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2016年04月16日
一体何人? その二(四月十三日)
最近、以前にもまして、何を書くか悩むことが多い。ネタはあるのだけれども、それで、量的な意味に一つの記事になるのか、確信がなくあれこれ考えているうちに、無駄に時間を通夜してしまっている。それでは、さっと書き始めてさっと書き終わる練習という本来の計画からの逸脱が大きすぎるので、分量が少なくなってもいいことにしよう。いや、今書いている分量が当初の計画と比べると多すぎるのだ。と言うことで、その一を書いて以来、忘れていたこのテーマから。
精神医学のフロイト、現象学のフッサール、音楽家のマーラー、文学者カフカ、遺伝の法則のメンデルなどなど、チェコに来るまではドイツ人だと思っていた人たちが、実は現在のチェコの出身であることを知った。しかしこの人たちは自分を何人だと意識していたのだろうか。例えば、チェコ人の父、オーストリア人の母から生まれ、パリでの生活も長かったヤラ・ツィムルマンも何人と決めがたいが、自らをチェコ人たと認識していたという。
フロイトとフッサールは、チェコとほとんど関係がないようだから、チェコ人だという意識はなかっただろう。マーラーは、ウィーンのドイツ人の中で疎外感を感じたりもしていたようだから、微妙なところか。カフカは、プラハに住んでプラハでドイツ語で作品を書いていたわけだし、チェコの人は、特にプラハの人は自分たちの作家だとみなしているわけだけれども、はやり本人の意識としてはユダヤ人だったのかな。
この点で、最近、気になるのが、高校の世界史で、三十年戦争のところで勉強したワレンシュタイン将軍である。ボヘミアの傭兵隊長とか何とか書かれていたのは覚えているし、ボヘミアが現在のチェコの西三分の二を占める領域であることはわかっているのだが、実感としてそれが意識できるようになったのはチェコに来てからである。
ワレンシュタインはボヘミアの小貴族の出身で、軍事的な成功を収めて軍内での地位を高めるとともに、婚姻を通じて貴族としての地位も向上させていったと言われる。そしてたどり着いたところが、フリードラントの公爵という地位である。フリードラントは、プラハから北東、ポーランドとの国境にも近い小さな町だが、公爵領の中心都市となったのは、フリードラントではなく、よりプラハに近いイチーンという町だった。
ワレンシュタインはイチーンの町の改築計画を立て、城館も自らの居館として改築するなど、イチーンの発展に大きく寄与した。半ば独立国と化していたフリードラント公爵領は、ワレンシュタインが西ボヘミアのヘプで暗殺された後、崩壊してしまい、イチーンの町の改築計画も完成を見ることはなかったが、イチーンの人たちにとっては郷土の偉人であるようだ。街の中心となる広場にも、城館にもワレンシュタイン広場、ワレンシュタイン城という名前がつけられており、城館の中に入っている地域博物館の展示においてもワレンシュタインは重要な役割を果たしているらしい。
では、ワレンシュタインはチェコ人だったのかどうかという点だが、なんとも答えの出せない問題である。以前も紹介した「もっとも偉大なチェコ人」に選ばれたカレル四世は、ワレンシュタインと同じくドイツ系の貴族家の出身だが、チェコ人として選ばれている。上位百人には、マリア・テレジア、ルドルフ二世など、一般にはドイツ人、もしくはオーストリア人だと考えられている人たちも入っているのに、ワレンシュタインの名はない。宗教戦争の時代に、ボヘミア出身でありながら、カトリック側に立って参戦したことが、忌避される理由になっているのだろうか。
ワレンシュタイン自身がどう考えていたかとなると、ちょっと想像のしようがない。フリードラント公爵領が半独立国だったといわれることを考えると、チェコ人でもドイツ人でもない第三の道を目指していたのではないかと思わなくもないが、それは今となっては知る由もない。ただ、当時の貴族に求められる素養として、領民の言葉を身につけるのは必須だったらしいので、ワレンシュタインもチェコ語はできたはずである。多くの領民が領主の言葉を学ぶよりも、数少ない領主一族が領民の言葉を学ぶほうが効率がいいという考えなのだろうか。カレル四世がドイツ系でありながらチェコ人としてみなされるのは、チェコの国家に貢献したからだけではなく、チェコ語ができたこともその理由のひとつになっているはずだ。
「人間は使える言葉の数だけ人間である」というチェコのことわざ(コメンスキーの言葉だと思っていたのだけど違うみたい)に則れば、チェコ語ができればチェコ人、ドイツ語ができればドイツ人ということでいいだろう。ことわざの解釈が正しいかどうかはわからないが、ワレンシュタインはチェコ人だった。いやチェコ人でもあったというのを結論にしておこう。
もう一人、気になるのが、ウィーンの音楽家一族シュトラウス家の誰かが功績を讃えるために行進曲を書いたラデツキー将軍である。典型的なチェコ語の地名を基にした形容詞が名字になっていることから、チェコ系の貴族であることは間違いない。「ラデツ」は、おそらく「フラデツ」の最初の「H」が落ちたものだろうから、この一族はフラデツ・クラーロベーに関係するに違いない(いや、違うかもしれないけど、断言しておく)。
この人も、本人の意識はともかく、チェコ人でいいのだろうけれど、最近ヤラ・ツィムルマンが書いた(ことになっている)戯曲『チェコの天国』をテレビでながら見していたら、コメンスキーや聖バーツラフなどで構成されるチェコの天国評議会に、ラデツキー将軍が登場して、オーストリアの天国の代表として振舞っていた。戯曲が書かれた(ことになっている)時代を反映して、チェコの天国は機能を停止して、ハプスブルク家の天国に吸収されるべきだというようなことを主張していたんだったかな。つまり、戯曲では、チェコ人でありながらオーストリアについた裏切りもの的な扱い方をされていたのである。
過去の人物に対する評価というのはなかなか難しいものがあって、当時の事情も何も知らない人間が、批判も評価もするべきではないのは重々承知の上で、ラデツキーもチェコ人であったと言っておく。だって、毎年オロモウツでラデツキーを記念した式典が行われているし、オロモウツがチェコ人ではない人物の式典を行うなんて考えたくもない。
4月14日18時。
2016年04月15日
チェコのビザ申請を巡る問題、あるいは、ふざけんな、チェコその2(四月十二日)
三月の初めに、一年の予定でチェコに来る予定だった人が、なかなか来ないので連絡をしてみたら、ビザの発給が遅れていて出発できないとのことだった。それから更に時間が経って、ビザがなぜか発給されなかったという連絡を受けた。日本の人がビザをもらえなかったという話は、初めて聞いたので、ちょっとその事情を探ってみることにした。
最初は、その人が以前しばらく外国に滞在していたために、その滞在していた国の無犯罪証明を提出する必要があり、それを提出しなかったために書類不備で発給が認められなかったのだろうと言われていた。しかし、本当に必要な書類であれば、申請書に外国滞在について記載してあれば、日本のチェコ大使館が受付の際にチェックをして、追加で書類を提出するように求めるはずである。申請書に外国での滞在を記載しなければ、チェコ国内で審査する時にも、外国滞在の事実を知ることはあるまい。つまりそんな書類など必要はなくなる。まあ、日本のチェコ大使館が不親切だったという可能性もなくはないのだが。
