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2020年02月18日
乾いた二月(二月十五日)
いろいろ異論もあるようだが、チェコは国民一人当たりの年間ビール消費量が世界で一番多いと言われている。以前に比べれば減ったとはいえ、それでも140〜150リットルという数値を維持しているようである。また、すべてのアルコール飲料の消費量を合わせて、純粋なアルコールの消費量に換算しての数字、年間14.4リットルでも、こちらは1位ではないが、上位10位以内には入っているようだ。
そんなアルコール消費大国であるチェコで、アルコールまみれの現状に危機を抱いた人たちが、2013年に始めたのがこの「乾いた二月」というキャンペーンで、毎年一月だけでも酒を飲まない月を作ろうという運動のようである。「渇いた」というのは、「渇いた」でもあり、つまりお酒を飲まないという意味なのである。一時日本で流行った「週に一回休肝日」というのの年間バージョンと言ってもいいかもしれない。
チェコ語では「Suchej únor」となる。正しいチェコ語ならば「suchý」なのだけど、親しみやすさを求めたのか、プラハ方言が採用されている。個人的には定期的に酒を飲む習慣を失って久しいので、あえてこのキャンペーンに参加する必要もないのだが、飲んだくれていた時期であっても、この表記を嫌って二月だから飲むぞとかひねくれていた可能性が高い。とまれ、HPも解説されているので、興味のある方はこちらからどうぞ。
このキャンペーンの存在に気づいたのは今年が初めてなのだが、それはスポーツ界からも賛同の声が上がっていて、参加者がでたというニュースを見たからである。スポーツ新聞のHPの渇いた二月に関する記事には、すでに引退した選手も含めて何人かのスポーツ選手が参加していることが記されている。現役時代から真面目な印象が強くお酒もあまり飲まなさそうなペトル・チェフがこの運動を支持しているのは意外でもなんでもなかったけれども、サッカー界から意外な名前が二つ挙がっていた。
一人は、スパルタですっかり出番をなくしたバーハで、こちらに関しては意外だという以外に特に書くこともないのだが、もう一人のフェニンについては、現役時代を通じて酒がらみの問題を起こし続けた選手である。いや引退してからも、解説の仕事にへべれけに酔っ払って登場して、醜態をさらしたなんてこともあったなあ。
フェニンに関しては最近こんな記事を見つけた。日本のメディアに載ったチェコ選手の記事としてはよくできていると思う。ちょっとどうかなあと思うのは、フェニンがおかしくなったのがドイツで監督交代があって出場機会を失ってからと理解できるような書き方がなされているところ。この選手、チェコのテプリツェでプレーしていたころから素行には不安を持たれていた。だから、記事にもある酔っ払ってホテルの窓から転落した事件が起こったときも、驚かなかったとは言わないが、こいつならやりかねないとも思った。
もう一つ、こちらは完全な不満だが、フェニンを「チェコの天才」と記しているところである。たしかにチェコでも才能のある選手として大きな期待を寄せられていた。しかし、天才と呼ばれていたかというと、疑問が残る。誰かがプレーを、天才的と書いたことはあるかもしれないが、誰もが天才と評価することを認めるような存在ではなかった。
チェコのサッカー界で誰もが認める天才と言えば、トマーシュ・ロシツキー以外には存在しないのである。フェニン同様に若くしてドイツに移籍して、アルコールと賭け事で身を持ち崩したシマークなら、U21代表の中心で活躍したころには、天才と呼ばれていたかもしれないけど、フェニンが、ポジションは違うとはいえ、シマーク以上に高く評価されていたとは思えない。
そもそも、チェコリーグでちょっと活躍した後に、世代別代表の国際大会で大活躍して、外国に移籍した選手で大成した選手はほとんどいない。最近だとチェコで行なわれたU21のヨーロッパ選手権で得点王になるという大活躍をしてドイツのチームに買われていったクリメントも今はどこで何をしているのやらだし、チェコリーグで出場する前に、さらに若い世代の代表での活躍が国外移籍につながったペクハルトも結局A代表の中心になることはなかった。ペクハルトなんてフェニン以上に期待されていたはずなんだけけどねえ。そんなこともあってロシツキー以外を天才というのには、違和感しか感じないのである。
話を戻そう。アルコールの消費量の過大なチェコで、「乾いた二月」のようなキャンペーンが行なわれるのは、いいことなのだろう。ただ、できればスポーツ選手だけでなく、政治家たちにも参加してほしいところだ。特にゼマン大統領には、最近めっきり衰えが目立っているし、任期を全うするために一月といわず、前面的な禁酒が必要な気もする。
最後に、このチェコのキャンペーンがイギリスで行なわれているらしい「乾いた一月」に触発されたものだという話を付け加えておこう。一月は大晦日からの流れで飲酒してしまって完全に飲まないのは無理だから、二月に移したのかな。
2020年2月16日11時。
2020年02月14日
プラハ周辺窃盗団(二月十一日)
日本にいたら今日は建国記念日でお休みだったのかあ。あれ、これも史上まれに見る愚策ハッピーマンデーで月曜日に移動するのかな。
それはさておき、チェコ語にサテリットという言葉がある。外来語で日本語のカタカナ英語のサテライトと同じものを語源にしているから、衛星、特に人工衛星を指すのに使われる言葉である。そして日本語で衛星都市と呼ばれる大都市の周辺に成長する都市のこともこの言葉で表す。もちろんチェコなので衛星都市というよりは、衛星村、衛星町の類だが、チェコ的には大都市であるオロモウツの周辺にもいくつかサテリットと呼ばれる村や町がいくつか存在する。
このての町には共通する特徴があって、古い村の外側に新たに造成された住宅地が広がり、本来の村とはまったく違った雰囲気を作り出している。住人の大半は、都市部を拠点に実業家として資産を形成した人たちで、生活の場として都市に近い田舎を選んだということのようだ。そのため無駄に立派な家を建てることが多く、最近はそこまで醜悪なものは減ったけれども、「ポドニカテルスケー・バロコ」と呼ばれる「建築様式」を生み出していた。
