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2017年01月20日

屋根が落ちる(正月十七日)



 今年の冬は雪が多い。オロモウツでも街中はすぐに除雪されて、雪が残っているところは少ないが、旧市街を取り囲むように置かれている公園の木々の間の芝生は完全に雪の覆われている。一番ひどいのは、北ボヘミアのヤブロネツとその周辺らしく、市内でも一メートル以上の雪が降り積もり、歩道の除雪が間に合わず、雪の幾分か少ない車道をふらふらと歩く人が続出して、危険な常態になっているらしい。最悪の冬を思い出させる光景である。
 その最悪の冬を思い起こさせる事件が、チェスカー・トシェボバーでも起こった。この町はプラハから出た幹線が、オロモウツ方面とブルノ方面に分かれる鉄道交通の要衝で、それほど大きな町ではないはずだが、駅の施設としてはプシェロフとならぶぐらいじゃなかろうか。駅舎を建て替えるかどうかで議論が巻き起こって、結局建て替えはしないことになったのもここだったかな。

 この町の体育館の屋根が降り積もった雪の重さに耐えられず崩落してしまったのだ。事件が起こったのが、一月十四日のことで、ちょうど子供たちのフロアボールの大会が行なわれているところだったらしい。内部にいた八十人ほどの人は、天井からポリエステルの小さなかけらが降ってきて、変な音がするのが聞こえてきたことで、異変に気づきすぐに体育館を出てけが人も出なかったという。こういう事態を想定したマニュアルどおりに脱出したのがよかったというニュースも見た。
 原因はもちろん屋根に積もった雪だけれども、同じように、いやチェスカー・トシェボバー以上に雪の降り積もったヤブロネツや、リベレツでは同様の事件が起こっていないこともあって、体育館に構造上の欠陥があったのではないかと言われている。天井を支えていた木製の梁が想定されていた重量を支えきれずに折れてしまったようだという話も聞いた。その木製の建材を納入した会社に取材をしても何の返事もなかったらしい。

 いずれにしても、欠陥建築だったということで、施工主のパルドビツェ地方政府は、業者に対して補償を求めることにしたようである。一方でフロアボールの大会に出場していた子供たちの親たちも裁判に訴えることを検討しているという。アメリカの影響で、チェコでも何でもかんでも裁判だという風潮が多少あって裁判が急増している。その結果裁判官の数が足りず裁判が長引く原因となっている。延々と裁判引き伸ばし続ける奴もいるし。
 それはともかく、体育館はすでに使用開始されていたけれども、建築がすんで引き渡されたばかりで、十五日に開館式が行なわれる予定だったらしい。その前夜に屋根が落ちるというのは、タイミングがいいのか、悪いのか。もちろん開館式のイベントは中止である。

 十年ほど前の最悪の冬にも、同じような事件が、何件か起こった。一番印象に残っているのは、うちの近くにもある多分ドイツ系のディスカウントスーパーであるリードルの店舗の屋根の崩壊が相次いだことだ。このスーパーの店舗は、規模の大小はあるようだが、基本的に建物の形が完全に規格化されているようなので、どこかで問題が起これば、よそでも問題が起こるのはある意味当然だったのだろう。
 幸いにして平地にあるオロモウツでは、どの店舗も無事だったけれども、チェコ国内で三件だったか、四件だったか、連続して天井の崩落が起こって、雪が多かったとはいえ、他のスーパーでは、同様の事態が起こっていなかったこともあって、大きな問題となっていた。ただ、崩壊は全部営業時間外で、人の被害はなかったんじゃなかったかな。
 その時に、徹底的な建物の検査、改修を行なったおかげか、リードルでは今年は天井の崩落事件は起こっていない。それでも、どこかで天井が落ちたという話を聞くと、あの冬のことを思い出して、だたでさえ寒さで憂鬱なのに、さらに憂鬱になってしまうのである。
1月19日18時。


 チェスカー・トシェボバーの町の紋章には、奇妙な人頭の鶏が使われているが、その由来はなんなのだろうか。1月19日追記。

posted by olomoučan at 06:45| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ

2017年01月14日

クリスマスツリーの行方(正月十一日)



 チェコの各地の町では、中心となる場所に近くの森から切り出してきた針葉樹を立て、電飾をつけてクリスマスツリーにする。市庁舎の前に針葉樹の大木が植えられていて、それにそのまま飾りをつけてクリスマスツリーにする場合もあるからすべての町でというわけではないが、毎年クリスマスのたびに、大量の針葉樹の大木がクリスマスツリーのために消費されることになる。
 また一般の家庭でも、鉄やプラスチックで作られた人工のクリスマスツリーを使っている家もあるが、クリスマスマーケットなどで販売されている小さな針葉樹を購入し、それを台座にセットしてクリスマスツリーにするところが多い。こちらは森林から切り出してくるのではなく、クリスマスツリー用に、特別の畑?で育てたものらしい。

 問題は役割を終えたクリスマスツリーをどうするかである。飾りは取り外して翌年また使用するにしても、切られて根から離れた木を再利用することはできない。家庭の場合には普通のごみとして捨てようにも、ゴミ回収用のゴミ箱の中に入りきらないし、他のゴミと同じように燃やしてしまうのは、もったいないというか、罪悪感を感じるというか、とにかくこれではいけないと考えた人がいたのだろう。
 びっくりするような再利用法を考え出された。初めて聞いたときには耳を疑ったのだが、家庭で役割を終えたクリスマスツリーを、動物園に提供するというのだ。かつては、ゴミの収集場所の大きなゴミ箱の脇に何本もの飾りの外されたクリスマスツリーの成れの果てが積まれていて、それだけを回収するゴミ回収車がこの時期だけは走っていたのではなかったか。
 回収されたクリスマスツリーは、象などの巨大な草食動物の餌として使われていた。熱帯の広葉樹の葉っぱを食べているはずの象やキリンが、針葉樹の松の細くとがった葉っぱを食べるというのがまったくイメージできなかったのだが、ニュースで象が嬉しそうに食べているのを見せられて納得するしかなかった。冬場に青々とした餌が食べられるだけでも嬉しいのだろうか。

 その後、この手の廃クリスマスツリーに飾りをぶら下げるために使った針金が残っていたり、花火の火薬がついていたりするのが問題だというニュースも見たので、現在でも以前のような回収と動物園への提供が行なわれているのかどうかはわからない。ちなみに、チェコでは花火は、人が手に持って火をつけるような花火も冬のもので、特にクリスマスの時期に家の中ですることがある。以前クリスマスツリーの飾りに花火をぶら下げて、それに火をつけているのを見かけて、目を疑ったことがある。
 田舎に行くと、広い庭で野菜を育てている人が多いので、クリスマスツリーも最近流行の有機肥料を作るためのコンポストに切り刻んで放り込むという人が増えているだろうし、最近、ゴミの回収に当たっては、木の枝や草などのコンポストに使えるものを分別して回収しコンポスト化することを自治体に義務付ける法律が施行されたらしいので、それならゴミに出しても、無駄だという印象は小さくなるだろう。

