2016年05月14日
永祚二年七月の実資1上旬(五月十一日)
『大鏡』の文章を読むのにちょっと疲れたので、『小右記』の本文を読むことにする。永祚二年の七月を選んだのは、覗き見趣味的で申し訳ないが、実資の女児が亡くなるところだからである。いかにこの娘を心配し、いかに仏教に、僧侶たちに頼っていたのか、平安時代の貴族の生活の一面が覗けるはずである。原文ではなく、書き下し文にした状態で引用する。大日本古記録版の『小右記』(岩波書店)を利用して書き下したが、現在では東京大学史料編纂所が提供している古記録データベースに、大日本古記録版が画像データとして収録されている。
この年の底本は、九条本と呼ばれる奥書に江戸時代の摂政九条道房の書名のある写本で、「右大臣実資公記」と題されている。
この七月は、一日から三日までは記事がなく、四日から始まる。二日には、関白だった藤原兼家が没しているはずだが、その件に関する記録がないのは残念である。
四日、丁丑、早朝二条院に参る、弔を摂政に奉る、左大将、右金吾、即ち帰る、□晩景皇太后宮に参る、大進時明朝臣と相ひ遭ふ、事の由を啓す、仰事有り、 女小児今日より悩み煩ふ事有り、
二条院というのが兼家が関白の地位を息子の道隆に譲った後に出家して住んでいた別宅で、実資は弔いを述べに出かけたのである。その後、夕方になって兼家の娘である皇太后宮詮子の許へ向かっている。末尾に、女の子が今日病気で苦しみ始めたことが記される。
五日、戊寅、祇園の明能師来る、小児の病に祈り申さしむ、力無きこと殊に甚し、痢病数十箇度、寸身の熱きこと火の如し、心は迷ひ惑ふ、覚縁師を以て祈願を致さしむ、今日師を請ひて善を修め了んぬ、出次遣□ 元寿阿闍梨を□て修めしめ了んぬ、
この日は、娘の病気のことしか書かれていない。「力無きこと殊に甚し」が、明能の法力のなさに対する批判なのか、娘が病で力なく横たわっていることを示すのか、どちらだろうか。前者のような気もする。病状は、「痢病数十箇度、寸身の熱きこと火の如し」、つまり下痢を数十度も繰り返し、小さな体は火のように熱いというのだろう。「心は迷ひ惑ふ」というのは意識がはっきりしていないということか。お医者さんなら、これらの記述からある程度病気が推測できるのだろうけど、赤痢ぐらいしか思いつかない。平安時代からあったのかね。
覚縁師、元寿阿闍梨を呼んだのは、明能だけでは頼りにならなかったからか。病気治癒のために、治療ではなく、願を立てたり善を修めたりすることが記録されるのが、平安時代たるゆえんだろうか。医事を掌る典薬寮なんて役所もあったはずなのだけど。
六日、己卯、小児の病極めて重し、他の事に非ず、痢病数々敢て留むべからず、種々の大願を立つ、兼ねて内外に祈を致す、元寿阿闍梨をして小児に法名を授けしむ(薬延、広隆寺に寄せ奉る)、兼ねて彼の阿闍梨に預けて等身の薬師仏を造り奉るの願を立つ、夜に入りて義蔵阿闍梨、覚縁上人来訪す、蔵闍梨を以て願書を読ましむ、兼ねて祈願を致す、覚縁師を以て加持せしむ、
病気が更に重くなっている。治癒のためにするのは、またしても「大願を立つ」ということだが、「これこれをするから、娘の病気を治してほしい」ということだろうか。そして、死を覚悟したのか、これも病気治癒の祈りの一環なのか、法名を付けさせている。「薬延」というのが法名か。広隆寺は秦氏の氏寺だけど、薬師如来が本尊となっていたらしいから、等身大のものを作るという「薬師仏」や法名の「薬延」との関連でこの寺が選ばれたのだろう。
義蔵阿闍梨なんて人も出てきたが、とにかく多くの縁のある高位の僧侶を呼んで娘のために加持祈祷をさせている。願掛けの内容を記した「願書」を読むのも、普通の人よりも高僧のほうが効果があるということだろうか。
七日、庚辰、小児の悩む所極めて重し、内外に大願を立て彼の児の用うる所の銀器等を捨つ、内外に祈を致す、済救、叡増の両人を以て両壇に善を修めしむ、今夜法橋「然来りて祈る、覚縁来りて加持す、小児の痢は無数にして起居の難きこと甚し、児の枕上に於いて平実師をして千巻の金剛般若経を読み始めしむ、炎魔天を顕し奉る、今夜奉平を以て招魂祭を行はしむ、
最初は六日とほぼ同じ。興味を引くのは、「彼の児の用うる所の銀器等を捨つ」で、病気平癒の願掛けの一環として、病人の日頃使っている物、特に高価な物を捨てるという風習があったのだろう。これまでの身の回りの世界を捨てて、新しく生まれ変わるという意味もこめられているのかもしれない。
