新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2017年09月01日
ドイツ騎士団(八月廿九日)
高校の世界史で勉強をした宗教騎士団というのは、キリスト教徒の狂気にまみれた十字軍の時代に起源をもつ。確か十字軍に従軍した騎士たちが建てた王国もあったのではなかったか。その行為、行動が騎士という言葉で呼ばれるのに値したかどうかはともかくとして。
イスラム側の反撃にあって次第に獲得した領土を奪回され、最終的には中東、パレスチナの地からキリスト教徒、少なくともキリスト教を信奉する軍事集団は追放されるのだが、騎士団は活動の拠点を、ヨーロッパ本土、地中海の島に移して存続する。
いわゆる三大騎士団というのは、14世紀に本拠地のあったフランスの国王に異端とされて弾圧され廃絶することになったテンプル騎士団と、ロードス島、マルタ島によってイスラムとの戦いを続け18世紀末まで存続したたヨハネ騎士団、それにバルト海沿岸に所領を獲得して同地のドイツ化に貢献したドイツ騎士団のことである。
このうち、テンプル騎士団と関係のある地が、南モラビアにいくつかあって、チェイコビツェでは、テンプル騎士団の名を冠したワインが生産されていることについては、すでにどこかで記したが、プラハにも活動の拠点を置いていたようである。
ヨハネ騎士団は、チェコの拠点が名前だけは現在でも存在し続けているようで、元外相のカレル・シュバルツェンベルク、ロプコビツ家のだれそれなど旧貴族系だけでなく、プラハの大司教を務めるドゥカなど教会関係者も、団員となっているようである。ただ、ナチスドイツの保護領時代、共産主義の時代を経て、名前が存続しているだけで、活動の実態はほとんどないと言ってもよさそうだ。
それに対して、ドイツ騎士団は、ヨーロッパに移ってからはバルト海沿岸のプロイセン(プロシア)に所領を得たのだが、ポーランドとの長きにわたる戦いにやぶれ、16世紀には世俗の公国となってしまう。この時代の出来事としては、モンゴル軍と戦ったワールシュタットの戦い、ポーランド・リトアニア連合と戦ったタンネンベルクの戦いあたりが有名であろうか。
しかし、これで騎士団の活動が停止したわけでも、騎士団の所領がすべて奪われてしまったわけでもない。宗教団体としての騎士団は神聖ローマ帝国各地に所領、資産を有しており、モラビアでも多くの城を所有していた。特に大戦間期には、オロモウツから鉄道でオパバに向かう途中にあるシレジア地方のブルンタールという町に本拠地が置かれていたらしい。ナチスの保護領の時代には資産を没収された上で、騎士団も解散させられていたわけだが、戦後すぐに活動を再開している。
共産主義政権が成立した1948年からは、本部をウィーンに移して活動を続けている。チェコにはビロード革命の後に改めて支部が置かれ、本部はシレジアのオパバに置かれている。チェコ国内での活動はの一つが教育で、オロモウツにはドイツ騎士団の名前を冠したギムナジウムがある。もともとは革命後の1991年に私立のギムナジウムとして設立されたものを、2007年にドイツ騎士団が買い取って運営している。場所はテレジア門の近く、地ビールの飲み屋モリツの隣の建物である。
ドイツ騎士団がモラビアに所有していたものとしては、本拠地であったブルンタールの城館をはじめ、ボウゾフ城、ソビネツ城などがある。ブルンタールの城館は正面から見ると普通の立派な建物なのだが、上から見ると普通の城館が四角形であるのに対して、ここのは三角形、いや扇形をしている。展示物の写真なんかはこちらのページからちょっと見られるようである。
http://www.mubr.cz/zamek/index.htm
ソビネツは、シュテルンベルクから北に上っていったところの山の上にそびえるお城である。第二次世界大戦中は、捕虜収容所として使われていたとか、SSの部隊が駐屯していたとか言う話もあるけれども、戦争末期に火事で大きな被害を受け、共産主義の時代にはあまり改修もされずにほとんど放置されていたのを、革命後少しずつ改修を進めてきたようだ。写真を見ると以前出かけたときよりも屋根のある建物が増えている。
http://www.hradsovinec.cz/
ボウゾフについては以前も書いたけれども、チェコで最も美しいお城の一つである。現在の姿を与えたのはドイツ騎士団の総長だったハプスブルク家のエフジェン(ドイツ語だとオイゲン?)である。だからと言ってドイツ騎士団が求める資産の返還には応じる必要はなかろう。ボウゾフ城のページは前の二つよりも力が入っているように見える。
https://www.hrad-bouzov.cz/cs
またなんかぐだぐだで終わってしまった。うーん。
8月31日22時。
出かけるお城を探すにはこのページもいいかもしれない。
https://www.klickpamatkam.cz/#/seznamPamatek
2017年08月31日
カレル・クリルの名曲、もしくは曲名(八月廿八日)
カレル・クリルについてふれた記事にコメントをいただいた。文字化けしてちょっと読めないところもあるけれども、クリルの代表作と言ってもいい名曲「Bratříčku, zavírej vrátka」について書かれている。内容から言うとチェコ語を勉強、しかも結構上級レベルまで勉強されている方のようである。例によって、コメントに返事する代わりに一本新しい記事を書くことにする。
件の「Bratříčku, zavírej vrátka」は、曲名であると同時に、クリルがチェコスロバキアで発表した唯一のアルバムのタイトルにもなっている。アルバムの発売は、プラハの春の翌年1969年の春、だが、録音されたのは67年から68年にかけてのことである。クリルはこのアルバムが発売されて半年ほど後、同年の9月に西ドイツに亡命している。正確には西ドイツの音楽フェスティバルに出かけてそのまま帰国しなかった、もしくはできなかったというのが正しいか。
さて、題名をチェコ語を学んだ人間の観点から見てみると、「Bratříčku」は、兄弟を表す「bratr」の指小形「bratříček」の五格、つまり呼びかけの形である。指小形だから「弟よ」と訳してもいいかもしれない。ちょっと与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」を思い出してしまうが、晶子の弟は本当の弟に対する呼びかけだったが、クリルの弟は、恐らくこの曲を聞く人たち、1968年8月21日の夜に恐怖に震えていた人たち全てに対する呼びかけである。