これは、バロックの語源にある「歪んだ」という意味から使われ始めたもので、実業家(成金という意味も含まれそう)たちが金にあかせて建てた一見、豪華な、よく見るとなんか変な、ときに醜悪な建物をこの「実業家のバロック」という言葉で呼ぶのである。塔のミニチュアみたいなものが付いている家を見ると、お城に住みたいならお城を買えばいいのになんて思ってしまった。各地に残る小さな城館の中には文化的な価値が薄いのか、打ち捨てられて解体寸前というところも結構あるのだ。
そんなサテリット、衛星住宅地が一番多く形成されているのは、当然プラハの周辺なのだが、昨年来、そんな金持ちの集まる住宅地を狙った泥棒のグループが繰り返しニュースをにぎわしている。このグループは、夜中に泥棒に入るのではなく、日没後の暗くなったばかりの時間に、住人の帰宅していない家を探して庭に忍び込み、誰もいないことを確認すると窓ガラスを割って侵入し金目のものをかき集めてすぐに逃走するらしい。
警察でも警戒を強めて、この手の住宅地でのパトロールを強化しているようだが、ある程度金目のものを手に入れたらすぐに逃走するというスタイルに、後手後手に回っている。警察もすべての衛星住宅地で毎日日没後のパトロールを行えるほど人員が豊富ではないため、地域によっては住民たちが共同で自警団を作って、見知らぬ人が入らないように検問のようなことをしているようだが、これも長期にわたって毎日続けられるようなものでもない。
住民たちは防犯カメラや、警報装置の設置などの対策も進めているようだが、警察の警備、捜査も含めて、犯人たちにつながる手がかりは、ほとんど残されていないようだ。ニュースでは防犯カメラに映った犯人たちの様子も流されたが、それだけで人物を特定できるようなものではなく、今後もしばらくは被害が続くことになりそうだ。救いは空き巣狙いなので、人的な被害が出ていないことぐらいである。
それにしても、昨年のドレスデンでの博物館へ侵入した泥棒もそうだけど、窓ガラスを叩き割って侵入して短時間に集められるものだけを集めて逃走するという、何の芸のない犯行のほうが捕まりにくいのだな。防犯対策が進んでも、こういう原始的な犯罪にはなかなか有効な手が打てないようだ。落とし穴のような罠でも仕掛けて捕らえるというのはどうだろうなんてことを考えてしまった。
盗まれたことも気づかせないような芸術的な泥棒というのは、池波正太郎や半村良の江戸物に登場するだけで、現実的ではないのだろう。盗まれたことに気づかないからニュースにならないという可能性もあるか。その意味では制度を上手く利用して国家から盗む政治家が一番の芸術的泥棒というのは古今東西変わらない。うーん。うまく落ちなかった。
2020年2月12日18時30分。
2020年02月13日
プラハで暗躍する北朝鮮(二月十日)
チェコは現在でも北朝鮮との外交関係を維持している。そのため、プラハには北朝鮮の大使館があるのだが、その大使館に勤務する名目上は外交官たちがプラハやチェコ各地で経済制裁を潜り抜けて本国へいろいろなものを送るために活動をしているらしい。その活動が発覚するたびに、担当した外交官が国外退去処分を受けて本国へ送還され、ここ数年だけでも10人以上の数にのぼるという。
北朝鮮が、チェコで、チェコの大使館を通じて求めているのは、一つには武器、武器とは言っても最新の武器ではなく、北朝鮮では今でも現役で使われている旧ソ連時代の、1940年代に生産が始まった戦車用の部品や、1960年代から70年代にかけて当時のチェコスロバキアが北朝鮮に輸出した戦闘機のパイロットの訓練に使用する練習機の交換部品が中心らしい。経済制裁のおかげで、古いものをだましだまし使用するしかない状況に追い詰められているようだ。
他にもドローンや、国家元首に対する贈り物になる贅沢品を求めているらしいが、軍需物資だけでなくこれらの品物も経済制裁の禁輸の対象になっている。それでも、以前ドイツ製のリムジンが北朝鮮にあることが世界を驚かせたように、制裁をかいくぐっての北朝鮮への密輸は続いているようだ。ニュースではアメリカの情報機関の分析として、第三国を経由した密輸品は最終的には韓国からロシアに向かう船に乗せられ、航路の途中で船のGPSの装置を切って所在不明にすることで、北朝鮮に運び込まれるという調査結果を伝えていた。その密輸網の一部としてプラハにある北朝鮮大使館が機能しているのである。
当然チェコ政府もその事実は確認しており、情報部が常に監視下において密輸を防いでいるらしいのだが、最近も一億コルナ以上の軍需物資などの密輸計画を阻止したという。チェコもかつての共産圏でソ連製の戦車を使っていたこともあって、装備の世代交代で不要になった戦車が解体されて売りに出されることがあるらしい。それで、戦車だけでなく練習機の部品も、すでに払い下げを受けた業者が販売しているものを購入して北朝鮮に送る計画だったようだ。
直接大使館が購入することも、北朝鮮に送ることも不可能なので、ダミーの会社を通して購入し、今回は一度エチオピアに輸出し、さらに隣国を経由してアジアへ発送する計画だったと、この件を報道した雑誌の記者がテレビで語っていた。エチオピアから先は取引が阻止されたために、どういうルートになるのか明らかになっていないようだ。最終的には韓国から北朝鮮というルートではあろうけれども。
チェコテレビではチェコの情報部の人が、チェコで活発に活動しているロシアや中国などの情報部が政治家や企業家に取り入ってチェコに影響を与えたり、情報を引き出したりしようとしているのと違って、北朝鮮は買い物に汲々としていると語っていた。しかも以前と違って、豊富な資金を使って何でも買い放題という状況にはないようだ。抜け道の多い経済制裁ではあるけれども、こんなところにも効果がでているということだろうか。
