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2016年05月03日

『小右記』0(四月卅日)



 チェコ語で、ちょっとまじめな文章を書かなければならないことになりそうなのだが、他の人には書けそうにないこととで、あんまり調べ物とかする必要のないことはないかと考えて、思いついたのが、学生時代に講読会をやっていた『小右記』である。いきなりチェコ語で書くと、わけのわからないものになりかねないので、下書きがてら、もしくはネタメモがわりに、まず日本語で、『小右記』について知っていること、覚えていることを、あれこれ書き出していくことにする。

 『小右記』は平安時代の貴族、藤原実資の日記である。実資が祖父実頼から伝領した「小野宮第」の名称と、最終的に右大臣、唐名「右府」の地位に上ったことから、両者のはじめの文字を取って、『小右記』と呼ばれることが多いが、なぜか二番目の文字を取った『野府記』という呼称も存在している。また実頼の日記が『水心記』と呼ばれることから、跡を襲った実資の日記を『続水心記』と呼ぶこともあったようである。ちなみに実頼の日記の名称は、諡号である「清慎公」から取られたものである。すなわち「清」の氵から「水」、「慎」の忄から「心」というわけである。

 実資は、父斉敏の四男として生まれたが、祖父実頼の養子となって可愛がられ、伯父であり兄でもあった頼忠を差し置いて、小野宮第などの家領を相続するとともに、小野宮流の嫡流を継承することになった。実資自身も後に、兄懐平の子資平を養子として迎え入れて、後を継がせている。『小右記』には、資平に対する賞賛の言葉があふれているから優秀な人ではあったのだろう。それなのに、実資は、小野宮流の家領の大半を、年をとってから生まれた娘に相続させてしまい、小野宮流衰退の原因を作ってしまうのである。
 実資は、あまり子供に恵まれたとは言えず、『小右記』中の永祚二年七月に現れる幼い娘が重病になった際の記述には、子を思う親の心情は、平安時代も現代も大差はないのだと思わされる。結局この娘は亡くなってしまうのだが、僧侶に加持祈祷の依頼をし、その言葉に一喜一憂する姿は、なかなか賢人右府と評された人物とも思えない。そのせいなのか、他に事情があったのか、この時期、実資はほとんど朝廷に出仕していない。

 『小右記』は、道長の例の「この世をば」の和歌が記録されていることで有名である。与謝野鉄幹、晶子らの編纂になる「日本古典全集」版の道長の日記『御堂関白記』改題には、この歌を激賞した上で、歌も作れない実資如きが道長の歌を批判するなんておこがましいにもほどがあるというような実資批判が書かれていた。しかし、実資自身が、『小右記』でこの歌を記録したところに書いているのは、「御歌優美なり」と道長に言ったということである。むしろあからさまな追従に読めてしまうのだが。実資は、多分自分でも、歌に才能がないことは重々承知していたはずだから、歌なんかの内容で他人を批判したりはしないと思う。
(改めて確認したところ、改題ではなく、下巻の末尾に付された「御堂関白歌集」のあとがきにおいてのことで、道長のこの歌を批判したとして批判されていたのは、実資ではなく江戸期の儒学者だった。実資のことは歌人ではないと書いてあるだけだが、だから実資には歌の価値がわかるはずがないと言いたげな文脈である。歌人として評価の高い公任さえ、道長の歌には及ばないなんてことが書かれてたし。ちなみにこの部分は与謝野晶子の署名原稿だった。『源氏』の翻訳をした晶子は、道長のファンだったというわけね。国会図書館のデジタルライブラリーに感謝。おかげで本のつまった箱をひっくり返さずに済んだ。5月2日追記)
 実資が批判するのは、相手が道長であれ、同じ小野宮流の公任であれ、道理に合わない行動を取ったり、担当した儀式の儀式次第が間違ったりしたときである。こちらは実資の専門だから、ぼろくそにけなすことも多いけど、よく言われるほどに道長に対して対決姿勢をとっていたわけではない。道長も実資を頼りにしていた部分はあるし、実資も頼られれば協力しているのだ。

 ちょっと大げさな言い方をすれば、この二人が本当に相手のことが認められずに、あいつとは仕事なんかできないなんて態度を取っていたら、当時の宮廷は機能不全に陥っていたことだろう。公卿とは名ばかりの無能な連中が多くて、大変だったのだ。道長と摂関の地位を争った伊周が、花山法皇を襲撃して失脚した話は有名だが、この手の貴族のご乱行は『小右記』の中に結構たくさん出てくる。だから、道長と実資は、好むと好まざるとに関わらず、ある程度は協力して政治を運営していかなければならなかった。
 異母弟の道長に、すぐに譲るから、ちょっとの間だけでも摂政(別の地位だったかも)にならせてくれと言ったらしい道綱のような連中と仕事をするストレスを考えたら、多少は考え方が違っていても、当時の貴族としては有能な道長と仕事をするほうが、何倍もましだったはずだ。道綱の行状も結構出てくるけれども、そりゃないだろうというものが多かった。まあ、和歌も母親が代作していたと言われる道綱あたりが、出世して公卿の地位に上って政治に参画してしまうというのも、平安時代の藤原氏全盛期ならではのことである。

 ということでこれから『小右記』を読み返しながら、ネタ探しをして面白そうな話が出てきたら(面白くない話もかも)、こちらにも下書き代わりに載せることにする。耳にムカデが入ってきた話があったのは覚えているのだけど、いつのことかも、それに対するコメントも思い出せない。こんなのが山のようにあるので、復習が必須なのだよ。
 ちなみに、「廿」「卅」なんて表記や、やたらと硬い漢文訓読的な表現を多用するのは、『小右記』の訓読をしていた影響である。そこに妙に話し言葉的な表現を混ぜてしまうので、ゆがんだ文体になってしまっているわけだ。
5月1日23時。



 広告にできそうなものを探したのに、大日本古記録も史料大成もなかった。東大の史料編纂所のデータベースで、大日本古記録版の『小右記』原文が読めて、検索もできるようになっているから、原文を載せた史料集というのは、売れなくなったんだろうなあ。嫌な時代になったもんだ。5月2日追記。
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