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2019年03月10日
お米の話(三月八日)
昔よく質問されて答えに困っていたのが、日本のもので恋しいものはないかという質問だった。1990年代までであれば、日本語と応えたことだろうが、2000年以降チェコでもインターネットの普及が急速に進んだ結果、日本語で書かれた文章を読むことに関しては、恵まれた環境になっていた。日本語での会話に関しては、日本にいる頃から無理して誰かと話す必要性は感じていななかったし、日本語ができるチェコ人の知り合いもいたから、あえて恋しいと言うべきものでもなかった。
あれこれ考えた末に、公式見解として、この手の質問への答えとしていたのが、お米である。こちらに来たばかりのころのチェコの米の中にはひどいものが多く、美味しいとかおいしくない以前の問題で、小石なんかが混ざっているものもあった。知り合いに最初にお米と言って食べさせてもらったのは、袋に入ったものをそのままお湯で数分ゆでると出来上がりという、半分インスタントのようなもので、ご馳走してもらっている手前口には出せなかったけれども、できれば二度と食べたくない代物だった。
普通のレストランで米の付けあわせを注文して、美味しいと思えるようなものが出てきたためしはなく、お米と呼べるものを食べようと思ったら、中華風のお店でチャーハンぽいものを頼むしかなかった。同じ中華でも当たり外れが大きくていつでも満足できるとは限らなかったけど。それから、結構高めのお店に連れて行かれて、ここは米の料理も美味しいと言われたときに、もしかしてと期待して米を使ったリゾットを頼んだら、大外れなんてこともあった。チェコの人が考える美味しい米ってのは、基準がぜんぜん違うところにあるのだろう。
結局、お米のない生活に堪えられなくなって恥を忍んで日本からお米を送ってもらっていた。お米の値段だけならともかく送料が高いのでそれほどひんぱんにお願いできたわけではないけど、スーパーで単独で食べると微妙だけど、焼き飯にして食べるとそこそこ満足できるレベルの米を発見していたから、それで何とかなっていたのだ。
状況が変わったのは、10年以上前になるかな、外国からの小包はすべて税関で止めて、税金を課すという悪行が始まったせいである。本来は国外のネットショップで購入した商品に消費税分をかけるはずだったのに、贈り物だろうが自分のものであろうが、国外からチェコに届いた荷物はすべて課税されるようになった。無税にする手続きはもちろんのこと、税金を払って通関させる手続きも面倒極まりなく、課される税額もバカにならないので、日本からお米を送ってもらうのはやめてしまった。
幸いなことにそのころにはオロモウツに、日本のではなく、日本のお米風のお米、正確にはイタリアやアメリカで生産された日本のお米を売るお店ができて、しかもうちの近くに移転してきたから、お米を食べる回数は確実に増えていった。もちろん、送ってもらっていた日本のお米ほどではなかったけど、チェコの米に比べればはるかにおいしく、お米だけ炊いて食べても満足できるレベルだった。
そのお店は、お米だけでなくてインスタントラーメンや冷凍食品のギョウザなんかも置いてあって、重宝していたのだけど、オロモウツでは客に限りがあったのか、お店を畳んでネット上での販売だけに営業規模を縮小してしまった。お米がなくなりそうになったので、その店のネットショップを覗いたところ、品揃えが悪化していてお米なんて1kgのものしか置いていない。お店で買うならともかくネットショップでちまちま買って届けてもらうなんてことはやってられない。
ということで、ネットショップならオロモウツにこだわることもあるまいと、ブルノの知人にどこか知らないかと聞いてみた。教えてくれたのがここ。本当の日本産のお米も買えるみたいだけど、ちょっと高い。それに例の自称日系人政治家のお店だと言う話を聞いて、ここで買う気をなくしてしまった。主義主張にかかわらず政治家を支援する気はないのである。政治家になっていなくてもこのお店は避けてしまっていたかもしれないけどさ。
結局、うちのが見つけてくれたお店で買うことにした。「花」で「sushi」である辺りがちょっとステレオタイプであれだけど、お米も10kgものがあるしということで、実際に買ったのは去年の12月のこと。クレジットカードが使えなくて銀行振り込みだったり、送料無料にするために1500コルナ以上購入する必要があったり、厄介なところもなくはなかったが、実際にお金を振り込んでからは、郵便局ではない運送会社と契約していて翌日か、翌々日ぐらいには到着した。事前にこの辺の時間に届くという連絡も来ていたし、予想していたより遙に簡単にお米が手に入ってしまった。
12月に買ったのに何で今頃こんなことを書いているかというと、お米が減ってきてそろそろ新しいのを買う必要が出てきてお米のチェックをしていたら、お米については書いていないことを思い出したからである。海外だと、日本人は寿司だと思っている人が多いけれども、正直寿司なんてどうでもいい。日本人はお米さえあれば生きていけるのである。
2019年3月9日22時45分。
2019年03月08日
運輸省の抱える問題(三月六日)
運輸省は大臣替えてもあまり意味がなそうだという話を昨日書いたけれども、この省の問題は89年のビロード革命後も放置してきた、もしくは先送りしてきた問題が、ここ十年余りの間に顕在化してきて、誰が大臣でも結果は大差ないのに、政治的な取引の結果、首のすげ替えが起こっているという印象を受ける。その中で、今の大臣は頑張っているほうだと思うのだけど。