 一方で、クリスマスマーケットに立てられたクリスマスツリーのほうは、今でも動物園に提供されているようで、プラハの旧市街広場のクリスマスツリーが、プラハのトロヤにある動物園に提供され、子象がもらった針葉樹の枝を食べるのではなく、枝で遊んでいるシーンが放送された。さすがに幹や太い枝は餌にはできないので、粉砕して小さなかけらにして別な用途に使用するらしいが、動物達にとってはこの時期の特別な食事となっているようだ。もちろん、家庭から出されたものよりは信用できるとは言っても、動物達に与える前に切り分けながら針金などの動物を傷つけかねないものがついていないかどうか入念なチェックをしているらしい。

 悩ましいのが、この事実をどのように評価するかということだ。針葉樹の大木を高々何週間かのクリスマスマーケットの飾りとして使用して、そのまま捨ててしまうのはもったいないから再利用しようというのにはまったく異論はないのだけど、それを手間隙かけてまで動物の餌にするというのはどうなのだろうか。象やキリンと針葉樹という組み合わせになじめないせいか、他にもっといい再利用の方法はないのかと考えてしまう。
 さらに言えば、一部の自治体のように木を植えてしまったほうがいいような気がする。すでに成長したものを移植というのは難しいだろうから、苗木を植えて、それが成長したらクリスマスツリーとして使用するという長期的な計画はどうだろうか。家庭にしても鉢植えじゃ駄目なのかなと感じてしまうのは、クリスマスツリーなんぞのために、木の命を奪うのはおかしいと考えてしまう日本人的な思考なのだろうか。
 そう考えると、不思議に思われた、シュマバの森の害虫にやられてしまった木々を被害が広がらないように伐採することに対して、強硬に反対している環境保護論者たちが、クリスマスツリーのための木の伐採に対しては特に声を上げていないのも、あいつら日本人的な思考じゃないからと考えておけばいいのか。まあチェコ人だしね。
1月11日23時。



posted by olomoučan at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ

2016年12月31日

話にならない童話映画(十二月廿八日)



 クリスマスの時期は、童話映画の時期である。特に十二月廿四日は、ニュースの放送を中止してまで、午後七時から新作の童話映画を放送する。この風習のようなものは、おそらく1990年代から続いているのだと思うが、近年はチェコテレビで、毎年新しい童話映画を三作制作し、そのうち最も評価が高いものを廿四日に放送し、残りの二つは、廿五日と廿六日の八時から放送することになっているらしい。
 ただし、その年の三作品の中で最も評価が高いからと言って、素晴らしい作品であるとは限らない。いや、どうしようもない作品であることが増えているような気がする。今年の奴もひどかったし。共産主義時代の古い童話映画が、うんざりするぐらい繰り返し、繰り返し放送されるのも、最近の童話映画が見るにたえないのが理由になっているのだろう。

 今年、廿四日の七時から放送されたのは、「本物の騎士」という題名の作品で、基本的には魔法使いにさらわれたお姫様を、騎士の息子が救出に行くというある意味王道の物語のはずだったのだけど……。
 生まれたときに贈られた品物に魔法使いの魔法が掛けられていて、成長したお姫様が手にとることで魔法が発動して、お姫様が炎に囲まれて姿を消すというのはいい。だけど、魔法使いがそんなことをした理由がわからない。後半でお姫様と結婚しようとするからそれが目的のようでもある。ただ、魔法使いの目的は全世界を支配することのはずなのに、どこともつかないお城のお姫様と結婚する意味があるのだろうか。

 父親の騎士の命令で、息子がお姫様を救うために探索の旅に出るのもいい。それに父親の騎士がついていくというところまでは、まだ許してもいい。しかし、主人公であるべき息子よりも、父親の方が活躍し始めて、魔法使いを倒すのに決定的な役割を果たすのは、そこにどんな意味があるのか理解できない。
 旅の途中で仲間になった二人組みのうち、若い方が裏切るのは、パターン通りと言ってもいい。でも、もう一人の男が途中から存在を忘れられて、全く出てこなくなるのには、最後に言い訳のように一瞬だけ登場するけれども、首をかしげるしかない。

 多分、童話映画に繰り返し表れるパターンを活用しながら、それをずらす、あるいは外すことで新しさを出そうとしているのだろう。ただ、パターンを外すことにこだわるあまり、物語として成り立たせるために最低限必要な部分まで解体してしまって、ストーリーが崩壊してしまっている印象を受ける。気取った文章を書こうとしてぐちゃぐちゃになることが多いことを考えると、他山の石にする必要がありそうだ。
 この新しい作品の直後に放送されたのが、古典的名作である「ポペルカ」だったのも、物語性のなさを印象付けるのに一役買っていたかもしれない。読書の対象としてなら、物語性を喪失した短いエピソードの積み重ねのような話も嫌いではないのだけど、それなら、わざわざ映像作品に、しかも子供向けの童話映画にする必要などない。

 廿五日の「約束の姫」も、チェコには珍しく海が出てきて、制作に力が入れられているのはわかるのだけど……。うちのの母親が、お姫様という設定なのに、露出度の高い服を着ていて、これでは売春宿の売春婦だと。そうなのだよね。お姫様という存在が許される時代設定を、ある程度は守ってくれないと、見ていて興ざめである。パロディに撤してくれれば、それでもいいのだが、それでは子供向けにならない。

 そんなこんなで廿六日の「奇跡の鼻」はチャンネルを合わせもしなかった。その代わりにノバで放送されたズデニェク・スビェラークが脚本を書いた「三人兄弟」を見ていた。2014年制作のこの映画も、古典的な童話映画のパターンを外しながら、作り上げられた作品ではあるけれども、最初から最後まで見させるだけの物語性は存在する。
 簡単に言えば、「いばら姫」「赤ずきんちゃん」、それにチェコの作家ボジェナ・ニェムツォバーの童話「十二の月の男たち(仮訳)」を、農家の三人の息子達の嫁取り物語という枠に入れて、強引に一つにつなげてしまった作品である。同じスビェラークの傑作「ロトランドとズベイダ」(1997)に比べれば物語の焦点がぼけてしまっている嫌いはあるのだけど、近年の受信料返せと言いたくなるような作品の中では、出色の出来と言ってもいい。