だから、ここで「bratře」でも、口語的表現の「brácho」でもなく、「bratříčku」が使われているのは、小さき幼き者たちだけではなく、か弱き力なき者たちに対する呼びかけでもあるからだろう。あの夜、ソ連軍の戦車に追い回されて逃げ惑った人、そしてひき殺されてしまった人も多いのである。抵抗することすら許されずに死んでいった人たちに対する悼みが「bratříčku」に込められていると読むのはうがちすぎだろうか。
「zavírej」は、不完了態の動詞「zavírat」の二人称単数の命令形である。一般に「ドアを閉めろ」と命令するときには、一度閉めるだけで十分であることから、完了態の「zavřít」の命令形を使うことが多いのだが、ここは「vrátka」、つまり門扉を一回閉めておしまいではない。外を我がもの顔に徘徊している軍人たちが、入ってこないように閉め続けている必要があるのである。だから不完了態の命令形が使われているのだと推測しておく。
歌詞については、全曲引用すると著作権上の問題もあるだろうから、引用も翻訳もしないけれども、咽び泣く者に泣くなと呼びかけるところから始まって、門を閉めておけと繰り返して終わる。途中で、ソ連兵をお化けや狼に見立て、チェコ人を羊に見立てるところもある。特に「雨降り、外は闇に覆われ」と歌う部分は、当時のチェコの人たちの絶望を物語るものとして胸を打つ。「曲がりくねって続く道」で「この夜はすぐには終わらない」のである。
この「プラハの春」以後の正常化の時代を予見するかのような歌詞に、暗闇の中にいた人々の心は勇気づけられたのだろうか。反面、89年の民主化以後の狂躁的ともいうべき明るさにはそぐわなそうである。つらいときに勇気付けてくれた曲だからといって、いつでも、どんなときにでも聞きたくなるというわけでもない。
チェコ語の歌詞を確認するならこちらを。
http://www.karaoketexty.cz/texty-pisni/kryl-karel/bratricku-zavirej-vratka-8320
カラオケってのもチェコ語で外来語として使われているのかねえ。カラオケボックスは見たことないけど、飲み屋で今日はカラオケなんてことが書かれているのは見たことがある。チェコ人楽器ができる人が多いからカラオケなんていらないような気もするんだけどねえ。
8月29日23時。
2017年08月29日
チェコとスロバキア(八月廿六日)
チェコとスロバキアの現代史において、8月というのはこと多き月である。ひとつには、高揚する「プラハの春」と、それに対するワルシャワ条約機構軍によるチェコスロバキア侵攻が起こり、もう一つは、1992年、ビロード革命後三年を経て後、チェコスロバキアの分裂が決定した月でもある。
当時のチェコスロバキアは、チェコとスロバキアという二つの国からなる連邦国家として存在していた。これは確か「プラハの春」の後の所謂正常化の時代に、スロバキア出身のフサーク大統領の主導で実現したのだったと思う。スロバキア人にしてみれば、1918年の第一共和国独立時のマサリク大統領の約束がついに実現されたということになるのだろうか。
それがビロード革命後の民主化の中で、両国の利害が一致しなくなり、急進的な経済改革を求めるチェコ側にたいするスロバキア側の反発もあって、1992年7月にはスロバキアの議会で連邦の解消と独立を求める決議がなされた。ここまでは、多分、ちゃんと必要な政治的な手続きを経た上での分離への手続きだったのだと思う。それがスロバキア側からの一方的なものであったにしても。
その後、連邦のバーツラフ・ハベル大統領が辞任し、8月の下旬に入って、チェコの(連邦政府のではない)首相だったバーツラフ・クラウス氏と、スロバキアの首相だったブラディミール・メチアル氏の間で条件交渉が始まる。二人の間ではすでに7月初めの交渉で分離自体については合意に達していたらしい。問題はこの交渉が、連邦政府を排して、チェコ側とスロバキア側だけで、しかも当事者二人だけの秘密会談で進められたことである。
チェコとスロバキアが分離したのは、ある意味歴史的な必然だったのだと当時のことを評価する人たちでも、その分離の進め方に対しては強く批判する人たちが多い。それは、二人の首相の密談ですべてが決められてしまったという部分が大きいのだろう。連邦政府をカヤの外に置いてのチェコ首相とスロバキア首相の合意が、当時の法制的にどんな意味を持てたのかも気になるけれども、この二人の会談で、分離の条件が合意され、署名がなされたことでチェコとスロバキアの分離独立は確定した。合意に達したのが今からちょうど25年前の1992年8月26日のことで、二つの独立した共和国としてのスタートは翌1993年1月1日であった。
この二人の秘密交渉が行われたのが、ブルノの世界遺産になってしまったトゥーゲントハット邸である。この建築物が、確かに近代建築の傑作であるのはその通りだろうけれども、このチェコとスロバキアの分離に関する会談が行われたという歴史的な事実が存在しなかった場合に、世界遺産として認定されたかどうかは確信を持てない。
このトゥーゲントハット邸の庭の木陰で、多分休憩時間にだろうけれども、テーブルについて談笑するクラウス氏とメチアル氏の姿が撮影され、その写真がしばしばこのときの交渉を象徴するものとして使われている。写真をさがしてリンクしようと思ったのだけど、ちょっと急ぎでは見つけられなかった。
クラウス氏は、その後独立したチェコ共和国の初代首相となり、90年代から2000年代にかけてのチェコ政界を主導していくのは周知のことである。強引なまでの民営化と、友人知人への優遇には批判も集まるし、現在のチェコ人の資産家の大半は、クラウス氏の考え出したクーポン式民営化を活用、ときに悪用して資産を築いた人たちである。
