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2019年12月14日
病院の受難続く(十二月十一日)
昨日のオストラバの大学病院での悲劇に続いて、今日も病院で問題が起こったというニュースが流れた。舞台になったのは、中欧ボヘミアのベネショフの町の病院だった。幸いにして直接犠牲者がでるような事件ではなかったが、これがチェコ中に拡大すると、チェコの医療体制が完全に崩壊しかねない大きな事件だった。
病院内のネットワークにハッカーが侵入してウィルスを植えつけた結果、ネットワークに接続された機器はほぼすべて使用不能になりパソコンも電源すら入れられなくなったらしい。その結果、四手されていた手術はすべて延期、緊急性の高いものは、中欧ボヘミア地方の他の病院に移送していた。当然診察も薬の販売も停止となり病院まで来た人が、検診ために仕事休んだんだけどなんて愚痴をこぼしている人もいた。
病院側ではハッカーの侵入を防ぐために三重の対策をしていたというけれども、あっさりと侵入を許しチェコでも初めて聞くような事態が発生したのである。問題はネットワークの利便性を重視するあまり、そのリスクを軽視し過ぎたことにあるなんて、言ってみたくなるけど、診察や処方箋の出ている薬の販売まで停止しなければならないほどに、ネットワークに依存した病院の在り方自体にありそうである。
さすがに入院患者は他の病院に引き受けてもらうというわけにも、ケアを停止するというわけにもいかなかったようで、昔ながらのやり方で面倒を見たらしい。ならば、診察だって薬の販売だってやってやれないことはなかろう。記録を紙の上に残しておけばいいのだし、病院のネットワークにつながっていないパソコンの一台ぐらいはあってもおかしくないと思うのだけど。苦情の受付や問い合わせには、昔ながらの電話で対応して、必要事項は紙に書き込んで処理していたのだから、診察もやれよと思った人もいそうである。
病院の関係者の話では、診察用の機械の中には、単独で診察に使うだけだったら使える状態だったものもあるという。ただそれで獲得できたデータを病院内のネットワークでコンピューターに送ったり、他の病院に送ることができなくなっていたのだとか。他の病院にデータを送るとウィルスまで一緒について行って、そっちでもシステムがダウンする恐れがあるからできてもやらないとも付け加えていた。
近年のIT技術の進歩であれこれ便利になったのだろうけれども、その便利さが脆弱なものであることもまた確かである。病院などの大きなものではなく、個人のことを考えても、スマホ一台あれば何でもできるということは、それが駄目になったら何もできなくなるということである。古いタイプ人間なので、一つのものに頼り切るのは不安で保険をかけたくなる。だから財布を落としても問題ないように、持ち歩く財布には最低限必要な額しか入れてないし、カード類も入れないようにしている。落としたことないから、その用心が役に立ったことはないのだけど。
チェコの公立の病院って、最近もどこかの地方の病院で、患者をたらいまわしにしたというので非難されて、院長が解任されたところがあったし、何年か前の急患でやってきた患者を放置して治療しなかったという事件が発覚して非難を浴びているところもある。プラハの大病院では機材や消耗品の購入に関して業者からわいろを受け取っていたというので関係者が逮捕されている。社会民主党のソボトカ内閣で厚生大臣を務めていた人物も、オストラバの病院に院長時代の高額の機械の購入を決定した際に必要上の高額で契約したということで疑惑をもたれていたなあ。
医師会なんかは、医者の給料が安すぎるのがよくないというのだろうけど、一面の真実ではある。チェコを離れてドイツやオーストリアで就業する医師の多くが、報酬の低さを理由として挙げている。優秀な医者たちが国を出て行ったことで空洞化が起こっていると考えてもよさそうだ。その結果、機材やシステムを納入する業者と癒着する医師が増えて、ハッカーに侵入されるようなシステムで病院が運営されることになったわけだ。
ところで、以前日本の雑誌だったか、本だったか、ネット上の記事だったか忘れたけれども、ハッカーなんて古い言葉はもう使わないんだなんてのを読んだことがある。じゃあ何と呼ぶのかというのは覚えていないし、気に入らなかったのは覚えているけど、チェコ語では今でもハッカー、音的には「ヘックル」に近いかな、と呼んでいるので、ここでもハッカーという言葉を使った。
佐藤史生の『ワン・ゼロ』で、主人公のうちの一人が学校のコンピューターに侵入して出席簿の改ざんをしているのを読んだときには、ちょっとあこがれたけど、そのときも今もどうすればそんなことができるのか全く理解できない。コンピューターはある程度はつかえているけど、使いこなすというところまでは来ていないのだよなあ。スマホ? そんなもん要らん。
2019年12月12日24時。
タグ:病院
2019年12月13日
悲劇のオストラバ(十二月十日)
オストラバとその周囲を中心に起こった悲劇的な事件というと、数年前のメタノール事件や、炭鉱での火災、ストゥデーンカでの鉄道事故なんかが思い浮かぶのだが、今回はオストラバの大学病院で、銃を持った男が待合室に侵入し無差別に銃撃するという事件が起こった。犠牲になった方は6人、犯人も逃走の末に自殺して事件に幕が引かれた。
朝、と言っても、8時は過ぎていたと思うのだが、チェコのスポーツ新聞のHPを見ていたら、一番上に緊急速報みたいな形で、オストラバの病院で銃撃事件が起こったことが書かれていた。普通は広告のある部分なので、気づくのに時間がかかったが、すぐにセズナムを開いて確認すると、犯人は逃走中で、テキスト速報みたいな形で事件の推移を伝えていた。