とまれ、この国の交通行政における最大の問題は、高速道路網の整備である。プラハとブルノという二大都市を結ぶ高速道路D1、ブルノからスロバキアの首都に向かうD2こそ早い時期に完成していたが、それ以外の部分は計画だけにとどまっていて、プラハから完全に高速道路だけでたどり着ける主要都市は、ブルノを除くとプルゼニュぐらいしかなかった。
その後、各地で整備が進められ、また一ランク下のR規格で高速道路のD規格ではなかった道路がDに格上げされたりしたけっか、プラハ、ブルノ、オロモウツ、オストラバが高速道路で結ばれることになったが、本来プラハとオストラバを結ぶはずのD1はまだ完成していない。工事が進まない理由の一つは、近隣のドイツやオーストリアなどの国と比べても高くつく建設費で、十年以上前から問題にされていながら、状況はほとんど変わっていない。高い建設費に政治家の関与があるのかどうかは知らないけど。
また、入札で値段だけで選んだ場合なのか、一度は完成したものの、手抜き工事で路面が波打ったり、表面が陥没したりするという問題も起こっており工事の発注元の高速道路管理局と施工会社の間で、どちらに責任があるのかをめぐって裁判沙汰になったりもしている。こんな問題が起こると、むやみに工費を節約するのがいいとも言えなくなるから大変である。
二つ目の理由は、高速道路を建設する用地取得の手続きの問題である。国有化するための法律があったのかなかったのか、土地の所有者にごねられて、工事がなかなか始められないという問題が、一か所ならず起こっていた。一番有名なのはプラハからフラデツ・クラーロベーに向かうD11だろう。とある土地所有者との係争で、一部分の工事が着工できず、長らくその人の土地で分断されていたのである。この問題は、90年代に、幹部が党の息のかかった人ばかりだった省で政権交代に際して、碌に引き継ぎのないまま人員の入れ替えと方針の変更が行われた結果だと見ている。土地の所有者も最後は意固地になってしまっている感じであった。
三つ目は、古い高速道路の改修工事である。建設されて半世紀以上を経たD1では路面を覆うコンクリートにひび割れが走って振動が酷いなど老朽化が進んでいる。それで少しづつ、いくつもの区間に分けて改修工事が行われているのだが、チェコで最も交通量の多い道路で、部分的に通行制限をしながら改修工事をすると、大渋滞が引き起こされることになる。
この改修工事に関しても、受注した会社によって当たりはずれがあり、予定の工期でちゃんと完成させるところもあれば、予定の工期で終わらず延長と工費の追加を求めてくるとこもあって、この手の工事は入札で決めればいいというような簡単なものではないことを改めて見せつけている。昨年末も、確かイタリアの会社が受注した工区で工事が予定通りに終わらず、いやそれ以前に候じを行っていない期間が長く、雪が降り始めたために連日大渋滞を引き起こしていた。プラハ駅の改修工事もそうだけどイタリアの建設会社って当てにならんのだよなあ。
たしか、この工区では片道三車線のうち一番内側の車線を通行止めにして、中央分離帯とその両側の二車線を改修していたのかな。外側の二車線は幅を狭めて制限速度を落としたうえで車を走らせていた。車を運転している人たちを怒らせたのは、渋滞が発生しているのに、道の真ん中の工事現場では仕事をしている人がおらず、工事がまったく進んでいないことだった。
最終的には、この施工会社に対しては契約を破棄し、高速道路管理局が車線の通行止めを解除することになったのだが、雪の影響で通行止めの車線の外側に置かれていた仕切りを排除して通行できるようにするために時間がかかって、これまた大きな非難を浴びていた。非難されるべきは、運輸省以前に施工会社だし、運輸省が非難されるとしたらそんな会社に落札を許したことだと思うのだけどね。ただEU基準の入札のルールにもとづくとその会社が落札するのは防げなかったなんて話もあるから、この話は厄介なのである。
あれ、この話なんか続くかも。
2019年3月7日21時15分。
タグ:高速道路
2019年03月07日
危険なチェコの鉄道(三月五日)
最近、ニュースを見るたびに、鉄道事故のニュースが流れているような気がする。今日の事故は、現在改修工事中で電車の運行数が激減しているはずのブルノ中央駅で起こった。駅に入ってこようとする電車と、出て行こうとする電車が同じ線路に入ってしまい正面から衝突したらしい。不幸中の幸いだったのは、どちらの電車もスピードが出ておらず、改修工事中の駅の構内だから普段以上にスピードが制限されているはずだし、怪我人は30人以上でて病院に運ばれた人はいたが、重大な怪我を負った人も、亡くなった人もいなかったことである。
原因はいろいろ取りざたされているが、最終的には電車の運転士のミスということになりそうだ。今のところブルノ発の電車の運転士が、発車してもいいという指示が出る前に発車したのが原因とされている。現在のブルノ駅の改修工事は、この手の信号が青になる前の発車を防ぐような安全設備を設置するのも目的の一つだろうから、改修後はこんな事故は起こらないと思いたいものである。電車の側も近代化を進める必要はあるだろうけど。
チェコでは、電車が発車する際に、信号が青になるだけではなく、ホーム上にいる駅員が指示を出してから出発することになっているから、今回の事故は二重の人的ミスが原因ということになるのだろうか。改修工事の混乱で駅員の指示が出せなかったとかいう落ちもありそうだけど。
チェコの鉄道では、ストゥデーンカの二回の大事故などの結果、踏切などでの安全対策が進んでいるが、人的ミスはなかなか減らせるものではない。いや、最近増えている理由は、私鉄の参入などの結果、鉄道の利用が活発になり、電車の運転士の人員不足が挙げられることが多い。そのためチェコ鉄道と他のたとえば貨物鉄道の仕事を掛け持ちしていたりする人がいて、過労に追い込まれているらしい。それを防ぐためには新たな人材を供給する必要があるのだけど、教育体制を整えるのは一朝一夕には難しい。