メチアル氏のほうも、スロバキア共和国の首相として政界に君臨したが、民主化されたスロバキアの政界の負の面を象徴する人物だと考えられている。一番大きな問題は、首相在任時に、コバーチ大統領の息子を軍の情報部に命じて誘拐させようとしたという疑惑である。この疑惑は、その後の大統領選挙で大統領が選出されず再投票が行われることになり、大統領不在が不在となった時期に首相として大統領の権限を代行していたメチアル氏が、この事件の関係者全てに恩赦を与え警察の捜査を停止させてしまったことで、闇に葬られてしまった。今でもこの事件の再捜査を求めた動きはあるようだが、実現は難しそうである。
チェコ側でもスロバキア側でも、毀誉褒貶のある二人の人物によって主導されたチェコとスロバキアの分離は、結果だけは悪くなかったというのが現在の評価だろうか。個人的には、ユーゴスラビアと並んで、チェコスロバキアという国名には思い入れがあるのだけど、分離してしまったから思い入れがあるのか、こちらが思い入れがあるような国は最初から分離への傾向をはらんでいたのか、悩ましいところである。
8月27日18時。
2017年08月24日
八月廿一日(八月廿一日)
久しぶりに日付のネタであるけれども、この8月21日という日付は、チェコ人にとって、チェコの歴史にとって、日本の8月6日、9日、もしくは15日と同じような意味を持つ日である。
1968年のプラハの春と呼ばれた社会主義内部における改革運動については、「人間の顔をした社会主義」というスローガンと共に日本でもよく知られていることだろう。少なくとも30年ほど前の高校の世界史で勉強したのは確実なので、同世代の人たちは知っているはずである。
そして、プラハの春が、行き過ぎた民主化をとがめられ、ワルシャワ条約機構加盟国の軍隊の侵攻によって強制的に終了させられたことも知っているだろう。そのソ連軍を筆頭に、ポーランドや東ドイツなどの軍隊が、チェコスロバキアの国境を越えて侵攻してきたのが、8月21日なのである。この時期に大学生だったという知人は、プラハの春の支援ということで募金活動をしたことがあるなんて言っていたけれども、誰にどうやって集めたお金を送ったのだろうか。
とまれ、毎年この日になると、当時の出来事を振り返るニュースが放送され、関連する番組も放送される。今年はチェコ人の間にカルト的な人気を誇る映画「ペリーシュキ」がチェコテレビ1で放送された。この映画は、プラハの春で多少緩和された雰囲気のなかで始まり、ワルシャワ条約機構軍の侵攻によってプラハの春の試みが完全に終結した荒んだ雰囲気の中で終わる。誰が主人公なのかははっきりとしないけれども、共産主義を支持する側の人物も、反対する側の人物も出てくる。最後に、支持者は共産主義に絶望して自殺未遂を起こし、反対者はイギリスに旅行に出たまま帰国できなくなる。
問題は、登場人物のほとんどが、共産主義を支持する人物も、反共産主義の人物も含めて、みんなエキセントリックであるところである。比較的まともに見えるのがボレク・ポリーフカ演じる人物なのだから。まあ登場するのが変人ばかりってのはチェコの映画の特徴といえばその通りなのだけど、この映画はそんなチェコ映画の中でも、変人の度合いが高いのである。だから、大部分のチェコ人は大絶賛するけれども、奇矯にすぎると嫌うチェコ人も一部いるのである。
個人的には、登場人物の奇矯さも含めて全体的に作られたあざとさが感じられてあまり好きではないのだけど、チェコ人の中には登場する特徴的な台詞を覚えていて、突然引用したりする奴らがいる。そんなのまチェコ人同士でやるべきことであって、外国人を巻き込むなと言いたくなる。突然「ニョッキ」と「クネドリーチキ」の違いを語られても反応のしようがない。
その「ペリーシュキ」でBGMとして耳に残るのは、オリンピックというチェコ的には超有名なバンドの曲なんだけど、1968年のプラハの春を象徴する歌手と言ったら亡命を余儀なくされたカレル・クリルだろうと言いたくなる。「ペリーシュキ」のようなコメディにクリルが合わないのは確かにその通りだし、クリルはプラハの春そのものよりも、その後のソ連軍への抵抗のシンボルだと言ったほうが正しい。
そんなことを考えていたら、「ペリーシュキ」が終わるぐらいの時間から、チェコテレビの芸術系チャンネルのアートで、1989年の革命直後の12月にオストラバで開催されたカレル・クリルと、ヤロミール・ノハビツァのコンサートの様子を収めたドキュメンタリー番組が放送された。同じようなフォーク系の歌手であるオストラバ出身のノハビツァの招待でオストラバでのコンサートが実現したのだろうか。
印象的だったのは、観客の多くが、クリルが歌うのに合わせて一緒に歌っていたことだ。歌わない人々も集中して歌に聞き入っており、現在のコンサートの聴衆とは一線を画しているように思われた。亡命したクリルの歌は、亡命以前に発表されたものも、いわゆる正常化の時代には禁じられていたはずだし、亡命後にドイツで発表した曲がチェコスロバキア国内で販売されたとも思えない。それなのに、ビロード革命直後に帰国したばかりのクリルの歌をこれだけの人が、一緒に歌えるレベルで知っていたというのは、奇跡的なことのように思える。それだけ、地下の抵抗運動というものが盛んだったことを示しているのだろう。
こういう番組の流れを見ていると、それだけではないけれども、チェコ人の歴史意識の中に、ビロード革命を、プラハの春に直結させる考えがあるように見えてくる。68年のソ連軍の侵攻と、その後の駐屯、正常化の時代がなければ……というのは誰しも考えることなのだろう。そして、その意識が強くなりすぎると、1968年から89年の出来事をなかったことにしてしまうことになりかねない。それが、オリンピックなんかよりも遥に伝説と呼ぶにふさわしいカレル・クリルの曲を聴く機会があまりない理由かもしれないなんてことを考えてしまった。
8月23日18時。
またまたどうでもいい話になってしまった。8月23日追記。
2017年08月18日
オストラバ!!!、あるいは境界上の町(八月十五日)
チェコ第三の大都市でモラビアとシレジアの歴史的な境界に発展したこの町は、いつの頃からか名称の末尾に「!!!」をつけたものを、ロゴとして使い始めた。サッカーのバニーク・オストラバのユニフォームの前面に「!!!」と入っているのも、オストラバの町がスポンサーとして支援していることを示しているのである。
