アフィリエイト広告を利用しています
<< 2024年02月 >>
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29    
検索
リンク集
最新コメント
チェコの銀行1(十二月二日) by ルイ ヴィトン 時計 レディース hウォッチ (03/20)
メンチンスキ神父の謎(四月卅日) by にっしやん (12/30)
メンチンスキ神父の謎(四月卅日) by にっしゃん (12/30)
メンチンスキ神父考再び(七月卅日) by にっしゃん (12/30)
カレル・チャペクの戯曲残り(二月朔日) by K (08/16)
最新記事
カテゴリーアーカイブ
記事ランキング
  1. 1. 『ヨハネス・コメニウス 汎知学の光』の刊行を寿ぐ(四月十日)
  2. 2. no img 『羊皮紙に眠る文字たち』『外国語の水曜日』(三月十九日)
  3. 3. no img コメンスキー――敬虔なる教育者、あるいは流浪の飲んだくれ(九月廿七日)
  4. 4. no img すべての功績はピルスナー・ウルクエルに(一月廿六日)
  5. 5. no img 「トルハーク」再び(三月廿日)
  6. 6. no img トルハーク四度(十月二日)
ファン
タグクラウド










ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

広告

posted by fanblog

2016年05月11日

フクバルディ(五月八日)



 チェコの音楽家というと、まず『我が祖国』で有名なスメタナ、『新世界より』のドボジャークの名前が思い浮かぶ。最近はそれに、ヤナーチェクとマルティヌーが加えられることが多い。この中で、我がモラビアの作曲家となるとヤナーチェクをおいて他にはいない。スメタナとマルティヌーは、それぞれリトミシュルとポリチカという町の出身で、オロモウツからも、それほど遠くないとはいえ、電車で行くのは大変だし、モラビアとの境界近くではあるけれども、地域としては東ボヘミアに属するのだ。
 そのモラビアの作曲家ヤナーチェクの出身地が、フクバルディという小さな村である。ベスキディの山の中にあるこの村には、ヤナーチェクの記念館もあるのだが、交通の便があまりよくなく、よほど熱心なファンでないと行けない場所になっているのが残念である。サマースクールの週末のイベントで出かけたときには、小ぢんまりとした建物の中に、たくさんの学生が入るのが申し訳ないぐらいだった。
 ヤナーチェクの作品というと、何を思い浮かべるだろうか。「内緒の手紙」「シンフォニエッタ」「イェヌーファ」などなど、数多くの名作の中から選ぶのは大変かもしれない。でも、子供たちに選ばせたら、アニメーション化もされたオペラ「利口な女狐の物語」が選ばれるに違いない。ちなみに、子供に限らないのか、フクバルディの村の紋章にもキツネのシルエットが使われている。

 また、フクバルディの村の後ろにそびえる丘を登っていく散歩道の途中には、女狐の像が石の上に据えつけられている。顔の鼻の部分や尻尾の部分などが、金色に光っているのは多くの人に触られた結果だろう。現在のこの女狐の像は、残念ながら私が十年以上前にフクバルディに出かけたときのものとは、同じものではない。何年か前に何者かによって盗まれるという事件が起こったのだ。
 おそらく、芸術作品としての価値を求めてではなく、金属素材として売るために盗んだのだろうと言われている。チェコでは、いろいろなものが盗まれて金属素材として売られていく。高速道路の脇に建てられた防音壁に設置された緊急避難用のドア、道路のマンホールのふたなどなど。盗んで売るほうも悪いけれども、そういうものを誰からでも黙って買い取る業者が悪いという考え方もあって、以前は何の制限もなかった金属の買取を、身分証明書を提示してからしかできなくするなどの対策はとられているようである。今後は、使用されなくなって放置された工場などの建物の中で、使用された鉄筋を盗もうとして壁が倒れたり床が落ちたりして亡くなる人が出たり、鉄道の安全システム用のケーブルや線路のレールなどが盗まれて、電車が運休になったりするという事態は起こらないと信じたいところである。

 さて、この女狐の像のある丘の上には、大きな城跡がある。この近辺で言うとベチバ川沿いの高台の上にそびえていたヘルフシュティーンの城と並んで大きな中世の城である。重要な通商ルートでもあったオドラ川から支流を少しさかのぼったところにあるこのお城は、モラビア防衛のための重要な拠点だったはずである。記録によれば、すでに十三世紀の後半にはこの地に城があったことが確認できるという。
 この城は頻繁に売買されたために、所有者もころころ変わっているようで、一時期はフス派のチェコ人王ボデブラディのイジーのものであったこともあるらしい。十六世には、オロモウツの司教の手に入って、国有化されるまではその資産だったというから、オロモウツ在住の身としては、縁があるようで嬉しい。チェコ全土に大きな爪あとを残した三十年戦争中は、数回にわたってスウェーデン軍など新教側の攻撃を受けたが、すべて跳ね返すことに成功したという。
 そんな強固な城が現在の破壊された姿をさらしているのは、戦争が原因ではなく、1762年10月5日に起こった大火事が原因で、その後再建されることはなかったらしい。城に住んでこのあたりの領地を治めていた代官に問題のある人がいて云々という伝説をお城の見学をしたときに聞いたような記憶もあるので、失火ではなく放火だったのかもしれない。

 現在では、城の再建はされていないが、部分的に修復が加えられ、城壁や建物の壁などが往時の勇壮さを忍ばせている。城内の一部を利用して、舞台と客席が設置されコンサートなどが行われる半分屋外の演劇ホールのような施設も作られている。城の周りの丘は自然公園のようになっていて、その中にも屋外演劇場があり、「ヤナーチェクのフクバルディ」と題された音楽祭の会場になっている。イバ・ビトバーの写真もあるから、クラシックだけでなく民族音楽のコンサートもあるのかな。ヤナーチェク自身が、モラビアの民族音楽を取り入れて作曲したなんて言われることを考えれば必然なのか。

 念のために、オロモウツからフクバルディの接続を調べてみたら、一回の乗換えで行けるものが二つあった。一度フリーデク・ミーステクかプシーボルに行く必要があるようだ。時間は二時間十分と十八分。うーん、プラハ行くほうが早いなあ。そうすると宿泊も、このどちらかの町のほうがいいのかな。
5月10日0時


いつものようにホテルの確認をすると、フクバルディにもホテルは二軒出てきた。でも、5キロほど離れたプシーボルか、コプシブニツェのほうがあれこれ選択肢が広そう。フロイトの出身地であるプシーボルがドイツ語で「フライベルク」というのは知らなかった。普通は両方の言葉で名前が似ているのだけど、ここはぜんぜん違うなあ。5月10日追記。




この記事へのコメント
コメントを書く

お名前:

メールアドレス:


ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/5051138
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
プロフィール
olomoučanさんの画像
olomoučan
プロフィール


チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。