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2016年05月10日

『大鏡』の実資2(五月七日)



 『大鏡』では、一昨日の実資とその娘についての記事の後に、小野宮家の邸宅についての記事が続いている。
 まず、「かの殿は、いみじき隠り徳人にぞおはします」ということで、実資は意外なことに資産家だったのである。「隠り」とあるから、あまり知られていなかったということだろう。道長の九条流には、金持ちのイメージがあって、小野宮流は、逆に清貧という言葉が似合うと思っていたが、そうでもなかったらしい。ただ小野宮流でも、実資のいとこの公任には、軽薄なお金持ちの坊ちゃんという役柄が似合いそうである。
 この後、小野宮流の始祖実頼の宝物や荘園を実資が、受け継いだことと、その邸宅である小野宮第の素晴らしさが語られる。
「辰巳の方に三間四面の御堂たてられて、廻廊は皆、供僧の房にせられたり」
 敷地の辰巳の部分に、お堂が建てられていたらしい。そのお堂は、「三間四面」というから、横幅と奥行きが、「三間」の大きな建物だったようだ。このころの「間」は、長さの単位というよりは、柱と柱の間の部分を指す言葉だったので、各面に柱と柱の間が三つある、つまり両端の建物の角にある柱の間に、二本の柱があったということか。三十三間堂の場合は、約121メートルという話だから、その十一分の一で、約十一メートル四方の建物だったと解釈しておこう。僧房も作られていたようだから、常駐する僧がいたということか。

「湯屋に大きなる鼎二つ塗り据ゑられて、煙立たぬ日なし」
 実資の邸宅のお堂では、平安時代でありながら毎日お湯を沸かしていたというわけだ。仏教寺院のこの斎戒沐浴のための湯屋、湯殿というものが、今日の日本人のお風呂好きにつながっていくのだろうが、僧侶達はともかく、実資たち貴族がどのぐらい頻繁に入浴していたのかはわからない。ただ、その気になれば、毎日入浴できたということは言えそうである。
 昔、古典文学に言う「緑の黒髪」というのは、髪を非常に長く伸ばしているのに、あまりお風呂に入れなかったから、カビだとかコケだとかで本当に緑色だったんじゃないかなんてことを言う奴がいたけれども、小野宮流ではそんなことはなさそうである。落ちぶれた貧乏貴族ならありそうだけど、同時に、必要ならどこかのお寺でお湯を使わせてもらえたんじゃないかという気もする。

 この後は、お堂の中に、金の仏像がたくさんあるとか、供え物としてのお米が三十石とか実資がこのお堂にお金をつぎ込んでいることが書かれ、母屋である寝殿から、続く道の様子、池を渡って船で行くこともできたと言うことが記される。野原のように四季折々の花やもみじが植えられていて美しかったらしい。
「住僧にはやむごとなき智者、あるいは持経者・真言師どもなり」
 お堂の常駐者として選ばれたのはただの僧侶ではなかったようである。「持経者」は法華経だから天台宗、「真言師」は真言宗の関係者ということだろうか。実資も他の平安時代の貴族たちと同様に、深く仏教に帰依して、ことあるたびにお寺に参ったり、高僧を招いたりしている姿が、『小右記』に表れているが、一部は小野宮第内のこのお堂に滞在していたのかもしれない。

「これに夏冬の法服を賜び、供料をあて賜びて、わが滅罪生善の祈、また姫君の御息災を祈りたまふ」
 お坊さんたちに、さまざまなものを与えて、自分のことだけでなく、娘の姫君の息災を祈るのは、子供に恵まれず、この「かくや姫」の前に、女児を亡くしている実資にとっては必然だったのだろう。
 この後に、小野宮の造営が長く続き、毎日七、八人の大工が仕事をしていたと続くのだが、この人数は多いのだろうか。七、八人で仕事をしていたから造営が長く続いたということなのかと、穿ったことを言いたくもなるが、小野宮が東大寺と並べて工事が絶えない場所だと書かれていることを考えると、財産にあかせて造営を続けていると考えたほうがよさそうである。

「祖父おほいどのの、とりわきたまひししるしはおはする人なり」
 祖父実頼が、実資を特別扱いしたのもわかるということなのだろうけど、資産を使って邸宅を造営することがその理由になるのだろうか。どこかの説話集に、実資の家が火事になったときに自然の摂理に逆らってはいけないとか何とか言って、消そうともせず燃えるままに全焼させたという話があったが、それと関係するのだろうか。
 更にわからないのが、これに続く最後の部分で、「今の伯耆守資頼と聞こゆめるは、姫君の御一つ腹にあらず」というのだが、伯耆守資頼は、懐平の子で、資平と同じく実資の養子となっていた人物である。だから姫君が、「かくや姫」を指すのであれば、「御一つ腹」ではないというのは、当然のことなのだけど。伯耆守資頼には任期中に解任されたとかいう話もあるので、資頼に対する非難としてこんなことが書かれているのかもしれない。やはり注釈がほしい。

 とまれ、『小右記』の読破した部分にはこのお堂に関する記事はなかったと思うのだが、未読の後半部分に何か出てこないか、さっと目を通してみることにしよう。
5月8日22時。
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