2019年05月10日
終戦記念日(五月八日)
日本では第二次世界大戦が終わったのは、日本がポツダム宣言を受け入れた八月十五日ということになっているが、チェコでは、もしかしたら他の国でも、この日付はあまり重い意味を持っておらず、戦争が終わったのは九月二日だったと認識されている。この日は日本政府がポツダム宣言に基づく降伏文書に調印した日である。この日もあまり重要視されていないけど。
では、チェコを含むヨーロッパにとっての第二次世界大戦が終わった日となると、太平洋戦線など関係なく、ドイツが降伏した五月八日であり、チェコでも祝日になっている。メーデーの五月一日も祝日なので、二週間連続で同じ曜日が休みになる。チェコには振り替え休日はないので、日曜日に祝日が重なると、休める日が二日消えてしまうことになる。
最近は、チェコでもドイツの悪影響で、スーパーマーケットなどの休日の営業を規制する動きが出始めていて、その嚆矢としていくつかの祝日が選ばれて、休業を強制されているのだが、その祝日が日曜日に重なった場合、五月の場合には二週連続で、土曜日に買い物客が殺到することになりそうだ。チェコの大手スーパーの問題点は、土日や祝日が休みにならないことではなく、定休日が存在しないことなのだけど、日本のことを知っているはずのオカムラ氏が主張してくれないかなあ。
それはともかく、この第二次世界大戦のヨーロッパにおける終結にもあれこれ曰く付きの出来事があって、1989年までのチェコスロバキアでは、終戦記念日は五月八日ではなく、一日遅い五月九日だったらしい。これは、赤軍、つまりソ連軍によるプラハ解放が九日までずれ込んだことが原因だという。そのまた原因が、赤軍が各地での略奪に忙しくて予定通りの侵攻ができなかったからだなんて話もある。
連合軍によるチェコスロバキアの解放というのは、ドイツの敗北が決定的になっていこう政治的な色合いが強くなってしまった。チャーチル、ルーズベルトとスターリンの密約によって、チェコスロバキアの解放はソ連軍が担当し、戦後もソ連の勢力圏に入ることが決められていた。そのため、ドイツ南部を占領したアメリカ軍はそこで侵攻を止めたのである。
実際には国境を少し超えて、西ボヘミアのプルゼニュの辺りまで侵攻したのだが、共産党政権の時代にはそんな事実はなかったことにされていたらしい。ビロード革命後は、その反動からか、ことあるごとにアメリカ軍が、一部とはいえチェコスロバキアの解放をしたのだということが強調されるようになっている。
アメリカ軍がズデーテン地方を越えてボヘミア・モラビア保護領への侵攻を開始したのが、五月五日のこと、西ボヘミアの中心都市プルゼニュを開放して進軍を止めたのが、その翌日の六日のことだった。この日付にも政治的な意味があるようで、プラハで無謀だったと評されることもあるナチスに対する蜂起が発生したのが五月五日のことである。
このプラハでの蜂起に関しては、アメリカ軍が迫っていることに焦った共産党、もしくはソ連軍の指示だったとか、ソ連軍ではなくチェコ人の手によってプラハを解放しようとした亡命政府の指示だったとか、あれこれ説があるのだが、蜂起は失敗に終わる。その結果、プラハは五月九日になってソ連軍によって解放され、第二次世界大戦がヨーロッパで終結したのは九日だという神話を押し付けられ、ビロード革命まではこの日が祝日になっていたらしい。
とまれ、終戦記念日のこの日、チェコとしては勝ったわけでも負けたわけでもないので、これ以外の言い方はなそうなのだが、各地で記念式典が行われた。戦争にまつわる式典なので、政治家だけでなく軍隊の姿もあって、第二次世界大戦で実際に従軍した人たちも招待されていた。日本だと出てきそうな終戦記念日に軍人が出てくるとは何事かなんて叫ぶ連中はチェコにはいない。
この軍隊への敬意は、悪名高きソ連軍の犠牲者に対しても捧げられる。第二次世界大戦後の共産党体制を支え、特に1968年以後の正常化の時代に市民を弾圧した駐屯ソ連軍に対しては強い反感を隠さないチェコ人も、チェコスロバキアを解放するためにドイツ軍と戦って命を落としたソ連軍兵士に対しては、その記念碑を破壊するような蛮行はしないし、終戦記念日にはその前で慰霊の、もしくは感謝の式典を挙行している。チェコを解放したソ連軍自体もあちこちで略奪などを繰り返し評判は決していいとは言えないのにである。
こんなのを見ていると、戦後日本の最大の失敗は、戦争責任のすべてを軍部に押し付けて、政治家やマスコミを筆頭に多くの日本人が、戦時中の自らの行状をなかったことにしてしまった、もしくは軍に強制されてと自らを被害者の立場におくことで戦争責任から逃れようとしたことにあるのだと思えてくる。その結果として軍隊というものの存在意義を考えることなく、軍隊=悪と短絡する軍隊アレルギーを生み出してしまった。
日本国憲法の第九条が存在することは素晴らしいことであろう。ただ同時に現実とは乖離したものであることも事実である。今後この第九条をどうするのが正しいのか、建設的な議論が行われず、自衛隊が中途半端な存在になってしまっているのも、軍隊アレルギー派と、軍隊アレルギー派に対するアレルギー派がヒステリックに反応しあっているからに他ならない。軍隊とは何なのかという根本的な部分から議論を始めて、第九条、自衛隊をどうするのかの議論に到達するべきだと思うのだけど。
そういう本質的な議論を経た上での決定であれば、第九条を遵守して自衛隊を廃止するでも、第九条を廃止して自衛隊を軍隊にするでも、反対する気はないのだが、現状を見ていると第九条を守れと主張する人にも、憲法改正を叫ぶ人にも、賛成のしようがない。今の日本の状況で、憲法第九条の存在を心から誇れるのだろうか。
2019年5月9日24時。
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