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2016年05月23日
学校教育の思い出(五月廿日)
以前は、文部省が定める指導要綱なんてものがあるのだから、日本中の学校で同じような教育が行われていて、差が有るとすれば、それは地域差ではなく、年代の違いだと思っていた。それが、最近、何人かの人と、話しているうちに、小学校から高校までの教育にも地域差というものが意外と大きいのではないかと気づいてしまった。考えてみれば、県単位で教育委員会があって、それぞれ独立して活動しているのだから、当然なのかもしれない。
先日も、お酒を飲んでいたら中学校時代の話になり、毎年新学年が始まると体力測定が行われていたというところまでは話が一致したのだが、一緒に飲んでいた人の口から出てきた「シャトルラン」という言葉には思い当たるものがなかった。二十メートルのダッシュを少しずつスピードを上げながら繰り返して行って、どこまで耐えられるかで持久力をはかるというものらしい。我々のころは、持久力といえば、1500メートル走だったのだが、それだと距離が長すぎて手を抜く生徒が出てくるのに対する対策として導入されたのではないかと言っていた。うちの中学では、手を抜いて走ったら大学の附属中学みたいに3000メートル走らせるぞと脅すのが、手抜き対策だったのだけど。
こちらよりもはるかに若い人だったので、世代の違いだろうと思っていたら、もう一人の人が、大学の教員養成課程で知ったけど、自分自身は中学時代に、シャトルランなんかしなかったと言い出した。二人とも同じぐらいの年齢だけれども、シャトルランを実際に体験した人は、東京近辺の出身で、もう一人の人は地方の出身だった。
最近知った「ワープリレー」という目を疑うような競技も、東京の学校で発明されて導入されたという話だけど、それが全国各地に波及したかどうかは確認していないし。いや、地域限定のものであってほしいと切に願う。文部省がゆとり教育というものに血道をあげていた時代のあだ花だろうから、すでに廃止されているかもしれないのだけど。
80年代に週五日制の導入の呼び水として導入されたゆとり教育が、円周率が「3」になってしまうとか、運動会の徒競走で手をつないで皆一緒にゴールするなど、いつの間にかいびつな展開を見せているのは小耳に挟んではいた。全体的に、競争というものを、子供たちへの負担だと考えて、教育の世界から排除しようとしているように見えた。自由競争というものを金科玉条とする市場経済を是としている日本社会で、競争を教育から排除してしまうのは、どうなのだろう。ただでさえ横並び好きだといわれている日本人なのに。
それに、学校という温室の中で、管理された競争を体験しておくのは、人生において必要なことではなかろうか。学校でもほとんど競争を体験しないまま、いきなり社会の荒波の中に放り込まれてしまうのはかわいそうな気がする。かりに運動が苦手なら、別の自分の得意なことで実力を発揮すればいいと思うのだけど。誰にだって何か一つぐらいは、他人に負けたくないことがあるだろうし。温室の中で過保護にしてしまったのでは、たくましい大人にはなれそうもない。
自分自身のことを思い返してみると、中学高校で競争の結果というものは、相対的なものでしかなく、自分が努力したからといって、必ず結果が出るものではないということに気づき、結果にそれほど拘泥しなくなったのは、いいことだったのか、よくないことだったのか。試験前の試験勉強などはほとんどせずに、試験の後に勉強するという変な奴だったからなあ。自分の苦手なポイントをつぶすという意味で、その勉強の仕方が間違っていたとは思わないが、今にして、やはりひねくれ者だったのだと思う。
話を元に戻そう。その田舎出身の人とは、たまたま小学校に通った県が近かったせいか、小学校時代の思い出が共通していた。冬でも原則として半ズボンで、長ズボンをはくときには、親が連絡をしなければいけなかったとか、体育の時間は原則として裸足だったとか。小学校の体操着には長袖のジャージはなかったので、真冬でも短パンと半袖で裸足でグラウンドを走り回っていたのだ。そして冬場の恒例といえば縄跳びで、失敗して縄が足にピシッと当たったときの痛みは、今思い出しても涙が出そうになる。裸足のほうが健康にいいとか、そういう理由だったのだろうか。健康のために、乾布摩擦の時間とか目の体操とかいうのもあったなあ。あれもうちの地方限定かもしれない。
高校時代に、体育が週に五回、つまり毎日あったと言ったら、田舎出身の人も驚いていた。でも東京近郊の人は、週一で、普通の体育とは別に柔道と剣道の授業があったと言っていたし、高校になると地域もあるだろうけど、学校ごとに特色が出てくるものなのかもしれない。
体育の授業で水泳や陸上などをするときに、うちの高校では、早い人ほどたくさん泳いだり走ったりするようになっていたと言ったら、東京近辺の人の高校では反対に、タイムが悪いともう一度走らされることがあったという。水泳では、決められた距離を泳いだら、後は自由にしていてよかったとも言っていた。こっちは時間一杯、体力の限り泳がされて、ゲロ吐くこともあったというのに。先生は疲れきって体の力が抜けたときに、一番きれいなフォームで泳げるとか何とか言ってたけど、疲れれば疲れるほど、フォームが崩れてじたばたするような泳ぎになっていた記憶しかない。
一緒に飲んだ二人が、体育大学関係の人だったので、体育の話題で終始したが、他の科目でも地域差というものがあるのかもしれない。さすがに算数なんかの理系科目では無理だろうけど、国語や社会などの文系科目の副読本とか、小学校の道徳なんかであれば、地域差があってもおかしくはなさそうである。
5月21日23時。