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2019年10月17日
「スラブ叙事詩の行方」(十月十五日)
去年だったか一昨年だったか、日本に何十年ぶりかに貸し出され、話題を集めたあるフォンス・ムハの「スラブ叙事詩」は、現在プラハのどこかの倉庫に眠っている。日本から帰ってきた後、チェコスロバキア第一共和国独立記念行事の一環として、ブルノの国際展示場などで、展示が行われていたが、それが終わった後は、行き場がなくなり、巻き取られて倉庫に放り込まれた。プラハは依然として、ムハとの約束であった専用の展示会場を用意できていないのである。
現時点では具体的な計画もできていないようで、このままではまた忘れられた作品になることを恐れたプラハ市では、5年と年限を切って、モラフスキー・クルムロフに貸し出す計画を立てていた。そのぐらいあれば専用の会場が準備できると踏んだのだろうが、5年どころか、最低でも7年はかかるだろうなんて声も漏れてきている。
それで、なのかもしれないが、モラビアの果てに送るよりはプラハの内部にとどめたいと考え出した一派が出てきて、プラハ南部のズブラスラフにある城館に展示をしようという声も上がっている。問題は、ズブラスラフで展示の準備にかかる時間が2年ほどと、半年から1年と言っているモラフスキー・クルムロフより長いことと、旧貴族への資産返還の一環で個人所有になっているため、賃貸料を払わなければならないことのようである。クルムロフは当然、そんなものはいらないと言っている。
担当者が代わると、引継ぎもろくにないまま、計画がひっくり返されることのあるチェコの役所の悪癖がまた出てきたということなのだろうが、市当局内にも、クルムロフ派、ズブラスラフ派があって、なかなか決められないようである。それどころか遺族も、プラハ嫌いで知られるジョン・ムハ氏はクルムロフを推し、別の孫娘はズブラスラフを推すという混沌とした状況にある。
昨日の夜、たまたまテレビを付けたら、この件に関するレポートが放送されていて、プラハの両派の声を伝えていたのだが、クルムロフ派(と思しき)人が、市会議員に両方の城館の現状を視察させて、説明を受けた上で、議会の投票で決めるのが一番いいと語っていたのに対して、ズブラスラフ派の人が、「スラブ叙事詩」がクルムロフに行ったのは共産党の決定だったと語っていたのには、唖然としてしまった。悪いことは何でも共産党のせいにしておけば、何とかなるのがチェコだけど、それにしてもプラハ市の関係者としては無責任な発言である。
今でこそ、チェコの至宝のように語られるムハの「スラブ叙事詩」だが、作品が完成した1920年代の終わりには、当時の芸術的志向が前衛芸術に向かっていたため、あまり高く評価されなかったようだ。だから、寄贈を受けたプラハ市も、専用の展示会場を建設するという約束を、ずるずると引き延ばし、なし崩しになかったことにしようとしていたのだろう。第二次世界大戦前の第一共和国の時代でさえ、建設されることはなく、チェコの文化財に指定されたのも実は2010年と最近のことである。
戦災を避けるために巻き取られてどこかに隠され、戦後プラハ市内の小学校の倉庫に移された後は顧みられることなく放置され、朽ち果てるに任されたいた。ジョン氏は、母親に連れられてその倉庫に出向き、雨漏りの水をかぶり変色しカビが生え、ところどころ破れた作品を前に涙を流した母親の思い出を語っていた。これがあるから、ジョン氏は、プラハ市に展示するのを嫌がっているのだろう。
そして、1950年代になって、モラフスキー・クルムロフの美術関係者が、再発見し、クルムロフに移して、修復作業を始めたのである。恐らく、共産党がクルムロフに移すことを決めたのではなく、クルムロフ側に許可を与えただけではないのか。共産党にとってはブルジョワの画家であるムハの作品をプラハで展示するのが許せなかっただけで、プラハ以外の地方であればどこでもよかったはずである。
数年にわたる修復の後、モラフスキー・クルムロフで展示が始まるのが、1963年だったかな。それから少しずつ興味を引き始めて、確か70年代だったと思うけれども、作品の一部が日本に貸し出されて日本中のあちこちで展示が行われたらしい。そんな関係者の努力の果てに「スラブ叙事詩」は価値を高め、芸術的にも高く評価されるようになったのだ。それにプラハが気付いて返せと言い出したのもそれほど昔の話ではないはずだ。その裏に、2000年代に入ってモラフスキー・クルムロフの城館を買収したインヘバという会社の存在があるという話もある。プラハでの展示会場の候補となっていた産業宮殿を所有していたのもこの会社だという。
とまれ、プラハの市議会で、まともな決定、つまりクルムロフ行きが決まることを願っておこう。
2019年10月16日12時。
2019年10月14日
神とのお別れ(十月十二日)
金曜日にジョフィーン宮殿で行われた一般のファンのためのお別れに集まった人の数は、予想よりも少なく5万人だった。考えてみれば、午前8時から午後10時という14時間の間に、訪れた人、それぞれが発議の前まで進んで、お祈りをして出てくるわけだから、最初から30万という数は無理だったのだ。14時間で5万秒強にしかならないことを考えると、5万人という数字は、限界と言っていい。
それだけの人がプラハに集まっただけでなく、チェコ各地で追悼のための場所が設置され、蝋燭や花束をささげるためにたくさんの人が集まっていた。プラハのスミーホフにあるゴットの邸宅の前の道路は、この十日ほどの間に人々が持ち寄った追悼のための蝋燭であふれかえっている。プラハ市の清掃局では日曜日まではこのままにしておき、月曜日に改修して一定期間保管するという。ハベル大統領のときには、人々が持ち寄ったろうそくを使って芸術家が追悼のための作品を作ると言っていたけど、今回はどうなるのだろうか。
金曜日のジョフィーンで騒ぎを起したのが、最近運輸大臣に就任したクレムリーク氏である。公用車で会場に乗りつけ、大臣の特権だかなんだか知らないけど、並んでいる人を無視して会場に入り追悼の意を捧げたらしい。これにはバビシュ首相もお冠で、大臣で土曜日の追悼のミサに出席できるのに何でバカなことをするんだと批判していた。本人は、ゴットのファンであることを主張してどうしてもここに来たかったと述べていたが、ならば仕事を調整して行列に並べばよかったのだ。ゴットにかこつけて人気取りをしようとしているだけだと批判している政治家もいたけど、その辺は五十歩百歩というよりは、目くそ鼻くその世界である。
