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2016年07月06日

チェコの夏(七月三日)


 オロモウツでハーフマラソンがなわれた頃から、日中の気温が30度を超える日が何日か続いていたのだが、北大西洋から寒気団が張り出してきてヨーロッパ上空を覆ったおかげで、急に気温が下がって、肌寒いぐらいになってしまった。天気予報によると昨日と比べて気温が15度も下がったのだという。これがチェコの夏なのだ。

 昨年の夏は、暑かった。日本の夏と比べても暑くて、夏ばてになってしまいそうだった。連日日中の最高気温は35度を超え、日没後も気温がなかなか下がらず、夜明け直前の最低気温ですら25度程度にしか下がらないという日が続いた。これはアフリカから北上してきた熱気がアルプスを越えて停滞したためだったらしいが、異常気象とか地球温暖化なん言葉で表現するのは生易しすぎると言いたくなるような夏だった。
 その上、異常なほどに雨が少なかった。チェコも日本と同じように、夏は、特に夏の気温の上がった日には、夕立がくることが多いのだが、去年はその夕立も少なかった。森林地帯でも乾燥が進み、山火事が例年以上に多かった。たまに雨が降っても、地表が乾燥しすぎているために、地面に吸収されることなく、表面を勢いよく流れていくだけで、洪水を引き起こす原因にはなっても、土壌の完走状態はほとんど変化することはなかったようだ。幸いなことにオロモウツではそこまでひどくなかったが、地域によっては水不足のために、水道どころか井戸の水の使用制限が行なわれたり、川の取水制限などの対策がとられたりしたところもあったらしい。

 今年の夏は、既に気温が30度を超える日は何日かあったが、何日も続くというようなことはないし、しばしば夕立にも襲われてそれなりに降水量もあるので、過ごしやすくなるのではないかと期待していた。しかし、気温の変化の激しい夏も、やはりすごしにくいのだということを、今日の気温の急降下は思い出させてくれた。
 暑いばかりの熱帯のような夏や、冬の寒さの中で気温が前日より15度以上も下がるというのに比べればましだと言えなくはないけど、前日との気温差が10度を超えると、気温が上がるにしろ、下がるにしろ体の負担が大きいような気がする。去年は連日の暑さで体調を崩したが、今年は気温の変化で体調を崩すことになりそうだ。

 日本でも毎年夏ばてしていたし、猛暑であれ、なかれ、夏というのは過ごしにくいものなのだと、まとめかけて、チェコに来たばかりのころは、30度を超える日が数えるほどしかなく、最高気温が25度前後の日が続くという素晴らしい日本の秋のような夏が何度かあったのを思い出した。八月がほとんど20度ちょっとまでしか上がらなかった年もあったなあ。こんな年は、気温の変化もさほど大きくなく、その意味でも過ごしやすかったんだよなあ。あのころは、チェコには夏はないと言えたのだけど、最近はチェコには夏はあるけど秋はないになってしまった。
 チェコは冬の寒さが避けられないものだけに、夏は涼しくすごしやすいものであってほしいと思うのは贅沢なのだろうか。
7月4日22時。


タグ:気候 愚痴
posted by olomoučan at 06:57| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ

2016年07月04日

ベランダのタマゴ(七月一日)



 チェコの家庭では、特に田舎ではなくても庭付きの家に住んでいる人は、庭の一角にニワトリを飼っているところが多い。肉よりもタマゴが目的なので、たいていはメンドリだけで、残飯の処理にも役に立っているらしい。
 南モラビアにあるうちのの実家も多分にもれず、庭の奥にメンドリを数羽飼っている。鳥小屋の周囲は柵で区切られているので、その中では自由に動き回り、悪食のニワトリたちは、与えられる餌だけでなく、そこにあって食べられるものは、草でも木の葉でも何でも餌にしている。そんな健康な生活を送っているニワトリたちが毎日タマゴを産むため、食べるのが追いつかないこともあるらしい。二匹いる犬たちにおやつ代わりに毎日一つずつ食べさせているらしいけど。
 その恩恵を我々も受けていて、毎回訪問するたびにたくさんのタマゴをもらってオロモウツに戻ってくる。本当に健康的な生活をしているニワトリの産んだタマゴは、スーパーマーケットなどの市販のものと比べると、はるかに黄身の色が濃く味も濃厚である。
 では、飼っているニワトリはどこで手に入れるのかというと、業者が年に何回か町に売りにくるらしい。事前に価格表と何月何日の何時に販売を行うというビラをまいておいて、一日にいくつもの町を回って行商のようなことをしているようだ。ニワトリはヒヨコから少し育って羽の生え変わったぐらいのものが一羽400円ぐらいで手に入るので、何年かに一度、タマゴを産めなくなったらつぶして肉にして、新しいのを購入するのだという。

 もう、数年前になるだろうか、いや、もっと前かもしれないが、タマゴの値段がなぜか高騰したことがある。自宅でニワトリを飼っている人にとっては他人事だったが、都市部に住んでいるタマゴ好きのチェコ人にとっては重大な問題だったらしい。そんなに好きなら多少高くても、毎日のビールを一杯減らして買えよとか、食べる回数を減らせよとか考えてしまうのだが、手に入れにくいとなると、なおさら手に入れたくなるというのは、チェコ人も同じらしい。
 そんな都市部に住むタマゴ依存症の人たちが目をつけたのが、ニワトリの移動販売所だった。都市部では販売はしていないので、どこからか販売の行なわれる場所の情報を入手して、一羽か二羽購入するために行列を作っていたのだ。
 しかし、一軒家ではなく、マンション、アパートのような集合住宅に住んでいる人が多いので、購入されたニワトリたちは、狭いベランダに置かれた小さな鳥かごの中に押し込められて飼われることが多かったようだ。

 さて、このほとんど身動きも取れない状態でかごに押し込められて、ひどいときには日中直射日光にさわされたニワトリたちが、どのぐらい生命をつなぐことができ、どのぐらいのタマゴを飼い主にもたらしたのだろうか。ニワトリを買い求める姿はニュースになっても、購入後のニワトリについてはニュースにならなかったし、知人のなかにはベランダでニワトリを飼うような人はいなかったので、よくわからない。
 ただ、ベランダにタマゴを取りに行くというのを想像すると、なかなか楽しそうだと思う一方で、ベランダで取れたタマゴといわれたら、あんまり食べたくないような気もするのである。
7月3日19時。