先日、チェコ側からビザが発給されなかった公式の理由が書かれた書類が届いたというので、お願いして送ってもらった。チェコ語ができない日本人に、チェコ語で書かれた理由説明書を、そのまま何の説明もなしに送りつけたらしいチェコ大使館の対応も信じられないものであるが、ビザが下りなかった理由を読んで、さすがにそれはないだろうと、いやふざけるなと思ってしまった。
書類に書かれていたビザが下りなかった理由は、滞在中の生活費をまかなえることを証明する書類である銀行の残高証明書の残高の額が足りなかったことだった。理解不能な法律が引用された部分によると、法律で規定された「生存のための最低限度額」というものが存在して月額いくらと決められているらしい。そして、ビザを申請するものは、最初の一ヶ月に関しては、十五ヶ月分、それ以降一ヶ月増えるごとに二ヶ月分加算した額を持っていることを証明しなければいけないと言うようなことが書いてあった。ただし、チェコ人もよくわからんと言っていたので、この解釈が正しいかどうかはわからない。
最悪だったのが、「生存のための最低限度額」がいくらなのかも、この人の場合いくら必要だったのかも、まったく書かれていないことで、日本円でこれこれということは、現在のレートで言うとこの額になるから、滞在期間の生活費をまかなえるとは言えないと結論付けていた。しかし日本人が、自分で適当にこのぐらいで足りるだろうからで、銀行の残高を設定するはずはない。大使館からの指示で最低限必要な額を超えるように調整しているはずである。
本人に確認してみたところ、日本のチェコ大使館のHPのビザ申請の説明のページに、最低三十万円と書いてあったらしい。そちらをチェックしてみると、5,5000コルナというのが、半年分として必要な額で、これを為替のレート変更などのリスクを考えて換算し三十万円という額を提示しているらしい。しかし、書類には預金をコルナに換算すると7,0000コルナぐらいになると書いてあったのだ。何が問題だというのだろう。
再び理由説明書に目を戻す。申請書に書かれた滞在期間が約一年の予定になっていること、受け入れの書類も、住居の書類もすべて一年の期限で出されていることをあげつらっている。ということは、あれか。ビザは最長でも半年分しか出さないのに、滞在費用は一年分用意しろってことか。ふざけんなである。でも、今まで問題になっていなかったのは、何故なのだろうか。担当者が変わったとかそんなところだろうなあ。チェコだし。
それで、最近チェコに来た人で、現在ビザを申請中の人にビザがどうなったか聞いたところ、預金残高が足りないから額を増やして証明書を再提出するように言われたという。この人は、ウィーンのチェコ大使館で申請したのだが、日本にあるものより、オーストリアにあるチェコ大使館の方が親切ってのはどういうことなんだろう。
最近、日本のチェコ大使館のビザ関係の人って、評判悪いんだよなあ。対応がつっけんどんで不親切で共産主義時代の役人みたいだとかなんとか。以前は、もう廿年近く前になるけど、親切なチェコ人の女の人がいて、細かいところまで指導してくれたんだけど。サマースクールの奨学金がもらえたのもある意味あの人のおかげだったし、名前なんだったかな。それはともかく、外国の大使館に雇われた日本人が、他の日本人に対してむやみやたらと威張っているのは昔から変わらないということか。
話を戻そう。そのウィーンで申請中の人の話では、8,5000コルナ相当額が必要だと言われたらしい。ただ、その後、書類の原本を提出する前にビザができたから取りに来いと言われたとも言っていたので、以前の額でよかったということなのだろうか。チェコの役所の困るところは、担当者によって恣意的な決定をすることがあることで、前例無視してるだろお前、と言いたくなることも間々あるのだ。その点オロモウツだと問題があれば事情を説明してくれて対策が取れるんだけど、今回のビザの決定はプラハで下されているから、説明不足でも当然なのか。
改めてまとめておこう。
1)チェコのビザは、滞在予定が一年でも二年でも、最長で半年分しか発給されない。
2)日本のチェコ大使館では、半年分の滞在費として三十万円=5,5000コルナ必要と言っている。
3)チェコの法律によれば、必要な滞在費の計算式は、恐らく、次の通り。
15n+2n(m−1)=13n+2mn
※n=生存のための最低限度額。m=月数。
4)滞在予定期間半年の場合から、一月あたりの生存のための最低限度額を算出すると、
13n+2×6n=25n=55000 n=2200
5)滞在予定が半年ではなく、一年の場合には、滞在費として一年分の額を要求されることがある。
その場合予想される額は、数式から2200×37=81400コルナである。
6)一年分の滞在費として、ウィーンのチェコ大使館から出た85000コルナという数字がある。
7)ウィーンでは額を増やした残高証明送付以前にビザが発給された。
以上のことを考え合わせると、一年の滞在予定でビザを申請する場合には、二つの対策が考えられる。
一つは、申請書の滞在予定期間や出国予定日に、入国から180日で出国するように記入する方法。その場合、受け入れ先の証明書や住居証明なども半年で出しておいたほうがいいかも知れない。
もう一つは、単純に滞在費として銀行に入れる額を増やすことである。その場合、いくらにするかが問題になるのだが、ウィーンの情報を信じれば、85000コルナを円換算して、四十万円ちょっと、余裕を見て五十万円、もしくは、大使館で出している半年三十万円を単純に二倍して六十万円というところだろうか。
ウィーンでの事例から、滞在費が一年分なければビザが認められないというのは、一時的な現象だった可能性もあるが、また突然、運用が変わる可能性は大なので、安全のためにも、大使館の勧める三十万円ではなく、金銭的に問題がなければ五十万円から六十万円で、残高証明を出しておいたほうがいいだろう。
これまで十分に機能している制度の無意味な変更や、運用の恣意的な変更はやめてもらいたいものである。それでも、こういうのを予告も、移行期間もなしにやってしまう、これこそがチェコであると言えば、まったくその通りなのであるが。
4月13日14時。
この情報がチェコのビザを申請する人の役に立てば嬉しい。ホテルはあってもビザがなかったら意味がないし。4月14日追記。
2016年04月08日
クリーシュチェ(四月五日)
四月になって気温が上がり、春と呼んでもいい季節がやってきた。チェコは薄着の人が多いので、半ズボンにTシャツ一枚で動き回っている人も見かける。実際は、そこまで暖かいわけじゃない。それにしても、日本と違って花粉症が存在しないのが非常にありがたい。いや、存在はするけれども、自分には関係ないのがありがたい。最近、ちょっと鼻がむずむずしてくしゃみが出ることがあるけど、これは季節の変わり目で風邪気味だと思うことにする。
