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2016年11月15日
十一月十一日(十一月十二日)
十一月十一日という題名で、十一月十二日の記事を、十一月十三日に書き終わる予定である。
十一月十一日は、チェコのカレンダーではマルティンの日である。仕事帰りに共和国広場からを出ですぐのところのトラム通りから、プリマベシに向かう通りが分かれているところに、いくつかのスタンドが並んでいた。一番手前の出店ではチーズを扱っているようだったが、それ以外はワインのボトルが並んでいた。
チェコも日本同様に商業主義に犯され始めているため、クリスマス商戦の始まりも年々早くなっている。十一月に入るとホルニー広場でクリスマスマーケット用の出店の小屋の準備が始まっていたこともあって、ここにもクリスマスマーケットの出店が出るようになったのかと思った。プンチという甘ったるいいろいろ混ぜて温めた酒を飲ませるものが大半を占めるとはいえ、マーケットは年々拡大の傾向を見せてはいるし。
しかし、実は、これ、聖マルティンのワインと呼ばれる特別なワインの販売だったらしい。チェコでは、毎年十一月十一日十一時十一分(十一時ちょうどだったかもしれない)に、その年生産されたワインの販売が解禁される。長期間熟成させるためのワインではなく、新酒として飲むためのワインで、フランスのボジョレ・ヌーボーのようなものである。
チェコの聖マルティンのワインは、特定の品種のぶどう、白三種類、赤二種類のぶどうから生産されていること、チェコ国内で育てられたぶどうからチェコ国内で醸造されていることの他にも、色合いや、香り、味などにも基準があり、審査を経てその基準を満たしたと認定されたものだけが、名乗れ、十一月十一日に発売できるらしい。
以前はチェコでもそれほど大きな注目を集めていたわけでもないのだが、今年は街の中心のホルニー広場でカウントダウンが行われていた。あるスーパーでは、ワイン自体は陳列棚に並んでいるものの値札もつけられておらず、時間になるまでは販売できないと店員が客に説明していたようだ。十一時に陳列を始めるとかやったほうがイベント的にはよかったのではと思わなくもないが、去年はまだこんなことはやっていなかったと思う。気づかなかっただけか?
日本でも九十年代にフランスのボジョレ・ヌーボーがはやったことがある。たしか、解禁日が決められていて、時差の関係で日本のほうが早く解禁するというので、航空便でワインを送らせてなんて無駄としか言いようのない大騒ぎをしていたのを覚えている。今もやってるのかね。
チェコでも、そのボジョレー・ヌーボーまねて、ビロード革命後の1990年代にあるワイン業者が企業努力の一環として、ワインの新酒の発売を始めたらしい。それが全国的に拡大され、さまざまな業者から発売される基準を満たしたワインの新酒が聖マルティンのワインの名で市場に出されたのが、2005年のことだったという。
現在では国外にも輸出されるようになり、日本へ輸出されるものもあるというのだけど、本当なのかね。ワイン好きが珍しさから手を出すのかね。何とかいうワイン評論家がモラビアのミクロフのワインを絶賛したとかで、日本でもチェコのワインの人気が上がっているらしいからなあ。1990年代は、チェコ関係の商社でも、スロバキアのワインは輸入していたけど、チェコからはワインじゃなくてベヘロフカだったのだけど、時代は変わるものである。
では、どうして聖マルティンの日に、解禁されるのかというと正直よくわからない。ただ、十一月の中では重要な聖人の日だとは言えるのかな。この日にはガチョウ、またはカモを食べる風習があるらしく、レストランなどではこの日を含む週に特別メニューとしてガチョウ料理、カモ料理を提供するところも多い。昔、行きつけだったブ・ラーイのレストランで、このイベントに当たって、おいしく食べた後におなかを壊したことがあって以来、個人的には、ガチョウ、カモの肉は食べないのだけど、好きな人にはたまらないらしい。
また、十一月十一日に関しては、「聖マルティンは白い馬に乗ってやってくる」という言葉があって、この日に雪が降ると、その年の冬は雪が多くなるという意味らしい。
この日、オロモウツでは気温は下がったけれども、雪は降らなかった。でも、夜テレビで見たチェコとノルウェーのロシアワールドカップの予選の試合は、雪のちらつく中行われていたから、今年の冬は雪が多くなるのだろうか。大雪ではなかったから、雪は降るけれどもそれほどたくさんは降らないという冬を期待しておこう。いや、水不足になると困るから、山間部では大雪でオロモウツなどの平野部では少ないというののほうがいいか。
11月13日16時。
聖マルティンのワインはなかったので、飲んだことはないけど南モラビアはミクロフのワインを。こんなボトル見かけたことないんだけど、輸出用なのかな。リーズリンクとか言われてもぶどうの種類だろうというぐらいのことしかわからない。11月14日追記。
2016年11月10日
荷物が税関で止まったら(十一月七日)
先日チェコに来たばかりの人に、日本から送ってもらった荷物が届かずに、郵便局からわけのわからない書類が届いたので助けてほしいと言われた。大した書類でもないのだけど、チェコ語がわからない人の中には、困ってしまう人がいるかもしれないので、簡単に対処の仕方をまとめておく。
まず、これから書くのは、税関から請求される税金を素直に払う場合の対処法であるということを、前提に読んでほしい。日本で使っていた私物の場合、家族や友人などからの贈り物などの場合に、税金を払わせられるのは納得が行かないという人もいるだろうけれども、税金を払わずに済ませるためにかかる時間と労力を考えたら、払ってしまったほうがましなのである。チェコ語がある程度できる人間でさえ、こう思うのだからチェコ語ができない人にとっては、苦行以外の何物でもあるまい。素直に税金を払うことをお勧めする。
どうしても払いたくないという人は、以前も書いたように2kg以下の荷物に小分けして、別々に手紙扱い、スモールパケットとかいうので送ってもらうことだ。内容物に事実に反することを書いたらチェックされていちゃもんつけられるかもしれないし、荷物の価値として低い金額を書き込んでも税関で査定しなおされるかもしれないので、我が友人が、もちろんチェコ人ね、使うという内容物はほとんどごみのようなもの、価値はほとんどなしで送るのは、あまりお勧めできない。
さて、郵便局からはあれこれ事情を説明した紙と、申請書のようなものが二枚届くはずだ。それに必要事項を記入して、スキャンして郵便局の指定するメールアドレスに添付ファイルで送らなければならない。追加で内容物の一覧を送れといわれることもあるけれども、とにかく最初の二枚を送らなければ話にならない。
一枚目は、チェコの郵便局に出す通関の依頼をメールでやり取りすることをお願いするための書類である。以前は郵送で処理していたことを考えると大きな進歩である。進歩ではあるのだけど、余計な手間かけさせやがってという気分はぬぐえない。
チェコ語で「ŽÁDOST O ELEKTRONICKÉ ZASÍLÁNÍ/OZNÁMEÍ O PŘICHODU ZÁSILEK ZE ZAHRANIČÍ」とか何とか書いてあるのがその書類で、「2. Uživatel」のところの太枠で囲まれている部分だけ記入すればいい。「Jméno…」と書かれている下の一番上の欄には、ヨーロッパ風に名前、苗字の順番で書き込む。今時筆記体を使う人は少ないと思うが、ローマ字の活字体で読みやすく記入すること。この手の書類の場合には全部大文字で書くことも多い。