 うーん。七月最初の記事がこれとは。しばらくは夏休みモードでいつも以上にしょうもない記事が増えそうである。
posted by olomoučan at 05:59| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ

2016年06月17日

病気の記其二(六月十四日)



 このテーマもここで放置すると、何を書いたか忘れてしまいそうなので、前回書き落としたことを落穂拾い的に書いていこう。

 高血圧で病院通いを始める前に、一番よく通ったのは歯医者だった。定期的に検診を受けて、早期治療を目指したのだけれども、一度、大変な目に遭った。日本で治療して被せ物をしてあった歯が痛み始め、歯医者に行ったら被せ物の下に虫歯が発生しているという。虫歯の黴菌、もしくは毒素が歯の根っこのほうまで上がっていき、そのせいで激痛をもたらしているというのだ。
 このときは、痛みで口が開けられなくなり、その開けられない口を無理やり押し開いての治療で、麻酔を打ってもらったののだが、その注射を打つのが強烈に痛かった。治療中は歯の痛み自体はそれほどではなかったような気もするが、他の部分が痛くて涙がこぼれそうだった。チェコにしては珍しく、一日では治療が終わらず、何日か連日で通って、かなり強い消毒薬で患部を洗浄し、いったん蓋をして、また翌日にそれを外して洗浄をするというのを何回か繰り返して、ようやく痛みが治まった。それまでは、痛み止めが聞いている間は、何とかなるけれども、痛み止めが切れたら痛みで何も、それこそ眠ることさえできないという状態だったのだ。
 当時、週一で通っていた通訳の仕事先に電話をかけて事情を説明したのだが、翌週行ったら、正直何を言われているのかわからなかったと言われてしまった。口が思うように開けず、スープを飲むのも大変な状態だったので、まともな話ができなかったのも当然か。
 事情を説明したところ、一緒に仕事をしていた日本から来ていた方が、自分の体験を話してくれた。親不知が虫歯になって抜くことになったらしいのだが、普通の歯医者ではどうやっても抜けなくて、入院して全身麻酔をかけた上で、抜歯してもらったのだという。あれは抜歯というより手術だったねと笑いながら言うその人を見て、親不知だけは抜きたくないと思ったのだった。

 しかし、それから数年後、歯医者で親不知に虫歯が発見され、抜くしかないということになってしまった。この歯は、日本にいるときに歯磨きの仕方が下手だったのか、虫歯が進行しているのに全く気付かず、ある日突然、破裂するように砕け散った歯の残りに、歯医者で無理やり被せ物をしてもらったものだったので、ついに来るべき日が来たかと、施術の当日は覚悟を固めて歯医者に向かった。親不知を抜いた人からは、大変だったという話しか聞いていなかったので、時間がかかって、血が大量に流れて、しばらくは発熱するものだと、できれば全身麻酔はしたくないけど、などと考えていた。
 それなのに、意外とあっさり抜けてしまって、拍子抜けしてしまった。血は流れたけれども、特筆するほどでもなかったし、痛みも被せ物の下に虫歯ができたときに比べれば軽いものだった。付き添いなしで歯を抜いてもらって、何事もなく無事に診察室を出ることができたのだから、我がチェコ語もそれなりになってきたなあなどと筋違いなことを考えながらうちに帰って鏡を見たら、顔や手に血痕が残っていた。この状態でトラムに乗って帰ってきたのだが、何を思われたか不安である。抜歯の後の歯医者ではそこまで気が回らなかったのだ。

 医者に登録して高血圧だといわれたときには、その原因調査の一環で、いろいろな内臓の検査を受けた。そしたら、なんか心臓が変だと言われて、大学病院にまで音響検査に出かけることになった。まず喉の奥が開いた状態になるように麻酔のようなものを口の中に塗られて、オエッとなった状態で口の中から食道なのか、気管なのかに検査用の音響装置が送り込まれ、定期的に吐き気を催すけれども、何も食べておらず吐くものはなく、その装置のせいで出口もなく、口からよだれがだらだらと垂れ流れる状態で、結果なんかどうでもいいから早く終わってくれと一心に願っていた。すぐに終わってくれたら心臓に欠陥があると言われても受け入れられるとまで思った。
 それなのに、お医者さんは、検査装置のモニターを見ながら、のんびり装置を上下させ、あれこれびっくりしたような、感心したような声をあげていた。一緒にいた看護師さんを呼び寄せてモニターの映像を見せ、教科書に載せてもよさそうな見事な何とかだねえなどと言っていたらしい。この辺は付き添いで来てくれたうちのに後で聞いた。心臓の機能上は全く問題ないけれども、普通は心臓の発達の過程で消えてしまうものが、残っているらしい。日本語で言われてもよくわからないことを、チェコ語で言われてわかるはずもないのだが、何でも弁のようなものが、一つ余計についているらしい。ここまで生きて来て知らなかったし、知りたいとも思わなかったし、できれば知りたくなかったというのが正直なところである。

 そんなこんな苦しみを経ても、高血圧の原因はわからず、降圧剤を飲み続けている。いや、原因は運動不足と仕事のストレスであるのは明らかなのだけど、それが避けられないものである以上は、一生薬と付き合っていくことになりそうだ。その前に、高血圧の定義が変わって、このぐらい大丈夫になってくれるのが理想なのだけど、最近は定義の数値が下がり気味らしいので、さらに強い薬を飲まされることになるかもしれない。今はもう慣れてしまったけれども、初めて降圧剤を飲んだときには、体が思うように動かないような、妙なつらさがあったのを覚えている。
 昔の自分だったら、こんな薬飲んでまで健康な生活を送りたいとは思わないなんて考えたのだが、現実を受け入れられるようになったのは、いいことなのか悪いことなのか。改めて自分もいわゆる成人病なのかと思うと気が滅入ってきた。気が滅入ってきたので今日の分はお仕舞。
6月14日17時。
posted by olomoučan at 07:04| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ

2016年06月15日

病気の記(六月十二日)



