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2016年05月11日

フクバルディ(五月八日)



 チェコの音楽家というと、まず『我が祖国』で有名なスメタナ、『新世界より』のドボジャークの名前が思い浮かぶ。最近はそれに、ヤナーチェクとマルティヌーが加えられることが多い。この中で、我がモラビアの作曲家となるとヤナーチェクをおいて他にはいない。スメタナとマルティヌーは、それぞれリトミシュルとポリチカという町の出身で、オロモウツからも、それほど遠くないとはいえ、電車で行くのは大変だし、モラビアとの境界近くではあるけれども、地域としては東ボヘミアに属するのだ。
 そのモラビアの作曲家ヤナーチェクの出身地が、フクバルディという小さな村である。ベスキディの山の中にあるこの村には、ヤナーチェクの記念館もあるのだが、交通の便があまりよくなく、よほど熱心なファンでないと行けない場所になっているのが残念である。サマースクールの週末のイベントで出かけたときには、小ぢんまりとした建物の中に、たくさんの学生が入るのが申し訳ないぐらいだった。
 ヤナーチェクの作品というと、何を思い浮かべるだろうか。「内緒の手紙」「シンフォニエッタ」「イェヌーファ」などなど、数多くの名作の中から選ぶのは大変かもしれない。でも、子供たちに選ばせたら、アニメーション化もされたオペラ「利口な女狐の物語」が選ばれるに違いない。ちなみに、子供に限らないのか、フクバルディの村の紋章にもキツネのシルエットが使われている。

 また、フクバルディの村の後ろにそびえる丘を登っていく散歩道の途中には、女狐の像が石の上に据えつけられている。顔の鼻の部分や尻尾の部分などが、金色に光っているのは多くの人に触られた結果だろう。現在のこの女狐の像は、残念ながら私が十年以上前にフクバルディに出かけたときのものとは、同じものではない。何年か前に何者かによって盗まれるという事件が起こったのだ。
 おそらく、芸術作品としての価値を求めてではなく、金属素材として売るために盗んだのだろうと言われている。チェコでは、いろいろなものが盗まれて金属素材として売られていく。高速道路の脇に建てられた防音壁に設置された緊急避難用のドア、道路のマンホールのふたなどなど。盗んで売るほうも悪いけれども、そういうものを誰からでも黙って買い取る業者が悪いという考え方もあって、以前は何の制限もなかった金属の買取を、身分証明書を提示してからしかできなくするなどの対策はとられているようである。今後は、使用されなくなって放置された工場などの建物の中で、使用された鉄筋を盗もうとして壁が倒れたり床が落ちたりして亡くなる人が出たり、鉄道の安全システム用のケーブルや線路のレールなどが盗まれて、電車が運休になったりするという事態は起こらないと信じたいところである。

 さて、この女狐の像のある丘の上には、大きな城跡がある。この近辺で言うとベチバ川沿いの高台の上にそびえていたヘルフシュティーンの城と並んで大きな中世の城である。重要な通商ルートでもあったオドラ川から支流を少しさかのぼったところにあるこのお城は、モラビア防衛のための重要な拠点だったはずである。記録によれば、すでに十三世紀の後半にはこの地に城があったことが確認できるという。
 この城は頻繁に売買されたために、所有者もころころ変わっているようで、一時期はフス派のチェコ人王ボデブラディのイジーのものであったこともあるらしい。十六世には、オロモウツの司教の手に入って、国有化されるまではその資産だったというから、オロモウツ在住の身としては、縁があるようで嬉しい。チェコ全土に大きな爪あとを残した三十年戦争中は、数回にわたってスウェーデン軍など新教側の攻撃を受けたが、すべて跳ね返すことに成功したという。
 そんな強固な城が現在の破壊された姿をさらしているのは、戦争が原因ではなく、1762年10月5日に起こった大火事が原因で、その後再建されることはなかったらしい。城に住んでこのあたりの領地を治めていた代官に問題のある人がいて云々という伝説をお城の見学をしたときに聞いたような記憶もあるので、失火ではなく放火だったのかもしれない。

 現在では、城の再建はされていないが、部分的に修復が加えられ、城壁や建物の壁などが往時の勇壮さを忍ばせている。城内の一部を利用して、舞台と客席が設置されコンサートなどが行われる半分屋外の演劇ホールのような施設も作られている。城の周りの丘は自然公園のようになっていて、その中にも屋外演劇場があり、「ヤナーチェクのフクバルディ」と題された音楽祭の会場になっている。イバ・ビトバーの写真もあるから、クラシックだけでなく民族音楽のコンサートもあるのかな。ヤナーチェク自身が、モラビアの民族音楽を取り入れて作曲したなんて言われることを考えれば必然なのか。

 念のために、オロモウツからフクバルディの接続を調べてみたら、一回の乗換えで行けるものが二つあった。一度フリーデク・ミーステクかプシーボルに行く必要があるようだ。時間は二時間十分と十八分。うーん、プラハ行くほうが早いなあ。そうすると宿泊も、このどちらかの町のほうがいいのかな。
5月10日0時


いつものようにホテルの確認をすると、フクバルディにもホテルは二軒出てきた。でも、5キロほど離れたプシーボルか、コプシブニツェのほうがあれこれ選択肢が広そう。フロイトの出身地であるプシーボルがドイツ語で「フライベルク」というのは知らなかった。普通は両方の言葉で名前が似ているのだけど、ここはぜんぜん違うなあ。5月10日追記。




2016年05月10日

『大鏡』の実資2(五月七日)



 『大鏡』では、一昨日の実資とその娘についての記事の後に、小野宮家の邸宅についての記事が続いている。
 まず、「かの殿は、いみじき隠り徳人にぞおはします」ということで、実資は意外なことに資産家だったのである。「隠り」とあるから、あまり知られていなかったということだろう。道長の九条流には、金持ちのイメージがあって、小野宮流は、逆に清貧という言葉が似合うと思っていたが、そうでもなかったらしい。ただ小野宮流でも、実資のいとこの公任には、軽薄なお金持ちの坊ちゃんという役柄が似合いそうである。
 この後、小野宮流の始祖実頼の宝物や荘園を実資が、受け継いだことと、その邸宅である小野宮第の素晴らしさが語られる。
「辰巳の方に三間四面の御堂たてられて、廻廊は皆、供僧の房にせられたり」
 敷地の辰巳の部分に、お堂が建てられていたらしい。そのお堂は、「三間四面」というから、横幅と奥行きが、「三間」の大きな建物だったようだ。このころの「間」は、長さの単位というよりは、柱と柱の間の部分を指す言葉だったので、各面に柱と柱の間が三つある、つまり両端の建物の角にある柱の間に、二本の柱があったということか。三十三間堂の場合は、約121メートルという話だから、その十一分の一で、約十一メートル四方の建物だったと解釈しておこう。僧房も作られていたようだから、常駐する僧がいたということか。

「湯屋に大きなる鼎二つ塗り据ゑられて、煙立たぬ日なし」
 実資の邸宅のお堂では、平安時代でありながら毎日お湯を沸かしていたというわけだ。仏教寺院のこの斎戒沐浴のための湯屋、湯殿というものが、今日の日本人のお風呂好きにつながっていくのだろうが、僧侶達はともかく、実資たち貴族がどのぐらい頻繁に入浴していたのかはわからない。ただ、その気になれば、毎日入浴できたということは言えそうである。
 昔、古典文学に言う「緑の黒髪」というのは、髪を非常に長く伸ばしているのに、あまりお風呂に入れなかったから、カビだとかコケだとかで本当に緑色だったんじゃないかなんてことを言う奴がいたけれども、小野宮流ではそんなことはなさそうである。落ちぶれた貧乏貴族ならありそうだけど、同時に、必要ならどこかのお寺でお湯を使わせてもらえたんじゃないかという気もする。

