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2016年05月21日
コプシブニツェ、あるいはタトラの博物館(五月十八日)
1980年代後半、日本でラリーといえば、パリダカだった。本当はラリーではなく、ラリーレイドという競技らしいが、その違いをはっきりと意識していた人はそんなにいなかったのではないだろうか。サファリ・ラリーとか、ラリー・モンテカルロとか存在は知っていても、パリダカとどう違うのかなんて意識したことはなかった。ラリーのシリーズ戦であるWRCの存在なんて知っているのはよほどのモータースポーツマニアだけだったに違いない。かく言う私も高斎正の小説や新谷かおるの漫画を読んでいなかったら、知らなかっただろうし。
パリダカは、いつの間にかダカール・ラリーなどと呼ばれるようになって、アフリカではなく南米で開催されるようになっていたが、そのラリーにチェコから参加し続けているのがカミオン部門のタトラである。ロプライス親子が中心の参戦で何回か優勝もしているはずである。タトラだけでなく、リアスも、共産主義時代の80年代後半からカミオン部門に参戦していたというから、チェコのモータースポーツというものもなかなか侮れない
そのタトラの工場があるのが、コプシブニツェである。地方としては、フクバルディもそうだが、オストラバを中心としたモラフスコスレスコ地方ということになる。地方名からもわかるようにシレジアとモラビアにまたがる地方であるが、シレジアとモラビアの境界というのがいま一つよくわからない。この地方の中心都市オストラバは、まさに境界線上に作られた町で、古い地図を見ると、モラビアの「モラフスカー・オストラバ」とシレジアの「スレスカー・オストラバ」という二つの隣り合う町として存在していることがある。
コプシブニツェの街には、見るべきものがあまりないのか、サマースクールのイベントで出かけたときには、街には寄らずに直接タトラの博物館に向かった。この会社の前身に当たる会社が設立された十九世紀の半ばから現在に到るまでに生産されてきたさまざまな自動車が展示されている。パリダカに優勝した車両も誇らしげに展示されていた。設立当初は自動車ではなく馬車を生産していたらしいけれども、その馬車の展示があったかどうかは記憶があいまいで何とも言えない。
当時のつたないチェコ語で理解できたのは、戦前のタトラは乗用車の生産が中心で高い評価を受けていたのに、戦後共産党政権が成立すると、産業の集約化による効率化ということで、普通の乗用車の生産は、ムラダー・ボレスラフのシュコダに集約され、タトラではトラックなどの大型の特殊車両の生産が強要されたということだ。それにもかかわらず、どうしても乗用車の生産を諦められなかった技術者の一部が執念で開発を続け、最終的には、少数ながら乗用車の生産が復活したなんて話もあったかな。大統領が使うような大型の高級車を生産するノウハウがシュコダになかったことも、認められた理由のひとつらしい。
興味深いのは、乗用車のほうはシュコダに無理やり集約してしまって、ごく一部の例外を除けば、チェコで生産される車はすべてシュコダブランドだったのに対して、大型の特殊車両は、タトラのほかにもリアス、アビアという会社で生産されていたことである。そしてリアスとアビアで生産されたトラックなどにはシュコダの名前が付けられていたらしい。タトラは共産党政権に嫌われていたのかもしれない。
この博物館でもう一つ覚えているのは、会社の設立の登記所か何かにドイツ人と思われる名前が書いてあって、一緒に居た人がオーストリアの資本で設立されたんだなんて言っていたことだ。そのときは思わず同意してしまったが、実はそうとも言い切れない。ハプスブルク帝国統治下では、チェコ人の人名であってもドイツ語では、翻訳して使用される例が多い。つまり、そこにあった人名がドイツ語の物だからといって、それがそのままドイツ人であったことを意味するわけではないのだ。それに、チェコスロバキア成立以前の民族状況は非常にややこしく、ドイツ語の名前だからと言って、自らをドイツ人だとみなしていたとは限らず、逆にチェコ語の名前であっても、自らをドイツ人だとみなしていた人たちもいる。この辺は、何も知らない外国人が気軽にコメントしていいようなことではなさそうだ。
現在のタトラは乗用車の生産からは完全に撤退し、トラックなどの生産もあまり多くなく、軍用の車両の生産で息をついているような状態らしい。チェコ陸軍から仕事を取ったときに、当時の防衛省の高官からわいろを要求されたと、当時タトラの社長だったアメリカ人が証言して大きな問題になりかけたけれども、どうなったんだろう。わいろ云々はともかく、国防のために重要な軍の装備ぐらいは、杓子定規に公正に入札で決めずに、国内企業に任せることが許されてもいいような気がするのだけど。外国に装備の細かいところまで情報が流れてしまう恐れを考えたら、多少高くても国内の信頼できる企業に任せたほうがましじゃなかろうか。それに、チェコ語で直接細かい説明を受けられるというメリットもあるし。ただ、その場合には、やはり外資に買収されていないという条件は付けざるを得ないだろうから、タトラも当時はダメだったのか。
モータースポーツファンを除けば、コプシブニツェ自体にはあまり魅力はないかもしれないが、近くのフクバルディや、プシーボル、シュトランベルクなどを回る拠点として考えれば、行ってみる甲斐はあるかもしれない。
5月20日14時。
タトラはスロバキアとポーランドの国境地帯にそびえるビソケー・タトリの単数形からきているのだろうけど、このタトラを元に名前が付けられたものには、お菓子の「タトランキ」がある。オパビアという会社が作っているんだったかな。甘いものが好きな人にはお勧めかも。5月20日追記。
2016年05月20日
どうする、ロシツキー(五月十七日)
チェコの誇る天才トマーシュ・ロシツキーが、十年間在籍したアーセナルを退団することが明らかになった。昨年の時点で、退団が確実視されていたし、一年の契約延長がなされたのは、ペトル・チェフを獲得するためだとかいう噂もあったので、そのこと自体には、いまさら何も言うことはない。しかし、これだけの長期にわたってチームを支えた選手の最終戦だというのに、ベンチにも入れずに観客席から観戦させた監督は許しがたい。
思い出してみると、アーセナルに移籍するまでのロシツキーは線の細い印象はあったけれども、それほど頻繁に怪我をする選手ではなかったし、怪我での欠場が長引くこともなかった。それがイングランドに行ってしばらくすると、プレーしている時期よりも、怪我の治療とリハビリで戦列を離れている時期のほうが長いんじゃないかという選手になってしまった。
ブリュックネル以後の代表の監督たちが、まずロシツキーありきで、いや攻撃はロシツキーがいれば何とかなるという考えで、チームを作ろうとして、ロシツキーが怪我で代表戦に出られなくなった結果、惨敗を繰り返したのは自業自得だから文句は言わない。でも、怪我が長引いたせいで、楽しみにしていたロシツキーの活躍を、代表だけでなくアーセナルの試合でも見られなかったのは、全てがアーセナルの責任ではないにしても、文句の一つも言いたくなる。だいたい怪我をするたびに、当初の見立てよりも、治療期間が長くなっていたような気がするのだが気のせいか。