 チェコに来て初めて病院に行ったのは、いつだったか正確に覚えていないが、医者のお世話になったのがいつだったかは、しっかりと覚えている。いや、正確に言えば、忘れられない。あれはチェコに来た年の晩秋というか初冬というか、九月に一度思いっきり冷え込んだあと、また暖かくなった時期のことだから、十月だったが十一月だったか。とにかく日曜日のことだった。
 当時毎月買っていた「どこで、いつ、何が」という題名の情報誌で見かけたハンドボールの試合を見に行こうと、朝寮で時間をつぶしていたら、背中の右側の下のほうに何とも言えない痛みを感じ始めた。体をひねったり痛む部分を温めたりすると、痛みが治まるような気がしたのだが、寄せては返し、寄せては返す波のように、痛みが戻ってきて、最終的には痛みで動けなくなった。
 痛みでうなりながらベッドに転がっていると、近くの部屋に住んでいた中国人と、アフリカのどこかの国の人が心配して見に来てくれて、たまたまそのアフリカの人、ガーナの人だったかなが、医学部生で、このままじゃまずかろうということで救急車を呼んでくれた。皮肉なことにその後痛みが引いて、お医者さんたちが来たころには、ちょっと熱っぽくて痛みの残滓もあったけど、立ち上がれないほどの痛みは感じなくなっていた。寮に住んでいてよかったと、寮費が安いこと以外では、初めて思った瞬間だった。
 まあ、このときの痛みは、二度目の腎臓結石のときの痛みに比べれば、かわいいものだったのだが、それまでに感じたことのない種類の痛みだっただけにショックは大きく、外国にいるという事実とあいまって、もう帰ってしまおうかと気弱になってしまったのだった。このとき医者に進められたとおりに飲んだくれ生活を送ることで、結石だけでなく弱気も溶けてしまって現在に至るわけだから、チェコのビールの力は偉大である。

 二番目に行ったのは歯医者だった。一年目はビザを取るために旅行保険みたいなものに入っていたが、二年目は入っておらず、できれば医者には行きたくなかったのだけど、日本出国前に一年半以上の時間と、ウン万円の費用をかけて、治療してきた歯の一本の詰め物が落ちてしまったのだ。どうしようか悩んだけれども、日本で治療したら保険なしでいくら取られるかわからないし、チェコ語の練習にもなるかと、うちのに連れられて歯医者に出かけた。
 チェコの病院のよくわからない受付のシステム以外は何の問題もなく、日本のように今日は削るだけで来週詰め物なんてこともなく、待ち時間を除けば三十分ほどで無事に治療が終わってしまった。チェコ語も取り立てて理解できない表現は出てこず、難しい表現もあったのかもしれないけど、その場の流れでなんとなく理解したような気になったのだろう。ただ、治療費を払おうとしてびっくり。日本でばか高い国民保険の掛け金を毎月支払った上で、治療に際して払わされる額よりも安かったのだ。下手をしたら、今日は治療なしで歯石を取りましょうねなどといわれて、虫歯の数が減らなかったときよりも安かったかもしれない。

 チェコの保険制度も、多分に漏れず破綻の危機にあり国費の投入が行われているのだが、これだけ医療費が安かったらそうもなるわなと納得してしまう。オーストリアとの国境地帯の歯医者さんには、保険の利くチェコ人の患者よりも、保険の利かないオーストリア人の患者のほうが多いという話もむべなるかなである。最近はEU内であればどの国で治療を受けても自国の保険制度の対象になるという法律ができたらしいので、国境地帯のオーストリア人たちにとっては、チェコの歯医者に通うメリットがますます大きくなっているようだ。
 チェコの医療制度は、旧社会主義国家であるせいか、患者に優しい。保険に加入していれば一般的な治療には、治療費はかからない。一時期は医療保険の破綻を防ぎ、病院の財政を改善するために、30コルナの診察料や、一日100コルナの入院費などを取るという画期的な制度が導入されたのだが、残念なことに、急患の場合を除いて廃止されてしまった。

 一般にチェコの人たちは、病気になったときに適当な医者を見つけて飛び込むというようなことはしない。かかりつけの医者に登録してあって、具合が悪くなったらまずそこに行き、そこで対処しきれないときには、大学病院などの大きく専門的な病院にまわされることになる。以前知り合いが、直接大学病院に行ったら、診察はしてもらえたけど、直接来るなといって怒られたと言っていた。
 ということで、うちも数年前にオロモウツの医者に登録するために出かけた。最初の日に血圧が高いと言われて、原因を調べるためにあちこち検査に送り出され、登録なんかしなければよかったと後悔したのだが、後の祭り、尿検査、血液検査、レントゲンはかわいいもので、目の検査、腎臓のソナーでの検査、血圧の二十四時間測定などなど、そんなに大騒ぎするほど血圧が高かったわけではないのだが。
 そして血圧を下げる薬を飲まされ、それが妙に体に合わずに咳が止まらなくなって、確実に健康状態は悪化した。その後飲み始めた別の薬は、そんな副作用はないが、途中でいわゆるジェネリックに切り替えられ、これも体に合わない気がする。
 知人には、血圧下げるなら酒やめて塩抜きの食事をしていればいいんだよと、ビールとソーセージを目の前にして言われ、これやめるぐらいだったら血圧は高くてもいいと決意したのだった。ただ、降圧剤の影響かビールが以前ほどおいしく感じられなくなったのは、痛恨の出来事である。ビールを飲むためにチェコに来たというのに。診察費は払うから、ビールをおいしく飲める体を返してくれと叫びたい。毎朝定期的に薬を飲むというのも年を取ったようで嫌だ。って、年は取ったか。

 定期的に、正確には薬が切れそうになるたびに医者に足を運んで、念のために血圧を測ってもらう。面倒なこと極まりないのだが、半村良の『高層街』で予防医療に重点を置いた新しい医師の姿を模索する主人公の物語を読んだときには、すばらしい、これからの医療はこうあるべきだ、などと感動していたのだ。読書での体験と実体験では感じることが違うということか。いや、このことは読者というもののいい加減さを示しているのかもしれない。
6月13日16時。


posted by olomoučan at 07:14| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ

2016年06月01日

タブロ(五月廿九日)



 オロモウツに限らず、四月の後半から五月にかけてチェコを旅行した人の中には、街中のショーウィンドーに人間の写真がたくさん並んでいるのを見て、何だろうと不思議に思った人もいるかもしれない。もちろん写真に写った人、若者たちを売りに出しているというわけではない。