以下の三つの欄は、郵便物の送り先に書かれている住所を記入する。一番上が通りの名前と建物の番号である。大切なのは通り名の後に番号を書くことで、アメリカなどのように番号が最初に来るという意味不明なシステムはチェコには存在しないのである。二番目が市町村の名前。最後が郵便番号である。自分が住んでいるところの住所は知っているだろうから、要はその住所を分割して記入すればいいだけである。
その下の細い線で囲まれた枠は、上の住所以外の場所に送ってもらいたいときに記入するので、自宅宛に送ってもらったけど、職場に転送してほしいなんてことでもない限り記入する必要はない。そして、チェコで仕事をしている人であれば、こんな文章を参考にする必要もないだろうから、無視してかまわないということになる。
その下の部分は、特に説明がなくても連絡が取れる自分のメールアドレスを記入する場所であることは理解できるだろう。
その下の枠のない部分に「V」とあるので、その後ろに住んでいる町の名前を六格で記入するのだけど、六格がわからなかったらそのままの形でもいいだろう。「dne」の後ろには日付をこちら流に、日、月、年の順番で記入し、最後に「Podpis」の上に自分の署名をしておしまいである。署名はローマ字でも漢字でも何でもいいけれども、自分がどんな署名を使うのかは決めておいたほうがいい。もう一枚の書類と署名が異なっていたら、問題になるだろうから。
二枚目は簡単に言えば委任状である。郵便局が荷物の受け取り手に代わって通関の手続きをするために必要らしい。チェコでは「PLNÁ MOC」と書かれている。一番上の点線の上には、自分の氏名、生年月日を、こちら流の順番で記入する。二番目は、現住所なので、日本の現住所をこちら流に記入すればいい。順番は、下の説明を見ると、町、郵便番号、通り、番号の順番のようだが、普通の住所のように書いてしまってもかまわないだろう。もちろん「JAPONSKO」と記入するのを忘れてはいけない。
あとは真ん中より少し下にある点線の上に、左側は名前と苗字、それに署名、右側には署名した日付を記入して終わりである。とこれで終わりにしようとして、普通はその下に「Doručovací adresa I」のところに送り送り先の住所を書かなければならないことに気づいた。いやあ、チェコで永住権みたいなのもらっちゃったから、現住所がチェコにあるんで、不要なんだよね。ということで、本当の意味で長期滞在していない人は、ここに送り先の住所を書いておこう。
これをメールで指定のアドレスに送ってやれば、郵便局が通関の手続きをした上であて先に届けてくれる。ただし、受け取る際に税金分を請求されるので、それは計算に入れておくこと。それから、どのようにして税金の額が算出されているかも、時間の無駄だから気にしないほうがいい。気にしたところで郵便局の人には決定権はないので。どうしようもないのだ。
さて、この文章が役に立った人はいるのだろうか。
11月7日23時。
2016年11月07日
寒い(十一月四日)
東京には空がないというのは誰の詩だったっけ?
とまれ、チェコには秋がない、本当の秋がない。
いや、チェコ人は言うんだよ、今は秋だと。でもね、朝晩の気温が氷点下にまで下がるような時期を秋なんて言葉で呼びたくないと思わないかい?
秋というのは、夏のくそ暑さが消えて、過ごしやすい涼しい季節を言うのであって、寒さに震えるような、暖房が必要になるような季節を言うんじゃないはずだよね。確かに日本の秋と同じで、木の葉が色づき散り、公園を歩くと落ち葉の上を歩いているような状態になっているけど、路面から伝わってくる冷たさが違う。
チェコに来てすでに十五年以上、大抵のものには慣れてしまって、そんなもんさで片付けてしまうのだけど、慣れないものが二つ。冬のくそ寒さと長さ、もう一つは、これまで何度も書いた夏時間である。慣れないというよりは慣れたくないというのが正しいかもしれないけど。
一応、日本の南国と呼ばれる地域出身の人間としては、寒いほうが嬉しいだなんて、雪が降ったほうが嬉しいだなんて口が裂けても言えやしない。日本にいる間は、東京にいた時期でも、マフラーなんて使わなかったし、帽子だって真夏にスポーツをするときの日差し除け以外には被ったことがない。
それなのに、年寄りの、いやもう十分に年寄りだけどさ、履くもんだと思っていた股引、ズボン下、長靴下、何でもいいけど、ズボンとパンツの間にもう一枚下着が必要なんだよ。靴だって、今はまだ頑張ってるけど、もう少ししたら内側が起毛になっていたり、暖かい素材が使われたりしていて外の革も厚くなっている防寒仕様の冬靴が必要になるんだよ。小学校時代は、真冬でも裸足で運動場を走り回っていたのに。靴下なんて部屋の中で履くもんじゃなかったのに、ときどき二枚重ねて履くんだよ。
暖房は利いているから部屋の中は、日本のよりずっと暖かいんだけど、何か冷たいんだよ。足が触れるものが。床とか、カーペットとかさ。死ぬほど寒かった冬には暖房が入っていても、十分以上に寒かったし、やっぱりチェコの冬は嫌だ。
チェコには秋はないと書いたが、春はあるのかって?
どうなんだろう。春もあるのかないのかわからないうちに夏になるなあ。冬の印象が強すぎてまだまだ冬だと思っているうちに夏が始まるって感じかな。
そして夏なのに肌寒い涼しい日とかあったりすると、秋だと思ったりするのだけど次の日はまた夏に戻ることが多い。そして気が付いたら冬が始まっているのだ。
だから、理想の生活は、冬は日本で生活をして、夏はチェコで生活することか。去年の夏は例外的に猛暑だったから、日本のほうがクーラーが普及している分ましだったかもしれないけど、例年の夏は、そんなことないし。
秋は、秋は日本で一番美しい季節だから、日本で生活するのかいいよなあ。でも仕事を抱えていると秋に日本に行くなんて夢のまた夢なんだよね。仕事で日本に出張とか、報告書を書かされることを考えたら願い下げだし。ここに書くようなよたはいくらでも書けるけど、報告書みたいな役に立つ文章なんて書けるわけがない。昔そのつもりで書いた文章も、実際は役になんか立ってないだろうしね。
じゃあ、春は? 春は日本にいたくない。だって日本にいると、ドイツ人が放射能汚染だと勘違いしたらしいスギ花粉の襲撃に耐えないといけないし。めちゃくちゃひどかったわけじゃないけど、花粉症だったんで、春にはマスクとティッシュは必需品だった。杜甫の「春望」じゃあないけど、涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになってたんだよ。
だからチェコにと言いたいんだけど、花粉症の始まる二月、三月って、チェコはまだ冬のことが多いし、どうしようか。氷点下の寒さと花粉症。うーん。マイナス五度までだったら、寒さのほうがいいなあ。十五度ぐらいまででどっこいどっこいで、それ越えたら花粉症のほうがましかな。
ということは、最近マイナス十五度なんてめったに行かないし、真冬でも十度ぐらいで収まるから、春からチェコにいたほうが幸せかあ。
誰か、二月下旬から十月上旬まではチェコにいられて、十月からは日本にいられる仕事を提供してくれないかなあ。とびつくのに。
と書いて、飛行機に乗りたくないことを思い出した。十時間以上も狭いところに押し込められるのは勘弁してほしい。かといって電車や船で移動するのも大変だし。不満だらけの人間には、やっぱりチェコいるのが一番いいのかね。
思いつくままに寒さに対する不平不満を書きなぐったらこうなっちゃった。いつもとはちょっと文体も、文章から受ける印象も違うよね? この文体で小難しいことを書くのに挑戦してみようか、いや、時間がかかりそうだからやめとこ。
11月4日18時。
いやあ、いつも以上にしょうもない文章だなあ。11月6日追記。
2016年10月31日
十月廿八日(十月廿八日)