ちなみに今日のブルノでの事故を入れて、ここ2週間ほどで6件の事故が起こっているらしい。幸いなことに犠牲者は出ていないが、かつてのひどかった頃に比べても、事故の起こる回数が多くなっているのは、いいことではありえない。
最初は2月19日にビソチナ地方で起こった事故で、運転士が乗っていない状態で、ディーゼルの気動車が、十人ほどの乗客を乗せたまま走り始め、6キロほど先で停止したらしい。運転士が問題を発見してそれを除去しようと、気動車を離れた瞬間に動き始め、乗客が非常ブレーキをかけても停止しなかったのだという。これは整備ミスが原因なのだろうか。怪我人はなし。
二つ目は2月22日にプルゼニュの近くで起こった事故である。ミュンヘン行きの特急が赤信号を無視した結果、本来の線路とは違う線路に入ってしまい、反対方向に向かっていた電車と正面衝突しそうになって、どちらも何とか停止。ぶつかるまで34メートルだったというから、ブレーキのかけ初めが一秒でも遅れていたら大事故になっていたかもしれない。怪我人はなし。
三つ目はその翌日23日に、チェスケー・ブデヨビツェの駅で、機関車の移動をしていたら、二台の機関車が衝突して一台の運転士が怪我をしたという事故。四つ目は27日にハブリーチクーフ・ブロトで貨物列車と機関車が衝突して脱線してしまったという事故。これも怪我人はなかったらしい。
五つ目は三月二日に、プラハのスミーホフの駅で、レギオジェットの電車が起こした事故で、運転士が停止を求める信号を無視した結果、路線の切り替え機を破壊したという事故。これもけが人は出なかったけど、プラハの中央駅とスミーホフという輸送量の多い路線がしばらく運行停止になってしまった。
こうして並べてみると、ブルノの事故も含めてどれも人為的な原因で発生している。一歩間違えば大事事で住んだのは僥倖に過ぎない。こういう事故が相次ぐと運輸大臣の責任をとう声が上がるのだけど、このポストって任期を全うできない大臣が多いんだよなあ。大臣を代えたからといって状況が改善した例はあったためしがないし。とまれ、一番よく使うオロモウツ‐プラハは安全対策が一番進んでいる路線だから、ここで事故にあったら仕方がないと諦めよう。一番危ないのは単線の電化されていないローカル線である。
2019年3月6日21時30分。
2019年02月28日
モスト(二月廿六日)
チェコ語でモストというと二つの意味がある。一つはカレル橋を「Karlův most」というように一般名詞としての橋で、もう一つは最初の文字を大文字で書くモスト、つまり固有名詞としての地名のモストである。モストという町は、プラハから北西、ドイツとの国境をなすクルシュネー・ホリと呼ばれる山脈の麓にある。隣接するリトビーノフとともに石炭の採掘で知られた工業の町である。
今、思い返すと、なつかしの『マスター・キートン』の珍しくチェコが舞台になった回で登場したモストフという町が、このモストをモデルにしたものだった。クルシュネー・ホリの山林が酸性雨によって壊滅状態だったとか、大気汚染で呼吸器の病気にかかる人が多いとか。共産主義時代に町を牛耳っていた人物が革命後も権力を握り続けているとか、90年代前半のこの辺りのことがしっかり調べられていた。サーキットがあるってのもあったなあ。
不思議なのはなんで実際の地名のモストを使わなかったのかということで、モストフのモデルがモストだと気づいたときには、誰か中途半端な知識を持つ人が、チェコの地名は「オフ」で終わるんだとか適当なことを言った結果かと思ったのだが、あまりよくない意味で登場していたから、実際の町の名前を使用するのははばかられたのかもしれない。有名な町であればともかく、モストなんかほとんど誰も知らなかっただろうし。
モストやリトビーノフの辺りで採掘されているのは、石炭とはいっても燃焼効率のあまり高くない褐炭と呼ばれるもので、採掘の方法は露天掘りである。露天掘りができるから褐炭の採掘が採算が取れているのだろう。ただ、露天掘りをするということは、石炭の鉱脈の上にあるものは採掘のために破壊されなければならないということである。
このモストという町は、1960年代に共産党政権によって石炭の採掘の拡大が決定された際に、完全に破壊され、少し離れた場所に移転させられたらしい。先日テレビで当時のモストのことを扱った番組をちらっと見たのだが、映画監督にとっては、天国だったと言っている人がいた。すべての建物が破壊されることが決まっていたから、爆破、破壊のし放題で、ソ連やアメリカなどから映画の撮影班が次々にモストを訪れて、建物を破壊していたらしい。具体的にどの映画がモストで撮影されたかについては言及されなかったのが残念である。
数年前にはモストの近くの小さな町が、石炭の採掘が継続された場合には、モストと同じ運命をたどりそうだということで大きな話題になっていたのだが、現時点では町を破壊してまで採掘することはないだろうという決定で、炭鉱会社の採掘予定地の拡大の求めは政府によって却下されていた。
モストとリトビーノフの周辺は、一時期は露天掘りで石炭を掘りつくした部分が放置されていたので、火星のようだといわれるような景観を作り出していたのだが、その後炭鉱跡地の緑化が進められ、露天掘りの後の大きな穴が人造湖として整備されたことで、景観が一変している。そういう場所を案内してくれる観光ツアーもあるらしい。
ではどうしてテレビでモストに関する番組を報道していたかというと、それは「モスト!」という多分いい意味でとんでもないテレビドラマが放送され、チェコ中で話題になっているからである。モストやリトビーノフの辺りに対しては、ロマ人の住み着いた崩壊寸前の団地があって、ロマ人とチェコ人の関係が悪化して、人種差別的な極右勢力が台頭しているなんて固定概念があるのだけど、それを逆手にとって作成されたコメディで、これモストの人嫌がるだろうなあという場面が多い。モストの人でも気に入っている人は多いらしいんだけどね。