夜のニュースでは、ゴットと仕事をしたことのある若手歌手ということで、ブルゾボハティーがコメントを求められて、この事件を念頭に、政治家を揶揄するような発言をしていた。しかし、こいつもわかっていない。ゴットは自らの存在の大きさ、影響力の大きさを自覚して、政治的な発言は避けていたのだ。追悼する側が、ゴットに絡めて政治的な発言をするのもなしである。
さて、本日土曜日は、政府によって国全体が喪に服す日と定められており、官公庁に掲揚された国旗やEUの旗などは半旗にされている。スポーツなどのイベントは主催者次第ということだったが、大半は予定通り開催し、開始前に1分の黙祷、もしくは拍手をゴットに捧げていた。この国全体が喪に服すというのはハベル大統領の葬儀以来のことで、ここにもゴットのチェコにおける存在の大きさが見て取れる。ちなみに、個人の葬儀だけでなく、2001年のアメリカで起こったテロの際、2011年の東日本大震災の際にも適用されている。
ミサの会場となるプラハ城の入り口の前には、早朝から人々が集まり、入り口の開く8時にはすでに40人ぐらいのファンが並んでいた。聖ビート大聖堂枠の中庭でミサの様子を見るためにいい場所をとるために行列したということか。プラハ城前の広場でもミサの様子はプロジェクターで見ることができるはずだけど、ファン心理としてはできるだけ近いところで見送りたいというのもあったのだろう。こちらなら、棺を載せた車が出て行くのも見送れるはずである。
プラハまで出かけられない人のために、チェコテレビが、ニュースチャンネルの24だけでなく、1でも中継してくれた。夜のニュースによると、二つのチャンネル合わせて100万人以上の人が視聴していたという。それに実は民放のノバも中継していて、ゴットのファンの中にはチェコテレビよりもノバを見そうな層も多いことを考えると、3チャンネル合わせて300万人を越えていたとしても驚きはない。全人口の約3分の1がテレビを通してゴットを見送ったのである。
ミサの参加者の中には、スロバキアの首相のペリグリーニ氏もいて、チャプトバー大統領は出席はしなかったけれども花輪を真っ先に贈ってきていた。政治家枠で参列した人の人選は、国葬なので政府によるのだろうが、それ以外は遺族が人選して招待したようだ。当然、歌手や俳優などの芸能界の関係者が多く、代表してハベル大統領夫人と、カルロビ・バリ映画際の実行委員長である俳優のバルトシュカが二人で挨拶をし、弔辞を担当したのは親友と言ってもいいボフダロバーだった。
ボフダロバーによると、自分の方が八つも年上だから、死んだら葬式で弔辞を述べるのをゴットに頼んで引き受けてもらっていたらしい。それが今回この役割を引き受けた理由で、ゴットがただ一つ約束を破ったのが、このボフダロバーの葬儀で弔辞を述べる件だったという。その代わりに天国で私の席をちゃんと準備しておけよと呼びかけて、ボフダロバーの言葉は終わった。なかなか感動的で、共産主義の時代を生き延びた人たちの間にある連帯感と言うものを感じさせられた。
共産主義時代のチェコスロバキアの人々の心を支えたゴットが亡くなったことで、ポスト共産主義と言われた時代も終わるのかもしれない。神を失ったチェコの今後がどちらに向かうのか、チェコに住むものとしても気になるところである。
2019年10月12日25時。
タグ:カレル・ゴット
2019年10月12日
行列好きの民族(十月十日)
神のカーヤがなくなって十日目、明日金曜日には、プラハのブルタバ川に浮かぶ島「スロバーンスキー・オストロフ」にあるジョフィーン宮殿でお別れ式が行われる。宮殿内に棺が安置され、一般の人も花などをささげることができるようだ。ニュースなどでは、30万人もの人が訪れると予想されている。チェコ以外から来る人もいるだろうけれども、平日の金曜日にチェコの全人口の3パーセントほどの人が集まるわけだから、カレル・ゴットの人気というのはやはりとんでもない。
一般の人がジョフィーン宮殿に入れるのは金曜日の午前8時からだというのに、夜7時のニュースが始まる時点で、すでに最初のファンが行列に並ぶ準備をしていた。ジョフィーンではコンサートが行われており、まだ会場内の設営はもちろんのこと、外の集まった人たちに行列を作らせるための柵などの設置も始まっていなかった。それでも島に渡る橋の上で、準備が整うのを待つ人が10人近くいただろうか。
最初の一人はチェコ人の男性で、次には何とドイツから出てきたというグループがいて、さらに南ボヘミアから来た人たちが、一晩中行列して会場を待つために、飲み物食べ物、毛布などを準備して並んでいた。行列は、ジョフィーン宮殿の前から、スロバーンスキー島を出て橋を渡り、川岸の道を国民劇場沿いに北上し、一つ目のレギエ橋をマラー・ストラナ側に渡って、川岸を南下すたところまで延びることが予想されている。
この周辺では交通規制が行われ、トラムも運行を停止することになっているので、プラハ市の交通局は、地下鉄のナーロドニー・トシーダの駅を会場への最寄りの駅として利用することを勧めているが、警察ではブルタバ川の対岸のアンデル駅の利用を勧めているらしい。会場まではナーロドニー・トシーダのほうが近いけれども、行列の尻尾に就くためにはアンデルのほうが便利になるという判断である。
鉄道会社も、金曜日と言えば、午後プラハから外に向かう電車の利用率が高く、車両の追加をすることが多いのだが、明日は朝からプラハ行きの輸送力の増強に全力を挙げると言っていた。それでも限界はあるから、確実に乗りたいなら事前に座席を予約することを勧めている。夜の10時まで開いているとはいっても、地方からだと仕事が終わってからというわけにもいくまい。そうなると、ゴットのために年休を取った人がたくさんいそうである。これで大丈夫なのかチェコ経済と言いたくなるけど、週末にやるとさらに人手が増えてプラハの混乱は拡大するだろうから、金曜日というのがぎりぎり妥協できる線なのかな。
個人的には、行列に並ぶというだけでもうんざりなのだが、チェコの人はやはり、日本人と同様に行列に並ぶのが好きなのだろう。日本人の行列好きは、ウィンドウズ95が発売になったときのばか騒ぎとか、コンサートなどのチケットの販売が電話で予約できるようになったときに、行列しないのが寂しいなんてことをいう人もいたしで、疑いの余地はない。