一体にイングランドに行った選手たちが怪我で苦労しているのは確かなんだけどね。コザークも、怪我と復帰を繰り返していて今年の夏のEURO2016どうなるんだろうって感じだし、あの鉄人ペトル・チェフですら、頭の大怪我で長期離脱した経験がある。チェフは、ラグビー用のヘッドギアと共に復活を遂げて、今ではそれがトレードマークとなった観があるから、怪我の功名といえば言えそうだけど。
それに、ロシツキーが怪我をしていない時期でも、ベンチを温めていることが多かったような気がするのも許せない。ロシツキーの移籍以来、アーセナルが一度も優勝できなかったのは、ロシツキーほどの天才を使いこなせなかった監督が悪いんだな。たまにチャンピオンズリーグの試合で、今は怪我をしていないから久しぶりに見られると思いながらチャンネルを合わせたのに、ロシツキーが出ていなかったという失望を何度味合わされたことか。最近は怪我も多いし、まったく期待していなかったからいいけど。
イングランドに移籍したチェコの選手達は、ペトル・チェフを除くと、不遇をかこつ場合が多い。チェフもチェルシーの最後の年は、なんら劣るところはないのに控えの役割を受け入れさせられたからなあ。オロモウツからチェルシーに買われていったカラスは、ろくに出番も与えられないまま、あちこちレンタルでたらい回しにされて、このまま退団ということになりそうだし、ビドラもレンタル先で活躍して戻ってきても、チャンスは与えられず、またレンタルに出されちゃうし。期待されて移籍したゲツォフは、まったく戦力扱いされずに、チェコに戻ってきてからも以前の活躍ができていない。今後は若手をイングランドに移籍させるのはやめたほうがいいんじゃないだろうか。ベテランは飼い殺しでもいいけど、若手が伸び悩むと代表が困るし。
ロシツキーの今後については、スパルタ復帰、アメリカ行き、それにアラブリーグ行きの三つの可能性があるらしい。怪我が本当に治っているのならスパルタに復帰してほしいけれども、そうでないのなら、無理はしないでほしい。
期待の若手と言われてスパルタでデビューする前にスペインのアトレティコに買われていった兄のイジー・ロシツキーも、怪我でスペインではほとんど活躍できずに、スパルタに戻ってきて、ほとんど試合に出ないまま引退してしまった。代表の同僚だったヤンクロフスキーも、ウイファルシも、現役生活の最後にチェコリーグに戻ってきたが、どちらも怪我のせいでほとんど雄姿を見せることができないまま、引退を余儀なくされた。
ロシツキーには、こんなキャリアの終わり方は似合わない。夏のヨーロッパ選手権で怪我を押して大活躍して、それを花道に引退するというのが理想かな。将来、コレルと監督として対戦したりしたらファンとしては大満足である。
5月18日17時。
2016年05月19日
永祚二年七月の実資3下旬(五月十六日)
本日は、最近時間がかかりすぎていて、翌日どころか、翌々日の投稿直前にけりをつけるという自転車操業状態に陥っていて、このままだと題名の後ろの日付が、有名無実になってしまうので、その調整のために、本日分は短く簡単に済ますことにする。
廿一日、甲午、内方今夕方を違ふるが為に室町に忌み度る、明旦帰る、扶公師、真喜僧都の使と為りて来り向ふ、相ひ遇ひて清談す、
実資の奥さんが方違えのために室町に出かけたという。この奥さんが亡くなった娘の母親に当たる人なのかはわからない。
廿二日、乙未、藤中納言、春宮大夫各々使を差して弔ふ有り、式部権大輔輔正、明杲已講等弔に来る、夜に入りて右大弁来る、立ち乍ら相ひ逢ふ、兼澄朝臣来る、
厳殷師来る、今明枕上に於いて祈願すべきの由を相ひ示し了んぬ、
弔問が数は減っているが、続く。厳殷に枕上での祈願をさせるのは、娘の死に関係するのだろうか。
廿四日、丁酉、六条大納言、公忠朝臣を使はし之を弔送らる、時明朝臣(藤)来る、明杲已講来りて談ず、
廿五日、戊戌、信慶律師、前備前守理兼朝臣弔に来る、立ち乍ら相ひ遇ふ、明順朝臣来る、大外記致時朝臣云ふ、去ぬる廿二日開闢あり、と云々、
この二日は特筆すべきことはない。出仕していないので、弔問以外のことはあまり記事がなく、あっても伝聞になってしまっている。
廿九日、壬寅、昨日左大臣陣に於いて正清朝臣を以て摂津守に任ぜらる(春宮亮は元の如し)、又た僧綱の宣旨を下さる、と云々、僧都は清胤、律師は観修、景斉朝臣来りて云ふ、摂政命じて云ふ、重き喪の人は此の如きの人を弔はず、仍て指たる消息無し、憂歎の由、返す返す悲と為す、てへり、右兵衛督、博通を使はし之を弔はる、式部卿宮、守正朝臣を使はし弔はるる有り、と云々、
この日も伝聞で、宮中での出来事が語られるが、特筆すべきは何よりも摂政道隆の言葉であろう。父を亡くして「重き喪」中の自分は、同じように重き喪に服している実資を弔うようなことはしないのが普通だという。そして、「憂歎の由、返す返す悲と為す」という嘆きの言葉を伝えさせたということか。使いとしてやってきた藤原景斉は、娘を道隆の息子隆家の妻にしているところから、道隆を祖とする中関白家と関係の深かった人だと思われる。
この後、八月に入ると娘関係の記事は減っていくが、それでも三七日(死後二十一日目)、七七日(四十九日)の法要をはじめ、年末まで、娘の菩提を弔う法会を繰り返している。次回は、そんな娘関係の記事の抜粋をしてみよう。
5月17日18時。
昨夜、投稿するのを忘れて寝てしまった。朝になって慌てて投稿。5月19日追記。
2016年05月18日
EUの傲慢後編(五月十五日)
EUによる難民受け入れ強制に反対している旧共産諸国だが、受け入れそのものに反対しているわけではない。他の国は知らないが、チェコは以前から積極的に、アフガニスタンやイラクなどに軍の野戦病院を設置して医療活動を行い、現地の病院では治療できない重い病気や怪我の子供を選んで家族ごとチェコに連れてきて治療し、希望すれば治療を継続的に受けるためにチェコに定住することを認めている。同じようなことはシリアの難民キャンプでも行っているし、ウクライナからの難民も積極的に受け入れている。
特に、ウクライナに関しては、第一次世界大戦後に移民したチェコ人の子孫で、チェコ人村とも呼べるようなものが西部ウクライナにいくつかあるらしい。現在のウクライナ領の一部は、第二次世界大戦後に、ソ連に取られてしまったが、大戦間期にはチェコスロバキア領だったのだ。それらのチェコ人村の一部は、事故を起こしたチェルノブイリの原子力発電所からそれほど離れていないところにあるため、ビロード革命後にハベル大統領が、帰国を呼びかけたところ、父祖の国チェコに戻ってきた人たちもいたが、ウクライナ、当時はまだソ連かに残ることとを選んだ人たちも多かった。
それが、今回のウクライナ内戦で、チェコに戻ってくることを望んで、ミロシュ・ゼマン大統領に救援を求める書簡を提出したらしい。同胞の救出だということで、政府も積極的に動き、すでに多数の帰還移民を受け入れている。
ここで大事なのは、チェコに戻ってきた人々が住んでいたのは、内戦の起こったウクライナ東部ではなく、ウクライナの西部だということだ。つまり直接内戦によって、言い方を変えれば親ロシアの反政府勢力によって、生活を脅かされていたわけではなく、内戦につながる国内のウクライナ人とロシア人の対立の高まりの中で、ウクライナ内のナショナリズムの過激化に危険を感じてウクライナを離れることを選んだということだ。
EU内では、ナショナリズムの高まりは警戒され、時に激しく非難されるのに、ウクライナに関してはナショナリズムの高まりが、反ロシアという一点で正当化されてEUの支援を受けられるというのも、何とも不思議な話である。このEUがウクライナに余計な手を出して、不安定化させたというのも旧共産圏諸国にとっての不満の一つである。
