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2017年08月26日

接頭辞の迷宮第一期最終回(八月廿三日)



 接頭辞のことばかり書いていても切りがないので、それにチェコ語頭を使って文章を書くのに疲れてしまったし、今回でこのテーマについては一区切りつけることにする。そもそもこのブログは自分の日本語頭の再生のために書いているのだから、たまにだったらいいけど、チェコ語で考えながら日本語で書くのは、ちょっと目的から外れてしまうのである。
 いや、ちょっと今、ややこしい文章をチェコ語で書いていて、チェコ語のことを考えるのが面倒くさくなったという面もあるのかな。最初は相乗効果と言うかなんと言うか、結構うまくいっていたのだけど、だんだんだんだんうんざりしてきたのである。チェコ語は好きだけど、たまには忘れたくなることもあるのだよ。と言って日本語での読書に没頭していたのが今の苦境の原因なのか……。

 さて、今回は今まで取り上げた接頭辞の反対の意味を持つものについて簡単に触れておく。昨日の分で書いたように、上へ向かう「vy」の反対は、「s」である。「jezdit(=乗り物で行く)」に「s」を付けてちょっと変形させた「sjíždět」から派生した名詞「sjezd」は、アルペンスキーの滑降を意味する。一気に滑り降りていくことを「s」で表しているわけだ。チェコ語の残念なところは、派生動詞が普通に「sjezdit」にならないところで、これが「sjezdit」だったら、最初から最後まで統一感があってわかりやすかったのに。他にも下のカテゴリーに降格するときに使う「sestoupit」、跳び下りるときに使う「seskočit」あたりにこの接頭辞の下へ向かう動きがよく表れている。
 この「s」は、現在のチェコ語では前置詞として使うと「〜と共に」と言う意味を表す。それが接頭辞として使うと「下へ」という意味になるのは、かつてのチェコ語では、前置詞も「下へ」という意味で使われることがあったからだという。その使い方が非常に難しく、現在では意味の重なる部分の多かった前置詞「z」に吸収されてしまって、よほど古いテキストでも読まない限り出てくることはないらしい。ただ耳で聞くだけだと「z」が無声化して「s」と区別がつかなくなることが多いんだけどね。
 現在の前置詞の意味に近い接頭辞の「s」もあって、二つ以上のものが集まって来るとき、二つ以上の等価のものが結びつくときに使われる。「sejít」はいわゆる再帰の代名詞「se」と共に使って、集まるという意味になるし、「sbírat」は集めるという意味で、派生した名詞「sbírka」は集められたもの、つまりコレクションを意味することになる。「číst(=読む)」につけると、なぜか「合計する」という意味になるけれども、「s」の意味自体は反映されている。

 上ではなく、外に向かう「vy」の反対は、中に入る「v」だが、部屋の中に入る時などに使う「vstoupit」、銀行にお金を預けたり出資したりするときに使う「vložit」あたりがわかりやすいだろう。「立ち入り禁止」の意味で使われる「vstup zakázán」の「vstup」は「vstoupit」の派生語だし、貯金の意味で使われる「vklad」は「vložit」の不完了態「vkládat」からできた言葉である。そうだ。もう一つわかりやすい例があった。サッカーの用語のスローインは、チェコ語では「vhazování」という。不完了態の動詞「vhazovat(=投げ入れる)」からできた言葉である。反対はもちろん「vykopat(=蹴りだす)」である。

 その前に取り上げた「pře」と「do」については反対の意味が定義しにくいので置いておいて、最初の「při」に戻ろう。この接頭辞の反対の意味を加えるのは「od」である。前置詞だと場所的な意味でも時間的な意味でも「〜から」を意味するので、対義語は「do」になるのだけど、接頭辞の場合には「při」になるのである。これだからチェコ語ってのは……。
 この接頭辞は、全体から小さな部分が外れていく動き、基準点から離れていく動きを示している。だから、インターネットに接続されているPCを外す時には「odpojit」を使うし、合計の数字から特定の数値を引き算するときには「odečíst」を使う。こんなの経費の精算か税金の計算のときしか使わないかもしれないけどさ。それから、動作主がいる場所を基準としてそこから離れるという意味では「odejít」が使われる。日本語にすると「行く」「帰る」「出発する」など文脈によっていろいろ訳せる言葉である。旅に出るためにその場所を離れる場合には「odcestovat」なんてのも使えるか。これもサッカーを使うと、自陣のゴール前から遠くに蹴りだすのを「odkopat」と言う。ゴールを基準にしてそこから離れる方向ということなのだろう。