 この後は、お堂の中に、金の仏像がたくさんあるとか、供え物としてのお米が三十石とか実資がこのお堂にお金をつぎ込んでいることが書かれ、母屋である寝殿から、続く道の様子、池を渡って船で行くこともできたと言うことが記される。野原のように四季折々の花やもみじが植えられていて美しかったらしい。
「住僧にはやむごとなき智者、あるいは持経者・真言師どもなり」
 お堂の常駐者として選ばれたのはただの僧侶ではなかったようである。「持経者」は法華経だから天台宗、「真言師」は真言宗の関係者ということだろうか。実資も他の平安時代の貴族たちと同様に、深く仏教に帰依して、ことあるたびにお寺に参ったり、高僧を招いたりしている姿が、『小右記』に表れているが、一部は小野宮第内のこのお堂に滞在していたのかもしれない。

「これに夏冬の法服を賜び、供料をあて賜びて、わが滅罪生善の祈、また姫君の御息災を祈りたまふ」
 お坊さんたちに、さまざまなものを与えて、自分のことだけでなく、娘の姫君の息災を祈るのは、子供に恵まれず、この「かくや姫」の前に、女児を亡くしている実資にとっては必然だったのだろう。
 この後に、小野宮の造営が長く続き、毎日七、八人の大工が仕事をしていたと続くのだが、この人数は多いのだろうか。七、八人で仕事をしていたから造営が長く続いたということなのかと、穿ったことを言いたくもなるが、小野宮が東大寺と並べて工事が絶えない場所だと書かれていることを考えると、財産にあかせて造営を続けていると考えたほうがよさそうである。

「祖父おほいどのの、とりわきたまひししるしはおはする人なり」
 祖父実頼が、実資を特別扱いしたのもわかるということなのだろうけど、資産を使って邸宅を造営することがその理由になるのだろうか。どこかの説話集に、実資の家が火事になったときに自然の摂理に逆らってはいけないとか何とか言って、消そうともせず燃えるままに全焼させたという話があったが、それと関係するのだろうか。
 更にわからないのが、これに続く最後の部分で、「今の伯耆守資頼と聞こゆめるは、姫君の御一つ腹にあらず」というのだが、伯耆守資頼は、懐平の子で、資平と同じく実資の養子となっていた人物である。だから姫君が、「かくや姫」を指すのであれば、「御一つ腹」ではないというのは、当然のことなのだけど。伯耆守資頼には任期中に解任されたとかいう話もあるので、資頼に対する非難としてこんなことが書かれているのかもしれない。やはり注釈がほしい。

 とまれ、『小右記』の読破した部分にはこのお堂に関する記事はなかったと思うのだが、未読の後半部分に何か出てこないか、さっと目を通してみることにしよう。
5月8日22時。

2016年05月09日

方言の思い出――日本語版(五月六日)



 子供の頃、今から考えると笑い話だが、方言丸出しで話していながら、自分たちは標準語(嫌な言葉だ)で話していると思っていた。自分も含めて日本中の人が、テレビに出てくる役者やアナウンサーと自分たちは同じ話し方をしていると思っていたのだ。

 方言というものを始めて意識したのは、小学校の四年生だったか、五年生だったか、国語の授業で方言についての文章を読んだときのことだ。確か、大阪では、捨てるのことを「ほかす」と言い、他にも「投げる」なんて言い方をするところもあるという話だった。そして、「しあさって」「やなあさって」「ごあさって」などという言葉があって、地方によって指す日が違うことがあるので、お互いに方言で話して予定を立てるとあえないかもしれないよという落ちだっただろうか。我が田舎では「しあさって」しか使わなかったので、「し」の後の「ごあさって」はともかく、「やなあさって」というのは変な言葉だと思ったのを覚えている。
 それから、同じころに、熊本から来た転校生に声をかけたら、「なんば?」と言われて、驚きのあまり反応できなくなったのも忘れられない。一瞬の硬直の後、大笑いしてしまって、その人を怒らせてしまったのだが、突然知らない言葉が飛んできた衝撃は、それほど大きかったのだ。同じ県内からの転校生の場合には、気くほどの言葉の違いはなかったのだけど。

 高校生で北海道まで出かけたときには、途中の東北地方で、電車の中で話しかけてきてくれた地元のお年寄りの人たちの話がわからなかったのが、ちょっとショックだった。最大のショックは、北海道でバスに乗ったときに聞こえてきた「ばくる」という言葉だったのだけど。地元の高校生ぐらいの女の子たちが、それまではごく普通のよその人間にもある程度わかる言葉で話していたのに、突然「ばくろうか」という言葉が聞こえてきた。前後の文脈から、場所を「交換しようか」という意味であることはわかったが、それが方言なのか、聞き間違いなのかはわからなかった。見ず知らずの女の子に声をかけて質問するような度胸はなかったし。
 その答がわかったのは、大学に入って、北海道出身の先輩と知り合ってからだ。その先輩は、「ばくる」の意味が「交換する」で正しいことを証明してくれただけでなく、「はんかくさい」という美しい方言も教えてくれた。北海道では、「バカ」に非常に強い意味があるために、気軽に使えない言葉になっていて、その代わりに「はんかくさい」を使うのだという。

 大学時代に、科学万博を記念した施設を見学するために筑波に出かけたことがある。八十年代に中高生だった我々の世代にとっては、万博と言えば、大阪でも愛知でもなく、筑波なのだ。だから、東京の大学に通えることになった以上、筑波を訪れるのは必然であった。見学が終わって記念に何かお土産を買おうとして、記念館の受付の女性と話していたときだったと思う。裏から近所の農家のおじさんみたいな人が出てきて、二人で話を始めたのだが、それが、さっぱりわからなかったのだ。さっきまで、普通にしゃべっていた女性も、急に別人のような話しかたになっていた。
 筑波のある茨城県は東京から近いのだから、方言なんてあっても東京のことばと大きくは違わないだろうと思っていたのだが、そんなことはなかったらしい。荒っぽいしゃべり方で早口で、しかも急に離し方が変わったせいでついていけなかっただけなのかもしれない。そんな話を茨城出身の同輩にしたら、北関東は東北の入り口だからなどと、わかるような、わからないような返事が返ってきた。

 それで、方言に関する本も読むようになっていくのだが、正直あまり感心するようなものはなかった。一体に、国語学の本や論文で、読んだかいがあったと思えるのは、ほとんどが古文を対象にしたもので、現代日本語を対象にしたものは、途中で投げ出さずに最後まで読み通せれば御の字なのだから方言関係の本にも過度の期待をしてはいけなかったのだ。
 そんな方言関係の本の中で例外的に感動してしまったのが、『全国アホ・バカ分布考』である。本来はテレビ番組の企画から始まったらしい調査が、大部の本にまとめられ、読みやすい文章でどのような経過で調査が進められ、どんな結果が出たのかが語られる。北海道の「はんかくさい」に関しては、どうして北海道で使われるようになったのかの推測までされている。一番の収穫は、柳田國男によって唱えられた方言周圏論が、特殊な言葉にのみ成立するのではなく、ある種類の言葉に関しては一般的に成立しうることを証明したことだろう。名詞よりも形容詞的な意味を持つ言葉の場合に、周圏論敵に方言が広がっているというのである。