話を戻そう。少なくともチェコは、亡命先としてチェコを選びチェコに定住しようと考えている人々の受け入れは、拒否していない。チェコが拒否しているのは、ドイツ行きを希望していながら、ドイツの受け入れ数を超えているからという理由でチェコに押し付けられる難民の受け入れである。その理由は、イラクからの難民受け入れの際にも明らかになったように、ドイツ行きを求める難民を押しとどめるすべがないということにある。
EU側は、国外に出られないような方策を取るとか言っているようだが、具体的な対策は示されていない。もちろん、刑務所並みに警備の堅い難民収容所に収容して、チェコ語などの勉強をしてチェコ社会で生活できるようになるまでは、行動の自由を制限するという手はないわけではないが、そんなことをすれば、難民たちだけでなく、ドイツなどの人権活動家たちが、人権侵害だと騒ぎだして収拾がつかなくなるに決まっている。
それに、チェコがドイツ行きを求める難民を国内に押しとどめようとしたとき、難民の反感は、ドイツではなく、チェコに向かう。その結果、善意で受け入れた難民が不平分子となり、チェコ国内に治安の悪化をもたらすことを恐れているのである。その恐れは、極右グループによって大げさに吹聴され、チェコ国内で反難民の風潮が高まる原因の一つとなっている。
そもそも、EUには、シェンゲン圏内には、最初に入国した国で難民申請をしなければならないというルールがあったはずである。それがいつの間にかうやむやにされていて、ギリシャで登録すべき連中が、登録もしないままバルカン半島を越えてハンガリーに押し寄せたとき、EUの規則にのっとれば、できるのは不法入国として拘束するか、国外に退去させることしかなかったはずである。ハンガリーで難民申請する気も定住する気もないのだから。
それが、ドイツが一枚の写真にトチ狂ったせいで、不法移民をほぼ無条件に通過させることになってしまった。あの写真を見て痛ましいと思い、支援をしなければならないと考えるのは、人としては正しい。ただ、それを条件反射のように国政に反映させてしまうのはどうなのだろうか。その後、ドイツが、障害物のなくなった難民の大量流入に悩まされることになったのは、自業自得としか言えない。そして、その結果としてドイツ行きを希望する難民の受け入れを、他のEU加盟国に押し付けようとしてるのだから、はた迷惑なことこの上ない。
おそらくナトーが軍隊を出してイスラム国を壊滅させるというのが現実的でない以上、EU、いやドイツがとるべき手段は一つだけである。シリアなりトルコなりにある難民キャンプで、ドイツへの難民申請の受付をすることだ。そして認定された人々は、専用の飛行機でドイツまで運んでしまえば、ギリシャに渡るために地中海を越えるという危険を冒す必要もなくなるし、ヨーロッパに渡るためにこれだけの危険を冒したのだという物語で同情を引くという手段も使えなくなる。その上で、他のルートからの難民を遮断して、高額の謝礼を取って難民をヨーロッパに運んでいる業者の摘発を進めれば、状況はかなり改善されるはずだ。
難民の側にしても、全財産をはたいてドイツまでたどり着いたのに、難民申請を却下されて、送還されてしまうということがなくなるから、歓迎されると思うのだけど。逆に、本当に生命を脅かされている人と、経済的な理由でドイツに向かおうとしている人の判別がしやすくなるから、歓迎されないかな。
よその国の領土でそんなことはできないという言い訳は聞かない。大使館や領事館でやっている業務が拡大されたと考えればいいし、かつて、チェコの空港にイギリスの入国管理局が出張してきて、イギリス行きのチケットを持つ人のパスポートのチェックを行って、入国させられない人物をチェコから出国できないようにしていたことがあるのだ。そのときも、チェコは不満たらたらだったけれども、EUは大国イギリスに対して何も言うことはなかった。
難民の件に限らず、EUの政策というものは、特に意見の割れるものは、ドイツとフランスのごり押しで決定されることが多い。だからイギリスがそれに不満を感じて、EU脱退を言い出したのには何の不思議もない。不思議なのは、イギリスが脱退を言い出したら、かたくなだったEUがあれこれ譲歩の姿勢を見せ始めたことだ。
実は、これも旧共産圏諸国には気に入らない話である。なぜなら、イギリスだからEU内にとどめようとするけれども、これがハンガリーやポーランドだったら、譲歩してまでEU内にとどめようとするだろうかと考えてしまうからだ。
ギリシャの経済危機に関しても、チェコやハンガリーはユーロを導入していないので、特に実害はないけれども、スロバキアなどでは、経済危機が起こって、なおスロバキアよりも豊かなギリシャを支援するために、スロバキアが経済的な負担を強いられるのは納得がいかないと考えている人は多い。ハンガリーで経済危機が起こったとき、ユーロの導入を目指していたハンガリーに対してユーロ圏の諸国は冷淡だった。それなのにギリシャにはというわけだ。
被害妄想だと言わば言え。旧共産圏諸国は、第二次世界大戦でドイツに蹂躙され、戦後はソ連に好き勝手されてきた。チェコスロバキア第一共和国は、イギリス、フランスの裏切りで崩壊した。旧共産圏がソ連の支配下に入ったのは、スターリンとチャーチルの密約によってである。そんな歴史上の恨みつらみを、ロシアにはぶつけることができても、ドイツなどのEU加盟国に対してぶちまけることはできない。ホロコーストを生き延びたユダヤ系の作家アルノシュト・ルスティクが、亡くなる直前まで、「ドイツ人はブタだ」と現在形で罵倒していたのは、例外中の例外である。そう考えると、日本を大声で批判することができ、しかもそれが政権の維持につながる中国や韓国の政治家の立場ってのは、非常に恵まれているのである。
とまれ、EUがドイツの指導的立場のもとに、旧共産諸国を金で言うことを聞く数合わせの加盟国だとみなすような態度を改めない限り、今後もEUの危機は続くだろう。かつて、日本に住んでいたころは、日本の悪いところばかりが見えて、EUやドイツに関してはいいところしか見えなかった。チェコに住み始めると、逆にEUやドイツの鼻持ちならない部分ばかりが目に付くようになってしまった。本当はこの両者の中間的な視点でEUを眺められるようになるといいのだろうけれども、無理そうだ。
本当はEUとロシア、ウクライナなどとの関係についても書くつもりだったのだが、例によって無駄に長くなってしまったので、後日回しとする。
5月17日17時30分。
これに苦吟したせいで、禁断のいくつかの記事を同時進行させるという手を使っい始めてしまった。『小右記』関係は、以前作った訓読文に説明を加えるという形だから、そういう方向に流れやすかったのは確かだけど、眠くて何も考えられずに順番の入れ替えなんかもしてしまった。いいのだ。大切なのは毎日何かを書いて、載せていくことなのだから。5月17日追記。
2016年05月17日
永祚二年七月の実資2中旬(五月十四日)
前回、十一日の記事では、病の娘のために、実資がどれだけのことをしたかを見たわけだが、今回はその続きである。残念ながら、加持祈祷の甲斐なく娘は亡くなってしまうのだが、実資は悲嘆にくれることになる。
十一日、甲申、申の剋許り小女入滅す、悲歎泣血す、是れより先種々の大願を立つ、兼ねて童三人の首を剃りて戒を授けしむ、悲慟に耐えず、夜を通して加持せしむ、