 ということで、チェコ語の迷宮接頭辞編の第一期はこれでおしまいである。いつ第二期が始まるのかは、そもそも始まるかどうかは、このブログがいつまで続くか、そしてネタがいつ尽きるかにかかっている。最近二日前の記事を書いていることが多いしさ。
8月25日16時。






2017年08月25日

接頭辞の迷宮四(八月廿二日)



 一日間を挟んだけれども、せっかくなのでもう少し続ける。よく考えたら接頭辞なんてややこしいことを始める前に、もっとくわしく前置詞の説明をしておいたほうがよかったかもしれないなんてことも考えたのだけど、こんな文章を読むのは、最後まで読んでくれる人は、多分チェコ語を勉強している人ぐらいだろうから、いいとい言えばいいのかな。前置詞もすでに書いたこと以外にも、感覚がつかめなくて苦労するのはあるから、いずれ書くことになるかもしれない。おそらくないとは思うけれども、これらの文章がチェコ語を勉強する人の助け、もしくは気休めにでもなれば幸いである。

 さて、第四回目は「vy」にしよう。この接頭辞は、互いに関連付けるのが難しい二つの意味を付け加える。一つは中から外へという動きを表ス使い方で、もう一つは上に向かう動きを表す使い方で、ある。この接頭辞をつけた動詞は、両方の意味で使われることが多い。
 歩いていく「vyjít」も車で行く「vyjet」も、「上に向かって行く」という意味でも、「外に出て行く」という意味でも使われる。「ven(=外に)」「nahoru(=上に)」という副詞を一緒に使ってわかりやすくすることが多いけど、文脈からも理解できそうである。

 辞書を見ると「這う」という訳語のついている「lézt」に「vy」をつけた「vylézt」は、辞書には「這い出る」「這い登る」なんて訳語が挙げられているけれども、別に這う必要はない。登るほうは木に登ったり、険しい山に登ったりするとき、つまり足で歩くだけでなく手も使う必要があるときに使うと考えればいい。よじ登るなんて言い方がいいかもしれない。それに山に登るときには、特に手を使わなくても「vylézt」を使っているような気がする。
 それから外に出るほうも、部屋に閉じこもっている人に「出てこい」という意味で、「vylézt」の命令形を使うこともあるので、取り立てて四足になる必要はない。もちろんベッドやソファーの下にもぐりこんだペットの犬や猫に対して使えば、四足の「這い出る」になるけれども、人間がどこかから這い出る状況というのは滅多にあるまい。

 プラハの地下鉄の車内放送で、「Ukončete nástup a výstup, dveře se zavírají」というのを聴いたことのある人は多いだろう。「乗車、降車を終わらせてください。ドアが閉まります」という意味だが、このうち「výstup」が降車にあたり、動詞「vystoupit」から派生した名詞である。「vystoupit」は、「電車を降りる」ととらえるよりも、電車の中から「外に出る」ことをさしているのだと考えたほうが接頭辞の「vy」が理解しやすくなる。またこの動詞は演劇などの「公演をする」という意味でも使うが、これは舞台に「上がる」という意味だととらえればよかろう。
 「vytáhnout」は「引き出す」だけでなく、「上に引っ張る」という意味でも使えそうだが、「vybrat(=選び出す)」の場合は、上に向かう意味を付け加えるのは難しそうだ。逆に「vyhrát(=勝つ)」は、勝つというのは相手の上を行くことだと考えれば、上に向かう意味が加わったと解釈してもよさそうだけど、外に向かうのは想定できない。
 たまに「vy」が付け加える二つの意味に共通する要素、語源的なものがないのか考えてみるが、答えは出てこない。おそらく別々の起源なのだろう。外の反対、中に向かう動きを表す接頭辞は「v」だし、上の反対、下に向かう動きを表すのは「s」なのである。例えば、発音の関係で「e」が入るけど、「vejít」は中に入るという意味で、「sejít」は下に下りるという意味を持つ。

