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2016年08月09日
サマー・スクール驚愕の改善(八月六日)
金曜日に、日本からサマースクールに来ている人たちと会って、少し話を聞かせてもらった。そうしたら、サマー・スクールの内容も運営も、信じられないくらいの大進歩を遂げていて、こんなことがオロモウツで実現できたのかと思わず驚きの叫び声を挙げそうになってしまった。良くも悪くも手作り感いっぱいで、よく言えば臨機応変、悪く言えば行き当たりばったりだった運営が、変わってしまったというのには、称賛したい気持ちもあるけれども、どことなく寂しさを感じてしまうのも否定できない。
まず、最初のクラス分けのテストからして、一つ受けてお仕舞いというのではなかったらしい。初級のペーパーテストを受けて、その結果を基に口答試験があって、それで問題がないと判断されたら、中級のテストを受けてという風に何段階にもわたって受講者のチェコ語のレベルを確認するようになっていて、クラスも参加者が100人ほどしかいないにもかかわらず11に分けられていて、どのクラスも多くても十人ほどだという。
一年目のクラス分けのテストは、日本で一年も勉強していればほぼ完璧に答えられるような簡単なもので、面接などなかったし、期日までに到着できなくて、自分で勝手にクラスを選ぶ人もいた。いやクラス分けのテストを受けた人でも、クラスを移動する人は非常に多かった。二年目は多少改善されたとは言え、クラス分けのテストは二種類しかなく、適正クラスを細かく分けれらるようなものではなかった。一クラスの人数も、少ないところではドイツ語で教えるクラスで四人というのがあったのに、多いところは廿人ぐらいなんてところもあって、ばらばらだった。
午前中の授業以外のプログラムも充実していて、午後にチェコの歴史や文学などの講義が行われるのは昔と変わらないが、それに加えて、文法が苦手な人の補講や発音矯正のためのクラスも作られているらしい。文法が苦手な人のための補講は、結構スパルタで、動詞に合わせてさまざまなタイプの名詞を必要な形に格変化させていくというドリルを、次々に出席者に当てながら進んでいくのだという。これ長く続けると頭がくらくらしてくる練習である。何度も何度も繰り返しているうちに自然に変化させられるようになるということなのだろうけど、そこまで行くのは大変だろうなあ。ただ、三格なら三格の活用語尾としてどんなものがくるのかを覚えるためには必要な練習である。
発音の矯正のほうは、少人数で先生のところに行って、うまく発音できていない音について繰り返しテキストを読み上げさせて、おかしな点を指摘して修正するという形で進めるようだ。文法の補講は自力でもやれなくはないけど、こっちはちょっとうらやましい。しかも、日本人なら日本人の苦手な発音というものがわかっていて、例えばRとLとか、それに合わせた教材が準備されているというから、感動ものである。
師匠の話では、昔チェコ語自体は上手なのにRとLの発音がどちらも同じになってしまう日本人がサマースクールにいて、授業中に指摘しても直らないということをサマースクールの校長にぼやいたら、校長が授業中にその人だけを呼び出して直接指導に乗り出したことがあったらしい。直接指導から戻ってきたその人のRとLの発音は、指導の前からは変わっていたけれども、どちらも同じ発音になっているという点では変わっていなかったという落ちが付く。両方Rで発音していたのがLで発音するようになっていたのかな。そして、サマースクールが終わって日本に戻ったその人からの礼状に「自分の英語の発音のどこが悪かったのかやっと理解できました」なんてことが書いてあって、師匠たちはチェコ語の発音じゃねえのかよと憤慨したというのだけど、師匠の話なのでどこまで信じていいものやら。
他にも夜の映画上映が行なわれているのは当然にしても、参加者がチェコ語での演劇に挑戦するワークショップがあったり、モラビアの民族舞踊のレッスンがあったりと、それって本当にオロモウツのプログラムなの? と言いたくなってしまう。プラハにしか行かず不満だった真ん中の週末の小旅行は、今年はリベレツなどの北ボヘミアを回るというから、昔もこうだったら、このひねくれ者もキャンセルしてオロモウツに残るなんてことはしないで、参加していたに違いない。
食事に関しては、朝食と昼食は、大学の学食が営業していて、そこで食べられるようになっていて、夕食の分だけどこでも使える食券をもらったらしい。昔は、大学の学食は夏休みは閉鎖中だったし、朝食は放置されて、昼食、夕食用の食券なんてサマースクールの事務局の手作りだったのに。宿舎が遠かったから、朝食を学食でと言われても利用しない人が多かっただろうけれども。
そんな話を聞いたのは、オロモウツ第三の醸造所付きビアホールのリーグロフカだったのだけど、最初に行ったときより、ビールの種類が増えていた。ジェザネーもかなり上手に切れていたし、黄金色のレジャークも飲めるようになっていて満足度が上がっていた。入り口の看板も完成していたし、おつまみ系の料理も充実していたし、使う機会が増えそうである。
8月7日12時。
以前、紹介したアロイス・イラーセクの『暗黒』が出版されhontoで購入できるようになっていた。楽天ブックスでは購入できない書籍になっていた。これからかな。8月8日追記。
2016年07月29日
チェコで書かれたチェコ語の教科書(七月廿六日)
初めて手にしたチェコで出版されたチェコ語の教科書は、『中上級者のためのチェコ語(Čeština pro středně a více pokročilé)』だった。初めて参加したサマースクールで何かの間違いで放り込まれた一番上の師匠のクラスで使うからと配られたのだが、授業と同じでさっぱり理解できなかった。当時の実力では、手も足も出ず、歯も立たなかった。最初のテキストからして、知らない言葉ばかりで、チェコ語でいうところのスペインの村(španělská vesnice)だった。何故だかわからないが、ちんぷんかんぷんでさっぱり理解できないことをこう表現するのだ。
