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2017年03月08日
チェスキー・レフ(三月五日)
日本語に訳すと「チェコのライオン」であって、本来国の紋章に使われている獅子のことをさすのだけど、ここで取り上げるのは、チェコ版アカデミー賞とでも言うべき、チェコ国内の映画の賞である。受賞者には賞の名前にちなんで、クリスタルガラスで作られたライオンの像が送られる。今年のはあんまりライオンに見えなかったけど。芸術家というのは度し難いよなあ。
毎年チェコテレビで授賞式が放送されるので、映画館に映画を見に行くことはないのだけど、ついついチャンネルを合わせてしまう。今年も昨日三月四日に授賞式の様子がチェコテレビ1で八時から放送された。結果は、事前の予想通りというか、ノミネートの時点で圧倒的だった「マサリク」が、12のカテゴリーでライオン像を獲得していた。昨年末に公開されて観客数では一番だったらしい「アンデル・パーニェ2」は、ノミネートされた部門はあったが、ライオン像は一つも獲得できなかったようだ。ちょっと意外である。
チェコ人の政治好きを考えると「マサリク」が一番多くの部門で勝つのは予想通りだったが、この映画、マサリクはマサリクでも、トマーシュ・ガリク・マサリクではなく、その息子のヤン・マサリクの生涯を描いたものである。主役のマサリクを演じたのは、ハリウッド映画への出演で日本でも知られているかもしれないカレル・ロデンである。ベネシュを演じたのがカイズルだったかな。
ロデンが脚本を読んだ瞬間に出演を快諾し、カイズルはぎりぎりまで悩み続けて最後の瞬間にOKを出したなんていう撮影のこぼれ話が、特に映画に注目していない人間のところにまで届くぐらいには、この映画はチェコでは注目されていた。劇場で公開されてどれぐらいの観客を集めたのだろうかと考えて、まだ公開されていないことを思い出した。
最近、テレビでも予告編のようなものをしばしば見かけるようになっているし、街中にもポスターが貼られているので、そろそろ映画館で見られるようになるはずである。チェコのライオン映画賞は、前年に公開された映画ではなく、制作された映画を対象にしているので、こんなことが起こるのである。映画「マサリク」にとっては、今回の賞をほとんど総なめした結果は、最高の宣伝である。
その上で、どのぐらいの観客を集めるだろうかと再び問う。昨年末に公開されて、百万人を大きく超える観客を集めた「アンデル・パーニェ2」を超えることができるだろうか。あっちは子供も楽しめる映画で、家族で出かけた人も多いだろうから、「マサリク」が超えるのは難しいかな。このチェスキー・レフで評価が高くても、興行的にはあまり成功しなかった映画もあるわけだし。
ところで、ヤン・マサリクは共産党が政権を獲得したクーデターの後、外務大臣在任中に外務省の窓から転落して死んだことで知られている。これが共産党政権が発表したように本当に転落事故だったのか、マサリクが邪魔になった共産党による暗殺だったのかは、現時点でもはっきりはしていないようだ。もちろん、反共産党のチェコ人たちの多くは、暗殺だと考えているのだが、100パーセント確実だと言えるだけの証拠は見つかっていないようだ。
ヤン・マサリクは、外務省で外交官として仕事をして、ベネシュがロンドンで組織した亡命政府の外務大臣になるわけだが、その前、ミュンヘン協定の後、自分の外交官としての仕事がまずかったのかという自己批判から、心を病んで精神科の病院に入院していたこともあるらしい。この映画「マサリク」では、これまであまり知られていなかったヤン・マサリクの生涯をも描き出しているようである。こういう精神的に追い詰められていた姿が描かれているということは、マサリクの死については、暗殺説を前面に押し出していないということかなと推測する。
映画館にまで足を伸ばしてみたいとは思わないので、来年か、再来年かにテレビで放送されたときに内容を確認しよう。そして、何年か前にチェコテレビが制作した歴史再現ドラマ「チェコの幾世紀」(仮訳)での扱いと比較してみたら面白そうだ。そのころまでには忘れていそうだけど。
ロンドンの亡命政府が主催して、ケンブリッジかどこかで、コメンスキー関係の大きな式典が行われたという話も聞いているのだが、ヤン・マサリクも関っていないはずはないから、最近縁の増えてきたコメンスキー関係からも、見ておくべき映画なのか。
3月5日23時。
2017年02月14日
トロウプキ(二月十一日)
この人口二千人ほどの村は、ストゥデーンカが鉄道事故の象徴となっているのと同様の意味で、モラビアにおける洪水の象徴となってしまっている。1997年にモラビアを襲った大洪水で壊滅的な被害を受けたのだ。
地理的な説明をすると、モラビア東部のベスキディ山地に源を発するベチバ川が西流してフラニツェ、リプニークなどを経て、プシェロフを越え南西に向きを変えてモラバ川に合流する地点の少し手前にある村である。ベチバ川とモラバ川を挟んだ反対側にあるトバチョフとの間には、いくつかの大きな池があって魚の養殖が行なわれているようだ。池のうちのひとつはトロウプキの名前がついているが、トバチョフの領域内にあるようである。
洪水が起こったのは1997年の七月、ベチバ川からあふれ出した濁流に飲み込まれた村では、150軒の家が完全に倒壊し、九人の犠牲者を出したという。人口二千人の村で、150軒という数字はかなり大きいし、村全体が水没し避難し損なって自宅の二階や屋根に取り残された人々の救助は船で行なわれたようだから、被害を受けなかった建物など一軒もなかったに違いない。
犠牲者が比較的少なかったのは、平地で、がけ崩れなどが起こらなかったことと、川の流れが比較的緩やかな地点での洪水だったことのおかげであろう。逆に言えば、平地だからこそ川と村の間をさえぎるものがなく、水が押し寄せるのが早かったとも言えるかもしれない。少なくとも日本の河川のような整備をされていれば、いやせめて堤防だけでもあれば被害はかなり小さくなっていたはずである。
このときの洪水は、フラニツェなどのベチバ川沿いの町にも爪あとを残しているが、オロモウツでも小さな丘に建てられた旧市街が島のようになったという話があるぐらいなので、モラバ川本流域でも大きな被害を出している。チェコでの洪水というと、プラハに大きな被害を出した2002年のブルタバ川、ラベ川を中心とするボヘミア地方の洪水が喧伝されるのだが、この1997年のモラビア地方での洪水の方が、開けた平野部での洪水だっただけに、洪水の規模も被害を受けた範囲も大きかったのではないかと思う。この辺りにも、プラハ中心主義がたくまずも表れていると考えてしまうのは、わがモラビアびいきが故であろうか。