実はチェコには、過去に北朝鮮の経済制裁破りの密輸の舞台になったというか、密輸に手を貸した過去があるのである。1999年というからナトー加盟前のことになるだろうか。カザフスタンから北朝鮮に旧ソ連製の戦闘機ミグ、たしか21が大量に輸出され、世界中の耳目を集めたことがある。日本で話題になったかどうかは覚えていないのだが、このとき仲介したのが、チェコのリベレツにあった会社だった。
当時も北朝鮮への武器の輸出は禁止されていたからカザフスタンが直接北朝鮮に販売することはできなかった。それで、空軍の装備の更新で不要になった戦闘機を民間企業に払い下げたという体裁をとった。その民間企業がチェコの会社で、書類上は戦闘機ではないものにした上で北朝鮮に輸出したらしい。
その取引の途中で発覚して世界中の注目を集めたため、何回目かの納入の祭には、途中で給油のために輸送機を降ろしたアゼルバイジャンで軍によって差し押さえされたという。最終的にはロシアの圧力で差し押さえが解除され、カザフスタンがチェコ企業に払い下げた戦闘機はすべて北朝鮮に納入されることになった。
この件で、リベレツの企業にかかわっていた二人のチェコ人が、起訴され裁判が行われていた。それが延々と続いている間に、クラウス大統領が任期の終わりの最後っ屁のように放った恩赦令で起訴が停止され裁判も中止になるはずだった。それがこの二人が恩赦を受けると自分たちの無罪を証明できなくなると裁判の継続を求めたことで話がややこしくなった。
恩赦は出ているので有罪判決が出てもなかったことにされるという意味不明な裁判で、裁判官もやる気がなかったのか、最終的にはリベレツの会社で行なわれた北朝鮮への密輸が犯罪であることは明らかだが、それを実行したのが起訴された二人かどうかわからないという、これまた意味不明の判決が下りたようだ。ニュースを見た限りでは、有罪だったのか無罪だったのかさえわからなかった。
北朝鮮がいくら出したかは知らないけど、そのうちの何割かは政治家の手に渡っているのだろうなあ。拝金主義が蔓延していた時代だしね。今は北朝鮮に協力して武器などを密輸するなんてことはないと信じたい。
2020年2月11日24時。
2020年02月08日
プシェロフ行き二度(二月五日)
一月の始めに、長期滞在許可の新しいカードの申請をしにプシェロフに行ったのだが、ビオメトリカ(生体認証用のデータ取り)と受け取りとで、さらに二回行かなければならなかった。二回とも、午前中のあまり早くない時間ということで、11時を予約しておいたのだが、うちに帰って時刻表を調べて失敗したことに気づいた。プシェロフの駅に10時半ごろに到着する電車が一本もなかったのである。10時50分過ぎにつくのはあるけど、予約の時間に遅れるのは避けたい。
ということで先週の月曜日、9時半過ぎにオロモウツを出る各駅停車に乗った。今回はオロモウツのチェコ鉄道の窓口で、急行に乗るのか普通に乗るのかを聞かれ、普通に乗ると言ったら、オロモウツ地方の時間決めのチケットを売ってくれた。この時間帯、急行の3分後に各駅停車が発車するので確認の必要があったのだろう。前回は窓口の人が慣れていなかったか、こんなチケットがあるという周知が徹底していなかったかのどちらかだろう。
駅に入ったところのホールの反対側に、オロモウツ市の交通局のチケット販売の窓口があって、オロモウツ地方交通機関連合のマークも張り出されているので、そこでも買えないか聞いてみたのだが、ゾーン70と71、つまりオロモウツ市内とその周辺のチケットしか扱っていないという答えが返ってきた。チケットの販売がちゃんとなされていれば、自宅から駅までのバスもこの地方の時間決めチケットで乗れるはずなのだけど……。
プシェロフには時間通り10時前に到着した。普通に歩くと30分以内で到着するので、ちょっと遠回りをして内務省の事務所の入った警察署に向かう。途中で大きなショッピングセンターがあったので、トイレを借りてどんなお店が入っているのかを確認。電器屋のダタルト、ポーランドの靴屋のCCCとか、服屋のH&Mとか、大抵のショッピングセンターに入っている店ばかりで目新しさは全くない。ただし、ダタルトが入っていたのが、次への伏線となる。
それで、時間つぶしをあきらめて警察へ向かった。時間より前についたらすぐに呼んでもらえるかもしれないという期待がなかったわけではない。当然その期待は裏切られ、こちらが必要とする生体認証のための部屋には、11時になって初めて担当者が入って行った。その後すぐに呼び出されたから、待ち時間は20分ほどだった。次は街でもうちょっと時間つぶしをして来ようと決めた。
カードに使う顔写真と、指紋を取られたのだが、二年前一枚目のカードをもらったときとは違って、右手と左手の人差し指だけだった。確認のためにそれぞれ二回、指紋読み取り用の機械に指を載せて、何枚か書類にサインをしておしまい。何か説明の書類をもらったけど、前回のと同じっぽいし、読むことはないだろう。って前回も読んでないけど。コンピューターの導入が進んだ結果、紙の使用量が増えたんじゃないかと思う場面の一つである。
手続きにかかった時間は、10分ほど。待ち時間を合わせても30分で終わってしまった。駅に向かってオロモウツ行きの電車を待つ時間も30分ほど。プシェロフ発の電車なので、特に待つこともなく乗り込めるからいいのだけど。この日は、前半分はすでにオロモウツ-プシェロフの表示に変わっていたが、後半の車両はフセティーン−プシェロフのままだった。当然前半の車両に乗り込んだ。
そして、今日、カードの受け取りのために再度プシェロフに向かった。同じ時間の電車で同じ時間に到着したので、時間つぶしのためにショッピングセンターのダタルトで、セット・トップ・ボックスというのを眺めていた。近々オロモウツ地方でも古いタイプの電波での放送が終了するので、新しいのを受信できる機械が必要なのだ。テレビはまだまだ問題なく使えているので、セット・トップ・ボックスで十分である。
見ていたら、お店の人があれこれ説明してくれて、ついついってわけでもないけど、勧めてくれたものを買ってしまった。特別な機能はいらないので、一番安いやつである。買ってから、故障したらどうしようなんて気づいたけど、ダタルトはオロモウツにも何軒もあるから、修理なんかの対応はしてくれるだろう。意外と小さくて余裕でカバンに入ったのがありがたい。