 他にもあれこれ「vy」のつく動詞はあって、中には上にも外にも向かわないものもある。こじつけてこじつけられるものもあるけれども、こじつけられないものもある。それでも、「vy」のつく動詞は上か外と覚えておけば、知らない動詞でも何とか意味が取れることがある。
 ちなみにこの「vy」のつく動詞の中でのお気に入りは「vyhnat(=追放する)」である。いや正確にはこれから派生した名詞の「vyhnanství」である。古代ギリシャの陶片追放とか確かこの言葉で表現しているのを見て妙に気に入ってしまったのであった。
8月24日23時。






2017年08月23日

接頭辞の迷宮三(八月廿日)



 続いては、「do」を取り上げることにする。前置詞として使う場合には、「〜まで」という意味で、場所を表す場合にも、時間をあらわす場合にも使うことができる。行き先の場所を表す場合のややこしさについては以前書いたことがあるが、閉鎖的な空間の中に向かう場合に使うとチェコ人は言う。例外も多く納得できない部分もあるのだが、そういうものだということにしておく。
 それに対して、前置詞として使った場合には、「最後までする」という意味を付け加える。問題はこの最後までに微妙な意味の揺れがあるところである。

 昔、師匠とその旦那と一緒に話をしていたときに、旦那が、自分は家族と一緒にレストランに食事に行ってもビールしか頼まないという。その理由は、師匠と娘さんが頼んだものを食べきれないからだという。旦那は師匠と娘さんが残したものを、食べなければいけないので、自分の食べるものを注文できないのだと言っていた。師匠に言わせると度し難い酒飲みの言い訳の面もあるようだったけど、残されたものを食べるというところに、旦那は「dojíst」という動詞を使っていた。
 それから、スポーツの試合の中継の最後のほうで、「試合をおわらせようとしている」というような意味で、不完了態の「dohrávat」を使っていた。この二つの事例から、「do」を付けた場合は、最後までするは最後までするでも、途中まで進んだ状態から最後まで終わらせるという意味なのだろうと考えていた。
 だから「doběhnout」は、スタートのことは意識しないでゴールまで走りぬくことを表すときに使うし、「dopít」は飲み始めてある程度残っているビールを(ビールじゃなくてもいいけど)全部飲んでしまったら帰るとかいうときに使うし、「domluvit」は、自分が話している途中に割り込まれて、最後まで話させろというときに使う。いや少なくともそんなときに使ってきた。

 それが、これもスポーツの中継を見ていたときに、怪我で退場してしまった選手や、途中交代の選手に対して、「dohrát」の過去形を使っているのに気づいた。この選手にとって試合が終わってしまったという意味で、最後までプレーしたということなのだろう。つまり途中で、何らかの事情でやめてしまうときにも、使えるのだ。
 考えてみれば、明確に最後が決まっている動作というものはそれほど多くない。例えば文章を書いていて、これでお仕舞いというのを決めるのは書き手であって、そこに明確な基準はない。話し合いをするときにも、時間制限で終わることもあるけれども、延長されることもあるし、制限時間前に合意して話し合いが終わってしまうこともある。そういうところから、状況によって終了を余儀なくされるとか、自分の意志でここまでだと決めてしまうときにも使われるようになったのだろう。

 だから、同じ最後まで読むでも「přečíst」の場合には、本当に最後まで読む場合に使うけれども、「dočíst」は、読んでいる途中でこれ以上読んでも仕方がないと判断してやめるときにも使えるのだ。もちろん残りの部分を最後まで読んでしまうという場合にも使えるけれども。
 その辺の「do」のつく動詞の意味の微妙さが、チェコの人が日本語でしゃべっていて、「禁煙する」という意味で、「煙草を吸い終わる」と言うのにつながっているのだろう。確かに、禁煙も自分の意志でこれで煙草はおしまいだと決めることではあるのだけど、日本語の補助動詞の「終わる」とチェコ語の接頭辞の「do」の意味するところは完全には重ならないのだ。