さて、モラビアとシレジアの境界というのがわかりにくいかもしれないので、もう少し詳しく説明してみよう。オロモウツからオストラバに向かう鉄道に乗ってフラニツェ・ナ・モラビェのあたりまでは、モラバ川の支流のベチバ川の流域なのだが、フラニツェを過ぎるとすぐにオドラ川(オーデル川)の流域に入る。ちなみにこのモラバ川とオドラ川の流域を分ける分水嶺は、ヨーロッパで最も低い分水嶺になるのだという。
このオドラ川が最初のモラビアとシレジアの境界である。オドラ川よりも南側がモラビアで、北側がシレジアになる。鉄道では、フラニツェの次の特急の停車駅スフドル・ナド・オドロウの手前で、オドラ川を越えるので、そこからシレジア領内を走ることになる。ストゥデーンカを経てオストラバ市内に入るのだが、オストラバ・スビノフの駅まではシレジアである。ただしこのスビノフのあたりは、後にオストラバに併合された地域なので、本来のスレスカー・オストラバではない。
スビノフを出ると、すぐにオドラ川を越えるから、モラビアに戻ってきたことになる。鉄道の駅で言えば、中央駅はモラビアにあるのである。そこからさらにボフミーンのほうに向かうと、オドラ川の支流のオストラビツェ川を越えることになるが、このオストラビツェ川が次のモラビアとシレジアの境界である。オストラビツェ川の東岸を上流のほうに向かったところにあるのが、本来のシレジアのオストラバ、スレスカー・オストラバということになる。
つまり北東に流れるオドラ川と北に流れるオストラビツェ川にはさまれた部分はモラビアで、オストラバの中でもモラフスカー・オストラバは、モラビア領がシレジア領に突き出した角の先端部分に当たるわけである。
二つのオストラバを合併させて一つの大きなオストラバを作り出そうという考えは、第一共和国時代の1920年代に誕生したらしいが、実現したのはナチスの占領時代のことで、ボヘミア・モラビア保護領下にあったモラフスカー・オストラバと、ドイツに併合されたズデーテンランドのスレスカー・オストラバと他のいくつかの町が合併して今のオストラバに近い大きな町が誕生したのだという。その大オストラバともいうべき町が、ドイツ領になったのか保護領の町になったのか気になるところである。
オストラバと同様に境界線上にある町を紹介しておくと、まずオストラバからはオトラビツェ川の上流に当たるフリーデク・ミーステクがある。オストラビツェ川の東岸つまりシレジアにできたフリーデクと、川を挟んで西岸のモラビアにできたミーステクが、保護領時代の1943年合併して出来上がったのがこの町である。
だから、オストラバの中央駅からフリーデク・ミーステクのほうに南下していく鉄道も、オストラビツェ川の西を走っている間はモラビアで、川を渡って東岸に移るとシレジアを走ることになるのである。フリーデク・ミーステクの駅はフリーデクにあるし。
これをややこしいとは言う勿れ。まだこの鉄道は、同じ国の中の別の歴史的領地の境界を出入りしていただけだから、そんなに大きな問題はなかったのだ。北ボヘミアや西ボヘミアには、ドイツとチェコの国境を出入りしながら走っている路線もある。チェコがEUに加盟し、シェンゲン圏に入ったことで、チェコスロバキア第一共和国が成立する前の鉄道が敷設されたころの目的を果たせるようになったというところだろうか。
それから、以前博物館で、モラフスカー・オストラバとスレスカー・オストラバについて質問したときに、一つの町が二つの領土に分かれる例として挙げられたチェスキー・チェシーンの場合は、反対でもともと、ポーランド側のチェシーンと合わせてチェシーンという一つの町だったのが、第一次世界大戦後のチェコスロバキア独立に際して、ポーランド領とチェコスロバキア領に分割されたために誕生した町である。国境として設定されたオルシェ川より北側はポーランド領のチェシーンで、南側はチェコスロバキア領のチェスキー・チェシーンということにされたのである。
だから、チェスキー・クルムロフや、チェスカー・トシェボバーにつく形容詞チェスキーは、ボヘミア、チェコ語でチェヒの領内にある町であることを示しているけれども、チェスキー・チェシーンのチェスキーは、ボヘミアではなくチェコスロバキアの町であることを示しているということになる。ややこしい話である。
もう一つのチェコ国内の歴史的境界、ボヘミアとモラビアの境界線上にあるのが、以前もちょっと触れたことがあるが、イフラバである。イフラバの町はオストラバなどとは違って、境界の両側ではなく、モラビア側にだけ広がっている。言ってみれば、ボヘミアからモラビアに入るための門、もしくは玄関に当たるのがイフラバの町だったのである。
とはいえ、イフラバは銀の採掘によって発展した町なので、実は、銀の鉱脈が境界のモラビア側にしかなかったというのが、モラビア側に町ができた理由なのかもしれない。イフラバといえば、グスタフ・マーラーの出身地が近くにあるはずなのだが、ボヘミアだったのだろうか、モラビアだったのだろうか。
国境の両側に広がった町は、探せば他にも出てくるだろう。その町が、もともと一つだったのが分断されたのか、最初から両側に町が広がったのか、さまざまな歴史的な経緯があることが予想される。ヨーロッパでは、国民国家というものが誕生して領邦の境界よりも、国境というものが重要視されるようになってからでも、何度も国境線の変更が行なわれているのだ。ここに挙げたチェコの町よりもさらに複雑な歴史を経た町もあるに違いない。それはもう我が手には負えないと言うことで今日はここまで。
オストラバだけの話じゃなくなったから、副題つけとこ。
8月16日22時。
2017年08月12日
2002年洪水の思い出(八月九日)
2002年の洪水が起こったとき、たしか三回目のチェコ語のサマースクールに参加しているところだった。まだ大学の寮に住んでいて、テレビで毎日ニュースを見るような生活はしていなかったので、どんな激しい雨が降っているのかは確認できなかったけれども、毎日買っていた新聞の記事で読む限り、それほど降水量が多いわけでもないのにと不思議な気がしたのは覚えている。
師匠は授業中に1997年のモラビアの大洪水の際にどのぐらい水が上がってきたかとか、どんな被害があったとかいう話をしてくれた。ただ、モラビアの側でそれほど激しい雨が降っていたわけでもなかったので、どこか他人事のように感じていた。
