクールの初日、月曜日の最初の授業の最初の十分で完全に崩壊してしまうのだが、そこまで書くと、長くなりすぎるので、本日分はここまでということにする。
6月21日23時。


2016年06月21日

スポーツ選手のあだ名の話、もしくは偉大なるパベル(六月十八日)


 チェコテレビのサッカーのユーロの中継では、試合の前後とハーフタイムにプラハのスタジオから、解説者、ゲストを交えて、あれこれプレーの解説をしたり、現地からの情報を発信したりする番組を放送している。チェコテレビのアナウンサーも司会役として出ているのだが、メインの解説者を日替わりで務めているのが、あちこちのチームでプレーしてどこの選手だったからわからなくなってしまったルデク・ゼレンカと、ブルノの生んだメルセデスベンツ、ただし車庫から出てこないペトル・シュバンツァラ、そしてスラビア・プラハがチェコリーグで連覇を果たしたときの中心選手エリフ・ブラベツである。

 チェコとクロアチアの試合が行われた日は、ブラベツの担当で、ゲストの解説者としては、トマーシュ・ウイファルシが呼ばれていた。それを見ていて気になったことが一つ。この二人が、いつの間にか選手の名前でもなく名字でもなく、選手たちの間で使うあだ名で、選手を呼び始めていたのだ。ブラベツは、ウイファルシのことを、最初は「トマーシュ」って呼んでいたはずなのに、何度か「ウフィ」とか何とか呼んでいたし。
 この手のあだ名は、選手のインタビューでたまに出てくることはあっても、解説者が番組中で使うことは普通はないので、それほど知られているわけではない。チェコ人ならシュコダを「シュコデャーク」、ネツィットを「ネツァーク」とか言われても、なんとなくわかるのかもしれないが、外国人にはちょっとつらいものがある。
 ウイファルシなんかシュコダのことを、「シュコドフカ」なんて呼んでなかったか。これでは、チェコの誇る自動車メーカシュコダ社の車になってしまう。それともシュコダのヘディングを「シュコドフカ」なんて呼んだりするのだろうか。ブラベツがフブニークのことを、「フブニャ」と呼ぶのを聞いたときには、「フブノウト(=やせる)」という動詞に関係のある言葉かと思ってしまったし。

 この手のあだ名は、同じ名前の選手が多いせいか、名前よりも名字から作られることが多い。一時期代表に大量のトマーシュがいたものだ。覚えやすいのは、元代表のバロシュの「バリ」とか、ロシツキーの「ロサ」、リンベルスキーの「リンバ」あたりかな。フランス在住ということで、時々画面に登場する、ヤン・コレルのあだ名「ディノ(=恐竜)」は、体の大きさから付けられたらしいが、チェコの誇るパベル・ネドベドのあだ名「メーデャ(=熊さん)」は、恐ろしさを表しているのかと思ったら、名字から付けられたものだった。本来Mで始まる熊を表す言葉が、Nに子音交代を起こして出来上がったのが、ネドベドという名字なのだという。

 ネドベドといえば、以前チェコテレビで、スポーツ選手とティカットするなという指令が出たときに、生中継で電話インタビューを受けて、お前と俺の仲だろう、何でそんなよそよそしいしゃべり方するんだよと抗議をして、その指令を有名無実化させてしまったのを思い出す。
 スポーツ選手とチェコテレビのスポーツアナウンサーの大半は、尊敬する相手や、よく知らない相手に対して丁寧にしゃべるときの動詞の二人称複数の形を使う喋りかた(ビカット)ではなく、仲のいい友人と喋るときに使うティカットを使って話しており、インタビューでもその形を使っていたのだが、なれなれしくてこれではいかんと考えた人がいたらしく、ある日突然、禁止令が出たのだ。

 チェコ語では、最初お互いのことをあまり知らない間は、互いにビカットする。そして、知り合ってからある程度時間が経ってから、どちらかがティカットしようねと申し出ることで、お互いにティカットするようになる。よほどのことがない限り、一度ティカットし始めたあとに、ビカットに戻すことはないという。お前なんか友達じゃねえという縁切りにも仕えたりするのかね。この辺、日本語の敬語になれていると、状況によって話し方を代えてしまいがちになるので、時々すごく嫌な顔をされることがある。
 サッカー選手たちも、日ごろはティカットで喋っているチェコテレビのアナウンサーに番組中だけは丁寧に話されて、結構戸惑っているみたいだった。一応、選手の側からはティカットしてもかまわないということは言われていたようだが、こんな上下関係のある喋り方をするのは、小中高の先生と、生徒たちの間ぐらいなので、選手たちは自分が先生になったような気分を味わっていたのかもしれない。
 選手側も、チェコテレビのアナウンサー側も、一時期はなんだか微妙に不自然な感じで、インタビューをしたり、解説の仕事をしたりしていたのだが、ネドベドが爆弾を落としてくれたおかげで、いつの間にか元通り、仕事上でも普段と同じ話し方をするようになって、スポーツ番組の解説でも、インタビューでも自然な話が聞けるようになったのであった。ネドベドだったからチェコテレビの偉いさんも譲歩したのだろうなあ。サッカーには直接関係しなくても、さすがの存在感である。
 
 さて、表題のあだ名に関して、サッカー選手じゃないけど、面白いのを思い出した。どこかのオリンピックでのこと、陸上のやり投げで優勝したシュポターコバーが、直後のインタビューでコーチのジェレズニーのことを、優勝した興奮からか、プレホフカと呼んでいたのだ。プレホフカとは、缶ジュースや缶ビールのこと、もしくは缶そのもののことを言う。ジェレズニーという名字は、「鉄の」という意味の形容詞なので、そこからの連想だろうが、面と向かって呼んでいるのだろうか。
6月20日18時30分。
プロフィール
olomoučanさんの画像
olomoučan
プロフィール


チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。