 最初はよくわからなかった「dojít」の「なくなる」と言う意味での使い方も、体力や気力が尽きると、動けなくなって動作が強制的に終了されるというところから、派生した意味なのだろうと推測できるようになった。初めて、「došla mi síla」とか言われたときには、力尽きたということではなくて、自分のところに力が届いたと言いたいものだと思ったのだけど。

 ということで、この「do」のつく動詞は、文脈を見て解釈する必要があるので、結構厄介なのである。自分では「やめる」という意味ではこの手の動詞を使わないことにしているので、使うときにはいいんだけど、聞いてとっさに理解するのが大変なのである。
8月22日18時。





2017年08月22日

接頭辞の迷宮二(八月十九日)



 二番目に取り上げるのは何にしようかと考えて、「při」に似ているから「pře」にすることにした。

 「předat」は、物を手渡すときに使い、「přejít」は道を横切って反対側にわたるときに使う。この二つの例から考えると、「pře」の追加する意味は、一つの側から反対側への移動であるように思われる。「předat」だって、物が渡す側から渡される側へと移動するのだから。
 しかし、「překročit」が境界を越えていくという意味で、「přeskočit」が飛び越えるという意味であることを考えると、ただ反対側に移動するというのではなく、間にあるものを越えて反対側に行くと考えたほうがいいかもしれない。
 確かに「přejít」は橋を渡るときにも使えるが、橋を渡ることによって川を越えているし、スポーツの試合などで使われる「přestřelit」は、シュートがゴールの上を越えていく場合に使われる。「翻訳する」という意味の「přeložit」は、言語の壁を越えて一つの言葉からもう一つの言葉に訳すと考えればよさそうだ。ちょっと悩むのが「最後まで読む」という意味の「přečíst」なのだが、読むことで本の内容を越えて表紙から裏表紙に到達すると考えればいいのかな。

 この意味での接頭辞としての「pře」は、名刺にもつけられることがあり、「přechod」は道を渡るための横断歩道、「přejezd」は線路を越えていく踏み切りと言うことになる。ただこの二つの言葉は、名詞に接頭辞をつけたものなのか、接頭辞のついた動詞が名詞化したものなのか、チェコ人ならぬ身には判然としないのだけど。

 さて「pře」が「越える」という意味を付け加えるのなら、前置詞「přes」との関連が見えてくる。この前置詞は、「〜を越えて/超えて」とか、「〜越しに」なんて意味を持つわけだが、限界を超える、つまりやりすぎてしまうときにも、この接頭辞が使われる。「přejíst se(=食べ過ぎる)」、「přepít se(=飲みすぎる)」なんていうのはわかりやすいだろう。「se」がつく理由はわからんけどさ。

 同じように、美しいという意味の形容詞「krásný」につけて、「とても美しい/美しすぎる」という意味の「překrásný」ができるという話を聞いたときには、古すぎるという意味で「přestarý」も仕えるんじゃないかと思いついたが、師匠によれば「prastarý」を使うのだという。他にもいろいろな形容詞に付けてみたけど、あんまり実用的なものはなかった。
 ただし、動詞を起源とする形容詞なら、「přeplněný(=込みすぎている)」、「překombinovaný(=組み合わせが複雑すぎる)」、「 přepracovaný(=働きすぎて疲れている)」などなどいろいろな例が挙げられる。他動詞、もしくは使役の意味を持つ動詞から受身形を経て形容詞が作られるというのも、

 ここで問題になるのが、「pře」の持つもう一つの意味である。例えば、「přepracovat」は「se」をつけて働きすぎるという意味になるが、「přepracovat」だけで作り直すという意味でも使える。つまり、「もう一度やり直す」という意味があるのである。これと「越える」という意味の関連性が見出せていないのだけど、現在の状況を越えるためにやり直すということだろうか。いかんせん、ここまでくると、こじつけ過ぎろいう感じが否めない。この意味で使う例としては、他にも「přepsat(=書き直す/書き写す)」や、「přestavět(=建て替える/改築する)」あたりが挙げられる。