うちのは毎週熱心に見ているのだけど、しばしば「ティ・ボレ」なんて普段は使わない言葉を漏らしているから、とんでもないシーンが多いんだろうなあ。見たいような見たくないような複雑な気分である。
2019年2月26日24時。
2019年02月27日
チェコで日本文学を考える(二月廿五日)
とりあえず、いきなりこんなテーマで文章を書くことにした理由について触れておこう。アメリカからチェコに流れてきたらしい日本人研究者(何の研究者かは知らない)が、チェコには日本文学研究がないとか何とかこいていたという話を、プラハの知人から漏れ聞いて、むかっ腹を立てたのが動機である。チェコという国が、人口の少ない小国であり、冷戦期には東側陣営に属して日本との交流も限られていたことを考えると、チェコの日本文学研究は盛んだといっていい。研究者の数自体は当然多くないから、どうしてもカバーできる範囲には限りができてしまうけど。
さて、本題に入る前に、文学作品の翻訳、特に作品の書かれた言語からの翻訳は、作品研究、作家研究の成果であることを確認しておこう。英語の娯楽作品などで、ほぼ機械的に翻訳されて出版されていくものや、英語版からの重訳などはともかく、チェコ語や日本語のような特殊な言葉で書かれた文学作品の翻訳は、研究者が自分の研究さ対象とする作家の作品を研究の一環として翻訳することが多い。
チェコ文学の日本語訳をその傍証としてもいいだろう。翻訳者の大半は、チェコ語、もしくはチェコ文学の研究者だし、翻訳につけられた訳注も多い。特に日本で最初のチェコ文学の翻訳者と言ってもよさそうな栗栖継氏の翻訳など、本文と変わらないほどの分量があるものもある。訳注に頼りすぎる翻訳も良し悪しだとは思うけれども、作品研究の結果を盛り込みたい訳者の気持ちもわからなくはない。
オロモウツに来てパラツキー大学の図書館の日本文学のコーナーで驚いたのは、意外なほど多くの作品がチェコ語に翻訳されていることで、漱石の作品があるのは当然としても、その中には、日本でもすでに忘れられたような作家の作品の翻訳もあった。知り合いに梅崎春生の小説がすばらしいと言われ、感想を求められたときには恥ずかしながらその作家自体を知らないと応えるしかなかった。
高校大学時代の一番純文学の作品を読んでいた時期に、なくなった作家の作品は読まないなんて縛りで読むべき作品を探していたから、戦後すぐに亡くなったらしい梅崎春生の作品を読んだことがないのは当然としても、情けなかったのはチェコ語にまで翻訳されるような作品を生み出した作家の名前すら知らなかったことである。古典が専門だったとはいえ、文学科にいたんだけどなあ。図書館には日本語の本も結構入っていたのだけど梅崎春生のものは残念ながらなかった。
それから、確か翻訳者が収録作品を決めたという戦前の作品のアンソロジーに、岩野泡鳴なんかの作品が入っているのにも驚いた。共産主義の国だったわけだから、プロレタリア文学ばかりが称揚されるものだと思っていたし、確かに小林多喜二や徳川直なんかの作品は重要視されていたけれども、戦前の日本文学がプロレタリア文学だけではなかったことがわかっていなければ、共産主義体制の中で岩野泡鳴なんかの作品をわざわざアンソロジーに入れたりはしないだろう。
泡鳴の作品だったかどうかは正確に覚えていないのだが、アンソロジーに収録された作家の作品が入った日本語の本が図書館にあったので、読んでみてびっくり。現代の小説同様に言文一致が徹底された文体だったのだ。明治期の文学革新運動の中で出てきた言文一致の考え方が、大正から昭和の初めにかけてここまで浸透していたとは思いもしなかった。
大学時代の畏友が、日本文学の言文一致は、最終的に赤川次郎によって成し遂げられたという説を唱えていて、それに同調していたのだけど、実は一度到達していた高みから戦争の影響で落ちて、言文一致のレベルを再度引き上げたのが赤川次郎だったといったほうがよさそうだ。1970年代だと漫画でも吹き出しの中のせりふが、「したんだ」というような場合でも「したのだ」になっていて、小説の会話文は推して知るべしだったのだが、これでも言文一致が進んだ結果だと思い込んでいた。それが、実は先祖がえりだったわけだ。
小説の言文一致という点では、赤川次郎が会話文の中で徹底し、一人称小説の字の文でもかなり話し口調に近づけるような工夫をしていたと思うが、それをさらに徹底して一人称の語りまで、完全に話し言葉にしてしまったのが、高千穂遙の「ダーティペア」シリーズと、久美沙織の「丘の家のミッキー」シリーズだった。その良し悪しはともかく、二人ともSF出身の作家であるのがなんとも象徴的である。
なんてことを、チェコの日本文学研究の成果である翻訳のアンソロジーをきっかけにして考えたのだ。日本にいたら、特に熱心な近現代文学の読者ではなかったから、こんなところまで考えることはなかっただろう。これもまたチェコの日本文学研究の恩恵というべきであろう。
2019年2月27日24時。
2019年02月14日
「スラブ叙事詩」の行方(二月十二日)
七時のニュースをぼんやり見ていたら、プラハ市がモラフスキー・クルムロフにアルフォンス・ムハの「スラブ叙事詩」を貸し出すことを検討しているというニュースが流れた。いや、ニュースを聞いただけではよくわからなかったので、テレテクストの記事を読んだり、ネット上の記事を読んだりして確認することになったのだが、確か来年の春から、5年ほど、かつて50年近くにわたって「スラブ叙事詩」の展示が行なわれていたモラフスキー・クルムロフに貸し出す計画があるらしい。
このブログでも何度か触れているが、「スラブ叙事詩」の所有権に関しては、延々裁判が続いている。問題はプラハ市が、ムハが作品の譲渡の条件にした専用の展示施設を建設することを満たしていないことにあるのだが、今回の件だけでなく、2017年に「スラブ叙事詩」が日本に貸し出されたのも、ついに専用の施設の建設に踏み切ろうとした結果かもしれないのだ。