チェコ人の場合には、共産主義の時代はもの不足で、どの店に何が入荷するという情報が入ると、確実に買うためには行列しなければならなかったんだという話をさんざん聞かされたから、行列は嫌いなんだろうと思っていた。しかし、規模は今回ほどではないとはいえ、プラハ城や国会などの普段は一般公開されていない場所が、公開される日にチェコ各地からやってきた人たちが行列を作るし、スーパーの新規開店のときにも行列ができることがあることを考えると、実は行列に並ぶのが好きな人が多いんじゃないかと思えてくる。行列ができていたから、何の行列かわからなかったけどとりあえず並んでみたなんてことを言う人もいるし。
昔、日本で知り合ったアイドルファンのチェコ人も、サイン会に徹夜で日本人に交じって行列して、同じアイドルのファンだということで、あれこれ話せたなんてこと楽しそうに語っていたしなあ。あの人が追っかけしていたアイドルは引退してしまったけど、今でもアイドルファンを続けているのかな。
とまれ、土曜日にはプラハ城の聖ビート教会(多分)で、プラハ大司教の主催の元、追悼のためのミサが行われる。これが国葬ということになるのかな。ただ参加できるのは事前に招待された人だけで一般の人は入れない。招待される人の中には当然政治関係者も大量に並んでいて、ゴットが宗教によっても政治家によっても利用されるのは避けようがない。本人もそれは仕方がないと思っていたのではないだろうか。このミサのためにプラハ城内でも交通の規制が行われ、観光客の移動に影響を与えそうだとも言う。
それに、教会内に入れない一般の人のために、たしかプラハ城内の中庭の一つか、プラハ城前の大きな広場かに、両方かも知れんけど、巨大なスクリーンを設置して、ミサの様子を映し出すいわばファンゾーンのようなものを設置することが決まっている。うちのは何でそこまでするかと頭を抱えているけど、やはりチェコ人にとって、一部のドイツ人にとっても、ゴットという存在は、神のごとく大きなものだったのだということを意味しているのだろう。
2019年10月10日24時。
2019年10月05日
カレル・ゴットの話(十月三日)
昨日のニュースで、政府が、遺族の同意が得られれば、ゴットのために国葬を行なうことを決めたといっていたが、今日になって奥さんが、政府の申し出を受けて国葬を行なうことに賛成するというコメントを出していた。ハベル大統領以来の国葬ということになる。ビロード革命以後だと、陸上のザートペクも国葬だったのかな。
ゴットの人柄については、よく知らないが、ある意味共産党体制の象徴だったゴットのことを、共産党政権にいじめられた同業者、歌手や俳優たちも悪く語ることがないのが、何かを物語っているに違いない。マルタ・クビショバーもイジナ・ボフダロバーも、ゴットを失った悲しみをインタビューで述べていた。
ゴットに次ぐチェコ音楽界の伝説的存在で、同時期にデビューしたペトル・ヤンダは、ゴットの思い出を聞かれて、人気が出てからも全く変わらなかったといい、成功した理由を勤勉さだと言いきった。ヤンダは、「カレルは、求めに応じてドイツ語や英語などいろいろな言葉で歌を歌った。俺にはできない」と言い、ゴットが様々な言葉で歌うために、言葉の勉強をしていたはずだと付け加えた。
英語で歌うことになったのは、ラスベガスのショーに採用されたからだろうし、ドイツ語で歌うことになった事情については、カレル・シープのトーク番組でゴット自身が語っていた。それによると、ブラチスラバで行われた音楽フェスティバルに西ドイツのレコード会社ポリドールの社長が、掘り出し物を探しにやってきて、ゴットの歌を聞いたことがすべての始まりだったという。
旧共産圏のチェコスロバキアの歌手がドイツでも人気だったというと、同じ共産圏の東ドイツで人気だったのだろうと思ってしまうが、そうではなくて、西ドイツで歌手としてデビューをしてドイツ語で歌を歌っていたのである。その社長は、ゴットにこの歌をドイツ語で歌うことを要求し、最初はシングルを一枚出すという契約だったらしい。
ゴットは語らなかったが、その前には、ポリドールと共産党政権の間で、交渉がもたれていたはずであり、ポリドールが目を付けたゴットをドイツに貸し出すにあたって、何らかの代償を得ていたのは疑いを得ない。ようは、西側の外貨稼ぎのために輸出された商品の一つがゴットだった。その商品は、実は非常に高品質で、ドイツでもゴットのレコードが何枚も発売されることになる。
ゴットはドイツ語で歌い始めたころのことを回想して、「自分ではドイツ語の勉強をしなかった。でもポリドールの人たちに、ドイツ語でしゃべることを強要されて頑張っているうちにできるようになったんだよ」なんてとぼけたことを言っていた。それに、「文法の本を見ると寝ちゃうんだ、俺。わかるだろ」とか言ってシープを笑わせていたけど、ドイツのテレビでしばしばトーク番組に出演して問題なく話ができていたらしいことを考えると、実はちゃんと勉強していたのではないかも思う。もしくは、本当の意味で語学の天才だったのかもしれない。ラジオ聞いたりテレビ見たり、新聞雑誌を読んだりしているうちにできるようになったと言っていたし。いずれにしても人知れず努力をしていたはずである。
シープはさらに、チェコ人がドイツ語を話す時にやりがちな発音上の間違い、もしくはチェコ訛のドイツ語の発音について、問題にならなかったのかと質問していた。それに対して、ゴットは自分でも発音がチェコ語風になっているのは気づいていて、ただそれがドイツ人にどう聞こえているのかがわからなかったから、レコード会社の人に、「俺、訛ってると思うんだけど、いいのか」と質問したら、その訛が異国風でいいんだという答えが返ってきたと言っていた。まあ、同じドイツ語でも地方によって大きな違いがあるというから、その方言の一つとしてみなされたのかもしれない。
ゴットのドイツでの人気を不朽のものにしたのは、今でもしばしば再放送されるらしい子供向けのアニメ「みつばちマーヤの冒険」だった。ドイツ語版では主題歌をゴットの盟友ともいうべき作曲家のカレル・スボボダが作曲し、ゴットが歌ったのである。つい最近、ドイツ人の若い女性歌手に交代するまで、「みつばちマーヤの冒険」が放映されるときには、ゴットの主題歌が流れていて、若い世代にドイツ人がゴットの存在を知るきっかけになっていたようだ。ドイツやオーストリア、スイスのドイツ語圏でコンサートをするときにはこの歌は欠かせなかったんじゃないかな。
日本のアニメーションがヨーロッパ、とくにドイツ語圏で放送されるときには、作中の音楽を差し替えたり、主題歌を新たに製作したりすることがあるのだが、その際にスボボダが作曲家を務めていることがままある。「ニルスの不思議な旅」もそうだったし。