この教科書は、二度のサマースクールを経た後、外国人のためのチェコ語のコースで師匠の授業でも使ったが、理解できないと言う点では大差はなく、チェコ語の能力が向上しないことに絶望する原因にもなった。日本語に何とか翻訳しても理解できないような文章は、哲学書の翻訳ならともかく、語学のテキストでは読みたくない。チェコ語の勉強を始めて数年の三年ほどの社会人には、1930年代にカレル・チャペクが書いた文章を読むのは無理だと思う。
師匠もこれでは駄目だと思ったのか、この教科書の使用を諦めてしまった。カレル大学でサマースクールでの使用も想定して出版された教科書なので、使えない教科書というわけではないのだろうが、相性が悪かったのか、使い始めるのが早すぎたのか。その後使い始めた教科書は、古い既に絶版になったもので、師匠の研究室に一冊だけあったものをコピーして使った。こちらは多分中級の教科書だったはずだが、表紙はコピーしなかったし題名までは覚えていない。
一年目のサマースクールで移動した先のクラスで使用した教科書は、『コミュニケーションのためのチェコ語(Communicative Czech)』だった。これの青い一冊目の途中から、黄色の二冊目の途中まで勉強した。泣きたくなるほど難しいところはなかったので、内容はあまり覚えていないのだが、人の性格を表す形容詞に苦戦させられたのを覚えている。日本語でも「さっぱりした性格」なんてのは、説明しづらいのだから、外国語で苦労させられるのは当然といえば言えるのだろう。
この教科書だけの特徴ではないのかもしれないが、日本語で書かれた教科書とは大きく違う点が一点あった。それは名詞や形容詞などの格変化の説明である。動詞の人称変化はチェコの教科書でも、日本語の教科書でも、タイプごとに一人称単数から三人称複数までの六つの形を一度に勉強する。その後、過去形も男性単数から中性複数までまとめて勉強する。
しかし、名詞の場合には、日本で書かれた教科書は、名詞のタイプごとに一格から七格までまとめて勉強する。男性名詞不活動体硬変化なら、hard(城)を例として、hrad、hradu、hradu、hrad、hrade、hradu/hradě、hrademという具合である。最初のほうに出てくるタイプの名詞は単数と複数を別々に勉強するが、後で出てくる名詞の場合には単数と複数をまとめて十四の形を一度に勉強することもある。形容詞や人称代名詞などの場合も同じで、活用表を縦に覚えていくのである。
それに対して、チェコで書かれた教科書では、活用表を横に覚えていく。まずノミナティフ、つまり一格の形が、数詞の一から、名詞、人称代名詞、所有代名詞、指示代名詞、形容詞まで、単数だけだが一度に提示される。二番目は二格ではなく、一格と同じ形をとることが多い四格が出てくるというように上から順番に勉強するわけではない。
この違いは、結果的に見るとチェコ語の勉強に非常に役に立った。結果的にと言うのは、著者たちが意図したことではないと思われるからだ。ただ、日本で縦に覚えこんで、縦にしか見てこなかった格変化を、横から見て、それぞれの格変化のタイプの変化形を並べてみる視点を持てたことは、以後のチェコ語の学習に大きく寄与した。
だから、チェコ語の勉強をしている人で、格変化に苦労している人には、格変化表を縦にだけではなく、横にも並べてみることを勧めておこう。そうすれば、チェコ語の世界が少しだけ違って見えるかもしれない。保証はできないけど。
チェコに来て手に取ったり購入したりした教科書はほかにもたくさんある。ただ三年目以降のサマースクールで教科書はあったけれどもほとんど使わなかったなんてことがあったように、ちょっとしか使わずまったく印象に残っていないものが多いのである。
7月27日22時。
2016年07月28日
関係の三格、もしくは新しいチェコ語(七月廿五日)
こんな言い方をすると誤解する人もいるかもしれないが、いや誤解してもらうためにこんな言い方をしているとも言えるのだが、言葉に関して二つのプロジェクトを現在遂行中である。遂行とは言っても、長い時間がかかることは想定のうちなので、気長にのんびりと進めているところである。いや、正確には、思い出したときに活動をしていると言うのが正しいか。この文章もその一環として記されることになる。
さて、日本人が、いやチェコ語を勉強する外国人が、理解に苦しむものの一つに、三格の特別な使い方がある。一般にチェコ語の三格は、「友達に本をあげる」「先生に言う」などの文に典型的に表れているように、日本語の助詞「に」の動作が向かう方向、対象を表す用法に似た使い方をする。
また前置詞「k(〜のほうに)」「díky(〜のおかげで)」「kvůli(〜のせいで)」「 vůči(〜に対して)」「 proti(〜に反対して)」などの後に来るのも三格である。ちょっと意外な使い方で覚えておいたほうがいいものとして、入り口のドアに書かれている「k sobě」という表現を挙げておこう。日本語なら「引く」と書かれるところだろうが、チェコ語では「自分のほうに」という表現で表すのである。反対に「押す」は「od sebe」つまり「自分のほうから」となる。
三つ目の使い方が、表題の関係の三格である。このうち日本語では受身で表すようなものはそれほど問題ない。「父に死なれた」がチェコ語で「zemřel mi otec」になるのは、日本語の表現も直接的な受身ではないし、そんなものだと一度覚えてしまえば、「友達にうちに来られた」とか、「弟にビールを飲まれた」とか、「コンピューターを先に使われた」などを、どのようにチェコ語にすればいいかわかるようになる。この手のいわゆる「迷惑の受身」は、チェコ語では動詞は能動態のまま、文の話者、もしくは視点人物を三格(この場合は私の三格「mi」)にして文に入れることで表現する。最初はちょっと考える必要があるが、慣れれば簡単なものだ。