 現時点では、心の底から見てよかったと言えた童話映画は、「ロトランドとズベイダ」でロトランド役を演じたイジー・ストラフが監督となって制作した「アンデル・パーニェ」(2005)が最後である。現在、続編なのか「アンデル・パーニェ2」が映画館で公開中だというから、来年のクリスマスには久しぶりに、満足の行く童話映画が見られるのではないかと期待している。
12月28日23時30分。


posted by olomoučan at 08:00| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ

2016年12月30日

チェコのクリスマス、もしくはバーノツェ(十二月廿七日)



 クリスマス進行で廿六日の分の記事まで予約投稿したあと、やはり怠けてしまった。このまま放置すると、オロモウツに戻ってから、再度クリスマス進行並みの年末進行になりかねないので、毎年恒例の童話映画を背景に、執筆をというと大げさだけれども、よしなしごとを書き連ねることを再開しようと思う。

 十二月廿四日の祝日は、チェコではシュテドリー・デンと呼ばれる。シュテドリーは、日本語で言うと、適当な言葉が出てこない。けちなの対義語の形容詞で、「気前がいい」に近い意味なのだが、ふさわしい言葉が、おそらく漢語の言葉が思い出せない。何だったっけ、何かあったはずなんだけど。この辺の語彙がすぐに出てこないのが、外国に長くいる弊害である。
 とまれ、廿四日のチェコの家庭では昼食をとらない。日が落ちてから早めの夕食をとるまでの間に、空腹を感じた場合には、ツクロビーを食べるのである。ツクロビーというのはクリスマスの時期に、大量に作るお菓子で、クッキーのような焼き菓子が中心だが、語源がツクル(砂糖)であることからもわかるように、甘い、つまめるものなら何でもいいようだ。

 早めの夕食に鯉を食べることは、知っている人も多いと思うが、これがどのくらい古くまでさかのぼる伝統なのかはよくわからない。鯉を食べること自体はともかく、それがクリスマスと結びついたのは意外と新しいという話も聞く。一説によると、確かチェコ語の師匠の話だったと思うが、大戦間期のいわゆる第一共和国の時代に、冬場の肉の不足しがちな時期のタンパク源として、漁食が推奨されたことが、始まりだともいう。師匠の話だからどこまで本当かは怪しいのだけど。
 鯉は基本的にとんかつのような衣をつけて揚げるのだが、美味しいかと言われると、正直首を横に振るしかない。やはり泥臭さは否めないし、一切れ一切れが分厚すぎるせいか、揚がりきっていないことも多い。まあ最悪なのは骨の多さなのだけど。こちらに来て最初の数年は、がんばって鯉のフライに付き合っていたけれども、縁起物だしさ、最近は付け合せのポテトサラダだけで勘弁してもらっている。

 夕食の後は、クリスマスツリーの下に持ち寄ったプレゼントの配布である。包み紙に書かれた名前を読み上げて渡していくわけだが、受け取ったら、その場で開けて、「ありがとう、イェジーシェク」と言うところまでが、伝統行事のようなものである。たくさんもらうと、家族のそれぞれからもらうことになるので、一つということはないから、面倒くさくなるかもしれないけど。とまれ、プレゼントをくれるのは家族でも、もちろんサンタクロースなんかでは絶対になく、イェージーシェクであるという建前は、とくに年配の人にとっては維持されるべきなのだろう。
 近年は、もらったプレゼントが気に入らないからと返品したり取り替えてもらったりするために購入したお店に持ち込む人もいるようだし、プレゼントにもらった犬などを飼えないからと言って捨ててしまったり、犬や猫の収容所に連れて行ったりする人もいるようだ。お店にとっては書き入れ時だろうし、チェコに人にとってはかけがえのない伝統なのだろうけど、この手の無駄なプレゼントの話を聞くと、やめてもいいのかなとも思う。クリスマスプレゼントを買うために借金をする人がいるという話を聞くとなおさらである。

 この日放送されたチェコ人が愛してやまない1968年のプラハの春とワルシャワ条約機構軍の侵攻を背景にした映画「ペリーシュキ(寝床)」では、主要登場人物の一人が、最高のクリスマスプレゼントは、店で買えるものではなく、あげる相手のために自分の手で作り上げたものだと言うけれども、そんな考えは、大半のチェコ人に忘れられて既に久しい。むしろ、日本と同じように、値段で価値を測るような風潮がある。
「ペリーシュキ」では、クリスマスの風習の一つとして、熱して溶かした鉛を、水の中に流し込んで、出来上がった形で来年のことを占うというのも出てくるのだが、実際にやっているのは見たことがない。チェコ語の師匠も風習としては存在するけど、自分ではやったことがないと言っていていたし。うちのの話では、会員制の出版社兼書店の「クニジュニー・クルプ」のカタログに、この鉛占い用のセットが載っていたというから、危険を顧みずに自宅でやってみる人もいないわけではないようだ。目を保護するためのゴーグルが必要な危険な行為に挑戦しようという気にはなれないけど。

 師匠の話では、他にも、りんごを水平に切って芯のあたりに見られる形で占うとか、靴を頭越しに背後に投げて、落ちた位置と向きで占うとか、クリスマスにかかわる風習は結構たくさんあるらしい。いや、正確にはあったらしいというほうが正しいか。師匠自身も、大半は本で読んで知識として知っているだけだと言っていたから。
 さて、プレゼントの後は、テレビで童話映画である。チェコテレビ第一では、毎日午後七時からニュースが放送されるのだが、この日だけは、例外的にニュースなしで新作の童話映画が放送される。廿五日、廿六日にも童話映画は放送されるが、ニュースの後、八時からの放送である。この童話映画については稿を改めよう。

 名目上は廿五日と廿六日が、クリスマスの祝日ということになる。この二日に関しては特にこれと言って特筆するようなことはないのだけど、今年は、ミロシュ・ゼマン大統領が、第一共和国時代の、マサリクの伝統に戻ると主張して、これまで新年に行われてきた大統領の一年の総括と新年の抱負を述べる放送を廿六日に行ったのが特別と言えば言えるかもしれない。見はしなかったが、公共放送のチェコテレビだけでなく、民放のノバも放送するあたりチェコ人の政治好きを反映しているのかもしれない。
12月28日21時。


posted by olomoučan at 07:46| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ

2016年12月11日

チェコの銀行2(十二月八日)



 十二月の初めに書いた記事が、予定に反して、ČSOBの話だけで終わってしまったので、チェコの他の銀行についても、簡単に記しておく。間が空いたのは、それぞれの日にかかわりのある記事を優先してしまった結果である。