十月廿八日は、と書き出して同じ言葉が三つ続いていることに気づいた。まあたまにはよかろう。今日はチェコには少ない祝日である。名目はチェコスロバキア独立記念日ということなので、第一次世界大戦後の混乱の中からチェコスロバキア第一共和国が成立した日だということになる。
普墺戦争の結果誕生したオーストリア=ハンガリー二重帝国は、完全に一つの国になっていたのではなく、オーストリア側がハンガリーに実質的な独立を許し、政治制度の違う二つの国が、ハプスブルク家によって統治されているという点で一つにつながっていたに過ぎず、二つの国の間には明確な境界があった。
現在のチェコはオーストリア側で先進工業地帯として重きをなしており、オーストリア、ハンガリーに次ぐ帝国内第三の勢力として、独立、あるいは第二のハンガリーとして自治権を獲得する運動が行われていた。一方スロバキアのほうはハンガリー北部の山岳地帯で、林業を中心とするときに上部ハンガリーなどと呼ばれてしまう地域で、スロバキア人という民族はルシン人などと同様にその他の少数民族でしかなかった。
そんなチェコとスロバキアが、共同で独立することになったのは、かつて東は現在のスロバキア、西はボヘミアのほうまで勢力を伸ばして、ゲルマン人のフランク王国に対抗していたスラブ人の国、大モラバの時代にさかのぼって、本来ひとつの民族だったのが歴史の荒波の中で二つに分かれ、千年の時を経て再び一つになるのだとか主張されたのだったか。現実にはチェコの領域だけだと、ドイツ人人口の割合が高くなりすぎ、スロバキア人だけではハンガリーからの独立を勝ち取るのは難しそうだという事情もあってチェコ人とスロバキア人で手を握って、ドイツ人、ハンガリー人に対抗して独立を獲得しようとしたらしい。
この計画を推進したのが初代大統領になったマサリクで、スロバキア側ではミラン・シュテファーニクが中心人物であった。しかし、シュテファーニクは、独立直後の1919年に自ら操縦する飛行機が墜落して独立チェコスロバキアで政治家としてスロバキア人を指導することなく亡くなってしまう。この事件が、スロバキア側にマサリクに対抗できるような指導者が生まれることを嫌ったチェコ人側の陰謀であるという説もあって第二次世界大戦中にはナチスドイツに利用されることになる。
チェコ人にとっては独立は、ドイツ人支配からの開放を意味したが、スロバキア人たちにとっては、それまでの支配者であったハンガリー人に、西からやってきたチェコ人が取って代わっただけに感じられる部分もあったという。チェコ人は支配ではなく指導という言葉をつかったようだが、マサリクが独立運動中にスロバキア人側に約束したといわれる連邦化がいつまでたっても実現しなかったこともあって、スロバキア人たちの反感は大きかったらしい。それは共産主義の時代を経て現在まで続いており、この十月廿八日は、スロバキアでは祝日になっていないのである。一応、特別な記念日としては指定されているようだけど、それも1999年の指定で、休日扱いにもなっていない。
チェコにとって、このチェコスロバキアの独立記念日というのは、祝日の中でも最も意味の大きいものの一つで、この日は国内各地でさまざまな記念式典が行われる。特に重要なのはプラハ上で行われる勲章の授与式典だろう。最終的には大統領の決定で選ばれた人々が叙勲される儀式は、チェコがチェコスロバキアとして独立を取り戻したこの日に行われ、毎年チェコテレビが中継するのである。首相をはじめとする閣僚や、国会議員たちなど政治家も式典に出席するのが常なのだが、今年はダライラマの訪チェコをめぐる問題でゼマン大統領が、批判にさらされているため、文化大臣の所属するキリスト教民主同盟をはじめ、式典を欠席することを決めた政党が多かった。バビシュ氏のANOは、個人に決定を任せたといい、バビシュ氏本人は国外滞在中で参加できないということだった。
この件で完全にゼマン大統領を支持しているのは共産党だけで、これは中国との関係を考えると当然か。大統領の出身政党である社会民主党は、ゼマン支持派と反対派に分かれているようで、式典に参加するグループと、参加しないグループがあったようである。たしか上院の議長は、式典には参加するけど、その後の主演は欠席すると言っていた。
それとは別に行われたプラハの旧市街広場のイベントには、大統領の行動に反対する政治家たちが集まり、勲章をもらい損ねた文化大臣のおじ、現在カナダ在住のイジー・ブラディ氏に、オロモウツのパラツキー大学が授与すると決めたパラツキーのメダルの授与式も行われていた。主催者が、次回の大統領選挙への出馬を表明している人物であるところが、微妙なのだけどね。救いは、ブラディ氏が、結果的に勲章をもらえなくてよかったと、もらえなかったおかげで、他のさまざまな賞をもらうことができて、自分を評価してくれる人々と出会うことができてよかったと言っていることぐらいか。
また、俳優のイジー・バルトシュカとボイテフ・ディクを中心とする芸術家たちが、現在の政府の中国よりの政策の変更を求め、民主主義と自由を守るために、現状に対して抗議の声を上げようという運動を始めた。ネット上での署名活動では、すでにかなりの数の署名を集めているようだが、これが何かをもたらしうるのかはわからない。
結局、ダライラマと中国にひっかき回されて醜態をさらしたということか。ダライラマなんか無視して、中国政府に何を言われても右から左に聞き流していればいいのに、どっちにも過剰反応してしまうからこんなことになるのだ。
10月29日18時。
2016年10月30日
如何なるやチェコの夢(十月廿七日)
アメリカンドリームといえば、直訳した「アメリカの夢」という言葉では掬いきれない含意を持つ。では、「チェコの夢」、チェコ語でチェスキー・センといえばどんな含意を持つことになるのだろうか。アメリカンドリームのチェコ版? まあ、同じようにジャパニーズドリームなんていうこともあるから、そういう使い方をすることもないわけではないのだろうけど、この言葉を聴くと、うたかたの夢、見てはならない夢などというイメージが浮かんでしまう。それには、信じられない話が絡んでいるのである。
まだ、チェコ語を勉強していたころだから、今世紀の初頭のことである。冬も終わりに近づき春ももうすぐというころ、当時毎日購入していた新聞「ムラダー・フロンタ」に繰り返し掲載される全面、あるいは半面広告があった。プラハの郊外に新しく開店する大型スーパーマーケットだというので、オロモウツには関係ないと、あまり注目していなかったのだが、一般の誰でも知っているメーカーの商品ではなく、スーパー独自のプライベートブランドの商品の写真が、値段が安いことで知られるスーパーよりも、安い値段をつけられて並んでいたようだ。今思い返せば、スーパーのロゴなんかも妙に気合の入っていない、いかにも金をかけていませんという感じのものだったのだ。当時はこんなところにお金をかけない分、安く売るのだろうと解釈していたのだけど。
広告に書かれていた開店日になっても、せいぜい開店時間前から安い商品を求めるチェコ人たちが行列を作り、開店と同時に入り口に殺到しておしあいへしあいする、大げさに言えば阿鼻叫喚の巷を作り出したというよくあるニュースが流れるぐらいだろうと、あまり気に留めていなかった。
それが、お昼のニュースだっただろうか。当時は部屋にテレビはなかったから、ラジオのニュースだったはずだ。一度聴いただけでは、内容が理解できなかった。そんなに難しい言葉は使われていなかったのだが、あまりに信じられない内容に、頭が理解するのを拒否したのだと思う。
ニュースを聞いてい笑っていたうちのに、今のニュースどういうこと? と聞いたら、チェスキー・センというスーパーが開店するという話だったけど、実はそんな店は存在しなかったというニュースだと言う。
へ? チェスキー・センってあの新聞に広告が出てたあの新規開店するってやつ?