とまれ、この水害の後、モラビア各地では、ゆっくりとゆっくりとではあるが、河川の洪水対策が進められたようだ。オロモウツでも、モラバ川の郊外の住宅地の間を流れる部分は川床の整備がなされ、両岸に堤防と呼んでもいいものが出現している部分もある。堤防がいつごろ出現したのかは知らないが、川床の工事は2000年代に入ってからなので、1997年の洪水を踏まえての洪水対策だと考えていいだろう。
しかし、1997年の洪水で最大の被害を受けたトロウプキに関しては、なぜか洪水対策が計画通りに進まなかったらしい。当初の予定では村とベチバ川の間に堤防を築いて、川から水があふれたとしても、まず対岸の畑、もしくは村の周囲の畑に流れ込むようにするはずだったようだが、用地買収が進まず、河川を管理する会社も建設を始めることができなったようだ。
そんな状態が十年も続いたころ、トロウプキは再び洪水に襲われることになる。今度は2010年五月の出来事で、幸いなことに洪水の規模が小さかったことと、村の人々にかつての経験が合ったのとで、犠牲者は出なかったようだが、村は再び水に覆われた。
このときのニュースで印象的だったのが、1997年の洪水で家を失って、やっと再建できたという人が、どうしてまたと、泣き崩れるように嘆いていた姿だ。一度水害に襲われた地区では、保険会社が災害保険をかけることを拒否することがある。拒否しなくても保険料が、他の地域に比べて大幅に高額になる。保険会社も営利企業だから仕方のない面はあるのだろうけど。
この時点で、ベチバ川と村を遮る堤防ができていれば、結果はまた違ったのだろう。しかし現実は土地の所有権というものに阻まれて建設できていなかったというわけだ。プラハからフラデツ・クラーロベーの方に向かう高速道路D11が、建設予定地の地主が売却を拒否していたために、長らく建設できなかったという事例もあるように、共産主義による土地の強制的国有化を経験しているだけに、こういうところで慎重になる面があるようだ。それを利用して金儲けというやからも当然いるわけだろうけどさ。
今年の大雪と凍りついた川が、トロウプキに洪水をもたらさないことを願っておこう。過去二回の大洪水は雪解け期のものではないので大丈夫だろう。さすがに堤防も設置されただろうし。されてないなんてことはないよね。洪水が起こらない限りニュースにはならないので、確かめるすべはないのであった。
2月12日23時。
2017年02月13日
氷れる川と洪水の関係(二月十日)
チェコに来て最初に体験した洪水は、夏の洪水だった。あれは確かオロモウツでチェコ語の勉強を始めて一年たった後の夏休みだから、三回目のサマースクールに通っていた頃の話である。チェコ全土で激しい雨が、日本の梅雨の豪雨や、台風の雨に慣らされた目で見るとそれほどひどい雨でも、長期的に降り続いたわけでもないけど、降り続き、特に南ボヘミアの山岳地帯の雨が激しく、つまりはブルタバ川上流に大量の水が流れ込むことになった。
ブルタバ川上流には、カスケードと呼ばれるぐらいにダムがいくつも造られていて、水量調整の役割を担っているはずだったのだが、あまり役に立っておらず、プラハを初めとして、ブルタバ川流域の街は大洪水に襲われて大きな被害を出したのだった。このときチェコ語には百年に一度の洪水などという奇妙な言い方があることを知った。
これは、その後も、洪水だけでなく大雨なんかでも、十年に一度、五十年に一度などという形で何度も聞かされることになるのだが、統計的にこの規模の洪水は百年に一回の割合で起こっているというようなものではない。適当にというわけではないのだろうが、基準となる規模をいくつか設定して、それに十年に一度レベル、二十年に一度レベルというように名前を付けていったもののようだ。だから、十年に一度のレベルの大雨が二年連続で降ったり、十年に一度の洪水の何年か後に五十年に一度の洪水が起こったりして、聞くものを混乱に陥れるのである。
それはともかく、この年の洪水を、直接の被害は受けなかったとはいえ、体験して思ったのは、日本という多雨の国の洪水に対する強さである。大雨で河川の水量が急激に増減することが前提となっているため、普段の水流よりもはるかに大量の水が押し寄せても洪水は滅多に起こらない。河原、河川敷、堤防というチェコでは見かけないもののおかげである。
チェコでは夏の大雨、洪水はあまり想定していないため、水の安定供給を重視して強い雨が降り出してもなかなかダムの放水量を増やさないという面もあるかもしれない。ぎりぎりになってダムの崩壊を恐れて放水量を急激に増やした結果、川が許容できる水量を超えていたという可能性もありそうだ。大雨が想定されるときにどの時点で放水を始めるかなんてのは、雨の少ないチェコにはデータも少ないだろうし。
では、冬の洪水、チェコに来るまでは知らなかった冬の洪水の場合にはというと、洪水が起こる原因は二つある。一つは上流の山地に積もった雪で、雪解けの水が大量に川に流れ込むことによって洪水が発生することがある。これは特に春になって急激に気温が上がったときに一気に雪が解けることで発生することが多く、気温がゆっくり上昇して雪解けもゆっくり進む場合には、ダムの水量調整で対応できているようだ。毎年のことでデータも十分以上にあるだろうし。
今年は、近年では雪が多いため、ダムの中には雪解けの洪水対策として、すでに放流を開始したところがある。ブルノの郊外にあるダムは、リプノと同じようにブルノ市民がスケートをしにやってくる場所となっているのだが、すでに貯水量を減らすために大量の放水を始めている。氷の下の水面を一メートルほど下げるのが現時点での目標だという。
この放流の結果、氷の下には空洞ができることになる。その分氷は割れやすくなるし、割れた後の対応も難しくなるからスケートはやめたほうが無難だと思うのだが、氷はまだ十分に厚いから大丈夫とか言って、スケートとスリルを楽しんでいる人たちはいるのだろうなあ。自動車で氷上を走る人は、いかにチェコでもいないと信じたい。
もう一つの春の洪水の原因は、凍結した川である。気温が上がって氷が融け始め、融けて水になった分だけ下流に流れていけば問題はないのだが、大抵は完全に融けきる前に、氷の塊が流れ出す。流れていく先が、ダムだったり、橋も何もなく海まで一直線だった問題ないのだろうが、往々にして橋や、川のいまだ氷りついている部分に突き当たって、それ以上流れていけない状態になる。