暖かくなると公園の芝生の上で寝転がったり、山歩きに出かけたりする人、畑で仕事をする人が出てくる。そんな人たちに対して、気をつけるように言われるのが、クリーシュチェという虫である。この虫は日本でいうダニの一種で、どのダニに相当するのかはわからないが、野山に生息していて、気温が高くなると活動を開始し、人の服などについた後に、人体の皮膚のやわらかいところを求めてもぐりこみ、噛み付いて血を吸うらしい。吸血前は小さな虫が、血を吸ってまるまると大きくなったのを見ると、気持ち悪さを感じてしまう。
日本でもダニが媒介するツツガムシ病などの病気が知られているが、チェコのこのダニも、二種類の病気を媒介するらしい。一つは毎年、死亡者も出る脳炎で、毎年シーズンが近づくと予防接種を呼びかけるキャンペーンが行われている。もう一つが、ボレリオーザとか、ライム病といわれる病気で、こちらには予防接種に使えるワクチンはまだ開発されていないようである。
困るのが、同じクリーシュチェに刺されても、病気になる場合とならない場合があることで、これは地方によって、病原菌をもつ個体がいる地域と、いない地域があるかららしい。新聞紙上で見た地図によると、オロモウツ近辺は、ちょうど境界に当たり、チェコに来たころの数年間は、今よりは活動的で山歩きをすることもあったので、予防接種を受けるかどうか悩んでいた。処置が遅れると重態化して、ひどいときには死に到ると言われて、刺されたらどうしようと不安になってしまったのである。周囲に予防接種を受ける人が一人もいなかったことと、山歩きをしても一度も刺されたかったことで、予防接種の存在を忘れていった。
それが、数年ぐらいたったころだっただろうか。オロモウツに住んでいた日本の方に、「クリーシュチェに刺されたんだけど」と相談を受けた。チェコ人の知り合いに誘われてオロモウツ郊外のスバティー・コペチェクという大きな教会のある丘に出かけて、その周囲の森の中を散歩して、うちに帰ってシャワーを浴びようとしたときに、変な虫が足に噛み付いているのに気づいたらしい。「病院に行かなくていいでしょうか」と聞かれて、自分も予防接種を受けて、この人にも受けるように勧めておけばよかったという思いが頭をよぎった。
どう答えていいのかわからなかったので、周囲にいたチェコ人(もちろん知り合い)に片っ端から尋ねることにした。すると、みな異口同音に「病院なんか行く必要はない」と言うのだ。根拠として、これまで何度も刺されたことがあるけど、病気になったことはないと言う。テレビで病気で苦しんでいる人のニュースが流れるじゃないかと言うと、あれは例外的に危険な地域での出来事で、オロモウツの近くならクリーシュチェに刺されても大丈夫だと言う。地元の人の言うことだからと、多少の不安はあったけれども、病院に行かないことにしたら、結局何の問題もなかった。
その後、今度は知り合いのチェコ人が、クリーシュチェに刺されたという話を聞いた。夏休みを利用して、オロモウツではなく、どこか別の町の近くの山の中でキャンプをしていたときのことで、運悪く病気をもらってしまったらしい。脳炎ではなく、ライム病のほうだったので大事にはならなかったけれども、薬を一年以上飲み続ける必要があると言っていた。
大変だったのは、その後、日本に一年間滞在する予定があったことで、さすがに薬を一年分も出してもらうことはできず、日本で医者に行って同じ薬を出してもらえるかどうか心配していた。実際は、その心配は杞憂に終わったらしいのだが、お医者さんが、病気のことも薬のことも知らず、初耳だと言いながらあれこれ調べて取り寄せてくれたのだという。日本滞在のいい思い出にはなったはずである。
この話を聞いたときにも、予防接種を受けようかという気になりかけた。ただ、以前と比べて外に出る機会が減っていたし、そもそも注射は苦手だったしで、結局一度も受けることなく今まで来てしまった。これからも、受けることはないだろう。願わくは、ダニに刺されて死ぬなんてことにはならないことを。
4月6日23時。
これって、刺されたダニを取るのに使うのかな。似たようなのをこちらでも見たような気がする。4月7日追記。
2016年04月05日
チェコの道路はどこでも高速道路(四月二日)
この週末は、自動車の冬用のタイヤを、普通のタイヤに交換する必要もあって、うちのの実家に滞在することになった。オロモウツからブジェツラフのほうに向かって南に下りていくルートは、高速道路の建設の計画はあるものの、完成しているのはごく一部、プシェロフの先からオトロコビツェまでの20kmぐらいしかない。それにもかかわらず、時速100km以上で走っている車の数が多いのがチェコの交通事情である。
チェコの道路交通法における最高時速は、市街地が時速50km、それ以外が90km、高速道路が130kmということになっている。市街地は道路を走っていて、町や村の入り口の名前の書かれた看板が道路の右側に立っているところから、名前に赤い斜線の引かれた看板が立っているところまでで、この間は特に指定のない限り、時速50km以下で走らなければならない。特に市街地に入るところでスピードを落とさない自動車が多いために、スピードをはかるカメラを設置して、速度が表示されるようにして、制限速度を越えるスピードの場合には、「スピード落とせ」という表示が出るようなシステムや、ダミーの信号が赤になるシステムを導入しているところも多い。
一時期は、市街地でスピードを出しすぎる車の多さに業を煮やした、自治体の間で、スピード違反の車を感知して自動で撮影するシステムを導入して、それを罰金の請求に使用するのが流行ったのだが、プライバシーの侵害に当たるとかいう意味不明の理由で使用が禁止されてしまった。「この区間は速度を測定しています」という表示なしに、自動車の速度を測定して写真を取るのはいけないのだそうだ。こういう人の生命に関わる部分では、自動車を運転するものの権利よりも、安全の方が優先されるべきだと思うのだが、それを許さない当たり、チェコは病んでいるなあ。もしかしたらEUの指示かもしれないけど。同じようなよくわからない理由で、普段は青でスピード出しすぎの車にだけ赤を表示するダミーの信号の使用も禁止されてしまった。
今回も、市街地で50kmで走っていたのに、しかも追い越し近視区間にもかかわらず、われわれの車を追い抜いていった車は片手の指の数では足りなかった。市街地の外に出てからも、時速90kmという日本では高速道路でしか出せないスピードで走っているのに、無理やり抜いていく車は多かった。休日だからこの程度で済んだが、平日の交通量の多いときであれば、反対車線で追い抜きをかける車も多く、恐怖を感じることもあるほどである。
道路脇に小さな十字架が設置されていて、花やろうそくが供えられていることがある。これは交通事故の犠牲者を悼んで遺族が事故現場に設置するものなのだが、すべての遺族がこんな追悼の碑を建てるわけではないことを考えると、その数はびっくりするほど多い。だた、スピードの出しっぷりを見ていると、事故が多いのも納得してしまう。今回もオロモウツの郊外で、点滅するランプが見えると思っていたら、交通事故現場で警察と消防が事故処理の作業をしているところだった。おかげでその場からUターンさせられて、30分以上も時間のロスをしてしまった。
