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2016年05月21日

コプシブニツェ、あるいはタトラの博物館(五月十八日)



 1980年代後半、日本でラリーといえば、パリダカだった。本当はラリーではなく、ラリーレイドという競技らしいが、その違いをはっきりと意識していた人はそんなにいなかったのではないだろうか。サファリ・ラリーとか、ラリー・モンテカルロとか存在は知っていても、パリダカとどう違うのかなんて意識したことはなかった。ラリーのシリーズ戦であるWRCの存在なんて知っているのはよほどのモータースポーツマニアだけだったに違いない。かく言う私も高斎正の小説や新谷かおるの漫画を読んでいなかったら、知らなかっただろうし。
 パリダカは、いつの間にかダカール・ラリーなどと呼ばれるようになって、アフリカではなく南米で開催されるようになっていたが、そのラリーにチェコから参加し続けているのがカミオン部門のタトラである。ロプライス親子が中心の参戦で何回か優勝もしているはずである。タトラだけでなく、リアスも、共産主義時代の80年代後半からカミオン部門に参戦していたというから、チェコのモータースポーツというものもなかなか侮れない
 そのタトラの工場があるのが、コプシブニツェである。地方としては、フクバルディもそうだが、オストラバを中心としたモラフスコスレスコ地方ということになる。地方名からもわかるようにシレジアとモラビアにまたがる地方であるが、シレジアとモラビアの境界というのがいま一つよくわからない。この地方の中心都市オストラバは、まさに境界線上に作られた町で、古い地図を見ると、モラビアの「モラフスカー・オストラバ」とシレジアの「スレスカー・オストラバ」という二つの隣り合う町として存在していることがある。

 コプシブニツェの街には、見るべきものがあまりないのか、サマースクールのイベントで出かけたときには、街には寄らずに直接タトラの博物館に向かった。この会社の前身に当たる会社が設立された十九世紀の半ばから現在に到るまでに生産されてきたさまざまな自動車が展示されている。パリダカに優勝した車両も誇らしげに展示されていた。設立当初は自動車ではなく馬車を生産していたらしいけれども、その馬車の展示があったかどうかは記憶があいまいで何とも言えない。
 当時のつたないチェコ語で理解できたのは、戦前のタトラは乗用車の生産が中心で高い評価を受けていたのに、戦後共産党政権が成立すると、産業の集約化による効率化ということで、普通の乗用車の生産は、ムラダー・ボレスラフのシュコダに集約され、タトラではトラックなどの大型の特殊車両の生産が強要されたということだ。それにもかかわらず、どうしても乗用車の生産を諦められなかった技術者の一部が執念で開発を続け、最終的には、少数ながら乗用車の生産が復活したなんて話もあったかな。大統領が使うような大型の高級車を生産するノウハウがシュコダになかったことも、認められた理由のひとつらしい。
 興味深いのは、乗用車のほうはシュコダに無理やり集約してしまって、ごく一部の例外を除けば、チェコで生産される車はすべてシュコダブランドだったのに対して、大型の特殊車両は、タトラのほかにもリアス、アビアという会社で生産されていたことである。そしてリアスとアビアで生産されたトラックなどにはシュコダの名前が付けられていたらしい。タトラは共産党政権に嫌われていたのかもしれない。

 この博物館でもう一つ覚えているのは、会社の設立の登記所か何かにドイツ人と思われる名前が書いてあって、一緒に居た人がオーストリアの資本で設立されたんだなんて言っていたことだ。そのときは思わず同意してしまったが、実はそうとも言い切れない。ハプスブルク帝国統治下では、チェコ人の人名であってもドイツ語では、翻訳して使用される例が多い。つまり、そこにあった人名がドイツ語の物だからといって、それがそのままドイツ人であったことを意味するわけではないのだ。それに、チェコスロバキア成立以前の民族状況は非常にややこしく、ドイツ語の名前だからと言って、自らをドイツ人だとみなしていたとは限らず、逆にチェコ語の名前であっても、自らをドイツ人だとみなしていた人たちもいる。この辺は、何も知らない外国人が気軽にコメントしていいようなことではなさそうだ。

 現在のタトラは乗用車の生産からは完全に撤退し、トラックなどの生産もあまり多くなく、軍用の車両の生産で息をついているような状態らしい。チェコ陸軍から仕事を取ったときに、当時の防衛省の高官からわいろを要求されたと、当時タトラの社長だったアメリカ人が証言して大きな問題になりかけたけれども、どうなったんだろう。わいろ云々はともかく、国防のために重要な軍の装備ぐらいは、杓子定規に公正に入札で決めずに、国内企業に任せることが許されてもいいような気がするのだけど。外国に装備の細かいところまで情報が流れてしまう恐れを考えたら、多少高くても国内の信頼できる企業に任せたほうがましじゃなかろうか。それに、チェコ語で直接細かい説明を受けられるというメリットもあるし。ただ、その場合には、やはり外資に買収されていないという条件は付けざるを得ないだろうから、タトラも当時はダメだったのか。

 モータースポーツファンを除けば、コプシブニツェ自体にはあまり魅力はないかもしれないが、近くのフクバルディや、プシーボル、シュトランベルクなどを回る拠点として考えれば、行ってみる甲斐はあるかもしれない。
5月20日14時。


 タトラはスロバキアとポーランドの国境地帯にそびえるビソケー・タトリの単数形からきているのだろうけど、このタトラを元に名前が付けられたものには、お菓子の「タトランキ」がある。オパビアという会社が作っているんだったかな。甘いものが好きな人にはお勧めかも。5月20日追記。





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