特に小さな川の場合には水面と橋の間にあまり大きな空間がなく、次々に流れてくる氷の塊が橋の下の空間に詰まって栓をするような形になる。行き場をなくした水が端の両側からあふれ出して洪水になるのである。ひどいときには橋そのものにまで被害が及び、橋が流されたり(これも下流での洪水の原因となる)、使用不能になったりすることもあるようだ。対策としては氷の詰まり始めた橋のところに重機を持ち込んで、ショベルカーか何かで氷の塊を引き上げて、邪魔にならないところに移動させるぐらいしかない。
もちろん川が凍りつかなければ、こんな洪水は起こらないので、最近はあまり起こっていない。ただ、今年は久しぶりの厳しい寒さで凍結した川も、高地を中心に多いだろうから、こちらの洪水はどこかで起こるに違いない。被害が少なければいいのだけど。
そして今年は積雪量も多いだけに、気温の急上昇による洪水も懸念される。オロモウツ近郊で前回起こった洪水も、確か気温の急上昇による雪解け水の増加をダムが受け入れきれなかったことが原因だった。幸いなことに1997年の夏の大雨による洪水に比べれば規模は小さく、被害も少なかったのだけど、チェルノビール地区なんかでは家屋の浸水も起こったのではなかったか。
このときのことで一番強烈に覚えているのは、市が用意した住民の避難用のバスに乗って洪水が起こりそうになっている地区に出かけていく人たちがいたことだ。さんざん批判されていたから、今年は洪水が起こりそうになってもそんなことは起こらない、いや洪水は起こらないと信じておこう。冬の冷たい空の下、氷交じりの冷水が川からあふれ出すなんてのは想像しただけでも、耐えられそうにない。冬来たれども、春未だ遠しである。
2月10日23時。
2017年02月12日
氷れる川2(二月九日)
チェコで一番大きいと言われる湖は、ブルタバ川最上流のダム湖リプノである。オーストリアとの国境近く、シュマバの山の中にあるので気温が平地より低いのか、冬になると凍結することが多い。水流がないのも氷りやすさにつながっているのだろう。
今年のような寒さが厳しい冬には、氷の厚さが何十センチにも到達し、湖面に十キロ以上にわたる幅は6〜8メートルのスケートコースが整備される。これは、カナダにある約八キロのコースを抜いて、世界一長いスケートのコースだという。スピードスケートの国内選手権を池の氷の上でやっていた国なので、野外のスケート場を整備するのはお手の物なのだろう。
もちろん、安全には注意を払っているようで、毎日氷の厚さを計測し、氷の状態を確認し問題があるときには、部分的に、場合によっては全面通行止めにすることもあるという。気温が上がって氷が緩むと、氷の厚さが薄くなるのはもちろん、氷の表面が荒れやすくなり転倒などの危険性も高くなるので安全のために進入を禁止するらしい。もちろんそんなのは無視して、勝手にコースに入ってしまうやからはいるわけだけど。
ニュースでは、そんな連中だけのためというわけでもないのだろうが、氷が割れてしまった場合の対策についても報道されていた。水の中に落ちそうになったら、両手に持っている赤い棒の先のスパイクを凍りに突き立てて、体が沈まないように支点を確保すること、そして可能であれば、腕力を生かして水の中から這い上がること、とにかく全身が水に落ちないようにすることが大切なのだという。かつて北太平洋でのサケマス漁船を取材したドキュメントで、海に落ちたら二、三秒で気絶するから助かる見込みはないなんてことを言っていたけれども、海と湖の違いはあれ、似たような状況なのかもしれない。
リプノの湖上でスケートをしている人たちがみな、足下の氷が割れて水に落ちそうになったときの対策をしているとは思えない。だが、スケートは、整備されたコースで、氷の厚さを測るなど管理している人がいるから、まだしも安全なのである。警察なんかの監視の人もいるようだし。
危険なのは、氷りついた湖を車で移動する際のショートカットコースとして使うことである。普段は湖の周囲を迂回して対岸に向かわなければならないところを、直線で最短距離で移動できるのは理解できる。理解できるけれども、自動車という人間とは比べ物にならないほどの重量のあるものでどのぐらい厚さがあるのかもわからない氷の上を走る人の気が知れない。実際、毎年のように、リプノとは限らないが、氷った川や湖の上をショートカットしようとして、氷が割れて車ごと水没してしまうという事故が起こっている。痛ましい事故と言うべきなのだろうが、自業自得だといいたくなる気持ちも抑えられない。そこまでして急ぐ必要があるのだろうか。
いや、この手の事故は、毎年のように起こっていたというのが正しい。最近は、暖冬の影響で河川や湖沼が完全に凍結する機会が減り、車で氷の上を走れる、走れそうな機会も減っていたのか、この手のニュースを耳にする機械も減っていたような気がする。さすがに人がスケートできるかどうかも分からないような状態の氷の上は走る気にはならなかったのだろう。
二月にスウェーデンで行われる世界ラリー選手権の一戦であるスウェーデンラリーでは、名物の一つが凍結した湖上でのスペシャル・ステージだというのを、小説だったか、マンガだったかで読んだ。ある年、スウェーデンラリーが中止になった原因が、暖冬でコースに予定していた湖の氷の厚さが車両を走らせるには足りなったというものではなかったか。雪の不足も原因だったかもしれない。とにかく、雪と氷のないのはスウェーデンラリーではないということなのだろう。氷上のステージが今でも開催されているのかどうかは知らないが、寒さの厳しい今年はスウェーデンなら問題なさそうだ。ずっと南にあるチェコでも、走っている人がいるのだから。
平野部で標高も低いオロモウツでは、川の上を車で走るのは見たことがない。見たことがないからないというわけでもないが、実行した人がいたらニュースにはなるはずである。今後もそんな車が走れるぐらいまで厚い氷が張ってしまう冬などオロモウツには来ないように願って、中途半端になってしまったこの稿を終らせることにする。
2月10日15時。
2017年02月11日
氷れる川1(二月八日)
チェコに来た頃から、冬は嫌いだ、寒いのは嫌だと喚き散らしているのだが、チェコに来て一年目の冬を前に、口には出さなかったけれども心の中で密かに楽しみにしていたことが一つだけある。それは、凍結した川の上を歩いて渡ることである。師匠がチェコ語の授業中に、毎年モラバ川が凍結したら、川の上でスケートをする人たちが出てくるんだよなんて言っていたのを聞いて、スケートができるんなら歩いて渡ることもできるに違いないと、思っていたのだ。