 最後に最大の問題となる「přestat」を挙げておく。これは今までしていたことを「やめる」という意味で使われるのだが、これと「越える」「もう一度やり直す」という接頭辞「pře」のつく動詞にある程度共通する追加された意味との関連が全く見えない。これだけ特別なものとしてカテゴリーすればいいといえばその通りなのだけど、なんだか悔しいので、今後も折を見て何かいい解釈がないか考えていきたい。そんなことしてもチェコ語はちっとも上手にはならないと思うんだけどね。
8月20日19時。






2017年08月21日

接頭辞の迷宮一(八月十八日)



 これから何回かにわたって、具体的なチェコ語の接頭辞について説明を加えていく。これまた読者を選ぶ話になるけれども、時折軽い話もはさみながら、まじめな話でも軽いけど、何回か書いてみようと思う。これがチェコ語の勉強をしている人の役に立つかな? 自分でも懐疑的になってしまうなあ。とまれ、かくまれ、何回続くかもわからないし、頭注で放置してしまう可能性もあるけど始めよう。
 よく使われる接頭辞としては、「do」「od」「při」「před」「u」「po」など前置詞としても使われるものが多いが、「pře」「vy」のように前置詞としては存在しないものもある。前置詞として使われるものであっても、前置詞としての意味と接頭辞として意味が必ずしも一致するわけではない。何でそうなるといいたくなるものもある。

 まずは、「při」から行ってみよう。前置詞としては、「〜の際/に際して」という意味で使われるのだが、接頭辞としては「付け加える」という意味を付け加える。前の分の末尾の「付け加える」なんて、チェコ語の「přidat」がそのまま使えてしまう。すでに存在するものに追加する形で何かをすることを表すのである。
 建設するという意味の「stavět」につけると、すでに存在する建物に追加される部分を建てるということになるし、「přidělat」は、すでにいくつか制作した後に、追加で作ることを表す。「přibýt」は、ちょっと日本語にすると変だけど、追加で存在するということから、増えるという意味になる。塩を振って味をつけることを「solit」というが、「přisolit」は、すでに塩味のするものに、塩を追加するということになる。
 だから、理論的には、追加で教える「přiučit」、追加で働く「připracovat」、追加で食べる「přijíst」、追加で飲む「připít」なんて動詞があってもおかしくないのである。このうちのすべてがここに書いた意味で使えるかどうかは知らないし、「připít」は、残念ながら乾杯するという意味だけど、あれこれ試してみるのは楽しい。

 そして、「つなげる」という意味の「pojit」につけて「připojit」にしたときの意味を考えると、主と従の関係にある二つのものがあって、従の側が主のほうに向かう動きを「při」で表していることが見えてくる。同じレベルのものを二つつなぐのであれば、「připojit」ではなく、「spojit」になるのである。だから鉄道などで町と町をつなぐ場合には、「spojit」を使うが、コンピューターをインターネットにつなぐ場合などには、「připojit」を使う。
 「přidat」などの場合にも、すでに存在しているものが主で、従にあたる追加されるものがそれに向かっていくことで、「付け加える」という意味になると考えることができる。「着陸する」という意味の「přistát」も、主である地球に、従である飛行機が向っていくわけだし。そうすると、「připít」が乾杯の意味を持つのも、主となるものが儀式というか、お祝いであって、そこに従として自分の祝う気持ちを寄せるために飲むと考えればいいのだろうか。お酒を飲むことを寄せていくでは意味不明だしなあ。

 この解釈を広げると、「přijít」が、日本語の「行く/来る」という意味になるのもある程度理解しやすくなる。理解しなくても覚えてしまえばそれまでなのだけど、教科書で読んだり先生に教えられたりするだけでなく、自分でも帰納的に理論めいたものを作り出して、それを演繹して使ってみるのは、すべてが正しいなんてことにはならないにしても、結構重要なことである。
 とまれ、「přijít」は、目的地を主として、動作主を従として考えれば、目的地に向かう動きを表すことが、「při」で表現されているのだと理解できる。チェコ語では目的地が主、言い換えれば基準となってそちらに近づくのが「přijít」なので、日本語の「行く」「来る」とは完全に重ならないのである。
 日本語の場合には、目的地ではなく動作主が基準となっているから、チェコ語では「přijít」で表すような場合でも、「私が目的地(そっち)に行く」となり、「お前が目的地(こっち)に来る」となるのである。日本人にとっては、チェコ語を使う際にはどちらも一つの言葉ですむから楽なのだが、チェコ人が日本語を使うときに、日本語でのこの区別をしっかり身につけるのは難しいらしい。