 チェコで一番大きな、つまり口座を持つ顧客の多い銀行は、チェスカー・スポジテルナ(チェコ貯蓄銀行)、略してČSである。この銀行は、19世紀の前半にヨーロッパで流行した貯蓄銀行の一つとして、1825年にプラハで活動を始めたものを起源に持つというから、チェコで一番歴史のある銀行と言ってもいいのかもしれない。
 その後、プラハだけではなく、各地の町に貯蓄銀行が設立されたが、第二次世界大戦中のドイツ占領期、戦後初期を通じて、集約化と国有化が進められ、各地に独立して存在した貯蓄銀行は、最終的には、一つのチェコスロバキア国立貯蓄銀行に集約された。その後、チェコスロバキアの連邦化に伴って、チェコ貯蓄銀行と、スロバキア貯蓄銀行に分かれ現在に至っている。この点、ビロード革命後もチェコスロバキアであり続けたČSOBとは対照的である。

 その後、ビロード革命後のクーポン式民営化の一環で、国立銀行から株式会社へと改組された。このときは、国と地方公共団体とで合わせて60パーセントの株式を保有していたようだが、その後、ČSOBに続いて完全民営化され、株式を取得したのはオーストリアのエルステ銀行だった。興味深いのは、この銀行もかつての貯蓄銀行に起源をもっていることで、その縁でなのかなんなのか、チェコ貯蓄銀行だけでなく、スロバキアの貯蓄銀行も傘下に収めているのである。つまり、チェコスロバキア貯蓄銀行の運命は、一度分離した後、EUの下に集ったチェコとスロバキアの国家と同じようなものなのである。国と同じで合併することはないだろうけれども。
 エルステ銀行の傘下の銀行は、どこもSの上に点を打ったようなマークをロゴとして使っているけれども、これはエルステ銀行が、貯蓄銀行だったことの名残なのだろうか。貯蓄銀行はドイツ語でもSで始まるみたいだし。
 オロモウツでは、かつてホルニー広場とドルニー広場がぶつかるところの角にあったのだけど、現在は、ホルニー広場から見てモラビア劇場の裏にある機能主義っぽい建物に入っている。もともとここにあったのが、建物の改修工事の時期だけ広場のほうに移転していたようだ。この建物も好きな人は好きだろうなあ。

 チェコの三大銀行の三つ目は、KBと略されるコメルチニーバンカである。実は、ドイツにコメルツバンクという銀行が存在することを知ったときに、てっきりその銀行の子会社になっているのだと思っていたのだが、そんなことはなかった。実はこの会社フランスの金融機関ソシエテ・ジェネラルの傘下なのである。
 もともとは、ビロード革命後に、共産主義の時代には、国の中央銀行と一般の銀行を兼ねていたチェコスロバキア国立銀行のうち、一般の銀行業務部門を分離して国営銀行として設立された。この銀行も、クーポン式民営化の一環で、国の保有する株式の割合が下がったが、最終的にその株式を国が売却して完全に民営化したのは、2001年のことだったらしい。その時に親会社となったのが、スランスのソシエテ・ジェネラルだったのである。正直な話、KBよりも、ČSとČSOBのほうがフランス資本の印象が強かったのだが、全くそんなことはなかった。思い込みというのは恐ろしいものである。
 オロモウツではかつては共和国広場の美術館の建物の片隅に入っていたのだが、その支店は廃止され、現在中心に一番近い支店は、本当の旧市街の外側、裁判所の隣の建物になる。このあたりは、要塞都市の指定を外れるまでは建物を建てることのできなかったところで、比較的新しい建物が並んでいる。それでも100年以上の時を経たものが多いのだけど。正直この建物にはあまり魅かれないので、KBを選ばなくてよかったと思う。

 これまでに挙げた三つの銀行以外は、一般の人を相手にしている銀行は、基本的に外資で、チェコの銀行を買収したものではなく、外国の銀行がチェコに進出して子会社を設立して活動しているものばかりである。ドイツのライフファイゼン銀行とか、ロシアのズビェル銀行とか、イタリアのユニクレジット銀行とか。フォルクス銀行とか、かつては見かけたのになくなってしまったものもある。
 現在ではかつてとはちがって、銀行が倒産したら預金が一コルナも戻ってこないということはないはずだから、どの銀行を選んでもかまわないはずである。それでも、銀行や保険会社の場合には寄らば大樹の陰で、ついつい大きいところを選んでしまう。日本の銀行も三菱だし。

 最後になるが、チェコの銀行の問題点としては、近年チェコ政府が頑張って交渉した結果、だいぶ変わってきてはいるようだが、チェコの銀行の顧客は外資系の銀行の本国では求められないような手数料を課されているというものがある。以前は、銀行があって機能しているだけでありがたかったので、特に文句をつける人もいなかったようだが、最近になって、同じ銀行の同じ顧客なのに、どうしてチェコ人は、フランス人や、ドイツ人以上に手数料を払わされるのかということで、抗議の声が高まっているようだ。政府もそれに押される形で交渉をしているのである。
 同じ事は、これも外資に支配されたスーパーマーケットのチェーン店でもあり、同じ製品がチェコで買うよりも、ドイツで買ったほうが安いというのは、まだ許せるにしても、チェコで売られているもののほうが、品質が明らかに低い場合が多く、これも政府の交渉対象となっている。
 この手の批判に対して、企業側、そしてその言い分を認めるEUの主張は、現地の商習慣、現地の人の要求に対応しただけだというものである。それなのに、国策で、チェコ国内の事情に合わせて決めていいはずの電気料金に関しては、EU内の電気市場の価格に合わせろなどと強要してくるのが、EUの、いやドイツの言う平等なのである。

 何か最後のほうは、テーマからそれてしまったけど、考えてみればいつものことか。
12月8日23時。



posted by olomoučan at 07:54| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ

2016年12月10日

レジのオンライン接続開始(十二月七日)



 実際に開始されたのは、今月の一日だから、すでに一週間ほどたったということになる。ニュースなどで導入の混乱振りが報道されていたので、簡単に紹介しておく。このシステムは、財務大臣のバビシュが税収増加の切り札として導入を図り、さまざまな反対と問題を乗り越えて、当初の予定からは一年ほど遅れながらも、ようやく運用が開始されたものである。
 チェコ語の略称でEETとなるこのシステムを簡単に言うと、国で把握しづらい個人事業主の収入を把握するために導入するもので、店のレジをオンライン接続し、レジに入力した会計データは、そのまま政府が管理するために設置したサーバーに送られ、それに対して管理サーバーからそれぞれのレシートに管理番号が与えられレジに返送される。その番号がレジで発行されるレシートに印刷されることになるのだという。

