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2016年05月12日

方言の思い出――チェコ語版(五月九日)



 チェコ大使館が出している奨学金をもらって、初めてサマースクールに参加したとき、宿舎はサッカーのスタジアムと、パラツキー大学の体育館の近くにある寮だった。確か部屋番号が「206」で、相部屋だったのはポーランド人で、初心者だと言っていたのに、同じ東スラブ語を使う民族との強みで、チェコ語の理解には何の問題もなさそうだったのが無性に腹が立ったのを思い出す。

 それはさておき、大学の寮だったせいか、外出するときには鍵を受付に戻して、戻ってきたら部屋番号を伝えて受け取るというシステムになっていた。何日目だっただろうか。授業が終わって戻ってきて、覚えたチェコ語で意気揚々と「206」というと、受付に座っていた気のよさそうなおばちゃんは、にこにこ笑いながら、「違う」という。そんな番号はないということなのかと思って、もう一度言っても「違う」と言う。そして、鍵を取ってこちらに向かいながら、「ドバ・スタ・シェスト(dva sta šest)」と言う。どうもこちらの「200」の発音が気に入らなかったらしい。繰り返せというような顔をしているので、仕方なく「ドバ・スタ・シェスト」と言うと、その通りと言いながら鍵を渡してくれた。当時、その寮に宿泊していたのは、みなサマースクールの学生だったから、少しでも勉強になるようにと考えてくれたのだろう。
 しかし、本来のチェコ語の文法にのっとれば、「ドバ」は男性名詞につくときの形で、「100」は、中性名詞だから、「ドビェ(dvě)」になり、「300」と「400」は確かに「スタ」でいいけれども、「500」以上は「セット(set)」になるし、「200」の場合には特別に「ステ(stě)」になるはずである。自分一人で考えていても仕方がないので、翌日の授業で先生に質問してみた。先生は、「ドバ・スタ」はこの地方で使われている方言だけど、寮のおばちゃんには文句は言わないで上げてねとか何とか言っていた。もちろん、こちらの学習に力を貸してくれようとした方に、文句をつける気は全くなかったし、それまで意識の中に入っていなかった、モラビアの方言と言うものを意識できるようになったことに関しては感謝してもいいぐらいだった。
 その結果、翌年のサマースクールで、授業中に廊下に引っ張り出されて、チェコ語を学ぶ日本人としてテレビのインタビューを受けたときには、部分的にモラビア方言でしゃべって見せたのだが、語尾を少し変えただけで、他は書き言葉的な正しいチェコ語でしゃべったから、発音の微妙さと相まって珍妙なチェコ語になっていたに違いないと今にして反省する。一応、モラビア方言っぽく話すためのコツを一つ上げておけば、「ほしい/〜たい」という意味の動詞の一人称単数で、「フツィ(chci)」ではなく、「フツ(chcu)」(「ツ」はちょっと強めに長めに発音するとなおよし)を使うことである。

 オロモウツでチェコ語を勉強し始めた、その年だったか、翌年だったかに、友人に誘われて実家の南モラビアの町を訪ねた。顔の広い奴で、夜飲み屋でお酒を飲みながらいろいろな人と話すことになってのだが、「ス・カマ」と質問されて、意味が分からなかった。最初は「ス・キーム(s kým)」(誰と一緒に)のことだろうと思って、「友達と来た」と答えるのだが、「違う」と言下に否定されて、何の説明もなしに「ス・カマ」「ス・カマ」と繰り返されて、お手上げになってしまった。その時に誰かが、自分はどこどこの出身だけど、お前は「ス・カマ」と質問してくれたので、「オトクット(odkud)」(どこから)のことだと理解できた。
 「どこへ」を「カム(kam)」と言うので、それに二格につける前置詞「ス(z)」(場合によっては「ズ」)を付けて、「ス・カマ(z kama)」にしてしまったらしい。名詞とは言えない方向を問うための言葉「カム」に前置詞を付けることができるなんて思いもしなかった。後で聞いた話では、「どこから」を意味する言葉は、方言のバリエーションが非常に多く、チェコ人でも一瞬わからなくなることがあるらしい。そんなの外国人に使うなと言いたいところだけれども、方言だけを使って暮らしている人にとっては、その言葉が方言であるかどうかなんてどうでもいいことなのだろう。同じ変な言葉でも、外来語は許せないのに、方言だと許せてしまうのは何故なのだろう。

 実は、モラビア地方でも、ハナー地方にはそれほどひどい方言はないのだろうと思っていた。オロモウツの人たちは、外国人であるこちらにもわかるような言葉で丁寧に話してくれるから、普段からそんな話し方をしているのだろうと誤解していた。師匠は、このあたりの方言はチェコの中でも汚い部類の方言に入るから、地元以外の人や、外国人と話すときには、できるだけきれいな言葉で話そうとするのだと言っていたけれども、あまり信じていなかったのだ。その後に続いた、「だから、外国人がチェコ語を勉強するには最適なんだ」という部分は、最初から実感を持って大賛成だったけれども。
 この師匠の言葉の前半が理解できたのは、当時オロモウツに住んでいてチェコ語を勉強していた知り合いに、「プシンドゥ」とか、「ネンデ」と言うのはどういう意味かと聞かれて答えられなかったときのことだ。うちのに質問したら、それぞれ「プシイドゥ(přijdu)」「ネイデ(nejde)」のことだと言う。行くという意味の動詞「イート(jít)」そのものの変化形は、問題ないのだが、それに接頭辞が付くと、なぜか「イ」が「ン」に音韻変化してしまい、こんな変な言い方になるらしい。一般に方言は好きだけれども、これはちょっと使いたくない。

 それから、師匠の話では、このあたりでは、日本語のいいえ、つまりチェコ語の「ネ」の代わりに「ホブノ(hovno)」と言うことがあるらしい。さすがにそれは師匠一流の冗談だと思いたかったのだが、ある日レストランで食事をしていたときに、母子の信じられない会話を耳にしてしまった。母親が息子に、何か質問したら、息子は「ホブノ、トイレ」と言って立ち上がったのだった。
 問題は、この場合の「ホブノ」が、師匠の言った「ネ」の意味で使われたのか、それとも本来の意味で使われたのかである。レストランで本来の意味で使うことはないと思うのだけど、状況が状況だけに判断が難しい。「ホブノ」の本来の意味については、書くのがためらわれるので、自分で調べてみてほしい。
5月10日22時。





現代チェコ語日本語辞典 [ 小林正成 ]



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