洪水が引いた後の新聞では、洪水で被害が出たことを知らないままチェコにやってきた観光客たちが、途方に暮れている写真がしばしば載せられていた。一番記憶に残っているのは、プラハを除けばチェコ最大の観光地になってしまったチェスキー・クルムロフが、あそこはブルタバ川が旧市街を囲むように蛇行しているので、洪水で大きな被害を受けたのだが、それを知らずに、復旧された鉄道を使ったのか、訪れた観光客が街の惨状に声を無くして立ち竦むさまが収められた写真である。
カメラとガイドブックを手にしたアジア系の観光客は、当時はまだ韓国でのプラハブームも、中国人の金満化も始まっていなかったので、日本人だったに違いない。城のほうは高台にあるのでそれほど大きな被害は出ていなかったと記憶するが、閉鎖されていなかったかどうかの確信はない。
現在であれば、ネットを使ったり、観光案内所や鉄道の駅などで広報したりして、洪水の被害が出た地域に、それを知らない観光客がやってくるのを防ぐすべはあるのだろうけど、当時はそこまでの体制はできていなかったし、洪水後の復旧で情報を拡散するどころではなかったのだろう。いや、ボヘミアで洪水が起こって大きな被害が出ていることは、世界中に知られていたわけだから、それからわずか一週間、二週間後にやってくる観光客がいるとも思わなかったのかもしれない。こういう災害が起こると、直接被害は受けていなくてもホテルなんかにはキャンセルの波が押し寄せるものだしさ。
貧乏性の日本人としては、せっかくヨーロッパまで、チェコまで来たんだから、だめもとで行って見ようなんて気持ちも理解できなくはないんだけど、だめもとでどうにかなるような被害ではなかったのだ。むしろチェスキー・クルムロフまでたどり着けたのが奇跡的だったといってもいい。
それから、当時オロモウツでチェコ語の勉強をしていたもう一人の日本人が、ビザの延長手続きのために請求したチェコの無犯罪証明書が洪水のために届かなかったのを覚えている。今は、各地の郵便局にあるチェックポイントという公式の書類をあれこれ発行してくれる場所に行けば、すぐに手に入る無犯罪証明書も、当時は市庁舎の公証人役場か、検察の支局の建物に出向いて申請し、一週間ほど郵送されてくるのを待たなければならなかった。申請書はプラハの担当部署に送られ、そこで処理さてたものが郵送で返送されてきていたのだ。
だから、ビザの延長の申請をする場合には、余裕を持って無犯罪証明書の請求をしておく必要があったのだ。友人も十分以上の時間の余裕を持って申請していたのだが、プラハで処理される時期にちょうど洪水が起こってしまって、待てども待てども手元に届かず、洪水のどさくさで申請書がなくなってしまったと判断せざるを得なかった。そう判断したときには、再度請求したのではビザの申請に間に合わない時期になってしまっていた。請求したところで、プラハの担当部署が機能している補償もなかったし。
友人はビザの延長の申請も、新規の申請も諦め、ビザなし滞在の期限が切れる三ヶ月に一回、チェコの外に出て再入国するという生活を始めた。当時はまだEUにもシェンゲン圏にも入る前のいい時代だったのだよ。厳密に計算すると90日を一日越えていても、見逃してもらえたと言っていたこともあるし、最初は出国して一泊してから再入国していたけど、最後のほうはその日のうちに戻ってきたなんてこともあったんじゃなかったかな。結局そんな生活を一年ぐらい続けたところで、日本に帰国し、それ以来会っていないんだけど
シェンゲン圏に入って以来、出国のスタンプをもらうためには遠くまで出かけなければならなくなり、ビザなしの滞在も一度外に出れば、リセットされてまた90日滞在できるという便利なものではなくなり、直前の180日のうち90日までは滞在できるという不便でよくわからないものになってしまった。
1989年のビロード革命のきっかけとなった学生デモを組織した当時の学生活動家が、国会議員になっていて、この洪水の際に醜態をさらしたというのもあった。洪水でプラハ市内の自宅が壊滅的な被害を受けたのだが、保険に入っていなかったらしい。それで、国会の演説で延々自分の窮状を訴えて、国費による救済を求めて顰蹙を買っていた。
革命家的な資質のある人間は現実の政治家には向かないということだな。いや、全うな生活能力が欠如しているのが革命家というものなのだ。日本でも学生活動家の成れの果てなんてこんなもんだろうし。
知り合いの中には、2002年の洪水の際にプラハに滞在していて、ホテルを移らされたとか、帰国の飛行機に乗れるのか心配だったとか言う人もいるのだが、モラビアにいた人間には、直接の影響はほとんどなく、覚えているのもしょうもないことばかりである。
8月10日22時。
2017年08月11日
2002年のボヘミア大洪水(八月八日)
7月の初めは、1997年の洪水から20年目ということで、ニュースで当時の様子がひんぱんに取り上げられていたが、8月は2002年のボヘミアを襲った洪水から15年目に当たる。ブルタバ川が氾濫しプラハの旧市街、地下鉄などに大きな被害を与えたために、被害額で言えば、1997年の洪水を大きく上回ったらしい。
南モラビアのブルタバ川の上流とその支流で水位が上がり水があふれ始めたのが2002年8月8日のことだった。8月6日に、南ボヘミアや西ボヘミアで降り始めた雨が3日にわたって降り続け、特に南ボヘミアの小河川が洪水を起こしたという。チェスケー・ブデヨビツェを流れるブルタバ川の支流マルシェ川があふれて、町の中心の広場の近くまで水が押し寄せたのが特筆される。
このときの三日間の降水量はせいぜい200mmほどで、日本であれば梅雨の時期など普通に一日で降ってもおかしくない量なのだが、これで50年に一度レベルの洪水が起こってしまうのが、チェコの普段の降水量なのだ。そのレベルでの洪水対策なので、日本に慣れた目から見るとこの程度で洪水が起こるんだと不思議に思えるほどだった。
洪水の被害が大きくなる原因としては、ボヘミアを流れるのは、ラベ川という大河の支流で、流域面積が広いため、広範に降った雨がブルタバ川やベロウンカ川、そして本流のラベ川に集中するからというのも考えられる。それに日本の川と比べると流れが緩やかなために、水がなかなか流れて以下ないと言う面もあるだろうか。一番の問題が河川沿いに堤防はおろか、川原や河川敷のような増水を引き受けられるような余剰の空間がないことであるのは言うまでもないが。