申の刻、つまり午後早い時間に娘は「入滅」してしまった。以前の占いで「申」の日に平癒するかもといわれたのに、申の日の申の刻に亡くなったというのはなかなか皮肉である。これまでに立てた大願で約束したことを果たす上に、子供三人に受戒させて寺に入れることにしたようだ。これも、これまで娘のために協力してくれた仏教へのお礼ということになるのだろう。
「悲歎泣血す」「悲慟に耐えず」という娘を失ったことを悲しむ表現が、連続してではなく、別々に出てくるところに、実資の悲しみの深さが感じられる。「夜を通して加持せしむ」は、娘の成仏を祈ったものか。
十二日、乙酉、木工允公佐を差して左将軍の御許より弔はるる有り、覚縁、珎慧上人弔に来る、遠資朝臣来る、五品以下弔に来る者多し、陳泰朝臣を召して児を出だすべきの事を問ふ、七歳以下は更に厳重たるべからず、今日は欠日にて重く忌む所なり、明日は戌の日、指して忌む所無し、此の如きの児は惣じて日を経るべからず、須く明日寅の時に出だし送るべし、てへり、穀(有るに随ふ)を以て衣と為す、又た手作りの褁に納む、又た桶も納む、と云々、
亡くなった翌日に、すでにあちこちから弔問が来るあたりが、この時期の実資の立場を表しているのかもしれない。「陳泰朝臣」に問い合わせたのは、葬儀の、特に現在の出棺に当たる儀式か。七歳以下はそれほど厳密に考える必要はないということだから、実資の娘は七歳以下でなくなったことがわかる。ただ、今日は重く忌むべき日だから、今日は避けたほうがいいが、明日は戌の日で特に忌む必要はないから、明日子供の亡骸を家から出すべきだと言う。もう一つの理由としては、このような幼子がなくなった場合には、あまり時間をおいてはいけないという理由もあって、明日の戌の日、寅の刻に屋敷を出すということになる。その際、穀(穀物? 穀物の藁でいいのか不明)で作った衣を着せて、手作りの袋に入れて、さらに桶にも入れることになるようだ。
「欠日」というのが、いまいちよくわからないが、陰陽道で決められた忌むべき日の一つであろう。陰陽で忌むべき日の知識も復習しないといけないなあ。「重日」というのがあったのは覚えているのだけど、「欠日」は、ちょっと記憶にない。
※「欠日」は「坎日」の略記のようである。つくりしか書かないの手の手抜き表記は時々出てくる。7月13日追記。
十三日、丙寅、寅の時昨日陳泰の申しし旨を以て、小児を褁に納めしむ、扶義、懐通(懐通抱く)、忠節を相ひ副へ、雑人両三に今八坂の東方の平山に置かしむ、晴空、済救、叡増、安祐等来る、
三品過ぎらる、又た遠資朝臣来りて談ず、景斉、遠景朝臣等来る、
前日の陳泰の助言に従って、寅の刻に娘を袋に収めて、東山に置きに行かせたようである。付き従ったのが、一人目は源扶義で、この人は『小右記』にしばしば登場したような記憶がある。残りの懐通と忠節はよくわからない。「忠節」には大日本古記録では「石作」という姓が注されているから、『竹取物語』の石作皇子の関係者かと思ったけれども、石作皇子は架空の人物であった。三人とも恐らく実資の家司のような立場でも仕事をしていたのだろう。娘の遺体を抱えた懐通が一番信頼されていたのか、ただの体格の問題なのかはわからない。
とまれ、この日も、おそらく弔問の客が、立ち寄っただけの人も含めて何人も来ている。
十四日、丁亥、盂蘭盆供は例の如し、各々寺々に送る、
小女の事を思ひて、心神不覚なり、悲恋に堪へず、人を差して見しむる、既に其の形無し、てへり、弥よ舂神を以てす、
百箇日の修善今日結願なり(元寿)、
娘がなくなっても日々の仏教行事は続く。盂蘭盆会の供物はいつも通りに、各寺に送ったようだし、娘の病気の前に始めた百箇日の修繕が結願している。ただ、この年の前半は散逸しているため、娘の病気が、七月以前に始まっている可能性はないわけではない。
仏教行事に挟まれた真ん中の部分がすさまじい。娘のことを思うと「心神不覚」になるというのである。そして人に命じて見に行かせたら、前日に東山に置いてきた娘の遺体はすでに形がなくなっているということで、それは舂神の思し召しとでもいうのだろうか。舂神の「舂」は、「つきよね」とか「つきしね」と読んで、精米された白米のことを言うから、前日衣にしたのは白米で、そのおかげで、すでに娘の亡骸がなくなっているのだとすれば、何とも壮絶な葬である。
十五日、戊子、按察大納言、為儀朝臣を使はし弔はる、右大将、実好朝臣を以て訪はる、景舒朝臣、信理朝臣来る、元寿阿闍梨来る、宰相中将、宮内丞師信を使はし之を弔ひ送る、右馬頭、大和守、前丹波守、挙直朝臣等来る、覚慶僧都、明豪阿闍梨弔に来る、播万守来る之由、と云々、
修理大夫、惟友朝臣を使はし弔はる、
この日は、ひたすら来客のお話。高位の貴族は代理の者を弔問に使わすことが多いようである。
十六日、己丑、大外記致時朝臣云ふ、去ぬる十三日庁を下さる、源中納言、国章朝臣をして御消息を□せしむ、夜に入りて行成朝臣弔に来る、左大臣に牛車の宣旨、又た昨日入道殿薨の奏あり、主上御錫紵す、と云々、申の四点河原に出でて除服す、
中宮、少進文隆を以て弔の仰有り、備中守、俊賢、景斉等の朝臣来訪す、頭中将過ぎらる、立ち乍ら謁す、
この日は伝聞で元関白の兼家が亡くなったあとの宮中の処置について語られる。弔問に関しては「頭中将」こと藤原公任が立ち寄って、立ったまま話をしたというのが注目される。
十七日、庚寅、七日を当てて諷誦を珎皇寺に修む、
この日は、娘がなくなってからいわゆる初七日に当たるので、その法要を行っている。珎皇寺は、京都の東山にある珍皇寺のことであろう。「和同開珎」が、「和銅開宝」なのか、「和銅開珍」なのかで議論があることを考えれば、「珎」という字のややこしさは理解できる。この珍皇寺は、鳥辺野と呼ばれる葬送の地にあることから、十三日に部下たちが運んで行ったのもこのお寺なのかも知れない。それが火葬であるとすれば、十四日の記事は、亡骸が既に燃え尽きてしまっていることを神の思し召しと考えたことになる。ちなみに、この寺は小野篁が冥界に通うのに使ったといわれる井戸があることでも有名らしい。
十八日、辛卯、左衛門督、帯刀以正を以て弔ひ送らる、夜に入りて右近中将斉信来訪す、立ち乍ら相ひ遭ふ、清水寺に参らず、
この日は毎月恒例の清水寺参拝を行っていない。これも娘がなくなったためであろう。
十九日、壬辰、左少将相尹弔に来る、今日より四个日は物忌、門戸は閇めず、
今日から四日間は物忌ということで、外には出ないようだが、門戸は閉めずとあることから、そこまで重い物忌ではないようである。
廿日、癸巳、義蔵闍梨、覚縁上人来りて談ずるの次いでに云ふ、唐人の舟一艘(千五百石)着岸す、法橋「然の弟子、去々年唐人に属して入唐す、今般彼の唐人及び弟子の法師等同じく以て帰朝す、と云々、
この日は久しぶりに娘に関する記述がない。義蔵や覚縁が来たのは弔問かも知れないけれども、大切なのは、唐人の船に乗って昨年入唐した「然の弟子が戻ってきたことである。
七月の中旬の部分では、娘を亡くした実資の悲しみの大きさと、次々に訪れる弔問客の多さに注目するべきなのだろう。葬儀のやり方も気になるけれども、こちらは日記の記事からわかることはそれほど多くなく、推測を求められる部分が多い。
5月16日22時。
微妙に予定変更。5月16日追記。
2016年05月16日
EUの傲慢前編(五月十三日)
