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2016年06月25日

サマースクールの思い出(四)――一年目授業以外(六月廿二日)



 当時のサマースクールでは、学生たちに事務局が発行した食券を、一日当たり二枚、全部で50枚ほど配布していた。コピーして切り刻んで判子を押しただけというちゃちなものだったが、一枚が、たしか60コルナ分の価値があって、足りない分は追加で支払うようになっていた。ただし、どのレストランでも使えるというわけではなく、事務局で選択して契約した五つのレストランでしか使えなかった。

 一つ目は、開始前の夕食会の行われていたホテル・アリゴネのレストランだった。ここはオロモウツの街の真ん中で、授業が行われていた大学の建物のあるところから、共和国広場を抜けて、さらに登っていく通りにあったのだが、昼食よりも夕食を食べに行くことが多かった。ホテルのほうは、知人が泊まったときに中に入ったが、狭くて上り下りしにくい螺旋階段が、街の中心部にある建物の歴史のようなものを感じさせた。
 二つ目のレストランはブリストルといって、コメンスキー通りを、オロモウツ唯一のロシア正教の教会のほうに降りていって、モラバ川にぶつかる手前にあった。このレストランで覚えているのは、二年目か、三年目には指定レストランのリストから姿を消していたのだが、それについて師匠がちょっと衛生上の問題があったのよと言っていたことだ。食中毒でも出したのだろうか。学校からも宿舎からもけっこう離れていて、ほとんど利用しなかったし、我々学生には実害はなかったのだけど。
 三つ目のM、もしくはウ・マテユーというワインレストランがあったところは、現在ビール醸造所のリーグロフカになっている。カテゴリー上はビナールナというワインを飲ませるお店だったのだけど、食事は普通にできたし、ワインよりもビールを飲んでいるお客さんのほうが多かった。ここも学校から結構離れているので、夕食をとりに行くことが多かった。
 カティがコフォラを飲んでいて、みんなに、何それと問い詰められていたのは、大学の図書館の建物、別名ズブロイニツェ(=武器庫)の一階に入っていたレストラン、ズブロイニツェだっただろうか。サマースクールの会場として使われていた建物のすぐ前だったので、昼食、特に午後から面白そうな講義が行われるときには、このレストランを利用することが多かった。ただ、みんな考えることは同じなので、授業の終わる時間によっては、席が空いておらず別の店に向かわなければならないことも多かった。
 そんなときに、向かったのが、共和国広場をから博物館の脇の道を降りていった所にある建物の奥にあるブ・ラーイである。今から十五年以上も前のことで、一般にオロモウツのレストランで出てくる料理に対する満足度は、現在と比べるとかなり低かった。でも、ブ・ラーイだけは当時から満足できる料理が多かった。その分微妙に値段も高かったのだが。このレストランが閉店してしまったのは、本当に悲しい。一階にありながら大きな建物の奥のほうにあって、外からレストランの中を見られなかったのが、客を集めきれなかった原因なのかなあ。

 昼食後、午後からは語学の授業はなく、パラツキー大学の先生たちによる講義がチェコ語で行われた。チェコ語そのものについての言語学的な講義もあったし、チェコの文学や歴史に関しては、チェコ語だけでなく、英語でも行われていた。一年目もすべてではないにしても、いくつかは聴きに行ったはずなのだが、何を聞いたのかまったく覚えていない。チェコ語がまだあまりできなかったので、話の内容をほとんど理解することができなかったのだ。そんなもん、覚えていられるわけがない。

 夕方には、毎週二回、映画の上映会が行われた。有名なチェコの映画や、事務局や先生たちのお勧めの映画を見せてもらっていたのだが、これもほとんど何を見たか覚えていない。ときどき、現地に行ってテレビや映画を見るのが最高の語学の勉強方法だとか、とち狂ったことを言う人がいるが、ありゃ嘘だ。嘘でなければ勘違いだ。
 ある程度文法的なことを身につけた上で見ても、圧倒的な語彙の不足に、手も足も出ない。そんな状態では、知っているはずの単語すら聞きとめることができず、出演者たちのセリフは右の耳から左の耳に抜けていくお経でしかない。ストーリーも理解できないので、文脈から想像することもできないし、そもそも文脈から想像するには、少なくとも過半の単語を知っている必要があるだろうけど、このときは過半数どころか、ほとんどの単語を知らないという状態だったのだ。
 そのおかげで、この年見せられた映画で、覚えているのは、ものすごく長い映画が一本あったことだけだ。面白かったから覚えているのではない。午後七時から始まって、終わったときには十時を過ぎていたために、夕食を食べようと思ってレストランに行っても、料理はもう終わったと言われて、空腹を抱えることになったから覚えているに過ぎない。映画に関しては、雪が積もっていて画面が白くて目が痛くなりそうだったのと、狼に人が殺されるシーンがスプラッタだったのぐらいしか覚えていない。

 映像や音声を使って勉強するには、何度も何度も同じところ、わからないところを繰り返し聴けることが大切だ。そして、繰り返し聞いても聞き取れないこと、聞き取れてもわからないことを、質問できる人がいて初めて、音声や映像というものは、語学学習の教材として役に立つ。チェコに来てチェコ語の海に浸っていれば、そのうちにチェコ語でぺらぺら話せるようになるかもと、漫然と考えていたのだが、その蒙を啓いてくれたという意味で、チェコでの講義、チェコ映画の上映には大きな意味があった。新しい知識は増えなかったし、ある意味苦行でしかなかったけれども、語学の学習に対する態度を改めさせてくれたのである。
 万物須らく学ぶに用うるに足るべしとでもまとめておこうか。

6月24日13時30分。


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