2016年06月28日
オロモウツハーフマラソン(六月廿五日)
本日、オロモウツ市内を舞台にハーフマラソンが行われた。これは毎年六月末の土曜日に開催されているもので、今年で七回目を数えるらしい。今年は運悪く猛暑に襲われ、日中の最高気温は35度近くまで上がり、スタートの午後七時の時点でも、29度ぐらいだった。そんな猛暑の中、走りぬいた参加者たちには、称賛の言葉しかない。
さて、かつてのチェコスロバキアで、一番有名であったマラソンは、スロバキア東部のコシツェという町で行われていたもので、日本からも宗兄弟のどちらかが出場して、一位か二位に入ったことがあるらしい。チェコ側では特に大きなマラソンの大会は開かれていなかったようである。そのせいか、ヘルシンキオリンピックで、長距離三冠に輝いたザートペクを生んだ国なのだが、それ以後はマラソンも含めた長距離の世界的な選手は輩出していない。
一体に、チェコの陸上競技というのは、ジェレズニー以降世界的な選手を輩出し続けているやり投げを除けば、突然一人か二人の世界的な選手が登場して、世界選手権やオリンピックでメダルを獲得するという形をとることが多い。人口自体が少なく、競技人口も少ないチェコではすべての競技に、才能あふれる子供が向かうというのは難しいのだろう。ただ、恵まれない環境の中からでも登場してくる才能は、世界に出ても圧倒的な存在であることがある。それが、陸上ではないけれどもスピードスケートのマルティナ・サーブリーコバーであり、かつての長距離のザートペクだったのだ。
ビロード革命後、そのザートペクがチェコの陸上の長距離選手の低迷を嘆き、それを解消するために設立に尽力したのが、プラハで毎年春に行われるハーフマラソンだった。ハーフマラソンの運営が軌道に乗り定着すると、今度はフルマラソンも行われるようになった。フルマラソンが定着するころになると、チェコでも健康のためのジョギングブームが巻き起こり、いわゆる市民ランナーの数が急増し、普段の練習の集大成として出場できるレースの増加が求められた。プラハ一箇所では、旧市街を走る関係上、出場者を際限なく増やすことはできないのだ。
そんな流れの中で最初に誕生したものの一つが、オロモウツのハーフマラソンだった。どこまで本当かはわからないが、オロモウツの陸上関係者がお酒を飲んでいるときに、酔った勢いで開催することを決めたとか、半年で実施にこぎつけられるかどうかに、一杯のビールを賭けたという話も聞こえてきた。それを信じてしまうぐらいには、第一回目の開催は急な出来事だった。
第一回目のレースは、10kmほどのコースを二周する周回コースで行われ、うちから歩いて一分もかからないところを通っている大通りもコースとして使われていた。遠くまで出かけて応援する気はなかったが、本当に目と鼻の先なので、どんなものなのか確認がてら応援に行くことにした。
アフリカからの招待選手たちが、とんでもないスピードで駆け抜けて行き、完走を目標に自分たちのペースで着実に走るランナーたちに拍手をしていたら、集団の中から、大きな身振りでこちらに手を振ってくる男がいた。誰だよと思ってみたら、サマースクールで知り合ったイタリア人のアレッサンドロだった。出場するという話は聞いていなかったので、嬉しい驚きだった。こういうイベントは、知り合いが出ていたほうが応援しがいがある。
アレッサンドロには、以前もプラハのマラソンのリレーの部(つまり駅伝)に、チームを組んで出ないかと誘われたこともあるので走っていることは知っていたが、いつの間に出場の申し込みをしていたのだろうか。こちとら出場者を募集していることすら知らなかったというのに。出る気があれば情報が入ってきたのかもしれないけど。
周回コースだと、トップの選手がゴールする前には周回遅れが発生するので、それが問題になったのか、四回目ぐらいからコースが変更になって、うちの近くの大通りは通らなくなってしまった。それでも、せいぜい五分も歩けばコースの折り返し点が置かれている公園に着くのだ。ということで、毎年沿道の観客をやっている。
これまでは、一回目のアレッサンドロのように、応援していたら知り合いを発見するというパターンだったが、今年は知人が二人出場することがわかっていた。猛暑だったので無事にゴールまで走りきれることを祈りながら、応援することにした。
一人は、去年も出ていて一時間二十分弱でゴールしたといっていたので、招待選手以外の中では、結構最初のほうにくるだろうと思って探すのだが、なかなか姿が見えない。一時間三十分とかかれた幟のようなものを背中につけたペースメーカーが登場しても、見えてこないので、見過ごしたのかと思っていたら、朦朧とした表情で走る知人の姿が見えてきた。名前を呼んでも、がんばれと言ってみても何の反応もなかった。去年は余裕の表情で走り抜けていったから、暑さにやられたということなのだろう。
もう一人は、目標が二時間二十分と言っていたのだが、二時間三十分のペースメーカーの後ろの集団に埋没して現れた。事前に聞いていたのとシャツの色が違っていたこともあって、見落としそうになってしまった。向こうがこっちに気づいて声を出して手を振ってくれなかったら、気づけなかっただろう。スピードはそれほど出していなかったが、飄々と暑さなどものともせずに、軽々と走っていった。
知人二人は幸い無事にゴールしたようだが、今年は救急車のサイレンが例年以上に鳴り響いていたような気がする。前半のオーバーペースがたたったのか、よたよたと不自然な走り方をしていた人もいたし。来年はこんな猛暑ではなく、肌寒いぐらいのマラソン日和になることを祈っておこう。
6月26日23時30分。
これまでも、日本の実業団の選手が走ったことがあるみたいだが、今年も一人女子選手が招待選手として走っていたようである。ゼッケンには「た」で始まる名前が書いてあったと思うのだけど、読み取れなかった。一位の選手からはかなり話されていたけど五位ぐらいで通過していった。6月27日追記。
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