新聞の広告も、プラハの街中に貼られていたポスターも全部偽物で、開店セールをめがけてスーパーが開店することになっていた場所に集まった人々の中には、だまされたことを知って暴れだす人もいて、けが人も出たらしい。
でも近くまで行ったら、スーパーなんてないのがわかるんじゃないの?
その辺の細かい事情までは、そのときのニュースでは言っていなかったらしいので、夜のニュースで確認することにした。ただこれから書くことがその夜のニュースで理解できたことなのかどうかには確信はない。後日聞いた話や、ネット上で読んだ話も混ざって、チェスキー・センという事件は、こんなものだったと覚えているのだ。
開店日が近づいたころから、スーパーが開店することになっていたプラハ郊外のイベント会場と呼ばれる空き地には、最寄のバス停のあたりから見るとスーパーの建物に見えるようにビニールシートの幕が張ってあり、その上には、「何月何日何時新規開店」の文字が躍っていたのだという。散歩のついでなんかにその建物のようなものの近くまで行かない限り、一面しか存在しないことには気づかず、新聞にお金をかけて大々的に広告を出しているのだからと、疑いもせずにプラハの郊外まで出かけて、まったく整備されていないバス停からのおのずからなる小道を、多少の疑いとともにスーパーまで歩いていった人々がその場で見たものは、一面にだけ張られた幕で、その後ろには何もないというものだった。
狐につままれたような表情を見せる人々の前にこの詐欺の首謀者が現れて事情を説明した結果、だまされたことを知った人々は、具体的にどうだまされたのかもわからないまま、首謀者に詰め寄り、大型スーパーの新規開店のときよりもひどい状態を作り出していた。
後で知った話では、「チェスキー・セン」というのは、チェコ人の民族性についてのドキュメンタリー映画の企画で、その撮影のために、このような大掛かりなはかりごとが行われたのだという。つまりチェコ人が新規開店のスーパーに押し寄せる姿、特に開店セールの廉価な商品を求めて殺到する姿を、ドキュメンタリーとして撮影するために、かなりのお金をかけて新聞に広告を出し、イベント会場を借り切り、準備を積み重ねていたらしい。そして、そのドキュメンタリーの一番重要な部分が、だまされたことを知った人々がどのように反応するかだというから、たちが悪すぎる。
この日だまされて「スーパー」に足を伸ばした人たちには、ドキュメンタリーが公開されたら無料で視聴できる権利を与えると言っていたが、だまされた人たちの中でこの映画を見に行った人はいるのだろうか。だまされた人々大半が、日中ほかにすることがなくてこの手のスーパーの開店には必ず押し寄せる年金生活者で、「ただ」という言葉に弱い人たちだったとは言え、さすがに自分たちの醜態を納めた映画は見に行かなかったんじゃないかなあ。交通費も出していれば話は別なんだろうけどさ。
さらに驚かされたのは、このドキュメンタリー映画に対して文化省からかなりの額の助成金が出ていたことだ。つまり文化省では、このような国民をだましてその右往左往する姿を、いわば「これがチェコ人だ」と紹介するドキュメンタリーの撮影を支持していたということになる。とんでもないというべきなのか、懐が深いと評するべきなのか……。まあ、だまされた人の大半はプラハの人たちだろうからいいっちゃあいいんだけどね。自分の目で見てみたかったと思う気持ちもないわけではないし。でも、オロモウツでやられていたら、自分が被害を受けていなくても、知り合いが巻き込まれるだろうから、ふざけんなぐらいの感想は持ったかもしれない。
わかったかな。これが、「チェスキー・セン」なのだよ。アメリカンドリームのチェコ版ではなくて、信じてはいけない夢ってことになるのかね。それとも、失敗前提のアメリカンドリームが、チェスキー・センになるのかな。
10月28日12時。
2016年10月16日
チェコのビザ新事情(十月十三日)
先に結論から言ってしまうと、数年前に半年しか出されないことに変更されたチェコの長期滞在ビザの期間は、2016年の一月から、再び一年の期限で発行できるように法律が改正されたらしい。だから、以前、ビザの発給を拒否された件に関して、発給の是非を審査したプラハの内務省の役人を批判したけれども、問題はそちらではなく、ビザの期限が一年になったという情報をつかんでいなかった日本のチェコ大使館である。現在大使館がビザの申請者にどんな情報を出しているのかは知らないが、少なくとも今年の四月中旬の時点では、大使館のホームページのビザ申請に必要な書類を説明するところに挙げられていた必要預金残高は半年分のものであった。
一月にチェコに来て、二月にブラチスラバでビザの申請をした人が、半年ではなく、十か月分のビザをもらっていた時点で、変だとは思ったのだ。一年の予定でチェコに来てウィーンで申請をした人も、延長はいらないというようなことを言っていたのだが、何の情報も流れてこなかったので、個人の裁量で伸ばしてもらったのであって、制度が変わったなんてことはないだろうと考えていたのだ。
しかし、その後、日本でビザを受領してくる人たちは、みな、正確には、発給日の関係で354日とか、363日とか微妙な数字だけど、一年分のビザをもらってチェコに来ている。話を聞くと、特に大使館から制度が変わったという話は聞いていないようだ。前回の問題の後、関係者には、申請に際して一年分のつもりで口座にお金を入れておくように連絡をしてあったので、実害は出ていないけれども、一年こちらに来る予定で、ビザが半年分のつもりで申請していたら、また拒否される人が出ていただろう。
留学生の中には一年の予定でくる人が多く、そういう人たちは、半年のビザが切れる前に延長の手続きをしなければならない。しかし、延長すると、ビザではなく、長期滞在許可というものに切り替わってしまう。現在の長期滞在許可には、ビザとは違って、いわゆる生体認証などの登録が必要になる。高々半年の長期滞在許可のために、手の込んだ登録をすることのばかばかしさにようやく気付いたということだろうか。
日系企業の駐在の方や、医師になるために医学部で勉強している人たちであれば、半年なんてことはなく、人によっては数年チェコに滞在するのだから、コストをかけていろいろな情報を登録しておくことは意味があるだろう。しかし、半年分滞在許可を延長しても、実際には授業の関係で、そのうちの二、三か月で帰国してしまうような学生にかんしては、データを蓄積しても意味がないし、滞在許可のカードも無駄になってしまう。そのことにようやく気付いたのだろう。導入する前に気づけよという話だが、当時はまだそういうややこしいデータは不要だった。
それから、今年からチェコ大使館が留学生に勧めるようになった最初から長期滞在許可を申請するという方法の存在も関係しているかもしれない。これは2014年ぐらいから始まったのではないかと思うのだが、研究者などで一年を超えて滞在を予定している人たちが使っていた制度だった。日本国内で申請をすると、長期滞在許可を申請するために入国するビザというものが受け取れ、それを持ってチェコに来て、内務省の移民局(とでも訳しておこう)に出向いて、手続きを完了させるというものだった。日本の時点では手続きが完了していないので、内務省の事務所に出向けばそれで滞在許可がもらえるというわけではない。そこからさらに三週間ほど待つ必要があるらしい。