先日、ハンガリーとポーランドの現政権を強く批判する記事を読んだ。それによれば、両国の現政権の政策は、民主主義の敵で、EUを弱体化させるものなのだそうだ。翻訳記事で、カタカナで名前が書かれていたから、ドイツあたりの記者の書いたものなのだろう。ドイツあたりの自称良識派が考えそうな内容ではあるが、こんなことを本気で考えているのであれば、EUの危機は、深まることはあっても、解決に向かうことあるまい。EUの民主主義を踏みにじっているのも、EUを弱体化させているのもEU自身である。ハンガリーとポーランドの事例は、結果ではあっても原因ではない。
確かに、ハンガリー政府の政策には眉をひそめたくなるものが多い。特に、国外在住ではあってもハンガリー系の人にはハンガリー国籍を与えるという政策は、周辺国家にとっては許し難い暴挙ではあろう。ポーランドも政府のメディアとくに国営放送への過度の干渉権に関しては、看過できないし、他にも様々な議論を呼ぶ政策を打ち出している。さらに、両国に於いて社会全体が、ウルトラナショナリズム的な傾向を帯び始め、排他的な雰囲気を生み出しつつあるというのもその通りかもしれない。
しかし、忘れてはいけないのは、この手の右翼的な思想が広まっているのは、何もハンガリー、ポーランド両国、ひいてはチェコも含めた旧共産圏の新しいEU加盟国だけではないということだ。オーストリアでも、ドイツでも、フランスでも、政権を取っているかいないか、国会に議席を持っているかいないかの違いはあっても、全体的な傾向はそれほど大きく変わるわけではない。ただ、それが先鋭的な形で表れているのが、ハンガリーとポーランドであるに過ぎない。だから、それだけをもとに、批判するのは、直接は書かれていなくても、著者が旧共産圏ということで、ハンガリーやポーランドを無意識に見下して差別していることが明白になるのである。
そして、さらに重要なのは、このハンガリー、ポーランドの政権が生まれてきたのは、EU加盟の条件として強制された民主化の後、つまりEU的な民主主義の中から生まれてきたということだ。少なくともEUからいちゃもんがつかない程度には民主的な選挙の中から生まれてきたのが両国の現政権であって、ある程度の国民の支持を得ているわけである。それを、民主主義の敵であるかのように批判するというのは、極端な言い方をすれば、共産主義の時代に共産党に投票することが強要されていたという事実を笑えなくなってしまう。民主主義的な考えの政党に投票しないのは、民主主義の敵だといっているようなものなのだから。
ここで、ちょっと脱線すると、選挙制度が民主的かということで、気になるのがチェコの選挙制度である。下院議員の選挙は、地方ごとに比例代表制で行われるのだが、極右政党が国会に議席を持つことを防ぐために、地方ごとに分かれての選挙であるにもかかわらず、全国での得票が5パーセントを超えない政党は、議席を獲得できないことになっている。だから、ある特定の地方にのみ基盤を持つ地域政党が議席を得るのはほぼ不可能になっている。その反対に、全国で5パーセント以上を確保してしまえば、各地方での獲得票数が5パーセント以下でも、その地方での議席を獲得できることもあるので、全国に候補者を立てられる大政党向きの制度になっている。
いわゆる死票の非常に多いこの制度、極右政党を排除するという目的があるとはいえ、いや、逆に特定の政治的な集団を排除することを目的としているのだから、非民主的で差別的だとEUから攻撃されるのではないかと思っていたのだが、不思議なことにお咎めがあったという話は聞いたことがない。ハンガリーやポーランドの選挙制度がチェコの以上に非民主的だという話は聞いたことがないので、両国の政府は民主的な手続きを経て誕生したと言っても問題はあるまい。
EUや、主要国家であるドイツやフランスなどが考えなければいけないのは、誰がEUの弱体化をもたらす敵であるのかではなく、どうしてEU全体を覆う右傾化の傾向が、ハンガリー、ポーランドで先鋭化して現れたのかである。それは、端的に言えば、EUとその政策に対する失望と、ドイツなどのEU内で主導権を握る国家に対する反感である。
かつて、いわゆる東欧の人々はEU諸国から多大なる支援を受け、感謝の気持ちと共に、EU加盟に対して大きな期待を抱いていた。それが、EU加盟後に失望に変わるのに長い時間は必要なかった。おそらく期待が大きかった人ほど、失望も大きかったはずである。一応、EU内では、加盟国の立場は対等ということになってはいるが、実際は旧共産圏の国家は、第二グループ的な扱いを受けることが多い。ドイツやフランスがやっても問題がないことでも、チェコやハンガリーがやると問題視されることもある。チェコはEUに禁止されているためできないことになっている、赤字に苦しむ農業従事者に対する直接の金銭的支援も、フランスには許可されている。その額が少ないと言って農家が抗議することもあるみたいだけど。
今回問題になっている不法移民の受け入れ問題にしてもそうだ。ドイツの意向に答える形で、EUは加盟国への強制的な受け入れを強行しようとしている。チェコやハンガリーなどの反対意見は、あまりまともに聞いてもらえず、最近は、金を出すから文句を言うなという態度を取り始めている。そういうことの積み重ねが、現在、旧共産圏のEU加盟国に広がりつつある反EUの雰囲気の原因となっている。EUがこちらの言うことを聞いてくれないのなら、こちらがEUの言うことを聞く意味があるのかという主張につながっていくのである。
長くなったので、ここまでを前編として、続きは次の日にまわすことにする。
5月15日23時。
2016年05月15日
酔っ払い審判――大丈夫かチェコサッカー(五月十二日)
このニュースが、日本でも報道されたのは、ある意味当然なのかもしれない。ドイツやフランス、イギリスなどの大国とは違って、チェコみたいな小国について日本で報道されるのは、面白おかしい話題が中心になるのだから。
2002年に、プラハを中心にしたボヘミア地方で、百年に一度といわれる大洪水が起こって、多大な被害を出したときにも、日本で一番話題になったのは、洪水に襲われて水没したプラハの動物園から、水にのって逃げ出したガストンくんだった。アザラシだったかアシカだったか忘れたけれども、ブルタバ川を下って、ラベ(エルベ)川に入って、最終的にはドイツまで泳いでいったのだった。当時日本にいたチェコ人の友人からのメールに、日本人と会ってチェコ人だということがわかると、ガストン君の話ばかりされてうんざりしているんだけどどうすればいいかという質問があった。
諦めろとと答えたのか、アメリカ人の振りでもしてろと答えたのだったか、今となっては覚えていないが、日本人と会うたびにアメリカ人だと思われるのに嫌気が差して、「俺はアメリカ人じゃねえ」と書いたTシャツを作って着ていた奴だからなあ、嫌がらせの意味もあって、後者の答を返したような気がする。
いずれにしても、いろいろな理由で日本に滞在しているチェコ人の多くが、どうしてチェコについて報道されるのは、たいていお笑い番組のネタになりそうなことなのかという思いを抱いているに違いない。もしかしたらチェコが好きでチェコ人の知り合いが多い日本人も同じようなことを考えているかもしれない。自称日系人が、大統領選挙に立候補しようとしたというニュースも、日本での受け取り方はともかく、お笑い番組のネタでしかないしね。
だから、チェコのサッカーリーグで、ビクトリア・プルゼニュというチームが二年連続で四回目の優勝を果たしたことは報道されなくても、審判が酔っ払っていたというニュースが報道されるのは当然なのだろう。しかも、チーム表記や人名表記が英語読みのカタカナで意味不明だったのも、間違った情報が入っていたのも当然といえば当然なのだろう。一部の人たちを除けば、チェコのサッカーなんかに関心を持っている日本人なんかいるわけがないのだから、まともなニュースを報道する価値はないし、お笑いニュースでも情報の裏を取ったりする労力をかける価値などないのだろう。いや、報道されて、日本でもチェコについて情報が手に入るだけましだと考えるべきなのだ。