ブルタバ川上流には、洪水対策として、最上流で最大のリプノダムをはじめ、いくつものダムが建設されていて、カスケードと呼ばれるまでになっている。この8月初旬の洪水の第一波に際しては、放流の量を調整することで、下流のプラハなどでは大きな被害をもたらすのを防げていた。9日には一度雨がやみ河川の水量は減少を始めたらしい。
これで終わっていればよかったのだが、11日には再び雨が降り始め、すでに容量が限界に近づいていたダムでは、決壊を防ぐために放流量を増やすしかなく、流出河川を持たない南ボヘミアのトシェボーニュの近くに多い、養殖のための池では周囲の堤防が決壊して水が溢れ出すところが出始めていた。洪水の第二波が始まったのである。
12日には、ボヘミア各地で洪水が発生し、政府が緊急事態警報を発するほどであった。13日には、プラハでブルタバ川沿いの旧市街で電気の供給が止まった。この時点で確か、プラハ市長はまだプラハは大丈夫だとか、地下鉄は安全だとか言っていたのかな。
それが14日になると、地下鉄の防水システムの不備もあって、特に中心部の駅が完全に水没して使い物にならなくなった。有名なのはフローレンツ駅に停車していた2編成の車両で、水が引いた後一年半以上の時間をかけて修復が行なわれ、現在でも運行されている。先頭の車両の一番前の部分の側面に青い色で水が波打つのを象徴するような二本の線が描かれているから、見ればわかるらしい。
地下鉄が水没するぐらいだから、ブルタバ川沿いのプラハの中心部はほぼ全域水没し、トロヤの動物園が水没したのもこの日だっただろうか。動物園から濁流に乗って逃走し、ドイツにまでたどり着いたガストン君は、プラハに帰って来る途中で力尽きて死んでしまったのだった。
プラハ市ではこの洪水以来、莫大な予算をつぎ込んで洪水対策を行なっているが、トロヤ地区だけはまだ対策が済んでいないらしい。動物園だけではなく結構立派で観光名所になっている城館も残っているから、何とかしてほしいものである。
プラハよりも下流でも洪水が起こるようになり、ウスティー・ナド・ラベムでは、川の両岸に広がる町をつないでいる橋が通行できなくなり、どちらかの側が道路も鉄道も分断されて、出入りのできない状態で取り残されたんじゃなかったかな。15日には、ネラトビツェにある化学工場が洪水に襲われ、塩素が流出するという事故が起こるなど、洪水の中心は、ブルタバ川流域から本流のラべ川流域に移り、フジェンスコを襲って、ドイツに抜けた。
フジェンスコはラべ川がドイツに抜けるところにある国境の町で、支流のカメニツェ川がラべ川に注ぎ込む合流点からカメニツェ川の峡谷に沿って発展した町で、ラべ川の対岸はすでにドイツ領である。夏場の観光シーズンは船で峡谷下りをする人たちでにぎわうのだが、このときをはじめ何度も洪水に襲われ、そのたびに大きな被害を出しているが、山が川の両岸に迫っているという町の立地的に有効な洪水対策をとれないようである。
他にも西ボヘミアのプルゼニュを通って蛇行しながら東流するラべ川の支流ベロウンカ川も各地で洪水の被害を起こしていたし、南モラビアの一番南、ズノイモの辺りを流れるドナウ川の支流ディエ川も大きな被害を出すなど、ボヘミアのほぼ全域とモラビアの一部に大きな傷跡を残した。
結局、このときの洪水では、17人の人がなくなり、20万人を超える人々が避難を余儀なくされ、700億コルナ以上の被害を被ったらしい。詳しい報告書はここにあるけど、さすがにこれをチェコ語で読む気にはならんなあ。
8月9日23時。
2017年08月09日
アフリカ豚コレラ続報(八月六日)
ズリーン地方のイノシシの間で猛威を振るっているアフリカ豚コレラは、終息の気配はまだ見えない。次々に死んだイノシシが発見され、病気に感染していることが確認されている。その数はすでに三桁に近づきつつある。人間には感染しないい言う話ではあるけれども、あまり気持ちのいいものではない。
ただ、ズリーン、スルショビツェを中心とした周囲40kmほどの地域に押さえ込むことには成功しているようである。最初は使い捨てのプラスチックのコップにイノシシが嫌う忌避物質を樹脂の泡に混ぜて封入したものを、地面に一定の間隔で置いていくことで、汚染地帯からのイノシシの移動を防ごうとしていた。保健所の命令でこの作業を暑い中させられていたのは、猟師の人たちだった。
チェコ全土で始まったイノシシの数を減らすための狩りは、ズリーンに隣接する地域で最も重点的に行なわれており、クロムニェジーシュ、ウヘルスケー・フラディシュテェ地区だけであわせて千頭ほどのイノシシが殺された。現時点では狩りで殺されたイノシシの中には病気の固体は発見されていないという。
病気でないことが確認されたイノシシは、その後どこかで食卓に上ったものと信じたい。チェコで野生の動物の肉が食卓に上るのは、普通は秋の狩猟が解禁される時期になってからである。チェコ料理のレストランの中には、毎年シーズン中に「ズビェジノベー・ホディ(野生動物の肉感謝祭)」と題して、普段はメニューに載らないイノシシやシカ、カモなどの肉を使った特別料理を提供するところもある。時期はレストランによって多少前後するが、期間は一週間だけというのが相場である。知らないと逃してしまうので、野生の動物の肉が好きな人は、10月、11月ぐらいになったら探してみるといいかもしれない。
それはともかく、今回の狩猟で得られたイノシシの肉が市場に流れるようだったら、季節はずれの「ズビェジノベー・ホディ」なんてことになるかもしれない。いや、この夏の暑さを考えると、保存して秋に放出ということになるかな。そもそも秋に狩猟が解禁される理由を考えると、今回のイノシシの肉がどれだけ美味しいのかという問題もある。敢えて食べたいものではないので、どうでもいいと言えばその通りなのだけど。
病気の発生した汚染地帯では、現時点では狩りは行なわれていない。それは重点的に狩を行なうことによって恐怖でパニックに陥ったイノシシが、忌避剤で作られた防疫ラインを超えて逃走する可能性があるからだという。それで、現在は電線を張ってイノシシの逃走を防ぐ40キロに及ぶ柵で汚染地帯を囲む作業が進んでいる。当初の予定では消防士がその任に当たる予定だったのだが、夏の真っ盛りで休暇をとってバカンスに出ている隊員が多く、業者を雇って設置することになったらしい。
