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2016年09月04日
チャースラフスカーを悼む(九月一日)
日本にいたころ、チェコ関係の集まりに行くと、年配の方々が、東京オリンピックのチャースラフスカー選手の思い出を感情をこめて話すのを聞かされることが多かった。残念ながら、次のメキシコオリンピックでも生まれる前の話なので、現役時代の姿を同時代で見たことがあるわけではないのだが、体操がくるくる目覚ましく回って何をしたのかもスローで見ないとわからなくなる前の、美しさと優雅さを体現した選手だったようだ。
ソ連の選手の優勝に抗議の姿勢を見せたメキシコオリンピック以後、政治信条のせいで、民主化が始まるまでは迫害を受けていたようだが、ビロード革命後名誉を回復し、現在でも、ダナ・ザープトクコバーと並んで、チェコのスポーツの、スポーツ選手の象徴のような存在であった。そんなチャースラフスカーが亡くなったというニュースが、昨日チェコを揺るがした。
つい最近も、サーブリーコバーの自転車競技の参加をめぐって、IOCの会長に個人的なお願いをしたり、リオに向かう選手たちに応援のメッセージを送ったりして、少なくともテレビで人前に出るときには、病気に苦しんでいる様子は見せていなかっただけに、驚きも大きかった。人前で苦しむ姿は見せられないという意地があったのだろうか。
リオオリンピックで銅メダルを獲得したオンドジェイ・シネクが、「リオが終わった後に電話をかけたんだけど、遅かった」と言い、結局リオで出場できなかったサーブリーコバーが、「チャースラフスカーのような方は、不滅の存在なんだ」と言ったというスポーツ新聞の見出しを読むだけで、不覚にも涙がこぼれそうになって、記事を読むことができなかった。年をとると涙もろくなっていけない。
記事の見出しを追うだけでも、チェコのスポーツ選手たちにとっては、いかに大切でかけがえのない存在だったのかが見て取れる。癌で闘病されていたという話だが、オリンピックに出場したチェコの選手たちは知っていたのだろうか。
日本に対しては、本当に友好的でいてくださったようで、東日本大震災の後、被災地の子供たちをチェコに招待して、スポーツをさせるイベントにも笑顔で参加して子供たちを元気づけてくださっていた。一番喜んだのは、子供たちの親、もしくは祖父母の世代だったかもしれないけれども。こういうイベントこそ、スポーツの持つ力というものを如実に表していると言ってもいいのかもしれない。その象徴がチャースラフスカーだったのだ。
チェコのニュースでは、日本のニュースでチャースラフスカーの死が大々的に取り上げられて、日本中が哀悼の意を示しているというニュースが流れされた。日本での注目され方で言えば、ハベル大統領よりも上かもしれない。やはり、東京オリンピックを同時代で知っている人たちにとっては、不滅の存在だと言えるのだろう。
さほど思い入れのないはずの私のような人間ですら、ニュースの見出しを見て思わず絶句してしまったのだから、現役時代を知る人たち、精神的な支援を受けたチェコのスポーツ選手たちの受けた衝撃は押して知るべしである。
最後に、これまでの功績と、日本への友好に感謝を捧げ、御冥福をお祈りすることで本稿を終わりとしたい。「チャースラフスカーさん」も、「チャースラフスカー氏」も、「チャースラフスカー女史」も書いてみてしっくりこなかったので、敬称は省略させていただいた。多分、現役時代を知らないにもかかわらず、いつまでたってもスポーツ選手として意識してしまうために、何もつけないのが一番しっくりくるのかもしれない。
9月2日21時。
意あまりて言葉足りずになってしまった。9月3日追記。
2016年08月25日
オリンピックの影で2(八月廿二日)
昨日は、今回のオリンピックでチェコ選手のメダルが期待される最後の競技マウンテンバイクのレースを見て、その後ハンドボールの決勝を見てしまったせいで、いつも見ている七時のニュースを見損ねてしまった。その結果、こんなとんでもない事件が、世界に恥をさらすような事件がプラハで起こっていたことに気づかなかった。
今日になって気づいたニュースによると、日曜日の昼下がり、観光客で賑わうプラハの旧市街広場で、機関銃のようなものを持った男たちが空に向かって銃撃を行い、その場にいた人たちはパニックに襲われて、逃げ惑うことになったらしい。機関銃は本物ではなく、銃撃も効果音か、モデルガンでも空包を使うかしたらしいが、たちの悪い冗談というにはやりすぎである。ただし、この事態を引き起こした連中にとっては冗談でも何でもなく、自分たちの主義主張を道行く人々に知らしめるための行動だったようだ。こんなことするような連中の話だから誰も聞かないとも言えそうだし、誰も聞かないから、こんなことをするしかなかったとも言えそうだ。
首謀者は、チェスケー・ブデヨビツェにある南ボヘミア大学の准教授で蝶の研究を専門にしているらしいコンビチカ氏。ただし、この人物、最近は学者や教育者としてよりも、反イスラムの活動家として名を馳せており、その活動に対しては所属大学からも批判を受けている。これまで何度も反イスラムの移民反対、難民受け入れ反対のデモを組織したり、反イスラムを扇動するパンフレットを作成したりして、半非合法組織のネオナチ政党労働者党や日系人政治家のオカムラ氏とも協力関係を築き上げているようである。
そのコンビチカ氏と信者たちは、イスラム教徒の振りをしてターバンを巻いて顔を隠した連中と、迷彩服を着て付け髭をつけた連中に分かれて、軍用っぽい車両(車体にハマーと書かれているようである)と共に旧市街広場に乗り付け、イスラム教のシャイフのような服を着て帽子をかぶったコンビチカ氏が、車の上からイスラム教のテロリストたちが叫びそうな言葉を叫ぶと、機関銃を持っていた連中が、銃撃を開始。