チェコの大スター、カレル・ゴットがドイツで日本のアニメの主題歌を歌ったおかげもあって人気歌手なったというのは、日本人にとってはなかなか興味深い事実だと思うのだけど、ドイツで「みつばちマーヤの冒険」が放送されたことを知っている人はいても、その主題歌を歌ったのが、ドイツ人ではなく、チェコ人だったということを知っている人はどのぐらいいるだろうか。
今日のテレビでは、ゴットの葬儀が国葬で行われることを、キリスト教関係と思しき人が批判していたけれども、うーん、キリスト教に批判する資格はあるのかねえ。今では政党キリスト教民主同盟の尽力もあってか、なかったことにされているけど、共産党政権時代の教会、教会関係者の多くは、教会の存続と、活動の継続を認められる代わりに、秘密警察の協力者と化していたらしい。ミサを行えば、参列した人の名簿を秘密警察に提供し、ひどいときには懺悔の内容を漏らしていたともいう。
個人的には、共産党の支配下で、不満を押し殺して適応しながら生きていた当時のチェコ人の代表がカレル・ゴットで、国葬にすることには、かつての自らの姿をゴットに重ねて葬るという意味が、チェコ国民にとってあるような気がする。チェコ社会におけるゴットの存在は、キリスト教会よりも重く重要である。だからこそ、プラハ大司教は生前からゴットが亡くなったら追悼のミサを主催することを約束していたのだろう。かつての共産党だけではなく、キリスト教もゴットの人気を必要としているのである。
周囲には、ゴットなんてという反応をする人が多いので、ゴットの人気は過去のものになってしまったのかと思っていたのだが、今回、自宅の前などいろいろな場所に追悼のためのろうそくを捧げたり、記帳に訪れたりする人が多く、その中には若い人からお年寄りまでいることを考えると、カレル・ゴットというのは、今でもチェコ民族に愛されているのだと思う。そこにあるだけでありがたい神のごとき存在として。そうゴットの若い頃の自伝的映画の題名のように「星(スター)は天上に向かって落ちる」のである。
2019年10月3日23時。
2019年10月04日
神の死(十月二日)
夕方うちに帰ってテレビをつけたら、チェコテレビ24で、緊急特集番組が放送されていた。60年近くにわたって、チェコの音楽界に君臨していたカレル・ゴットが亡くなったというのである。最近、白血病にかかって苦しんでいることを発表していたのだが、いつものゴシップの一つだろうと考えていた。この人と、その一家ほどチェコのゴシップ誌に話題を提供してきた存在はチェコにはないのである。
今年の7月には80歳の誕生日を迎えて、久しぶりに前妻との間の娘たちとも一緒にお祝いをしたなんてニュースもあったし、チェコテレビのインタビューに元気に答えていたから、まだまだ大丈夫だと思っていた。ハベル大統領、チャースラフスカーについで、チェコ人の幅広いそうに愛され、一つにまとめてきた存在が世を去った。ゼマン大統領の存在でただでさえ分断が進んでいるチェコの社会が今後どうなるのか心配になってくる。
チェコの国の外で最も有名なチェコ人というと、チェコを知っている人ならハベル大統領の名前を挙げるかもしれない。ただハベルの名前が、チェコを知らない人の間にまで浸透しているかというと、日本でも状況は怪しい。20〜30年ほど前までなら、日本で一番知られたチェコ人の名前を挙げるのに迷う必要はなかった。東京オリンピックのチャースラフスカーを覚えている人が多かったのだ。チェコではなくて、チェコスロバキアだと思い込んでいる人もいただろうけど。今なら、長野オリンピックで名を売ったアイスホッケーのヤーグルか、サッカーのネドビェットのほうが知られているかもしれない。
とまれ、ヨーロッパ、ヨーロッパの中でもポーランドやロシアなどのスラブ圏はもちろん、ドイツ、オーストリアなどのドイツ語圏でも、最も知られているチェコ人と言えば、西側で共産主義体制が倒れる前から「黄金の声」「東からやってきたシナトラ」などの異名を付けられていた「神のカーヤ」こと、カレル・ゴット以外には考えられない。昔からスラブ系の言葉だけでなく、ドイツ語や英語でも歌を歌ってきて、国によって歌う言葉を使い分けているらしい。
そんなゴットが生まれたのは、まだ第二次世界大戦中の1939年で、場所は西ボヘミアのプルゼニュだった。工業学校を卒業した後、電気工として生活しながら、音楽活動をはじめ、さまざまな音楽コンテストで活躍し、デビューにつなげたというのが、カレル・ゴットの公式のストーリーなのだが、実際はちょっと違ったようだ。
本人の話では、プラハの音楽学校で声楽のテノールを学んで卒業した過去があるのに、デビューの際に、レコード会社から隠すように言われたのだという。声楽を学んだ人間が、歌手としてデビューするよりも、正式な音楽の勉強をしたことのない労働者が、自らの才能だけを頼りに歌手デビューしたというストーリーのほうがインパクトがあって、ファンを、特に女性のファンを獲得しやすくなるということだったらしい。
その結果、ゴットはチェコスロバキアの音楽シーンに華々しく登場し、大げさに言えば一夜のうちに大スターになったらしい。それが1960年代の前半のことで、以後ゴットは、ゴットの歌は、チェコスロバキア国民の希望の星となる。不自由な体制に支配された生活をゴットの歌を聞いて耐え忍んでいたというと話が出来過ぎだけれども、特に女性を中心に圧倒的な人気を誇り、歌手の人気アンケートでは、それこそ毎年のように一位の座を獲得して、「勝てるとは思っていませんでした」と受賞のインタビューで答えるところまでが定番化していたようだ。
ゴットの人気を最も必要としていたのは、本人ではなく、共産党政権だったらしく、師匠が冗談半分で、ビールの値段が高騰するか、ゴットが亡命するかしたら政権が倒れると言われていたなんて教えてくれた。そして、師匠は、ゴットは実は二回西側に亡命を企てたことがあり、二回ともチェコスロバキア政府の懇願に応えて、帰国したのだと付け加えた。
一度は、西ドイツに出かけたまま、戻ってこなかったときのことで、本人はこのとき「亡命の練習をしてきた」などと弁明していたらしい。もう一回は、キャリアの初期にアメリカのラスベガスで半年ほど仕事をしたときのことではないかと考えているのだが、どうだろう。亡命の練習にしても、ラスベガスの話にしても、これ以上本人の口から真実が語られることは亡くなったことを考えると残念でならない。