これが実現すれば、プラハ市はほぼ100年のときをかけてムハとの約束を果たし、最終的に譲渡の契約が有効だということになってしまうから(法律上は知らんけど心情的にはそう思われる)、「スラブ叙事詩」はモラフスキー・クルムロフにあるべきだと考えている人間にとっては痛し痒しなのだが、専用の美術館ができるのは喜ぶべきことである。本来はモラフスキー・クルムロフの城館をプラハの金で改装して、専用の施設にするべきだし、それがこの作品を寄贈されていながら100年もの間約束を果たさなかったプラハのなすべき贖罪であろう。尤もプラハにそんな殊勝さがあれば、100年も放置することなんてなかったか。
ところで、なぜプラハが専用の施設の建設に動いているかもしれないと考えたかというと、日本から戻ってきた「スラブ叙事詩」が、モラフスキー・クルムロフから強奪されたあとに展示されていたベレトルジュニーー・パラーツに戻されていないのだ。全部で20枚の作品のうち、半分は2018年のチェコスロバキア独立百周年を記念したイベントの一環で、昨年末までブルノの国際見本市会場で特別展示が行なわれていたし、残りの半分はプラハのオベツニー・ドゥームに展示されていた。
そして、プラハ市議会ではホレショビツェの見本市会場内の建物の別館を建てるか、建物を拡張するか、することで専用の展示会場にするという決定がなされたらしい。ただその後の市議会選挙で政権交代が起こったため、決定の見直しが行なわれているようだが、ベレトルジュニーー・パラーツでの展示はできないようで、展示会場を見つけるか、新たに建てるかしなければならないのは確実なようだ。
ニュースでもインタビューに答えたプラハ市の役人が、新しい展示会場が確保できるまでの間、貸出先が見つからなければ、巻き取って倉庫に保管されることになると語っていた。現時点ではモラフスキー・クルムロフは貸し出し先の候補の一つに過ぎないようで、プラハ市側から、城館の改装、つまり気温と湿度を一定に保てるような設備の導入を条件としてつけられている。モラフスキー・クルムロフ側はその申し出を受けて、なんとしてでも資金を集めると言っているようである。実際にモラフスキー・クルムロフに戻るかどうかは、今年の三月か四月までに決まるらしい。
ということは、我々「スラブ叙事詩」モラフスキー・クルムロフ展示派がなすべきことは、まずモラフスキー・クルムロフが城館の改装に成功して「スラブ叙事詩」が戻ってくることを祈ること。そしてプラハの新しい展示会場の建設が、場所の決定に時間がかかったり、土地の所有者ともめたり、変な建築会社と契約して工事が進まなかったりで、うまく行かないことを祈ることであろう。いろいろなものがありすぎるプラハで、巨大な「スラブ叙事詩」を20枚まとめて展示的できる会場なんてそうそう見つからないだろうし、そうすれはモラビアで、5年といわず、10年、20年、展示が行なわれ続ける可能性も出てくる。
この話、最初は「ふざけるなプラハ」という題名にするつもりだったのだけど、専用の展示会場を建てようとしていることに築いたので改めることにした。それでもそんな気分はまだ残って入るんだけどね。
2019年2月13日23時55分。
2019年02月07日
エベン(二月五日)
コメンスキー研究者のS先生のブログを覗いたら、こんな記事があった。ちょっと前の記事で、実はこれを読んだときにすぐ書こうと思ったのだけど、なんだかんだで後回しにしてしまったのである。
この記事のどこに目を止めたのかというと、コメンスキーの本の即売サイン会が行われたというのも気になるし、日本の教会でチェコの現代音楽のコンサートが行われたというのも隔世の感を抱かせて感慨深いのだけど、最も興味を引いたのは現代音楽の作曲家の名前である。ペトル・エベン。この人の名前を直接知っているというわけでも、音楽を聞いたことがあるというわけでもないのだが、なぜか気になる。
音楽関係で、名字がエベン? あれだ。ということで思いついたのが、マレク・エベンの名前である。現在ではチェコテレビがBBCのフォーマットを購入して毎年のように秋口から年末にかけて放送している「スター・ダンス」という番組などの司会者として知られているが、もともとは、子役としてテレビや映画に出演していて、俳優として活躍していた。あれこれ多彩な人で、文学などの教養にもあふれており、スビェラークと並んで、俳優という存在が国を代表する知性となりることを体現する人物だと言ってもいい。
そのエベンは昔から音楽活動もしていて、作詞や作曲も手掛けたことがあるはずである。二人の兄弟と組んだ「エベン兄弟」というグループでコンサート活動を行うこともある。ジャンルとしてはジャズっぽいのからロック、フォークっぽいのまで結構幅広いのかな。そこで考えた。もしかしたら、マレク・エベンの兄弟のうちの一人が、ペトル・エベンという名前なんじゃないかと。ジャズなら現代音楽から遠くないと言えなくもない。
それで、調べてみたところ、兄の方はクリシュトフ・エベンで理学博士号を持つ気象学者が本業の人物だった。弟はダビット・エベンでこちらも博士号を持つ音楽史の教授で、俳優が本業のマレク・エベンと三人で、いわば副業として音楽活動を行っていたということのようなのだが、その彼らの音楽の才能の源泉が、ペトル・エベンだったのだ。つまり、ペトルは、エベン三兄弟の父親だったのである。知らんかった。
ペトル・エベンについては、S先生のブログを見てもらうことにして、ここで取り上げるべきは、やはり、マレク・エベンであろう。俳優としてのマレク・エベンのもっとも有名な役は、子役時代の「Kamarádi(友達)」というテレビドラマのバーレチェク役である。60年代の終わりから70年代の初めにかけて放送されたこのドラマは、その後も繰り返し再放送されたらしく、うちのもしばしばマレク・エベンのことをバーレチェクと呼ぶことがある。