チェコは、街の外に広がる畑の中のところどころにこんもりとした森が残っており、そこに意外なほどたくさんの動物達が生息している。畑で芽を出した農作物を食べている鹿の群などは、牧歌的でほほえましい光景であるが、ときどきウサギやリス、ハリネズミなどが、道路を渡ろうとして車に轢かれて尸をさらしているのには、思わず目を背けてしまう。これが鹿だったら、多分車のほうもただでは済まないはすだ。
チェコの高速道路には規格が二つある。一つはDと一桁の数字で呼ばれるもので、もう一つはRと二桁の数字で呼ばれている。Dで規定されるものの方がランクが高いみたいなのだが、その違いはよくわからない。プラハからブルノを経て現在はプシェロフの近くまで延びているD1は舗装がアスファルトではなく、コンクリート製のパネルを敷き詰める方法を使っているという特徴がある。しかし、これがほかのD高速道路にも適用されているのかどうかはわからない。よくわからないのが、最近、R高速道路の一部がDに格上げされたことである。今回使ったプシェロフの先からオトロコビツェまでの道路も、以前はR55だったのが、D55に名称が変更されていた。その根拠は不明である。
とまれ、どちらも制限速度130kmで、走行のためには、高速道路走行券を買ってフロントガラスの右下の部分に貼っておかなければならない。カミオンなどの大型自動車の場合には、走行料金を自動で調整するシステムがあって端末を購入して登録すると、各地に設置されている装置で高速道路を何キロ走ったかがわかるようになっているらしい。
この高速道路でも、時速130kmを超えて走っている車の数は多く、昔日本で流行った「狭い日本、そんなに急いでどこに行く」というスローガンを思い出してしまった。日本よりもチェコの方がずっと狭く、制限速度も高いのに、スピード違反だらけなのである。
しかも、最近国会では、高速道路の一部で最高時速を150kmに引き上げ、一般道でも一部100kmに引き上げる法案が出されたらしい。それに、サイクリスト向けにビール二杯までだったら自転車に乗ってもいいという法案も提出されているというから、この国の国会議員には交通事故を減らそうという気はあまりないようである。だから、平日の車での移動は避けて、なるだけ車の少ない休日に移動するようにしているのである。
4月3日23時。
2016年03月30日
習近平、来チェコ(三月廿七日)
サッカーのスラビア・プラハが中国資本の手に落ち、ユニフォームに簡体字が記されるようになったという話は既に書いた。ところが、先週の木曜日の代表の試合にもグラウンドの周囲に並べられているスポンサーの看板の中に、スラビアを買収した中国企業の看板も並んでいた。サッカー協会のスポンサーになったのだろうか。今年の夏で一部リーグのスポンサーから離れる賭け企業のシノットの代わりに、スポンサーになってリーグの名前が中国企業になったらいやだなあ。
スパルタのホームのレトナーのスタジアムが、トヨタ・アレーナになったのも大いに違和感があったし、チェコのサッカー代表のスポンサーを韓国企業のヒュンダイが務めているのも、正直気に食わない。でも、かつて「ガンブリヌスリーガ」だったのものが、「CEFCリーガ」に成り下がるのに比べれば、何倍もましというものである。
チェコのサッカー界は、お金のために金満中国に媚を売っているように見えるが、それはサッカー界に限った話ではない。現在プラハのハベル空港からプラハ城に向かう道路に建つ街灯などの柱の上部に、チェコの国旗と中国の国旗が並べて飾りつけられている。月曜日に中国からやってくる習近平国家主席を歓迎するために、スラビアを中国に売り渡したトブルディークを中心として組織されたチェコと中国の協力関係を強化しようという団体が設置したものらしい。
もちろん、共産主義に痛めつけられたチェコには、共産中国と接近しようとする動きに対して反対の意を表する人たちはいる。そんな人たちが、金曜日に卵に灰色のインク(ペンキかも)を詰めたものを、中国国旗に投げつけ汚すという行動に出た。
それに対して、プラハ六区の区長が、プラハの通りに中国の国旗をいくつも並べることを、プラハ市がゼマン大統領に媚びているのだと批判し、国旗に色をつけた犯人の行為に理解を示した。その結果というわけでもあるまいが、土曜日にはさらに多くの中国国旗に色入りの卵が投げつけられた。
これに噛み付いたのが、大統領のスポークスマンであるオフチャーチェク氏である。チェコの中国接近は、政府も力を入れていないわけではないが、明らかにゼマン大統領の主導で行われており、今回の中国国家主席の来チェコを批判することは、大統領批判につながるのだ。オフチャーチェク氏は、いつものよくわからない論理で、プラハ六区の市長が所属するTOP09という名称もあれな政党がこの犯罪行為の責任を負うべきだと主張している。この手の目くそ鼻くそ的な批判の応酬はいつものことで、まともに受け取る気もしなくなっている。
その一方で、ハベル大統領の支持者達は、習近平プラハ滞在中に、ハベル大統領とダライラマが一緒に写っている大きな写真を掲げると言っているらしい。中国側が民間人のやるそんな嫌がらせを気にするとも思えないけれども、何でもかんでもダライラマを出しておけばいいというのも短絡的だよなあ。
中国の国家主席の訪問を歓迎できないというのは理解できないわけではない。共産党に対する忌避感はともかくとして、今回のチェコと中国の接近に関しては、すでになかなか挑発的なことをやらかしてくれている。今回の訪問を前に、北京市とプラハ市が姉妹都市の協定を結んだらしいのだが、その調印が、かつてチェコスロバキア共産党が「勝利の二月」と名づけた1948年2月に、共産党以外の政党に所属する大臣が全員辞表を提出し、共産党が実質的に政権を握った日、二月廿五日に行われたという。この日の選定が、どちら側の主導で行われたにしろ、歴史に対する配慮がかけていると批判されても仕方がないだろう。
また、協定の中に、中国側が「中国は一つである」ことを認めるという条文をねじ込んできたらしい。姉妹都市というものは、基本的に文化的な交流関係を促進するもので、そこに政治を、しかもこんなデリケートな問題を持ち込むのはどうなのだろうか。それが現在の中国だと言えば、その通りなのだが、それを黙って受け入れて署名してしまうプラハもプラハである。
当然、この事実は台湾を怒らせることになった。一つの中国という考え方を北京との協定で認めるということは、台湾が中華人民共和国の一部であることを認めることである。プラハは台湾の台北とも姉妹都市になっているというのに、何を考えているのだろうか。これでは台北との関係を捨てて北京についたと思われても仕方がない。実際に北京の金に擦り寄ったのだろうけど、それは明かさないのが政治というもののはずだ。それに、これで、これまで機会あるごとにチェコの各地の役所に掲揚されてきたチベット国旗も、少なくともプラハの役所での掲揚はできなくなるのだろう。どうでもいいことだと思っていたが、中国にとっては、腐っても役所がやることなので、結構重要なことだったのかもしれない。