驚いた人々が逃げ惑う中、車の上では、イスラム国の黒い旗のようなものが振られていた。そしてどこから連れてきたのかラクダの上のコンビチカ氏に向かって、土下座を繰り返すシーンもあったようだ。最後に、イスラム国が処刑と称するものを行うときに囚人に着せるのと同じオレンジ色の服を着せられた人物を、車から引きずり降ろして「処刑」しようとしたところで、警察が介入してお仕舞。
コンビチカ氏たちは、この出来事を路上演劇であると主張している。イスラム国が、トルコを越えて、バルカン半島を越えてチェコにまでやってきた場合に、起こりうる状況を旧市街広場に集まった人々に見せるためのイベントだったのだという。ネット上に上げられたビデオには、関係者の女性の服装をとがめる(ふりをする)男性の映像も写っていたから、イスラム的な服装を強要されるぞと言いたかったのだろう。
その結果として、集まった人々の間にパニックを引き起こし、近くにあるレストランやホテルに逃げ込む人もいたらしい。けが人が出たという情報もあるが、大きなものではなかったらしく救急車の出動はなかった。それでも近くのお店のガラスが割ら、テーブルが倒されるなどの被害を引き起こしている。これを以て、コンビチカ氏はイベントは成功だったと述べているけれども、正気を疑うほかない発言である。正気を疑われて誰もまともに相手にしてくれなくなったから、こんな狂気の行動に及んだのだろうか。
外国人観光客もたくさんいたはずだから、言葉がわからない中で、チェコ人たちよりも大きな恐怖に震えていたに違いない。泣き出してしまった老齢の外国人女性もいたらしいし。そんな中、イスラエルから来ている観光客たちは、銃撃音が聞こえた瞬間に、地面に付せるという、イスラエルで訓練された行動を見せていたのだとか。それはともかく、これでまた一つ、プラハの悪名が高まったことになる。
プラハ市役所では、別人の名前で旧市街広場でイベントを行うことが届け出られていたので、コンビチカ氏の反イスラム教徒のイベントだということは見抜けず、許可しないわけにはいかなかったとコメントしている。いや、でもコンビチカ氏に近い人物の名前だっただろうから、事前に警官を配備しておくぐらいのことはできたんじゃなかろうか。一介の役人にそこまで求めるのは無理な話か。プラハの市長は担当の役人の責任だと批判しているけれども。
警察が事前にこの「イベント」に使う予定の小道具のチェックをしたという話もある。ただ正直に何をするつもりか警察に話したとは思えないので、事前に禁止するのは無理だったかもしれないが、最初のイスラム教徒風の演説を始めた時点で、介入していればここまで大きな騒ぎにはならなかっただろうに。
いずれにしても、チェコ史に残る汚点になったとは言えそうである。最終日で競技が少なかったとは言え、オリンピック期間中の出来事で、世界的にはそれほど目立たなかったのがチェコにとっては不幸中の幸いではあった。それでも、アメリカのニューヨークタイムズだったか、ワシントンポストだったかに掲載され、読者の声としては、アメリカでやっていたら銃を持った市民に銃殺されているだろうなんてものが多かったらしい。25日はドイツのメルケル首相がプラハに来るらしいけれども、コンビチカ劇場がまた炸裂するのかねえ。
8月23日23時。
2016年08月24日
チェコ料理(八月廿一日)
何を書こうか考えていて、書けそうだけれども、どうも踏み切れないテーマがある。考えがうまくまとまっていないからなのか、落ちが付きそうにないからなのか、自分でもよくわからないけれども、無理やり書き始めてしまうと、迷走してしまってとんでもないところに着地して、書き直しなくなることさえある。
だからと、言い訳から始めたのは、書き始めて短時間で書き上げられそうなネタがないので、特に考える必要もないことを書くことにしたからに他ならない。すでにこの部分からして迷走しているなあ。それはともかく、チェコの、チェコで、オロモウツで飲むべきビールについては、書いてきたが食べ物についてはあまり書いていないことを思い出したので、ちょこっとまとめておく。
スマジェニー・シールと、ブランボラーク、オンドラーシュについてはすでに書いたようなので改めては書かないが、ブランボラークについては、ジャガイモのパンケーキという料理が『美味しんぼ』の最初のほうに登場していたのを思い出した。古びたドイツ料理店が舞台の話だった記憶はあるのだが、チェコで初めてブランボラークを見たときには、まったく結びつかなかった。だから、ジャガイモのパンケーキも、ポテトパンケーキもブランボラークの和名としては認めない。ブランボラークはブランボラークなのだ。知人の誰かだったが、ブランボラークは新しいジャガイモで作るよりも、ちょっと古くなってしおれたようなもので作ったほうが美味しいんだなんて言っていたけど、本当かどうかは知らない。
グラーシュも、『マスター・キートン』の最後のほうでキートンの恩師がウィーンのレストランでよく食べていた料理として「グヤーシュのクネーデル添え」とかいう名前で登場している。当時はこの料理がハンガリー起源のものだと知らなかったので、グラーシュとクネドリーキの間違いじゃないのかなどと思ったものだ。
グラーシュの中でも、チェコ語で「セゲディンスキー」という形容詞のつくやつは、ちょっと変わっている。多分ハンガリーの都市セゲド風グラーシュという意味だろうが、本当にセゲドで作られているのかどうかは知らない。ザワークラウトとパプリカがふんだんに使われていて、酸味が利いているから、好き嫌いが分かれる味かな。キャベツを酸っぱいクリームで煮込んだようなものもあったかもしれない。クネドリーキと一緒に食べるのは普通のグラーシュと同じ。個人的には好きな料理だったのだけど、一度酸っぱすぎて食べられないのが出てきて以来、あんまり食べなくなった。
ザワークラウトを使う料理として、もう一つゼルナー・ポレーフカ、略してゼルニャチカを挙げておこう。ときどきゼレナーと間違えてしまうのだけど、緑のスープではなく、キャベツのスープである。セゲディンスキー・グラーシュと同じでパプリカを大量に使ったオレンジ色のものから、白いものまでレストランによって、家庭によってバリエーションがあるようだけど、酸っぱすぎなければ大抵は美味しい。