私の知る最初にこの制度を利用した方の話を聞いていると、どうもチェコ大使館の担当者も、通常のビザと、長期滞在許可の違いを理解していないようで、長期滞在許可も半年しか出ないという情報を伝えられたようである。2014年の段階では、ビザは半年しか出ないけれども、ビザを長期滞在許可に切り替える場合には、一年、場合によっては一年以上の許可がもらえていた。ということは、長期滞在許可を申請した場合には、一年の留学中に更新、延長の必要はないということになる。役所の側としても、一年であれば、高いコストをかけて指紋などを登録したりカードを発行したりする意味もなくはないだろう。
もう一つ気をつけなければいけないのは、大使館のほうから、内務省の事務所に三営業日以内に出頭すること、というような指示があることである。これも通常のビザと混同している証拠なのだが、長期滞在許可を申請した人がもらう入国用のビザは、全体の有効期限が確か90日で、そのうちチェコに入国してから60日間有効である。だから長期滞在許可を申請した人は、入国してから60日以内に、国内での手続きを完了しなければならない。だから三日過ぎてしまったといってあきらめたり、パニックになったりしないで、内務省の事務所に連絡を取ってみることだ。いつ来いとか、どこで手続きをすればいいかとか、少なくともプシェロフの事務所に連絡した場合には、そんな情報を教えてくれるはずである。
ただ、わからないのは、昨年の時点では、いや今年の初めの時点でも、留学生たちは、この長期滞在許可の存在を知らず、ビザが間に合いそうにない場合には、チェコに来てからブラチスラバ、ウィーンに出かけて申請する、もしくは、出発を延期してビザが発給されるのを待つという方法を取るしかなかった。それが、突然、今年の夏から、通常のビザの申請と同時進行で長期滞在許可の申請もするように勧められるようになったというから、話が見えない。そんな便利な制度があるのだったら、今年の初めから使っていてくれれば、前回のビザの発給拒否という問題は起こらなかっただろうに。
こういうときに、チェコだから仕方ないと思えるようになるのが、チェコで平穏に暮らしていくコツである。チェコでは必要のない情報はいくらでも手に入るが、自分が本当に必要な情報はなかなか手に入らない。情報が必要な人の手元に届くのはたいてい一番最後である。だから、ビザ関係の手続きでも、最終的な結果が出るまでは、何とかなるさと鷹揚に構えて、相手の不手際でうまく行かなかったときに備えて、罵詈雑言の準備をしておくぐらいの心構えでいるのが一番いいのだ。それができればチェコという魔国でも生きていけるはずである。
10月14日22時。
2016年09月28日
チェコ史の闇(九月廿五日)
H先生に
そういうことがあったというのは知っていた。ただチェコの歴史でもタブー扱いされているのか、あまり詳しく語られることはなかったし、具体的にどこでどんな事件が起こったのかについては、ほとんど情報はなかった。数年前の、たしかイフラバの近くの村の外れで遺骨が発見されたというニュースと、これも数年前に公開された映画「ハブルマン氏の製粉所」は、この件に関しては例外的な存在である。
第二次世界大戦における虐殺というと、チェコではリディツェの焼き討ちや、ユダヤ人やロマ人のの強制収容所が有名で、こちらについては毎年慰霊祭の様子がニュースで放送されるなど情報には事欠かない。しかし、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線の終結後にチェコ人がドイツ人、ドイツ系の住民に対してやったことはあまり語られることはない。その点では終戦直後のドイツで、毒入りのパンをドイツ人たちに配布しようとしたユダヤ人のグループと同じである。
第二次世界大戦までのチェコの領域内には、かなりの数のドイツ人、ドイツ系の住民が生活していた。特にズデーテン地方と呼ばれる国境地帯や、都市部ではドイツ人の割合が高かった。ハプスブルク家の統治下、第一共和国の時代を通じて、チェコ人とドイツ人の間には軋轢や差別はあったものの、それが他民族の虐殺やいわゆる民族浄化につながることはなかったらしい。
状況が変わり始めたのは、ナチスの台頭以降で、ドイツ人たちがナチスの威光を背景にチェコスロバキア政府に敵対的な行動を取るようになり、チェコ人とドイツ人の間の民族的な対立が激化する。ミュンヘン協定、ナチスドイツのチェコ侵攻と保護領化などを経て、第二次世界大戦中はドイツ人が支配民族としてチェコ人を支配、場合によってはしいたげるという状況になる。ユダヤ人、ロマ人の殲滅が終わったら次はスラブ人を絶滅させようとしていたなんて話もあるぐらいである。もちろん、少数ではあるが、チェコ人の中には、ドイツ人に擦り寄って自分だけ優遇されようとした人もいたし、ドイツ人であってもチェコ人たちとの友好関係を崩さないように努力した人もいたらしい。
第二次世界大戦が終結し、ドイツの敗北が決定すると、チェコ人たちの報復が始まる。一般にはこの報復は、ベネシュの大統領令によってドイツ系の住民が資産を奪われ着の身着のまま国外に追放されたこととして説明される。しかし、一部ではチェコ人の住民や、ソ連軍と共に祖国解放のために進出してきた軍隊が暴発することもあったらしい。
住民が暴走したのが、イフラバの近くの村で発見された遺骨の事件と、「ハブルマン氏の製粉所」に描き出された事件である。ハブルマン氏は第二次世界大戦中多くのチェコに住むドイツ人が我が世の春を謳歌しチェコ人に対して横暴に振舞う中、チェコ人に対する差別をせず、村人があらぬ嫌疑を掛けられたときにはかばうこともあった公正な人だったらしい。しかし、ドイツの敗戦後、ドイツ人であるというだけの理由で、資産を持っているというだけの理由で家族もろとも惨殺されてしまった。ハブルマン氏を殺すことに反対したチェコ人もいたらしいが、集団の狂喜に飲み込まれて、止めることはできなかったのだという。意味でタブーに挑戦したこの映画、専門家の評価はともかく、観客を集めることはできたのだろうか。
そして、軍隊が暴走して起こった事件が、プシェロフの近くにある丘の上での虐殺事件である。終戦から一月半ほど後のこと、スロバキアからプシェロフに進出してきたブラチスラバのスロバキア人部隊が、町に残されていたドイツ系の女性、子供、そして老人を丘の上に集めて、全員まとめて銃殺してしまうという事件を起こしたらしい。犠牲者の数は250人以上、中には生後一年に満たない乳児もいて、母親に抱かれたまま銃殺されたのだという。
この話を教えてくれた方は、チェコでは何かというとリディツェを取り上げて、ドイツ軍の残酷行為を喧伝するけれども、このプシェロフ郊外で起こった事件は、リディツェの事件よりも残酷で痛ましいものだと語ってくれた。
チェコ人として、かつてのチェコスロバキアの国民としてこのような事件が起こったことは辛いし、この件について語るのも辛い。ただ目の前にある悪事に目を背けて見ない振りをするのは、歴史学者にとっては自ら悪事に加担するのと同じだという恩師の言葉を胸に、この事件について調査を重ね、全貌を明らかにする本を出版したのだという。
日本だとこういうのは、日本人が自ら日本人を貶めるような行為だとして非難するやからが続出するのだろうが、チェコでも調査、出版に反対する人はいたらしい。ただ、この事件を歴史の闇の中に葬り去るのではなく、事実を知りたいと考える人は多いようで、意外なほどに売れ行きがよく、第二版を出版することになりそうなのは、著者としてだけでなく、チェコ人としても嬉しいと語ってくれた。