欲を言えばもう少し時間をつぶしたかったけど、そこは旧市街の外側を歩くことにして警察に向かった。気温はそれほど低くなかったのだが、風が強くて寒かった。雪もちらついていたような気がする。増水したベチバ川に架かる橋を渡るときには、帽子が風で吹き飛ばされないように押さえていなければならないほどだった。
警察署に着いたのは10時40分過ぎ、トイレを借りてから番号札を取った。そのとき、カードの受け取りという項目がなくて困ったのだが、試しにビオメトリカを選んだらちゃんと名前があった。慌てていたので本当に自分の名前だったかなと不安になったのだが、番号札にちゃんと名前が印刷されていて、一安心。なんで受け取りじゃないんだろうという疑問は受け取りの際に解消されることになる。
この日は、10分ほど待って、11時になる前に呼び出された。担当の人は、申請書を提出したときの担当者だった。回収される古いカードを渡すと、もう一度両手の人差し指を読み取りの機械に載せるように求められた。改めて本人の確認をする必要があるのだろう。だから、予約も受け取りではなくビオメトリカになっていたのだ。予想外のことだったので、一瞬右と左がわからなくなるというよくやる失態をやらかして笑われたけど、サインをいくつかして、全部で5分ぐらいで終わってしまった。
別れの挨拶として、また二年後にパスポートが新しくなるから来ますねと言ったら、楽しみにしてるよという返事が返ってきた。こういうやり取りができるから、年に一回ぐらいだったら来てもいいなあと思うのである。もちろん待ち時間が短ければという条件は付くけど。
警察の建物を出たのは、11時5分にもなっていなかった。吹き荒れていた風がやみ、日が照り始めていた。午後は暖かくなると喜んだのに、すでに駅に向かう途中で、もとのどんよりした天気と冷たい風が戻ってきた。天気というのはままならないものである。
2020年2月6日15時。
2020年01月29日
アホマスコミ(正月廿六日)
中国で新型ウイルスが猛威を振るっている中、チェコでもニュースなどで詳しく報道され、大きな注目を集めている。チェコもゼマン大統領の朝貢が功を奏して、中国との間に直行便が飛んでおり、中国人観光客の数が増え続けているだけでなく、中国に進出しているチェコ企業や旅行先や留学先として中国を選ぶ人も増えているため、感染した人がチェコに入ってくる可能性は皆無ではない。
チェコも日本と同様、まともな、正確な情報を伝えることに主眼を置いて冷静な報道を続けるメディアもあれば、国民の不安をあおることで売り上げやら視聴率やらを挙げようとするメディアも存在する。そんなメディアにとってみれば、今回の騒ぎというのは、あることないこと書き飛ばせる最高の機会のようだ。
そんな状況で、新型ウイルス対策に関して、今日の午後厚生大臣や厚生省衛生局長の記者会見が行われた。注目されたのは感染者の入国を防ぐためにどんなことをするかということだったが、現時点では取り立ててできることはないという発表だった。もちろん、その前に現況の分析が語られ、どうしてマスコミで報道されている対策を取る意味がないのかを丁寧に説明していた。
その一つが、プラハの空港で入国者に対して、体温センサーを使って熱のある人を隔離して検査するという対策なのだが、これについては、導入できない二つの理由を挙げていた。一つはウイルスの潜伏期間を考えると、入国の時点では感染していても熱は出ていない可能性も高く、導入しても感染者がすり抜ける可能性が高いこと。もう一つは、現在悪いことにチェコでもインフルエンザの流行が始まっていることで、熱だけを判断の基準にすると、インフルエンザで熱を出している人が軒並み引っかかって、検査する側も、される側も大変なことになるという。
実際、特に新型ウイルスの騒ぎがなくても、飛行機の中で動けなくなるような高熱を出した場合には、飛行場で隔離されて問題がないことが確認されるまで外に出してもらえないはずである。だから、本当に発症して重症化してしまった患者が飛行機に乗っていた場合には、ほぼ確実に発見され一定期間隔離されることになる。以前、知り合いが一度乗り継ぎの飛行場で引っかかってチェコに来るのが遅れたことがある。
また、中国からの直行便の乗客を対象にした検査にしても、チェコだけがその検査を導入しても効果が限られているという理由で現時点の導入を否定した。中国からチェコに来る人の多くは、他国の空港を経由してプラハに入ったり、他国の空港から鉄道でチェコに入ったりするので、現時点でのリスクの小ささと、検査の導入の効果の小ささを勘案すると導入する意味がないという。実際これまで感染を疑われた人は、直行便ではなくよその国経由でチェコに入ってきた人ばかりのようだ。
そして、重要なのは中国から戻ってきたチェコの人たちに正確な情報を与えて、少しでも疑わしいと思ったら病院にかかるように指導することだと付け加えた。もちろん、必要がない限り人ごみの中に出ないとか、健康的な生活を心がけるなんていうのは、例年のインフルエンザ対策と大差ないのだから、一般の人が何か特別な対策をしなければならないわけではないとも言っていたかな。
全体としては、きわめて穏当な内容の発表だったと思う。言い方は悪いが、現時点では対岸の火事なのだし、いざという時の準備をしながら状況を監視するぐらいしかチェコにできることはないだろう。ここで、国が冷静さを失ったら、前回の新型肺炎のときと同じことを繰り返すことになりかねない。その反省も、今回の冷静な対応に現れているはずだ。
以前の新型肺炎のときには、タミフルが効くらしいということで、慌てたチェコ政府は、製薬会社の売り込みもあったのだろうが、大量のタミフルの備蓄に走ったのだ。あのとき政府は、鬼の首を取ったかのように薬の確保に成功したことを自慢していたのだが、最終的に大枚はたいて購入した薬はほとんど使われないまま後日廃棄処分されたようだ。マスコミのあおりを受けた政府が、他の国に先駆けて確保しようと交渉した結果、製薬会社に大儲けさせる結果になったのだった。もちろんこの件で政治家も役人も責任を取るなんてことはなかった。