チェコテレビのニュースによると、事件の発生を伝える連絡が入ったのは朝の7時19分のことで、最初の警察の部隊が現場に駆けつけたのは、7時24分のことだったという。事件が起こった外科の待合室は病院の建物の4階にあったというから、病院の中に入ってからも、警戒しながら階段を上っていくことで多少時間がかかったのかもしれない。警察の発表では通報後3分で到着したということになっていた。
警察の部隊が到着したときには、すでに犯人の姿は待合室になく、病院の周辺に動員された警察官達によって警戒網がしかれた。犯人の体格や服装などの得られた情報を許に、何人かの同じような格好をした人物が警戒網に引っかかり、尋問の対象になったらしい。特に隣接するオストラバ鉱山大学の大学院生に関しては容疑者扱いしたようで、夜のニュースで警察関係者だけでなく、内務大臣のハマーチェク氏も謝罪の言葉を述べていた。
ただ、同時の事件の大きさを考えると、姿形が犯人の特徴に似ている人物を放置することは警察としてはできなかったと付け加えていた。日本だったら野党が人権侵害だとか言って大騒ぎするのだろうなあ。日本でいちゃもんがつきそうと言えば、結果的には必要にならなかったとはいえ狙撃部隊の投入も決定された。銃を持った犯人が街中をうろつき、どれだけの犠牲者がでるかわからないという状況に、射殺してでも次の犠牲者を出さないという方針だったようだ。
実際には狙撃部隊がオストラバの病院のヘリポートに到着した時点で、警察のヘリによって犯人が乗った車が発見され、追跡中に犯人が自殺したことで実践への投入ということにはならなかったようである。犯人の死亡が確認されたのが、11時過ぎ、事件発生からほぼ4時間のことだった。犯人が自殺したのはオストラバからオパバ方面に6キロほど行ったところらしい。警察の発表では逃走の途中で実家に立ち寄り、母親に犯行について話したのだとか。
現時点でわかっているのは、犯人は40台の男性で、使用した銃は不法に所持していたものだという。銃の入手経路や犯行の動機などについては現在も捜査が進められているようだ。動機に関しては、オストラバの大学病院で満足な治療を受けられなかったことを怨んでのことだという説も出されていたが、確証はないという。銃撃を行なった待合室のある外科の外来は、犯人が受診したところだともいうけれども、一階から順番に待合室を見て回って、一番人の数が多かったこの待合室を選んだだけだという説もある。
亡くなった方々については、日本と違って取材が抑制的なため、それほど多くの情報が報道されているわけではないが、2人が刑務所の監督官として勤務している人だったらしい。そのうちの一人は、娘とともに病院に来ていて、娘の命を守るために自らの体を盾にしたという話が伝わっている。同僚達の悲しみの声は報道されたが、遺族に対する無神経な取材は行なわれていないようだ。ほっと一安心である。
銃を所持した個人が、ある日突然、人を殺すことを決意して実行した場合、警察にできるのは最初の事件が発生した後、次の犠牲者を出さないようにすることぐらいだろう。今回の対応に関しては、肯定的に評価されているようだが、警察の話では、これは数年前にウヘルスキー・ブロトのレストランで起こった銃の乱射事件の際の対応を教訓に改善に取り組んだ結果だという。あのときは今回よりも多い8人の人が亡くなったのだった。
このような事件が起こるたびに、民間人の銃の所持を禁止したほうがいいという声が上がるのだが、チェコもアメリカと同様に反対する意見が強い。不法所持の銃が使われたということは所持の禁止よりも生産に規制をかけたほうがいいような気もする。ただ銃の生産大国であるチェコでは難しいだろう。それよりは、環境保護団体に花火なども含めた火薬の生産の規制を訴えてもらいたいところだ。二酸化炭素の排出量も減るし一石二鳥だと思うけど。
最後に、犠牲になった方々の御冥福とこのような事件が二度と起こらないことを願っておきたい。
2019年12月11日23時。
2019年12月02日
モラビアのビーナス(十一月卅日)
現在、オロモウツの博物館では、特別展示が行なわれていて、入場を求める人たちが、博物館の敷地の外、共和国広場のトラムの停留所まで行列を作っているらしい。行列を作るのが好きなチェコ人とはいえ、オロモウツの博物館の前で行列を見るのは初めてのことである。それだけ今回の特別展が、いや、ある展示物が人々の注目を集めているということなのだが、チェコの国宝(そんなものがあるのかどうかはしらないが)ともいえるものなので当然といえなくもない。
その国宝はベストニツェのビーナスと呼ばれるものなのだが、南モラビアのドルニー・ベストニツェという村の外れの旧石器時代の遺跡から発掘された陶製の女性像である。1920年代に発見されたこの像は、世界中で発掘された陶器の中でも最も古いものの一つで、旧石器時代に焼き物はなかったという当時の定説を否定するきっかけになったものらしい。
チェコの国宝的な存在とはいえ、モラビアで発掘されたものなので、普段は、プラハの博物館ではなく、ブルノのモラビア博物館に収蔵されている。特別なとき以外は、一般公開はされておらず、展示されているのはレプリカという話だったと記憶する。それをオロモウツの博物館が2年ぐらいにわたる交渉を経て借り出すことに成功したらしい。そして、二週間ほどという短い期間だがレプリカだけでなく本物も展示されていて見ることができるという。うちのが見に行ったといっていた。
ニュースではブルノからオロモウツまで運ばれる様子が報道された。ブルノの博物館で専用の収納箱に入れられ、さらに特殊なトランクに収められた後は、博物館の担当者の手でオロモウツにまで運ばれたのだが、警備体制が厳重だった。前後を機関銃を手にした警察の特殊部隊が固めて車まで行き、車での移動も警察の車両に前後を挟まれていた。オロモウツの博物館の展示室の強化ガラス製の展示ケースに入れられ鍵をかけられるまで、特殊部隊の人たちが警備を続けていた。