この手の終戦後、敗戦国の国民に対して行われた残虐な事件というものは、戦争責任を問われた敗戦国側からはなかなか発言しにくいものである。だからこの方のような存在は非常に貴重である。ただし、このような事件を起こして、チェコ人はひどい、ドイツ人がかわいそうなどという感想を抱いておしまいというわけにはいない。ミュンヘン協定のときには、ドイツ人やポーランド人がチェコ人の経営する農場を襲ったり、チェコ人の店に放火したりなんてことをしていたのだから。
この手の憎しみの連鎖というものはどこかでどちらかが断ち切らない限り、報復が報復を呼ぶことになる。チェコやスロバキアなどの旧東欧圏は、共産党というさらに大きな悪が存在したことで、結果として対戦前後の民族の憎しみ合いが軽減されたようである。それに対して、共産主義の悪を経験しなかったバイエルン州では、未だに追放されたことの恨みつらみを抱えて、ドイツ人の追放を決めたベネシュの大統領令の無効を主張してヘンライン党の残骸が政治活動を続けている。困ったものである。
そして、現在のドイツの旧東側のEU加盟国に対する強権的な姿勢が、過去の亡霊を呼び起こし、かつてナチスドイツによって大きな被害を受けた国々に反ドイツ的な感情を引き起こすのではないかと危惧するのみである。
そういうことがあったというのは知っていた。ただチェコの歴史でもタブー扱いされているのか、あまり詳しく語られることはなかったし、具体的にどこでどんな事件が起こったのかについては、ほとんど情報はなかった。数年前の、たしかイフラバの近くの村の外れで遺骨が発見されたというニュースと、これも数年前に公開された映画「ハブルマン氏の製粉所」は、この件に関しては例外的な存在である。
第二次世界大戦における虐殺というと、チェコではリディツェの焼き討ちや、ユダヤ人やロマ人のの強制収容所が有名で、こちらについては毎年慰霊祭の様子がニュースで放送されるなど情報には事欠かない。しかし、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線の終結後にチェコ人がドイツ人、ドイツ系の住民に対してやったことはあまり語られることはない。その点では終戦直後のドイツで、毒入りのパンをドイツ人たちに配布しようとしたユダヤ人のグループと同じである。
第二次世界大戦までのチェコの領域内には、かなりの数のドイツ人、ドイツ系の住民が生活していた。特にズデーテン地方と呼ばれる国境地帯や、都市部ではドイツ人の割合が高かった。ハプスブルク家の統治下、第一共和国の時代を通じて、チェコ人とドイツ人の間には軋轢や差別はあったものの、それが他民族の虐殺やいわゆる民族浄化につながることはなかったらしい。
状況が変わり始めたのは、ナチスの台頭以降で、ドイツ人たちがナチスの威光を背景にチェコスロバキア政府に敵対的な行動を取るようになり、チェコ人とドイツ人の間の民族的な対立が激化する。ミュンヘン協定、ナチスドイツのチェコ侵攻と保護領化などを経て、第二次世界大戦中はドイツ人が支配民族としてチェコ人を支配、場合によってはしいたげるという状況になる。ユダヤ人、ロマ人の殲滅が終わったら次はスラブ人を絶滅させようとしていたなんて話もあるぐらいである。もちろん、少数ではあるが、チェコ人の中には、ドイツ人に擦り寄って自分だけ優遇されようとした人もいたし、ドイツ人であってもチェコ人たちとの友好関係を崩さないように努力した人もいたらしい。
第二次世界大戦が終結し、ドイツの敗北が決定すると、チェコ人たちの報復が始まる。一般にはこの報復は、ベネシュの大統領令によってドイツ系の住民が資産を奪われ着の身着のまま国外に追放されたこととして説明される。しかし、一部ではチェコ人の住民や、ソ連軍と共に祖国解放のために進出してきた軍隊が暴発することもあったらしい。
住民が暴走したのが、イフラバの近くの村で発見された遺骨の事件と、「ハブルマン氏の製粉所」に描き出された事件である。ハブルマン氏は第二次世界大戦中多くのチェコに住むドイツ人が我が世の春を謳歌しチェコ人に対して横暴に振舞う中、チェコ人に対する差別をせず、村人があらぬ嫌疑を掛けられたときにはかばうこともあった公正な人だったらしい。しかし、ドイツの敗戦後、ドイツ人であるというだけの理由で、資産を持っているというだけの理由で家族もろとも惨殺されてしまった。ハブルマン氏を殺すことに反対したチェコ人もいたらしいが、集団の狂喜に飲み込まれて、止めることはできなかったのだという。意味でタブーに挑戦したこの映画、専門家の評価はともかく、観客を集めることはできたのだろうか。
そして、軍隊が暴走して起こった事件が、プシェロフの近くにある丘の上での虐殺事件である。終戦から一月半ほど後のこと、スロバキアからプシェロフに進出してきたブラチスラバのスロバキア人部隊が、町に残されていたドイツ系の女性、子供、そして老人を丘の上に集めて、全員まとめて銃殺してしまうという事件を起こしたらしい。犠牲者の数は250人以上、中には生後一年に満たない乳児もいて、母親に抱かれたまま銃殺されたのだという。
この話を教えてくれた方は、チェコでは何かというとリディツェを取り上げて、ドイツ軍の残酷行為を喧伝するけれども、このプシェロフ郊外で起こった事件は、リディツェの事件よりも残酷で痛ましいものだと語ってくれた。
チェコ人として、かつてのチェコスロバキアの国民としてこのような事件が起こったことは辛いし、この件について語るのも辛い。ただ目の前にある悪事に目を背けて見ない振りをするのは、歴史学者にとっては自ら悪事に加担するのと同じだという恩師の言葉を胸に、この事件について調査を重ね、全貌を明らかにする本を出版したのだという。
日本だとこういうのは、日本人が自ら日本人を貶めるような行為だとして非難するやからが続出するのだろうが、チェコでも調査、出版に反対する人はいたらしい。ただ、この事件を歴史の闇の中に葬り去るのではなく、事実を知りたいと考える人は多いようで、意外なほどに売れ行きがよく、第二版を出版することになりそうなのは、著者としてだけでなく、チェコ人としても嬉しいと語ってくれた。
この手の終戦後、敗戦国の国民に対して行われた残虐な事件というものは、戦争責任を問われた敗戦国側からはなかなか発言しにくいものである。だからこの方のような存在は非常に貴重である。ただし、このような事件を起こして、チェコ人はひどい、ドイツ人がかわいそうなどという感想を抱いておしまいというわけにはいない。ミュンヘン協定のときには、ドイツ人やポーランド人がチェコ人の経営する農場を襲ったり、チェコ人の店に放火したりなんてことをしていたのだから。
この手の憎しみの連鎖というものはどこかでどちらかが断ち切らない限り、報復が報復を呼ぶことになる。チェコやスロバキアなどの旧東欧圏は、共産党というさらに大きな悪が存在したことで、結果として対戦前後の民族の憎しみ合いが軽減されたようである。それに対して、共産主義の悪を経験しなかったバイエルン州では、未だに追放されたことの恨みつらみを抱えて、ドイツ人の追放を決めたベネシュの大統領令の無効を主張してヘンライン党の残骸が政治活動を続けている。困ったものである。
そして、現在のドイツの旧東側のEU加盟国に対する強権的な姿勢が、過去の亡霊を呼び起こし、かつてナチスドイツによって大きな被害を受けた国々に反ドイツ的な感情を引き起こすのではないかと危惧するのみである。
9月27日10時。
2016年09月16日
チェコ郵便事情(九月十三日)