「然は宋に渡ったことでも知られる当時の東大寺の別当。この人の祈りも覚縁の加持も、効果が現れないので、平実師に「千巻の金剛般若経」を読み始めさせたというのは、千巻もあるので、一二日では終わらないのだろう。それに、「平実師」は、どこできるかが問題だけど、「平実」という僧の名前だとしておこう。
子供の枕許で行わせた招魂祭は、体から離れかけた魂、もしくは離れてそのあたりをさまよっている魂を体に呼び戻すための儀式。奉平は陰陽寮の役人だろうか。これだけたくさんの僧を呼んで、さまざまに祈らせ、願掛けをし、儀式を行わせても、娘の病は快方には向かわないのである。
八日、辛巳、法橋今夜も同じく来りて祈祷を致す、兼ねて大願を立てしむ、児の病□重し、心神を失ふ、陳泰朝臣をして鬼気祭を行はしむ、晴空来りて加持す、義蔵闍梨易筮して云ふ、病の重きに至ると雖も、更に巨害は無きか、又た一両の祟有り、七月節の寅申の日に平愈を得るか、兼ねて忌み慎むべし、てへり、
この日も病状はよくならない。「心神を失ふ」は意識不明になるということだろう。前日の招魂祭に続いて、この日は「鬼気祭」を行う。これは、病を鬼=悪霊がもたらしたものと考え、それを調伏するための儀式である。そして、義蔵が筮竹を使って占いをして言ったのは、「病気は重くなるだろうけれども、特に大きな害はなさそうだ(=死なないということ?)。一つ、二つ何かのたたりがあるようである。七月の寅か申の日に治るのではないか」というようなことである。占いなんて当たらないものだけれども、実資としてはすがってしまうのだろうなあ。
九日、壬午、今夜入道殿の御葬送、と云々、
今日より四个日は氏の物忌なり、仍て他行せず、元寿闍梨をして種々の大願を立て申さしむ、小児の病殊に重きに依る、今夜半許り小児已に不覚たり、仍て五戒を授けしむ、元寿を以て戒師と為す、用うる所の銀器を以て皆な仏界に捨つ、又た同じく枕上に釼を捨つ、櫛筥を以て諷誦を修む(清水寺)、夜中に使を差して慶円律師の許に遣はし、中堂に祈り申さしむ、又た願書も遣はすなり、
入道殿、つまり先の関白兼家の葬送があったのに、「と云々」と書かれているということは、サボって参列していないということだ。一応、今日から四日間は氏の物忌の日だからあえて外には出なかったという言い訳が書いてあるけれども、どう見ても娘を心配するあまりどこにもいけなかったとしか思えない。
夜半に不覚、つまり意識を失ったため、「五戒を授け」させたというから、元寿の弟子として出家させたということだろうか。ただ「五戒」というのは、仏教の在家信者が守るべき戒律だから、ただの信者になったということか。これも病気平癒のためなのか、死後の幸福を祈ってなのか微妙なところである。
七日にもあった使っていたものを捨てるのは。今回は「仏界」に捨てると書いてあるので、お寺に奉納したということだろう。「櫛筥」を奉納した清水寺で「諷誦を修」めさせている。また、実資のおじに当たるとも言われる「慶円律師」は、後に天台座主になった人なので、ここの「中堂」は、延暦寺のものを指すと考えてよさそうだ。
十日、癸未、暁更に及び小児蘇生す、余自ら種々の祈を致す、頗る神感有り、又た済救、叡増両師霊気を両女に駈け移す、従父弟に假を三个日請ふ、晩景児女重く悩む、慶縁師をして加持せしむ、
明け方になって娘が蘇生したのは、「余自ら種々の祈を致」したのが、「頗る神感」があったのだという。各地の僧侶たちに祈祷などをさせるだけでなく、実資自身もさまざまな願掛けをして、お祈りをして娘の平癒回復を祈り続けていたのだろう。ただ、この後の部分でよくわからないのが、「両女」と「従父弟」が誰を指すのかである。状況から「霊気を」「駈け移」されたのは、実資の娘だと思われるのだが、「両女」では二人いることになってしまう。「従父弟」は普通に考えれば父方の従弟のことだが、実父を基準に考えて、公任あたりと考えておくのが無難だろうか。養父の実頼を基準に考えると、兼通、兼家はすでに没しているし、為光だとは思いたくない。
すでに長くなりすぎたので、今日の分はここまでにして、中旬以降は後日掲げることにする。しかし、平安時代の貴族というものは、子供のために、皆ここまでしたのだろうか。
5月12日13時。
正直な話、現代語訳はあまりほしくない。原文と書き下し文、それに語注がついていれば十分なのだけど。5月13日追記。
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