1989年のビロード革命に際しては、反体制派だったマルタ・クビショバーとともに、国歌を歌い、反体制の活動家たちと、体制内で不満を持ちながら活動してきた層の協力関係の象徴となった。あのとき、ゴットが反体制側に歩み寄り、クビショバーがゴットを受け入れたことが、ビーロド革命をビロードにしたのだろうと今にして思う。それが政治的な主義主張を越えた芸術家、この場合は歌手の持つ力というものである。政治家だけではあそこまでうまくいかなかったはずだ。
以後も、共産党体制下で、「アンチ憲章77」に署名したとか、共産党に庇護されていたとか批判されることも多かったけれども、特に反論することもなく、歌を歌い続け、政治的は発言はほとんどしなかった。それは自らのチェコ民族に対する存在の重さを知り、影響を与えないように自制していたようにも見える。
毀誉褒貶あれこれあるけれども、それも含めてカレル・ゴットはチェコ的な、極めてチェコ的な大スター、いや何をするでもなくそこに在ることこそが重要な神にあらせましたのだ。共産主義という宗教を信じられなくなったチェコの人がすがった神的な存在、それがゴットで、だからこそ「神の」という枕詞がつけられたのだと解釈しておく。
この件、もう少し続く。
2019年10月2日24時30分。
2019年09月26日
プラハ大変?(九月廿四日)
同僚が、ネット上のニュースを見て、「えっ国会に爆弾が」なんてことを口にしていて、一瞬ぎょっとしたのだが、続報で爆弾が発見されたとか爆発したとかではなく、爆弾を置いたという匿名の通報が消防署に届いただけだったということがわかった。チェコには極右の労働党みたいな存在はあっても、テロ組織は存在しないし、イスラム系のテロもチェコでテロを起してもインパクトにかけるから、チェコで爆弾テロが起こるなら、社会に不満を持つ個人の犯行という可能性が一番高い。今回のはテロもどきだったわけだけど。
さらに情報を集めると、犯人が爆弾を設置したと通報したのは国会の建物だけではなかった。プラハではプラハ6区の区役所と借金が返せなくなったときに取立てを担当すする強制執行の執行機関の建物、それにブルノの最高検察の建物、国会とあわせて四箇所に爆弾を置いたと主張したようである。
プラハ6区は、例のコーネフ像の問題で、親ロシア、親ソ連派から批判されていて、区長に対して脅迫の電話がかかってきたなって話もある。最高検察は、バビシュ首相の「コウノトリの巣」事件をどうするかで、注目を浴びていて、現時点では起訴しないことになりそうだから、反バビシュ派の不満のほうが大きいようだけれども、決定がひっくり返る可能性もなくはない。親バビシュ派も不満を持っていてもおかしくない。チェコの国会の現状に、満足できているチェコ人は一体全体存在するのだろうか。
そう考えると、今回は借金での強制執行に不満を持っている人の犯行ということになるだろうか。すでに執行を受けたのか、これから受けることになっているのかはともかく、個人的な不満を他の器官へも脅迫も交えることで、公的な不満に見せかけようとしているのかな。借金大国のチェコでは借金を抱えている人は多いし、強制執行を受けたり自己破産をしたりしている人の数も多い。
強制執行のやり方が悪辣すぎるという批判も昔からあって、最近法律が何度か改正されてそんなことは怒らなくなったと思いたいのだが、以前は子供がトラムやバスに無賃乗車したのが発覚して、罰金を払わなければいけなかったのを親に言えずに放置してしまって、延滞公やら利子やら、更なる罰金なんかで、信じられないぐらいに額が膨らんでしまっての強制執行なんてこともニュースになっていた。なかなか払われない罰金やその延滞金は、債権として回収業者に売り払ってしまえるのも問題だったのかな。
警察では、今回の通報に関しては、それほど信憑性が高くないと見たのか、それぞれの建物の周囲の通りを通行止めにしただけで、建物の中にいた人たちの緊急避難は行なわなかったようである。捜索の結果、建物中に爆弾はないことがわかり、通行止めも解除されたようだけど、お昼ごろから1時半ぐらいまで一部の道路が使えなかったのである。
プラハはそれだけでは終わらず、地下鉄も事故で止まった。最初に事故が起こったのはC線のフローレンツ駅で、2時半ごろのこと、その15ぐらい後には、A線のボジスラフカ駅で、利用者がホームから線路に落ちて電車に轢かれるという事故が起こって、運行が停止した。どちらも自殺を図ったのではないかと報道されていた。
プラハの地下鉄では乗客が揉め事を起こすことは多くても、事故は滅多に聞かないし、鉄道での自殺も聞いたことがないから、酔っ払うか何かで線路に落ちたのかと思った。自殺もまた、一種の社会への抗議だから、これもまた現在のチェコに不満を抱えている人が多いことの証明なのだろうか。
爆弾の通報と、二件の地下鉄での自殺が同日に起こったのは偶然なのだろうけど、プラハの人の中には、移動に余計な時間がかかって困ったという人もいるかもしれない。救いはどちらも比較的短い時間で復旧したことである。うーん、落としどころがわからなくなってしまった。
2019年9月24日25時。
2019年09月05日
コーネフ像続報(九月三日)
先日話題にしたプラハのコーネフの像についてだが、プラハ6区のロシア大使館との交渉は失敗に終わった。銅像の引取りに関しては拒否され(回答なしかもしれない)、ペンキを除去しないままにすると主張したのに対しては、外交筋から正式に抗議が入った結果、ペンキの除去を余儀なくされた。ロシア側としては、ソ連時代のものであっても国に対する功労者、しかもその後粛清にもあわなかった「英雄」を冒涜されるのは許せないのだろう。
チェコ側は、1968年のプラハの春など、旧東側諸国で起こった民主化運動の弾圧を直接指揮した人物であることを問題にしているが、ロシアではいまだに、同盟国の要請を受けて反乱勢力を鎮圧するために出兵しただけだというソ連時代の公式見解を変えていないので、コーネフが非難の対象になるようないわれはないのである。個々の国が誰を功労者、英雄とみなすのかは、それぞれの国の事情もあるし、他国がとやかく言うのは内政干渉に当たりそうだからとやかくは言わない。ただ、その英雄の銅像が他国にある場合には、その国の国民感情にも配慮するべきだとは思う。
さて、ペンキを除去しても、再度かけられる可能性は高く、いたちごっこになって経費だけがかさみ続けるのを嫌がったプラハ6区では、周囲に足場を組んで、ビニールシートで像を覆い隠してしまうという手に出た。意外だったのは、これに反対する主体がロシアではなく、チェコ人のグループだったことだ。