本物の展示は、小さな専用室で行われ、一度に部屋に入れる人数も、いられる時間も制限されているようだ。展示ケースの脇には博物館の係員がいて来場者を監視していることになっているのだが、見に行ったうちのの話では、いすに座って携帯の画面に見入っていて監視の役をまったく果たしていなかったのだとか。あれだけ厳重な警備をして運んできておきながら、会場の監視がこれでは、あんまり意味がない。万が一に備えて警察の人も控えているという話、展示室の中にいるのかどうかは不明である。
考古学的な価値は高く、博物館の間で売買するなら一体どれだけの額になるのか予想も付かないようなものではあるけど、小さな陶器の人形だから、品物自体に価値のあるドレスデンで盗まれた宝飾品とは違って、盗み出したところで買い手が限られ売りさばくのは困難だろう。国や博物館に対して身代金を要求するのが一番金になりそうかな。でもそれやると、捕まる可能性も高くなるし、盗んでも割に合いそうにない。だからちゃんと監視していなくても、問題ないといえなくもないけど……。
博物館の人がニュースで語っていたところによると、このビーナス像の見学には、学校枠というのが設定されていて、クラス単位、学年単位で時間を予約できるようになっているらしい。その予約もほぼ一杯になっているから、一般の人の待ち時間が長くなる可能性があるという。オロモウツで展示されるという話を聞いたときには、久しぶりに博物館の展示も見たいし行ってみようかなと食指が動いたのだが、行列の話を聞いてその気が失せた。
特別な日に普段は入れないような政府関係の建物を一般公開するなんてイベントもあって、国会や政府の建物とか見てみたいと思わなくはないのだけど、行列好きのチェコ人が朝早くから列を作って並ぶことを知っているとどうしてもためらってしまう。行列というか、順番待ちはビザや滞在許可の書類を提出するときだけで十分である。
ちなみにベストニツェのビーナスが発見されたのは、南モラビアのディエ川に設置されたダム湖の南側で、ミクロフから10キロほど離れたところだという。パーラバと呼ばれる丘陵地帯にも近く、人間の居住に適した自然環境だったのだろう。ここに限らず、モラビア全体がそうだったのだ。モラビア各地で先史時代の遺跡が発掘されているし。チェコでは発見された村の名前を取ってベストニツェのビーナスと呼ばれているけど、そんな村の名前、チェコ人以外は、誰も知らないんだし、世界史的に見たら「モラビアの」という形容詞をつけてもいいんじゃないかということでこんな題名にしてみた。
2019年12月1日8時。
どんなものかは、こちらから。
2019年12月01日
ブラックフライデー(十一月廿九日)
以前どこかにチェコ人は行列が好きだと書いたことがあるが、チェコ人が他の国の人たちよりも好んでいるものは他にもある。そのうちの一つは借金で、チェコ語の勉強をしていたころに、師匠から、借金してまでバカンスに出かけるチェコ人が多いとか、クリスマスプレゼントを買うために借金する人もかなりの数いると言う話を聞いて絶句したものだ。どちらも借金してまですることではないというのは日本人的な感覚なのだろうか。
最低賃金のニュースなんかでも、今の最低賃金ではバカンスにも出かけられないとか不満を述べる人がいて、金がないならないなりのやり方があるだろうにと思わずにはいられない。クリスマスプレゼントにしても借金してまで買った物をもらっても、気に入るとは限らず、クリスマスの後には返品のための行列ができるなんてニュースを見ると、しかも領収書のないものをあの手この手で返品するのを認めさせようとしているのを見ると、何だか特別な娯楽であるかのように見えてくる。
もう一つ、チェコの人たちが愛しているのは、割引販売である。1ハレーシュ(1コルナ=100ハレーシュ)でも安いロフリークを探して、広告のビラを比べて買い物するスーパーを決めるという話は、割引とは直接関係ないけれども、できるだけ安く買いたいというバーゲン好きにつながるメンタリティを見て取ることはできる。より安い品を求めてスーパーをはしごするなんて話もあったか。
スーパーマーケットの棚は、「sleva」という表示にあふれている。わかりやすい値段が何パーセント引きというものもあれば、値段は同じだけど量を増やしたというものもある。前者は店で設定した割引で、後者はメーカーの設定する割引になる。スーパーが発行するポイントカード所持者だけが活用できる割引もあったかな。その辺は日本も変わらないのだろうけど、安く買うことにかける執念ではチェコの人の方が上をいくような気がする。
必要だから、ほしいから買うではなく、ただ単にいつもより安くなっているから買うなんてことをいう人も結構いるしさ。そういえば共産主義時代の映画にも、安く買えるものを買い集めている人物が登場したなあ。右足用のしか生産されなかった靴とか、売り物にならないようなものを集めて、必要に応じて修正しながら使っているのだったか、口八丁で他人に売りつけているのだったか。
さて、ブラックフライデーというのは、もともとアメリカでクリスマス前のバーゲンセールとして始まったものらしい。それがチェコまで入ってきたのは多分最近のことだと思うけど、借金をしてまでクリスマスプレゼントを買うチェコ人が、この特別バーゲンに熱狂しないわけがない。年々規模が大きくなっているような気がする。
クリスマス前のバーゲンセール自体は以前から伝統的に存在していたはずだ。そのいつもの大安売りに特別感を出そうとして、どこかの企業がブラックフライデーという名称を使用し始めたのが、チェコ中に広まったんじゃないかと想像している。例年はテレビのコマーシャルでブラックフライデーがどうとかこうとかいうのを聞いて、店が込むから買い物に行くのは面倒だなあと思っておしまいなのだが、今年は、ネット上で買い物したときにメールアドレスを登録したお店からブラックフライデーの開始を注げるメールが来た。その店では最近買い物をしたばかりだから、バーゲンだからといって買う気はないけど。