最近は再放送されることがないのか、される時間が合わないのかで、ちゃんと見たことはないのだけど、ちょっと太めの、ちょっとのんびりした男の子を演じてい他と記憶する。役名からしてバーレチェク(Váleček)、つまり円柱を意味するバーレツ(válec)の指小形からできた言葉だし、丸っこいというイメージの子供の役で、マレク・エベンはそんな子供だったのだろう(って、今確認したらそこまで丸くないなあ。記憶違いかなあ)。
一方、司会者としては、チェコでもっとも高く評価されていて、「スター・ダンス」以外にもチェコテレビで外国の映画、演劇関係者を招いて英語でインタビューする番組を続けているし、毎年カルロビ・バリで夏に行われる国際映画祭の最終日の表彰式の司会役も長年にわたって続けている。その司会ぶりは達人の域にあり、知的に過ぎる冗談がすぐに理解されずに、笑いが起こるまでに時間がかかることもあるけれども、チェコで美しいチェコ語を崩さずに話し続ける品位のある司会者となるとこの人以外に選択肢はほとんど存在していない。
以前聞いたマレク・エベンに関する冗談(実話かどうかは知らない)は、モラビアの怪優ボレク・ポリーフカに対して、「ポレーフカさん」と呼びかけたというものだった。名前を呼び間違えたのの何がおかしいのか最初はわからなかったのだが、説明されて、人名であっても口語形である「ポリーフカ」は使わず、正しいチェコ語の「ポレーフカ(スープ)」を使うのがエベンだというのが笑いのツボらしい。やっぱ、チェコ人の冗談はよくわからんや。
とまれ、奥さんが足を悪くして車いす使用者だということもあって、チャリティー活動にも熱心で、スビェラークの主催する財団のチャリティーイベントの司会も務めていたかな。そんなこともあって、この人なら、熱心なゼマン主義者たちや、バビシュ支持者たちの反発を買うこともなさそうだから、政党色のない、政治性のない大統領として、次の大統領候補になりうるんじゃないかとこっそり期待している。モラビア出身じゃないのがちょっと残念だけど、クラウス大統領の息子とか、去年の選挙で完全に反ゼマンの色がついてしまった候補者たちよりは、国民を一つにまとめる大統領になれるのではないかと思う。
2019年2月6日22時30分。
今じゃあこんなものまで手に入るんだねえ。
タグ:テレビ
2018年12月04日
ノハビツァ詐欺(十一月廿九日)
ノハビツァは、この前、ロシアのプーチン大統領から勲章をもらったことで批判されている、チェコ、スロバキア、ポーランドなどの西スラブ圏を中心に人気を誇るフォーク歌手だが、そのノハビツァが詐欺を働いたというわけではない。詐欺のネタにされたらしいのである。
オロモウツからモラバ川の支流、ビストジツェ川沿いのサイクリングロードを東に遡って行くと、最初に出会う集落が、ビストロバニという村である。何の変哲もない小さな村で、もうひとつ先のベルカー・ビストジツェには、昔の貴族の城館が残っていてホテルになっているから、それ目当てで出かける人もいるだろうけど、ビストロバニを目的地として出かけるのは、村に親戚や友人知人が住んでいる人ぐらいだろう。
夕食をとりながチェコテレビのニュースをぼんやり眺めていたら、そんなせいぜい人口1000人ほどの小さな村の名前が突然登場した。何事かと思って注意して見ると、行なわれる予定だったノハビツァのコンサートが行なわれず、警察では詐欺として主催者でチケットの販売をしていた飲み屋の主人を捜索しているということだった。
画面にはコンサートが行なわれるはずだった会場の前に集まった騙された人々と、その人たちに聞き取りをする警察官の姿が流れた。チケットを購入したのは大半は地元のビストロバニの住民だったらしいが、シレジアのクルノフからやってきたという人もいた。何でも早めのクリスマスプレゼントとしてチケットをもらったのだそうだ。
そのチケットというのがまたすごいもので、ビロード革命以前にはよく使われていた汎用のもので、ノハビツァのコンサートだということは印刷されておらず、値段も日付も手書きで書かれているというものだった。いや、お金と引き換えにこんなチケットをもらったときに怪しいと思わなかったのだろうか。今週行なわれるはずだったのは、ノハビツァのコンサートだが、来年初頭に予定されたクリシュトフというグループのコンサートのチケットも販売していたらしい。
いやいや、ノハビツァとか、クリシュトフのコンサートなんてオロモウツでもしょっちゅうあるわけじゃないんだよ。それがどうしてビストロバニなんていう小村で行われると信じられたのだろうか。そもそも、ふさわしい会場はあるのかなんて考えていたのだが、会場は詐欺師が経営する飲み屋の奥にあるイベントホールみたいな部屋だった。かつて飲み屋が文化の中心だった時代の名残で、田舎の飲み屋の中には、普段は使わない多目的ホールとも呼べる大きな部屋があるところがある。この飲み屋もその類の飲み屋で、これまでも演劇やコンサートなどが開催されていたようである。
今回詐欺を働いた人物は、二年前から飲み屋の経営に当たっていて、これまで数回、何の問題もなく文化行事を実行してきたらしい。だから信じてしまったというのだけど、この人物が実現したのは自身が主催するバンドのコンサートや、地元の劇団の公演のようで、いってみればローカルな地元の人による地元の人のためのイベントだったようだ。それができたからって、いきなりノハビツァやクリシュトフなんて大物を呼び寄せられるなんて信じてしまう人が、いるんだろうなあ。