最初はロシアシンパのチェコ人が、ビニールシートを勝手に除去して、像が見える状態にしただけだったのだが、それが公共物破損かなんかで警察沙汰になって、プラハ6区が再度覆い隠そうとしたところ、そんなに数は多くなかったとはいえ、銅像の周りに集まった人たちで抗議集会が開かれた。ニュースでは抗議の中心人物の一人として社会民主党の国会議員が登場して、「第二次世界大戦末期にプラハを開放してチェコ人を救ってくれた恩人なんだ。その像を隠してしまうなんてありえない」というようなことを主張していた。
最近の流行なのか、「歴史的な事実は書き換えられないんだ」なんてことも言っていたけど、多くのチェコ人が問題にしている1968年のできごとについて、歴史的な事実をどうとらえているのかはコメントしなかった。今でもロシアとつながっている共産党の人が言うならともかく、おそらく左派だろうけど社会民主党の議員の口からこんな言葉が出てくるのは意外で、だからこそニュースでも取り上げられたのだろう。でもこの前も何かで問題発言して党内でもめていた人のような気もする。
プラハ6区では結局覆いも足場も撤去して、銅像を隠すのは諦め、ペンキをかけられても直ぐに落とせるように、銅像の表面に特殊な処置を施すことでこの一件を収めることにしたようである。区長に対して脅迫の手紙やメールが届いていて、警察の護衛がつくことになったというからこれ以上の無理はできないということかもしれない。
最初にこの抗議のニュースを聞いたときには、銅像を撤去するのではなく、覆い隠すという、抜本的な解決にはならないちょっと姑息な手法を選んだことに対する抗議なのだろうと思ってしまった。それが像を隠すことに対する抗議が起こるとは思わなかった。隠すだけでこれなのだから、撤去なんてことになったら、さらに大きな抗議集会が起こりそうである。チェコ人にとって、8月21日のワルシャワ条約機構軍による侵攻は、日本人にとっての広島、長崎への原爆投下と同じような意味を持っていると思い込んでいただけに意外だった。
ところで、チェコスロバキアは、1968年の「プラハの春」の弾圧と、駐屯ソ連軍によるその後の被害に関して、ソ連と後継国家のロシアに対して謝罪や賠償の請求をしていないという話を聞いたことがある。確か師匠が言っていたのだと思うのだが、ビロード革命後に民主化が進む中、ソ連軍が駐屯したままだと、また武力でひっくり返される恐れがあると考えたときの政府が、謝罪や賠償を求めないというのを条件の一つにして、ソ連軍を可及的速やかに撤退させることで合意に達したのだと言っていた。
正式に両国間で合意して結ばれた協定に記されているので、チェコではロシアに対して歴史認識を改めるような内政干渉もどきの要求をすることはないし、賠償などの請求もできないのだとか。この件に関してチェコがロシアを非難するとしたら、プーチン大統領が「プラハの春」の弾圧に抗議した人たちをテロリスト扱いしたときぐらいじゃなかったか。日本もアメリカに対して原爆を落としたことを、政府として公式に非難はしていないはずだから、それと同じなのかな。
2019年9月3日24時30分。
昨夜は停電でネットに接続できなかったため、朝になって更新。
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2019年08月24日
八月廿一日のできごと(八月廿二日)
8月21日に、ワルシャワ条約機構加盟国の軍隊が「プラハの春」の民主化運動を押しつぶすために、チェコスロバキアの国境を越えて侵入してきたのは、1968年のことだった。各地で起こった抗議行動は、ソ連軍を初めとする軍隊の手によって鎮圧されてしまい、チェコ人、スロバキア人たちの抗議行動は、一部の例外を除いて街から姿を消す。
その後も、ワルシャワ条約機構加盟国に対する抗議と、沈黙するチェコスロバキア国民に抵抗を呼びかけることを目的とした二人のヤン、パラフとザイーツの焼身自殺や、アイスホッケー代表が世界選手権でソ連代表を二回破るなどの出来事を経て、チェコスロバキアの人々が、再び抗議のためにナチに出たのは、侵攻からちょうど一年1969年の8月21日のことだった。
一年前と同様に、チェコスロバキア各地で抗議の集会やデモ行進が行われたが、今回もやはり暴力的に鎮圧されてしまう。違ったのは、ソ連などの駐留軍ではなく、チェコスロバキアの治安維持組織と民兵組織が鎮圧部隊の中心となっていたことらしい。
チェコスロバキア全土で、5人の犠牲者が出たというが、この数は少ないというべきか、多いというべきか。1968年より少ないのは確かだが、救われないのは、犠牲者の中に抗議集会に参加してなかったのに、たまたまその場を通りかかって、流れ弾に当たって亡くなった人がいることで、一番若いのは14歳の男の子だったという。鎮圧になれていない民兵組織が参加していたせいだろうか。
それからこれも通りがかりの女性を含め二人の人が殺されたブルノでは、当時何かのスポーツの世界選手権が行われていて、世界中から取材に来ていたスポーツ記者たちが、大会そっちのけで抗議の様子を取材してくれたおかげで、映像や写真などが残っているのだという。
また、3人の死者と大量の負傷者を出したプラハでは、市内各地の病院で、非公式の、記録に残さない治療が行われていたらしい。非公式の患者は入院が必要でも公式の病室には入れられないので、ほとんどだれも来ないような地下の廊下なんかに収容されていたのだとか。治安維持部隊はデモ参加者を追いかけて病院にまで押しかけてきたと言うから隠れるしかなかったようだ。銃弾が当たって壊れてしまった医療機器も残されていて、手術中じゃなくてよかったと当時を知る人が回想していた。
歴史家の話によると、チェコスロバキアの人々の抵抗の心を折ったのは、1968年のソ連など外国の軍隊による弾圧ではなくて、この1969年のチェコスロバキアの人々自らの手による弾圧だったのだという。同じチェコスロバキアの国民が、抗議する側とそれを鎮圧する側に分断されてしまったのは、ソ連の巧妙なやり口なのだろうが、その結果、憲章77や亡命者などを除いて、チェコスロバキアの人々は共産党政権にたいして従順になってしまう。
心を折られたというのは、1989年の11月のビロード革命の際に、68年、69年のことを知っている師匠の旦那が、「まだ早い、早すぎる」と言って自分ではデモに参加できなかったのにも現れているのだろう。最初にこの話を聞いたときには、無頼派っぽいこの人なら、真っ先に抗議に立ち上がっただろうにと不思議に思ったのだが、若き日に心を折られていたと考えれば、その意外な慎重さにも納得がいく。