大安売りで買うのもチェコ人なら、売るほうもチェコ人である。つまり大安売りも一筋縄ではいかない。ブラックフライデーには限らないのだが、チェコのお店の中には、定価で売っていた商品を値上げしたり、値下げ幅を大きくしたりする前に、定価を高く改定するところが多いらしい。その結果、例えば実際には値下げ前と10パーセントしか変わらないのに、50パーセント引きと表示されることになる。そして、その店に通って値段のチェックをしていた人ならともかく、大半の人は半額になっているの大喜びして飛びつくのである。ひどいときには、実際は値上げしたのに、定価をさらに上に設定して、安売りに見せることもあるようだ。
そんな店側の反則すれすれの売り方に対抗しようとする買い手がいるのもチェコで、いろいろな店の価格をモニタリングして、見た目の上の値下げ幅ではなく、実際にどのぐらい安くなったのかを教えてくれるようなサイトもあるようなことをニュースで言っていた。うーん、そこまでして割安で買いたいのかなあ。高いと買うのをためらってしまうのはよくわかる。でも、バーゲンだから買うというのはよくわからない。
2019年11月29日23時30分。
2019年11月24日
クリスマスマーケット(十一月廿二日)
十一月の半ばから出店の準備が始まって、一部の店ではすでに営業を始めていたオロモウツのクリスマスマーケットだが、この週末から公式にオープンするらしい。今日はそれに先立ってホルニー広場の市庁舎の天文時計の前に立てられたクリスマスツリーの装飾の点灯式が行われた。このクリスマスツリーは、毎年オロモウツ地方の山の中から切り出してくるのだけど、オロモウツだけでなく、他の町でも同様のことをしていることを考えると、かなりの数の木が森から消えることになる。環境保護団体あたりがいちゃもんをつけないのが不思議であり、不満である。
個人の家庭で購入するクリスマスツリー用の木は、最初からその目的で専用の育木場(へんな言い方だけど)で育てられているから、まだましにしても、街の中心の広場に立てられるようなものは、大きさも成長にかかる年数も桁違いである。それを毎年たった4週間のクリスマスマーケットのために切り出し、運び込むのは効率が悪すぎるとは思わないのだろうか。
チェコは近年針葉樹林がキクイムシに襲われて、多くの木が枯死するという事態が発生している。そんな虫害にやられた木を使用すればリサイクルにならなくはないけど、下手にそれをやると害虫の生息域を広げてしまうことになるし、強風で折れてしまう恐れも健康な木を使うとき以上に大きくなってしまう。
一時期、毎年毎年クリスマスツリーに使われる木が大きくなっていた時期がある。木を切り出した山の中からプラハやオロモウツまで苦労して運ぶ様子がニュースになることも多かった。それが、強風でクリスマスツリーがぽっきり折れて、マーケットの出店や買い物客に被害が出るという事故が何度か起こり、巨大化競争は終わりを告げた。オロモウツのクリスマスツリーは、今年は特に小ぶりの物になっているが、これは単に市庁舎が改修工事中で、大きなものを立てる場所の余裕がないからに過ぎない。
大きさが変わらなくなった代わりというわけでもないのだろうけど、最近は装飾の過剰化が進行していて、やりすぎなまでに派手なものが増えている。オロモウツのものも、正直、装飾にスイッチを入れる前の状態の方が風情があっていい。美意識の違いといえばそれまでだけど、クリスマスツリーに取り付けられた電気で光る装飾が明るすぎて、木の変わりに鉄骨かなんかをそれなりの形に組んで、装飾をつけても変わらなさそうである。
公的な資金を、宗教に期限のある行事に無駄に使っている典型例だと思うのだけど、政教分離にうるさい人はチェコにはいないからなあ。こんな大きな街の無駄に大きく無駄に派手なクリスマスツリーと違って、地方の小さな町のなかには、経済的な事情からか、市庁舎の前や、教会の近くに植えられている背の高い針葉樹に飾りをつけてクリスマスツリーにしているところがある。飾りも電気で光るものよりは、周囲の街灯の光を受けて光るものが多い。
大きな街でも、広場に木を植えて育てたほうが、森林保護の観点からもいいし、クリスマスマーケットなんて光にあふれているのだから、クリスマスツリー自体が必要以上に光を発する必要はないと思うのだけどなあ。
クリスマスマーケット自体は、年末の風物詩になっているから、やめてしまえなんて野暮なことを言うつもりはない。ただ年々規模が大きくなっている(ような気がする)のはいい加減にしてほしい。この時期になると、毎年職場への行き帰りが面倒になる。すでにホルニー広場、ドルニー広場に出店が立ち並び始める時点で、広場を思うように歩けなくなる。マーケットが始まったら、朝は準備する人の、夕方は夜と言いたくなる暗さだけど買い物客の合間を縫って歩かなければならない。
おまけに今年は、うちのほうまで来るトラムがとまっていて、トラムを使って混雑を避ける手もない。トラムの線路ではなく道路の改修工事中なので代替バスさえうちの近くには止まらない。健康のためにマーケットの開かれている広場を避けて歩くぐらいしかできることはない。雪が降り出すまではそれで何とかしよう。
それにしても、以前はこのクリスマスマーケットの開始を告げるクリスマスツリーの点灯は、12月5日の聖ミクラーシュの日に行なわれていたと思うのだけど、マーケットの期間を長くしろという業者の圧力に負けたのかねえ。ミクラーシュと点灯が重なっていた時期は、混雑がとんでもないことになっていたから、それを避けようとした可能性もあるか。
2019年11月23日21時。
2019年11月21日
卅年前のできごと(十一月十九日)
ビロード革命のきっかけとなった学生デモがプラハで発生したのは、11月17日のことだが、それだけで共産党を権力の座から追い落とすことができたわけではない。プラハでのできごとがテレビなどを通じて広まるにつれ、共産党政権がデモもメディアもコントロールし切れていないことが明らかになり、チェコ各地で反政府のデモや集会が行われるようになっていく。