さて、クソマスコミの話だが、これだけの記者会見を受けて質疑応答に移った瞬間、「空港ではどんなチェックを導入するのですか」など、何らかの具体的な規制が行われることを前提とした質問がいくつかとんだ。お前ら今の今まで何を聞いていたんだ。現時点でできることはないと言っていただろう。外国人が本読みながら片手間に聞いて理解できたことが理解できなかったのか。相手の話をろくに聞かないで、頭の中で作り上げたストーリーをもとに、政府の無体策を批判するとかやるんだろうなあ。
こういうのの存在を考えると、報道の自由だとかなんだとかが全く意味のないものに思えてくる。マスコミを特別視するのはそろそろやめる時期に来ているんじゃないのかねえ。報道の自由なんか存在しなくても、本物のジャーナリストであれば伝えるべきことを伝えるはずだしさ。もんだいはそんなジャーナリストが存在するかどうかである。チェコにはいそうだけど、日本にはいなさそうだなあ。
2020年1月27日24時。
タグ:マスコミ批判
2020年01月11日
長期滞在許可(正月八日)
今日は、いつもより早く六時前に起きて、電車でプシェロフに向かった。プシェロフの警察に同居している内務省の入国管理局みたいなところに出向いて、手続きをする必要があった。本当は7時半ごろにオロモウツを出る便に乗って8時ごろに到着の予定だったのだが、駅までの移動をあまり考えていなかったせいで、結局8時前の電車に乗ることになった。
チェコに暮らして長いので、すでに永住許可的なものは持っている。長期滞在許可と訳したくなる言葉を使うし、最近では学生などがビザの代わりに取得できるようになったものも同じような言葉で呼ばれているようだが、我々が持っているものは、許可自体には有効期限はない。ただ、許可についてくる証明書に有効期限があるため、10年に一度延長、もしくは再発行の手続きをしなければならない。その証明書の有効期限が2月の上旬までなので、今月中旬までに申請を済ませておく必要があるのである。
この許可をもらったのは10年前の2010年のことだが、そのときの話では、5年以上連続で仕事のためにチェコに居住している人、つまり就労ビザでチェコに滞在している人は申請をする権利があるということだった。学生の場合には倍、10年以上連続で学生ビザでチェコに暮らす必要があると言っていた。この情報をもらったときは、オロモウツの外国人警察が担当だったのだが、実際に手続きを始める前に担当が内務省の入国管理局みたいなところに変わっていて、困ったのを覚えている。なぜかこの役所オロモウツにはなく、プシェロフとシュンペルクに置かれているのである。
このときは、申請のために、労働契約書のコピーやら、銀行の残高証明書、住んでいる部屋の大家の同意書など数種類の書類を集める必要があり、細かい問題も発生して、何度もプシェロフに出向くことになった。担当の人がどこをどうすればいいのか詳しく説明してくれたおかげで、無事に許可をもらうことができた。知り合いがこの許可を取ったときには、パスポートみたいな小さな冊子だったらしいが、ビザと同じような日本のパスポートに貼りつけるシールになっていた。
この許可の関係で、前回プシェロフに出かけたのは、新しいパスポートを取得した2年前の2018年のことで、そのときの話はすでに書いた。あれこれあって、現在のカード型の長期滞在許可の証明書がもらえたのだが、有効期限は新しくならず、最初のシール型のものと同じだった。そして、最初のカードの発行は無料だけど、二回目以降は申請に際して手数料が必要になるから忘れないようにと言われたのだった。そのときに言われた金額は覚えていないが、今回ネットで確認したら2500コルナ。現金では払えず、事前に郵便局に行って証紙を買っておかなければならないというのも厄介である。
ということで去年の12月の初めから申請の準備を始めた。申請書は内務省のHPにも挙がっているのだが、2年前にもらってきたものがあるのでそれを使う。必要書類として言われていたのが、賃貸契約書のコピーだが、公証人の証明が必要だった。それでいつものようにホルニー広場の市庁舎のインフォメーションセンターの隣の公証人の事務所に行ったのだけど、いつの間にかなくなっていた。
知人の話では、無犯罪証明も含めて、この手の証明は、郵便局などに置かれている「チェック・ポイント(czech point)」でできるようになっているようだ。郵便局だと客が多くて待たされる可能性が高いので他を探したら、市役所の中に入っていた。ホルニー広場の市庁舎にもあるようだけど、よくわからないので旧市街の外れに数年前に新しい市役所として建てられた庁舎の中のチェック・ポイントで証明をしてもらった。費用は相変わらず1枚30コルナ。このとき、賃貸契約だけだと不安だったので、念のために仕事の雇用契約書などいくつかの書類のコピーに証明をつけてもらった。
年末の仕事が休みの時期に行こうと思ったら、その時期は役所もお休み。新年最初の仕事の日1月2日に行くことも考えていたのだが、なまけ気分が抜けなくて断念。今週の月曜日は申請書の記入が終わっておらず、準備が完全に整ったのが昨日のことで、早速今日出かけたのである。ただし、自分が準備した書類で十分なのか、申請書の記述がこれでいいのかなどの不安は付きまとっていた。
プシェロフの入国管理局に着いたのは、タクシーを奮発したこともあって8時半過ぎ。機械から出てきた順番札に書かれていた番号は123、この時点で手続きをしている人の番号が102だった。Aで始まる予約済みの人の数が多いと、予約なしの人は後回しにされて、いつ順番が回ってくるかわからない。それぞれ必要な手続きも違うので一人当たり何分という計算もできない。ただ、前に20人はいることを考えると、最低でも2時間ぐらいは順番が回ってくることはあるまい。
今朝は急いでいたのでコーヒーを飲みそこなっていた。警察署の建物の中にもコーヒーの自動販売機はあるのだが、一見普通のインスタントの自動販売機よりもおいしいコーヒーが出てきそうに見えて実は大した違いはないというものに見えたし、時間もあるので街に戻って喫茶店を探すことにした。まだ9時前で営業を開始していないところも多く、人通りも少なかった。