問題は、動詞ではなく形容詞、いや形容詞的な表現にもこの手の三格が使われることにある。形容詞的と言うのは、日本語では形容詞で表現するが、チェコ語では副詞を使うことがあるからだ。例えば暑い、寒いと感じたときに、「je mi horko」「je mi zima」と言う。気分が悪いときに使う「je mi špatně」や、「je mi divně」なんかも同じである。
最初は、この三格で表される「mi」がよくわからなかった。チェコ人に質問すると、「寒い」「暑い」というのは、個人的な感覚で、自分は寒いと感じても、他の人は感じない可能性があるのだから、「mi」が必要なのだという。
そこで、足りない頭で考えた。寒い、暑いが個人的な感覚であるのなら、暗い、明るいもそうだろう。チェコ人は寒さだけではなく暗さにも強く、目に悪いんじゃないかと思うような暗がりの中で本を読んだりテレビを見たりする。だから、自分が暗いと感じたときには、「je mi tma」と言うものだと思って、師匠に言ってみた。「je mi zima」とほとんど同じだし。
師匠には、笑われた。そこまで笑わなくてもと言いたくなるぐらい思いっきり笑われた。何でそんな妙な表現にたどり着いたのかと聞かれて、上に書いたようなことを説明したら、気持ちはわからなくないけど、暗い、明るいには三格は要らないと言われた。寒いには必要で、暗いには要らない理由はよくわからなかったけれども、外国語の勉強なんてそんなものだ。要る、要らないなんて微妙な感覚は、母語話者にしかつかめないものだ。日本語だって、「は」と「が」のどちらがいいかなど説明のしようがないことはいくらでもある。
しかし、しかしである。「je mi tma」は「je mi zima」と、文の構造も発音もこれだけよく似ているのだから、間違って使ってしまってもしかたがないのではないだろうか。最初は明るい、もしくはまぶしいと言う意味で、「je mi světlo」という表現も使っていたのだが、こちらは諦めた。でも、「je mi tma」だけは諦めきれないのである。笑われても笑われても、使い続けてチェコ語に定着させる努力をすることにした。これが我が言語上のプロジェクト其の一である。即ち日本人起源のチェコ語計画である。
最初は、日本人はこんな変なチェコ語を使うのだという冗談として広めていけば、五十年ぐらいでチェコ中で知られた冗談になって、百年後ぐらいにはオロモウツの方言として定着しないかなあなどと考えて、知り合いのチェコ人にはしきりに冗談で使うように言うのだが、なかなか広まらない。だから、この記事を読んでくれるごく少数の方の中の、さらに少数であろうチェコ語ができる方にのお願いをすることにしよう。
暗いと思ったら「je mi tma」、暗いところにいる人に暗くないか質問するときには「není vám tma?」というのを、使ってもらえないだろうか。使ったからといって何かいいことがあるわけではないけれども、笑ってもらうことはできるはずである。
7月26日22時30分。
チェコ語を勉強していない人には意味不明の文章になってしまった。7月27日追記。
2016年07月21日
似非スロバキア語(七月十八日)
チェコ語とスロバキア語は似ている。語彙も共通のものが多いし、文法事項もほとんど同じと言えば同じだ。それでよく、チェコ語ができればスロバキア語も、問題なくわかるのだろうと思われるのだが、実はそんなことはない。
語彙に関しては、普段使いそうな言葉でチェコ語とは全く違うものをいくつか覚えてしまえば何とかならなくはない。ボールが、チェコ語の「ミーチ」ではなく、「ロプタ」になるとか、スロバキア語の「ピブニツェ」は、チェコ語の「ピブニツェ」とは意味が違うとか、長くチェコに暮らしていれば、スロバキア語に接する機会も多いので自然と覚えてしまう。「マチカ」のように最初に聞いたときには、えっと思ってしまうものもあるのだけど。この言葉、「オマーチカ(ソース)」だと思ったら、「コチカ(猫)」だった。うーん。
問題は、語彙よりも発音である。ポーランド語の影響を受けたオストラバ方言は、アクセントの位置が違うことで聞き取りずらくなってしまうのだが、スロバキア語の場合には発音そのものに問題がある。字面で見ると同じような言葉でも、妙に発音が軟らかくて耳に残らないのだ。
昔、通訳の仕事をしているときに、フランス人がいて、日本の人が英語で話そうとして話が通じず、通訳さんと呼ばれて行って英語はダメだと言ったら、スロバキア語で話し出されたことがある。スロバキア語なら多少は何とかなると思っていたのだけど、機関銃のように早口で言葉を投げかけられて、完全にお手上げだった。スロバキア語の柔らかい部分をチェコ語に置き換えるのに時間がかかって、何を言われているのかわからなくなったのだ。結局、近くにいたチェコ人の通訳を呼んで、代わりに通訳してもらった。
発音が軟らかいと言っても、わかりにくいかもしれない。日本語で言うと、先生の発音が、「せんせい」ではなく、「しぇんしぇい」、もしくは「しぇーしぇー」になるような感じと言えばわかってもらえるだろうか。日本語ならこのぐらいの変化には、問題なくついていけるのだけど、外国語では厳しいものがある。
スロバキアも東西に長い国で、東部の方言と西部の方言とではかなり違う。モラビア地方に接している西部スロバキアの人々の話し方は、比較的わかりやすいが、東部のウクライナの近くの人々のスロバキア語は、もちろん個人差はあるけれども、わかりにくいことが多い。
昔は、スロバキア人でも、チェコ語しか勉強していないのでスロバキア語はあまりわからないというと、チェコ語そのものではないにしても、ちぇごっぽい話し方をしてくれた人が多かったのだが、最近は情け容赦なくスロバキア語で話されることが多い。そんなとき、相手の言葉がわからないのは癪に障るので、こちらもでたらめなスロバキア語で話をすることがある。もちろん仕事の場などのまじめな場面ではなくて、お酒を飲んでいるときなどの場合だけだけど。