振り返れば、トヨタをはじめとした日本からの大量の投資のあとは、ヒュンダイを中心に韓国からの投資を誘致し、今後は中国からの投資を仰ごうというのだから、チェコも政治的にはともかく、経済的にはうまくやっていると言えるのかもしれない。
飛行機の便も、日本への直行便はこれまでに何度も就航するという噂が出たものの、すべて単なる噂に終わったのに対して、中国へは北京、上海、成都と三都市にプラハからの直行便が就航したらしい。チェコ航空とハベル空港が韓国資本に買収されたこととあわせて考えると、日本への直行便はもう諦めるしかなさそうだ。オロモウツからはウィーンの空港が使えるから、どうでもいいっちゃどうでもいいんだけど。
3月28日11時30分。
2016年03月28日
大金曜日(三月廿五日)
イースターの話が続くが、チェコでは、今年からイースターの金曜日、チェコ語の「大きな金曜日」が祝日となった。これまでも、いわゆる「イースターマンデー」は祝日だったが、特にキリスト教の力が強いわけでもないチェコで、民俗行事が行われるわけでもない金曜日は祝日にはなっていなかったのだ。隣のカトリックの強いスロバキアでは、以前から金曜日も月曜日も祝日となっていたので、それに合わせたのかもしれない。
初めての祝日だからか、新聞にもちょっとした特集のような記事が出ていて、それによると、ヨーロッパでは、金曜日も月曜日も休みというところが多いようだ。意外なことに、スロバキア以上にカトリックの強いポーランドでは、金曜日が祝日になっていないらしい。それから、金曜日は休みになっているが、月曜日は祝日ではないという国もあって、これも意外だった。イースターだからと言って月曜日を休みにしなければいけないわけでもないのだ。
それで思い出したのが、日本においてもまれに見る愚策であった「ハッピーマンデー制度」である。名称からしてあれなこの制度も、月曜日にこだわらなければ少しはましだったのではなかろうか。金曜日を祝日にしても、政策の目的(これもどうかとは思うが)である三連休を増やすというのは実現できるのだから。
オロモウツに来ている留学生に話を聞くと、月曜日に休日が集中してカリキュラムをこなせなくなるため、月曜日が祝日でも出校日ということにして、授業を行っている大学や、休みになった月曜日の代わりに土曜日に特別授業を行う大学もあるようである。文部省が月曜に授業を行う科目に関しては授業時間数の減少を認めるとかすればいいのだろうが、そんなことは期待できまい。かくして休日にも大学に出なければならない不幸な大学関係者が生まれたわけだ。
チェコで、「大きな金曜日」が祝日とされた理由は何なのだろうか。一つ思いついたのは、祝日の数を増やすこと自体が目的だったのではないかということだ。以前日系企業で通訳をしたときに、日本から来た人たちがぼやいていたのが、チェコの休日の少なさだ。しかも日本のように振り替え休日がないので、週末が祝日になると祝日が一日減ってしまう。イースターの月曜日は、唯一の確実に休日となる祝日だったのだ。それに金曜日を追加しようということだったのかもしれない。
施行初年度の今年は、サマータイムが始まる週末と重なったこともあって、非常にありがたい。金曜、土曜の休みでこれまでの疲れをある程度癒したところで、日曜日からサマータイムが始まり、次の月曜日まで仕事に行かずに体をサマータイムに慣らすことができる(ことを期待している)。エネルギー節約の面からもそれほど効果はなく、健康上害があるかもしれないといわれ始めたサマータイムが存続するなら、イースターの週末にサマータイムが始まるという制度に変えて欲しいものである。
ここで、チェコの祝日にどんなものがあるのか紹介しておこう。
まずは一月一日である。しかし、この日が祝日になっている理由は、新年の最初の日だからだけではない。1993年にチェコとスロバキアが、いわゆる「ビロード離婚」(最近は聞かなくなったなあ)をしてそれぞれ分離独立したのが、一月一日だったのだ。2000年からは、それを記念した祝日ということになっている。
次は、五月まで飛んで、五月一日。言わずと知れたメーデーで労働者の日ということになるのだろう。現在でも共産党や労働組合がプラハで全国集会を開いている。
その一週間後の五月八日も祝日である。各地に五月八日通りという名前の通りがあるのと同じで、第二次世界大戦のヨーロッパにおける戦争が終了したことを記念した日である。ドイツが降伏した日と言ってもいい。共産主義の時代には、ソ連の公式見解を受けて五月九日が、第二次世界大戦が終わった日として祝日になっていた。ソ連軍がプラハに侵攻して、チェコスロバキアが解放された日という意味あいもあったのかもしれない。
次の祝日は七月で、学校に通っている人たちにはまったくありがたくない祝日である。五日が九世紀に、ビザンチン帝国から大モラバ国のスラブ人にキリスト教と文字を伝えたツィリル(キリル)とメトデイの兄弟を記念した日で、六日はチェコの宗教改革者ヤン・フスが火刑に処された日として祝日に指定されている。
九月二十八日は、チェコの守護聖人である聖バーツラフが暗殺された日ということで祝日になっている。時々この日をチェコの独立記念日だという人がいるが、実際にはチェコの国体の日とでもいうべき日である。現在のチェコ共和国の独立記念日は、スロバキアと分離独立した一月一日だし、チェコスロバキア第一共和国が1918年に独立したのは、次の祝日となっている十月二十八日のことである。
十一月十七日は、ビロード革命のきっかけとなった学生達たちのデモが起こった日であることを記念して祝日とされている。最近国会では、この祝日の名前を「国際学生の日」に変えようという動きもあるらしいけれども、祝日でさえあれば名前などどうでもいい。ただ、理解できないのは、チェコだけで休みになる祝日の名称に「国際」という名前をつけようという言語感覚である。政治家や官僚なんてどこの国でもそんなものというところだろうか。
最後は冬至のお祭りを起源とするクリスマス関係の祝日で、十二月二十四日から二十六日の三日間が祝日になっている。ここも冬休みと重なるのでありがたみはあまりない。
ちなみにイースター関係では、イースター前の水曜日が「醜い水曜日」、木曜が「緑の木曜日」、土曜日が「白い土曜日」と呼ばれている。
3月26日13時30分。
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2016年03月27日
ベリコノツェ、またの名をイースター(三月廿四日)
昨年だっただろうか、ハロウィンで大騒ぎをする若者達の姿がニュースとなって流れたのは。現在は一部の人たちが盛り上がっているだけのようだが、クリスマスやバレンタインなど、これまでさまざまな商業行事を導入してきた日本だから、これもそのうち定着していくのかもしれない。存在が知られてからかなり時間が経っているのは、80年代の終わりだったか、90年代の初めだったかに、アメリカに留学していた高校生がハロウィンの際に射殺されてしまったという事件の衝撃の大きさゆえだろうか。