チェコに来て一年目は、すでに九月上旬には、早朝に吐く息が白くなり、下旬には雪がちらちらするという、近年の冬に比べるとはるかに厳しい冬だった。今年の冬と比べると、最低気温では今年のほうが低いけれども、平均すると同じぐらいで、寒い期間の長さは今年よりも長かっただろうか。すでに、年末には雪が積もり、モラバ川も凍結を始めていた。
最初にスケートをする人の姿を見たのは、支流のビストジツェ川だったと思う。流れが細い分、凍結するのも早く、氷の上に積もった雪をトンボみたいなので押しのけて、氷の面が露出するようにして、子供たちにスケートをさせていた。細い川なので、細長い小さいスペースだったけれども、楽しそうにしていて、川に降りていって歩いて渡りたいという気持ちを抑えるのが大変だった。スケートをしたいとはかけらも思わなかったけど。
もちろん、記念すべき最初の一歩は、大河(と言っておこう)モラバ川の上に印したいと思っていたので我慢して待つことにした。モラバ川のほうでも、何日か遅れでスケートをする人たちの姿が見られるようになり、こちらは、広い場所が取れるので、アイスホッケーをしている人たちもいた。そんな人のいるところで、人のいる時間帯に、川を喜々として歩いて渡るなんてことはしたくなかったので、人気の少なかった週末のある日、周囲に誰もいないことを確認して、川岸から第一歩を踏み出したのだった。
選んだ場所は、当時住んでいた寮のから川岸に出て下流にちょっと行ったところにある橋の下である。河川敷や河原のないチェコの川では、一番歩いて水面に出やすかったこと、橋げたがある分川の幅が狭くなっているような気がしたこと、そして橋の上を行く人の視界に入らないことを意識しての選択だった。
ゆっくりと、恐る恐る足をおろしたが、氷は意外と強固でまったく揺るぎもしなかった。スケートすらしたことがないので、氷の上に立つのは文字通り初めてのことで、ぱりぱりと割れる音がしたりしたらどうしようかなどと考えていたのだが、気温がプラスにならない日が何日も続いた後の氷はぶ厚かったようで、すべては杞憂に終わった。
ただ、氷の上を歩くのは、氷結した道路を歩くのと同じで、つるつる滑って歩きにくいこと、この上なかった。無事に対岸までたどり着いたときには、心の底からほっとしたし、こんな経験は一度で十分だと思ったのだった。もちろん、誰にも見られていないことを確認するために周囲を見回すのも忘れなかった。道行く知らない人には見られたかもしれないが、知り合いには見られなかったからいいのだ。
その後、うちのの実家で犬の散歩に、氷りついた泥炭採取場の跡地の池に出かけたこともある。ここも氷が張るとスケートをする人たちが集まるところなのだが、邪魔にならないところに犬を連れて入ったら、犬も氷の上で滑って踏ん張りがきかなくて、なかなかまともに歩けていなかった。人間も同じような状態だったので、対岸まで歩いて渡るなんて暴挙には踏み出せず早々に退散したのだった。
この二件が、我が氷の上体験なのだが、冬になると川の上でスケートをする人たちがいるなんてのは、最近の暖冬で見かけなくなっていたこともあって、すっかり忘れていた。テレビのニュースで氷りついたダム湖でスケートをする人たちを見て思い出した次第である。
思い返せば、数年前にクリスマスマーケットの娯楽の一環として、ドルニー広場で仮設のスケート場が開設されるようになったのだが、今年は例年に比べて目立たなかったような気がする。これも今年の冬が寒くてモラバ川が凍結してそこでスケートをする人たちが多くて、わざわざ街中まで出てくる必要がなかったからじゃないかと書きかけて、去年の12月の時点で、モラバ川が凍結していたかどうか確認していないことに気が付いた。寒かったし、雪も降ったのは確かだけど、気温が上がる時期もあったからスケートができるほどには凍結していなか。
今日、久しぶりにムリーンスキー・ポトクという小川のそばを歩いたら、完全に凍結している部分と、氷がなく普通に水が流れている部分とに分かれていた。小さな小川でこれだということは、大河モラバは完全には凍結しなかったかなあ。気温がプラスになる日がたまにあるのがいけないのだろう。ということは、寒い寒いと言っている今年の冬は、初めてのチェコの冬よりは暖かいのか。うーん、いい時代になったもんだというべきなのだろうか。その前に、モラバが凍っているかどうか確認してこなきゃ。最近冬の出不精でモラバを見ていないのだ。
2月9日18時。
2017年02月09日
スモッグ(二月六日)
咳がとまらない。いや四六時中咳をしているわけではないのだが、何かのきっかけで一度咳が出始めるとしばらく止まらなくなってしまう。年末にこじらせた風邪が長引いているのかとも思ったが、咳とその影響でときに鼻水が出る以外は特に問題はない。ちょっとお腹の調子を壊したこともあるけど、あれは早起きが続きすぎたのが原因だと思う。
テレビのニュースを見ていて、原因らしきものに思い当たった。スモッグである。例年だとオストラバ周辺の地域が圧倒的に状況がひどく、それに次ぐのがプラハ(偏見入りかも)なのだけど、今年は、全国的にスモッグが広がる日が多く、その中でもなぜかオロモウツ地方が最悪の状況にあることが多くなっている。
チェコではスモッグ状態になりやすいのは、冷たい空気が地表に滞留する冬である。実際、朝起きて換気のために窓を開けると咳が出るし、嫌なにおいを感じることもあるので、空気が例年より汚いのは間違いない。原因としては自動車の排気ガス、工場の排煙なんかが拡散せずに地表近くにとどまっていることのようだ。環境を悪化させない程度に排気ガスの浄化機能がついていても、それは普通に大気中に拡散することが前提の数字であって、拡散して希釈されることがなければ、やはり問題になるのだろう。
スモッグ警報が出ると、警報が出た地域の工場に対して生産を減らすように命令が出ることになっている。それによってスモッグの発生源を減らそうというのだろうが、大量に地表を走り回る自動車に関しては野放しのために、即効性のある規制とはなっていない。スモッグが消えるには、太陽の光で地表近くの空気が暖められて上昇し排気ガスが上空に拡散していくか、強風が吹き荒れて街を覆っているスモッグを吹き飛ばすかするのを待つしかない。