何日のことかまでは覚えていないが、炭鉱が多く共産党の牙城とまで言われていたオストラバでは、反政府集会に参加した劇場の俳優たちが中心となって、共産党を支持する炭鉱労働者たちとの話し合いをして、見方につけることに成功したという話がある。我らがオロモウツはというと、学生たちが中心となって、箱の壁という抗議行動を行なっている。
これはメッセージやスローガンを書いた段ボール箱を積み重ねて壁のようにするというものだが、壁が建てられたのは、共産党のオロモウツ本部の前だった。その建物は現在ではパラツキー大学の法学部の建物になっているのだが、前を通るバス通りが、11月17日通りという名前になっているのに関係がありそうである。チェコのあちこちの町にある11月17日通りは、ビロード革命の後になって解明されたもののはずだ。
ただ、当時オロモウツには、ソ連軍の駐屯地があって、チェコスロバキア全体で二番目の規模で、都市に接しておかれたものとしては最大のものだったため、1968年の「プラハの春」の際のワルシャワ条約機構軍の侵攻を実際に体験した人の中には、まだ早い、もうちょっと待てと学生たちに自制を求める人もいたらしい。というか当時すでに大学で働いていた、師匠の旦那がその人である。結局ソ連軍は動かずオロモウツの抗議運動が軍隊によって踏みにじられることはなかった。
ちなみに駐屯ソ連軍の本部が置かれていた建物はジシカ広場にあって、現在ではパラツキー大学の教育学部が入っている。灰色の陰気臭い建物で、改修すればいいのにと思うのだが、最初に立てられたときからその色だったのか、一向に変わる気配もない。その建物の前のマサリク大統領の銅像が立っているところには、スターリンだったかレーニンだったか、ソ連共産党のプロパガンダのための銅像が立っていた。ビロード革命の最中に、撤去され今ではどこかの倉庫の奥に眠っているはずである。鋳潰された可能性もあるけど。
プラハでは、共産党政権と交渉するための組織、後の市民フォーラムの設立の準備が始まっており、19日には、バーツラフ広場の近くの劇場にハベル大統領を中心に何人かの反政府グループのリーダーたちが集まり、共産党に突きつける条件についての話し合いが行なわれている。ただ、参加予定だった人たちが全員参加できたわけではなく、会場に向かう途中のバーツラフ広場で治安警察に取り押さえられて連行された人も何人かいた。
この時点では、共産党政権の内部でも、どのように対応するか決めることができていなかったのだろう。このとき治安警察が関係者を無理やり車に乗せて連行する様子が、取材をしていた外国のメディアによって撮影されていて、これがドイツなどの国外で報道され批判されたのも共産党政権が追い詰められていく一助になったはずである。
ハベルたちの集まった劇場では、舞台の上に反政府グループの中心人物が登り、客席には一般の参加者たちが座っていた。舞台の上と客席とで掛け合いのようにして、条件を話し合い決めて行ったようだ。リーダー達だけで決めるのではなく、一般の参加者たちの意見も十分に反映させたこれぞ民主主義と言ってもいいような決定の仕方である。一般の参加者の中には共産党員だという人もいて、自分は共産党員だけれどもこの運動に賛成するとかなんとか発言している。
なんでこんなことを書けるかというと、このときビデオカメラを持ち込んでいた人がいて、撮影されたビデオテープが現存しているのだ。それを機会あるごとにチェコテレビがニュースで流すのだが、画面の隅に、権利上の関係なのか何なのか「VHS」というロゴが入っている。ビデオに関しては、旧共産圏も独自規格を作ることはしないで資本主義の発明物に膝をついたのかと、最初に気づいたときには思ったのだけど、チェコで生産されたものだとは断定できないのだった。東側独自のビデオ規格があったわけではないのは確かだけど。
ということで、「VHS」に対抗した規格はソニーの「ベータ」しかなかったのだ。うちは親戚のおっちゃんが仕事していた電器会社の製品を買ったので、ベータを使っていた。互換性とか、自宅で録画した番組を見るのにしか使っていなかったから、どうでもよかったけど、だんだんビデオテープを扱っているところが減って苦労したような記憶もなくはない。ソニーの製品にこだわる人って、みんなこんな苦労をしているのだろうなあ。と、脱線してしまったところで今日の話はおしまい。
2019年10月20日22時。
眠すぎて更新できないままに寝てしまった。
2019年11月12日
歴史を知らない若者達(十一月十日)
毎年、11月になってしばらくすると、ビロード革命の発端となった学生デモの行なわれた17日に向けて、過去を振り返るニュースが増える。革命以来30年の記念の年となる今年は、例年に増して詳しい報道がなされているような気がする。憲章77の関係者でも、これまであまり表に出てこなかった人たちのインタビューが流れたり、ビロード革命の陰で制作されながら、放送されなかった番組が紹介されたりしている。
そんなニュースの中で、気になったのが、最近の、特に若い人たちに、ビロード革命に関して、陰謀史観とでも言うべきものを信じている人が多いというニュースだった。それによれば、ビロード革命というものは、1968年のプラハの春の時点で計画されていたものだったとか、裏にはアメリカや西側の諜報機関がいたとか、アメリカのエージェントとして動いたのが憲章77関係者だったのだとかいうことになるらしい。
この手の陰謀史観というのは、特に現代が、いわゆるフェイクニュースで満ちているからということもなく、以前から機会あるごとに生まれては消えていくものだ。チェコの歴史については知らないが、日本の歴史に関してなら、うまくやれば小説になりそうというか、小説になってしまったものから、聞いただけでありえないと思うようなものまで、いろいろな説を見聞きしてきた。