 これによって、誰には把握できないにしても、いつ、何を、いくつ販売したかについてはデータが財務省の管理下に集積されることになり、少なくとも割合の決まっている消費税に関しては取りっぱぐれがなくなるということらしい。この政策を批判する人たちは、ビッグブラザーの悪夢が現実化したようなものだと言っている。確かに、ここまでやるかという気がしないでもない。
 一方のバビシュ側は、これまで特に市民民主党の政権下で、企業優先、事業主優先の経済政策が取られ、税金に関しても過剰な優遇を受けてきた上に、脱税する可能性もあったのだから、このシステムの導入で、初めて税制が全国民にとって平等なものになるとかなんとか主張している。そして、チェコに先んじて導入したスロバキアで大きな成果を上げているから、チェコでも税収が増えるに違いないという。なんだか、取らぬタヌキの皮算用になりそうな気もしないでもない。

 今回、十二月一日に他の業種に先んじて、飲食業とホテル業に関してこのシステムの運用が開始された。それに伴って、かなりの混乱が各地で起こっていたようである。うちのの話では、この日、あちこちの店(飲食店ではない)で、カード払い用のターミナルが不調で、現金払いしかできなくなっていたらしい。これがシステムの開始と関係があるという証拠はないのだけどね。

 この日のニュースでは、システムの開始を機に廃業を選んだ長い歴史を誇る小さな村の小さな飲み屋を紹介していた。廃業を決めた店主は、ハプスブルク家の支配も、ナチスの占領も、共産党政権も生き延びてきたけれども、これは生き延びられないというようなことを言っていた。売り上げの増加にも、作業の効率化にも全く寄与しないシステムを、税金を払うためだけに導入するのは、小さな店にとっては負担が大きすぎるのだろう。
 飲み屋にビールを供給しているビール醸造業の業界団体によると、かなりの数の小さな飲食店が、この十二月一日を機に店をたたんだという。売り上げを完全に国で把握できるシステムの導入によって、飲食店一軒当たりの税収は増えるのかもしれない。しかし、その税金を納める店舗の数が減ってしまったのでは、本当に財務省の目論見どおりに税収が増えるのか、疑念を抱いてしまう。それに、ここの店舗でシステムの導入にかかるお金は、事業主の負担であることも納得がいかない。税制上の控除の対象にはなるのだろうけど、国の都合で導入を押し付けておいて、導入に関しては自分たちで忌日までに適当にやっておけというのは、国側の怠慢であるような印象をぬぐえない。国側が積極的にシステムの導入の支援を行なっていれれば、経費はかかっただろうけど、ここまで導入が予定から遅れることはなかっただろう。

 ただ、このシステムを導入することにどれだけの意味があったかについては、ニュースでインタビューに答えていたあるレストランの店主の声が、如実に物語っている。チェコでもすでに大半の人がカードで支払うようになっており、隠せる売り上げなんてほとんどないのに、管理が二重になって手間が増えるだけだと。これは、十二月一日にカードでの支払いができなくなったことへの説明でもあるのかもしれない。
 ニュースでは多くの飲食店で、システムの導入と同時に値上げを断行したことを伝えていた。せいぜい十パーセント程度の値上げのようだったが、これが一般の人たちの消費活動を抑制するようなことになりはすまいか。財務省が思い描いた税収増加というのは、絵に描いた餅に終わりそうな感じである。

 チェコ人というのは、面白いものでこのシステムの導入に関して、飲食店やホテルの対応は、大きく二つのグループに分かれたようだ。一つは当初の開始予定の今年の一月の時点で、準備万端、いつ実際にスタートしても問題のないようにしていた人たちで、この人たちは、システムが導入されることよりも、延期に次ぐ延期で実際に導入されるのかどうかはっきりしないことを強く批判していた。これで導入中止なんてことになったら、無駄な投資を強いられたことになるわけだから、当然といえば当然か。
 もう一つは、今回十二月一日からの使用開始が決定した後も、またまた延期されることを期待して、ぎりぎりまで何もしていなかった人々で、十一月の終わりになってシステムに対応したレジや、レジ用のソフトを慌てて購入していたらしい。もちろんこの手の機械は購入するだけでは駄目で、ちゃんと設定する必要があるので、機械だけでなく技術者も引っ張りだこになっていたようだ。この手のお店の中には、レジのシステムが間に合わず十二月の初頭は休業を余儀なくされたところもあったらしい。

 とにかく、一度導入した以上は、十年ぐらいは継続して運用してほしいものだ。画期的だった病院での診察料三十コルナも、医療制度の財政が健全化する前に、政権交代で廃止されてしまったし。

12月7日23時30分。



posted by olomoučan at 08:23| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ

2016年12月08日

聖ミクラーシュの日(十二月五日)



 十二月末のいわゆるクリスマスに、サンタクロースが登場するのは、ヨーロッパの文脈の中から言えば、邪道であることをチェコに来てから知った。サンタクロース、すなわち聖ニコラウスは、チェコ語ではスバティー・ミクラーシュとなり、ミクラーシュの日は十二月六日である。つまり本来ニコラウスを祝う祭は十二月の六日前後に行われていたということになる。
 前後というのは、師匠の話によれば、チェコでは名前の日のお祝いを前日の夜に行う習慣があり、ミクラーシュのイベントも六日ではなく、五日の夕方に行われるからである。

 チェコのミクラーシュは、真っ白い髭を伸ばして司教の衣装を身にまとい、頭の上には帽子、手には杖を持って現れる。お供をするのは、白装束の天使と、黒ずくめの悪魔である。本来はこの三人組で、子供たちのいる家庭を回って、一年間いい子にしていたかどうかを尋ね、いい子にしていた場合には、天使がお菓子を、悪い子だった場合には、悪魔が石炭を与えるというほほえましい儀式だったようだ。
 天使にお菓子をもらえたら子供たちは喜び、石炭しかもらえなかったら悲しむわけだけれども、その前にいい子にしていたかどうかを尋ねるのを見ていると、日本の東北地方に残るなまはげを思い出してしまった。あれも悪い子は悲しみ、ときに泣いてしまうわけだし。その印象を強化したのは、後にテレビのニュースで見たオーストリアのウィーンのミクラーシュのイベントだったのだけど、これについては後述する(多分忘れない)。

 近年は、特に都市部では自宅にミクラーシュが来るのを待つのではなく、子供を連れた親たちが、ミクラーシュのイベントの行なわれる、オロモウツならホルニー広場に集まってくることが多くなっている。ミクラーシュたちもイベントの会場だけでなく、その周囲で見かけた子供たちに、問いかけお菓子を配っている。石炭はあまり渡していないような気がする。
 以前は、このミクラーシュのイベントの一環として、ホルニー広場に立てられたクリスマスツリーの電飾にスイッチが入れられていたので、十二月五日の仕事帰りは、滅多にないほどに人でごった返した街中を通る、または珍しく混みに混んだトラムに乗る破目になっていた。今年は十一月下旬にマーケットが、チェコのほかの町より一週間早く始まった時点で、点灯されていたから、どうもルールが変わったらしい。