うちでは、冬になるとパプリカ入りのものを大鍋で作って、何日かかけて食べることが多い。レストランで食べるときには、白いのが出てくることが多いかな。ブ・ラーイにもあったような気はするけど、あそこではたまねぎのスープ、ツィブラチカを注文することが多かった。
酸っぱいスープといえば、知り合いがどこかのレストランで食べていたキノコの入ったスープが酸っぱくて大変そうだった。見かねたチェコ人たちが、それはチェコの伝統料理だけどチェコ人にとっても普通ではないスープだから、無理して全部食べる必要はないと言うぐらいだった。名前は何だったかなちょっと覚えていない。これが酸っぱかったのもザワークラウトのせいだったのだろうか。自分で食べていないからよくわからん。
初めてサマースクールに来たときに、勧められて食べたのが、ニンニクのスープ、チェスネチカだった。ニンニクが強烈に効いているのと、クルトンを入れるのは、どこでも同じようだけど、このスープも地方差が大きいらしい。ハナー地方のニンニクスープは、生卵がそこに沈められているのが特徴で、食べようと思ってかき混ぜたら卵の黄身が浮かんできてびっくりした。
ニンニクは、一時期中国産の廉価で味も香りもあまりないものが幅をきかせてチェコ産のものが手に入りにくくなっていたのだが、最近はどうなのだろうか。以前ニンニクの生産をやめた農家なんてのもニュースになっていた。その後はチェコ産のニンニクを求める声が高まっていたから、チェコのニンニク生産が増えていることを祈ろう。ニンニクはブランボラークにも使うし、チェコ料理には欠かせないのだ。魚を焼く時に塗るのはどうかとは思うけど。
こうして思いつくチェコで食べた料理を挙げていくと、チェコでしか食べられないものはほとんどないと言ってよさそうだ。ハプスブルク家の支配のもとにあったこの地域では、料理もいろいろな形で伝播して、地域差はあるものの全体としては同じような料理が作られるようになったと言えるのかな。ウィーンでは、モラビアの農村から出稼ぎに出た若い女性が女中や子守として仕事をしていたので、チェコ語の言葉がウィーンのドイツ語に取り込まれたという話もあるから、料理もそうなのだろう。どっちからどっちに流れたのかはともかくとして。
8月23日14時30分。
スビーチコバーとか、クリスマスの鯉のフライとかは、自分で食べないのでここに書くのはやめておく。8月23日追記。
こんなのが出てきた。パラチンキかあ。
2016年08月22日
チェコ人テロリスト?(八月十九日)
今月の初めだっただろうか。チェコで初めてテロリストだと認定されたグループの裁判が始まったというニュースが流れた。これはアナーキストのグループで、貨物列車の襲撃を計画して、武器などの入手を進めていたときに逮捕されたらしい。
このグループの具体的な政治目標などは明らかにされていないし、具体的にどんな貨物列車を狙ったのかもはっきりしない。アナーキストということで政府を転覆させて、無政府状態を作り出そうとしたのだと考えると、テメリンの原子力発電所あたりに向かう核燃料を積んだ貨物列車ではなかったかと想像をたくましくしたくなる。
検察側はテロ行為の計画および未遂ということで、起訴したようだが、被告側は無罪を主張している。その理由は、この計画はグループ内にもぐりこんだ警察のスパイが計画したもので、本来のメンバーは、警察が自分たちに何をさせたいのかを見極めるためにその計画に従う振りをしただけだというのである。警察のスパイを発見したらリンチというのが、左翼テロ組織の不文律だと思っていたのだが、チェコの組織は優しいなあ。日本でリンチされたのは、公安の人間じゃなくて、公安に脅されてスパイになっていた、いわゆる公安の犬だったっけ。いや疑いだけでやられたのかな。
それはともかく、警察側は警察の人間が組織に入り込んだときには、貨物列車襲撃の計画はすでに動き始めており、武器や火薬の調達が始まった時点で逮捕に踏み切ったのだという。潜入捜査に際して、法律に違反するようなことは何もしていないというが、これは汚職事件のような盗聴などの違法すれすれの行為が必要な事件の捜査では決まり文句みたいなものである。
グループ側と警察側のどちらの証言でも、警察からのスパイを通じて武器の調達を図ったということのようである。うーん、新入りにやらせるなよ。いや、武器を調達できそうな人間とコンタクトをしていたら警察のスパイに突き当たったということだろうか。
そもそもこの事件、どこまで重大なものとして受け止められているのかわからない。起訴されたグループ数人のうち、一人を除いては保釈が認められていて裁判で刑が確定するまでは収監されないみたいだが、本当に国に対する脅威だと認められていたら、全員保釈なんてさせないだろうに。
ことだ。実際には、それほど脅威だとは認められていないということなのだろうか。
歴史的な経緯を見れば、左翼テロの全盛期だった戦後の冷戦の時代に、チェコは、チェコスロバキアは、西側で左翼テロを支援していたソ連の影響下にあったのだから、国内で左翼テロが起こるはずがなく、右翼はそもそもテロを起こす前に思想的な問題で秘密警察に逮捕されるか、亡命するかしていたはずだから、右翼テロも起こりえなかったのだろう。アラブ諸国に対しても、医学生を受け入れるなどの支援をしていたから、アラブの民族テロリストに狙われることもなかっただろうし、久しぶりのテロ未遂になるのだろう。今後起こりかねないイスラム国の影響を受けたテロや、 反イスラムの右翼によるテロ対策の準備としては、このぐらいがちょうどよかったのかもしれない。
ところで、「ス・トホ・ベン」というアナーキスト的芸術家?のグループがある。歩行者用の信号の人形の形を変えるなどという罪もないいたずらをしていたグループなのだが、プラハ城の屋根に登って掲揚されていたチェコの国旗を盗むという事件を起こした。ミロシュ・ゼマン大統領に対する抗議として、国旗の代わりに大きなトランクスを掲揚して逃げ出したらしい。今の大統領にはチェコの国旗よりも男性用の下着が似合うという意味だろうか。