言ってみれば、この1968年8月21日の出来事というのは、その後20年間のチェコスロバキアの在り方を決定づけたと言ってもいい。チェコスロバキアの一般の人々には共産党の支配を受け入れて生きていくしかなくなったのである。共産党体制下で、反政府、反体制を貫くのは、日本人には想像もできないような苦難の道だったはずだ。
そんな8月21日に、ゼマン大統領が一般のチェコ国民の感情を逆なでするような行動に出た。文化大臣をめぐる政局の混乱が理由なのか、国会に議席を有する政党の党首たちとの会談を行っている大統領が、よりによって8月21日に共産党の党首を招待して会談を行ったのである。次の選挙に出られない政治家ってのは、落選を恐れる必要がないから怖いものなしになってしまうのかね。これでは、ソ連軍の侵攻を認めた当時の共産党政権の行動を認めていることになりかねない。
それに対して、1968年のソ連軍の侵攻を許さない人たちもいて、なぜかプラハに立てられた、侵攻軍の指揮者であったコーネフの銅像にペンキをかけるという行動に出た。これは毎年のように8月21日に起こっていることで、管轄しているプラハ6区でも対応に苦慮しているようで、ロシア大使館に引き取りを求め、引き取らない場合にはペンキのかけられた状態で放置すると通達したという話もある。
もともとこの像には、チェコから見ても功績と言えなくもない1945年のプラハ解放でプラハの街を守ったという説明だけがついていたらしいが、その後、1956年のハンガリー動乱、1968年のプラハの春に際して、ソ連軍を率いて抗議する民衆を暴力的に弾圧したという説明が付け加えられている。ロシア大使館ではこの説明の追加に対して抗議したということなのだけど、ロシアはソ連の後継国家として、ソ連時代の公式見解を変えてはいないからなあ。1968年の件でも謝罪や補償などしていないはずである。
2019年8月22日24時。
2019年08月07日
名もなきプラハの掃除人(八月五日)
正確な日付は覚えていないのだが、確か先週のことだったと思う。ドイツからやってきた迷惑観光客が、プラハのカレル橋のたもとの部分に、緑と黒のスプレーで落書きをして帰りやがった。ドイツに限らず、旧にし側のヨーロッパの国から、若者ならぬ馬鹿者が集団でやってきて、旅の恥はかき捨てとばかりに、本国ではできない馬鹿騒ぎをしたり、犯罪すれすれの行為を繰りかえしたりして、プラハの人たちと観光客に大迷惑をかけて帰っていくというのが問題になっている。
今回の一件もそんな馬鹿者たちの愚行の一つなのだろうが、問題はこの連中が、経済的な優位、つまり金を持っていることをかさにきて、政治的に立場の弱いチェコでならば何をしてもかまわないと考えているところにある。こういうのを見ると、EUの誇る移動の自由というものが、仮に違法難民の存在がなかったとしても、決して薔薇色のものではないことがわかる。犯罪者とその予備軍にまで移動の自由が与えられるのだから。スロバキアにイタリアのマフィアが食い込んで社会問題になっているのもその一例である。
さて、話を戻そう。最初のニュースはカレル橋の落書きをどうやって消すかというのを問題にしていた。文化財保護局か、そこから仕事を請け負った会社の人が出てきて、化学洗剤とたわしを使って、どの洗剤が一番石材に害を与えずに、スプレーを消せるかというのを確認した上で、本格的な洗浄の作業に入るとか語っていた。このとき試しに洗浄を行ったと思しき部分は完全に色が消えていないようにも見えた。
それが、その次の日のニュースでは、落書きがほぼ完全に消えていた。時間がかかりそうだったのにと不思議に思ったのだが、更に不思議なことにニュースでは誰がやったことなのかわからないと言っていた。そして、この誰かもわからない実行者について、犯罪的行為だとして非難する声が、文化財保護局のほうから、もしかしたら仕事をしていた会社のほうからかも知れんけど、聞こえてきた。橋を構成する石の状態を専門家が確認しない状態で、洗浄をするのは文化財の破壊につながりかねないのだとか。
誰がどのような方法で洗浄したかもわかっていない状態で、こんなことを断言するのは、自分たちが手間と時間がかかると主張していた作業を、わずかな時間でなされて、面子をつぶされたからではないかと思われた。洗浄を請け負った会社には、それなりのお金が流れているはずだし、警察沙汰にするようなことを言って大騒ぎしていたのもアリバイ作りっぽかったし。
そうしたら、更に次の日のニュースでは、警察に自分がやったといって出頭した人物が登場して、自動車の洗車の際にもつかう高圧の水流をぶつけて汚れを洗い流すという、自分が使った洗浄の方法を紹介していた。建築物の表面にはたいていほこりや汚れが膜を作っているから、スプレーなどで色を付けても素材の中まではしみこまない。だから高圧の水流をぶつけて膜ごと押し流してやれば、建築物に傷を付けずにきれいにできるという。汚れが一種の保護膜のような役割を果たしているというのだから皮肉である。
この人は、これまでにも、いくつものスプレー似非芸術家の被害を受けた建物の洗浄を担当したことがあるというから、文化財保護局の言う文化財の専門家ではなくても、スプレーに汚染された文化財の洗浄に関しては経験豊富な専門家だとは言えそうだ。文化財保護局の専門家の調査でも、カレル橋の石材が何らかの形で損傷を受けたという事実は発見されなかったようだし。
その次の日には、ええかっこしいのプラハ市長が横からくちばしを挟んできて、表彰するとか言い出したのを、この人が拒否したというニュースが流れた。本人は、「自分は人殺しで、裁判を受けて服役したとはいえ、それで人の命を奪ったという罪が消えたわけではない。罪を償うためには、自分の仕事を全うする以外に、他人に対する善行を積み上げていかなければならない。このことで表彰されたり謝礼を受け取ったりするのは自分の本意ではない」というようなことを語っていた。
だから、人に知られないようにひそかに洗浄を行った後に、予想以上の大騒ぎになって名乗り出ざるを得なくなったこと自体が本意ではなかったはずだ。もしかしたら、これまでも同じようなことを人知れずやってきたのかもしれない。ということで、ニュースでは名前が出ていたけれども、このブログでは本人の意向をくんで名前は出さないことにする。