チェコ語がある程度できれば似非スロバキア語は簡単である。チェコ語の発音の原則として、アルファベットの上にハーチェクという記号「ˇ」を付けると発音が軟らかくなる。日本語風に言うと直音が拗音になる。「S」は「ス」で「Š」は「シュ」という具合である。だからこちらが理解できないスロバキア語で話す無礼者には、徹底的にハーチェクを付けて、もしくは拗音化したチェコ語で話してやる。「ヤー・シェミュ・ジュ・オリョミョウチャ」と言った具合である。
ただ、日本語が上手なスロバキア人の場合には、「わてゃしはでぃぇしゅにぇ」などとスロバキア語なまりの日本語で返してくることもあって、スロバキア人侮りがたしなのである。
7月20日18時。
2016年07月16日
サマースクールの思い出(九)――知り合えた人々(七月十三日)
二年目の宿舎は、前年から変更されて、街のはずれ、トラムの二番と七番の終点ネジェジーンにある新しく建設されたというパラツキー大学の寮だった。一人部屋をお願いしてみたら、一番上の階のキッチンもついたなかなかいい部屋に入れてもらえた。ベッドがソファーに内蔵されているものを寝るときだけ、変形させてベッドを引き出すものだったのが玉に瑕だった。もちろん、来客があるわけでなく、例外を除いてベッドにしたままだったけど。
サマースクールが始まる前の週末、まだ参加者が全員集まっていない土曜日に、夕食でもとろうと宿舎を出てトラムの停留所に向かった。ネジェジーン地区は旧市街まで歩いて二十分ほどなので、トラムを使うのが一般的で、事務局の手配で定期券が購入できることになっていたが、土曜日は定期券を販売している市の交通局が休みなので買えず、自動券売機で買ったんだったか、オロモウツに到着したときに駅で何枚か購入したんだったか、思い出すことができない。
とまれ、乗車券片手にほとんど誰も乗っていないトラムに乗り込んだ。そしたら、一人体格のいい男の人が乗っていて、どちらからともなく声を掛けた。こっちにしてみれば、この時間にネジェジーンからトラムに乗るのは、チェコ人と見分けがつかなくてもサマースクールの参加者だろうと思えたし、向こうは向こうでこの時期オロモウツにいるアジア人は、サマースクール関係者だと判断したのだろう。
最初に「日本人か」とあまり上手でないチェコ語で聞かれて、そうだと答えてお互い下手なチェコ語であれこれ話し始めた。これが、何だかんだでサマースクールの期間中一緒に行動することの多かったオランダ人のフランクとの出会いだった。
最初に行ったのは、指定レストランのうち一番ネジェジーンに近いMだっただろうか。武道を学んだことがある関係で、少しばかり日本語もできるというフランクは、英語で教えるクラスで勉強すると言っていた。前年の私よりははるかによくできていたのでチェコ語で教えるクラスで勉強もできるだろうと言ったら、初めてのサマースクールだから不安なんだと言っていた。英語で勉強するほうが不安な人間にはできない考え方だなあ。
このフランクとはなぜか気があって、クラスが別だった割には、食事や映画の上映、午後の講義なんかでよく一緒に行動した。昼食でビールを飲んでしまって、午後の講義中眠気をこらえるのが大変だったのもいい思い出である。
ターニャが先生だったら、フランクは学友という感じかな。ターニャもクランクも、たまにオロモウツに来ているようで、何年かに一回ばったり再会して道端で大声を上げてしまうことがある。お互い忙しくて長話もできないのだが、特に連絡することなく偶然会えるというのは本当に嬉しい。そして、外国人二人でチェコ語で話ができることを、心の底から嬉しく、誇りに思うのである。
この年は、日本の大学でチェコ語を勉強しているという人たちと、一緒にいろいろやったのかな。前の年もある大学の院生にお世話になったのだけど、その人の後輩たちが来ていたのだ。大学の二年生と四年生だったか、みんなチェコ語で勉強するクラスにいたのはさすがである。
たしかサマースクールが始まってすぐ、昼食に出かけて、同じクラスの人だけでなく大きなグループになってしまったときだったと思う。うえのクラスの人に日本のことを聞かれて答えられなくて、あたふたしていたのを見るに見かねて助け舟を出したのだった。そしたらなぜか妙に感謝されて先輩と呼ばれるようになってしまった。
大したことは言っていないのだけどね。ただ、チェコ語で話そうとして最初に考えたことがチェコ語で言えないことに気づいたときに、日本語であれこれ言い換えてからチェコ語にしたほうがいいというようなことは言ったかな。今では最初からチェコ語で考えることが多いけど、当時はまだ日本語で考えてからチェコ語にしていたので、日本語で別の言い方を考えるというのは、重要な方法だったのだ。
そんな感じで、質問されたり、こっちから質問したりしていたら、寮の一人部屋にキッチンが付いていて、数人で座れる食事用のテーブルがあるなんてことも知られた結果、最終週に何人かで集まってお別れのパーティーをしようということになっていた。せっかくなので、ターニャとフランクにも声をかけて、全部で六人か七人でお酒を飲みながら楽しい時間を過ごすことができた。おつまみを作ってくれた日本から来た人たちにも感謝である。ターニャとフランクへの御礼にもなったはずだし。
二年目は、特筆することもそんなに多くなかった。強いてあげれば、他の人たちがプラハに行っていた二週目の週末に嵐に襲われて、暴風雨はまあ日本の雨と比べたら大したことはなかったのだが、雷がひどくて、音と光に夜眠れなかったことぐらいかな。それもサマースクールが終わって、自分ひとりがオロモウツに残ったときの寂寥感に比べればなんでもないことだったし。
7月14日21時。
2016年07月15日
サマースクールの思い出(八)――二年目お世話になった人(七月十二日)
一年目はスイス人のマティアスに勉強の面であれこれお世話になったのだが、二年目にお世話になったのはスロベニア人のターニャだった。リュブリャニャの大学でチェコ語を勉強していると言っていたから、上のクラスでも十分以上に勉強できただろうけれども、なぜかクラスが分けられたときに下のクラスを選んでいた。