 全国放送を行うテレビが広く普及してからかなりの時間が経ち、仕事などの関係で田舎を離れて生活する人の多い現代の日本で、これだけ方言が維持されているのは素晴らしいことである。かつての方言撲滅運動なんてものが、完全にはうまく行かなかったのは僥倖としか言いようがない。おそらく今後も、時代と共に消えていく方言独特の言葉もあることだろう。それでも、日本中の人が、地元の人同士で話すときまで、まったく同じ言葉を使うなんて味気ないことにはならないと信じたい。
 そうか、チェコ語の「プツレ」などの言葉も、方言だと考えると許せるようになる、のかなあ。
5月7日23時。



 方言に興味のある人にとって、この本は必読。5月8日追記。


全国アホ・バカ分布考 [ 松本修 ]




posted by olomoučan at 07:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本語

2016年05月08日

『大鏡』の実資1(五月五日)



 『小右記』関係の下書きということで、今回は実資に関して、歴史物語の『大鏡』でどんなことが書かれているのかをメモしておく。原文をどうするか悩んでいるのだけれども、どうしよう。引用する場合には、自分でちまちま入力はしていられないので、駒澤大学総合教育研究部日本文化部門 「情報言語学研究室」のホームページに公開されているテキストデータから引く。

 「斎敏の子孫実資、かくや姫をかしずく」と題された部分では、まず父斎敏(ただとし)が、実頼の長子敦敏と同腹の弟で、右衛門督まで出世したことが語られる。そして、播磨守藤原尹文の娘との間に三人の息子を設け、長男が太宰大弐で亡くなった高遠で、次男は懐平といって中納言・右衛門にまで昇ったという。ここで三男の実資に行く前に、懐平の息子たちについて語られる。曰く、右兵衛督の経通、侍従宰相と呼ばれ現在は皇太后宮権大夫を務める資平であるという。ここでは資平が実資の養子になっていることは書かれていない。
 次に実資について、祖父の「小野宮のおとど」、つまり実頼の養子になったことが記され、「実資」と命名してかわいがったのだけど、「実資」の「実」は、祖父実頼の「実」だというぐらいに賢ぶる子だったので、幼名は「大学丸」と付けられたのだという。幼名が先につけられるものだと思っていたのだが違うのだろうか。

 ここまでは、『大鏡』に新しい重要な人物が出てくるときになされる人物紹介のようなもので、系譜などが簡単に記された部分である。ここから、具体的な実資の話が始まる。まず、その「大学丸」と呼ばれた子供が、今の小野宮の右大臣という高貴な立場になっていることが語られる。次はちょっと原文を入れてみよう。
「このおとどの、御子なき嘆きをしたまひて、わが御甥の資平の宰相を養ひたまふめり」
 実資は子供がいなことを嘆いていて、甥の資平を養子にしたというわけである。

「宮仕人を思しける腹に出でおはしたる男子は、法師にて、内供良円君とておはす」
 宮中に仕えていた(と思われる)人との間にできた男の子は、現在お坊さんになっていて良円という名前である。この良円は、『小右記』に何度か登場していたと記憶する。出家したのは本人の希望だったのか、実資が出家させたのかはわからない。ちなみに増補史料大成版の『小右記』の改題において矢野太郎氏は、良円のことを実資ではなく、懐平の息子であるとしている。

「女房を召しつかひたまひけるほどに、おのづから生まれたまへりける女君、かくや姫とぞ申しける」
 女房を召し使っているうちに自然に生まれた女子を「かくや姫」という。濁音は表記されないことも多かったから、実資は生まれた娘に「かぐや姫」と名付けていたようである。「おのづから」生まれるというのも、なんか不思議な表現である。

「この母は頼忠の宰相の乳母子」
 娘の母にあたる女性は、実資の伯父であり、兄でもあり、また仕事上の上司でもあった頼忠の乳母の子供だというのだけど、この乳母は誰、いや誰の娘、もしくは奥さんだったんだろう。

 次に実資の北の方、つまり正妻についての情報が書かれる。
「北の方は、花山院の女御、為平式部卿の御女」
 実資の北の方は、花山院が出家する前に後宮に女御として入っていた女性で、為平式部卿の娘である。為平式部卿は、村上天皇の皇子で為平親王のこと。その娘の婉子女王は、花山天皇の後宮に女御として入ったらしい。

「院そむかせたまひて、道信の中将も懸想し申したまふに、この殿まゐりたまひにけるを聞きて、中将の聞こえたまひしぞかし」
 花山院が出家したのは、婉子女王が入内してからほぼ半年後のことである。その後、藤原道信も女王に思いを寄せたけれども、この殿(実資)が女王のもとに通っているという話を聞いて、道信が差し上げた歌が次の歌である。

「うれしきはいかばかりかは思ふらむ憂きは身にしむ心地こそすれ」
 この歌を差し上げた甲斐もなく、「この女御、殿にさぶらひたまひしなり」ということになる。歌のうまさで実資が勝てるはずはないから、実資の正室になってくれたのは別の理由になるのだろう。小野宮家の家産なのか、実資の能力の高さなのか。

 この後はまた話が娘に戻って、娘が千日講という仏教行事を行ったことが語られ、娘についての説明が続く。
「祐家中納言の上の母なり。兼頼の中納言北の方にてうせたまひにき」
 祐家中納言の妻の母親だというから、わかりやすく言えば、実資の娘の娘が、祐家中納言の妻になったということであろう。この人は道長の孫に当たる藤原祐家なのかな。世代が一つ会わないような気もする。そして実資の娘は藤原兼頼の妻として亡くなったのである。この藤原兼頼は道長の孫に当たる人で、妻を通じて実資の小野宮家の資産を相続し、小野宮中納言と呼ばれた。これも増補史料大成版の改題によれば、実資の養子になっていたのではないかという。

「子かたくおほしましける族にや。これも、中宮の権大夫の上も、継子を養ひたまへる」
 子供が少ない一族ということだろうか。これが小野宮流を指すと考えてもいいのかな。中宮権大夫の妻も養子を育てていたということなのだけど、中宮権大夫が『大鏡』のほかの部分と同じで藤原能信だと考えていいのかどうかはわからない。藤原能信の妻が小野宮流の人かどうかの確認が必要である。注釈書がほしい。

「この女君を、小野宮の寝殿の東面に帳たてて、いみじうかしづき据ゑたてまつりたまふめり。いかなる人か御婿となりたまはむとすらむ」
 実資はこの女の子を、小野宮第で非常に大切に育てたということか。そんなに大事に育てている娘だから、誰がその娘の婿になるだろうかと人々の話題になったということだろうか。

 適当なところも多いけど、久しぶりに古文を原文で読んで、しかも注釈なしにしては、理解できた。理解できないのは、『大鏡』の書きぶりってこんなにわかりにくかったかということで、高校時代の古文の授業で読んだ部分は、読みやすかった記憶があるのだけど。考えてみれば、教材には読みやすい部分を使うから、読みやすかったのも当然か。
 最初ぱっと見たときに、思ったほどたくさんの情報は書かれていなかったし、理解にてこずった部分もあったけれども、古文を読むリハビリとしてはこんなものだろう。
5月6日23時。



 現代語訳と、解釈説明のやり方に統一性がないのはメモ書きみたいなものだからしかたがないと言い訳をしておく。5月7日追記。

2016年05月07日

チェコ宗教事情(五月四日)