 うちのの話では、昔大学で授業を受けていたら、突然ミクラーシュと天使と悪魔が教室に乱入してきて、体にまとわせた電飾を光らせるためにコンセントに接続し、出席していた学生たちにお菓子を配り始めたなんて出来事もあったらしい。年末年始の花火にしてもそうだが、チェコの人というのは、こういうイベントに自腹で参加して、あれこれ配るのが好きだという面があるのかもしれない。
 それはともかく、チェコのミクラーシュの仮装は、悪魔役も、恐ろしいというよりは、かわいらしい姿をしているので、石炭をもらってしまっても、お菓子がもらえなかったということ以外には、子供が泣き出す要素はない。しかし、同じハプスブルク家の支配下にあったオーストリアでは、少々事情が違うらしい。

 もう、十年ぐらい前になるだろうか。チェコのニュースで、オーストリアのウィーンのクリスマスマーケットでのミクラーシュのイベントの様子が放送された。そこに描き出されていた情景は、唖然とするしかないものだった。どこのホラー映画だよといいたくなるようなコスチュームと被り物を身につけた大人に迫られて、泣き喚く子供たち、阿鼻叫喚とはこのことだと言いたくなるような状況を作り出していた。
 昔、森雅裕が、アイドル写真集の古本価格の高騰を招いたマニア層の存在を、金の使い方を知らない小金持ちなんて言葉で批判していたけれども、オーストリアの状況も全く同じである。無駄に金をかけて、無駄にリアルで、無駄に恐ろしい悪魔の装束を手に入れて、無駄に子供たちを脅す必要などどこにもあるまい。正直、子どものころに、なまはげの様子をテレビで見て、怖いと思ったけれども、オーストリアのミクラーシュはなまはげ以上に子供の心に傷をつけそうである。
 このニュースではミクラーシュと天使の姿はほとんど見かけなかったので、子供たちはお菓子をもらえないのかもしれない。そういえば、悪魔が石炭を渡しているのも見かけなかったなあ。オーストリア政府も、年々過激化するミクラーシュの仮装を問題視しているとも言っていたので、状況は改善していると思いたいところである。

 今年も、ホルニー広場を通って自宅に向かうときに、何人ものミクラーシュと天使、悪魔を見かけた。特に大々的なイベントが行われている様子はなかったけれども、通った時間の関係もあったのだろう。あちこちからホルニー広場に向かって歩いていく子供づれの姿があった。
 ちなみに、チェコのクリスマスでプレゼントを持ってくるのはイェジーシェクで、これはイエス・キリストの「イエス」のチェコ語版、イェジュシュの指小形(小さく、かわいらしいものを指す形)である。チェコ語のイェジュシュを見ると、日本にキリスト教を伝えた「イエズス会」の名前の由来が、イエスであることが実感を以て理解できるのである。
12月5日23時。


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2016年12月06日

チェコの古戦場(十二月三日)



 十二月二日は、アウステルリッツ、チェコ名スラフコフ・ウ・ブルナで、いわゆる三帝会戦が起こった日である。
 この戦いについては、日本でも世界史では必修事項になるなど知っている人が多いだろうが、その戦場が現在のチェコの領域にあることを知る人は少なくなるだろう。いや知識としては知っていても、実感を伴わず、チェコに来てその話を聞いて、そういえばと思い出す人が多いのではないだろうか。そして、そのアウステルリッツが、チェコではスラフコフと呼ばれていることを知る人の数はさらに少ない。
 さらに、スラフコフ郊外の丘陵地帯を舞台に行われたこの戦いを、再現するために毎年世界中からたくさんの人々がスラフコフに集まってくることを知る人はほとんどいまい。たくさんと言っても数百人、世界中とは言っても露、仏、墺の関係三国に、地元のチェコの人が中心だけれども。

 しかし、チェコの十二月という寒さに苦しめられる時期に、当時のさして暖かくも、着心地がよくもない服を身に着けて、当時の武器を担いで畑の中を駆け回るために、女性の場合には看護のために、モラビアの片田舎のスラフコフくんだりまで、これだけの数の人が集まるというのは、すごいことである。
 去年は末尾が0となる特別な記念の年だったので、例年の倍近くの人が集まったらしいが、今年は、特別にオロモウツから一週間かけて徒歩で行軍を行った上で、会戦に挑んだらしい。ナポレオンがオロモウツに来たことがあるのは知っていたけれども、アウステルリッツの前だったのだろうか。徒歩での行軍を行ったのはロシアからの参加者だと言っていたような気もするけど、当時、ロシアの皇帝がオロモウツに来たと言う話は聞いたことがないんだよなあ。こんな酔狂なイベントに参加するのはロシア人だけだったという落ちかもしれないけど。

 実は、この戦闘再現のイベントの話を聞いたときには、経過も結果も含めて再現するのだと思っていた。しかし、ニュースを聞いていると、どうも違うようである。今年もロシア軍の勝利に終わったというコメントが聞こえてきたような気がする。アウステルリッツの三帝会戦ってナポレオンが勝ったんだよなあ、確か。ロシアからの参加者が一番多くて、戦闘でもロシア軍が一番有利ということなのだろうか。
 ナポレオン役の人物は、結果よりもこのヨーロッパの歴史に大きな影響を与えた戦いの記憶を、完全に風化させないように、このイベントを継続していくことが大切なのだとか何とかのたまっていた。英語でのコメントに、チェコ語で字幕の着いたニュースだったから、実際のコメントとはかけ離れた脳内変換の賜物である恐れはあるのだけどね。

 さて、チェコの領土で起こった世界史に出てくる戦いはアウステルリッツだけではない。有名どころだと、ケーニッヒグレーツの戦いがある。ケーニッヒが王を意味するドイツ語で、グレーツが砦のようなものを表す言葉ではないかと気づいたとき、目の前が開けた。これはフラデツ・クラーロベーのことだ。
 城を意味するフラットからできたフラデツが、ドイツ語のグレーツにあたり、王を意味するチェコ語クラールからできたクラーロベーがケーニッヒにあたるのだ。師匠の話では、この地名はチェコ語の文法的な規則からは外れるところのある名称で、説明のしにくいものなのだと言う。小難しいことを説明してくれたのだけど、当時の酒毒に犯されかけた頭にはまったく入ってこず、方言地名ということにしておこうと決めたのだった。
 とまれ、普墺戦争に於ける最大の激戦の一つとなったこの戦いは、フラデツ・クラーロベー近郊の、具体的にはサドバーという小さな町の周辺が舞台となった。日本だとサドワの戦いということもあるのかな。

