2016年05月19日
永祚二年七月の実資3下旬(五月十六日)
本日は、最近時間がかかりすぎていて、翌日どころか、翌々日の投稿直前にけりをつけるという自転車操業状態に陥っていて、このままだと題名の後ろの日付が、有名無実になってしまうので、その調整のために、本日分は短く簡単に済ますことにする。
廿一日、甲午、内方今夕方を違ふるが為に室町に忌み度る、明旦帰る、扶公師、真喜僧都の使と為りて来り向ふ、相ひ遇ひて清談す、
実資の奥さんが方違えのために室町に出かけたという。この奥さんが亡くなった娘の母親に当たる人なのかはわからない。
廿二日、乙未、藤中納言、春宮大夫各々使を差して弔ふ有り、式部権大輔輔正、明杲已講等弔に来る、夜に入りて右大弁来る、立ち乍ら相ひ逢ふ、兼澄朝臣来る、
厳殷師来る、今明枕上に於いて祈願すべきの由を相ひ示し了んぬ、
弔問が数は減っているが、続く。厳殷に枕上での祈願をさせるのは、娘の死に関係するのだろうか。
廿四日、丁酉、六条大納言、公忠朝臣を使はし之を弔送らる、時明朝臣(藤)来る、明杲已講来りて談ず、
廿五日、戊戌、信慶律師、前備前守理兼朝臣弔に来る、立ち乍ら相ひ遇ふ、明順朝臣来る、大外記致時朝臣云ふ、去ぬる廿二日開闢あり、と云々、
この二日は特筆すべきことはない。出仕していないので、弔問以外のことはあまり記事がなく、あっても伝聞になってしまっている。
廿九日、壬寅、昨日左大臣陣に於いて正清朝臣を以て摂津守に任ぜらる(春宮亮は元の如し)、又た僧綱の宣旨を下さる、と云々、僧都は清胤、律師は観修、景斉朝臣来りて云ふ、摂政命じて云ふ、重き喪の人は此の如きの人を弔はず、仍て指たる消息無し、憂歎の由、返す返す悲と為す、てへり、右兵衛督、博通を使はし之を弔はる、式部卿宮、守正朝臣を使はし弔はるる有り、と云々、
この日も伝聞で、宮中での出来事が語られるが、特筆すべきは何よりも摂政道隆の言葉であろう。父を亡くして「重き喪」中の自分は、同じように重き喪に服している実資を弔うようなことはしないのが普通だという。そして、「憂歎の由、返す返す悲と為す」という嘆きの言葉を伝えさせたということか。使いとしてやってきた藤原景斉は、娘を道隆の息子隆家の妻にしているところから、道隆を祖とする中関白家と関係の深かった人だと思われる。
この後、八月に入ると娘関係の記事は減っていくが、それでも三七日(死後二十一日目)、七七日(四十九日)の法要をはじめ、年末まで、娘の菩提を弔う法会を繰り返している。次回は、そんな娘関係の記事の抜粋をしてみよう。
5月17日18時。
昨夜、投稿するのを忘れて寝てしまった。朝になって慌てて投稿。5月19日追記。
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