ニュースや天気予報の際に、心肺系に問題を抱えている人は外出を控えるようにということもよく言われるのだが、こんなのを聞いて本当に外出を控えられるのは、年金生活者か子供だけだ。本当にスモッグ状態を理由に仕事を休んでいいのなら、うちでのんびりだらだら何もしないで一日を過ごしたいものだが、そういうわけにもいかない。即効性のある対策は存在しないものだろうか。一度のどの調子が悪くなると、空気が多少きれいになっても、症状はあまり変わらないような気もするから、劇的な効果のある対策を望みたいところだ。
以前、プラハの日本大使館の人と話をしていたときに、プラハに来て最初の週は空気の汚さによる体調不良で苦しめられたけど、何週間かで慣れて平気になったという話を聞いたことがある。そのときはスモッグなんて発生していなかった時期なので、すでに慣れてしまって何とも感じなくなっているけれども、チェコの空気は普段から日本よりも汚染が進んでいるのかもしれない。内陸国で、人口が集中しているところが、盆地になっていることが多いので、汚れた空気がたまりやすい面もあるのだろうか。
チェコに来たばかりのころ、のどの調子が悪いことが多くて、原因としては空気が乾燥していることを想定していたのだけど、違ったのかもしれない。常に喉に水分を送り込んでおかないと、喉がイガイガするというか、不快さを感じて、当時は日本的なノド飴に当たるものが発見できていなかったのでユーカリやペパーミントの飴をなめていた。最近は日本でも喉の調子が悪いときになめていたスイスの「リコラ」の飴が、ノド飴なんて名称ではないけど、手に入るようになったので愛用している。問題は買えるお店が限られていることである。
そう言えば、『マスター・キートン』で、チェコが舞台になった回があって、ドイツとの国境地帯の環境汚染がひどいなんてことが書かれていたなあ。あれは北ボヘミアの西のほう、チェコ語でクルシュネー・ホリと呼ばれる山脈のあたりが舞台になっていたんだったかな。チェコに来てこの「過酷な」という形容詞が名前についている山脈の森は、80年代に最大の環境問題の一つであった酸性雨によってほとんど壊滅してしまい現在再生中だという話を聞いて、『キートン』を思い出したのだった。今でもチェコにファンの多いトラバントが出てきたけど、あれも排ガス規制なんてって時代のものだからなあ。
迷走した挙句に当初の予定からは全く違う内容になってしまった。これから書く明日の分、いや今日の分は最初書くはずだったことについて書く。
2月7日16時。
2017年01月30日
医学部の話、其の二(正月廿七日)
ふう、やっと追いついた。本来、毎日定期的に、一定の分量、一定の時間、文章を書く癖を付けるために始めた企画だったのに、日によって分量に大きな違いが出てしまっているのは問題である。時間のほうは、あまり変わらないと信じたい。いや、大抵はあまり変わらないのだが、時に遅れている文を取り戻すために、必死に長時間書き続けなければならないことがあるだけだ。ちょうど、足掛け三本目に入った今日のように。
さて、パラツキー大学の医学部で勉強する学生の話によると、医学部に入るためには日本で行われる入試に合格しなければならないらしい。毎年一回医学部の先生が日本に出向いて、英語で試験をして、その試験に合格した人だけが、大学で勉強することを許されるのである。希望者が全員、入学できるわけではないので、毎年の日本人の入学者の数は一定ではない。多い時で五、六人、少ないときは、一人か二人ということもあるようだ。
英語での入試を通り抜けているので、パラツキー大学の医学部で勉強している学生たちは、英語で授業が受けられる程度には英語が堪能である。一期生などは、最初が肝腎ということで、チェコに来る前に、アメリカで一年間の英語の研修を受けた上でチェコに来たほどである。もちろん、試験を受けるためにも、研修を受けるためにも仲介のエージェントにお金を払う必要があるだろうし、チェコ人とは違って勉強するための学費も毎年納める必要があるのだろうが、あれこれすべてあわせても日本の大学の医学部で勉強するよりははるかに安い金額で済むのだという。
そんな関門を潜り抜けてきた人たちが全員、問題なく進級できているのかというとそうでもなく、志半ばで諦めて日本に帰ってしまう人、試験にどうしても合格できずに放校になってしまう人もいるようだ。やはり、日本語で学んでも難しいことを、外国で外国語で勉強するというのは、生半な覚悟ではできないことだし、覚悟だけでまっとうできるような簡単なものでもないのだろう。一期生も三人か四人いたと思うのだが、現時点で卒業できたのは一人だけだと聞いているし。
一年目を乗り越えるのが一番大変らしいのだが、その際に一番大きな壁として立ちはだかる科目が、「アナトミエ」とチェコ語で言っていたから、「解剖学」ということになるのかな。『ターヘル・アナトミア』=『解体新書』への類想から、杉田玄白たちと同じような苦労をしているのだろうと、失礼ながら同情してしまう。玄白たちには、オランダ語ができる人もまともな辞書もなかったという苦労があったが、今の医学部生たちが学ぶべきことは、玄白の時代の何倍、何十倍にも及んでいるだろうし。
試験を乗り越え自費でお金を払ってまで、チェコに医学の勉強をしに来た学生たちは、いったいに勉強に対して非常に熱心である。ほとんど四六時中勉強しているので、先日行われた新年会のような集まりが企画されても、参加する人はほとんどいない。たまたま大切な試験に合格したばかりで、ちょっと休憩が必要だとか、試験には全部合格してしまったとか、そんな事情でもない限り、勉強が忙しいことを理由に、欠席する。これが、学生としての正しい姿である。エラスムスのプログラムでチェコに来ていた留学生たちに爪の垢をせんじて飲ませてやりたいほどである。
だから、チェコで、いや一般的に外国で医学を勉強しようという人たちは、みんなオロモウツの医学部にいる人たちのような人ばかりなのだろうと思い込んでいた。それが、先日ブルノの知り合いのところに出かけたときに、必ずしもそうではないことを知らされてびっくりしてしまった。最近、ブルのでは日本人の学生らしき人の姿が増えているらしいのだが、それに気づいてあちこち聞いて回ったところ、ブルノのマサリク大学の医学部でも日本人学生の受け入れが何年か前に始まっていたのだが、去年の九月には、何と廿人だか、卅人だかの日本人学生を受け入れたということがわかったのだという。
その中には、信じられないことに、普通に生活するためのコミュニケーションすら英語でとれない人も交じっているらしい。そんな状態で英語で医学の勉強をするために、大枚はたいてチェコまで来るというのだから、度胸があるというか何というか。医学の勉強を始める前に、英語の勉強をして来いよと思うのは不思議なことではあるまい。この辺りにも、日本でまかり通っている言葉なんてのは現地に行けば何とかなるという無責任きわまる言説が影を落としているのだろう。