だいたい、アメリカの諜報機関が、CIAをさしているのだろうけど、旧東側の国にエージェントを送り込んでいないわけがない。それは認めるにしても、そのエージェントの存在が、革命運動につながるかというと全く別の問題である。実は、師匠から、あるアメリカ人のことを、あの人は人畜無害な顔をしているけど、CIAのエージェントなんだよと教えられたことがある。チェコに住むことでしか手に入らない情報を集めて、それをアメリカに送っていたのだとか。この手の人たちが反政府運動の支援をしていたとは思えない。それに、ソ連ならともかく、ソ連の属国に直接手を出すかなあ。あったとしても多少の資金援助とか、そのぐらいじゃないだろうか。
まあ、陰謀史観であっても、それを信じている人たちは、歴史上の出来事について、自分なりの知識があって、いつ何が起こったというのだけはわかっているから、まだましなのだ。最悪なのは、歴史について何も知らない若者たちの存在で、ニュースでは、ビロード革命のことを聞かれて、1968年に起こったとか、マサリクが大統領に就任したとか、外国人でも知っているようなことを答えられない若者たちが登場した。ビロード革命前にチェコを強権的に支配していた政党を問われて、市民民主党をと答えた人もいたなあ。
この問題について、専門家はチェコの高校までの歴史教育がよくないと言っていた。古代史に時間をかけすぎて、現代史を扱う時間が足りなくなるという日本でもよく聞く問題がチェコでも発生しているらしいのだ。チェコの歴史教育については詳しいことは知らないが、これを歴史の授業、歴史の先生のせいにしたのでは、何の解決にもつながらないということだけは断言できる。現代史を知らないだけではなく、近代史、いやそれ以前のことも知らないのである。
問題は、この手の若者たちの歴史の勉強の仕方が間違っていることでも、歴史に興味を持っていないことでもない。自分たちが生きている社会に興味を持っていないことだ。普通にチェコ社会の中で生活していれば、いろいろなニュースが目や耳に入ってくるもので、毎年8月になればプラハの春の出来事について、11月になればビロード革命について繰り返し放送され、記事にもされているから、これらの出来事についての知識は蓄積されていく。チェコ語が完璧ではない日本人でも、かなりの知識を物することができたのだから、チェコ人なら当然はるかに多くのことを知っているはずである。
それなのに何も知らないのは、自分のことしか考えていない証拠に他ならない。それも一つの生き方ではあるのだろうけど、反ゼマンのデモの中にも、ゼマン信者の中にも、そういう人たちがいるのだろうと考えると、暗澹たる気分になってくる。日本でもこの手の人たちが、政治家になって、東日本大震災の原因は米軍の兵器だとか、自然への敬意を忘れた日本人への警告だとか、頭おかしいとしか思えないことをわめいていたんだよなあ。民主主義ってこれでいいのか。
2019年11月10日24時。
2019年10月31日
建国記念日にあたって(十月廿九日)
昨日、十月廿八日は、1918年にチェコスロバキアの独立が達成されて101回目の記念日だった。毎年、この日には、チェコ各地で記念の式典が行われ、プラハ城では、昼間は新しく軍に入隊した人たちの宣誓式が行われ、夜は、国会議員や一般の人たちの推薦に基づいて大統領が選んだ人たちに、勲章を与える叙勲式が行われる。
チェコの勲章は、いくつかのカテゴリーに分かれるが、一番上なのは、国章の獅子の紋章に基づいた白獅子勲章、次が建国の父マサリクにちなむ、T.G.マサリク勲章。その下に軍人向けの英雄的行為に対する勲章と、芸術家やスポーツ選手など一般の人向けの専門分野における偉大な業績に対して与えられる勲章となっている。
毎年、数百人の推薦があり、実際に叙勲されるのは、数十人ということが多いのだが、ゼマン大統領は、毎年のように、最終的な人選に関して批判にさらされている。批判されるのは、叙勲の人選だけではなく、叙勲式に招待する人の人選についてもで、今年も、市民民主党党首のフィアラ氏や、下院の副議長などを招待しなかったことで批判されている。
招待されなかった理由は、例の文化大臣罷免、任命の騒動の際に、市民民主党などの野党が中心となって、国会議員の手でゼマン大統領を最高裁判所に提訴しようとしたことに対する報復ではないかと言われている。招待されなかった人たちは、下院の副議長として積極的にこの件に関わったらしい。これに対して、ゼマン大統領は招待されなかった人たちの精神の安寧のために招待しなかったんだとか言っているようだ。
昨年、一昨年は、チェコでは大統領案件となっている大学教授の任命、正確には任命拒否に関して、国立大学の学長たちが反ゼマンに回ったために、学長も招待されなかったのだが、今年はもめ事がなかったおかげか、いつものように招待されていた。ただ出席したかどうかは話が別で、オロモウツのパラツキー大学の学長は、あれこれ口実を付けて欠席したようである。この人だけでなく、政治家の中にも招待されていても欠席を選んだという人もいる。
さて、今年叙勲されたのは、すべて合わせて42人。何人かは没後の叙勲で、イン・メモリアムという形で遺族が勲章を受け取りに来ていた。最初の叙勲者もイン・メモリアムで、ヤン・アントニーン・バテャ。兄トマーシュの急死後、後を継いでバテャ社の経営にあたった人物である。共産党政権によって、ナチス協力者の烙印を押されて、亡命を余儀なくされたが、実際にはベネシュの亡命政権や、反ナチスの運動にひそかに資金提供をしていたらしい。
一番上の白獅子勲章の受章者は、バテャ氏も入れて、8人だったのだが、その中で特筆すべきは、バーツラフ・クラウス大統領である。ハベル大統領も、退任後に叙勲されているからそれに倣ったものと考えていいのだろうか。とはいえ90年代のチェコの政界を牛耳ってきた二人の大物が、手を結べば不可能なことは何もないという事実の象徴のようにも見えなくはない。ゼマン大統領が次の大統領によって叙勲されるかどうかも注目される。