本題に入ろう。事件(というほどでもないけど)が起こったのは、プシーブラムというプラハの南西50kmほどのところにある町である。中世から銀鉱山があったことで有名で、また共産主義の時代にはウランの採掘が行われていたところでもある。この町のサッカーチームは、一時期、共産主義の時代の最強チームであった軍隊チームのドゥクラ・プラハの名前の使用権をもっていたことがあり、ドゥクラが再建されるまでは、数々の優勝トロフィーなどはプシーブラムに置かれていた。裏社会とつながりがあるといわれることもあるこのチームのオーナーが、旧ドゥクラ倒産のどさくさに手に入れていたらしい。
今週の水曜日のスラビアとの試合で、いわゆる第四審判として選手交代などを管理するはずだったピルニー氏が酔っ払っているのは、最初にグラウンドに登場した時から明らかだった。本来両チームのベンチの間にいるはずなのだが、副審と一緒になってディフェンスラインの上げ下げにしたがって、千鳥足でよたよたと動き回っていた。観客はサッカーの試合そのものよりも、この審判の動きを見て楽しんでいたようだ。
その後の事情聴取などによると、ピルニー氏は試合前に、強い蒸留酒を小さなコップで二杯飲んだらしい。控え室ではまったく酔いを感じなかったので、問題ないと思ってグラウンドに出たら、日光と風にさらされて酔いが回ってしまったとかいうようなことを言っていた。皮肉なのは、このピルニー氏の名字のもとになった形容詞の意味が、真面目なとか、一生懸命なとかいう意味であることである。
もう一人の問題を起こした審判は、最近導入が進んでいるゴール審判である。こんな言い方でいいのかどうかは知らないけど。名前はイジー・イェフ氏で、グラウンド内で立小便をしたことが問題になっているが、それだけでなく酔っ払ってもいたようである。ピルニー氏と違って、試合後のアルコールの検査を拒否したらしいので、証拠はないらしいが、酒を飲んでいなかったら、検査に応じるだろうなあ。
これまでも、サッカー選手が練習に酔っ払って出てきて、Bチームに落とされたとか、練習中にトイレに行くのを面倒くさがってグランドの脇で小便する選手がいたという話は聞いたことがある。酔っ払ったファンが、オフサイドの判定に腹を立て、グラウンドに乱入して旗を揚げた副審を殴ってスタジアムから追い出されたのに、外壁を登って客席に戻って再度乱入するという事件もあったなあ。それに、かつては総理大臣が外国で酔っ払って記者会見をしたこともあるって国だから、サッカーの審判が酔っ払っているぐらいは何の不思議もないのかもしれない。
ところで、このプシーブラムというチームには不思議な噂がある。何でもこのチームはホームゲームの笛を吹く審判たちに対して、滞在中の面倒見が非常にいいらしい。その一環としてチームのGMが審判にお酒を提供するというのがある。それで、本来は試合後に飲むように用意されていたものを、我慢できずに試合前に飲んでしまったというのが真相じゃないかと推測している。
5月13日23時30分。
2016年05月14日
永祚二年七月の実資1上旬(五月十一日)
『大鏡』の文章を読むのにちょっと疲れたので、『小右記』の本文を読むことにする。永祚二年の七月を選んだのは、覗き見趣味的で申し訳ないが、実資の女児が亡くなるところだからである。いかにこの娘を心配し、いかに仏教に、僧侶たちに頼っていたのか、平安時代の貴族の生活の一面が覗けるはずである。原文ではなく、書き下し文にした状態で引用する。大日本古記録版の『小右記』(岩波書店)を利用して書き下したが、現在では東京大学史料編纂所が提供している古記録データベースに、大日本古記録版が画像データとして収録されている。
この年の底本は、九条本と呼ばれる奥書に江戸時代の摂政九条道房の書名のある写本で、「右大臣実資公記」と題されている。
この七月は、一日から三日までは記事がなく、四日から始まる。二日には、関白だった藤原兼家が没しているはずだが、その件に関する記録がないのは残念である。
四日、丁丑、早朝二条院に参る、弔を摂政に奉る、左大将、右金吾、即ち帰る、□晩景皇太后宮に参る、大進時明朝臣と相ひ遭ふ、事の由を啓す、仰事有り、 女小児今日より悩み煩ふ事有り、
二条院というのが兼家が関白の地位を息子の道隆に譲った後に出家して住んでいた別宅で、実資は弔いを述べに出かけたのである。その後、夕方になって兼家の娘である皇太后宮詮子の許へ向かっている。末尾に、女の子が今日病気で苦しみ始めたことが記される。
五日、戊寅、祇園の明能師来る、小児の病に祈り申さしむ、力無きこと殊に甚し、痢病数十箇度、寸身の熱きこと火の如し、心は迷ひ惑ふ、覚縁師を以て祈願を致さしむ、今日師を請ひて善を修め了んぬ、出次遣□ 元寿阿闍梨を□て修めしめ了んぬ、
この日は、娘の病気のことしか書かれていない。「力無きこと殊に甚し」が、明能の法力のなさに対する批判なのか、娘が病で力なく横たわっていることを示すのか、どちらだろうか。前者のような気もする。病状は、「痢病数十箇度、寸身の熱きこと火の如し」、つまり下痢を数十度も繰り返し、小さな体は火のように熱いというのだろう。「心は迷ひ惑ふ」というのは意識がはっきりしていないということか。お医者さんなら、これらの記述からある程度病気が推測できるのだろうけど、赤痢ぐらいしか思いつかない。平安時代からあったのかね。
覚縁師、元寿阿闍梨を呼んだのは、明能だけでは頼りにならなかったからか。病気治癒のために、治療ではなく、願を立てたり善を修めたりすることが記録されるのが、平安時代たるゆえんだろうか。医事を掌る典薬寮なんて役所もあったはずなのだけど。
六日、己卯、小児の病極めて重し、他の事に非ず、痢病数々敢て留むべからず、種々の大願を立つ、兼ねて内外に祈を致す、元寿阿闍梨をして小児に法名を授けしむ(薬延、広隆寺に寄せ奉る)、兼ねて彼の阿闍梨に預けて等身の薬師仏を造り奉るの願を立つ、夜に入りて義蔵阿闍梨、覚縁上人来訪す、蔵闍梨を以て願書を読ましむ、兼ねて祈願を致す、覚縁師を以て加持せしむ、
病気が更に重くなっている。治癒のためにするのは、またしても「大願を立つ」ということだが、「これこれをするから、娘の病気を治してほしい」ということだろうか。そして、死を覚悟したのか、これも病気治癒の祈りの一環なのか、法名を付けさせている。「薬延」というのが法名か。広隆寺は秦氏の氏寺だけど、薬師如来が本尊となっていたらしいから、等身大のものを作るという「薬師仏」や法名の「薬延」との関連でこの寺が選ばれたのだろう。
義蔵阿闍梨なんて人も出てきたが、とにかく多くの縁のある高位の僧侶を呼んで娘のために加持祈祷をさせている。願掛けの内容を記した「願書」を読むのも、普通の人よりも高僧のほうが効果があるということだろうか。
七日、庚辰、小児の悩む所極めて重し、内外に大願を立て彼の児の用うる所の銀器等を捨つ、内外に祈を致す、済救、叡増の両人を以て両壇に善を修めしむ、今夜法橋「然来りて祈る、覚縁来りて加持す、小児の痢は無数にして起居の難きこと甚し、児の枕上に於いて平実師をして千巻の金剛般若経を読み始めしむ、炎魔天を顕し奉る、今夜奉平を以て招魂祭を行はしむ、