 チェコの学校制度は、日本とほぼ同じで、義務教育が九年、その上に高等学校の三年間の課程が続く。義務教育は一貫で一つの学校に通うことが多いが、五年+四年に分けて、前半の五年と後半の四年で別の学校に通うこともできる。後半の四年から通う学校は、大抵高等学校と一緒になっているので、日本の中高一貫の学校と同じようなものである。
 大学進学率の低かったチェコでは、この高等学校の卒業というのが、社会へ出ていくための関門として認識されており、卒業に際してさまざまなイベントが行われる。最大のイベントは、「マトゥリタ」と呼ばれる高校の卒業試験なのだが、その難しいらしい卒業試験に合格できたことを、家族も一緒にお祝いするためのパーティーが行われる。
 これは、かなりフォーマルなパーティーで、卒業生たちは社交ダンスを披露することになっていて、ちゃんと踊れるように、卒業試験に向けて勉強が大変な中、ダンスのレッスンを受けるらしい。だからチェコ人の多くはダンスができ、ダンス教室がたくさんあって、テレビのスターダンス(芸能人やスポーツ選手がプロのダンス選手と組んでトレーニングをして優劣を競う番組)も人気があって、ほとんど毎年新しいシリーズが製作されているのだろう。

 その卒業パーティに向けた準備の一環として、クラス単位で作成するのがタブロ(ここにいくつか例がありそう)というもので、展示するために街中の商店と交渉をしてショーウィンドーを貸してもらうのである。街中で、あれこれ見てみればすぐに気づくと思うが、ものすごく手の込んだものもあれば、集合写真一枚でお茶を濁したものもある。
 どんなタブロが出来上がるかは、ひとえにクラスの結束にかかっているらしい。いいもの、独創的なものを作ろうとすれば、お金はもちろん、時間もかなり必要になるため、クラス全員がこのクラスでよかったと思えるようなクラスでないと、なかなかいいものはできてこないようだ。一人二人熱心な生徒がいても、他がみんなやる気のない顔で写っていたら、あまり魅力的なタブロにはならない。

 独創性を狙うあまり、生きたタブロというものに挑戦するクラスもあるらしい。生きた、つまり写真ではなく、生身の本人たちがショーウィンドーの中に入って、みんなでポーズを取って道行く人に見てもらおうというのである。四月中からショーウィンドーの中に、五月何日の何時から生きたタブロを展示するから見に来てくださいなんてメッセージだけを入れておいて、当日みんなで、というわけなのだが、時期的にうまくいかないことが多いようだ。
 五月というのは、年によって差はあるものの、大抵は気温が上がって、ひどいときには三十度を超えることもある。人に見てもらう必要があるから、昼間に実行しなければならない。日の当たる広いとは言えないショーウィンドーの中に大人数で入る。こうやって問題点を数え上げてみればわかるが、暑さに耐えきれなくなって、すぐに終わってしまうのが関の山だという。運がよければ気温があまり上がらず予定の時間を耐えきれるのかもしれないけれども、一度どこかのクラスが失敗したお店では引き受けてくれなさそうである。
 ただでさえ季節感に乏しいチェコで、室内での仕事に没頭するという季節感に乏しい生活を送っているのだが、毎年、このタブロとレストランのザフラートカの準備を目にすると、すでに春が来て、夏に向かおうとしているのだと実感することができる。

 最後に一つ警告をしておこう。毎年この時期には街中に珍妙な格好をした高校生の集団が現れ、道行く人を止めてお金を求めるのを目にすることがある。これも高校卒業のイベントの一つで、卒業学年の生徒たちが、卒業記念パーティーの資金集めに、街の人たちに寄付を求めるという風習のようなものがあるのだ。ひどいときには学校の前の通りにバリケードを築いて、寄付した人だけ通すなんてことをしている連中もいる。そんなのに遭遇したときには、なんて馬鹿なことをしているんだなんていきり立たずに(連中だって馬鹿なことをしているという自覚はあるはず)、いくばくかのお金を寄付していい思い出にしてほしい。チェコのお金じゃなくて日本のお金を与えるといういたずらをしてもいいかもしれない。
5月30日13時30分。


タグ:習慣 高校生
posted by olomoučan at 06:05| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ

2016年05月24日

氷の男たち(五月廿一日)



 四月になって気温が上がり、本格的な春が来たと思って喜んでいたら、突然寒さがぶり返して、最低気温が気温が氷点下に下がる日が数日続いた。そのとき「氷の男たち」と呼ばれる時期はこのあたりだったのかと思ったのだが、「氷の男たち」は四月ではなくて五月だった。

 チェコのカレンダーを見たことがある人は、それぞれの日に名前が書いてあることに気づいているだろう。特別な祝日など、名前の書かれていない日もあるけど、キリスト教の聖人の名前が並んでおり、チェコの人が、子供に名前をつけるときには、原則としてこのカレンダーにある名前の中から選ぶ。だから名前の由来になった聖人の日は、チェコ人にとって、もう一つの誕生日のような意味を持つ。「名前の日」なんて言われることもあるのかな。
 もちろん誕生日ほどのお祝いをするわけではないようだが、街中を歩いていると、花屋などの店先に、カレンダーの今日の名前が大きく書かれているのは、知り合いにその名前の人がいたら、プレゼントを買うようにということなのだろう。あれ、でも師匠は、誕生日とか名前の日のお祝いは、前日にするものだといっていたような気もする。そうすると、お店の入り口の看板に書いてあるのは、今日じゃなくて、明日かもしれない。

 カレンダーに並んでいる名前には、ヤンやマルティンなどのチェコ人によくある名前ももちろん多いが、一度も聴いたことのないような、うちのの言葉を借りれば、古めかしい名前も並んでいる。チェコ人の名前に関しては、一昔前は、アメリカの映画やテレビドラマ、場合によっては南米のテレノベラといわれるドラマの登場人物の名前から、カレンダーにない名前を選ぶ親が増えていたらしいが、最近はまた伝統的なチェコの名前を選ぶ親が増えているらしい。親の心理として子供には特別な名前を与えたいというのもあるはずだから、今後は古い半ば忘れられた名前の復権もありうるのではないかと期待している。