では、ハロウィンの次に来るものはと考えて、イースターはどうだろうと思いついた。他の国のイースターは知らないが、チェコやスロバキアのイースターならイベントとしては、面白いと言えなくもない。日本だと、イースターは「復活祭」などと訳されてキリスト教と密接に関係していると思われているようだが、本来はキリスト教とは関係のない春の訪れを祝う行事で、特にチェコのイースターには、キリスト教の香りはまったくない。もちろん信者の中には教会に行くという人もいて、特別なミサも行われているようだけれども。
イースターの月曜日の朝、男の子たちは、柳の木の若枝を何本か編んで作った柔らかい棒を持って女の子の友達のいる家を巡る。呼び鈴を押して、持参した棒で出てきた女の子のお尻を叩いて、そのお礼に棒の先にいろいろな色のリボンを結んでもらう。話によると、女の子が健康で丈夫な子供が生まれるようにという願いを込めてのことだという。またイースターエッグをもらうために、叩きながら「色つきの卵をちょうだい。色つきがなければ白いのでもいいからちょうだい。どうせ鶏がまた産んでくれるでしょう」などという内容の歌を歌う。他にも女の子の家では、男の子たちに配るためのお菓子を焼いて準備しておかなければならないらしい。
子供たちだけでなく、若者たちも民族衣装を着て楽器を抱えて歌を歌いながら、知り合いの女性の家を回る地域もある。この場合、焼いたお菓子だけではなく、スリボビツェやウォッカのような蒸留酒も供されることになり、昼間から酔っ払いの集団が出来上がる。
どうだろうか。子供たちの間で流行ると、いじめの口実になりかねないので避けたほうがよさそうだけど、若者の間なら、パーティーのイベントなんかになら出来そうな気もする。でも、女性が一方的に叩かれて、お菓子や卵やお酒を準備しなければならないというのに、女性差別だとかなんだとか言い出す人もいるかもしれない。チェコの都市部でも、その性かどうかは知らないが、ほとんど廃れてしまった行事になっている。
でも、スロバキアに行くと、さらに女性にとって過酷になるのだ。チェコと同じように棒で叩くところもあるらしいが、それに加えて女性に冷たい水をかけるところが多い。ひどいところでは、春とも言い切れない川や池に女性を投げ込む。そんなニュースを見た記憶があるのだが、記憶違いであると思いたいような気もする。これはさすがにやめたほうがよさそうだ。
では、商売のネタになるだろうか。イースターに関する商品として売られているものとしては、まず、田舎では自分で作る男の子たちが女の子をたたくために使う柳の若枝を編んで作った棒。これは、イースターのころにチェコにきたらお土産にはなるかもしれない。一般には「ポムラスカ」と呼ばれているが、他にも地方によっていろいろな呼び名があるらしい。それから、これはチェコに限らないが、イースターエッグ。チェコのチョコレート会社は、イースターの時期だけ子供向けに、卵の形をした中が空洞になったチョコレートや、イースターのシンボルらしいウサギの形をしたチョコレートを販売しているが、基本的には子供向けの商品だからなあ。
スタロブルノというビール会社は、イースターのビールと称して、緑色のビールを販売している。これは、イースター前の木曜日が「緑の木曜日」と呼ばれるところから来たものらしい。だたし、それほど美味しいものではないし、無理して飲んだり何杯も飲んだりする必要はないだろう。たまたま入った飲み屋で出していたら、話の種に飲んでみると言うのが正しいスタンスである。口の悪い知人は、アイルランドの聖パトリックの日に飲む緑のビールの真似で、その残り物をイースターのビールに回しているんじゃないかなんて言っていた。チェコのワイン業者がフランスのボジョレヌーボーを真似て、聖マルティンのワインなんてものを始めたという例もあるので、あながち間違いではないような気がする。
ちなみに、チェコ語では「イースター」を「ベリコノツェ」というのだが、イースター諸島も、「ベリコノツェの島々」と呼ばれている。モアイの作成と移動に関して画期的な説を出したチェコ人もいるのである。
ちょっと気の利いた話にしようとして自爆。普通にイースターの話を書いたほうがよかったかなあ。反省の意もこめて恥をさらすことにする。「大失敗作」というカテゴリーを作ろうかしらん。
3月25日23時。
2016年03月21日
夏時間(三月十八日)
ヨーロッパには、サマータイムというものが存在して、冬と夏とでは時間が一時間変わるということは、日本にいるときから知っていた。日本とチェコでは、普段は時差が八時間なのに、夏時間の時期は七時間になる。しかし、廿年以上前に初めてチェコに来たときも、十年以上前に始めてサマースクールに参加したときも、夏時間というものを意識することはなかった。日本に電話することもなかったし、後者の時代でもまだインターネットを使ってはいなかったので、時差そのものを意識する必要がなかった。それに滞在中はずっとサマータイムが適用されていたので時間が変わるという体験をすることもなかった。
ただ、今思い返すと、サマータイムの弊害だったのかなと思うことが一つある。それは、最初にチェコに来たときに、夕食を食べるのが遅くなったり、食べそびれたりすることがあったことだ。当時は、何故だか覚えていないのだが、お天道さんの出ているうちは酒は飲めねえなんて、ことを考えていたので、日没まで歩き回ってから食事に向かうことにしていた。サマータイムの期間なので、日没が、本来は夕方の七時であっても、サマータイム上は八時になってしまう。当時こちらに来たのが五月だったこともあって、日に日に日が長くなっていき、夕食前に疲れ果てて食べる気すら起こらなくなって、結局は意味不明のモットーを破棄することになるのだが、チェコが緯度が高いところにあるとはいえ、夏時間になっていなかったらこんな苦労はしなかったと思いたい。
では、最初にいつサマータイム制度の洗礼を受けたかというと、留学のためにチェコに来て一年目の十月末のことである。チェコ語の師匠からも事前に説明を受けていたので、土曜の深夜、もしくは日曜の未明の、午前二時が三時になるというのはわかっていた。日曜は特に何も感じなかったのだが、月曜日の授業の開始が、実質一時間遅くなるのは非常に嬉しかった。師匠の授業の関係で、毎日午前八時からという拷問のような時間割だったのだ。
しかし、人間というのは慣れる生き物で、一週間もすると朝が一時間遅くなった効果は消えてしまう。また早起きに苦しみながら、夕方の日の入りが早くなっていることに気づいた。これには、参った。だんだん日が短くなって日没も早くなっていたところに、一時間分一気に早まったのだから。それでも、自分の精神状態が普通だったら、そこまで辛いと思うことはなかっただろう。
九月の半ばから、外国人のためのチェコ語のコースで勉強を始めて一ヶ月ちょっと、二回目のサマースクールを経て、多少大きくなっていた自信が完全に打ち砕かれたころだったのだ。勉強すればするほどわからないこと、できないことが増えていくような気がして、師匠にも授業中に泣き言をこぼしたりした。わからないということが、わかるようになった分だけ出来るようになっているのだという師匠の最初の慰めの言葉は、あまり心に響かなかったが、そのあと「勉強すればするほど出来なくなる」というのが言えるようになったのは成長じゃないのと言われたのには、なるほどと思った。