 外国で、自分は無宗教だとか、宗教を信じていないなどと言ってはいけないというのは、八十年代の日本で、よく聞かれた言説であるが、チェコではチェコ人自身が無宗教ということも多く、無宗教だろうが、無神論だろうが、好きなように答えて何の問題もない。下手に仏教や神道を信じているなどと答えたほうが、あれこれ質問されて、大変かもしれない。もし、仏教や神道のことに詳かったとしても、語彙の関係上説明しきれなくなってしどろもどろになるのが落ちである。
 昔、電車の中でたまたま一緒になった人に、日本では仏教と神道の信者の数を合計すると人口よりも多くなるという話を聞いたんだけど、それは本当なのかと、質問されて、言葉を尽くして説明したけれども、あまりわかってもらえなかったことがある。仏教徒だとも神道の信者だとも言った覚えはないのだが、チェコ語の勉強をかねてがんばってみた。神社本庁とか、チェコ語で何て言えばいいんだろうなんて考えながらの説明だったから説得力を欠いたかな。
 チェコにキリスト教信者が少なく、無宗教だという人が多いのは、歴史的なことが関係している。ルターやカルビンの宗教改革に先んじて、キリスト教の腐敗を糾弾したヤン・フスを生んだこの国は、宗教にある意味で裏切られ続けてきた。フス派戦争と、その後の再カトリック化、三十年戦争で国土は荒廃し、信仰を理由に弾圧や追放を受けた人々も多かった。

 そして、二十世紀の宗教共産主義にも、1968年のプラハの春で完全に裏切られてしまい、多くの人々は、信じることに絶望してしまったのだと思う。信じるものを求めて、共産主義からキリスト教に宗旨替えした人もいるみたいだけれど。
 チェコ語の師匠から聞いた話だが、師匠のお母さんは、親からかなり大きな農地を相続して農業に従事していた。それが共産党が政権をとった後の国有化によって、その農地を没収されてしまった。国のやったこととはいえ、実行犯は同じ村に住む人たちで、中でも特に熱心な男がいたらしい。
 1989年のビロード革命の後、初めて行われた国会議員の選挙のときに、選挙管理委員として席に座っていたその男を見つけて、師匠のお母さんは、「何でお前みたいな共産党員がこんなところにいるんだ」と、激昂して掴みかかってしまったと言う。国有化と称して自分の農地を奪っていった男が、民主化後もえらそうにしているのが許せなかったらしい。
 師匠もそのときはお母さんと一緒にその男を非難してしまったけど、後で冷静になってからいろいろ調べてみたところ、熱心な、いや、熱狂的な共産党員で、共産党が政権を取った時期に指導的な立場にあったその男は、プラハの春を押しつぶすためにやってきたソ連軍に講義する運動に参加したため共産党を追放されていたらしい。そして、ビロード革命当時は、今度は熱心なキリスト教信者になっていて、指導的な立場にあったのが、師匠のお母さんには許せなかったわけだ。
 師匠は、その男は、本当に心の底から共産主義を信じていたから、ソ連軍がチェコにしたことを許せなかったんだろうねなんてことを言っていた。でも、私が気になったのは、むしろその男がキリスト教に鞍替えしたことで、いくら師匠の故郷にはモラビアでも最大の巡礼地となっている大きな教会があるとはいっても、当時弾圧されていたはずのキリスト教に、そうそう入信するものなのだろうか。

 それで、思い出したのが、どこまで事実なのかは知らないが、戦後のある時期の日本で、共産党の活動方針に絶望した共産党員の多くが創価学会に流れたという話だ。それが創価学会と共産党の血で血を洗うような闘争の原因の一つにもなっているというのだが、宗教と共産主義の親和性というか、共産主義というものが、いわゆる新興宗教と同じレベルでの選択肢の一つになっていたということなのだろう。共産主義政権下でのキリスト教も、一部の熱心な人々によってのみ支えられたという意味で、カルト化していたはずだし。
 EUが押し付けようとする「民主主義」も、総本山の恣意的な解釈による運用によって、単なるありがたいお題目と化している嫌いがある。民主主義を標榜するEUの、特に旧共産圏の新しい加盟国に対する振る舞いは、助成金という人質を取った上での恐喝に等しい。「助成金がほしかったら、この制度を導入しろ」という論理は、ひっくり返せば、「この制度を導入するなら補償金をよこせ」というどこかで聞いたことがあるような論理になってしまう。これが民主主義的なやり方だというなら、日本の文部省がやっていることも十分以上に民主的だよなあ。うん。

 数年前に中東から北アフリカにかけての地域で、民主化をお題目にした「アラブの春」なる運動が吹き荒れたが、その結果は参加者たちの望んでいたものとは大きくかけ離れているだろう。カダフィなどの独裁者を倒せたのはよかったにしても、その後の混乱した情勢で何の支援もなく放り出されたのを見ると、民主主義というものの無責任さ残酷さを見る思いがする。そしてもう一つ気になるのが、言葉自体が独り歩きし始めて、「民主主義」のためなら何をしてもかまわないというような考えがはびこり始めてはいないかということだ。
 かつては、共産主義というものの存在が民主主義を相対化して、民主主義が絶対的で普遍的な真理になるのを防いでいた。共産主義だって内実はともあれ、民主主義を標榜していたのだから、民主主義というものを絶対視することはためらわれた。そのかせが外れて四半世紀、EU的民主主義を相対化できるものが出てこないと、何だかとんでもない方向に世界が進んでいくのではないかと思われてならない。

5月5日16時30分。

 うーん。苦しかった。最後は無理やり結論みたいなものを取ってつけたけれども、久しぶりに考えが堂々巡りに入って、当初は想定していなかった方向に話が展開して着地し損なったという感じである。チェコの政教分離に話を持って行って、ヨーロッパ批判をするつもりだったのに、どうしてこうなったんだ? そもそも『小右記』について毎日書くのは時間がかかりすぎるから、簡単に書き上げられそうなテーマということで始めたのに、余計に時間がかかってしまった。今回もちょっと看板に偽りありである。5月6日追記。

 題名にはちょっと惹かれる。


EU消滅 [ 浜矩子 ]



posted by olomoučan at 07:06| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ

2016年05月06日

チェコ語における外来語と外国語の固有名詞(五月三日)



 件の日本語ぺらぺらのチェコ人をはじめ、日本語ができるチェコ人が時々ぼやくのが、日本語の外来語の多さ、わかりにくさである。外来語の多さには日本人であっても辟易することがあるし、意味不明なままに使われているものもある。でも、もわかりにくさとは何なのだろう。聞いてみると、英語から入った外来語は、日本語に取り入れられてカタカナ化される際に発音にずれが生じるため、日本語で見ても聞いても元の英語の言葉を思い浮かべることができないことが多いのだそうだ。その意味を聞いて納得はしても、どうしてカタカナでそう書くのか首をひねってしまうという。
 しかし、外来語、もしくは外国語の言葉の発音がめちゃくちゃだという意味では、チェコ語も日本語と大差ない。表記上は同じアルファベットを使うので、チェコ語化した外来語なのか、外国語をそのまま使っているのかわからず、目で見たときには意味はわかっても(わからないことも多いけど)、読み方がわからない。そして耳で聞くと、何だかさっぱりわからないこともままある。

 かなり昔の話だが、「プツレ」と言われて何のことかわからなかったことがある。聞き返したら、現物を指さしてくれ、見たらパズルだった。英語の“puzzle“をローマ字読みした上に、ドイツ語の影響で“z“を「ツ」と読むため、こんなよくわからない発音になってしまっているらしい。日本人でも英語の言葉をローマ字読みして、変な言葉にしてしまう人はいるけど、そういう人は間違いに気づいたら、深く恥じ入って、正しい、もしくは日本語で一般に使われているカタカナの読み方を使うようになる。それに対して、チェコの人は、みんなではないかも知れないが、堂々と「プツレ」を使い続けているのである。