数年前だっただろうか、チェコの郵便局では、低迷する郵便局への信頼を回復するために、「今日出したら、明日届けます」なんてスローガンを掲げてキャンペーンをやっていた。確かにあの頃は、オロモウツからブルノに送って、届くのに一週間以上かかるなんてことはざらだったし、郵便物が配達されない郵便事故もたびたび起こっていたようだ。
その実態を知っているチェコ人たちにとっては、「今日出したら、明日届けます」というスローガンはお笑い種で、とても信じられるものではなかったようだが、問題を認識して改善する方向に向かい、目標を設定したのがよかったのだろう。最近は国内の郵便に関して郵便局に対する悪口を聞く機会が減った気がする。メールなんかに押されて郵便を使う機会自体が減っていると言えば、それまでだし、「今日出したら、明日届けます」のスローガンも実現不可能であることが判明して、撤回したのだけど。
外国に、特に日本に郵便物を送る場合、チェコの郵便局は素晴らしい。手紙のほうはよくわからないが、小包を送る場合には、航空便で送らなくても、航空便並みの時間で到着するのだ。書物だけを送る場合には、日本にも存在する特別郵袋というものを使えば、さらに廉価で送れる。
以前は郵便局の人も事情が分かっていなかったが、チェコで日本に船便で送るための船を探し確保する手間と経費を考えたら、積み荷に余裕のある飛行機に載せてしまったほうが安上がりになるらしい。それで、船便で、船便と直接言わなくてもエコノミーでなんて言い方で、荷物を送ると、優先的に送られるEMSほどの速さはなくても、一週間から十日ぐらいで日本についてしまうのである。
伝票を確認してみると、飛行機で成田に着いた荷物を、川崎に移動させて、川崎で通関の手続きをしているようである。一応船便で送られたという体裁を合わせる必要があるのだろうか。その分、航空便で送ったときよりも時間がかかるのだが、せいぜい一日二日だから誤差の範囲である。以前、一度だけ、航空便で荷物を送ったことがあるが、そのときには何と一か月以上時間がかかった。それ以来航空便で荷物を送ったことはない。
日本でも同じようにしてもらえないかと思うのだが、周囲を海に囲まれた日本で、船便の郵便物を載せるための船を見つけるのはたいして困難なことではないのだろう。だから日本から船便で送ると、本当に船に載せられて、二か月ぐらいかかることになる。
チェコに送る場合に、気を付けなければならないのが、クリスマス前後で、この時期は郵便物の量が激増するため、配達までにかかる時間も伸びる傾向にある。さらに税関で引っかかって消費税を取られるなんてことになると、そのやり取りも長引くので、航空便で送っても受け取りまでに一か月かかることもある。
一体に税関とのやり取りで時間を取られることを考えると、日本から小包をEMSで送る意味はない。SAL便で十分というか、SAL便で送っても問題ないぐらいの時間的な余裕をもって送らないとEMSだからすぐにつくと油断していると、足元をすくわれることになる。ちなみにEMSをチェコから送る場合には、最低の送料が1000コルナになることは、覚えておいたほうがいい。書類一枚でもEMSで送ると1000コルナなのである。
日本からチェコに荷物を送る場合に、なぜか内容物が書籍の場合には、手紙などを同封してはいけないことになっているらしい。それに中古の衣料品を送るのも禁止だというから普段着ているものを送るのも難しそうだ。この中古の衣料品を郵送できないのは、かつてドイツの廃棄物業者が古着と称して、ごみにしかならないものを大量に輸出し、国境地帯にごみの山をいくつも作りだしてくれたことへの、それを防げなかったことへの反省から生まれたものではないかと推察しているので、仕方がないのかなとは思う。
ただ国際郵便の場合に、商品、または商用の郵便物なのか、個人的な贈り物、場合によっては個人の所有物なのかを、きっちり分けた制度にしてほしい。未だに友人が日本の本屋で購入して、日本政府に消費税を納めた書籍に関して、改めてチェコ政府から税金を請求されるのは納得がいかない。友人から買い取るわけではないのだし。プレゼント送ったと、欲しくもないものを送りつけられた上に、税金まで払わされるという事態も起こりかねないのだから。
9月14日20時。
2016年09月11日
レジのオンライン接続(九月八日)
チェコの飲食店、それからホテル、ペンションなんかを悩ませている問題は、禁煙だけではない。財務大臣のアンドレイ・バビシュが、脱税対策、もしくは税収増大対策の切り札として、導入を推進しているレストランやホテルなどのレジをオンラインで財務省のデータベースにつないでしまえというのも、大きな問題になっている。これによって、各店舗の売上高を直接財務省だか税務署だかで把握できるようにして、消費税の脱税を防ぐのが目的なのだろうか。飲食店だけでなく、普通の小さな小売りのお店なんかも対象になっているので、禁煙問題よりも大きいと言ってもいいかもしれない。
問題はいくつかあって、その一つは、対象の範囲がよくわからないこと。個人事業主のような人たちも対象にしたいようなのだが、壁塗り職人とか、煙突掃除を生業としている人たちは、そもそもレジなんて使っていないだろうし、週末の青空マーケットで野菜なんかを販売している人たちの中には、専業の農家ではない人たちもいる。こんな人たちの扱いをどうするかで、綱引きが続いていて、一応、段階的に導入することと、お客のもとに出向いて仕事をするような業種には適用しないぐらいのことは合意が済んでいるのかな。
もう一つの問題は、いつ実際に法律が適用されるのかわからないことで、当初の予定では、今年の一月から、最初のグループ、飲食店とホテルに義務として課されることになっていたのだが、どういう事情かはよく分からないのだが、延期、延期で、九月現在まだ始まっていないはずである。一応国会では、法律として成立したんじゃないかと思うのだけど、違ったかなあ。現在は十二月からと言っているようだが、また延期されて来年からということになりそうな気もする。
いったん決まった期日が延期されたせいで、昨年のうちにレジに新しいシステムを導入するために投資をした人たちは、馬鹿を見たということになる。このオンラインで財務省とつなぐためのシステムを、レストランなどの業者が自己負担しなければならないというのも、大きな不満のタネになっている。税制上の控除の対象にはなるのだろうけれども、投資額がすべて戻ってくるわけではないし、この投資が売り上げの増加につながるわけでもない。
そういう不満をなだめるためにか、秋に行われる上院と地方議会の選挙に向けた人気取りなのか、バビシュは、飲食店で出される生ビールの消費税率を、現在の21パーセントから、法律で決められた特別な物にだけ適用される10パーセントに下げようと言い出した。これには、連立与党からも大反対が巻き起こって、今は中間の15パーセントとか言っているのかな。消費税に税率が三つあるというのも、日本に住んでいた人間には、不思議な話だけど、スーパーで買う瓶のビールは21パーセントで、飲み屋で飲むジョッキのビールは15パーセントというのは、なんか不思議な気がする。そして、飲み屋で飲み瓶のビールはどっちになるのだろうかと不安になってしまう。
それから、バビシュは、レジのオンライン接続と同時に、レシートを使った宝くじの導入を計画している。いまいちやり方が想像できないのだけど、レシートに印刷された番号であたりを決めるというものらしい。これはスロバキアで、消費税の脱税対策として導入されて効果を上げているといので、スロバキアの知り合いに会ったときに話を聞いてみよう。どうも、ろくでもないもののような気がしてならないのだけど。