コーヒーを飲んで戻ってきたのが9時半過ぎ、意外なことに110番を越えるところまで進んでいた。どうも予約した人が少なかったのと、番号札はもらったけど待つのが嫌で帰ってしまった人がいたのとで進み方が早かったのだろう。実際いくつかの番号は再度呼び出しを受けていたけど反応する人はいなかった。
これならすぐにも順番が回ってくるだろうと思ったのだが、ここからが意外と長かった。結局順番が回ってきたのは10時45分ごろ。一番奥の5番の部屋での手続きにかかった時間は10分ほど。予想していた以上にあっさりと終わってしまった。書類も賃貸契約のコピーだけで問題なかったし、申請書も記入してないところもあったのだが、新しいカードの申請だからいらないと言われておしまい。転ばぬ先の杖とはいえ、ずいぶん無駄な準備をしてしまった。
もちろんこれでお仕舞ではなく、ビオメトリカの写真を撮りなおすのとカードの受け取りが残っている。それで一月末と二月初めにまたまたプシェロフ行きである。日時は指定されているから、長く待つ必要はないとはいえ厄介なことである。新しいパスポートのために2回もプラハに行かなければならなかったのと比べればましか。手数料もあっちの方が高かったし。
ということでまとめておくと、永住許可的な長期滞在許可の延長、もしくは許可証の更新に必要なのは、申請書と賃貸契約書のコピー、それに2500コルナ分の証紙だけだった。ただし、3回足を運ぶ必要がある。
2020年1月8日24時。
2020年01月10日
チェコ人テロリスト(正月七日)
チェコテレビのニュースによれば、プラハでイスラム教のテロ組織を支援したという疑いを持たれている人物の裁判が始まったらしい。奇妙な裁判で被告は三人だが、そのうちの二人は現在国外逃亡中ということで不在者裁判の様相を呈している。実際に収監され裁判に出ているのは、一人だけ。アラブ系のチェコ人で数年前まではプラハのイマームというから、イスラム教団の指導者をしていた人物である。
この人物は、生まれはプラハだが、サウジアラビアでイスラム教の宗教教育を受けて帰国し、プラハにおける指導者の座に収まった。指導者を務めていた時期には、特に過激な主張をしていたわけでもないという話だが、プラハのイスラム教関係者はこの人物についてコメントすることを避け、関係を絶とうとしているようにも見えるので、実際には何らかの兆候はあったのかもしれない。
とまれ、指導者を辞めた後、イスラムの過激派の思想に共鳴するような言動を始め、シリアのイスラム教過激派の組織に加わるため中東に出向いたものの失敗しチェコに帰国。この失敗というのが組織に受け入れられなかったのか、シリアに入国できなかったのかについてはよくわからない。チェコに帰国してからは、SNSを通じてイスラム教徒に聖戦への参加を求めるような発言を繰り返していたという。
その呼びかけに応じたのが、被告その2である本人の逃亡中扱いの弟。弟は兄に代わるようにトルコを経てシリアに入国し、無事にイスラム教の過激派のテロ組織と接触し加入することに成功。一ヶ月ほどの訓練を受けて、正式にメンバーとして認められたようだ。ニュースでは訓練を受けた後の弟から兄へで喜び声を挙げているのが流された。ただし、現時点でイスラムの過激派組織に加入したこの被告その2が、実際にテロ行為にかかわったのかどうかは、情報として出てきていない。SNSには武器を手にしてポーズを撮った写真を投稿していたようだけど。
三人目の被告は、アラブ系ではなくチェコ人の女性で、被告その2の妻であるらしい。被告その1の呼びかけはチェコ語でもなされたのか、この女性はイスラム教に改宗して名前もアラブ風の名前に変えてしまっている。名字は旧姓をそのまま使っているようなのがよくわからないのだが、夫婦別姓ということなのだろうか。
とまれ、被告その1の起訴の理由の一つが、このチェコ人女性がシリアのイスラム過激派の支配地域に入るのを援助したことである。最初の試みは、トルコの飛行場で女性がシリアに向かおうとしていることが発覚し、入国させるのに不適切な人物だとして、チェコに送り返されたという。狂信者がそんなことであきらめるわけはなく、被告其の1のアドバイスで、次はバスを使って移動することで、シリアに入国することに成功したらしい。
そして、シリアで被告其の2と結婚したというのだけど、わからないのは、二人の間にそれ以前から何らかの関係があったのか、被告其の1が弟の妻としてチェコ人女性に白羽の矢を立て、シリアに送り込んだのかということである。恐らく前者だろうけれども、イスラム教の過激派であることを考えると後者であっても不思議はない。
この女性は母親への連絡で、自分はこれから犯罪を犯して警察に追われることになるから、母親だけれども憎んでいるふりをしろなんてことを書いていた。将来チェコに戻って人を殺すことになるかもしれないとテロを示唆するような記述もあった。母親は娘をテロ組織から救い出すために警察に協力していて、娘からの連絡などはすべて警察に届けているのだとか。ただし、被告その2の場合と同様、この女性が実際にテロ行為に手を染めたかどうかはわからない。
最後の被告その1の罪状は、チェコからイスラム過激派に資金提供をしたというものである。弟の属する組織の兵士たちが、一般人の振りをしてSNSに大怪我をした写真を上げて、治療のために大金が必要だとか言って、寄付を募りシリアに送金していたらしい。丁寧なことに、恐らくは継続して寄付してもらうためだろうが、頂いたお金のおかげで治療が間に合ったなんて感謝のビデオも投稿していたらしい。自分で稼いだお金を、テロ組織に送金するというならまだしも、寄付を募ってというのは完全な詐欺である。
このプラハの元イマームと弟、その妻の話は、これまで断片的に聞こえてきていたような気もするのだが、警察でも非常にデリケートな問題だと捉えているのか、情報の出し方に気を使っているようにも見える。下手をすればオカムラ党などの極右の支持者を増やすことにもつながりかねないし。それはともかくとしても、この事件は、現在は穏健なチェコのイスラム教徒の中にも過激派が生じる芽がないわけではないことを示しているのだろう。厄介な時代になったものである。