プラハ城でも改修が進められており、その工事用の足場を使って屋根まで登って降りたのに、警備にとがめられることもなかったということで、プラハ城の警備は大丈夫なのかという意味でも世間の注目を集めた。結局プラハ城の警備主任が辞職する騒ぎになったのだったかな。
このグループも何かの理由をつけて逮捕されて裁判沙汰になっているのだけど、裁判でプラハ城の、いや大統領側から盗んだ国旗を返却するように求められて、「プラハ城に掲揚されていた国旗は国民の財産であるから、すでに細かく切り分けて国民に還元したので返却はできない」とかなんとか答えていた。
うーん、こいつらのほうが、テロ認定された連中より手ごわそうである。こんなテロもどきで経験を積んで、本物のテロリストが国内で活動を始めたときには、しっかりと対策をとってくれることを願っておこう。
そういえば、クラウス大統領が地方を視察していて、集まった人たちと交流していたときに、警備員が傍にいたにも関らず、近づいた男にモデルガンで撃たれるなんて事件もあったなあ。今年の一月にはイスラム国に参加しようとしたチェコ人がトルコの空港で捕まって、強制送還されたという事件も起こっている。情報が公開されたのは最近だけど。どれもこれも今後に向けての教訓にはなっていると信じよう。
8月21日12時。
2016年08月21日
チェキアいづこ――aneb kde je Czechia nemoje?(八月十八日)
リオ・オリンピックの喧騒の影で、ひっそりとチェキアという略称の国連への登録が認められたというニュースが流れた。数か月前にあれだけ熱心に議論が繰り広げられていたので、その議論の結果を受けて、登録するしないを国会で審議するのかと思っていたら、こっそり申請していたらしい。いや、申請したというニュースで、議論が巻き起こったのだっただろうか。
当時Czechiaの採用を主張する理由の一つとして、挙げられたのが、オリンピックなどのスポーツイベントに使うには、Czech republicは長すぎるというものだった。だから、オリンピックのチェコ代表のウェアにCzech republicと大きく記され、胸の部分のエンブレムにCzech teamと書かれているのを見たとき、Czechiaは採用されなかったんだなと安心したのだけど、そういうわけではなかったようだ。
結局、英語での略称としてCzechiaを導入したい人たちがいて、スポーツはそのだしに使われてしまっただけなのだろう。だから、その手の人たちにとって、実際にスポーツの世界で使われるかどうかはどうでもよく、議論を重ねた(少なくともふりはした)というアリバイもあるので、チェコ人全体がどのように考えているかも、些末事に過ぎないのだ。
オリンピックのチェコ代表の公式Tシャツ(そんなものがあるのかどうかは不明だが、関係者がよく着ている)の白地に一文字づつ色を変えてCzech republicと書かれているのも、なかなか見栄えが良くて、評判も悪くないようだから、スポーツ選手にとっても、デザイナーにとってもCzechiaという略称は必須のものではなかったらしい。そういえばあの時も、スポーツ選手で声高にCzechiaの採用を叫んでいる人はいなかったかな。
しかし、そもそもスポーツの世界で英語の略称を使う必要があるのだろうか。日本も何の疑問もなく選手たちのウェアにはJapanの文字が入れられているけれども、英語である必要はあるのだろうか。なんてことを考えながら、ハンドボールを見ていたら、スウェーデンの選手たちのユニフォームには、Swedenなどとは書かれておらず、Sverigeとか何とか書かれていた。どうもスウェーデン語のスウェーデンらしい。
自転車競技で活躍したポーランドの選手たちのユニフォーム(?)にも、Polslaとか何とか書かれていて、同じ西スラブでも、Poloskoというチェコ語の表記とは違うんだという感想を抱いたが、よく考えたらこれも英語ではなく、ポーランド語である。冬のスポーツだと、フィンランドのアイスホッケー代表もフィンランド語の国名を使っていたような気がする。
独立したての新しい国で存在を世界に知らしめるとか、国名を変更したばかりで周知の必要があるとか、そんな理由でもない限り、英語を使う必要はないのだ。だからこそ、新しく決めた英語の略称を周知するために、今回チェコはCzechiaを使うべきたっだはずなのだけど、結局、政治家たちの話題作り、もしくは、重要なテーマから国民の関心をそらすための手だったのかね。
それはともかく、せっかく世界中から、さまざまな言葉を使う人々が集まっているのだから、選手たちのユニフォームが言葉のささやかな展示会であってもおかしくはないように思う。スウェーデンのユニフォームの胸のところにSWEと入れてあったように、国を識別するためのコードがあれば、間違えられることはないだろうし、本当に異文化に対する寛容性を子供の頃から育てたいのであれば、オリンピックは最高の機会である。言葉は文化であり、その国の自称を知ろうとすることは、その第一歩となるだろう。IOCもあれだけあこぎな方法で集金しているのだから、それをオリンピック参加国の自国語での名称の一覧を作って、世界中の小学生に配布するぐらいのことはしても罰は当たらないだろうに。
日本だって、「にほん」なのか「にっぽん」なのかという問題はあるとはいえ、スポーツの応援のときには、みんな「にっぽん、にっぽん」と叫んでいるのだから、Japanじゃなくて、Nipponを使ってもいいんじゃないのかねえ。日本の存在を知らない人がオリンピックを見ているとは思えないし、外国人の日本初心者は「にっぽん」と言い、上級者になると「にほん」も仕えるなんてのの入り口にはなりそうだしさ。