それでも、朝起きて、授業に行って、図書館で夕方まで勉強して、外を見ると薄暗くなっているのに憂鬱になるのを禁じえなかった。それで、毎日夕方の五時ぐらいになると勉強をやめて、夕食がてら飲みに行くようになった。素面では夜勉強する気力が湧かないから、酒の力を借りて、お酒を飲みながら、飲み屋で宿題をやっていたのだ。酔っ払って書いた答には間違いが多く、師匠に笑われてしまっていたが、このころ飲んだくれていたのは、腎臓結石で救急車を呼ばれたときに医者に言われたことだけが原因ではない。
長く辛い冬を乗り越えて、初めて迎える三月の終わりに、夜が短くなったのも辛かった。秋に起きる時間が一時間早くなったのにはすぐ慣れたのに、一時間早く起きるのにはなかなか慣れなかった。電力の節約につながるとか、仕事が終わった後の時間を家庭での仕事に使えるとか、いろいろサマータイムが導入された理由はあるみたいだけれども、早起きが苦手な人間には、一時間長く眠れたほうがありがたい。
秋の日が短くなっていく際の憂鬱さは、今でも感じるが、以前ほどではないし、インターネットの発達で、世界中が二十四時間何らかの形でつながっている現在、サマータイムなんかやめてしまって、毎年一時間ずつ時間を遅らせて行くというのはどうだろう。夜が一時間長くなり、一時間長く眠れる日が年に一回あるのは、なかなかのご褒美のような気がするのだけど。昼夜逆転なんてことにもなるから、実現は無理だろうなあ。
サマータイムのせいで、年に二回時計を進めたり遅らせたりする必要があるのは、チェコ人でも困ることがあるらしい。ある年、友人がサマータームが始まったのに気づかないで、待ち合わせの時間に一時間遅れて、相手に死ぬほど怒られたと言っていた。そんなことを考えると、制服に夏服と冬服があるように、時計の針は動かさないで、夏の始業時間と冬の始業時間とか、夏のダイヤと冬のダイヤという形で、一時間ずらすようにしたほうが効率がいいような気がする。
とまれ、今週末にサマータイムが始まると思い込んでいたので、こんな記事を書いてしまったが、実は来週末だった。まあ、アメリカではすでにサマータイムが始まっているらしいから、ヨーロッパとアメリカの中間を取って、この週末に書いたということに、アメリカなんか行ったことも、これから行く気も全くないけれども、しておこう。
3月19日21時30分。
サマータイムに関係あるのかな? 3月20日追記。
2016年03月14日
一体何人? その一(三月十一日)
以前もちょっとだけ触れたがトミオ・オカムラという人物がいる。日本人であると主張して、名前を売り国会議員にまでなってしまったのは書いたとおりであるが、実はれっきとしたチェコ人である。
以前からラジオやテレビに日本人のような顔をして出演し、日本の人口を増やしてくれたり、テレビの外国のクリスマスを紹介するニュースに浴衣着て帯刀して出てきたり、料理番組で和食としてオムライスを紹介していたり、となかなかとんでもないことをしてくれていたが、実害はないので笑いのネタとして見ていた。
この人物、実業家として旅行業で成功したようで、旅行業の業界団体の会長みたいな立場で、大手の旅行代理店が倒産したときなどに、しばしばテレビに登場してコメントしていた。つまりは、あるときは日本人として、またあるときはチェコ人としてテレビに出ていたのである。
それが、2012年の秋に行われたズリーン地区の上院議員の補欠選挙で当選してしまい、その勢いのまま、2013年にチェコで初めて直接選挙で行われた大統領選挙に立候補すると言い出した。信じられないことに支持者が集まり、必要な数の署名を集めて立候補のための書類を提出した。結局は大量の不正な署名があるという理由で立候補は受け付けられなかった。最初は差別だとか政治的な陰謀だとか、裁判に訴えるとか息巻いていたが、どうなったのだろう。最初から選挙資金は五万コルナとか、本気で当選する気はないようなことを言っていて売名行為であろうと言われていたが、立候補の際にも、立候補が認められなかったときにも、見ているこちらがうんざりするほど、ニュースで取り上げられていたから、目的は十分以上に達成されたのだろう。この立候補のニュースは日本でも話題になって、すわ第二のフジモリかと思われたかもしれないが、実態はこんなもんだったのである。
そして、次の国政選挙である下院の選挙には政治団体を結成し多数の候補者を立てると共に、自らも出馬した。「ウースビット」というチェコ語の党名は、日本語に訳すと「夜明け」とか「黎明」と訳せるのだが、日本とのかかわりで考えると、新党魁あたりを意識したのだろうか。でも、最近のチェコやスロバキアの政党名は、読んでも何のことやらわからないものが多いので、その一つと考えたほうがいいのかな。「TOP09」とか、「SMER」とか、いい加減にしてほしい。日本の「みんなの党」とかいうのに比べればマシなんだけど。
とまれ、その上院選挙でかなりの得票数を得て、アンドレイ・バビシュの新政党ANOと共に、ウースビットは、新しい勢力として下院に議席を得ることになった。これに調子に乗ったのか、オカムラ氏は、とんでもない発言や行動を繰り返すようになる。その最たるものが、ネオナチと目されている極右政党が主催する不法移民排斥を主張するデモに参加して、積極的に外国人排斥を訴えたことだろう。ウースビットの議員達の中には以前から党のイメージを悪化させるオカムラ氏の不穏当な発言に反感を抱いていた人たちがいて、この人たちが、党首であったオカムラ氏を党から追放してしまうのである。それにしても、党名の後に説明のように二格で「直接民主主義」なんて言葉がついている政党の党首が、ネオナチとつるむってのはどういうことなのだろうか。
もう一つ、オカムラ氏には理解できないことがある。この人、母親がチェコ人で、父親が日本人だと言うことになっているが、実は父親は朝鮮系の人らしい。それがいわゆる在日の人なのか、日本に帰化した人なのかは知らないが、だから日本人というのは正しくないということではない。日本語が不自由なく使えて、日本語で話が通じるのであれば、その人は日本人で何の問題もない。
もし、オカムラ氏が本人の言うとおり日本で育って、日本で学校に通ったのなら、母親がチェコ人で父親が朝鮮系というのはかなり大変だったはずだ。子供というものは残酷なもので、ささいな違いを理由に差別したりいじめたりする。親も、建前上は、外国人だからという理由で差別してはいけないなどと言いながら、自分の子供に対しては、あの子は外国人だから近づくなとか、遊ぶなとか言ってしまうものだ。少なくとも九十年代の半ばまでは、差別はいけないと言いながら、自分の子供が在日の人と結婚したいと言い出したら反対するという人も多かった。
だから、オカムラ氏が日本の学校で、排斥されそうになったという体験をしただろうと考えてもあながち間違いではあるまい。少なくとも日本人の中に入りきれない疎外感を感じさせられることはあったはずだ。その一方で日本を出てチェコに来たときにも苦労はあったと推測する。外国人であることで苦労したはずの人物が、どうして外国人排斥を訴えるのだろうか。それとも、だからこそ排斥を訴えると考えるべきなのだろうか。よくわからない。
