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2016年05月05日

小野宮流(五月二日)



 一昨日の続きで、『小右記』関係の覚書のようなものである。

 藤原氏は、大化の改新で功績のあった中臣鎌足が臨終の際に、藤原という新しい姓を賜ったことに始まる。当初は中臣氏はすべて、藤原氏へと改姓したが、鎌足の子孫以外は中臣に復姓することとなった。これは、中臣氏が忌部氏と共に神祇を掌る家柄であり、現実の政治を掌る藤原氏と職掌を分ける必要があったためだとも言われる。その後、藤原氏の後ろ盾を得た中臣氏は、忌部氏を圧倒して、朝廷の神祇、祭祀を独占するようになり、一部は大中臣氏を名乗ることを許される。
 奈良時代には、鎌足の息子である不比等の四人の子供たちが政権で重きをなし、それぞれ藤原四家と呼ばれる家の始祖となる。すなわち、長男武智麻呂が南家、次男房前が北家、三男宇合が式家、四男麻呂が京家というわけである。奈良時代から平安時代の初期までは、この四つの家が互いに争いながら藤原氏の権力を作り上げていくのだが、平安時代初期に北家から冬嗣が現れ、以後は北家が藤原氏本流として摂関などの地位を独占することになる。冬嗣自身は摂関には就任しなかったが、息子の良房ともども天皇との外戚関係に基づく藤原北家の権力の基盤を築いた人物だと言えるだろう。

 そして藤原北家の嫡流を争ったのが、実資の属する小野宮流と、道長の九条流である。小野宮流藤原氏は、良房の孫に当たる忠平の長男実頼を祖とし、九条流は次男師輔を祖とする。小野宮流からは実頼、その子の頼忠が関白となって、北家の嫡流を担ったが、天皇の後宮に娘は入れたものの皇子が生まれず、外戚となることができなかったため権力基盤は非常に弱く、外戚となることに成功した九条流との権力争いに破れて北家嫡流の地位も失ってしまう。
 実際には、実頼が関白になれたのは、師輔が先に死んでしまったからであり、頼忠が関白になれたのは、師輔の子兼通と兼家が仲が悪く、関白兼通が亡くなるときのどさくさに、仲のよかった頼忠を後継の関白に指名したからであるから、小野宮流が関白を輩出できたのは九条流のおかげとも言える。もちろん、実頼も頼忠も関白としての任に堪えるだけの人物ではあったけれども、天皇との外戚関係を持たない以上、その能力を十分に発揮して自らの目指した政治を行うことは難しかったようで、頼忠などは天皇から政局の混乱を責められたことさえある。
 『小右記』の現存部分の最初の部分である天元五年の時点で、頼忠は関白で、娘はすでに天皇の後宮に入っており、この年に中宮にはなったものの、皇子は生まれることはなく、頼忠の権力は不安定なままだった。それにしても、外戚となるために娘を天皇の後宮に入れるというのは、なかなか残酷なシステムである。子供が、男の子が生まれてくればいいが、天皇の寵愛を得られず、得られても子供を生めなかった女性たちの絶望を考えると、男としては申し訳ない気分になってくる。その女性たちの絶望を慰めるために生まれたのが、平安朝のいわゆる女流文学だったと考えると、多少は慰められる気もしないでもない。彼女らの苦しみを礎にして、世界に冠たる文学作品が生まれてきたのだから。

 小野宮流藤原氏は、一体に長命で、実資周辺の人物について簡単に生没年だけ示すと、実頼900-970、頼忠924-989、斉敏928-973、実資957-1046、公任966-1041という具合になる。つまり実資の父斉敏以外は、七十歳近くまで生きているのである。斉敏が比較的若くして亡くなったということから、一時期実資が祖父実頼の養子となったのは、父親の死後のことだと思い込んでいた。でも四十五歳ぐらいまでは生きているわけだから、早世とか夭折という言葉はあたらない気がする。この長命さが実資が実頼の小野宮第を相続した理由の一つかもしれない。実頼が年老いて譲る気になったときには、頼忠はすでに自らの邸宅を営んでいたであろうから。
 ただ、小野宮流に限らず平安時代の貴族、特に高位の貴族には、長生きした人が意外と多いような気もするので、一度生没年の一覧を作ってみようかと思う。時期によっては参議が老人ばかりなんて時代もありそうで嫌だなあ。

 小野宮流は、実資が資産の大半を娘に譲ったため、財政的な基盤を失い、養嗣子の資平、その子で『春記』(日記)の著者としても知られる資房あたりまでは、まだ参議などの地位を保つが、以後は衰退の一途をたどり、歴史の中に消滅してしまうのである。いくら老年に差し掛かってから生まれた可愛い娘のためとはいえ、道長の孫兼頼に資産を譲ったというのは、実資も老いて判断力が鈍ったということだろうか。『小右記』中で資平を絶賛する言葉を並べ立てる実資を知っているだけに、資平が不憫に思われてくる。道長の孫が「小野宮中納言」なんて呼ばれていたのは、『小右記』の読者としては、ちょっと意外で、悲しい事実である。
5月3日23時。



 味も素っ気もない装丁が懐かしい大日本古記録発見。完全に紙の本がなくなったわけでは内容で安心。でも見つけたのは、名前とその付けられ方が似ている『中右記』。道長の子孫の日記だけどまあいいや。でも、巻数を確認してみると欠番がある。売れ行きに偏りがあって在庫があるものとないものがあるのか、売れそうな巻だけ増刷したのか。岩波だからなあ。うん。5月4日追記。



大日本古記録(中右記 別巻) [ 東京大学史料編纂所 ]



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