もう一人の注目は、ルドルフ・シュステル氏で、2000年代に入ってチェコに来た人間にはそれほどなじみのない名前なのだが、1999年から一期5年間、スロバキアの大統領を務めた人物である。つまりはゼマン大統領がチェコの首相を務めていた時代の大統領ということになる。次の大統領だったガシュパロビチ氏もすでに叙勲されているから、大統領経験者を互いに叙勲するという流れができつつあるのかもしれない。
この日の叙勲の中で、一番見る人の心を打ったのは、アフガニスタンで活動中にテロの犠牲となり英雄的行動に対する勲章を授与された軍人の遺族とともに列席した軍用犬だっただろう。この兵士は訓練した二頭の犬とともにアフガニスタンに派遣され、活動中にテロに遭い命を落としたのだが、犬たちは無事チェコに戻ってきた。そのうちの一頭が、出席していたのである。もう一頭は、再度のアフガン派遣から帰国したばかりということで呼ばれなかったようだ。
この人だけでなく、第一次世界大戦中にチェコスロバキアの独立のために軍団を組織して戦った人たちや、第二次世界大戦中にイギリス空軍に所属してナチスの空軍と戦った人たち、国内で反ナチスのゲリラ活動をした人たち、ビロード革命後に国外に派遣されて命を落とした人たちなど、毎年軍隊関係者への叙勲が行なわれている。チェコは国のために命を落とした人を大切にしているのである。こういうのを見ると、日本の自衛隊が不憫に見えてくる。
もう一人の目玉は、アイスホッケーのヤロミール・ヤーグルで、すでにクラウス大統領の時代に叙勲されているが、今回はちょっとランクの高いものを与えられた。ニュースなどには詳しく書かれていないが、それぞれの勲章に、一等から確か三等まであって、ヤーグルは今回偉大な業績に対する勲章の一等をもらったようだ。その業績というのは、ゼマン大統領と一緒に中国に出かけて中国のアイスホッケーに対する支援を約束したことらしい。
ゼマン大統領は、すでに来年の建国記念日には、イン・メモリアムで、カレル・ゴットを叙勲することを明らかにしている。今年はまだ遺族の悲しみが癒えていないからさけて、あえて来年にすると語っていた。根強いゴットの人気を考えると、反対できる政党、政治家はいないだろうなあ。個人的には、天に帰った神に、勲章なんて不遜じゃないかと思うのだけど。
ゼマン大統領が批判されるのは、国事行為であるはずの叙勲式を私物化していると言う点である。ただ、叙勲式だけでなく、大統領の地位、大統領の職権そのものを私物化する傾向があるというほうが正しいような気もする。これがビロード革命から30年を経たチェコの現実なのである。
2019年10月29日23時30分。
2019年10月28日
ココシュカ(十月廿六日)
テレビのニュースで懐かしい名前を聞いた。画家のココシュカの作品が、チェコ国内のオークションで7850万コルナで落札され、最高落札額の記録を更新したというのだ。これまでの記録は、チェコの誇るキュビズム、もしくはオルフィズムの画家クプカの作品で、今年の5月に7800万コルナで、新しい記録を樹立したばかりだった。
画家ココシュカの名前を知ったのはいつのことだっただろうか。森雅裕の『歩くと星がこわれる』の装丁に使われていた「ベートーベン・フリーズ」からクリムトを知り、クリムト周辺の画家としてエゴン・シーレなんかとともに名前が挙がっていたのを読んだのだろうか。SF漫画の『アフター・ゼロ』で名前が出ていたのも覚えている。
クリムトが、パトロンだったプリマベシ家を通じて、オロモウツとつながりがあり、シーレがチェスキー・クルムロフと結びついているように、ココシュカもチェコとつながりがあるのだろうか。プラハの国立美術館では、クリムトの絵とともにココシュカの絵も展示されていたような気もする。記憶を穿り返すと、ココシュカの家族にチェコ人がいたとか、プラハに滞在したとかいう話を聞いたことがある。
せっかくなので、ジャパンナレッジに入っている百科事典の類にココシュカとチェコの関係について書かれていないか調べてみた。ほとんどの事典がオーストリアの画家でウィーンで育ったということしか記していない中、『 デジタル版 集英社世界文学大事典』だけは「オーストリアの画家,劇作家。プラハ出身の芸術家を両親にもち」と、画家としてだけでなく劇作家として活動したことに加えて、その出自についても記している。『世界大百科事典』にも「父の原郷プラハ」とあるが、プラハ出身なのは、両親なのか父親だけなのか。
チェコ側の情報では、父親の家系がもともとプラハに住んでいて、オーストリア(当時はハプスブルク家の支配下で同じ国)に移住して、金細工師の仕事を営んでいたという。細工師なら「芸術家」と考えていいのかな。ただし、父、もしくは両親がプラハ出身という情報は出てこなかった。名字の表記も完全にドイツ語化しているし、移住して何世代かたっていたと考えるのが自然だろう。
ナチスの台頭で、ドイツ、オーストリアにいられなくなった事情については、『日本大百科全書』の記述が一番詳しかった。「37年ナチスによって作品を没収され、38年ロンドンに亡命。同地でギリシア神話をモチーフとする作品を描いて、戦争とナチスへの抗議を行った」とあって、恐らくヒトラーによって頽廃芸術家の一人として認定されたことを示しているのだろうが、チェコ、いや当時のチェコスロバキアとのかかわりが全く見えてこない。
ここでもう一度チェコ語の情報に戻ると、ココシュカは1934年にチェコスロバキアに亡命している。前年の1933年にプラハで絵の展覧会を開催したのがきっかけになっているとらしい。亡命を受け入れたチェコスロバキアでは、ココシュカに市民権、もしくは国籍を与えて、ナチスから守ろうとしたようで、ココシュカは感謝の印として、最晩年のマサリク大統領の肖像を残している。
残念ながら、チェコスロバキアは、マサリク大統領の没後、1938年のミュンヘン協定の結果解体され、ココシュカは迫るナチスの強意を避けて、再度、今度はイギリスに亡命を余儀なくされた。それまでのプラハ滞在の数年の間に、16枚のプラハの風景を描いた作品を残しており、今回オークションにかけられたのはそのうちの一枚である。他の15枚がどこにあるのかは知らないが、1枚ぐらいはプラハの国立美術館にあるのではないかと期待している。