さらに今日のニュースでは、あきらめきれないプラハ市長が、「この人は犯罪を犯したとはいえ、服役して罪を償ったのだ。表彰される権利がある。それは犯罪を犯した人の服役後の社会復帰が問題になっている現在重要なことだ」とか何とか語っていた。正論ではあるのだろうけど、他人に認めてもらうためにやったんじゃないという本人の言葉のほうがはるかに重みを感じる。悪行に関しては、責任を取るべきだし報いを受けなければならないけれども、善行を行ったからといって、特に今回は自分の技能を生かして汚れを落としただけなのだから、責任を負う必要はなかろう。
それにしても、チェコには稀な控えめな人物のいい話だったのが、周囲が大騒ぎをしたせいで喜劇になりつつあるのが、何ともチェコ的である。
2019年8月5日23時10分。
タグ:プラハ
2019年05月10日
終戦記念日(五月八日)
日本では第二次世界大戦が終わったのは、日本がポツダム宣言を受け入れた八月十五日ということになっているが、チェコでは、もしかしたら他の国でも、この日付はあまり重い意味を持っておらず、戦争が終わったのは九月二日だったと認識されている。この日は日本政府がポツダム宣言に基づく降伏文書に調印した日である。この日もあまり重要視されていないけど。
では、チェコを含むヨーロッパにとっての第二次世界大戦が終わった日となると、太平洋戦線など関係なく、ドイツが降伏した五月八日であり、チェコでも祝日になっている。メーデーの五月一日も祝日なので、二週間連続で同じ曜日が休みになる。チェコには振り替え休日はないので、日曜日に祝日が重なると、休める日が二日消えてしまうことになる。
最近は、チェコでもドイツの悪影響で、スーパーマーケットなどの休日の営業を規制する動きが出始めていて、その嚆矢としていくつかの祝日が選ばれて、休業を強制されているのだが、その祝日が日曜日に重なった場合、五月の場合には二週連続で、土曜日に買い物客が殺到することになりそうだ。チェコの大手スーパーの問題点は、土日や祝日が休みにならないことではなく、定休日が存在しないことなのだけど、日本のことを知っているはずのオカムラ氏が主張してくれないかなあ。
それはともかく、この第二次世界大戦のヨーロッパにおける終結にもあれこれ曰く付きの出来事があって、1989年までのチェコスロバキアでは、終戦記念日は五月八日ではなく、一日遅い五月九日だったらしい。これは、赤軍、つまりソ連軍によるプラハ解放が九日までずれ込んだことが原因だという。そのまた原因が、赤軍が各地での略奪に忙しくて予定通りの侵攻ができなかったからだなんて話もある。
連合軍によるチェコスロバキアの解放というのは、ドイツの敗北が決定的になっていこう政治的な色合いが強くなってしまった。チャーチル、ルーズベルトとスターリンの密約によって、チェコスロバキアの解放はソ連軍が担当し、戦後もソ連の勢力圏に入ることが決められていた。そのため、ドイツ南部を占領したアメリカ軍はそこで侵攻を止めたのである。
実際には国境を少し超えて、西ボヘミアのプルゼニュの辺りまで侵攻したのだが、共産党政権の時代にはそんな事実はなかったことにされていたらしい。ビロード革命後は、その反動からか、ことあるごとにアメリカ軍が、一部とはいえチェコスロバキアの解放をしたのだということが強調されるようになっている。
アメリカ軍がズデーテン地方を越えてボヘミア・モラビア保護領への侵攻を開始したのが、五月五日のこと、西ボヘミアの中心都市プルゼニュを開放して進軍を止めたのが、その翌日の六日のことだった。この日付にも政治的な意味があるようで、プラハで無謀だったと評されることもあるナチスに対する蜂起が発生したのが五月五日のことである。
このプラハでの蜂起に関しては、アメリカ軍が迫っていることに焦った共産党、もしくはソ連軍の指示だったとか、ソ連軍ではなくチェコ人の手によってプラハを解放しようとした亡命政府の指示だったとか、あれこれ説があるのだが、蜂起は失敗に終わる。その結果、プラハは五月九日になってソ連軍によって解放され、第二次世界大戦がヨーロッパで終結したのは九日だという神話を押し付けられ、ビロード革命まではこの日が祝日になっていたらしい。
とまれ、終戦記念日のこの日、チェコとしては勝ったわけでも負けたわけでもないので、これ以外の言い方はなそうなのだが、各地で記念式典が行われた。戦争にまつわる式典なので、政治家だけでなく軍隊の姿もあって、第二次世界大戦で実際に従軍した人たちも招待されていた。日本だと出てきそうな終戦記念日に軍人が出てくるとは何事かなんて叫ぶ連中はチェコにはいない。
この軍隊への敬意は、悪名高きソ連軍の犠牲者に対しても捧げられる。第二次世界大戦後の共産党体制を支え、特に1968年以後の正常化の時代に市民を弾圧した駐屯ソ連軍に対しては強い反感を隠さないチェコ人も、チェコスロバキアを解放するためにドイツ軍と戦って命を落としたソ連軍兵士に対しては、その記念碑を破壊するような蛮行はしないし、終戦記念日にはその前で慰霊の、もしくは感謝の式典を挙行している。チェコを解放したソ連軍自体もあちこちで略奪などを繰り返し評判は決していいとは言えないのにである。
こんなのを見ていると、戦後日本の最大の失敗は、戦争責任のすべてを軍部に押し付けて、政治家やマスコミを筆頭に多くの日本人が、戦時中の自らの行状をなかったことにしてしまった、もしくは軍に強制されてと自らを被害者の立場におくことで戦争責任から逃れようとしたことにあるのだと思えてくる。その結果として軍隊というものの存在意義を考えることなく、軍隊=悪と短絡する軍隊アレルギーを生み出してしまった。
日本国憲法の第九条が存在することは素晴らしいことであろう。ただ同時に現実とは乖離したものであることも事実である。今後この第九条をどうするのが正しいのか、建設的な議論が行われず、自衛隊が中途半端な存在になってしまっているのも、軍隊アレルギー派と、軍隊アレルギー派に対するアレルギー派がヒステリックに反応しあっているからに他ならない。軍隊とは何なのかという根本的な部分から議論を始めて、第九条、自衛隊をどうするのかの議論に到達するべきだと思うのだけど。
そういう本質的な議論を経た上での決定であれば、第九条を遵守して自衛隊を廃止するでも、第九条を廃止して自衛隊を軍隊にするでも、反対する気はないのだが、現状を見ていると第九条を守れと主張する人にも、憲法改正を叫ぶ人にも、賛成のしようがない。今の日本の状況で、憲法第九条の存在を心から誇れるのだろうか。
2019年5月9日24時。