オカムラ氏は、日本的なものをチェコに導入することを主張して支持を集めているという話も聞くので、もしかしたら、日本の外国に対する閉鎖性、異質なものに対する非寛容性を、外国人に対して寛容なチェコの社会に導入しようとしているのかもしれない。その結果として、チェコを、日本の経済的な成功の原因の一つだという人たちのいる日本的な単一民族国家にしようというのかもしれない。では、そのチェコ人の単一民族国家に、半分日本人であるオカムラ氏の居場所はあるのだろうか。
最近、差別の原因は無知だという意見をさんざん聞かされてうんざりしているのだが、それは違う。本当に何も知らない無知であれば、差別なんてできはしない。問題なのは、無知ではなく、中途半端な知識、誤った知識なのである。そして、それは、差別だけでなく、このような喜劇の原因にもなる。
当初の予定ではオカムラ氏は話の枕で、シュバルツェンベルク氏の話になるはずだったのだが、迷走してしまい、その分時間がかかった上に、いつも以上にしょうもない文章になってしまった。
3月12日23時30分。
2016年03月08日
泥水のようなコーヒー(三月五日)
泥水のようなコーヒーとは、まずいコーヒーのことだろうが、初めて飲んだチェコのコーヒーは文字通り泥水だった。かれこれ廿年以上も前、プラハで泊まったユースホステルのような宿泊施設の朝食についてきたコーヒーを一口すすったら、口の中がじゃりじゃりになってしまった。これはチェコで言うトルココーヒーというもので、砂糖を入れてかき混ぜて、沈殿させた上で飲むものらしかった。
しかし、このチェコのトルココーヒーは、本物のトルココーヒーとは違う。本物が専用の鍋で煮立てるのに対して、こちらはお湯をかけるだけである。実際どのようにして誕生したのかは知らないが、冷戦時代に、西側の技術に負けていることが許されなかったチェコスロバキアで、工業技術のいらないインスタントコーヒーとして発明されたのではなかろうか。アメリカなどの帝国主義的世界では、技術の無駄遣いをしているが、こちらではその問題を知恵を使って解決したとかなんとか言われていたのではないかと想像してしまう。本当のインスタントコーヒーが貴重品扱いされ、喫茶店なんかでもメニューに誇らしげに「ネスカフェ」と書かれていた時代もあるらしいのだが。
普通の粉末状のコーヒーに沸騰したお湯をかけるだけというのは、飲んだ後の処理を考えなければ非常に手軽だし、飲み方さえ間違えなければ、味もそれほど悪くない。少なくともインスタントコーヒーよりはましである。しかし、コーヒー好きとしては物足りない。インスタントよりマシとはいえ砂糖を入れずに飲めるほど美味しいわけではなく、砂糖を入れたほうが豆が沈みやすいような印象があり、必ず砂糖を入れることになるので、あえて飲みたいと思うものではなかった。一説によると、コーヒーに含まれるあまりよくない成分まで抽出されるので、避けたほうがいい飲み方だとも言う。
今から十年以上も前、ビール消費量の増大に危機感を覚えて、酒量を減らすことを決心したとき、代わりの嗜好品としてコーヒーを飲むことを思い出した。日本にいたころには、職場近くの喫茶店で焙煎したコーヒー豆を買って挽いてもらい、ドリップ専用のポットを買ってポタポタとお湯を落として時間をかけてドリップして飲む程度にはコーヒーが好きだったのだ。だから、チェコではコーヒーを飲まなかったともいえるのだが、ともかくコーヒーを淹れるための器具を探し始めた。
ペーパーフィルターは、問題なく見つかった。日本で使っていたメリタのフィルターもあったし、それとはちょっと形の違う名も知らないメーカーのものもあった。しかし、ドリッパーが見つからないのである。かなり探し回って、やっと見つけたドリッパーは青色のプラスチック製で、かなりごついものだったが、どちらのフィルターとも形が合っていなかった。サーバー式のコーヒーメーカーなら、合っていたのかもしれないが、自分でドリップしたかったのである。
コーヒー豆に関しては、スーパーで、イタリアやオランダのブランドのものの中から選んで買っていた。自分で入れるコーヒーは、チェコ式トルココーヒーよりははるかにましだったし、レストランや喫茶店で飲めていた普通のコーヒー程度には美味しかったが、100パーセント満足していたわけではない。
だから、数年前に(もっと前かも)、オロモウツにコドーというコーヒー焙煎のお店ができたときに、試すのは当然だった。試して、挽きたての豆で淹れたコーヒーの美味しさに感動し、ドリッパーを変えようと考えるのも当然だった。ドイツの会社であるはずのメリタのドリッパーがチェコで見つからないのは不思議だったが、見つからないので、結局日本に出かける友人に買ってきてもらうことになってしまった。
手動のコーヒーミルを購入し、本当の挽きたてを楽しむことも覚えたが、時間の余裕がなくてお店で挽いてもらった豆を使うことの方が多くなっているなあ。モカエキスプレスと呼ばれる家庭用のエスプレッソメーカーも手に入れて、週末などの時間があるときには、ドリップしたコーヒーとは少し違う味わいを楽しんでいる。ドリッパーも、最近コドーで販売されるようになったハリオという日本の会社の陶器製のものを手に入れた。メリタとの違いがわかるとは言わないけど。
毎日、朝食の後に、時間をかけて淹れた美味しいコーヒーを、ゆっくりと飲むというちょっとした贅沢を楽しんでいるというわけである。ビールと同じく、味を語れるほどの語彙も、微細な味の違いを感じられる舌も持ってはいないけれども、好きなものは好きで、美味しいものは美味しいのである。
ところで、チェコの喫茶店やレストランでは、最近コーヒー抽出用の機械が導入されたところが増え、トルココーヒー以外にも、プレッソと呼ばれるコーヒーが飲めることが多い。ただこのプレッソが、チェコ人たちが言うようにエスプレッソなのかどうかがよくわからない。
二年ほど前にハンガリーに行ったときに、飲んだエスプレッソは、小さなカップで出てきたが、衝撃的なまでに濃厚だった。そして、その夜眠れなくなった。コーヒーのせいで眠れないのだとは認識していなかったのだが、翌朝一緒にコーヒーを飲んだ人も眠れなかったと言っており、コーヒーを飲まなかった他の人たちはぐっすり眠れたらしいことから、濃厚なエスプレッソのせいであろうと納得したのだった。それに対して、チェコのプレッソは分量も多く、それほど濃くなく、何よりも飲んだからといって夜眠れなくなることはないのである。
ともあれ、自宅でも外でも美味しいコーヒーが飲めるようになったことは喜ばしいことである。しかし、今でもチェコ人のコーヒーの飲み方で一番多いのは、チェコ式トルココーヒーなのだという。そうなると、共産主義の時代とは関係のない伝統的なチェコの飲み物と考えたほうがいいのかもしれない。
一昨日の酒の影響で昨日はほとんど書けず、今日も筆が進まなかった。酔った状態でも、多少体調が悪くても、眠くてたまらなくても、何とか書けるようになりたい。
3月6日23時30分。
因みにチェコ版トルココーヒーは、飲んだ後の豆の粉末はそのまま流しに捨ててしまう。排水のパイプが詰まらないか心配なのだが、みんな気にする様子もない。
こんな記事を書いたのは、美味しそうなコーヒーのお店を、広告一覧の中から発見したからであった。いつか飲んでみたいものである。3月7日追記。
こっちのコーヒーも美味しそう。