実は、その信頼できそうな人物が、ふたを開けてみたら詐欺師で、ただ単に今回ビストロバニで詐欺を働いたというだけでなく、警察の発表では、過去の詐欺などの疑いで指名手配されている人物だったというのだ。それも国外逃亡が予想されたからか、ヨーロッパ全域を対象にした逮捕状が出された人物なのだそうだ。逃亡生活の果てにオロモウツの近くの村を潜伏先に選んだのか、何らかの地縁があったのかはわからないが、警察の想定できない場所だったのだろう。
とまれ、二年の潜伏を経て再び詐欺に手を染めた人物は、すでに行方をくらまし連絡がつかなくなっているという。ニュースでは、今回の事件で手に入れられた額が、発覚して警察に捕まる可能性があることを考えると割に合わないから、急にお金の必要な事情でも発生したのではないかという推測も語られていたが、この詐欺をやらかすのにも結構準備に時間と手間をかけているようにも見える。そうすると、生来の詐欺の虫が動き始めたというのが正しいかもしれない。
信じやすい田舎の人たちをカモにする詐欺師は、できるだけ早く捕まってほしいものである。
2018年11月30日9時15分。
2018年11月06日
チェコとロシアの微妙な関係(十一月二日)
ソビエトというと、チェコ人の多くは、共産党員以外は、嫌悪感を隠そうとしないのだが、これがソビエトの前身でもあり、後身でもあるロシアとなるとその反応は微妙である。ソビエトと同一視して、敵視する人もいれば、かつての汎スラブ主義の名残なのか、親近感を隠さない人もいる。そのうちの一人が、ゼマン大統領である。
日本でも知られるチェコアイスホッケーのスーパースター、ヤロミール・ヤーグルは、自らの背番号として、「プラハの春」の悲劇が起こった1968年にちなんだ「68」をつけ続けるほど愛国心の強い選手である。おそらく、あのときの悲劇を忘れないという意思を表しているのだろう。そんなヤーグルがロシア正教に改宗すると言い出してチェコ社会を驚かせたことがある。実際に改宗したのかどうかまでは覚えていないが、68にこだわるヤーグルがロシアを象徴するロシア正教に改宗するということは、ロシアに対して親近感を持っていたことを示しているのだろう。
ヤーグルは、アメリカのNHLで希望するような契約が結べなかった時期にロシアのKHLでもプレーしている。その後、NHLに復帰したのだが、ロシアでプレーしたことは後悔していないと語っていた。ロシアに行ったときにも、まったく契約するチームがなかったわけではなく、条件を下げるぐらいならロシアに行くという感じだったようだ。このことからも、ヤーグルがロシアに対しては忌避感を持っていないことは明らかだと言ってよかろう。だからと言って、親プーチンかどうかはわからないけど。
ロシアを長年にわたって支配するそのプーチン大統領から勲章をもらったチェコ人というと、ゼマン大統領の前のクラウス大統領の名前が挙がるのだが、今年チェコを代表するフォーク歌手であるノハビツァが、どういうわけか叙勲の対象となり、モスクワまで出かけて勲章を受け取った。この人、共産党支配の時代からオストラバを中心に活動してきた歌手で、ポーランドでも国境地帯を中心に絶大な人気を誇っているらしい。だから、ポーランドの勲章というのならわかるけれども、なぜロシアがという話になる。一説によると、プーチン大統領と仲のいいゼマン大統領の推薦があったのではないかという。
ノハビツァは秘密警察に協力を強要されていたという過去が暴かれることで批判の対象になったから、ソ連に対しては恨み骨髄というところだろうが、ロシアに対してはわだかまりはないらしい。特に言い訳することもなく、ロシアからの叙勲を受け入れていた。こんなのは事前に打診があるものだろうから、ロシアに反感を抱いていればその時点で断って話が表に出てくることもなかったはずである。
幅広いファンの中には、当然ロシア嫌いの人もいるわけで、ロシアの勲章をもらったことを理由に、ファンをやめるとか、ノハビツァの曲を聴くのをやめるとネット上で表明した人たちもいるようだ。しかし、ファンたち、これまでの言動で、ノハビツァという人物がどんな政治的信条を持っているのか理解できなかったのかねえ。悪名高きバニーク・オストラバのもっともコアなファンたちと結びついているし、去年の下院の選挙ではオカムラ党支持を公言してしまうような人物なのである。オカムラ党支持者=ゼマン大統領支持者だから、ロシアのプーチン大統領に親近感を抱いていても何の不思議もないのである。
チェコがロシアに対してどんな態度をとるべきなのかで一体になれていないのは、先日下院議長のANOのボンドラーチェク氏が議長就任後の最初の外遊としてロシアに出かけたことで物議をかもしていることからも明らかである。多くの党はEUが制裁の対象にしているロシアに外遊するとはどういうことかと批判し、外務省の外交政策と足並みをそろえていないのはけしからんとか言っていたかな。
ゼマン大統領はもちろんボンドラーチェク氏の肩を持って、チェコは独立国でEUに加盟しているからと言って独自の外交を行う権利を失ったわけではないと主張している。ゼマン大統領はロシアに対する制裁自体を無意味なものだと批判しているから、ボンドラーチェク氏を支持するのは予想通りなのだけど、批判している人たちは、ロシアとの関係をどうしようと考えているのだろうか。ロシアへの対応については大本のEU自体が中途半端なところで揺れているから、個々の加盟国としても対応が難しいところである。
旧共産圏諸国の反対を押し切って鳴り物入りで始めたロシアへの経済制裁も、肝心の天然ガスについては対象外にした上に、ドイツのエネルギー安定のために新たなウクライナを通らないパイプラインの建設を、経済制裁にもかかわらず、進めているのだから、プーチン政権を追い詰めるほどの効果は発揮していない。資源大国相手に最大の財源である天然資源を除外した経済制裁を仕掛けても意味がないだろうに。あの経済制裁でダメージが大きかったのは、輸出先のロシア市場を失い、ドイツなどのロシア向け製品に市場を荒らされた旧共産圏諸国なのである。それがこの辺りの反ドイツ、反EU感情を高めているから、ゼマン大統領が経済制裁を無意味なものとして廃止を求めているのにも理がないわけではない。