この事態は汚染地帯に住む人々の生活にも大きな影響を与えている。一番割を食っているのは人間ではなくて犬かもしれない。散歩そのものは禁止されていないようだが、町と町をつなぐ道や、野原、林などに犬を連れて散歩することが禁止された。散歩中の犬とばったり出会ったイノシシが驚きのあまり汚染地帯の外に逃げ出すことを警戒しているのだという。禁止された当初は、どこにも禁止の看板が出ておらず、知らずに散歩させている人がいるというニュースもあったが、状況は改善されたようである。
それから、小麦などの畑は収穫することを禁じられている。こちらはイノシシの餌が不足しないようにだという。刈り入れが済んで近くの畑に食べ物がなくなると、餌を求めて閉鎖地区の外まで出て行きかねないという懸念があるらしい。農家としては大損であるけれども、ズリーン地方がお金を出して買い上げることになっているのだとか。
いずれにしても、この場合感染したイノシシを汚染区域の外に出さないことが一番大切である。そのためだったら、予算をつぎ込むことをためらわないというのが、ズリーン地方のチュネク知事のコメントだった。
少し前に、ズリーンからはまったく反対側のカルロビ・バリの近くでも、死んだイノシシが発見され、アフリカ豚これらに感染している恐れがあると報道されていたが、現時点では感染していたという証拠は発見されていないようだ。
8月6日23時。
逃亡防止用の電線が張られたのは、結局最も汚染されていると考えられる地域を囲む12kmほどの物になったようだ。森には人間も立ち入りが禁止されるようになり、イノシシを驚かすことなく捕獲するための罠の設置も進んでいるようである。8月8日追記。
2017年07月22日
暑い(七月十九日)
冬には寒いとわめき、夏には暑いと嘆く。年をとるとこらえしょうがなくなっていけない。暑いとは言っても二年前の連日三十度を超えるどころか、四十度に近づく日の続いた夏に比べれば、遥にましなのだが、自宅も、職場も屋根裏部屋である上に、クーラーなんてものが存在しないので、晴れて気温が三十度を超えると、頭が湯だってろくにものを考えられなくなる。今日も暑かったけれども、明日はさらに暑くなるという。
チェコで気温が上がるのは、アフリカからの熱気が地中海を越えて流れ込んでくるからである。アルプスという壁があるので、日本の夏のように最初から最後まで毎日暑いというわけではないのだが、涼しい日と暑い日の気温の差が大きすぎるのも結構辛いのである。この辺は冬と一緒か。いや、冬は引きこもっていれば、何とかなるけど、夏は引きこもっても暑いという違いがあるか。
アフリカからやってくるといえば、チェコで「アフリツキー・モル・プラサト」という病気が発見されて問題になっている。末尾についている「プラサト」は豚を表す言葉の複数二格なので、豚の病気である。「モル」というのは、中世に何度かヨーロッパを襲って人口を激減させた黒死病、つまりペストのことである。ということは日本語ではアフリカ豚ペストという家畜の病気になるのかと考えた。
『動物のお医者さん』で、主人公のハムテルたちが獣医師試験を受けるときに、唱えていた暗号のような文句の中に、アフリカが出てくるものがあった記憶があるので、正しい病名が出ていないかと文庫本を引っ張り出してみたけど、アフリカ何なのかは書かれていなかった。以前、誰かがハンガリーの首都ブダペストのことを、ネット上で間違えてブタペストと書いている人が結構いるなんてことをいっていたし、豚インフルエンザも存在するから、豚ペストも存在するだろう。
存在しなかった。いや、「豚ペスト」で検索してみたら、「豚コレラ」が正しい名称で、豚ペストという言い方もあるということのようだった。つまりチェコで発見された病気は、アフリカ豚コレラと言うことになる。読みは、「トンコレラ」かな、「ブタコレラ」かな。昔「トンコレラ」というのを聞いたことがあるような記憶もある。「トンコロリ」だったかな。
とまれ、発端は東モラビアのズリーン地方の森の中で、イノシシの死体が発見されたことである。このイノシシがアフリカ豚コレラに感染していることが判明し、近くに豚を飼育する農家がいくつもあったことから大きな問題になった。野生のイノシシの間に流行しているのだとすれば、ズリーン地方からチェコ各地に拡散しかねないし、いつ飼育されている豚が感染するとも限らない。
ズリーン地方ではこれまでに40頭近くの死んだイノシシが発見されており、そのうち30体ほどがアフリカ豚ペストに感染していることが確認された。ということは、かなりの割合で感染しているということになる。政府はズリーン地方の感染したイノシシが発見された一帯からの豚の移動を禁止するとともに、養豚業者に対して感染防止のためのいくつもの指示を出した。
またチェコ全土で、イノシシ狩りが始まった。感染した個体は殺処分にするしかないのである。もともと近年イノシシの数の急増が問題になっており、農業、林業に与える被害もかなりの額に上っているようで。毎年一定数は猟師が狩っているはずなのだが、それを上回るペースで繁殖しているようである。生息密度が高いということは、どこかで流行し始めたら拡散しやすいということでもあるから、ある程度間引いておくことは、流行の防止にもつながるのだろう。
農務大臣のユレチカ氏の話では、今回のアフリカ豚コレラは、人為的な原因でチェコ国内に入ってきたらしい。つまり、誰かが病気のイノシシをチェコに連れてきて、放ったということなのだろうか。
チェコでは今年の冬に、鳥インフルエンザが猛威をふるって、各地の養鶏場などの家禽を飼育している施設で、一羽でも感染が確認されると全羽殺処分なんてことになっていた。それだけでなく一般の人が卵を得るために庭で飼育している鶏の中にも感染して殺処分を受けるものが続出した。一羽あたりいくらで国から保証金が出たらしいけれども、手続きと支払いに時間がかかったり、飼育を再開する前に殺菌消毒をして置かなければならないのだが、気温が低すぎて薬品の効き目が落ちるというので、飼育の再開まで長い期間がかかったりと、被害を受けた業者や家庭にとっては踏んだり蹴ったりだったようだ。
そのとき、鶏肉の主要な輸出先であるロシアが、鳥インフルエンザの流行を理由にチェコ産の家禽の肉にたいして禁輸措置を発動し、直接鳥インフルエンザの被害は受けなかった業者にも打撃を与えていた。国もそこまでは補償しきれないだろうし。