 チェコのカレンダーに、パンクラーツ、セルバーツ、ボニファーツという三人の男の名前が並んでいるのが五月十二、十三、十四の三日間である。この時期にその年最後の寒波が襲ってくることが多いことから、この三人のことを「氷の男たち」と言うようになったらしい。今年も、五月に気温が気温が急激に下がり、南モラビアのワイン農家の育てているブドウに大きな被害が出たのだが、それがちょうど「氷の男たち」の日か、その次の日だった。長年の経験に基づいた天気の予測というのも侮れないものである。
 この時期の変わりやすい天気のことを、チェコ語で「アプリロベー・ポチャシー」という。アプリルは英語のエイプリルから来ているのだろうから、「四月の天気」というところか。いや、五月の天気に四月というのも変なことを考えると「エイプリルフールみたいな天気」と訳すのがいいかも知れない。気温の変化と突然の雨に騙されたような気分になることも多いし。

 カレンダーに載せられた名前に関する天気の予測にかんしては、「聖マルティンは白い馬に乗ってやってくる」というのがある。最近フランスのボジョレヌーボーを真似て、聖マルティンのワインという新酒のワインの発売が解禁されるようになった聖マルティンの日、つまり十一月十一日には、毎年のように雪が降るということを示しているらしい。
 氷の男たちにしても、聖マルティンにしても、いわゆる民間伝承、俗信の類なので、当たることもあれば外れることもあるだろうから、どのぐらいの確率で当たるのか統計があるといいのにと思ってしまう。
5月23日9時



 またまた気取った文章を書こうとして沈没。うーん、分量的にはこれくらいでまとまるのが理想なのだけど、構成のほうが……。5月23日追記。
タグ: 言伝え 名前
posted by olomoučan at 06:13| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ

2016年05月07日

チェコ宗教事情(五月四日)



 外国で、自分は無宗教だとか、宗教を信じていないなどと言ってはいけないというのは、八十年代の日本で、よく聞かれた言説であるが、チェコではチェコ人自身が無宗教ということも多く、無宗教だろうが、無神論だろうが、好きなように答えて何の問題もない。下手に仏教や神道を信じているなどと答えたほうが、あれこれ質問されて、大変かもしれない。もし、仏教や神道のことに詳かったとしても、語彙の関係上説明しきれなくなってしどろもどろになるのが落ちである。
 昔、電車の中でたまたま一緒になった人に、日本では仏教と神道の信者の数を合計すると人口よりも多くなるという話を聞いたんだけど、それは本当なのかと、質問されて、言葉を尽くして説明したけれども、あまりわかってもらえなかったことがある。仏教徒だとも神道の信者だとも言った覚えはないのだが、チェコ語の勉強をかねてがんばってみた。神社本庁とか、チェコ語で何て言えばいいんだろうなんて考えながらの説明だったから説得力を欠いたかな。
 チェコにキリスト教信者が少なく、無宗教だという人が多いのは、歴史的なことが関係している。ルターやカルビンの宗教改革に先んじて、キリスト教の腐敗を糾弾したヤン・フスを生んだこの国は、宗教にある意味で裏切られ続けてきた。フス派戦争と、その後の再カトリック化、三十年戦争で国土は荒廃し、信仰を理由に弾圧や追放を受けた人々も多かった。

 そして、二十世紀の宗教共産主義にも、1968年のプラハの春で完全に裏切られてしまい、多くの人々は、信じることに絶望してしまったのだと思う。信じるものを求めて、共産主義からキリスト教に宗旨替えした人もいるみたいだけれど。
 チェコ語の師匠から聞いた話だが、師匠のお母さんは、親からかなり大きな農地を相続して農業に従事していた。それが共産党が政権をとった後の国有化によって、その農地を没収されてしまった。国のやったこととはいえ、実行犯は同じ村に住む人たちで、中でも特に熱心な男がいたらしい。
 1989年のビロード革命の後、初めて行われた国会議員の選挙のときに、選挙管理委員として席に座っていたその男を見つけて、師匠のお母さんは、「何でお前みたいな共産党員がこんなところにいるんだ」と、激昂して掴みかかってしまったと言う。国有化と称して自分の農地を奪っていった男が、民主化後もえらそうにしているのが許せなかったらしい。
 師匠もそのときはお母さんと一緒にその男を非難してしまったけど、後で冷静になってからいろいろ調べてみたところ、熱心な、いや、熱狂的な共産党員で、共産党が政権を取った時期に指導的な立場にあったその男は、プラハの春を押しつぶすためにやってきたソ連軍に講義する運動に参加したため共産党を追放されていたらしい。そして、ビロード革命当時は、今度は熱心なキリスト教信者になっていて、指導的な立場にあったのが、師匠のお母さんには許せなかったわけだ。
 師匠は、その男は、本当に心の底から共産主義を信じていたから、ソ連軍がチェコにしたことを許せなかったんだろうねなんてことを言っていた。でも、私が気になったのは、むしろその男がキリスト教に鞍替えしたことで、いくら師匠の故郷にはモラビアでも最大の巡礼地となっている大きな教会があるとはいっても、当時弾圧されていたはずのキリスト教に、そうそう入信するものなのだろうか。

 それで、思い出したのが、どこまで事実なのかは知らないが、戦後のある時期の日本で、共産党の活動方針に絶望した共産党員の多くが創価学会に流れたという話だ。それが創価学会と共産党の血で血を洗うような闘争の原因の一つにもなっているというのだが、宗教と共産主義の親和性というか、共産主義というものが、いわゆる新興宗教と同じレベルでの選択肢の一つになっていたということなのだろう。共産主義政権下でのキリスト教も、一部の熱心な人々によってのみ支えられたという意味で、カルト化していたはずだし。
 EUが押し付けようとする「民主主義」も、総本山の恣意的な解釈による運用によって、単なるありがたいお題目と化している嫌いがある。民主主義を標榜するEUの、特に旧共産圏の新しい加盟国に対する振る舞いは、助成金という人質を取った上での恐喝に等しい。「助成金がほしかったら、この制度を導入しろ」という論理は、ひっくり返せば、「この制度を導入するなら補償金をよこせ」というどこかで聞いたことがあるような論理になってしまう。これが民主主義的なやり方だというなら、日本の文部省がやっていることも十分以上に民主的だよなあ。うん。