ココシュカはプラハを第二の故郷として考えていたようで、あるチェコ人女性と知り合って後に結婚している。第二次世界大戦後に共産化したチェコスロバキアのプラハを訪れることはなかったが、1968年のプラハの春の事件のときには、コメントを発表したらしい。
ココシュカと言えば、マーラーの未亡人アルマとの恋愛でも知られている。マーラーはイフラバの近くの出身ということで、その夫人ももしかしたらチェコ人かなと期待したのだが、そんなことはなく、オーストリアの画家の娘だった。
ところで、ココシュカは、自分のことをどのぐらいチェコ人だと考えていたのだろうか。同じウィーン育ちのツィムルマンとビツァンは、自分のことをチェコ人だと認識していたようだけど。
2019年10月27日23時。
オークションに出されたのとは別物だけど、16枚のうちの一つかな。
2019年10月21日
チェコで渋滞(十月十九日)
10月に入って気温が下がり、冬が近づいてきたということで、今週末自動車のタイヤの交換がてらうちのの実家に帰ることになった。土日とも午前中に移動するのでラグビーのワールドカップの準々決勝の試合が二試合しか見られなくなるのは残念だが、一週間先に回すと準決勝が二試合とも見られなくなるので、それよりはましである。
9時ごろに出発して、10時半ごろにはタイヤ交換を任せているお店に着く予定だったのだが、あれこれあって、一時間近く遅れてしまった。予想外の渋滞にはまってしまったのである。チェコの誇る高速道路のプラハとブルノを結ぶD1は、改修工事が行なわれている関係もあって、ひんぱんに渋滞している(とは言え日本ほどではないと思うけど)印象があるけど、モラビアの田舎だと交通事故でもない限り渋滞になることはない。以前大雪の中立ち往生したバスの後で30分ぐらい待たされたことがあるけれども、それ以外は渋滞と呼べるものにはまったことはない。
オロモウツから南モラビアに向かうルートでは、プシェロフの北側が工事中で、いつものルートを走ることができない。市内を通らず迂回するためのバイパスとして高速道路の延伸工事が行われているのだが、町の北側ではインターチェンジの工事で、鉄道の線路を越える跨線橋などの関係もあってややこしいことになっている。いつもよりは時間がかかったとは言え、ここはゆっくりでも車が流れていたから問題はないのだ。
問題は、プシェロフを出た後、高速道路に入って現時点で終点のオトロコビツェで発生した。まず、ズリーンからオトロコビツェに向かう車が多かったせいか、高速を下りたところの信号がなかなか青にならず、我々の前にいた車の中には強引にUターンして高速に戻るものもあった。数分待たされてオトロコビツェに向かう道路に降りたときには、我々の後ろに車が何だいも並んでいた。
降りてちょっと行ったところで路面の改修工事をしていて、二車線が一車線になっていたため、ジップ方式で合流するというのを初めて体験した。オトロコビツェとズリーンの間は、鉄道だけでなく、チェコでも珍しくなったとローリーバスが走っているのだが、いつもと違う車線を走っているせいでバスから電線に伸びている二本のポールの電線との接続部分が外れてしまう瞬間を目にしてしまった。
外れたのは一本だけだったのだが、運行のためには二本接続していないとならないらしく、運転手が降りてきて、まずもう一本も外して屋根に収容していた。その後、工事区間を通り過ぎた後、本来の車線に戻ったら、また降りてきて、ポールを電線に接続させていた。この渋滞でよかったのは、このシーンを見られたことだけである。
工事区間を過ぎても車の流れは一向に速くならず。いや逆に進まなくなった。高速の出口から、普段は遅くとも5分以内で到着するオトロコビツェの南側の交差点に50分近くかけて到着したときに、渋滞の根本的な原因を発見した。二車線の道路が一箇所一車線になっているぐらいで渋滞するほどチェコの土曜の交通量は多くないのだ。
問題は、左折する車が入る車線が工事で通行止めになっていたことだった。そのため、真ん中の直進する車線に、直進と左折の車が並ぶことになり、右折の車線は車の数が少ないこともあって問題なく流れていたのだが、直進の車線がまったく進んでいなかった。それは、車線の変更をしたあとも、信号のタイミングをそのまま、直進が青の場合、左折は赤になり、左折が青の場合は、直進が赤になるという設定を変えなかったせいで、どちらかが青になっても最初の1、2台しか交差点を越えていけなかったのだ。直進と左折の車が交互に並んでいる感じだったしさ。
我々の車が交差点の近くにたどり着いてあと3台ぐらいで渋滞を抜けられそうになったときに、後からパトカーが反対車線を走ってきて、警官が降りた。渋滞が高速道路の奥のほうまで伸びたせいか、信号を無視して警官が交通を制御することにしたようだ。とにかく、我々の車線にいた車を排除するために、「ここを空けないと大変なんだ」とかなんとか、他の方向に向かう車の運転手に大きな声で叫んでいた。
その後は、いつものチェコの土曜日で、大した問題もなく目的地まで到着した。納得いかないのは、ラジオでチェスキー・ロズフラスを聞いていたのに、情報が流れなかったことだ。チェスキー・ロズフラスでは、「ゼレナー・ブルナ」という交通情報を頻繁に流していて、渋滞や迂回路の情報が手に入るのだけど、この日のオトロコビツェの渋滞に関しては全く情報が入らなかった。情報が流れていたら、終点のひとつ前の出口で降りていたはずなのだけどなあ。
実は、オトロコビツェで工事のために交通規制が行われているのは知っていた。知っていたのだけど、週末のチェコの車の量を考えたら、大したことにはなるまいと油断していたのである。まさか、あんな渋滞しろといわんばかりの対応をしているとは思いもしなかった。油断大敵である。
2019年10月20日22時。