たまたまこう書いた後に、スロバキアの人に会う機会があったので、質問してみたら、存在は知っているけれども、どのようにして行なわれているかは知らないといっていた。おそらくお店でもらってきたレシートを、何らかの形で登録すると、登録されたものの中から、当たり番号を選んで、賞金を出すということだと思うけれども、どうやって、どこに登録するかもわからないし、どのぐらい賞金がもらえるのかもわからない。そして、自分も、自分の周りにも実際にこの宝くじに登録した人はいないそうだ。
むしろ、その人が不思議がっていたのは、スロバキアではあまり話題になっていないにもかかわらず、チェコで大々的に取り上げられていることのようだった。レシートを受け取った人が登録したものをチェックすることで、一見レジは通しているけれども、実際には売り上げのデータに登録されないというような事例を防ごうという意図があるらしいが、肝心のスロバキア人の間でもあまり知られていないものが、どうしてチェコで脱税防止の切り札として取り上げられているのか理解に苦しむと頭をひねっていた。
実際の導入時期がどうなるのかが確定しているのかどうかさえわからないのだけど、飲食店などの当事者たちにとっては、導入に反対している人たちでさえ、決めてくれ、そして決めたら変えないでくれというのが正直なところだろう。半年なり一年なりの移行期間を設けて、その間に導入すればペナルティーはなしという形にすれば、それほど大きくは変わらないと思うのだが、チェコはあんまり移行期間を設けるのが好きじゃないみたいなのが不安。ビザの延長で、例年通りの書類を集めて手続きに行ったら、ごめんね制度が変わったのよと何度言われたことか。思い出したら腹が立ってきたのでこの辺でお仕舞い。
9月10日11時。
2016年09月10日
レストラン完全禁煙(九月七日)
高校時代の先生は、「かつて、喫煙は文化だった。だから俺はタバコを吸い始めたけど、そんな時代はもう終わってしまった。だからお前らは吸うな」という説得力があるようなないような理由で、生徒達に喫煙をしないように呼びかけていた。高校生に文化だからという理由が理解できたとも思えないが、こんな台詞を八十年代の半ばに言えた先生は先見の明があったと言ってもいいのかもしれない。
自分自身のことを言えば、タバコとお酒のどちらを選ぶかで、酒を選んだ。煙草は吸ったことがないとは言わないが、煙を肺まで入れて見ろと言われて試したら咳き込んでえらい目にあったので、それ以来試したこともない。酒もはじめて飲んだときにはあまり美味しいとは思えなかったけれども、煙草とは違って、少なくとも飲むことはできた。
昔は、飲み屋なんかに出かけて、周りが喫煙者ばかりで煙がもうもうと立っていても、あまり気にならなかったのだが、最近はすごく気になるようになった。大学時代に飲み屋で夜中まで煙にいぶされたセーターなんかを翌朝に着てもまったく平気だったのは、鼻が悪かったのか、自分自身の悪臭に煙草の臭いがまぎれてしまったのか。最近は、オロモウツでも禁煙の飲み屋、もしくは禁煙席のある飲み屋にしか行かないので、それほど臭いがつくわけではないけど、それでも料理の臭いなんかが気になって、しばらく風通しをしてからでないと着られなくなった。
交通機関でも、八十年代ぐらいから、鉄道や飛行機にも禁煙席、喫煙席が導入され、それが全席禁煙に変わるまでにそれほど長い時間は必要としなかったのではなかったか。正確にはいつだったか覚えていないが、日系の航空会社に喫煙席が残っているのをヨーロッパの人に責められたことがある。日系の航空会社は、確か禁煙席の導入は早かったけれども、全席禁煙にするのは一番遅かったのではなかったか。そのことを航空会社とは関係のない人間に言われても困る。
喫煙はお前らが世界に広めた習慣だろうがと文句を行ってやりたかったが、悲しいことに当時は語彙が足りていなかった。捕鯨問題にしても、喫煙の問題にしても、宗教の問題にしても、森林破壊の問題にしても、自分たちがこれまでやってきたことを棚上げにして、世界中に自分たちの正義を押し付けようとするのは、虫がよすぎる。それが世界中に根強く残る西欧的、アメリカ的価値観に対する反感につながっているのだろう。
それで、禁煙の話に戻すと、交通機関とは違ってなかなか進まなかったのが、レストランや喫茶店などでの禁煙である。チェコでも2000年代の初頭ぐらいから完全禁煙をうたったレストランが、ぽつぽつと現れ始めてはいたが、主流になることはなく、国会でも完全禁煙の法律が採択されることはなかった。それが、いつごろだっただろうか、レストランなどに対して、分煙を義務付ける法律が成立した。それまでは、お昼のランチの時間帯だけ禁煙にするレストランが多かったのだが、禁煙の部屋と、喫煙できる部屋を完全に分けなければならなくなったらしい。場合によっては、一軒全体を禁煙、喫煙のどちらかに統一してもよかったのかな。ただし、入る前にそれがわかるような表示をすることが義務付けられた。
この頃から、飲食店での完全禁煙を求める声が高まり、ニュースなんかでも飲食店経営者の声を伝えていたが、禁煙にすると客が減るという人と、禁煙にして客が増えたという人がいてなかなか興味深かった。客が減るといういう理由は、常連の大半が煙草を吸うので、禁煙になったらうちに来る理由がなくなるというもので、客が増えるというのは、煙草の煙が苦手で外で食事をしたり、お酒を飲んだりするのを避けている人は多いはずだから、完全禁煙にすれば新しい客を呼び込めるというものが多かった。
結論から言うと、後者の意見のほうが正しかったようだ。分煙から完全禁煙に切り替える飲食店が増えている。かつては煙が立ち込めていて外から見るだけで中には入りたくないと思ったこともあるドラーパルも、ポッド・リンポウも禁煙になったし。それでも、喫煙のできる飲食店を求める声は消えないようで、一部の飲食店はかたくなに喫煙できる状態を維持している。住み分けという意味ではうまくいっていると言ってもよさそうだ。
現在、国会には既に何回目かの飲食店の完全禁煙に関する法案が提出されていて、夏休みが明けたら審議が始まるらしい。しかし、自らも煙草を吸う国会議員が法案に賛成するだろうか。夜な夜な白煙立ち込める飲み屋で酒を飲むのが趣味という人もいるみたいだし。考えてみれば、日本の航空会社が全席禁煙にしないことを責められたときには、会社の偉い人が煙草を吸うから禁煙にできないんだろうよと答えたのだった。
近年の世界的な喫煙撲滅運動を見ていると、中途半端な法律なんか作らずに、煙草を麻薬指定して禁止してしまえばいいのにとも思う。マリファナ解禁論者が、煙草よりも健康にいいなんてトチ狂ったことを言うのを防ぐにもちょうどいいし、子供が見たらトラウマになりそうな写真をパッケージに貼り付けるなんていうこともしなくてよくなる。禁止できないのなら、薬扱いにして処方箋がなければ購入できないようにするという手もある。これなら喫煙量も管理できるし。ただ禁止にした場合もそうだけど闇での取引が増えるか。
喫煙が健康保険に与える負担の大きさを減らすのが、禁煙の場所を増やそうという理由だというなら、喫煙者の保険料を上げるなり、高額の煙草税を設定して健康保険に投入するなりする手もあろう。喫煙者の負担が増えれば、禁煙する人も増えるはずなのだから。それでも煙草はやめられないと言う人は一定数残るだろうけど。
9月9日14時。