 数年前に中東から北アフリカにかけての地域で、民主化をお題目にした「アラブの春」なる運動が吹き荒れたが、その結果は参加者たちの望んでいたものとは大きくかけ離れているだろう。カダフィなどの独裁者を倒せたのはよかったにしても、その後の混乱した情勢で何の支援もなく放り出されたのを見ると、民主主義というものの無責任さ残酷さを見る思いがする。そしてもう一つ気になるのが、言葉自体が独り歩きし始めて、「民主主義」のためなら何をしてもかまわないというような考えがはびこり始めてはいないかということだ。
 かつては、共産主義というものの存在が民主主義を相対化して、民主主義が絶対的で普遍的な真理になるのを防いでいた。共産主義だって内実はともあれ、民主主義を標榜していたのだから、民主主義というものを絶対視することはためらわれた。そのかせが外れて四半世紀、EU的民主主義を相対化できるものが出てこないと、何だかとんでもない方向に世界が進んでいくのではないかと思われてならない。

5月5日16時30分。

 うーん。苦しかった。最後は無理やり結論みたいなものを取ってつけたけれども、久しぶりに考えが堂々巡りに入って、当初は想定していなかった方向に話が展開して着地し損なったという感じである。チェコの政教分離に話を持って行って、ヨーロッパ批判をするつもりだったのに、どうしてこうなったんだ? そもそも『小右記』について毎日書くのは時間がかかりすぎるから、簡単に書き上げられそうなテーマということで始めたのに、余計に時間がかかってしまった。今回もちょっと看板に偽りありである。5月6日追記。

 題名にはちょっと惹かれる。


EU消滅 [ 浜矩子 ]



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2016年04月29日

カレル四世(四月廿六日)



 チェコ系の王朝であるプシェミスル王朝が、オロモウツでバーツラフ三世が暗殺されたことで、断絶した後、ボヘミア王の地位を襲ったのは、ドイツ系のルクセンブルク家であった。このルクセンブルク家から出たのが、チェコの歴史上最高の君主とされるカレル四世である。実はこのカレル四世というのは、後に即位した神聖ローマ帝国の皇帝としての名前で、ボヘミア王としてはカレル一世なのだが、チェコでも、ボヘミア王としての名前ではなく、神聖ローマ皇帝としての名前でカレル四世と呼ばれている。これは、非常にありがたい。同じ人物を呼ぶのに立場によって別の数字を使われたのでは、頭が痛くなる。
 問題はこの人物の名前が、日本ではさまざまに書かれることで、チェコ関係者はカレルを使うが、ドイツ系の人は、カールとかカルルとか言いそうで、英語系の人はチャールズにしてくれるのだろう。逆に、チェコ語でルドビーク十四世とか言われて、誰だろうと頭をひねっていたら、フランスのブルボン王朝のルイ十四世のことだったのには、唖然としてしまった。わが敬愛するベートーベンの名前ルートビヒが、翻訳するとルイになるなんて……。
 現代の人物については、名前の翻訳をしないのだから、歴史上の人物についても、何とかしてくれないものかと思う。ただ、何人と決めかねる人の場合に、関係国の間で論争が起こりそうな気もする。その場合、英語で統一となりかねないことを考えると、現状のほうがましなのか。

 チェコには、プラハのカレル大学やカレル橋をはじめ、カルルシュテイン城、カルロビ・バリの温泉などカレル四世にまつわるものがたくさんある。チェコで初めてワインを造らせたのも、少年時代に半分人質の意味もあってフランス王の宮廷で過ごしたカレル四世だったという話もある。最初に造られたワインを一口飲んで、こんなまずいもの飲めるかと言ったのに、飲み続けて最後にはこんな美味しいワインは飲んだことがないと言い出したとかいう笑い話を、以前師匠がしてくれたんだけど、どこが面白いのかさっぱりわからなかった。チェコ語の出来が悪かったせいで肝心の部分が理解できなかった可能性はあるのだけど、チェコの冗談はわかりにくいものが多いんだよなあ。

 さて、カレル四世の生誕700年に当たるのが、本年2016年なのである。そのため、テレビでも、伝記映画をはじめ、さまざまな特別番組が企画されている。それに先立つ形でニュースで取り上げられたのが、カレル四世の健康状態に関するレポートだった。共産主義の時代に、カレル四世の棺を開けて遺骸の調査を行ったことがあったらしい。祖国の父とまで言われる人物に対してこんなことができたのは、さすが神を恐れぬ共産主義者というべきなのだろうか。今年は生誕700周年とはいえ、棺を開くことはしないそうである。

 とまれ、そのときの調査結果によると、カレル四世は、何度も大きな怪我をしているらしい。中でも頚椎に見られる骨折は、死ななかったのは、強靭な肉体と処置をした医者の腕がよかったおかげだとしか言えないのだという。もちろん幸運も味方したのだろうけど。そして、カレル四世の肖像の中には首を妙にすくめている姿を描き出しているものや、首を少し傾けているものがあるけれども、これは怪我の後遺症で、首をひねって顔を左右に向けることができなくなってしまい、頭だけでなく上半身全体を左右に向ける必要があったカレル四世の姿を見事に捉えているらしい。中世の写実的芸術ということになるのか。
 それから、下あごの骨には、四回の骨折のあとが見られるという。聞くだけでも痛そうな話だが、今回、前回の調査で残された写真などの資料を再調査した結果、肩甲骨が割れていることも判明したらしい。肩甲骨の骨折だなんて、骨折自体の痛みもすごそうだけど、それによってどんな問題が起こるのかも想像できない。

 これらの怪我の原因については、おそらく騎士の馬上試合であろうという。中世を舞台にした映画などで見かけるこの西洋の競技は、日本語で騎馬隊などという言葉からは想像できないほどに野蛮である。重そうな甲冑を身にまとって馬に乗り、手に持った、いや脇に抱え込んだ木製の長い槍を相手に向けて馬を走らせ、ぶつかる瞬間に急所をめがけて槍を動かし、相手を突き落としたほうか勝ちというものだが、いつ死人が出てもおかしくなさそうである。
 カレル四世も、槍の当たり所が悪くて下あごの骨を骨折し、馬から転落した際の落ち方が悪くて、頚椎や肩甲骨を骨折したのだろう。国王になってからは馬上試合なんかできなかったろうから、フランスでの出来事だろうか。驚くべきは、王の後継者であったのに、こんな危険を冒していたことだ。それとも当時は普通だったのだろうか。