本人にそのことを言ってみたら、怠け者だから楽に勉強できるところでべんきょうしたいのよとか何とか言っていたけど、この人が怠け者だったら、怠け者でない学生など存在しないだろう。宿題をやってくるのはもちろん、予習復習などもしっかりしているようで、授業中に先生に聞くほどでもないちょっとわからないことなんかを質問すると、いつも親切に答えてくれた。
何かの際に、スロベニアってことはユーゴスラビアだねと言ったら、ものすごく嫌な顔をされた。サラエボオリンピックの記憶から、第一次世界大戦後のウィルソンの提唱した民族自決という理念が理想的な形で結実したのがユーゴスラビアだと考えていたのだが、オリンピックの関連番組は所詮悪いところなど見せないプロパガンダに過ぎなかったということか。
その後の内戦や、ユーゴスラビアについての本を読んで、理想は理想に過ぎなかったようだということはわかっていたのだ。だけど、チェコとスロバキアが分離したのは許せないと言うモラビアの人がいたように、ユーゴの人たちも一つの国であってほしかったと思っているのではないかと期待していたのだが、現実はまったく違った。スロベニアは、もともと旧ユーゴの中で最も西で、オーストリアとの関係も深かったため、ユーゴスラビアの一員と言う意識も持ちにくかったらしい。
こんなことを、急進的なスロベニア民族主義者ではなく、理知的で理性的に話すターニャの口から聞いたことで、我がユーゴスラビアは終焉を迎えた。それまでは、セルビアだのクロアチアだのという呼称を使うことを拒否して、かたくなにユーゴスラビアと呼び続けていたのだ。ユーゴといえば、漫画家坂口尚の名作『石の花』を思い出すのだが、あの作品に描かれていた人々の苦難の道は、報われなかったらしい。
それはともかく、この年も先生が前半と後半で代わったのだが、二人ともまだ若い女の先生で、去年の先生たちと比べると経験不足からか、説明が荒かったり、不親切だったりして、よくわからないことが間々あった。そんなときに、ターニャの説明には本当に助けられた。チェコ人よりも外国人の説明がわかりやすいのは変じゃないのかというとそんなことはない。チェコ人には当然で説明しようとも思わないから、説明できないようなことは、あれこれ考えて身に付けた外国人のほうが上手に説明できることも多いのだ。本当にターニャ先生と呼んでしまいたいぐらいには感謝していた。それを言ったら、拒否されたしまったけど。
ポーランド人をはじめスラブ系の言葉を母語としている人たちに対して、お前ら普段から似た言葉を使っているのだから、できて当然だろうと、特に自分がわからなくて苦しんでいるときには、怒りのようなものを感じることがある。こちらが一生懸命考えて理解していることを、何も考えずに理解できてしまうし、苦労して覚えたことを覚える必要がない場合があるのだ。それで、わからないことを質問したときに、わかりやすく説明できるのなら、嬉しい限りなのだが、この連中の説明は意味不明なことが多い。だからこそ、スラブ系のスロベニア人でありながら、わかりやすく噛み砕いて説明してくれるターニャの存在は貴重だった。
ターニャに助けられたのは私だけでも、同じクラスの連中だけでもなく、日本から来てチェコ語で教えるクラスで勉強していた人たちも、しばしば食事中などに質問に答えてもらっていた。ということで、サマースクールが終わるころにお礼をしようと言う話になったのだが、それについては次回に回そう。
7月14日17時。
2016年07月14日
サマースクールの思い出(七)――二年目(七月十一日)
二年連続二回目のサマースクールの思い出は、開始前の週末に事務局に出向いて師匠と話をしたところから始まる。到着の手続きをしていたら、声をかけられて、一緒にいた男の先生を紹介された。今年はこの先生のクラスに通うのよと言われて、じゃあクラス分けの試験は受けなくてもいいのかと尋ねたら、事務局が混乱するから受けろと言われた。一人、二人クラス分けの試験を受けなかったからと言って混乱するような事務局ではなかったのだけど。最初から十分以上に混乱していたのだから。
とりあえず、紹介された先生に挨拶をしてよろしくお願いしますとは言ったものの、師匠の次のクラス、つまり上から二番目のクラスの先生だと言う。あんまり上のクラスに行くのは避けたかったのだけど、前年のことを考えると、チェコ語で教えるクラスは三つだけだった。ということは一番上の師匠のクラスに行けない以上、選択肢はこの先生のクラスか、去年と同じクラスの二つしかない。
前年のような苦行じみた勉強はしたくなかったので、同じクラスを繰り返すのも悪くないと考えていたのだが、挨拶をしてしまった以上は、一度はこの先生の授業を受ける必要がありそうだ。あれこれ悩んでも仕方がないので、一応上から二番目に行く覚悟だけはしてクラス分けのテストに臨んだ。すると、一種類しかなかったテストが二種類に増えていて、中上級を希望する学生向けのものは、それなりに難しく、うれしいことに答に自信がないところが何箇所もあった。テストが難しくて自分が答えられないことを喜ぶ日が来るとは思わなかった。
初日の月曜日の朝に見たクラス分け表には、師匠の言葉通り、上から二番目のクラスに名前があった。そのクラスは、最初から人数が多めだった。廿人近くいただろうか、それが授業が始まってから、一人、二人と遅れて教室に入ってくる人がいて、そのたびに授業が中断され、先生もどうしたのかねと苦笑していた。到着が遅れて、日曜日の夜や、月曜日の朝になってしまった人たちが、所定の手続きをしてから教室に向かったためこんなことになったらしい。
一時間目はまだ教室に入りきれたのだが、二時間目の途中で、入ってきた人たちには座るべき席がなかった。先生はこれじゃやってられんと言って、教室を出て行った。しばらくして戻ってきた先生は、我々学生たちに、クラスを二つに分けることを告げた。このクラスと、チェコ語で教える一番下のクラスの間にもう一つクラスをつくることを事務局と決めてきたらしい。