それから、日本代表を、何とかジャパン、かんとかジャパンと呼ぶのもやめてもらいたいものだ。あの手の気恥ずかしくなるような愛称をつけたところで、実力が上がったり人気が出たりするものでもあるまいに。チェコにいるから耳で聞く機会はないのだけど、ネット上の記事などで目にするとなんともいたたまれない気分になってしまう。選手たちが満足しているのならいいのだけれども、マスコミに踊らされているんじゃないかと思われてしまう。
誰か、大和言葉でよさそうなの考えてくれないかな。大和言葉だと柔らかすぎて、命の取り合いはしないスポーツだとは言え、戦いには向かないか。それに戦前の復活だとか言い出す連中が出そうだなあ。
ちなみにチェコのサッカー代表は、「チェコのライオン」と呼ばれることがあるらしいのけれども、同じ名称の映画の賞と重なるためか滅多に使われず、U21代表が、「ルビーチャタ」(ライオンの子供たち)と呼ばれている。
8月20日23時。
迷走した挙句に、とってつけたような終り方。うーん。8月20日追記。
2016年07月27日
道路の上の(七月廿四日)
無残やな道路の上のハリネズミ はせを(偽)
チェコの道を自動車で走っていると、路面に張り付いた野生動物の死体を目にすることが多い。市街地だとハリネズミ、町の外だとノウサギが一番多いだろうか。完全につぶれていてどの動物の死体なのか判然としないことも多いから、一番多いというのはただの印象でしかないのだけれど。
チェコという国には、意外と野生の動物が多い。しかも山の中の森林地帯だけでなく、市街地の近く、言い方を変えれば人間の生活圏のすぐ近くでも野生動物の影が濃い。人口十万人を誇るオロモウツでも、旧市街の周辺を取り巻いている公園の中では、木から木へと走り回るリスを頻繁に見かけるし、公園の中の池や、小川には鴨が泳いでいて、時に周囲の芝生の上を歩き回っていることもある。
市街地でも、潅木の茂みでガサゴソ音がするのでノラ猫かと思って見てみると、ハリネズミだったりする。ハリネズミは夜酒を飲んで家に帰る途中の路上で見かけることもあるから、運が悪いと夜の闇の中路上をのこのこと歩いているときに、車に轢かれて屍をさらすことになるのだろう。
街の外では、特に冬場になるとは、雪に覆われた畑の上で鹿の小さな群を見かけることがある。茶色い土の塊だと思っていたものが動き出して、ノウサギだと気づくこともある。コンバインが刈り残したり、収穫の際にこぼれてしまったりした小麦なんかを探して食べているのだろうか。鹿は森に餌の豊富な時期には畑で見かけることはないが、ノウサギは夏場でも、他よりも早く収穫を終えた畑で見かけることがある。
またモラビアには、畑に囲まれて小さな森が残っているところも多い。農業的にはつぶして農地にしてしまったほうが効率がよさそうなその手の森にも、猟師たちが使う見張り用の小屋が建っているところがあるから、事情があって残った森ではなく、意図的に残された、もしくは植林された森であるようだ。
そんな小さな森を住処とする動物たちが、運悪く事故に遭って無残な死体を残すことになるのだろう。モラビアの平原地帯では、鹿とぶつかる事故は滅多に起こらないようで、路面に張り付いているのは小さなノウサギの死体ばかりだが、山間部の本当の森に挟まれた道路の場合には、鹿とぶつかる事故も問題となっているようだ。
この手の、動物との接触事故は車を運転する側にとっても気持ちのいいものではないし、野生動物の保護、もしくは狩猟の対象となる動物の保護の観点からも防止したほうがいいのだろう。そのために、動物が道路を越えるための通路を道路の下に通して誘導するなんてこともしているようだが、人工物ということで避けられるのか、あまり効果は上がっていないようである。
ある程度の効果が上がっているのは、鹿やノウサギなどが忌避するにおいを発する泡状の物質をつけた棒を道路の両側に一定間隔で立てていくという方法らしい。ただ問題が二つ。一つはその物質のにおいを発し続ける期間が、当初の想定よりも短く、頻繁に新しいものに変える予算が足りないということで、もちろん、すべての道路で実行するには予算がかかりすぎるという問題もある。
もう一つの問題は、その棒が盗まれることである。自分の畑を動物から守るために、盗んでいく人が後を絶たなかったらしい。専業の農家ではなく、都市部に住んでいる人で別荘を持っている人や、菜園を借りている人たちがお金のかからない害獣対策として持っていくのだとニュースで言っていた。専業で大規模に農業を営んでいれば、害獣対策は予算の一部になるし、必要量を盗むのも難しくなる。
こんなのは、社会主義の時代に、盗めるものは盗めるときに盗んでおかないと後で困るというのが常識だったらしいチェコでは、当然のことなのかもしれない。もっとも当時は職場から資材を盗むのが常識だったらしいけど。発覚しないように毎日少しずつ職場から煉瓦などを盗んで、何年もかけて家を自力で建ててしまった人もいるなんて話を聞いたことがある。
とまれ、この野生動物が道路に飛び出して車に轢かれるという問題は、なかなか解決できないようで、オロモウツから南モラビアまでほぼ100キロほどの道のりで、十匹近くのウサギと思しき動物の死体を確認した。
野生動物を人間の考え通りに動かそうというのが間違っているのであって、人間の思い通りに動くのであれば、それは野生動物ではないと考えれば、自動車に轢かれての死すら野生の証明ということになるのかもしれない。そういえばイタチか何かが、自動車のボンネットの中のちょっとした空間を餌置き場にしてしまうという話も聞いたことがある。イタチよけの自動車用のスプレーも売られているみたいだし。
7月26日15時30分。
まとまらない、まとまらない。うーーん。7月26日追記。
2016年07月19日
親しい人(七月十六日)
一昔前、チェコでは、スピード違反や飲酒運転など自動車を運転していて、問題を起こして警察に止められたときに、「ブリースカー・オソバ」という言葉で言い訳する人が多かった。これは、日本語に訳しにくい言葉で、友人や家族などの「親しい人」を表す言葉と言えばいいだろうか。