 こちらでも、再現イベントが行われており、十一月末にオロモウツに来てお酒をご一緒させてもらったプラハで仕事している日本の方も、会社の日本語ができるチェコ人に誘われて参加したことがあるらしい。そして、鄙にはまれな日本人ということで、取材に来ていたテレビ局から通訳つきのインタビューを受けたと言う。
 テレビかあ。十五年ぐらい前にチェコ語のサマースクールに出ていたときにインタビューを受けたことがあるぐらいだぞ。いや、チェコテレビのオストラバのスタジオの以来で、日本から子供たちのオーケストラが来たときの様子を撮影したドキュメント番組の通訳と字幕作成を手伝ったことがあるか。あのときもちょっとだけテレビに出たかな。ラジオなら、一時間ぐらいの生放送にゲストとしてつきあわされたことがあるけど。

 ヨーロッパの西と東をつなぐ位置にあるチェコでは、この二つ以外にも多くの戦いが行われてきた。西はポーランドまで進出したと言われるモンゴル軍も一部は現在のチェコにまで攻め込んで各地にその爪跡を残しているのだ。モラビア地方のシュトランベルクに残る伝統的なお菓子、おいしいかと言われるとちょっと困るけれども、そのシュトランベルクの耳と呼ばれるお菓子の発祥もモンゴル軍が戦功の証明として集めた耳だと言われている。チェコ中のあちこちに戦争の跡地が残っていることには違いない。
 そもそも、こんなことを書き始めた理由は、昔一緒に仕事をした日本の人が、久しぶりに再開したときに、金属探知機を買ったので古戦場めぐりをして、戦争の跡に残された銃弾などを探したいと言っていたのを思い出したからだった。とりあえず、アウステルリッツとケーニッヒグレーツだけ教えておけばいいかな。
12月3日23時。

 プラハ郊外のチェコ史上重要な古戦場ビーラー・ホラをドイツ語でワイセン・ベルクというとは知らなかった。知ったからと言って、それを世界史で勉強した記憶はないのだけど。12月5日追記。


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2016年12月05日

チェコの銀行1(十二月二日)


 ジャパンナレッジに入るためのクレジットカードの話を書いているときに、チェコの銀行についてはまだ書いていないことに気づいた。ということで、今日は銀行の話である。
 チェコの大きな銀行というと、まずČSOBこと、チェコスロバキア商業銀行、KBと略されるコメルチニーバンカ、そして、略してČSとなるチェコ貯蓄銀行の三つが挙げられる。重要なのは、この三つとも、外資系の銀行だということだ。いや、それぞれに歴史の違いはあるが90年代の民営化に際して、外資に買収されてしまっているということだ。

 ČSOBは、もともとは1960年代に、外国貿易に関する金融業務を担当する銀行として誕生したらしい。時代が時代だったので、もちろん国営の銀行だった。その後、ビロード革命後に、業務内容をチェコ国内の業者向け、個人向けにまで拡大し、チェコ各地に支店を開設していった。現在では全部で200以上の支店があるらしい。オロモウツには、なぜかホルニー広場とドルニー広場に一軒ずつ存在する。
 そして90年代の後半に始まった銀行の民営化の第一弾として売却が決定し、入札の末に、ベルギーのKBC銀行に買収され現在に到るということのようだ。ČSOB自体も、ビロード革命後に設立された銀行を吸収したり、子会社として保険会社を設立したりしていくつかの子会社を持ち、日本の銀行と同じで一つのグループを形成している。
 住宅ローン特化した銀行や住宅を建てるための貯金を担当する銀行などあるが、興味深いのは郵便局での貯金に関して権利を有していることで、実は顧客数ではこちらの方が、ČSOB本体よりも多いらしい。業務は郵便局で行なっているらしいのだが、郵便局と業務提携して業務委託しているという形なのだろうか。ČSOBで口座を作ると郵便局でお金を引き出せるように設定することも可能なようである。

 もともと、この郵便局での貯金業務の権利を持っていたのは、倒産したIPB銀行(投資郵便銀行)で、倒産後ČSOBがその後始末を引き受けることになったのだ。IPB銀行に関しては、かつてチェコに現地法人を置いていた日本の野村證券が株主になっていたことがある。その現地法人のチェコ人たちが、IPB銀行を舞台に大きな詐欺事件を引き起こしたという話があって、それがビロード革命後最大の金融犯罪の一つだというのだけど、チェコビール事件と呼ばれるチェコ最大のビール会社ピルスナー・ウルクエルの株を巡る事件があったということ以外は、具体的な内容はよくわからない。
 ただ、野村證券とチェコ政府、ČSOBの間で延々と裁判沙汰が続いていたのは確かである。どんな形で解決したのかはわからないが、この事件のために、チェコの野村證券に対する印象はあまりいいものではない。チェコテレビのニュースで、野村證券が女性社員に訴えられていた裁判に敗訴したというニュースが流れたことがある。日本のニュースなんて、それこそ地震や噴火などの大災害でも起こらない限り、チェコのニュースで見かけることはほとんどないということを考えると、野村證券だから、野村證券が負けたからニュースにしたのだとしか思えない。

 チェコに来て初めてビザの延長が必要になったときに、日本の銀行の口座の残高章明をとって、それをさらにチェコ語に翻訳するのは手間がかかりすぎると考えて、チェコの銀行に口座を開くことにしたのだが、どうしてČSOBを選んだのだろうか。
 当時、うちのに進められた銀行が、上記のČSOB、KB、ČSの三つだっだ。それ以外にも銀行はあったが、小さい銀行だと倒産する可能性があって、倒産した場合に貯金が返ってこない可能性もあると言われたのだ。90年代にモラビア銀行が倒産したしたときには、一生かけて貯めたお金を失って泣き暮らしていたお年よりもいたという話は聞いていたので、利率のよさで選ぶ気はなかった。この三つが倒産するときはチェコ経済が終わるときだともいうので、この中から選ぶことにした。
 うちのが口座を持っているのがČSなので、違うのにしようということでこれは外した。そして、当時チェコ語を勉強していたパラツキー大学の建物の一番近く似合ったのがKBで、近くて便利かもとは思ったが、何となく気が惹かれなかった。何度かお金の振込みや、両替などで使ってその支店にあまりいい印象を持っていなかったのかもしれない。

 しかし、決定的だったのは、ČSOBのドルニー広場支店の建物だった。正確なことはわからないけれど、アールヌーボーというか、ジャーマンセセッションというか、19世紀末から20世紀初頭にかけての雰囲気を感じさせるのだ。外見はそうでもないけど、建物の中の金なども使われていながら落ち着いた雰囲気が、最終的な決定を後押しした。待ち時間も建物の内装を眺めていたら退屈しないし。
 こう書いてチェコテレビで放送された建築番組「シュムナー・オロモウツ」でも取り上げられていたような気がしてきたので、これから、久しぶりに目を通してみよう。
12月2日23時。