下に移る人はついてきてくださいと言ったのは、まだ若い女の先生だった。学生たちが顔を見合わせながらどうしようと考えている中、真っ先に立ち上がったのは私だった。去年は一番下、今年は舌から二番目と順番に上がっていくほうがいい。教科書も去年の師匠のクラスと同じだったし、来年このクラスに来ればいいやと考えたのだ。
教室を出る前に先生のところに行って、来年よろしくお願いしますと言ったのだけど、三回目の翌年は、師匠のクラスに放り込まれたので、この先生の授業は結局受けられなかった。いや、一こまちょっと受けたけど、自己紹介やら中断やらで時間を取られて、どんな先生なのか理解できるところまではいかなかった。
結局、小さな教室に詰め込まれていたクラスの半分、十五人ぐらいが下に移ることを決めた。新しい先生の話では、最初は英語で教えるクラスを担当する予定だったのが、英語やドイツ語で授業を受けることを希望者が少なかったのと、チェコ語での授業を希望する学生が多かったのとで、担当を変更することになったらしい。去年のサマースクールの最後のアンケートに、日本人みんなであれこれいちゃもんをつけたおかげか、クラス分けのテストも含めて、運営は驚くほど向上していた。いや、違うな、これは単なる偶然だろう。
とまれ、新しいクラスで使う教科書は、去年の一つ下の授業で使った二冊目の教科書を使うことになって、去年やった部分はやらずに残っている部分を進めることになった。これは、全部で三人、経験者がいた賜物である。
一年目の件で書き忘れたが、当時のサマースクールには、アメリカ人の参加が結構多かった。英語が通じるのが当然だと考え、他の言葉が存在することすら意識しないのが典型的なアメリカ人たと思っていたので、意外だった。話を聞いてみると、アメリカからの参加者は、チェコやスロバキアからの移民の子孫たちで、祖父母、曾祖父母の言葉に触れてみたくての参加したと言う人が多かった。
クラスにもそんなアメリカ人が一人いたのだけど、言葉の使い方に関して楽しい奴だった。チェコ語にはラテン語起源の語幹に接尾辞「ovat」をつけて動詞化したものが、「studovat」をはじめかなりの数があるのだが、こいつはチェコ語の動詞を知らないときに、英語の動詞をチェコ語風に読んでそれに「ovat」をつけてごまかしていたのだ。問題なくチェコ語の言葉が出来上がることもあり、ちょっと修正が必要なことも、ぜんぜんだめなこともあったが、この姿勢は見習うべきだろう。
ということで、私も昔『動物のお医者さん』に出てきた「コンタミ」という言葉に「ovat」を付けてみた。残念ながらちょっと修正が必要だったけれども、「コンタミノバット」という動詞が存在したのだ。それでこの「コンタミノバット」はお気に入りの言葉の一つとなったのだった。この年の出来事ではなかったかもしれないけど。
以下次号。
7月13日14時。
以外なところで役に立つ漫画であった。7月13日追記。
2016年06月27日
サマースクールの思い出(六)――一年目残りの残り(六月廿四日)
承前
サマースクールも終わりに近づくと、自分のクラスの人たちだけでなく、上のクラスの人たちと食事に行ったり、お酒を飲んだりする機会も増えた。たしか、最後の週の木曜日だったと思う。夜十時ぐらいにほろ酔い気分で寮に戻ってきたら、寮の前のベンチに座ってお酒を飲んでいる連中に呼び止められて一緒に飲もうと誘われた。初日に一番上のクラスにいた人たちだった。
初日には何を言われているのか、理解できなかったことを思い出して、話せるかどうか不安だったのだが、一言二言言葉を交わしたら、意外とわかったので、誘いに乗った。話してみると、そこにいた全員が一番上のクラスに残ったのではなく、一つ下に移った人もいて、結局一番上のクラスは半分以上入れ替わってしまったらしい。サマースクール体験の豊富らしいアメリカ人の年配の男性が、ここまで入れ替わるのは珍しいねと言って、あのクラス分けのテストじゃ仕方ないかなというようなことを言っていた。
甘ったるい変なお酒を飲まされながら、意外なことにあれやらこれやら話ができてしまった。もちろん、いくつかわからない言葉はあったが、話せてしまったのである。そして、彼らのチェコ語が、完全ではないことに気づいてしまった。ぺらぺら喋っているけれども、ところどころ発音がおかしくて聞き取りにくいところがあるのだ。
チェコ人であれば、発音が多少おかしくても、問題なく理解できるのだろう。でも外国人には難しい。それが、四週間の時間を経て、同じクラスの同級生たちの決して流暢とはいえないチェコ語の発音を聞いているうちに耳が慣れてしまったらしい。だからといって、耳の問題さえなければ、一番上のクラスでがんばれたとは思わない。師匠の芸術的な発音のチェコ語を聞いてもわらからないことのほうが多かったのだから。ただ、初日にあそこまで絶望する必要はなかったのだなあと考えて、何とも言えない気分になった。あの絶望があったからこそ、ここまで頑張り通すことができたというのも事実なのだ。
とまれ、この外国人の同級生のチェコ語が理解できないことを、自分のチェコ語の能力を判断する基準にはしないというのは、翌年以降のサマースクールに臨む際の基本的な態度の一つとなる。翌年も初日の授業では、一年目ほどではなかったにせよ、言葉が聞き取れない同級生が何人もいたのだ。しばらくしたら慣れたけど。
あとは、特筆するようなこともなく、サマースクールは終わりを迎えた。また来年も来ようねえとか、来年は無理だから二年後に来るとか、そんなことを言っていた連中も結構たくさんいたけど、実際に再会できたのは、そのうちの何人かに過ぎない。夏のバカンスの習慣のあるヨーロッパとはいえ、毎年語学のサマースクールに通うわけにも行かないのだろう。私自身も四年しか続かなかったし。
最後の試験や成績がどうだったかは、まったく覚えていない。チェコ語の勉強は試験に合格して何かの資格を取るために始めたわけではないのだから、それでいいのだ。大切なのは四週間みっちり勉強できたことである。久しぶりに高校時代の受験勉強のように重点的に、同時にあれよりは多少効率的に、強い意志を以て勉強できたことで、さらに本格的にチェコ語の勉強をしようと決意を新たにすることができた。その結果が、現在のチェコ在住十五年なんてことになるわけだけど、その辺の話はまたいずれ語る機会もあるだろう。