 ドイツ語の発音の影響というのは意外に大きくて、日本の新幹線は、チェコ語でもそのまま使われるのだが、「シンカンセン」ではなく、「シンカンゼン」と言う人のほうが多い。チェコ語でもSをザジズゼゾで読むことがないわけではないが、新幹線は、チェコ語の発音のルールに従えば「シンカンセン」と読まれるべきなのである。人名のヨゼフが、表記上は「ヨセフ」と読むほうが自然なのに、「ヨゼフ」になるのも、ドイツ語の影響だと見ている。
 ドイツ語の読み方は日本語の表記上でも結構問題があって、語末のGを「ヒ」に近い音で読むことがあるのを、拡大解釈して、1980年代までは、ハイデルベルクが、「ハイデルベルヒ」と書かれた本もたくさんあった。Gが「ヒ」になるのは、たしか語末が“ig“で終わっていとき時ではなかったかな。だから、“ König“は「ケーニッヒ」と書くのが普通だけれども、“berg“は「ベルク」と書かれるはずである。ちなみに、チェコ語の名字の場合には、「ケーニッヒ」は、ドイツ語の影響などなく「ケーニク」と普通に読まれる。

 プツレの他にも、カプセルのことを「カプスレ」と言うし、アメリカ軍のミサイルについてのニュースで、「トマハフク」と言うのを聞いたときには、耳を疑った。チェコで「ハフ」というのは犬の鳴き声を現す擬声語なので、何でここで犬が出てくるのか、まったく理解できなかったのだ。いろいろ考えて、日本にいたころに名前を聞いたことのあるトマホークにたどり着いたときには、もう力なく笑うしかなかった。

 人名、地名にも悩まされる。チェコ語化した、もしくはチェコ語訳のある地名、人名についてはもはや何も言うまい。女性の名字に「オバー」がつくのももう慣れた。問題なのは、英語やフランス語などのアルファベットを見てもすぐには正しい読み方がわからないものを、チェコ語風の読み方にしてしまうことだ。
 イギリスの話をしているときに、「テチュロバー」という人名が出てきた。話の内容から、これはどうもサッチャー首相のことらしいと気づくまでには、かなりの時間を要した。英語の子音“th“を日本語では、サ行、ザ行で処理することが多いのに対して、チェコ語ではタ行で処理することが多い。また、英語独特のアとエの中間にあるあいまい母音を、日本人はアで聞き、チェコ人はエで聞く。それがわかっていてなお、「テチュロバー」からサッチャーを導くのは無理だった。もし、チェコ語で何の説明もなしに、サッチャー首相についての話を聞いて、誰のことかわかった人がいたら、心の底から尊敬する。
 フランス語の人名の場合には、末尾の発音しないはずの子音を発音することがあったのが問題だった。こちらは、カタカナで覚えているだけで、フランス語のつづりなど知らないから、余計な子音がついていると別の人名だと思ってしまう。最近は、ニュースなどでは、一格はフランス語の発音を優先して、発音しない子音は発音しなくなったけれども、格変化をすると、発音しない子音も発音した上で語尾をつけるので、例えば、一格はミッテランでも、二格ではミッテランダになってしまう。これも大分慣れてきたけど、とっさだと辛いものがある。

 最近、何かと話題に上ることの多いイギリスのレスターだが、チェコではどうも「リーチェスター」と読まれていることが多いような気がする。つづりを見たら書かれている通りに読んだだけだとわかるのだけど、最初は同じ地名を指しているとは思わなかった。まあイギリスの地名が名前の起源になったウスターソースも、チェコ語だと「ボルチェストロバー・オマーチカ」になるからなあ。
 この手の日本語のカタカナ地名からは想像しにくい地名としては、「エディンブルク」を挙げておこう。スコットランドの地名だとわかれば、気づく人も多いだろうが、エジンバラのことである。最初に耳にしたときには、ドイツの地名だと思ったんだけどね。

 日本語の場合、カタカナ表記をして原語の表記は使わないことが多いので、一度書き方が定着してしまうと、よほどのことがない限り読み方が変わることはない。チェコ語の場合には、原語の読み方に近い読み方をする人がいても、それを知らない人がチェコ語の発音のルールに従って、場合によってはドイツ語の影響と共に読むことで、チェコ語風の発音で定着することも多い。私は特に気にならないのだが、日本語では「ニューカッスル」と言われることの多い地名を、チェコ人がつづりにひかれて「ニューカットスル」と子音の“t“を発音するのが気に入らないと、うちのは言っている。
 原語のつづりがどうであれ、ある程度正しい発音を固定してくれるカタカナ表記というものは素晴らしいものである。ただ語学の教科書でカタカナでルビを振るのはどうなのかなあ。カタカナでは表記できない微妙な発音がカタカナで表記できる発音に変化して定着しそうな気がするんだけど。

 外国の言葉、地名などを使用するときの表記、発音に関する問題というのは、チェコ人たちが言うように日本語にもあるから、「だからチェコ語は」などと言っても、目くそ鼻くそのレベルの非難のしあいになってしまうけど、外国語を勉強する人間にとっては、その言葉における外来語、もしくは外国の人名、地名というものが、運用の上で一つの大きな壁になるのは、何語を勉強するのであれ、同じなのだろう。
5月4日18時。


 お、なんか久しぶりに真面目な題名になっているような気がする。これはちょっと読んでみたいかも。5月5日追記。



世界の〈外来語〉の諸相 [ 国立国語研究所 ]


2016年05月05日

小野宮流(五月二日)



 一昨日の続きで、『小右記』関係の覚書のようなものである。

 藤原氏は、大化の改新で功績のあった中臣鎌足が臨終の際に、藤原という新しい姓を賜ったことに始まる。当初は中臣氏はすべて、藤原氏へと改姓したが、鎌足の子孫以外は中臣に復姓することとなった。これは、中臣氏が忌部氏と共に神祇を掌る家柄であり、現実の政治を掌る藤原氏と職掌を分ける必要があったためだとも言われる。その後、藤原氏の後ろ盾を得た中臣氏は、忌部氏を圧倒して、朝廷の神祇、祭祀を独占するようになり、一部は大中臣氏を名乗ることを許される。
 奈良時代には、鎌足の息子である不比等の四人の子供たちが政権で重きをなし、それぞれ藤原四家と呼ばれる家の始祖となる。すなわち、長男武智麻呂が南家、次男房前が北家、三男宇合が式家、四男麻呂が京家というわけである。奈良時代から平安時代の初期までは、この四つの家が互いに争いながら藤原氏の権力を作り上げていくのだが、平安時代初期に北家から冬嗣が現れ、以後は北家が藤原氏本流として摂関などの地位を独占することになる。冬嗣自身は摂関には就任しなかったが、息子の良房ともども天皇との外戚関係に基づく藤原北家の権力の基盤を築いた人物だと言えるだろう。