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2016年11月20日

国際学生の日(十一月十七日)



 今日は祝日である。この日が祝日となっているのは、1989年にビロード革命のきっかけとなった学生たちのデモが起こった日だからだが、正式には「自由と民主主義のための戦いの日」という名称になっている。一部の国会議員がこの日の名前を「国際学生の日」に変えようという提案をしているのを、チェコの祝日に国際が必要なんだと不思議に思っていたのだが、この「国際学生の日」というのは、正式に国際的に制定されたものとして存在し、その制定のきっかけはチェコにあるという。知らんかった。
 ミュンヘン協定によりズデーテン地方がドイツに割譲されてから一年も経たないうちに、ドイツはチェコスロバキアに侵攻し、スロバキアとルテニアを独立させた上で、ボヘミアとモラビアを保護領とした。その保護領下で最初の独立記念日に際して、学生たちの反ナチスデモが起こった。デモの鎮圧に銃が使用され、ヤン・オプレタルとバーツラフ・セドラーチェクの二人が、銃撃を受け亡くなってしまう。

 そのうちオプレタルが亡くなったのが11月11日で、15日に葬儀が行われた。多くの学生が集まった葬儀がそのままナチスの占領に対する抗議のデモへと発展してしまう。最初の10月28日のデモの際にヒトラーは、次のデモがあったらチェコの大学を閉鎖することを命じていたらしく、17日にチェコ全土のすべての大学が閉鎖された。そして、学生の反ナチス運動の中心であった9名を、見せしめのために処刑し、1200人以上のチェコ人学生を捕らえ暴行を加えた上で、強制収容所へと送り込んだ。
 その二年後の1941年に、自由のためにナチスに抵抗し命を落とした学生たちを記念して、11月17日を国際学生の日とすることが、ロンドンで決められ発表されたのだという。そこには、大学を閉鎖するという挙に出たナチスに対する非難と講義の意も込められていたのだろう。

 だから、1989年のこの日に、反共産党支配のデモが起こったのも偶然ではなかったのだ。ナチスに処刑された9人の学生の死からちょうど50年に当たるこの日が、体制に対する抗議の声をあげるのにふさわしい日だとして選ばれた。そこには、ナチスに処刑された学生たちの無念を引き継ぐという気持ちもあったのだろう。そして鎮圧部隊のデモに対する過剰な暴力が、ビロード革命の引き金となりチェコスロバキアにおける共産党支配は終わりを迎えたのである。
 そのことを記念して祝日ということになっているので、この日は例年学生たち主催のイベントが行われてきた。ビロード革命のきっかけとなったデモは、プラハのアルベルトフという大学関係の施設の集まっている場所で始まった。そこには、「今じゃなければ、いつやるんだ? 俺たちじゃなければ、誰がやるんだ?(Kdy – když ne teď? Kdo– když ne my?)」という当時のスローガンが記念碑として残されていて、学生達、大学関係者の記念式典が行われていた。

 それが、昨年はゼマン大統領とその一派が、イベントを開催するために事前に占拠してしまい、ゼマン批判の多い学生を含む大学関係者は、記念碑のあるエリアに入ることが許されなかった。代表が花をささげることだけは許されたのかな。
 デモを起こしたのは学生で、その後を継ぐ学生たちこそが、記念碑の前で記念式典を行うのにふさわしいはずなのに、大統領とその取り巻きが占拠するのは、学生の手柄を横取りするようなものだなどという批判が巻き起こって、ますます反ゼマンの声が高まったのだけど、その分ゼマン支持者の声も大きくなったから、結果としてはゼマン支持と、反ゼマン派の間の対立が高まっただけである。

 この件に関して、ゼマン支持派を一方的に批判しても何の解決にもならない。問題は、学生を含む大学関係者の側にもある。知識人層が、自らを知的エリートとして規定したがっている層が政治活動をするときに持ちがちな差別意識にとりつかれているのだ。本人たちは気づいていないだろうけれども、自分たちと意見を同じくしない連中は知的程度が低いのだとか、あいつらは馬鹿だからあんな意見に賛成するのだなどと批判する相手を見下してしまうのである。これはアメリカの大統領選挙のクリントン支持者にも多かったし、日本の学生運動にもそんな人が多かったと聞く。
 対等の立場で相手の話を聞くのならともかく、最初から馬鹿だと見下している相手の話はまともに聞けるはずがないし、馬鹿にされている側にしても自分を馬鹿にしている連中の話なんざ馬鹿馬鹿しくて聞いていられるわけがないから、話し合いや討論のようなことをしても水掛け論で何の進展もなく終わってしまう。グリンピースなどの環境保護テロリストたちが一定以上は、支持を増やせない理由もここにある。もちろん自分自身でもこの手の思考に陥ってしまうことがあるのは自覚しているので、次回の言葉でもあるのだけど。
 さて、今年も、アルベルトフだけでなくプラハ各地、いやチェコ各地で、追悼のイベント、記念のイベントが行われた。チェコの歴史にとって重要な意味を持つ日だけに、自分たちの主義主張を大声で叫ぶために利用されている。結局それぞれが自分の言いたいことを大声で叫ぶだけに終わるので、あまり建設的なものにはなっていない。昔の日本の建国記念日に、右翼と左翼がそれぞれ集会を開いて大声で叫びあっていたのを思い出してしまう。

 せっかくの機会なのだから、それぞれのグループから代表者を集めて対等の立場で、相手の意見をちゃんと聞きつつ議論をするというようなイベントをやればいいのにと思う。少なくとも1939年と1989年の出来事は、チェコの歴史にとって重要で忘却の海に沈めてしまってはいけないという点では、一致しているのだから。
 ただなあ、チェコの政治家をはじめとする政治活動をしている人たちって、他人の話を聞かないんだよなあ。チェコテレビで毎週日曜日に放送している討論番組「バーツラフ・モラベツが問う」でも、司会のモラベツの質問に対してはちゃんと答えても、政治家どうして話し始めると、自分の主張を繰り返すだけで、内容よりも声が大きいほうが勝つという感じになっている。それで、見るのをやめたんだし。
 その辺の、自分だけ、自分たちだけが正しいという政治家の思いあがった態度が、有権者の既成政党離れを呼んでいると思うのだけど、気づいていないのか認める気はないようである。チェコでも日本でも政治家は、なんて言うと見下すことになってしまうので自重しよう。ノンポリの外国人としてはテレビで何が起こったかを眺めるだけで充分である。
11月18日17時。


 国の祝日の名称に「国際」なんてのをつけるのは間違っていると思う。11月19日追記。


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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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