警察に捕まったときに「自分が運転していたのではない。親しい人が運転していたのだ。ただそれが誰かは言いたくない」という形で使われていたらしい。そうすると警察としては、本当にその親しい人が運転していたのか、言い訳をしている人が運転をしていたのか確認しなければ、罰金を科すこともできず、手間が増える一方だったという。その手間に見合わないささいな違反の場合には、放置されてしまうことも多かったようだ。
警察の検問などで止められて、運転席に座った状態でのアルコールの検査で陽性反応が出たような場合には、この言い訳は通じなかったと信じたいのだが。一時期は、あまりの多さに、国会でも法律を改正して「ブリースカー・オソバ」という言い訳を使えないようにしようという動きもあったようだ。最近話を聞かないけど、どうなったのだろうか。当時の案では、実際に運転していたのかどうかの証明が警察の義務だったものを、交通違反をしたとされた容疑者の義務に変更しようとか言っていたのかな。つまり、「ブリースカー・オソバ」という言い訳が、通用するのは実際に運転していた人物を明らかにした場合だけというわけだ。
問題は、ブリースカー・オソバそのものよりも、何故この言い訳が流行して、チェコの警察を困惑させたかにある。実は発端は、警察の人間、それも交通関係の警察なのである。あるとき北モラビアの道路で、警察がスピード違反の車をパトカーで追跡して、停車させたら、車内にいたのが、確かフリーデク・ミーステク地方の交通警察の長だった。素直に自分の罪を認めればいいのに、「ブリースカー・オソバ」を言い訳に使ったらしいのだ。
現場の警官としては、それを受け入れるしかなかったのか、相手の身分を慮って受け入れたのかは覚えていないが、その場で逮捕したり罰金を科したりすることはせずに解放した。アルコールの検出テストを受けるのも、同様の理由で拒否したんだったかな。この事件のニュースを聞いたときには、交通警察を管轄する人間が、自分の担当部署の弱みをつくような言い訳をしたことに唖然とするしかなかった。
そして、ニュースを通じて、「ブリースカー・オソバ」の効力を知ったチェコ人たちが、乱用を始めるまでにそれほど時間は必要なかった。警察の人間が、同じ言い訳をして無罪放免になっているのだから、これで処罰をするなら差別だとでも言われたら、現場の警察官はさぞ困ったことだろう。
組織の偉いさんが、余計なことをして現場の人間が苦労させられるというのは、チェコでもよくある話で、いろいろな役所で手続きをするときに愚痴を聞かされることのあるのだが、ここまでひどい例は他にはなかった。この手の話は、最近はほとんど聞かなくなったので、法律が改正されるかどうかして、問題は解決されたものだと思いたい。
7月17日22時30分。
なんかうまくまとまらなかった。7月18日追記。
2016年07月12日
カルロビ・バリ映画祭(七月九日)
カルロビ・バリは、ボヘミアの西部ドイツとの国境に近いところにある温泉街である。ドイツ名のカールスバートという名前でも知られているこの町は、カレル四世が温泉を発見して町を建設したという伝説が残っている。
毎年七月の初めに、この人口五万人ほどの小都市に毎年一万人以上の観客を集めて開催されているのが、今年で五十一回目を迎えたカルロビ・バリの映画祭である。第二次世界大戦の終戦直後の1946年に近くの温泉街、ドイツ名のマリエンバードで世界的に知られているマリアーンスケー・ラーズニェで始まり、完全にカルロビ・バリでの開催が定着したのは1950年からであったという。
1956年には国際映画製作者連盟のよって、カンヌの映画祭などと同じカテゴリーAに認定されたが、モスクワで国際映画祭の開催が始まった関係で、東側に毎年二つも大きな映画祭は不要だということだったのか、モスクワよりも大きな映画祭が行なわれることが許されなかったのか、モスクワとカルロビ・バリで一年おきに開催されるようになる。
そしてビロード革命後の1994年に、俳優のイジー・バルトシュカが実行委員長となってから、再び毎年開催されるようになり、失われてしまった世界的な映画祭としての地位を取り戻すための努力が始まった。バルトシュカの回想によると、アメリカに亡命して世界的な映画監督になっていたミロシュ・フォルマンの助力が大きかったという。この前まで共産圏だったチェコの片田舎のカルロビ・バリに、さして有名でもない映画祭に招待されたからといって来てくれるような映画関係者などいるはずがない。
それで、バルトシュカが、フォルマンに電話をかけて助力を頼んだところ、たまたま一緒に居たのだったか、すぐに電話をかけてくれたのだったか忘れてしまったが、映画界の友人たちに「友達のバルトシュカってのがやってる映画祭がチェコで行なわれるんで、行ってやってくれないか」なんて頼んでくれたらしい。そのおかげで、最初の一番大変な時期に、映画祭のネームバリューにはそぐわないような大物が来てくれて、そのおかげで次を呼びやすくなったということなのだろう。
正直な話、映画にはあまり興味がないので、夏の暑い中ボヘミアの果てのカルロビ・バリにまで出かけて、仮説のキャンプ場に張ったテントで寝泊りしてまで映画を見る気にはなれない。もちろんホテルに滞在する人たちもいるが、観客の多くを占める学生たちには、温泉街のホテルの宿泊料金は気軽に出せるものではないようで、テントでの宿泊を選ぶ人が多い。今年は晴天に恵まれたが、何年か前は、大雨に襲われてキャンプ場から非難させられていた。
映画際自体にはあまり関心は持てないのだが、期間中七時のニュースの後に放送される映画祭の表彰式の司会を務めるマレク・エベンのレポートは、楽しみに見ている。エベンの話術の巧みさと、外国人にはわかりにくい冗談はチェコ語の訓練にちょうどいいのだ。エベンは、子どものころに子役としてデビューして、その後兄弟と一緒にエベン兄弟という名前の音楽グループで歌を歌ったりもしていたけれども、最近は専ら司会者としての活動が中心となっているようだ。