 そして藤原北家の嫡流を争ったのが、実資の属する小野宮流と、道長の九条流である。小野宮流藤原氏は、良房の孫に当たる忠平の長男実頼を祖とし、九条流は次男師輔を祖とする。小野宮流からは実頼、その子の頼忠が関白となって、北家の嫡流を担ったが、天皇の後宮に娘は入れたものの皇子が生まれず、外戚となることができなかったため権力基盤は非常に弱く、外戚となることに成功した九条流との権力争いに破れて北家嫡流の地位も失ってしまう。
 実際には、実頼が関白になれたのは、師輔が先に死んでしまったからであり、頼忠が関白になれたのは、師輔の子兼通と兼家が仲が悪く、関白兼通が亡くなるときのどさくさに、仲のよかった頼忠を後継の関白に指名したからであるから、小野宮流が関白を輩出できたのは九条流のおかげとも言える。もちろん、実頼も頼忠も関白としての任に堪えるだけの人物ではあったけれども、天皇との外戚関係を持たない以上、その能力を十分に発揮して自らの目指した政治を行うことは難しかったようで、頼忠などは天皇から政局の混乱を責められたことさえある。
 『小右記』の現存部分の最初の部分である天元五年の時点で、頼忠は関白で、娘はすでに天皇の後宮に入っており、この年に中宮にはなったものの、皇子は生まれることはなく、頼忠の権力は不安定なままだった。それにしても、外戚となるために娘を天皇の後宮に入れるというのは、なかなか残酷なシステムである。子供が、男の子が生まれてくればいいが、天皇の寵愛を得られず、得られても子供を生めなかった女性たちの絶望を考えると、男としては申し訳ない気分になってくる。その女性たちの絶望を慰めるために生まれたのが、平安朝のいわゆる女流文学だったと考えると、多少は慰められる気もしないでもない。彼女らの苦しみを礎にして、世界に冠たる文学作品が生まれてきたのだから。

 小野宮流藤原氏は、一体に長命で、実資周辺の人物について簡単に生没年だけ示すと、実頼900-970、頼忠924-989、斉敏928-973、実資957-1046、公任966-1041という具合になる。つまり実資の父斉敏以外は、七十歳近くまで生きているのである。斉敏が比較的若くして亡くなったということから、一時期実資が祖父実頼の養子となったのは、父親の死後のことだと思い込んでいた。でも四十五歳ぐらいまでは生きているわけだから、早世とか夭折という言葉はあたらない気がする。この長命さが実資が実頼の小野宮第を相続した理由の一つかもしれない。実頼が年老いて譲る気になったときには、頼忠はすでに自らの邸宅を営んでいたであろうから。
 ただ、小野宮流に限らず平安時代の貴族、特に高位の貴族には、長生きした人が意外と多いような気もするので、一度生没年の一覧を作ってみようかと思う。時期によっては参議が老人ばかりなんて時代もありそうで嫌だなあ。

 小野宮流は、実資が資産の大半を娘に譲ったため、財政的な基盤を失い、養嗣子の資平、その子で『春記』(日記)の著者としても知られる資房あたりまでは、まだ参議などの地位を保つが、以後は衰退の一途をたどり、歴史の中に消滅してしまうのである。いくら老年に差し掛かってから生まれた可愛い娘のためとはいえ、道長の孫兼頼に資産を譲ったというのは、実資も老いて判断力が鈍ったということだろうか。『小右記』中で資平を絶賛する言葉を並べ立てる実資を知っているだけに、資平が不憫に思われてくる。道長の孫が「小野宮中納言」なんて呼ばれていたのは、『小右記』の読者としては、ちょっと意外で、悲しい事実である。
5月3日23時。



 味も素っ気もない装丁が懐かしい大日本古記録発見。完全に紙の本がなくなったわけでは内容で安心。でも見つけたのは、名前とその付けられ方が似ている『中右記』。道長の子孫の日記だけどまあいいや。でも、巻数を確認してみると欠番がある。売れ行きに偏りがあって在庫があるものとないものがあるのか、売れそうな巻だけ増刷したのか。岩波だからなあ。うん。5月4日追記。



大日本古記録(中右記 別巻) [ 東京大学史料編纂所 ]



2016年05月04日

チェコ人も知らないチェコ語――トルハーク三度(五月一日)



 ここ三日ほど、筆が進まず、内容も中途半端で時間も無駄にかかりすぎているのは、金曜日に久しぶりに飲みに行ったからに他ならない。最近飲まなくなったせいか、一度に飲める量が激減し、飲んだら翌日、翌々日ぐらいまで引きずるようになってしまった。金曜日も、四時間で二杯しか飲んでいないのに、土日は半分使い物にならなかった。午後は、コーヒーを飲んで目を覚ましたはずなのに、昼寝してしまったし。昔は昼寝なんてできなかったのが、できるようになったと考えたほうがいいのだろうか。

 とまれ、ゴールデンウィークを利用して、十年以上前にオロモウツでチェコ語の勉強をしていた知人が、オロモウツに来ることになったから、一緒に飲みに行こうと日本語ぺらぺらのチェコ人から連絡があったのが、二週間ほど前のことだっただろうか。そのチェコ人と飲みに行くのも久しぶりだったし、否やはない。場所もスバトバーツラフスキー醸造所のビアホールだから歩いていけるし。

 こちらに来てから思うのは、年をとったせいなのか、外国にいるせいなのか、時間の流れが実感よりもはるかに早く、その人と会うのも十年以上ぶりなのだけど、何年か前のことのように思われてしかたがない。懐かしいねえ、久しぶりだねえという感じはあるのだけど、十年といわれるとそんなになるのかなあと思わず遠くを見てしまう。体内時計ではまだ2014年ぐらいのはずなのだけど、それでも十年ぶりかあ。
 チェコに来るの自体が久しぶりだというその人は、現代人の例にもれずフェイスブックなどでチェコの友人たちと連絡を取り合っているらしく、一緒にいたチェコ人と二人で、チェコにいる我々より、日本にいる人のほうが、共通の知人の消息に詳しいってのはどうなんだろうと首を傾げてしまった。そんなに連絡を取り合えていたら、久しぶりに会うときのありがたみがなくなるよねというのが、我々の負け惜しみ。

 共通の知人の話をしていて思い出したのが、その人が日本に帰った後、ビールを送るといって颯爽と郵便局に向かうのを見かけたチェコ人のことだった。なんか適当な梱包の仕方だったから無事に届くのかどうか不安だったのだが、やはり無事には届かなかったらしい。クッション付きの封筒に瓶ビールを二本入れただけで送ってしまうのはチェコ人だからなあだけど、割れてびしょびしょになってしまった郵便物を律儀に配達してくれる日本の郵便局は素晴らしい。それにしても、流出したビールで他の荷物にも被害が出ていたのではないだろうか。
 スーツケースに入れて飛行機に乗せるにしても、小包として郵送するにしても、パッケージングには細心の注意が必要である。郵便局は丁寧に扱ってくれるかもしれないが、外国の飛行場での荷物の扱いのひどさは周知の通りである。ぽんぽん放り投げられても大丈夫なようにしておかないと、大変なことになる。以前、日本から荷物が送られてきたときに、中に入っていた煎餅が粉砕されて、おそらく袋が破裂するのと同時に袋から噴出し、中に入っているもの全てが煎餅の粉まみれになっていたのには閉口した。空気を抜く小さな穴でも開けてあれば、割れはしても粉まみれにはならなかったと思うのだが。その辺は実際に体験してみないとわからないだろう。
 スースケースに缶ビールやスリボビツェを入れて帰ったら、缶や瓶が割れてしてえらいことになったという人も多いし、以前はこういう割れそうなものは、手荷物として機内に持ち込んで丁寧に持ち運ぶというのが一番の手だったのだけど、機内に液体を持ち込めなくなってしまったのが痛すぎる。結局は衝撃を吸収するための緩衝材として、タオルや服で巻くのはもちろん、スーツーケースや箱の中でがたがた動かないように固定する必要があるとかいう話で盛り上がってしまった。チェコ人の話では、知り合いの日本人の中には、お酒お持ち帰り用キットとして、そのためだけにスーツケースにつめるものを準備している人もいるらしい。何でも一度スリボビツェが割れてしまって……。
 また、そのチェコ人が言っていたのは、最近日本からの荷物が税関で引っかかって消費税を請求されるようになったことへの対策として、日本で買ったものをすべて開封したり、袋にはさみを入れたりして、販売できない状態にしたうえで、価値のないものとして送ると、税関で引っかからないということだった。郵便事故が起こった場合に、何の保証もなくなるだろうけれども、毎回税金を取られるよりはましかもしれない。