2020年1月7日24時。
2020年01月01日
『チェコの伝説と歴史』――チェコの貴族の家名(十二月廿九日)
この本の特徴としては、貴族の家名の表記も挙げられる。本の特徴と言うよりは日本語訳の特徴と言った方がいいのだが、チェコ語のものをそのままカタカナにしているのである。だから「イジー・ス・ポヂェブラト」とか、「ベネシュ・ズ・ロウン」なんて人名だけでなく、「ス・クルムロヴァ家」などという表記も登場する。
注にもあるように、チェコ語の貴族の名前の後ろにつくことの多い「z」は、ドイツ語の「von」に当たるもので、地名が後に続く。ドイツ語のほうが何格になるのかは知らないが、チェコ語の場合には、2格をとるため、本来の地名、つまりは1格の形とは微妙に変わってしまう。チェコ語ができる人なら、「ス・クルムロヴァ」のもとになった地名はクルムロフで、「ズ・ロウン」はロウニだということがわかるのだろうけど、……。この本を読むような人はチェコ語にも手を出しているだろうから心配はないかな。
この表記の利点は、何と言ってもチェコ語の表記との整合性にあるだろう。チェコ語でも貴族の家名を「z」と地名の2格で示すことが多いのである。去年買った『チェコの貴族家事典』でも「z」のついた形で立項されているものがかなりの数に昇る。観光地の説明なんかでも「páni ze Žerotína」なんて形で、ジェロティーン家の人々のことが書かれていることがあるし。
プシェミスル家やビーテク家などのように、地名を使わない家名もあるし、ハプスブルク家のように人名に使う場合には形容詞化した形にするものもあり、キーンスキー家のように家名も人名も形容詞型の名詞になっているものもあることで、一言で言えばチェコ語の表記も結構混乱していることである。「z」の代わりに「na」か「v」を使う例も少ないとはいえ存在するのは、ドイツ語に「von」だけでなく「zu」もあるのに対応しているのかもしれないけど。
先ほど例に挙げたジェロティーン家の場合にも、複数形で「ジェロティーノベー」なんて形で出てくることも多いから単数にすると「ジェロティーン」ということになる。ハプスブルク家も形容詞型の名詞「ハプスブルスキー」の複数形で「ハプスブルシュティー」となる場合と、「ハプスブルコベー」という名詞「ハプスブルク」の複数形が使われる場合もあるから、チェコ語を学ぶ外国人にとってはややこしい以外の言葉は出てこない。
さらには、王家であるプシェミスル家の場合には、王の名前の後ろに姓のようなものがつくことがなく、プシェミスル家の人々を指す特別な名詞として「プシェミスロフツィ」という言葉が使われる。同様に南ボヘミアに勢力を誇ったビーテク家にも「ビートコフツィ」という言い方がある。ただこちらは早くから「z」を使ったいくつかの家名に分かれている。分家が成立したということなのだろうか。
同じ「z」を使った家名でも、ジェロティーン家のように領地が増えて本拠地が変わっても同じ「ze Žerotína」を使い続けるところもあれば、比較的ひんぱんに家名の基となる地名が変わっていて家系のつながりが見えにくいところもある。さらには外国から入ってきた貴族の家名や、チェコの貴族が外国で呼ばれる家名が、チェコと外国で微妙に違っているという問題もあって、貴族家の家名をどう日本語で表記するのかという問題は一筋縄ではいかない。
個人的には、家名の基になった地名との整合性を重視して、地名を家名として使っているのだけど、それが正しいのかどうかは自分でもよくわからない。またまましまらない結末になってしまった。
2019年12月30日24時。
2019年12月31日
『チェコの伝説と歴史』続(十二月廿八日)
もう一つ、この本を読みながら気になったのは、自分の土地勘のなさである。あれこれチェコ国内の地名が出てくるのだが、初めて見る地名が多くて困惑させられる。現在の主要な地名はもちろん、歴史上重要な地名もある程度は知っているつもりだったのだが、古いチェコの伝説に登場する地名の中には、普通の地図には載っていない小さな村に過ぎないようなものもあるのだ。そこが観光地化していれば知る機会もあるのだろうけど。
建国神話に出てくる地名が現在まで残っているという点では、日本も同じか。九州の人間だからある程度の場所のイメージはできるけど、外国人には無理だどうなんて考えたら、あまり気にしなくてもいいような気がしてきた。それよりも、日本とチェコの建国神話において、どちらも山が重要な役割を果たしていることのほうを気にするべきか。
チェコの神話の山、ジープ山は、神話の真偽はともかく、実在していて、ここがチェフとその一族がたどり着いたジープ山だと比定されていて、山頂だったか山腹だったかに、教会が建てられているはずで、毎年多くの人がこの伝説のために山に登る。日本神話の高千穂の峰が、どこにあるのか決められていないのとは対照的である。神話は歴史ではないなんてことはわかりきっているのだから、ここと決めてしまってもいいと思うのだけど。
日本の高天原に当たるチェフたちの故地はハルバートという名前になっている。それは知っていたのだけど、ハルバートというのは、ホルバートのバリエーションだと理解して、現在のクロアチアのある辺りをさしているのだろうと思っていた。それが実は大きな間違いで、現在のポーランドの一部がかつてハルバートと呼ばれ、ハルバートという部族が住んでいたらしい。そうすると、クロアチア人もハルバートから移動したということなのかもしれない。
注に付されている地図に、いくつもの部族名が書かれているのは、このあたりで最古の国とされるサーモの国で、サーモにしたがっていた部族がいくつもあったという話を思い出させるのだが、イラーセクはこのフランク人の商人と言われる人物の立てた国については書かない。プシェミスル家の成立にかかわる神話を語り終えた後、登場するのは大モラバ侯爵スバトプルクである。