最初は六日とほぼ同じ。興味を引くのは、「彼の児の用うる所の銀器等を捨つ」で、病気平癒の願掛けの一環として、病人の日頃使っている物、特に高価な物を捨てるという風習があったのだろう。これまでの身の回りの世界を捨てて、新しく生まれ変わるという意味もこめられているのかもしれない。
「然は宋に渡ったことでも知られる当時の東大寺の別当。この人の祈りも覚縁の加持も、効果が現れないので、平実師に「千巻の金剛般若経」を読み始めさせたというのは、千巻もあるので、一二日では終わらないのだろう。それに、「平実師」は、どこできるかが問題だけど、「平実」という僧の名前だとしておこう。
子供の枕許で行わせた招魂祭は、体から離れかけた魂、もしくは離れてそのあたりをさまよっている魂を体に呼び戻すための儀式。奉平は陰陽寮の役人だろうか。これだけたくさんの僧を呼んで、さまざまに祈らせ、願掛けをし、儀式を行わせても、娘の病は快方には向かわないのである。
八日、辛巳、法橋今夜も同じく来りて祈祷を致す、兼ねて大願を立てしむ、児の病□重し、心神を失ふ、陳泰朝臣をして鬼気祭を行はしむ、晴空来りて加持す、義蔵闍梨易筮して云ふ、病の重きに至ると雖も、更に巨害は無きか、又た一両の祟有り、七月節の寅申の日に平愈を得るか、兼ねて忌み慎むべし、てへり、
この日も病状はよくならない。「心神を失ふ」は意識不明になるということだろう。前日の招魂祭に続いて、この日は「鬼気祭」を行う。これは、病を鬼=悪霊がもたらしたものと考え、それを調伏するための儀式である。そして、義蔵が筮竹を使って占いをして言ったのは、「病気は重くなるだろうけれども、特に大きな害はなさそうだ(=死なないということ?)。一つ、二つ何かのたたりがあるようである。七月の寅か申の日に治るのではないか」というようなことである。占いなんて当たらないものだけれども、実資としてはすがってしまうのだろうなあ。
九日、壬午、今夜入道殿の御葬送、と云々、
今日より四个日は氏の物忌なり、仍て他行せず、元寿闍梨をして種々の大願を立て申さしむ、小児の病殊に重きに依る、今夜半許り小児已に不覚たり、仍て五戒を授けしむ、元寿を以て戒師と為す、用うる所の銀器を以て皆な仏界に捨つ、又た同じく枕上に釼を捨つ、櫛筥を以て諷誦を修む(清水寺)、夜中に使を差して慶円律師の許に遣はし、中堂に祈り申さしむ、又た願書も遣はすなり、
入道殿、つまり先の関白兼家の葬送があったのに、「と云々」と書かれているということは、サボって参列していないということだ。一応、今日から四日間は氏の物忌の日だからあえて外には出なかったという言い訳が書いてあるけれども、どう見ても娘を心配するあまりどこにもいけなかったとしか思えない。
夜半に不覚、つまり意識を失ったため、「五戒を授け」させたというから、元寿の弟子として出家させたということだろうか。ただ「五戒」というのは、仏教の在家信者が守るべき戒律だから、ただの信者になったということか。これも病気平癒のためなのか、死後の幸福を祈ってなのか微妙なところである。
七日にもあった使っていたものを捨てるのは。今回は「仏界」に捨てると書いてあるので、お寺に奉納したということだろう。「櫛筥」を奉納した清水寺で「諷誦を修」めさせている。また、実資のおじに当たるとも言われる「慶円律師」は、後に天台座主になった人なので、ここの「中堂」は、延暦寺のものを指すと考えてよさそうだ。
十日、癸未、暁更に及び小児蘇生す、余自ら種々の祈を致す、頗る神感有り、又た済救、叡増両師霊気を両女に駈け移す、従父弟に假を三个日請ふ、晩景児女重く悩む、慶縁師をして加持せしむ、
明け方になって娘が蘇生したのは、「余自ら種々の祈を致」したのが、「頗る神感」があったのだという。各地の僧侶たちに祈祷などをさせるだけでなく、実資自身もさまざまな願掛けをして、お祈りをして娘の平癒回復を祈り続けていたのだろう。ただ、この後の部分でよくわからないのが、「両女」と「従父弟」が誰を指すのかである。状況から「霊気を」「駈け移」されたのは、実資の娘だと思われるのだが、「両女」では二人いることになってしまう。「従父弟」は普通に考えれば父方の従弟のことだが、実父を基準に考えて、公任あたりと考えておくのが無難だろうか。養父の実頼を基準に考えると、兼通、兼家はすでに没しているし、為光だとは思いたくない。
すでに長くなりすぎたので、今日の分はここまでにして、中旬以降は後日掲げることにする。しかし、平安時代の貴族というものは、子供のために、皆ここまでしたのだろうか。
5月12日13時。
正直な話、現代語訳はあまりほしくない。原文と書き下し文、それに語注がついていれば十分なのだけど。5月13日追記。
2016年05月13日
方言の話――チェコ語版落穂拾い(五月十日)
昨日の分のチェコ語の方言の話が、予想以上に長くなった上に、うまく落ちたような気がして、そこで終わるしかなく、書こうと思いつつ書きそびれてしまったことがたくさんある。後日、書き残したことをまとめて、一つの脈絡のある文章にするのは、何を書き残したか不明になって、余計な手間がかかるだけである。だから、今日の分は、方言にまつわるよしなしごとで、一文物するには小さなものを思いつくままにつらつらと書き連ねることにする。
モラビア地方に特徴的な方言に、「ス(su)」(日本語の「ス」よりは、ちょっと長めに強く発音する)がある。これは、チェコ語を勉強するときに最初に学ぶものの一つである「イセム(jsem)」(実際には「セム」と発音することも多い)のことである。だから「ヤー・ス・ズ・オロモウツァ」(私はオロモウツから来ました)などと使うと、オロモウツ人になれたような気分に浸れるのである。
それから、南モラビアでは、活用語尾に表れる「オウ(ou)」を「ウー」と発音し、ハナー地方では、「オー」と発音する。特に動詞の三人称複数の形でよく使われ、例えば「ほしい」という意味の動詞は、南モラビアでは「フツー」、ハナー地方では「フツォー」になる。
モラビアの首都であるブルノには、ハンテツと呼ばれる方言がある。これはプラハと同じ言葉を使いたくないという反骨心から生まれたある意味で人工的な方言らしい。ただその影響は、ブルノを超えて、モラビア中、言葉によってはボヘミアのほうまで広がって、プラハの人でも知っているものも在るようだ。恐らく一番有名なのは、「シャリナ」で、「トラムバイ」のことである。チェコ語には、トラムやバスなどの市内交通機関に使える定期券を、一語で表せる言葉がないため、ハンテツのひとつである「シャリンカルタ」という言葉を使う人が多い。
昔、オストラバ近辺で通訳の仕事をしていたことがある。通訳の仕事そのものも大変だったのだが、一番大変だったのは、時々チェコ人たちの言葉が聞き取れなくなることだった。オストラバ地方の方言は独特なのである。
特徴が二つあって、一つは長く伸ばす長母音が存在せず、短母音になってしまうことである。そのためオストラバ近辺の人たちのことを、「くちばしが短い」なんていうこともあるようだが、これはそれほど大きな問題ではない。正確には「クラートキー」と言わなければならない「短い」という意味の形容詞を、短いのだからと思いつつ「クラトキー」と発音してしまうことはよくあるし。
もう一つの特徴は、アクセントの位置が違うことである。これは近隣のポーランド語の影響を受けたもので、チェコ語では一般に語頭の母音にアクセントがあるのに、オストラバでは後ろのほうにずれるため、とっさに聞き取れないことがある。正直な話、それまで、日本語で話すときにも、チェコ語で話すときにも、アクセントはあまり重視していなかったのだが、このとき以来、アクセントを多少は意識して話すようになった。