そういえば、奨学金をもらったのだからと思って、サマースクールのレポートを、帰国後すぐチェコ語漬けの感覚が消えてしまわないうちに作成して、申請の際にお世話になった方に提出したのだった。もちろん、そのために大使館に行ったのではなく、大使館で開催していたチェコ映画の上映会に行った際に、御礼の挨拶をしたついでのことである。今から読み返したら、おそらく間違いと不自然な表現に満ち溢れていることに頭を抱えるのだろうけど、あのときはあれ以上のものは書けなかった。読んでもらえて、間違いのばかばかしさについてでもいいので、笑ってもらえていたら、幸せなのだけど。
長きにわたってしまったサマースクール一年目の話は、これでおしまいである。二年目、三年目もあれこれ書くことはあるのだけど、ここまで長くはならないと思う。問題はいつ手をだすかだな。
6月25日16時。
2016年06月26日
サマースクールの思い出(五)――一年目残り(六月廿三日)
一年目の話は二回ぐらいで終わると思っていたのだけど、終わらないので続ける。
週末の土曜日には、貸し切りバスを使って、遠足に出かけた。一週目の週末に出かけたのが、ナポレオンに関係するスラフコフ・ウ・ブルナとモヒラ・ミール、そしてイバンチツェだった。イバンチツェには、フス派の印刷所があったということで出かけたんだったかな。ただ、途中でバスの運転手が道に迷ってしまって、到着したときには、日の長い七月後半だというのに、すでに薄暗くなっていた。当然、案内してくれるはずだった人も、すでにいなくなっており、結局見学はできたと思うのだけど、えらく待たされて、せかされたのだった。
二週目には、金曜日の午後から二泊の予定で、プラハに出かけた。とはいっても、ひねくれ者の私は行かずに、オロモウツに残ったのだが。プラハよりもオロモウツが好きだからここに来たんだと主張していた同級生たちや、プラハ中心主義を批判していた先生たちも一緒に行っていたから、裏切り者と叫びたい気分にはなったけれども、同級生たちのいない静かなオロモウツというのもまた、悪いものではなかった。常に喧騒に取り巻かれてちょっと疲れていたのかもしれない。なので土日は、ほとんど出歩かずに寮の中でおとなしくしていたはずだ。
これで、サマースクールの前半が終わり、翌月曜日から先生が代わった。一番上と二番目のクラスだけは、四週間一人の先生が担当したが、それ以外は二週間づつ教えるようになっていた。前半の先生が大当たりだったので、後半変な先生が来たらいやだなと思っていたのだが、代わりにやってきた普段は教育学部で教えているという男の先生も、なかなかいい先生だった。
前半の先生が文法的なことをしっかり教えることに重点を置いていたのに対して、後半の先生がむしろ使わせることに重点を置いて、いろいろなことを話させようとしていたのもよかった。単なる自己紹介レベルではなく、自分の仕事や学問などについて、詳しく聞かれて、みんなしどろもどろになっていたけど、こういう体験が次に役立つのである。私自身は、当時関わっていた出版関係の仕事について、うまく話せたものもあるし、どうしても言えなくてあきらめてしまったものもある。それが、後に師匠の下であれこれ質問をして、ちゃんと言えるようになる原動力となったのである。
この先生が、学生たちを自宅に招待してくれた。全員参加ではなかったが、クラスの半分以上で、その日の授業の後、先生も一緒にみんなで駅に向かった。切符は先生がみんなからお金を集めて団体券を買ってくれたのだけど、車内での検札の際に人数が合っているとかいないとか、車掌さんとあれこれ話していた。かなり散らばって座っていたので、誰がこのグループに属しているのか、確認するのが大変だったらしい。最後は車掌が、よくわかんねえけどいいやみたいなことを言って解放された。
先生の自宅は、プロスチェヨフの近くの駅のない小さな村にあって、隣村の駅から線路沿いを歩いて向かった。典型的なハナー地方の農家の建物だったのだと思う。鱒がいるからみんなに御馳走しようと言い出して、焼き魚を一人一匹ずつ頂いてしまった。久しぶりの魚は美味しかったのだけど、焼く際にニンニクをおろしたものがべっとりと塗られていたのと、箸で食べられなかったのがちょっとだけ残念だった。そんな歓待を受けたこともあって、話が弾みすぎてオロモウツに戻る予定の電車に乗れなくなって、一本遅い電車になってしまったのも全く気にならなかった。
前半の先生は、翌年のサマースクールでも教えていたので、あいさつをすることができたのだが、この後半の先生には、残念なことに一年目のサマースクールが終わって以来お目に書かれていない。ただ、今会っても気づける自信はないのだけど。
三週目の土曜日の遠足には出かけるつもりで、一度は集合場所の駐車場までは行ったのだが、その駐車場にハンドボールチームのバスが停まっていたことから、近くの体育館でハンドボールの試合が行われることがわかって、予定を変更してオロモウツに残った。このときもスイス人のマティアスが、バスのところにいた関係者に話を聞いてくれたんじゃなかったかな。本当に足を向けて寝られない。まあ、毎年そんな存在が増えていくのだけど。
だから、このときどこに遠足に行ったのかは、いや行きそこなったのかは覚えていない。すでに一度行ったことのあったボウゾフだったかなあ。久しぶりに見るハンドボールの試合は、シーズン前の親善試合で結構面白かった。だからオロモウツに残ったかいはあったはずなのだけど、対戦したチーム名とか、何試合あったかとかは、忘却の彼方である。
初日には、落ち込んだ姿が新聞に掲載されて恥をさらしたのだが、後半にもまた写真を撮られてそれが新聞に掲載された。ただし、今回掲載されたのは同級生たちとにこやかに話している姿で、前回の写真と比べると、別人のようだと同級生たちにからかわれた。別人に見えたのは、チェコ語の修行の一環として、散髪に出かけて、伸び放題だった髪の毛が、すっきり短くなっていたからという理由もあるはずなのだけど。いずれにしても、置かれた状況の違いを如実に表した二枚の写真だった。これも、いや、二枚そろえていいお土産になった。