モラビアが中心的な舞台となる話は、このスバトプルクについての話と、その次のモラビアの神話とも言える失われた王イェチミーネクの話ぐらいしかない。これもまたなじみのない地名が多い理由になっている。今年の夏にあちこちしたときもモラビアが中心だったから、モラビアないなら結構細かい地名まで知っているのだけど、ボヘミアのほうは、特に北ボヘミアは鉄道で通過したことしかないから、ほとんど知らないといってもいい。
モラビアに関する話が少ないのは、イラーセクがボヘミアの出身だからだろうか。プラハの出身ではないはずなのに、プラハの話が多いのは、プラハの話が一番たくさん残っていたのか、今にも続きモラビア人をいらだたせているプラゴツェントリズム(プラハ中心主義)の反映だろうか。そのわりには、スロバキアの義賊ヤーノシークの話も採録されているのが不思議である。
正直な話、チェコ人とスロバキア人を一つの民族と見て、統一した国家を作り出そうという考えが生まれたのは、20世紀に入ってからのことだと思い込んでいた。しかし、イラーセクの『チェコの伝説と歴史』にスロバキアのヤーノシークの話が入っているということは、イラーセクがスロバキアをチェコの一部、もしくはチェコにつながるものとして認識していたということでもあろう。それがイラーセクだけの考えだとも思えないから、19世紀以前にもチェコとスロバキアを一つにしようという考えがある程度広まっていたということか。
ちゃんと勉強したわけではないから、我が知識には結構偏りがあるなあ。あれこれ本を読んで復習しておく必要がありそうだ。
2019年12月29日23時。
2019年12月30日
『チェコの伝説と歴史』(十二月廿七日)
1918年のチェコスロバキア独立以前のハプスブルク家に支配されたチェコで、チェコ語で創作活動をしていた作家たちの中で、ニェムツォバーと並んでよく知られているのが、この本の作者のアロイス・イラーセクである。ニェムツォバーの代表作である『Babička』が『おばあさん』の題名で日本語に翻訳され、岩波文庫にも収録されるなど日本でも昔からよく知られているのに対して、イラーセクの作品が日本語に翻訳され出版されたのは2011年のこの本が最初である。
翻訳者の浦井康男氏の解説によれば、イラーセクは歴史小説家として知られ、特にフス派戦争以後のチェコ民族の苦難の時代において、民族の尊厳を守るために、民族の敵とも言うべき存在と正面から立ち向かった人々の姿を描く作品が多いらしい。言い換えれば重厚なテーマの暗い雰囲気の作品が多いということにもなり、知名度のわりにチェコでもあまり読まれていない作品が多いようである。
そんなイラーセクの作品の中の例外が本書でチェコ語での題名は『Staré pověsti české』。チェコでは子供向けの本として出版されており、今でも多くの子供たちに読まれているらしい。邦題の「伝説と歴史」というのは、チェコ語「pověst」の苦心の訳のようである。「pověst」という言葉自体は伝説と訳されることが多いが、評判に近い意味で使われることもある。内容が事実だとは限らないということである。
チェコ語ではそれに「staré」が付いているので、昔から伝わっている真偽不明の古い歴史的伝説をイラーセクが集大成したものと考えておく。日本でも1980年代ぐらいまでは、子供たちが神話の天孫降臨から江戸時代ぐらいまでの出来事をエピソード的に取り上げた物語的通史を読んで歴史認識の基礎を築いていたが、同じようなことがチェコでも行われていたのかもしれない。なんてことを考えていた。
この本を手に入れたのは、出版から4年ほどあとの2015年のことだが、以来夏や冬の長期的な休みにうちのの実家に出かけるたびに、読み通そうと持参していたのだが、これまではあれこれあって一部しか読むことができていなかった。それが今年、うまく時間が取れて3日ほどかけて注も含めて通読することができた。
通読してあれこれ誤解していたことに気付いた。一番大きいのは、チェコの神話に当たる民族のチェフの話から通史的に伝説が並べられていると思い込んでいたことで、実際には通史というには取り上げられている時代も少なく、必ずしも年代順に並んでいるわけではなかった。特に聖バーツラフを除くプシェミスル朝の王については、いくつかの部分で断片的に取り上げられるに過ぎない。
その後の歴史でも王たちについてよりもフス派のジシカについて詳しく記されているわけだけれども、このことについて、1978年という共産党政権下に出版された版では、イラーセクはチェコの諸侯や国王たちが歴史の主人公だった時代には関心を持っておらず、人民が歴史において役割を果たし始めたフス派戦争の時代からイラーセクの歴史は始まるのだといういかにもな解説が付いている。この版は、何とクレメント・ゴットワルトによる短い序文がついているという点でも時代の産物なのだけど。本人が書いたのかどうかは不明である。
誤解といえば、これまでチェコ語の子供向けの本で読んできたチェコの神話の冒頭部分と、イラーセクの書いたものとは微妙に違っていた。チェフには弟のレフがいて、このレフとレフに率いられた人たちがポーランド人の祖になったという話は知っていたが、二人の率いる集団が分かれたのは、新たな定住の地を求める旅の途中だと思っていた。それがレフたちも一度は、チェフとともにジープ山のふもとに定住してしばらくしてから再度旅立ったのだという。
どちらが正しいかという問題ではなく、自分が読んだ本の記述がイラーセクの本を元にかかれたものだと思っていただけに、その違いに驚いただけである。もちろん、この手の子供向けの神話を読んだのはチェコ語の学習を始めたばかりのころだから、こちらのチェコ語の能力の不備で誤解していた可能性もないとは言わないけど。
他にも二代目の指導者であるクロクがチェフの息子ではないとか、リブシェと結婚してチェコの指導者となるプシェミスル・オラーチが、以前から知り合いだったとか、「娘たちの戦い」の女性側の指導者がリブシェの侍女だったとか、こちらが知っている話とは微妙に違っていて、すでに知っている話なのに、興味深く読むことができた。
気になるところは他にもあったのだけど、クリスマス進行中でもあるし、次回回しにする。
2019年12月27日24時。