その毎日のレポートだったか、去年の総集編だったカを見ていたら、昔の共産主義時代の映画祭の様子が紹介された。平和賞とか、労働賞とかのいかにも共産主義の映画祭と言いたくなる様な名前の賞がいくつも並んでおり、ソ連や東欧諸国の作品が必ず賞を取れるように配慮されていたらしい。一番びっくりしたのは、年によっては、出展作品よりも、賞の数のほうが多かったという話だ。賞が多かったのか、出展作品が少なかったのかどちらだろう。
カルロビ・バリの映画祭では出展作品を対象にした賞だけではなく、映画界への功労賞ととでもいうべき賞を内外の映画関係者を対象に与えている。その賞にチェコから選ばれたのが、今年はイジナ・ボフダロバーだった。去年受賞したイバ・ヤンジュロバーと並んで、ビロード革命前の映画やテレビドラマにこれでもかというぐらい出てくる人気女優で、二人ともボフダルカ、ヤンジュルカなんてあだ名で呼ばれることもある。
二人とも役者としては素晴らしいのだけど、どちらがいいかと言われたら、ヤンジュルカかな。ボフダルカは、特に最近はどんな役を演じても、だみ声でがなりたてるので、ヤンジュルカのほうが役柄が幅広いような感じがする。ボフダルカが、「チェトニツケー・フモレスキ」に出たときの演技は特にいただけなかった。モラビアのど田舎の村の婆さんを演じているはずなのに、モラビア方言ではなくてプラハ方言が聞こえてきたのだから。
夏の風物詩としての映画祭は、カルロビ・バリだけでなく、他の町でも行われている。ただその名称がフェスティバルではなく、「映画学校」になっているのは何故なのだろう。昔、イタリア人の友人にウヘルスケー・フラディシュテで開催される「フィルモバー・シュコラ」に誘われたことがあったけど、そいつの話では普通に映画がたくさん見られるイベントという感じだったのだけど。
昔は、毎年春に日本映画を紹介するイベントが、南モラビアのどこかの町で行なわれていて、古いモノクロの映画に、ポーランド語の字幕の付いたものを、関係者が弁士よろしくその場で通訳するのを見たことがある。字幕を見ても、チェコ語を聞いても話がよくわからなかった上に、日本語での台詞もちゃんと聞こえてこなくて、大変だった。最近は連絡が来なくなったから、イベント自体がなくなってしまったのかな。その代わりに大使館の主導で日本映画際を始めたみたいだけど、プラハまで映画を見るために出かける気にはならない。
7月11日15時。
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2016年07月09日
ヤン・フスの日(七月六日)
今年は、カレル四世生誕七百周年だが、昨年はヤン・フスの死後六百年だった。つまり今日は、チェコの生んだ宗教改革者で、当時のカトリック教会によって異端の烙印を押されて、公会議の開催されたドイツのコンスタンツで家系に処されてからちょうど六百一年目だということになる。このフスが火刑に処された日も祝日となっている。
ただでさえ少ないチェコの休日が、昨日のツィリルとメトデイ記念日と今日のフスの記念日と、夏休み期間中に二日もあることを、チェコの小中学生は不満に思わないのだろうか。夏休み自体が長すぎるほどに長いから、問題ないのかな。日本だと、宗教に直接関係する祝日が二日も存在することを、政教分離の原則に反するとか言って批判する人も出てきそうである。
ヤン・フスがキリスト教の公会議で異端とされたのは、イングランドのウィクリフの学説に影響を受けて、教会の腐敗、特にいわゆる免罪符の販売を強く批判し、ローマ教皇の権威に疑問を投げかけたことによる。アビニョン捕囚を経て、教会大分裂を起こしていた時代で、ただでさえ教皇の権威の下がっていたところに、身内からの批判に対する怒りは大きかったのだろうか。
ボヘミア王国に全盛期をもたらしたカレル四世の息子であるジクムントの主導で開催されたコンスタンツの公会議において、フスは長々と続いた審理の末に有罪の判決を受け、火刑に処された。遺骨や灰は、チェコのフス派の人々が聖遺骸として持ち帰ることができないように、市内を流れるライン川に投げ込まれたというから、憎まれたものである。その結果、今でもフス派の人々が、毎年巡礼としてコンスタンツを訪れるようになっているらしい。これがフスの死の直後からの伝統なのかはわからないけど。
一方、イングランドのウィクリフも、当時既に亡くなっていたが、フスの有罪判決を受けて、死後でありながら有罪とされ、その墓が暴かれ遺骸が火刑に処されたという。このあたりのカトリックの教会の非寛容性、残虐性にうんざりするのは私だけではあるまい。豊臣秀吉によってキリスト教が禁止された後、日本に来て捕まった修道士の中には、国外追放を拒否して、拷問されて死ぬことを、日本側に強く求めて殺されたものもいたという話だから、カトリックというのは嗜虐性も被虐性も兼ね備えた宗教だったのだ。
その後、チェコではフス派の反乱が起こり、国土は荒廃へと向かっていく。このあたりのフス派内部の分裂と対立、ローマ教皇や世俗権力である国王や貴族たちの対応などは、複雑怪奇で経過を時系列で追っているだけではなかなか理解できない。薩摩秀登氏の『プラハの異端者たち』は、名著だとは思うけれども、これ一冊だけで全貌を細かいところまで書ききるのは無理だったのだろう。読後に、大きな満足感と、もう少し細かくという一抹の不満が残ったのを覚えている。日本史における南北朝時代の観応の擾乱並に、いやそれ以上にややこしいのである。
このフス派の活動は、特に急進派のカトリック諸侯が派遣した十字軍などとの戦いは、共産主義の時代には、高く評価されていたらしい。持たざる無産階級の、持てる貴族階級への反乱とでも定義されていたのだろう。しかし、実際には略奪を目的に戦争を仕掛けたり、国外遠征をしたりするという十字軍側も顔負けの行動を繰り返し、血で血を洗うような内紛も起こしていたようだ。フス派の活動を描いたものとしては、その辺に目をつぶって制作されたであろう共産主義時代の映画の大作「ヤン・ジシカ」が存在するのだけど、これを見ても当時のことが理解できるようになるとも思えないので、まだ見ていない。画面が暗いのと長すぎるのとで見る気が起こらないというのもある。一体に長すぎるチェコの映画は面白くないし。