ということは、今回のアフリカ豚コレラが、本当に人為的に持ち込まれたものであるのなら、チェコの養豚業に打撃を与えるための試みだったのかもしれない。すでにチェコ産の豚肉の輸入禁止の措置を取った国もあるようだし、どこの国の業者がなどと考えてしまうけれども、国内の業者の争いの可能性もあるのか。
とまれ、ズリーン地方で、感染したイノシシが発見された地域では、森の中の土壌の殺菌、消毒処置も進められているから、近いうちに終息することを願ってやまない。チェコ政府は、迅速な対応で、問題をズリーン地方に封じ込めることに成功したと評価されているようであるけれども、養豚業者にとってはたまったもんではあるまい。豚には直接の被害のなかった今回、国からの保証はあるのだろうか。
7月20日18時。
現時点でズリーン地方では約90頭のイノシシの死体が発見され、60体がアフリカブタコレラに感染していたという。まだ結果が出ていないものもあるというから、感染していた個体の数はまだまだ増えそうである。汚染地帯のイノシシを外に出られないように封じ込めるとともに、イノシシの殲滅作戦が始まるらしい。感染の拡大を防ぐには、感染したイノシシをすべて処分する必要があるけれども、見ただけではわからないから、とりあえず殺すということのようである。7月21日追記。
2017年07月08日
1997年の洪水(七月五日)
モラビアのモラバ川、ベチバ川沿いの町を歩いていて、建物の前面の壁に、1997と書かれた小さなプレートが埋め込まれているのに気づいた人がいるかもしれない。あれは、今からちょうど廿年前、1997年7月にモラビアを襲った大洪水の際に、どこまで水が到達したのかを示す記念碑のようなものである。
日本では、おそらく2002年にプラハを中心とするボヘミア地方を襲った洪水の方が有名だろうが、犠牲者の数、被害を受けた範囲の広さを考えるとこちらの方が、大きな洪水であった。被害額は、プラハの旧市街が水没した分、2002年の洪水のほうが大きかったようだけれども。
1997年の7月初めにモラビア全域、特にベスキディとイェセニークの山地で激しい雨が降り続き、場所によっては7月一月で、一年の平均降水量を上回るような雨が降ったらしい。とはいえ、雨がそれほど多くない地域なので、せいぜい数百ミリのオーダーである。ただし、雨があまり降らないことを前提に整備された河川は、これだけの大雨を引き受けることができず、各地で洪水を引き起こすことになった。
このときの洪水は、モラビアの中心を南流するモラバ川と、そのベチバ川などの支流だけでなく、モラビアとシレジアの教会辺りから北流するオドラ(オーデル)川とその支流でも発生している。昔、オロモウツにいた日本の人から、ダムの放流のタイミングが悪かったのも洪水が起こった理由だという話を聞いたことがあるのだが、当時存在したダムでは対応できないだけの降水量があったというのが真相のようである。
1997と書かれたプレートに最初に気づいたのは、ベチバ川沿いの温泉町テプリツェ・ナド・ベチボウに出かけたときのことだった。川沿いの建物の見上げるような位置にあるのを見つけて、案内してくれた友人に何かと聞いたら、洪水で水が到達した一番高い位置を示しているのだと教えてくれた。洪水で被害を受けた建物の改修が終わった後、記念?のためにつけられることが多いのだという。
その後、洪水は、テプリツェの下流にあるフラニツェでも、川沿いの低地を襲い、サッカー場や体育館などに壊滅的な被害を与えている。プシェロフでは市街地がほぼ完全に水に覆われた。その勢いのままモラバ川との合流点の手前にあるトロウプキという村を壊滅させた。それが7月8日のことだったという。
一方モラバ川本流も洪水を起こしており、ザーブジェフ、モヘルニニツェ、リトベルと被害を与えてきて、オロモウツの中心部で水があふれたのがトロウプキの翌日7月9日である。ホルカー・ナド・モラボウ、ホモウトフなど、モラバ川沿いの周辺の地区も含めて、オロモウツの市街地はほぼ全域水に覆われた。被害がなかったのは、旧市街の大きな岩の上に建っている部分と、町の西側から北側にかけて連なるある小高い丘の上の住宅街ぐらいだったようである。
モラバ川、ベチバ川が合流するトバチョフでは魚の養殖が行なわれている池が完全に水没してモラバ川と一体化し、クロムニェジーシュなどでも市街地が洪水に襲われている。オトロコビツェ、ナパイェドラの辺りでは、川から溢れ出した水が二、三週間にわたって引かず、巨大な湖となっていたという。オトロコビツェは、ズリーンと同様にバテャの企業城下町で、バテャ社が第二次世界大戦前に従業員用に建設したレンガ造りの四角い住宅が多数残っているのだが、これらの住宅は、浸水はしても倒壊することはなく、バテャの雇った建築家達の街づくりの先見性を垣間見せている。
モラバ川の洪水に隠れて大きな話題にはならないが、北に向かうオドラ水系でも、クルノフ、オパバ、オストラバなどの主要な町が軒並み洪水の被害を受けている。特にクルノフに被害を与えたオパバ川上流では、このときの洪水を受けて新たな治水用のダムの建設計画が立てられたという。東ボヘミア地方でも何箇所かで洪水が起こったようだが、こちらはさらに話題に上ることは少ない。
この1997年の洪水では、チェコ全域で49人という大きな数の犠牲者を出し、千の単位で家屋が全壊や半壊している。建物や農産物、また養殖業などの被害額は総計で630億コルナに上るという。この未曾有の大洪水を契機に、消防隊などの防災体制の見直しが進み、河川の洪水対策にも大きな進歩があったらしい。ただし、地域によっては、未だに洪水を防ぐための堤防が設置できていないこと頃もあるようだ。2002年のボヘミアの大洪水のあと、プラハではチェコレベルではあっという間に洪水対策が進んだのと比べると、やはりモラビアの田舎は、軽視されているんだよなあ、などと考えてしまう。
近年チェコでは異常気象なのか、降水量の多い年と少ない年の差が大きくなっている。異常に乾燥するか、雨が降りすぎて洪水が起こる年が多いような気がする。地球温暖化の影響はともかく、この辺りの気候が変動期に入っているのは確かなようである。個人的には冷夏を求めてチェコに逃げてきたので、夏が必要以上に暑くならないことを願うのみである。
7月7日15時。
このときの洪水の写真はこちらから。ただし一面茶色の水に覆われていて何がなんだかわからない写真も多い。7月7日追記。