 その後、チェコの映画で何が好きかという話になったときに、日本から来た人が挙げたのが、「ブルノでの退屈」(直訳)で、これはチェコに住んでいる我々二人は、題名は知っているけれども見たことのない映画だった。チェコの友人は、最近初めて見たんだけどと言いながら「球雷」というツィムルマングループの作品を上げた。チェコ最高の名優ルドルフ・フルシンスキーの演技に感動したらしい。日本だとチェコの映画はお涙ちょうだい的な泣ける話が受けるようだけど、チェコ映画で一番素晴らしいのは、やはり笑えるコメディなのだ。外国人には笑えないことも多いけど。

 というわけで「トルハーク」である。この映画を日本から来た人が知らなかったのはともかく、驚いたのは、チェコの友人もスポーツの世界で「ぶっちぎり」的な意味で使われる「トルハーク」を知らなかったことだ。こういうチェコ人多いんだよなあ。スポーツの中継を見ないということか、それとも、中継を見ても実況を聞いていないということだろうか。日本でもここの中継は聞いていられないなんて人がいることを考えると、後者かな。
 思い返せば、昔民放のノバがスポーツの中継をしていたころはひどかった。選手の名前を間違えるのはしかたがないにしても、得点したチームを間違えたのには唖然とさせられたし、90分のサッカーの試合中に同じ選手についてのどうでもいい情報を十回以上も繰り返し聞かされたときにはやめてくれと思った。批判がすごかったせいか、ノバ本体はスポーツの中継から手を引き、今ではスポーツ専用チャンネルで中継するようになっているのは、スポーツ界にとっても、視聴者にとっても幸せなことだ。いまでもしゃべるなと言いたくなるアナウンサーはいるけど、昔に比べれば雲泥の差である。チェコテレビでも、アイスホッケーは素晴らしいけど、去年のラグビーのワールドカップを担当していた二人のうちの一人はひどかった。あまりにひどかったので、音量を絞って、集中して聞かないと何を言っているのかわからないぐらいにしてしまった。
 だから、チェコ人でも「トルハーク」の意味を知らない人がいるのだろうと考えたのだが、そもそも映画「トルハーク」を知らない人も多いんだよなあ。とまれ、「トルハーク」も、チェコ人の知らないチェコ語なのだ。ふう、やっと題名にたどり着いた。
5月2日11時30分。


2016年05月03日

『小右記』0(四月卅日)



 チェコ語で、ちょっとまじめな文章を書かなければならないことになりそうなのだが、他の人には書けそうにないこととで、あんまり調べ物とかする必要のないことはないかと考えて、思いついたのが、学生時代に講読会をやっていた『小右記』である。いきなりチェコ語で書くと、わけのわからないものになりかねないので、下書きがてら、もしくはネタメモがわりに、まず日本語で、『小右記』について知っていること、覚えていることを、あれこれ書き出していくことにする。

 『小右記』は平安時代の貴族、藤原実資の日記である。実資が祖父実頼から伝領した「小野宮第」の名称と、最終的に右大臣、唐名「右府」の地位に上ったことから、両者のはじめの文字を取って、『小右記』と呼ばれることが多いが、なぜか二番目の文字を取った『野府記』という呼称も存在している。また実頼の日記が『水心記』と呼ばれることから、跡を襲った実資の日記を『続水心記』と呼ぶこともあったようである。ちなみに実頼の日記の名称は、諡号である「清慎公」から取られたものである。すなわち「清」の氵から「水」、「慎」の忄から「心」というわけである。

 実資は、父斉敏の四男として生まれたが、祖父実頼の養子となって可愛がられ、伯父であり兄でもあった頼忠を差し置いて、小野宮第などの家領を相続するとともに、小野宮流の嫡流を継承することになった。実資自身も後に、兄懐平の子資平を養子として迎え入れて、後を継がせている。『小右記』には、資平に対する賞賛の言葉があふれているから優秀な人ではあったのだろう。それなのに、実資は、小野宮流の家領の大半を、年をとってから生まれた娘に相続させてしまい、小野宮流衰退の原因を作ってしまうのである。
 実資は、あまり子供に恵まれたとは言えず、『小右記』中の永祚二年七月に現れる幼い娘が重病になった際の記述には、子を思う親の心情は、平安時代も現代も大差はないのだと思わされる。結局この娘は亡くなってしまうのだが、僧侶に加持祈祷の依頼をし、その言葉に一喜一憂する姿は、なかなか賢人右府と評された人物とも思えない。そのせいなのか、他に事情があったのか、この時期、実資はほとんど朝廷に出仕していない。

 『小右記』は、道長の例の「この世をば」の和歌が記録されていることで有名である。与謝野鉄幹、晶子らの編纂になる「日本古典全集」版の道長の日記『御堂関白記』改題には、この歌を激賞した上で、歌も作れない実資如きが道長の歌を批判するなんておこがましいにもほどがあるというような実資批判が書かれていた。しかし、実資自身が、『小右記』でこの歌を記録したところに書いているのは、「御歌優美なり」と道長に言ったということである。むしろあからさまな追従に読めてしまうのだが。実資は、多分自分でも、歌に才能がないことは重々承知していたはずだから、歌なんかの内容で他人を批判したりはしないと思う。
(改めて確認したところ、改題ではなく、下巻の末尾に付された「御堂関白歌集」のあとがきにおいてのことで、道長のこの歌を批判したとして批判されていたのは、実資ではなく江戸期の儒学者だった。実資のことは歌人ではないと書いてあるだけだが、だから実資には歌の価値がわかるはずがないと言いたげな文脈である。歌人として評価の高い公任さえ、道長の歌には及ばないなんてことが書かれてたし。ちなみにこの部分は与謝野晶子の署名原稿だった。『源氏』の翻訳をした晶子は、道長のファンだったというわけね。国会図書館のデジタルライブラリーに感謝。おかげで本のつまった箱をひっくり返さずに済んだ。5月2日追記)
 実資が批判するのは、相手が道長であれ、同じ小野宮流の公任であれ、道理に合わない行動を取ったり、担当した儀式の儀式次第が間違ったりしたときである。こちらは実資の専門だから、ぼろくそにけなすことも多いけど、よく言われるほどに道長に対して対決姿勢をとっていたわけではない。道長も実資を頼りにしていた部分はあるし、実資も頼られれば協力しているのだ。

 ちょっと大げさな言い方をすれば、この二人が本当に相手のことが認められずに、あいつとは仕事なんかできないなんて態度を取っていたら、当時の宮廷は機能不全に陥っていたことだろう。公卿とは名ばかりの無能な連中が多くて、大変だったのだ。道長と摂関の地位を争った伊周が、花山法皇を襲撃して失脚した話は有名だが、この手の貴族のご乱行は『小右記』の中に結構たくさん出てくる。だから、道長と実資は、好むと好まざるとに関わらず、ある程度は協力して政治を運営していかなければならなかった。
 異母弟の道長に、すぐに譲るから、ちょっとの間だけでも摂政(別の地位だったかも)にならせてくれと言ったらしい道綱のような連中と仕事をするストレスを考えたら、多少は考え方が違っていても、当時の貴族としては有能な道長と仕事をするほうが、何倍もましだったはずだ。道綱の行状も結構出てくるけれども、そりゃないだろうというものが多かった。まあ、和歌も母親が代作していたと言われる道綱あたりが、出世して公卿の地位に上って政治に参画してしまうというのも、平安時代の藤原氏全盛期ならではのことである。

