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2016年05月08日

『大鏡』の実資1(五月五日)



 『小右記』関係の下書きということで、今回は実資に関して、歴史物語の『大鏡』でどんなことが書かれているのかをメモしておく。原文をどうするか悩んでいるのだけれども、どうしよう。引用する場合には、自分でちまちま入力はしていられないので、駒澤大学総合教育研究部日本文化部門 「情報言語学研究室」のホームページに公開されているテキストデータから引く。

 「斎敏の子孫実資、かくや姫をかしずく」と題された部分では、まず父斎敏(ただとし)が、実頼の長子敦敏と同腹の弟で、右衛門督まで出世したことが語られる。そして、播磨守藤原尹文の娘との間に三人の息子を設け、長男が太宰大弐で亡くなった高遠で、次男は懐平といって中納言・右衛門にまで昇ったという。ここで三男の実資に行く前に、懐平の息子たちについて語られる。曰く、右兵衛督の経通、侍従宰相と呼ばれ現在は皇太后宮権大夫を務める資平であるという。ここでは資平が実資の養子になっていることは書かれていない。
 次に実資について、祖父の「小野宮のおとど」、つまり実頼の養子になったことが記され、「実資」と命名してかわいがったのだけど、「実資」の「実」は、祖父実頼の「実」だというぐらいに賢ぶる子だったので、幼名は「大学丸」と付けられたのだという。幼名が先につけられるものだと思っていたのだが違うのだろうか。

 ここまでは、『大鏡』に新しい重要な人物が出てくるときになされる人物紹介のようなもので、系譜などが簡単に記された部分である。ここから、具体的な実資の話が始まる。まず、その「大学丸」と呼ばれた子供が、今の小野宮の右大臣という高貴な立場になっていることが語られる。次はちょっと原文を入れてみよう。
「このおとどの、御子なき嘆きをしたまひて、わが御甥の資平の宰相を養ひたまふめり」
 実資は子供がいなことを嘆いていて、甥の資平を養子にしたというわけである。

「宮仕人を思しける腹に出でおはしたる男子は、法師にて、内供良円君とておはす」
 宮中に仕えていた(と思われる)人との間にできた男の子は、現在お坊さんになっていて良円という名前である。この良円は、『小右記』に何度か登場していたと記憶する。出家したのは本人の希望だったのか、実資が出家させたのかはわからない。ちなみに増補史料大成版の『小右記』の改題において矢野太郎氏は、良円のことを実資ではなく、懐平の息子であるとしている。

「女房を召しつかひたまひけるほどに、おのづから生まれたまへりける女君、かくや姫とぞ申しける」
 女房を召し使っているうちに自然に生まれた女子を「かくや姫」という。濁音は表記されないことも多かったから、実資は生まれた娘に「かぐや姫」と名付けていたようである。「おのづから」生まれるというのも、なんか不思議な表現である。

「この母は頼忠の宰相の乳母子」
 娘の母にあたる女性は、実資の伯父であり、兄でもあり、また仕事上の上司でもあった頼忠の乳母の子供だというのだけど、この乳母は誰、いや誰の娘、もしくは奥さんだったんだろう。

 次に実資の北の方、つまり正妻についての情報が書かれる。
「北の方は、花山院の女御、為平式部卿の御女」
 実資の北の方は、花山院が出家する前に後宮に女御として入っていた女性で、為平式部卿の娘である。為平式部卿は、村上天皇の皇子で為平親王のこと。その娘の婉子女王は、花山天皇の後宮に女御として入ったらしい。

「院そむかせたまひて、道信の中将も懸想し申したまふに、この殿まゐりたまひにけるを聞きて、中将の聞こえたまひしぞかし」
 花山院が出家したのは、婉子女王が入内してからほぼ半年後のことである。その後、藤原道信も女王に思いを寄せたけれども、この殿(実資)が女王のもとに通っているという話を聞いて、道信が差し上げた歌が次の歌である。

「うれしきはいかばかりかは思ふらむ憂きは身にしむ心地こそすれ」
 この歌を差し上げた甲斐もなく、「この女御、殿にさぶらひたまひしなり」ということになる。歌のうまさで実資が勝てるはずはないから、実資の正室になってくれたのは別の理由になるのだろう。小野宮家の家産なのか、実資の能力の高さなのか。

 この後はまた話が娘に戻って、娘が千日講という仏教行事を行ったことが語られ、娘についての説明が続く。
「祐家中納言の上の母なり。兼頼の中納言北の方にてうせたまひにき」
 祐家中納言の妻の母親だというから、わかりやすく言えば、実資の娘の娘が、祐家中納言の妻になったということであろう。この人は道長の孫に当たる藤原祐家なのかな。世代が一つ会わないような気もする。そして実資の娘は藤原兼頼の妻として亡くなったのである。この藤原兼頼は道長の孫に当たる人で、妻を通じて実資の小野宮家の資産を相続し、小野宮中納言と呼ばれた。これも増補史料大成版の改題によれば、実資の養子になっていたのではないかという。

「子かたくおほしましける族にや。これも、中宮の権大夫の上も、継子を養ひたまへる」
 子供が少ない一族ということだろうか。これが小野宮流を指すと考えてもいいのかな。中宮権大夫の妻も養子を育てていたということなのだけど、中宮権大夫が『大鏡』のほかの部分と同じで藤原能信だと考えていいのかどうかはわからない。藤原能信の妻が小野宮流の人かどうかの確認が必要である。注釈書がほしい。

「この女君を、小野宮の寝殿の東面に帳たてて、いみじうかしづき据ゑたてまつりたまふめり。いかなる人か御婿となりたまはむとすらむ」
 実資はこの女の子を、小野宮第で非常に大切に育てたということか。そんなに大事に育てている娘だから、誰がその娘の婿になるだろうかと人々の話題になったということだろうか。

 適当なところも多いけど、久しぶりに古文を原文で読んで、しかも注釈なしにしては、理解できた。理解できないのは、『大鏡』の書きぶりってこんなにわかりにくかったかということで、高校時代の古文の授業で読んだ部分は、読みやすかった記憶があるのだけど。考えてみれば、教材には読みやすい部分を使うから、読みやすかったのも当然か。
 最初ぱっと見たときに、思ったほどたくさんの情報は書かれていなかったし、理解にてこずった部分もあったけれども、古文を読むリハビリとしてはこんなものだろう。
5月6日23時。



 現代語訳と、解釈説明のやり方に統一性がないのはメモ書きみたいなものだからしかたがないと言い訳をしておく。5月7日追記。

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