6月24日18時。
2016年06月25日
サマースクールの思い出(四)――一年目授業以外(六月廿二日)
当時のサマースクールでは、学生たちに事務局が発行した食券を、一日当たり二枚、全部で50枚ほど配布していた。コピーして切り刻んで判子を押しただけというちゃちなものだったが、一枚が、たしか60コルナ分の価値があって、足りない分は追加で支払うようになっていた。ただし、どのレストランでも使えるというわけではなく、事務局で選択して契約した五つのレストランでしか使えなかった。
一つ目は、開始前の夕食会の行われていたホテル・アリゴネのレストランだった。ここはオロモウツの街の真ん中で、授業が行われていた大学の建物のあるところから、共和国広場を抜けて、さらに登っていく通りにあったのだが、昼食よりも夕食を食べに行くことが多かった。ホテルのほうは、知人が泊まったときに中に入ったが、狭くて上り下りしにくい螺旋階段が、街の中心部にある建物の歴史のようなものを感じさせた。
二つ目のレストランはブリストルといって、コメンスキー通りを、オロモウツ唯一のロシア正教の教会のほうに降りていって、モラバ川にぶつかる手前にあった。このレストランで覚えているのは、二年目か、三年目には指定レストランのリストから姿を消していたのだが、それについて師匠がちょっと衛生上の問題があったのよと言っていたことだ。食中毒でも出したのだろうか。学校からも宿舎からもけっこう離れていて、ほとんど利用しなかったし、我々学生には実害はなかったのだけど。
三つ目のM、もしくはウ・マテユーというワインレストランがあったところは、現在ビール醸造所のリーグロフカになっている。カテゴリー上はビナールナというワインを飲ませるお店だったのだけど、食事は普通にできたし、ワインよりもビールを飲んでいるお客さんのほうが多かった。ここも学校から結構離れているので、夕食をとりに行くことが多かった。
カティがコフォラを飲んでいて、みんなに、何それと問い詰められていたのは、大学の図書館の建物、別名ズブロイニツェ(=武器庫)の一階に入っていたレストラン、ズブロイニツェだっただろうか。サマースクールの会場として使われていた建物のすぐ前だったので、昼食、特に午後から面白そうな講義が行われるときには、このレストランを利用することが多かった。ただ、みんな考えることは同じなので、授業の終わる時間によっては、席が空いておらず別の店に向かわなければならないことも多かった。
そんなときに、向かったのが、共和国広場をから博物館の脇の道を降りていった所にある建物の奥にあるブ・ラーイである。今から十五年以上も前のことで、一般にオロモウツのレストランで出てくる料理に対する満足度は、現在と比べるとかなり低かった。でも、ブ・ラーイだけは当時から満足できる料理が多かった。その分微妙に値段も高かったのだが。このレストランが閉店してしまったのは、本当に悲しい。一階にありながら大きな建物の奥のほうにあって、外からレストランの中を見られなかったのが、客を集めきれなかった原因なのかなあ。
昼食後、午後からは語学の授業はなく、パラツキー大学の先生たちによる講義がチェコ語で行われた。チェコ語そのものについての言語学的な講義もあったし、チェコの文学や歴史に関しては、チェコ語だけでなく、英語でも行われていた。一年目もすべてではないにしても、いくつかは聴きに行ったはずなのだが、何を聞いたのかまったく覚えていない。チェコ語がまだあまりできなかったので、話の内容をほとんど理解することができなかったのだ。そんなもん、覚えていられるわけがない。
夕方には、毎週二回、映画の上映会が行われた。有名なチェコの映画や、事務局や先生たちのお勧めの映画を見せてもらっていたのだが、これもほとんど何を見たか覚えていない。ときどき、現地に行ってテレビや映画を見るのが最高の語学の勉強方法だとか、とち狂ったことを言う人がいるが、ありゃ嘘だ。嘘でなければ勘違いだ。
ある程度文法的なことを身につけた上で見ても、圧倒的な語彙の不足に、手も足も出ない。そんな状態では、知っているはずの単語すら聞きとめることができず、出演者たちのセリフは右の耳から左の耳に抜けていくお経でしかない。ストーリーも理解できないので、文脈から想像することもできないし、そもそも文脈から想像するには、少なくとも過半の単語を知っている必要があるだろうけど、このときは過半数どころか、ほとんどの単語を知らないという状態だったのだ。
そのおかげで、この年見せられた映画で、覚えているのは、ものすごく長い映画が一本あったことだけだ。面白かったから覚えているのではない。午後七時から始まって、終わったときには十時を過ぎていたために、夕食を食べようと思ってレストランに行っても、料理はもう終わったと言われて、空腹を抱えることになったから覚えているに過ぎない。映画に関しては、雪が積もっていて画面が白くて目が痛くなりそうだったのと、狼に人が殺されるシーンがスプラッタだったのぐらいしか覚えていない。
映像や音声を使って勉強するには、何度も何度も同じところ、わからないところを繰り返し聴けることが大切だ。そして、繰り返し聞いても聞き取れないこと、聞き取れてもわからないことを、質問できる人がいて初めて、音声や映像というものは、語学学習の教材として役に立つ。チェコに来てチェコ語の海に浸っていれば、そのうちにチェコ語でぺらぺら話せるようになるかもと、漫然と考えていたのだが、その蒙を啓いてくれたという意味で、チェコでの講義、チェコ映画の上映には大きな意味があった。新しい知識は増えなかったし、ある意味苦行でしかなかったけれども、語学の学習に対する態度を改めさせてくれたのである。
万物須らく学ぶに用うるに足るべしとでもまとめておこうか。
6月24日13時30分。