 ということでこれから『小右記』を読み返しながら、ネタ探しをして面白そうな話が出てきたら(面白くない話もかも)、こちらにも下書き代わりに載せることにする。耳にムカデが入ってきた話があったのは覚えているのだけど、いつのことかも、それに対するコメントも思い出せない。こんなのが山のようにあるので、復習が必須なのだよ。
 ちなみに、「廿」「卅」なんて表記や、やたらと硬い漢文訓読的な表現を多用するのは、『小右記』の訓読をしていた影響である。そこに妙に話し言葉的な表現を混ぜてしまうので、ゆがんだ文体になってしまっているわけだ。
5月1日23時。



 広告にできそうなものを探したのに、大日本古記録も史料大成もなかった。東大の史料編纂所のデータベースで、大日本古記録版の『小右記』原文が読めて、検索もできるようになっているから、原文を載せた史料集というのは、売れなくなったんだろうなあ。嫌な時代になったもんだ。5月2日追記。

2016年05月02日

オリンピック(四月廿九日)



 早いもので、ロンドンオリンピックから四年、今年もまたオリンピックの狂騒の夏がやってくる。ブラジルでは大統領の更迭を巡る政治上の混乱が起こっていたり、貧富の差を助長するものとして反対デモが起こったりしているようだけれども、おそらく問題なく開催されるのだろう。中国でも、ロシアでも、あれこれ問題がありそうなことが言われていたが、結局問題なく開催されたし。
 オリンピックに関しても、何と言うのか、複雑な心情を抱いている。愛憎入り混じると言うか何と言うか、普段はオリンピックなんて既に所期の目的を達成したのだし、金権まみれ汚職まみれの醜悪なイベントになってしまったのだから、廃止してしまえと広言しているにもかかわらず、実際にオリンピックが始まると、ついつい中継を見るようになってしまった。最近は、一部の例外を除いて、日本選手よりもチェコ選手を応援してしまうことが多いのだけれども、このあたりは自分もオリンピック好きの日本人に他ならないのだと思わされる。

 初めてオリンピックの存在を意識したのは、1980年のレークプラシッドオリンピックだっただろうか。ただし、ニュースなどで結果を見聞きしたぐらいで特に中継を見た記憶はない。かすかに覚えているのも、スピードスケートでいくつも金メダルを取った選手がいたんじゃなかったかなぐらいで、あまり印象には残っていない。
 それは、おそらく同じ年の夏に行われたモスクワオリンピックの印象が、スポーツ以外の面で強烈だったためにかすんでしまったという面もあったろう。ソ連のアフガニスタン侵攻を理由に、オリンピックをボイコットしたアメリカに追随して、日本までもがボイコットしてしまったのには、当時は道理もわからぬ餓鬼だったが、日本という存在に幻滅するような思いがした。政治とスポーツを切り離すのがオリンピックの理念であったはずなのに、こういう部分では教条主義的なのが日本だったはずなのに、アメリカの一言で方針を変えてしまったのだ。アメリカ嫌いの発端はこの辺にあるのかもしれない。
 モスクワオリンピックへの個人としての出場を訴えて記者会見をしていたのは、柔道の山下選手だっただろうか。それともマラソンの宗兄弟だったか。結局出場は適わず、行われた競技についてもほとんど情報は入ってこなかったのではなかったか。もう一つ、モスクワオリンピックで覚えているものがあった。マスコットの熊のミーシャが描かれた銀色の小さな金属の薄い板を、友人が持っていたのが、非常にうらやましかった。あれは何かのおまけだったのかなあ。

 84年のサラエボ冬季オリンピックで覚えているのは、スピードスケートの黒岩選手が、メダル確実とかもてはやされていたのに、メダルを取れなかったときのマスコミの手のひら返しだ。このときは確か別の選手がメダルを取ったはずなのだけど、あんまり記憶にない。それでもこのときのサラエボオリンピックで刷り込まれたユーゴスラビアという幻想に後々まで縛られて、2000年ごろまでは、旧ユーゴ諸国のことを分離独立後の名称で呼ぶことを拒否していたんだよなあ。スロベニアから来ていたサマースクールの同級生に、ああユーゴスラビアねと言って起こらせてしまったことがある。
 ちゃんと自分の意思で見た、もしくは見ようとしたという意味では、同年夏のロサンゼルスオリンピックが最初と言っていいかもしれない。陸上の短距離のカール・ルイスの偉業も覚えていないわけではないのだけど、個人的にはマラソンが一番印象に残っている。それは、見ようとして見損なったという意味においてである。確か夏の暑さを考慮して、現地時間の早朝にスタートすることになっていて、それが日本時間の何時スタートだったのかは覚えていないが、ちょっとがんばれば起きてゴールまで見られそうな時間だったのに、気がついたらマラソンはおろか、中継そのものも終わっていた。スタートしてしばらくは見た記憶があるような気もするし、そうではなくて、スタート前のコース開設だったのかもしれない。こうして、82年のサッカーワールドカップのスペイン大会に続いて、睡魔に負けてしまったのである。

 次のソウルオリンピックと言えば、ベン・ジョンソンのドーピングなのだけど、この辺りから、オリンピックに、いやIOCという組織に胡散臭さを感じ始めたのではなかったか。高校生になってからは、テレビをほとんど見なくなっていたので、オリンピックもほとんど見ていないと思う。日本中のオリンピックに対する異常な盛り上がりについていけなくなったというのもある。人気がありすぎるもの、大騒ぎされるものからは、あえて遠ざかるというのが、ひねくれ者のひねくれ者たるゆえんである。サッカーのワールドカップも、82年のスペイン大会、86年のメキシコ大会までは、がんばって見ようとしたけど、90年のイタリア大会以降はあえて見なくなったしなあ。

 結局、チェコに来てチェコ語の勉強の一環として、見るようになるまで、オリンピックは結果だけ知れればいいやというものだった。応援していたスポーツや選手はいたけれども、無理して生放送で見ようと思うほどの思い入れは失われていた。目の前で何が起こっているのかを見ながらチェコ語の解説を聞くというのは、なかなかチェコ語の勉強によく、さまざまな表現を覚えることができた。その課程で、チェコテレビでの放送だから、チェコ代表の試合を見ることが圧倒的に多く、日本の選手よりもチェコの選手に詳しくなるという副作用もあったのだけど。

 一時期、プラハがオリンピック開催を目指すという話があったものだが、おそらく無理だろう。現在の異常に肥大化してしまったオリンピックの開催は、チェコのような小国に担えるものではない。無理してお金を集めて施設を作っても、無用の長物になるのは、火を見るより明らかである。建設だけでなく、以後の維持までもが重く財政的にのしかかってくるのだ。
 オリンピックの誘致からして、IOCとその関係者だけが、ときに不当に潤い、開催都市、開催国家の負担が大きすぎる現状は、オリンピックの理念からいうとまったく正しくないはずだ。昨年サッカーのFIFAに司法の手が入ったように、IOCも聖域にせずに、開催地選定の選挙などのさいの買収などが大々的に摘発されないものか。そんなことでもない限り、オリンピックの規模の縮小なんてことはありえそうもない。だからオリンピックなんてやめてしまえと思うのだけど、始まったら見てしまうのだろう。

4月30日23時。


 さてさて、東京でオリンピックを開催する意味はあるのだろうか。恥は十分以上に世界中にさらしてしまったから、今後はいいニュースを期待したいところである。5月1日追記。


東京オリンピック [ 講談社 ]


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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



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