百歩譲ってそれが真実であったとしても、チェコに来たところで英語がどうにかなるとは思えないし、言葉を何とかしながら、その言葉を使って高等教育を受けるのが至難の技どころではすまないというのは、多少の想像力があれば理解できるはずだ。チェコ語のサマースクールでさえ、英語で説明するクラスにいた人の中には、英語での説明が理解しきれずに苦しんでいる人は多かったのだ。いわんや医学をである。
いや、考えてみれば英語もろくにできない人が来ているということは、オロモウツの医学部とは違って選抜すらしていない可能性がある。希望するものは、すぐに挫折することがわかっていても、誰でも受け入れるというのは、大学と仲介業者に問題がある可能性がある。ブルノに長い知人の話ではマサリク大学はがめつく金儲けしか考えていないというから、数を集めようという大学側に日本の業者が巻き込まれた可能性もあるのかな。
噂では、親の反対を押し切ってブルノにやってきた子供を連れ戻しに親がやってきたなんて話もあるらしい。その無鉄砲さには拍手をしてもいいけど、ブルノにやってきた医学部の学生たちが、希望を失った後に、ごろつき外国人としてチェコに残ってチェコ社会に迷惑をかけたりしないように祈っておこう。現状では彼らが失敗したとしても自業自得しか言いようのない状態なので、頑張れと言う気にも、応援する気にもなれない。オロモウツの医学部生のように、頑張れなんて言われなくても頑張っているのなら応援する気にもなるが、ブルノからは今のところそんな話は聞こえてこない。
とまれ、どこで何を勉強するのであれ、勉強というものには大きな覚悟が必要だし、覚悟だけでどうにかなるというものでもないのである。特に外国で勉強しようという場合には。
1月27日23時30分。
2017年01月29日
医学部(正月廿六日)
オロモウツにあるパラツキー大学では、チェコ人だけではなくスロバキア人もたくさん勉強している。これは、チェコスロバキアが分離した際に、お互いの国民を自国民と同じように扱うという協定を結んだことによるらしい。つまり、チェコでは、チェコ人の学生が学費無料で勉強できるので、スロバキア人も無料で、スロバキアではスロバキア人が学費を払う必要があるので、チェコ人も学費を払わなければならないのである。その結果、チェコで大学教育を受けるスロバキア人の数は多いが逆は少ないということになっている。
パラツキー大学の外国人学生はスロバキア人だけではなく、世界各地から留学生がやってきている。この手のエラスムスだか何だかいう名称の留学プログラムでやってくる留学生の多くは、特に西ヨーロッパやアメリカから半年の予定で留学してくる連中の多くは、オロモウツで単位を取って帰る必要がなく、バカンス気分で来ているのが問題だとかつて師匠がぼやいていた。本人たちが遊びほうけておばかになっていくのはいいけど、英語を使いたくて仕方がないチェコ人学生がそれに巻き込まれて勉強しなくなるのが困るのだと。そう言えば、日本から来ていた留学生に、留学生との付き合いが忙しくて勉強する暇がないとぼやかれたことがある。そんな連中には、付き合わなければいいだけだろとは、言えたか言えなかったか覚えていない。
そんないい加減な留学生とは別に、本気で真面目に勉強している人たちもいる。それが、医学部で英語で医学を勉強している人たちである。共産主義の時代から、チェコスロバキアではアフリカやアラブ諸国などの医学教育のまだ発達していなかった地域からの留学生を受け入れていた。医学部の学生を主人公にした人気映画の主要登場人物にチェコ語がぺらぺらのアフリカ人が出てくるぐらいである。
我がチェコ語の師匠はかつて医学部で外国人学生のためにチェコ語を基礎から教える仕事をしていたので、この外国人向けのコースについて、いろいろ楽しい話を聞かせてもらったのだが、最も衝撃的で、最も共感できた話は、アフリカの熱帯地方から、九月にチェコにやってきて勉強を始めた学生の話である。
その学生は少しずつ寒くなっていくチェコの冬になれた頃に、クリスマス休暇でアフリカに一時帰国してしまった。ちょうどその年は、年内はそれほど雪が降らず、年が明けて急に冷え込んで大雪に襲われた年だったらしい。その学生が戻ってくる予定の日に、師匠のところに電話がかかってきた。
「先生、駄目です。私には耐えられそうにありません。国に帰ります」
アフリカの暑さに慣れた体でチェコの雪が降り積もり気温も氷点下から出てこない飛行場に到着した瞬間に、ここでは生きていけないと、こんな寒い国では生きていけないと確信してしまったらしい。それで、お世話になった師匠に電話をかけ、航空券を手配してそのままアフリカに帰ってしまったのだと、師匠はちょっとさびしそうに語ってくれた。例によって我がチェコ語のできの悪さによる補正が入っているかもしれないが、当時は厳しい冬が多かっただけに、心の底からこのアフリカの医学部生に共感してしまったのだった。今にして一年目の冬に日本に一時帰国しなくてよかったと思う。多分そこが頑張れるかどうかの分水嶺なのだ。チェコの嫌なところに慣れ始めた状態で母国の快適さを知ってしまうと、チェコに戻ってこられなくなる。いや、この断定はちょっと無理があるかな。
とまれ、この外国人向けの医学教育は現在も続いており、最近はアフリカよりもアジアから来る人が増えているようで、マレーシアだったか、シンガポールだったかでは、チェコの大学の医学部を卒業して医師免許を取れば、それがそのまま国内でも使える医師免許になるのだという。国内の医師免許に書き換えができるだったかもしれない。
シンガポール人やマレーシア人、中国人とはいっても台湾の人かな、に混じって日本人が勉強し始めたのは、すでに十年近く前のことになる。もともとはハンガリーの地方都市の大学と提携して、さまざまな理由で日本では医学部に通えなかった医師志望の学生たちにハンガリーで医学を学ぶ機会を与えていたエージェントがあって、そこがチェコにも学生を送り出すことにしようと決めて、選ばれたのがパラツキー大学だったと聞いている。
オロモウツで日本人の学生が医学の勉強を始めた当時、ハンガリーでは一期生がもうすぐ卒業という時期だったようだ。ハンガリーの医学部を卒業して医師資格を取った後、日本で医師になるために何をする必要があるのかがまだ明確になっていなかったらしく、チェコの大学を卒業して本当に日本で医者になれるのか不安だったと一期生から聞いたことがある。