これは最近知ったのだが、この地方の人は、「ここ」という意味の言葉を使うとき、場所を表す「タディ」と、方向を表す「セム」を反対に使う。これはチェコ語を勉強し始めてすぐの段階で、耳にたこができるほど間違えてはいけないと言われたことである。方言とはいえ、それを逆に使ってしまう人がいるというのは驚きであった。しかも、大卒でありながら自分が逆に使っているのが正しいと思い込んでいる人までいる。こういうのは、誰かに指摘されるか、自分で意識して聞くかしないと気づけないのだろう。
オストラバよりもさらに、ポーランドとスロバキアに近づいていくと、特別なポナシムという方言が使われる地域になる。ポーランド系の人たちも多い地域で、チェコ語にポーランド語、ドイツ語の要素が混ざった不思議な言葉が生まれたらしい。これは、聞いて理解できる自信がない。
この地方は方言自慢というものをあまり聞かないチェコの中では、例外的に、自分たちの使っている方言に誇りを持っている地域のように思われるのだけど、どうかな。
5月11日15時
2016年05月12日
方言の思い出――チェコ語版(五月九日)
チェコ大使館が出している奨学金をもらって、初めてサマースクールに参加したとき、宿舎はサッカーのスタジアムと、パラツキー大学の体育館の近くにある寮だった。確か部屋番号が「206」で、相部屋だったのはポーランド人で、初心者だと言っていたのに、同じ東スラブ語を使う民族との強みで、チェコ語の理解には何の問題もなさそうだったのが無性に腹が立ったのを思い出す。
それはさておき、大学の寮だったせいか、外出するときには鍵を受付に戻して、戻ってきたら部屋番号を伝えて受け取るというシステムになっていた。何日目だっただろうか。授業が終わって戻ってきて、覚えたチェコ語で意気揚々と「206」というと、受付に座っていた気のよさそうなおばちゃんは、にこにこ笑いながら、「違う」という。そんな番号はないということなのかと思って、もう一度言っても「違う」と言う。そして、鍵を取ってこちらに向かいながら、「ドバ・スタ・シェスト(dva sta šest)」と言う。どうもこちらの「200」の発音が気に入らなかったらしい。繰り返せというような顔をしているので、仕方なく「ドバ・スタ・シェスト」と言うと、その通りと言いながら鍵を渡してくれた。当時、その寮に宿泊していたのは、みなサマースクールの学生だったから、少しでも勉強になるようにと考えてくれたのだろう。
しかし、本来のチェコ語の文法にのっとれば、「ドバ」は男性名詞につくときの形で、「100」は、中性名詞だから、「ドビェ(dvě)」になり、「300」と「400」は確かに「スタ」でいいけれども、「500」以上は「セット(set)」になるし、「200」の場合には特別に「ステ(stě)」になるはずである。自分一人で考えていても仕方がないので、翌日の授業で先生に質問してみた。先生は、「ドバ・スタ」はこの地方で使われている方言だけど、寮のおばちゃんには文句は言わないで上げてねとか何とか言っていた。もちろん、こちらの学習に力を貸してくれようとした方に、文句をつける気は全くなかったし、それまで意識の中に入っていなかった、モラビアの方言と言うものを意識できるようになったことに関しては感謝してもいいぐらいだった。
その結果、翌年のサマースクールで、授業中に廊下に引っ張り出されて、チェコ語を学ぶ日本人としてテレビのインタビューを受けたときには、部分的にモラビア方言でしゃべって見せたのだが、語尾を少し変えただけで、他は書き言葉的な正しいチェコ語でしゃべったから、発音の微妙さと相まって珍妙なチェコ語になっていたに違いないと今にして反省する。一応、モラビア方言っぽく話すためのコツを一つ上げておけば、「ほしい/〜たい」という意味の動詞の一人称単数で、「フツィ(chci)」ではなく、「フツ(chcu)」(「ツ」はちょっと強めに長めに発音するとなおよし)を使うことである。
オロモウツでチェコ語を勉強し始めた、その年だったか、翌年だったかに、友人に誘われて実家の南モラビアの町を訪ねた。顔の広い奴で、夜飲み屋でお酒を飲みながらいろいろな人と話すことになってのだが、「ス・カマ」と質問されて、意味が分からなかった。最初は「ス・キーム(s kým)」(誰と一緒に)のことだろうと思って、「友達と来た」と答えるのだが、「違う」と言下に否定されて、何の説明もなしに「ス・カマ」「ス・カマ」と繰り返されて、お手上げになってしまった。その時に誰かが、自分はどこどこの出身だけど、お前は「ス・カマ」と質問してくれたので、「オトクット(odkud)」(どこから)のことだと理解できた。
「どこへ」を「カム(kam)」と言うので、それに二格につける前置詞「ス(z)」(場合によっては「ズ」)を付けて、「ス・カマ(z kama)」にしてしまったらしい。名詞とは言えない方向を問うための言葉「カム」に前置詞を付けることができるなんて思いもしなかった。後で聞いた話では、「どこから」を意味する言葉は、方言のバリエーションが非常に多く、チェコ人でも一瞬わからなくなることがあるらしい。そんなの外国人に使うなと言いたいところだけれども、方言だけを使って暮らしている人にとっては、その言葉が方言であるかどうかなんてどうでもいいことなのだろう。同じ変な言葉でも、外来語は許せないのに、方言だと許せてしまうのは何故なのだろう。
実は、モラビア地方でも、ハナー地方にはそれほどひどい方言はないのだろうと思っていた。オロモウツの人たちは、外国人であるこちらにもわかるような言葉で丁寧に話してくれるから、普段からそんな話し方をしているのだろうと誤解していた。師匠は、このあたりの方言はチェコの中でも汚い部類の方言に入るから、地元以外の人や、外国人と話すときには、できるだけきれいな言葉で話そうとするのだと言っていたけれども、あまり信じていなかったのだ。その後に続いた、「だから、外国人がチェコ語を勉強するには最適なんだ」という部分は、最初から実感を持って大賛成だったけれども。
この師匠の言葉の前半が理解できたのは、当時オロモウツに住んでいてチェコ語を勉強していた知り合いに、「プシンドゥ」とか、「ネンデ」と言うのはどういう意味かと聞かれて答えられなかったときのことだ。うちのに質問したら、それぞれ「プシイドゥ(přijdu)」「ネイデ(nejde)」のことだと言う。行くという意味の動詞「イート(jít)」そのものの変化形は、問題ないのだが、それに接頭辞が付くと、なぜか「イ」が「ン」に音韻変化してしまい、こんな変な言い方になるらしい。一般に方言は好きだけれども、これはちょっと使いたくない。
それから、師匠の話では、このあたりでは、日本語のいいえ、つまりチェコ語の「ネ」の代わりに「ホブノ(hovno)」と言うことがあるらしい。さすがにそれは師匠一流の冗談だと思いたかったのだが、ある日レストランで食事をしていたときに、母子の信じられない会話を耳にしてしまった。母親が息子に、何か質問したら、息子は「ホブノ、トイレ」と言って立ち上がったのだった。
問題は、この場合の「ホブノ」が、師匠の言った「ネ」の意味で使われたのか、それとも本来の意味で使われたのかである。レストランで本来の意味で使うことはないと思うのだけど、状況が状況だけに判断が難しい。「ホブノ」の本来の意味については、書くのがためらわれるので、自分で調べてみてほしい。
5月10日22時。