 高校時代に勉強したことを思い出してみると、カレル四世は、いわゆる金印勅書を出して、神聖ローマ帝国の皇帝選挙制度を確立した人物である。「選帝侯」なんて栗本薫の『グインサーガ』で知った言葉が実在することを知ったときには、ちょっとした感動を覚えたものだが、チェコにいるとカレル四世の神聖ローマ皇帝としての事跡が見えいにくい嫌いがある。こういう国際的なレベルで活躍した人物の評価が、自国内での事跡に基づいて語られることが多いのはよくあることなのだろうか。ドイツやオーストリアの人たちが、カレル四世についてどのように考えているのか聞いてみたいところではある。

4月27日23時。 


 お、何ともタイミングのいいことにこんなの発見。4月28日追記。

【輸入盤】『13、14世紀プラハの音楽〜カレル4世生誕700周年記念』 スコラ・グレゴリアーナ・プラジェンシス [ Medieval Classical ]


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2016年04月24日

ザフラートカ(四月廿一日)



 四月に入り気温が廿度近くまで上がる日が増えて、あちこちのレストランで、「ザフラートカ」の準備が始まっている。すでに営業を開始しているところも何軒かある。「ザフラートカ」というのは、室内ではなく屋外にテーブルと椅子を置いて、ビーチパラソルのような大きな日よけの傘を使って日陰にした座席で、食事などを提供するものを言う。夏になると、いや日本人の感覚では春が本格的になると、室内よりも屋外で食べたり飲んだりする人が出始める。
 この言葉は、庭を表すチェコ語「ザフラダ」の指小形なので、ビールを飲ませる場合には、ビアガーデンと言ってもいいだろう。レストランが入っている建物に中庭がある場合には、中庭を使うことが多し、レストランの前の歩道や、広場にある場合には広場の一部を占拠して(許可は取っていると思うけど)、「ザフラートカ」を出すお店もある。大きな道路の歩道のザフラートカは、車の交通量の多い場合には、空気がよくないので避けたほうが無難かもしれない。
 ただし、ビールを飲ませるレストランだけでなく、喫茶店やケーキ屋さんなどでも、このザフラートカを出す場合があるので、ザフラートカ=ビアガーデンというわけにもいかないのである。喫茶店でもビールを飲める場合が多いけれども、例えばホルニー広場の喫茶店マーラーのザフラートカでは、冷たいアイスクリームを食べて、コーヒーかジュースを飲んでいる人が圧倒的に多いのである。

 チェコの人は、日本人よりもはるかに寒さに強い、若しくは暑さに弱いので、ちょっと気温が上がると外で食べたり飲んだりするほうがいいと考えるようである。だから日中の最高気温が20度にならないうちから準備を始めて、夏が終わった後も、肌寒いと感じるようになっても、ザフラートカでの営業を続けてしまうのだろう。チェコ人と飲みに行くと、こっちがちょっと寒いから中のほうがいいかなあと思っていても、多数決で外で飲み食いすることが多い。
 この点で、チェコ人に近いのが北海道の人である。数年前の九月の初めだっただろうか、秋も深まりと言いたくなるような涼しい日の夕方、チェコ人の友達から、日本でお世話になっている人と飲んでいるから出て来いと呼ばれて、飲み屋に向かった。すでに日は沈み急に気温が下がり始めていて、寒いと思いながらその店に行くと、友人たちは、店の中ではなくザフラートカで飲んでいたのである。
 寒さに震えて冷たいビールを飲みながら、日本の人にとってこの寒さの中でビールを飲むのはつらいですよねと聞いたら、その日本からオロモウツに来た方は、にっこり笑ってそんなことはないと答えた。北海道の出身だから寒さには強いんですよと付け加えられて、北海道はチェコに似ていると言われることがあるのを思い出した。真冬でもサンダルで近所の飲み屋に行ってしまうのだとか。これではチェコ人以上である。

 チェコは四季があると言われるとはいえ、一部の年中行事を除くと季節感を感じさせるものはそれほど多くない。九月の終わりや、五月の初めに降る雪に、冬を感じていいものなのかわからないし、気温が三十度を越えてしまう年もあるので、五月を春というべきなのか悩んでしまう。そんなチェコで、夏という季節を強く感じさせるのが、サフラートカである。特にビアガーデンとなっているザフラートカで大声でしゃべりながらビールを傾けている姿を見ると、多少肌寒い天気でも、夏が来たのだと思わされることがある。
 先日の肌寒い小雨のぱらついた日には、ドルニー広場のザフラートカで、備え付けの毛布を被って震えながら食事をしているのを見かけてしまった。そこまでして外で食べたいのかなあ。ザフラートカの出ている間は、強い雨の降らない限り意地でも外で食べるという人もいるみたいである。夏の短い、ときに本当の夏の存在しない年もあるチェコでは、ザフラートカで飲み食いをすることで、夏なのだと自分に言い聞かせているのかもしれない。うがった見方ではあるけれども、ザフラートカへのこだわりの中には、チェコ人なりの季節感が隠れているに違いない。

 時々、偉そうに季節感というものは日本人にしか理解できないと主張する人がいるが、そんなことはない。チェコ人にもチェコ人なりの季節感はあって、その発露の仕方が日本人にはわかりにくいだけである。

4月22日23時。




園芸家の一年 [ カレル・チャペック ]


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2016年04月21日

チェキアってどこ?(四月十八日)



 日本語で、チェコ共和国といい、チェコと言う。チェコ共和国が正式名称で、チェコが略称ということになる。チェコではここしばらく、この略称チェコにあたる言葉をどうするかで議論がかまびすしい。どうも、日本語のチェコにあたる言葉がないわけではないけれども、公式には認定されていないらしい。こんなの「にほん」と「にっぽん」の違いと同じで、特に公認する必要もないし、公認されたところで、それを実際に使うかどうかはまた別問題だと思うのだが、チェコでは微妙に事情が違うようだ。
 日本では、恐らく外務省によって決められた公式の名称は、チェコではなく「チェッコ共和国」である。しかし、日本でその呼称を、略称である「チェッコ」も含めて使う人はいないし、外務省自身も、元首の公式訪問などの場でもない限り使用することはないはずである。このあたりの日本のいい意味でのいい加減さは失われてほしくない。