その後、ハンガリーの大学の卒業者からは、無事に日本で医師になった人が出、パラツキー大学でもすでに二人卒業して、こちらの医師資格を取った人がいるらしい。ただ、日本で医師になるためには、改めて日本で国家医師試験に合格する必要があるのだという。
チェコで医師の資格を持っていれば、原則としてEU内であれば、問題なく医師として仕事ができるはずである。それが、チェコの医療制度の現状に飽き足らない若手医師たちが、こちらも医師不足らしいドイツに流出している理由の一つである。
そこで、疑問が一つ、そんな奇特な人がいるのかどうかは知らない。知らないけれども、仮にドイツや、イギリス、アメリカなどの日本では先進国だと思われている国のお医者さんが、日本で医師として働きたいと言い出した場合に、日本で国家試験を受けて医師免許を取ることを求めるのだろうか。もし、外国人医師には求めないというのであれば、外国で医学を修め医師となった日本人に対して、改めて医師試験を求めるのはどうなのだろうという気がしてしまう。他人の命を預かる仕事だけに、できるだけ慎重に、丁寧にというのは分かるのだけど。
またまた、枕にするつもりの部分が長くなりすぎて、ほとんど枕だけで終ってしまった。
1月27日16時30分。
2017年01月25日
診察料、あるいはポピュリズムの権化(正月廿二日)
チェコの健康保険制度は、原則的に診察料の加入者負担がないので、月々一定の保険料を払っていれば、何回病院に行ってもお金を払う必要はない。この手の手厚い医療制度は、共産主義時代の名残なのだろうか。その結果、健康保険のシステムは、国の支援、税金の投入なしには存続できないような状態になっており、病院の経営も悪化し、開業医は過労にあえいでいた。
そのかなり壊滅的だった状況を打開する最初の一歩として登場したのが、数年前の診察料の導入だった。基本的に市民民主党はまったく支持する気にはなれないのだが(他の政党がまともかと言われれば、目くそ鼻くそと答えるしかないのだけど)、このチェコには珍しい高く評価できる政策を国会で成立させたのは、市民民主党の党首が首班の政府であったと記憶する。
診察料といっても、日本のように二割負担とか三割負担というものではなく、医者にかかったときに、一律で三十コルナの支払いを求められるようになっただけだ。ただ、医者に行っても払う必要があるときとないときがあって、ある問題で最初に医者にかかったときには求められ、同じ問題で二回目の場合には払わなくてもいいという制度だっただろうか。他にも、救急車で運ばれた場合、つまり急患の場合には九十コルナ、入院の場合には一晩百コルナというものもあった。急患と入院は額が逆かもしれない。
一人当たりわずか三十コルナとはいえ、それまで保険会社に支払いを請求して支払われるのを待たなければいけなかったのが、診察直後に入って来るお金ができたことで、病院の経営の健全化に寄与し始めていた。また、診察料のおかげで、それまで大したことのない病気で、診察のためというよりは、半分世間話のために医者を訪れていた患者が、一気に減ったことで、一般の開業医に押し寄せる患者の数が減り、医者の仕事が多少楽になるとともに、保険会社が医者に支払う診療報酬も減り、赤字の削減にもつながったらしい。
保険無しで歯医者にかかって全額支払っても、日本で保険に入っていて支払う金額よりも安かったので、三十コルナの診察料を払うのには全く抵抗はなかった。逆にこんなに安くていいのかと言いたくなるぐらいだった。ただ、医者にかかるのにお金を払わないことに慣れたチェコ人には不評で、社会民主党や、共産党の国会議員たちが、撤廃を求めて法案を国会に提出したり、憲法裁判所に提訴したりするという不毛なことをしていた。
以前、腎臓結石で救急車で運ばれて、二泊ほど入院したときには、すでにこの診察料が導入されていたので、支払うことになった。支払う段になって、病院の人が信じられないことを言い出した。入院した病院のある南モラビア地方では、救急車で運ばれた分や入院の分も合わせて、この手の診察料は地方政府に負担を求めることができるというのだ。正直、何じゃそりゃである。
しかも、地方政府が負担する場合には、地方政府からの寄付を受け取るという書類にサインする必要があるという。書類手続きが発生するということは、その書類を処理する仕事が発生するということである。病院側でもお金を受け取って記録するだけだったのが、自分で支払った人、地方政府の寄付を受け入れた人と別々に処理し、寄付を受け取った人に関しては、いちいちサインを求め、サインされた書類を、地方政府の担当部署に送る必要があったはずである。地方政府の側でも、提出された書類をバインダーに挟んでおしまいというわけにはいかなかっただろう。地方政府の負担は、診察料だけではなかったのである。
これは、南モラビアや中央ボヘミアなどの、社会民主党の政治家が知事を務めていた一部の地方で導入された制度なのだが、社会民主党ではこれを地方議会の選挙で勝つための公約として掲げていたんじゃなかったか。選挙で訴えていたのは診察料を有名無実にするための別の方法で、選挙後それが法律上不可能だということがわかって、この制度になったのかもしれない。とまれ個人が払うべき診察料を地方政府が予算の中から負担するというのは、問題なかったのかね。
社会民主党の政治家たちが、財務大臣のバビシュを、ポピュリストだと批判するとき、いつもこの診察料のことを思い出して、お前らの言えることじゃねえだろうと考えてしまう。選挙に勝つために、せっかく健康保険がいい方向に回り始めていたのに、その原因となった制度を骨抜きにしようというのだから、これを人気取り政策と言わずして、何を言うのだろうか。バビシュが提言した生ビールの消費税率を下げようというのよりも悪辣で露骨なポピュリズムの発露である。
そして、社会民主党が中心となった連立政権が成立すると、真っ先にこの診察料の廃止が決められた。急患と入院時のどちらかは、今でも残っているかもしれないが、チェコの医療制度の状況が元の木阿弥に戻ってしまったことは否めない。
チェコの政党は、バビシュのANOはもちろん、共産党も含め、なべて選挙が近づくと有権者に媚び始めるポピュリズムに犯されているのである。政党間にあるのは程度と方向の差であって、それはもう五十歩百歩としか言いようがない。選挙という制度が、一種の人気投票である以上、人気取りに走ってしまうのは、仕方がない面はあるのだろうけど、だからこそ、選挙に負けた側が相手をポピュリズムという言葉で批判することの滑稽さが増幅されるような気がする。