とまれ、このフスの死をきっかけに、繁栄を誇ったカレル四世のチェコ人の王国は、凋落の時期を迎える。多少の振幅はありながらも、全体的には、1918年にチェコスロバキアとして独立が達成されるまで、ドイツ化、再カトリック化の波にさらされることになるのである。
チェコが神聖ローマ帝国の枠内で、スラブ系の諸侯として独立性を保っていられた時代の終わりを告げる出来事が、ヤン・フスの死だったのだと偉そうにまとめておこう。
7月8日11時。
フスについては、いずれ改めて一文物する予定。「プラハの異端者たち」はなかった。残念。7月8日追記。
2016年07月08日
ツィリルとメトデイ(七月五日)
チェコの歴史も、日本の歴史と同じように、神話的な始まりと、考古学的な始まりを持つ。神話的な始まりによれば、「プラオテツ(父祖とでも訳しておこうか)」と呼ばれるチェフに率いられたチェコ人のグループが、ボヘミア中部にあるジープという名の山のふもとにたどり着くところからチェコの歴史は始まる。だからジープ山というのは、日本神話の高千穂の峰のような存在なのだ。日本神話の天孫降臨とは違って、横への移動だけど。ちなみに、チェフにはレフという名の兄弟がいて、レフの率いる集団はチェフとは分かれて別なところに向かったらしいのだが、これがポーランド人の先祖になったというお話である。
一方、考古学的な歴史は、ケルト人から始まる。ケルト人の一派のボイイ族が、現在のボヘミアの地に住んでいたらしい。そのボイイからボヘミアという地名が生まれたのだという。ケルト人たちはその後、西に移動していくわけだが、ボイイ人がどうなったのかについては、チェコの歴史では語られることはない。
次に出てくるのが、西にフランク王国の成立していた時代に存在したといわれるサーモの国である。サーモというのは、一説によると本来フランクの商人で、その元にいろいろなスラブ系の部族が集まって、国というには緩やかな組織を作っていたらしい。今日のチェコだけでなく、オーストリアとドイツの一部にも領域が広がっていたようだが、詳しいことはわからない。
そして、スラブ人の建てた最初の国として歴史に登場してくるのが大モラバと呼ばれる国で、名称の通り現在のモラビア地方を中心に、ボヘミアやスロバキアにまで広がっていた国でである。そのためチェコとスロバキアの間で、この大モラバの中心がチェコにあったのか、スロバキアにあったのかで論争になることもあるらしい。
チェコ側で大モラバの中心地として比定されているのが、スロバーツコ地方のウヘルスケー・フラディシュテ周辺の地域である。遺跡としてはホドニーンの近くのミクルチツェというところにも大きなものがあるらしい。スロバキア側だとニトラに大モラバの大きな拠点があったと言われている。
その大モラバは、そもそも異教の国だったのだが、九世紀の半ば過ぎにキリスト教を導入することになり、西方から圧力を加えてきていたフランク王国のキリスト教ではなく、東方のビザンチン帝国のキリスト教を選び、宣教師の派遣をコンスタンティノープルに依頼した。その結果、スラブ人の間にキリスト教を広めるために大モラバにやってきたのがツィリルとメトデイの兄弟であった。日本ではむしろキリルとメトディウスという名前のほうが有名かもしれない。
この二人が、大モラバに到着したのが、本日七月五日だとみなされていることから、国の祝日となっている。キリスト教を広める拠点となったといわれるべレフラットの地には、大きな教会が建てられていて、前日の四日と五日には盛大な式典が行われるため、チェコ中からキリスト教徒たちが巡礼のために訪れる。毎年二万人とも三万人とも言われる人々が、モラビアの田舎の小さな村に押し寄せるのだから、準備は大変だろう。自家用車での来訪を制限するために、近くのスタレー・ムニェストの町の周囲を走るバイパスを閉鎖して駐車場として使い、鉄道で来た人も含めてバスで輸送する形になっているようだ。
ツィリルは、ロシアなどで使われているキリル文字にその名前が残っているように、スラブ語を表記するための文字を開発し、聖書のスラブ語訳を進め、ミサなどの教会行事をスラブ語で行なうなどして、キリスト教の布教に努めたらしい。大モラバ内の政治状況の変化によって、当初計画されたほどのことはできなかったらしいが、スラブ人世界にキリスト教を広めることに成功したというだけでも、偉業である。
それに、聖書のラテン語からの翻訳、現地語による教会行事の挙行と言うのは、西ヨーロッパでは、宗教改革の登場を待たねばならないのである。この事実は西ローマの、ひいてはゲルマン人世界のフランク王国のキリスト教、つまりローマカトリックの後進性を如実に表している。カトリックがその始まりから内包していた非寛容性、過度の自己正当化などの特色は、現在のEUにまで引き継がれているような気がしてならない。
ちなみに、キリル文字は、ツィリルが作り出した文字そのものではないらしい。実際にツィリルが作り出した文字は、バルカン半島に多く写本の残っているグラゴール文字と呼ばれるもので、キリル文字はツィリルとは関係がないらしい。しかし、スラブ人に文字を与えたツィリルについての記憶から、キリル文字もツィリルの作ったものだと信じられていたという。そんな話を知ったのは、黒田龍之助師の著書『羊皮紙に眠る文字たち』に於いてであった。
昔、ロシア語が必修だったチェコスロバキアではキリル文字、チェコ語で「アズブカ」を読めるのは当然だったらしいが、現在では読めない人のほうが多くなっているらしい。ソ連がキリル文字で書くと「CCCP」となるのは知っていたけど、読めるようになりたいとは思えない。
7月6日15時。