 しかし、考えてみると、日本語の「チェコ」という名称にも問題がないわけではない。1993年のいわゆるビロード離婚以前は、チェコスロバキアという国であった。チェコ語、スロバキア語では、チェスコスロベンスコと呼ばれていたこの国の、英語名からカタカナ化して日本語として使っていたわけだ。そして、チェコスロバキアという名前が一口に言うには長すぎるため、「チェコ」のみで、チェコスロバキアを表すこともあった。かつて、日本の人がスポーツなどでチェコスロバキアを応援するときに、「チェコ」としか言わないのに、微妙な気分になるというスロバキアの人の話を聞いたことがある。それに今でも年配の日本人の中には、「チェコ」と言えば、チェコスロバキアの略だと思っている人もいる。
 その本来チェコスロバキアを指す略称であった「チェコ」が、チェコとスロバキアが分離したときに、現在のチェコの部分のみをさすように使い方が変わったのである。その際、チェコでは問題となったモラビア、シレジアはどこに行ったのかという疑問は、日本語では必要なかった。なぜなら、チェコ語で「チェヒ」と呼ばれる部分はボヘミアというため、チェコ全体を指す「チェコ」との類似性が発生しないからである。

 1993年にチェコとスロバキアが分離したときにも、この問題が議論の対象となり、「チェスコスロベンスコ」の前半「チェスコ」を、チェコ共和国(「チェスカー・レプブリカ」)の略称として使おうという意見があったらしい。しかしチェコでは、ボヘミア地方を「チェヒ」といい、それから派生した形容詞「チェスキー」、それが別の形容詞につながるときの形である「チェスコ」という言葉にには、ボヘミア臭が強すぎて、モラビアやシレジアの存在が消えてしまうという人がいるのである。その大半は、モラビア、シレジアの人であろうが、ハベル大統領もチェスコを公式の名称にするのは抵抗があると言って反対していたようである。
 このボヘミア、モラビアの地域間の対立は、最近は和らいでいるような気がする。チェコのサッカー協会は、以前は、ボヘミア・モラビアサッカー協会が正式名称だったが、数年前にチェコ共和国サッカー協会に改称された。2000年ごろには、それこそ、ボヘミア協会とモラビア協会に分離して、リーグ戦だけ、共同で開催するようにしようかという案もあったのである。ただ、協会が分かれた場合には、代表チームも別々に組織しなければいけないということが発覚して撤回されたけれども。
 スロバキアとの分離独立から四半世紀近くたった現在では、さまざまなメディアで「チェスコ」という表現が、所与のものであるかのように使われるようになった結果、「チェスコ」に反対する人は、減っている。それでも、反対という人はいて、「チェスコモラフスコ」はどうだなんて声もあるのだけど、それでも、シレジアはどこに行ったのかという批判には答えられないし、長すぎて略称がほしいという点では変わらない。

 さらに問題をややこしくしているのが、この際英語での略称も決めようという主張である。英語には「チェコ共和国」という正式名称しか存在しないために、ビジネスの話をするときに苦労するなんて話には、あほらしいとしか思えなかったが、長野オリンピックの時のホッケー代表のユニフォームに、煩雑さを避けるために「チェック(Czech)」としか書かれていなかったという話には、英語でも略称があったほうがいいのかなとは思わされた。いや、正直に言えば、世界が画一化していくことを嫌う私にしてみれば、多様性を保つためにも、英語じゃなくてチェコ語で書けばいいだけの話じゃないかというところなのだけど。
 その議論のなかで、「チェスコ」の英語バージョンとして推す人が多いのが「チェキア(Czechia)」である。上記の「チェスコ」と同じ理由での反対とは別に、問題が一つある。それは発音がわからないという点である。提案している人たちは、明確に「チェキア」と発音し、そのように読ませたいらしいのだが、意見を述べている人たちの中には、チェコ語風に「チェヒア」と読んでしまう人もいたし、何も知らない日本人だったら、「チェチア」とか読んでしまいそうである。
 英語の名称では、ポーランドの例に習って、「チェックランズ」というのはどうだろうかという意見があった。複数形にすることで、ボヘミア以外の領域があることも主張できるということらしい。うーん、英語は使わないからどうでもいいと言えばいいのだけど、どちらもさして魅力的に響かない。どちらかを選べと言われたら、「チェックランズ」のほうがいいかなあ。ちょっと長いけど。

 ここ一週間ほどの間に、何度もテレビのニュースで取り上げられ、特別番組の中で専門家たちの議論が行われているのだが、どうも国会で審議するらしい。国の略称なんて、それこそ定着途中の「チェスコ」と同じように、使用されているうちに自然に定着するものなのではないのだろうか。
 現在チェコの外務省が焦って国定の英語における略称を決めようとしているのは、それを国連の加盟国の名称一覧に登録するためらしい。他の国は、例えばスロバキア共和国が正式名称ではあっても、スロバキアという呼び名も登録されているため、正式に国名としてスロバキアも使えるが、チェコは登録された略称がないため、つねにチェコ共和国を使用しなければならないのが負担なのだそうだ。

 チェコの国会も暇なのかねえ。不法移民問題など審議しなければならないことは山のようにあるはずなのだけど。仮にこの提案が可決されて、英語での正式の略称が「チェキア」になった場合、チェコ政府は、すでに定着した表現を持つらしいフランス語、ドイツ語以外の言葉で「チェキア」を使うように求めるのだろうか。グルジアが「ジョージア」と呼ばれることを求めた例もあるし。
 日本人の適当さを考えれば、求められて日本政府がそれを受け入れたとしても、私も含めて大半の日本人は「チェコ」を使い続けるだろう。「チェキア」なんて魅力的に響かない名称が、定着して久しい「チェコ」を押しのけうるとは思えない。いや、いっそのこと、英語での正式の略称も「チェコ」にしてしまえばいいのだ。「チェコスロバキア」の前半部分という点では、英語も日本語も変わらないのだから。
 それがだめなら、現地の呼称を優先するという近年の傾向に則って、英語でも「チェスコ」でいいじゃないか。それなら、日本語でも使ってもいいと思えるし、同じ場所なのに、使用言語によって呼び方が違うというのは、いい加減やめてもらいたい。チェコ語でコリーンと言われて、プラハの近くのトヨタの工場のある町だと思ったら、実はドイツのケルンだったなんてのを、そろそろどうにかしてくれないものだろうか。今の状況が歴史的な経緯の中から生まれてきたものだということは、重々承知しているのだけれども。
4月19日18時30分。





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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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