えっ? 入院したときの診察料、どうしたかって? もちろん自腹で払ったに決まっている。高々三百コルナ、税金で面倒見てもらうほど落ちぶれた覚えはねえや。オロモウツ地方在住で、南モラビア地方の財政には全く貢献していないはずの人間が、もらっていいものでもなかろうということも考えたけどね。
1月23日23時30分。
2017年01月21日
スラブ叙事詩(正月十八日)
アールヌーボーの画家アルフォンス・ミュシャについては、知っている人が多いだろう。ミュシャがチェコ人でことを知っている人はかなり減るだろうし、チェコでの名字の発音が、むしろムハに近いこと、ムハがチェコに帰国した後に、「スラブ叙事詩」という巨大な連作を残していることを知る人となると、チェコファン、もしくはミュシャの愛好者ぐらいだといってもいいのではなかろうか。
そして、2011年以前に「スラブ叙事詩」の現物を目の前で見たことがある人となると、よほどのチェコファンでムハファンだけで、その数はぐっと少なくなるに違いない。2011年以降はプラハで展示されているので、以前に比べれば、はるかに見に行きやすくなっている。今年は日本に貸し出されることになっているらしいので、これまでの何倍もの数の日本の人が目にすることになりそうだ。
クルムロフというと、チェスキー・クルムロフを思い浮かべる人が多いだろうけど、ブデヨビツェと同じでモラビアにもある。わざわざチェスキーというボヘミアの地名であることを示す形容詞がついているのには理由があるのだ。モラフスキー・クルムロフは、ブルノの南西、ブルノとズノイモの中間辺りにある町である。鉄道で45分ぐらいだっただろうか。ちなみにボヘミアとは違って、クルムロフの方が東側にある。
このモラフスキー・クルムロフの城館を使って展示されていたのが、ムハの「スラブ叙事詩」なのである。壁画といいたくなるようなサイズの大作が廿枚にも及ぶので、いくつかの部屋に分けて展示されていた。ムハのことにも、「スラブ叙事詩」にもたいした知識はなく、壮大な作品とそのテーマ性に圧倒されていたような記憶がある。これ見て、ムハのファンになったといってもいいかもしれない。ただ、思い出せないのが、何でクルムロフまで出かけることになったんだかで、ガイドブックで見たのか、お城があるらしいというので出かけての僥倖だったのか。ともかく駅から城館のある町までかなり離れていて、痛む足を引きずって往復したのだった。
では、「スラブ叙事詩」が、モラフスキー・クルムロフで展示されていた理由はというと、よくわからない。わかっているのは、1950年代の後半に、額縁から外されて巻き取られ、プラハのどこかの小学校か何かの倉庫に放り込まれていたこの作品を、モラフスキー・クルムロフの人たちが、引き取りに出かけ、修復作業が終わった1963年から城館での展示が始まったということだけである。
ビロード革命後、「スラブ叙事詩」のおかげでモラフスキー・クルムロフが観光客を集めていることに目をつけた強欲プラハが、本来はプラハのものなのだから返せと言い出したことから、延々と続く裁判が始まった。
ムハ自身は、「スラブ叙事詩」をプラハ市に寄贈すると言っていたらしいので、プラハ市のプラハの所有物であるという主張は間違いではない。ただムハはプラハ市に寄贈するに際して条件をつけており、その条件、「スラブ叙事詩」を展示することを目的とした建物を建ててその中に展示することというのは、満たされていないので寄贈の契約は無効だと主張する人たちもいるのである。
その反プラハの筆頭ともいえるのが、アルフォンスの孫に当たるアメリカ国籍のジョン・ムハ氏である。ムハ氏としては、ムハとの約束を守ろうという意志も見せず、戦災を避けるためと称して倉庫に放り込み、戦後も全く関心を寄せようとしなかったプラハ市が、今更所有権を主張するのがゆるせないらしく、裁判でプラハの所有を認める判決が出てプラハで展示されるようになってからも、プラハの態度を批判し続け、モラフスキー・クルムロフに戻すことを主張し続けている。
ムハの遺族からの批判に、プラハ市側は、ムハからの寄贈ではなく、ムハのパトロンだったアメリカ人の実業家からの寄贈だと言うようになっている。「スラブ叙事詩」の制作期間中のムハの生活を支えたのがその実業家で、その代償に所有権を得たというのかなんなのかよくわからないのだけど、画家本人ではなく、支援者からの寄贈というのは納得のいかないところである。しかも、実業家本人は、支援したからこれが自分のものだとは思えないとか何とかいう証言を残しているらしいし。
今回、冒頭にも書いた「スラブ叙事詩」のアジアツアーが原因となって、新たな裁判をムハ氏が起こしたらしい。当初の計画では、日本のあとは、最近チェコが媚を売りまくっている中国にも貸し出される予定だったから、作品の損傷を危惧するのは当然だろう。日本に行くのもあの高温多湿な夏のことを考えると、決して絵のためにいいとは言えまい。
個人的には、「スラブ叙事詩」をプラハで展示する意味はないと思う。画家本人との約束を守らなかったプラハ市は、作品への権利を失ったと考えていいはずだ。さらにモラフスキー・クルムロフが再発見していなかったら、いつまで倉庫のこやしとなっていたかわからないのである。そう考えると、プラハ市の予算でモラフスキー・クルムロフの城館の改修をして、「スラブ叙事詩」専用の展示会場とするのが一番いい。それが、プラハ市が画家のムハに対してできる唯一の謝罪、誠意の見せ方ということになろう。プラハからモラフスキー・クルムロフへの日帰りツアーを実施すれば、プラハの宿泊客もそうは減るまい。
ついでに言えば、金稼ぎのために、「スラブ叙事詩」をアジアに出稼ぎに行かせるのにも反対である。普通の絵画であれば、損傷を避ける梱包のしかたもあるのだろうが、直径50センチのロールに巻き取るのが絵に損傷を与えないという保証はない。次に巻き取るのは、モラフスキー・クルムロフに返還されるときにしほしいものだ。日本の絵画ファン、ムハファンには申し訳ないけれども、最近日本でもはやり始めたらしいモラビアのワインを味わうついでに、モラフスキー・クルムロフまで足を延ばしてもらうことにしよう。それだけの甲斐はあるはずである。
それに、「スラブ叙事詩」というからには、スラブ世界の辺境、ドイツ化も激しかったボヘミアのプラハよりは、スラブ系の最古の国家が成立したモラビアに置くのが正しいというものであろう。
1月19日23時30分。