考えてみれば、啓蒙主義の時代以来、チェコの政界は、ロシアとドイツに対してどのように対処するかという点で分断されゆれてきた。そう考えると、現在、ドイツに対しても、ロシアに対しても統一した態度が取れず、微妙な対応に終始するのも仕方がないのかもしれない。
2018年11月4日23時35分。
2018年10月27日
暴れる熊(十月廿三日)
ポーランドなどヨーロッパ各地に広がりつつあるらしい、豚の伝染病であるアフリカ豚コレラは、チェコでも、去年の夏、ズリーン地方で発病して死んだイノシシが発見されて問題になっていたが、罹患したイノシシを汚染された地域に押し込み猟師たちが駆除を進め、病死した死体を処理し土壌を洗浄するという作業を続けた結果、一年近い時間をかけてアフリカ豚コレラの撲滅に成功したらしい。この地域の人たちは、禁止されていた野原や森への散歩もできるようになり、農作業も時期の問題はあるとはいえ解禁されたようである。これで、ズリーン地方としては厄介ごとが片付いて一安心ということころだったのだろうが、新たな厄介ごとがスロバキアのほうから流れてきた。
ハプスブルクの時代から工業化が進んでいたチェコでは、自然破壊も進み、野生動物、特に大型の肉食獣は駆除されたのか、チェコの山林から姿を消して久しい。それが、最近の自然保護ブームの中で、チェコでは絶滅していた狼がポーランドから北部ボヘミアに移住してきて定着したようだというニュースが最初に流れたのは何年前だっただろうか。
狼が定着した森の周囲で畜産業を営む農家の人たちにとっては、家畜が襲われて殺される事件が起こっているようで、そこまで歓迎できることではないようである。絶滅種で保護の対象になっている野生動物による被害に関しては、国から保証金が出るという話もある。ただ、その額が満足いくものなのかどうかはしらないし、ある農家の人が、食餌として家畜の羊を狩って食い尽くすのならまだ納得がいくけど、遊びで殺されるのは許せないと語っていたような気もする。狼がいるというストレスにさらされた家畜の成育にも影響がありそうだし、野生動物の保護というのも難しいものである。
ズリーン地方に現れたのは狼ではなく熊だった。国境地帯のベスキディ山地のスロバキア側には依然として生息している熊が、たまに国境を越えてチェコ側に出てくることはあるらしいのだが、今回は山中をうろつくだけでなく、山の斜面を利用して放牧されている羊を襲った。これもニュースで見る限り餌として殺して食べたというよりは、殺してそのまま放置して逃げたという感じの死体だった。
牧場の柵が壊され羊が殺されるという事件が、何箇所かで起こった時点で、地元の猟師たち、日本風に言うと猟友会の人たちは、アフリカ豚コレラの際に、イノシシを捕らえるのに使用しようとしていたコンテナを改造したような罠を使用して、熊を捕らえることを計画し始めていたようである。ただ問題はその捕らえた熊をどうするかで、チェコ国内の動物園の中には、熊を引き取ることを申し出たところはなかった。それで外国の動物園に声をかけるとか、人里はなれた山中に運んでいって放すとか、取らぬ狸の皮算用をしていた。
それが、月曜日だっただろうか、それまで人間の生活圏とはいっても、一番外側の羊の放牧地のあるあたりに留まっていた熊が、山村とはいえ人里に出現し、村の中心の広場をうろつき、ゴミ箱で餌をあさっていたというニュースが流れた。村では外出を控えるように指示が出たらしく、住民が困惑した様子でインタビューに答えていた。その村はスロバキアとの国境からは結構離れたところにある村で、幸いにもアフリカ豚コレラの蔓延した地域には入っていなかった。
それまでは、家畜の羊が殺されただけで、人命が脅かされたというわけではなかったからか、どこか対応にものんびりしたところがあったのだが、さすがに人的被害が出る恐れが大きくなったということで、ズリーン地方知事のチュネク氏が早速反応した。猟師たちに対して熊の射殺命令を出すと発表したのである。これには、もちろん賛否両論噴出したわけだが、興味深かったのは被害に遭った羊飼い農家の中にも、熊を排除するべきだという意見だけではなく、保護するべきだという意見があったことだ。かつて熊がまだベスキディの山中に生息していた時代の先祖のことを思い出していたのだろうか。
ニュースでは、ズリーン地方に何百人といる狩猟許可を持つ猟師たちの中で、熊を撃ったことがある、十を持って熊と対峙したことがある人が10人程度しかいないのが問題だと指摘していた。猟師が怪我なく熊を仕留めるには一発で命を奪うのが一番いいらしいのだが、未経験の猟師たちにそれが可能なのだろうかという疑問を投げかけていたのは、そんな猟師たちの一人だったかな。
現時点では、猟師たちの腕に対する懐疑も、猟師たちの不安も、杞憂である。チュネク氏の決断に対して、ズリーン地方の動物保護関係の役人が、保護指定されている野生動物は、射殺する場合も、罠を仕掛けて捕らえる場合にも、特別な許可が必要で、そのためには他に方法がないことを明らかにしなければならないのだと言ってチュネク氏の発言を否定していた。要は、考えられるあらゆる可能性を検討した上で、すべてが不可能だった場合にのみ許可が下りるということだろうか。昨年のイノシシは保護の対象ではなかったから、この手の許可は不要で駆除の命令が出せたということか。
一番いいのは、熊が山奥に戻って人間の生活圏に出てこなくなることなのだけど、物言わぬケモノに言って聞かせるわけにはいかないし、さてさてどうなるのであろうか。
2018年10月24日22時15分。
豚コレラで検索したらなぜかこんなのが出てきた。