 接頭辞の「při」を使った動詞で、解釈が難しいのが、「přivřít」である。これは開いているドアや窓をちょっと閉めるときに使うのだが、主としての建物に、従としてのドアを近づけると考えるのがいいのだろうか。ただ、他の「přijít」も「přistát」も従にあたるものが主にあたるものに接するところまで行くわけだから、完全に閉めない「přivřít」の解釈としてふさわしいのかどうか自信がない。もう一つは、追加で閉めるという解釈で、ドアや窓は開けてあっても、存在するというだけである程度空間を閉ざしているわけだから、その閉まり度を追加すると考えるのだけど、これもこじつけすぎだよなあ。

 それからこの接頭辞の「při」は、名詞につくものもあって、「příjmení」は名前に追加する名字のことで、「příchutí」は追加された味を表していると書いて、「při」ではなくて、「pří」と長母音になっていることに気づいてしまった。同じものと考えていいのだろうか。師匠に質問した記憶はあるのだけど、答えを覚えていない。

 とまれ、これが、我が接頭辞「při」に対する解釈である。
8月19日23時。






2017年08月20日

接頭辞の迷宮序(八月十七日)



 この前、日本から来られたコメンスキー研究者の先生とお話をしていたときに、動詞の完了態と不完了態の区別がなかなか感覚としてつかめないとぼやいておられた。頭で理論的なことは理解できていても、それを実際に使うときに混乱してしまうというのは、語学を学ぶ際には避けられない問題の一つである。その場では、自分の感覚を言葉で説明したのだけど、うまく説明できたとも思えない。この手の感覚的なことは、母語でさえ言葉にするのが難しいのである。外国語となると、自分が適切に使えているかどうかがわからないこともあって、さらに大変である。
 そういえば、最近、チェコ語をネタにした文章を書いていない。ただ完了態と不完了態の区別を完全に説明するのは難しいので、ちょっと違う話にさせてもらう。以下、多分チェコ語を知らない人には意味不明の文章になることが予想され、いやチェコ語ができる人にも意味不明になるかもしれないので、事前にお詫びをしておく。

 さて、この動詞の完了態と不完了態というのは、日本人がチェコ語を勉強し、ある程度文法事項を身につけた後でも、実際に使うときに悩まされる問題の一つである。完了態は日本語で動詞の現在形を使うような場面で使用し、不完了態は「ている」形を使うような場面で使用するといえば言えるけれども、日本語での使い分けもそれほど厳密なわけではないので、それをもとに外国語を使用するのは無理である。

 チェコ語では、これから起こること、これからすることを表現するのに二つの方法がある。一つは、動詞の完了態の現在変化を使う方法で、もう一つは、不完了態の動詞に動詞「být」の未来を表す形を付けて使う方法である。違いを挙げるとすれば、完了態を使うとその動作が何らかの意味で最後までなされることを意味するのに対して、不完了態を使うと動作がなされること自体が重要で最後までやるかどうかには重点が置かれないところにある。また、今からすぐにやるという時には、完了態が使われることが多く、ちょっと時間をおいてからの場合には不完了態の未来が多いと言ってもいいかもしれない。とはいえ、動詞によっては、今からすることを不完了態の現在変化で表すこともあるので、やってらんねえなんて思うこともある。
 ただ、確実にしてはいけないことは、動詞「být」の未来を表す形と完了態の動詞を同時に使うことである。動作の完了を意識しつつ、その動作が完了するのがかなり先のことである場合に、ついつい完了態の未来形などという存在しない形を使ってしまっていたのだけど、最近は毎日チェコ語で生活しているおかげか間違えなくなっている。

 チェコ語の動詞には、完了態と不完了態がペアをなしているものが多く、両方まとめて覚えることが求められる。辞書なんかでも一括して掲示されているほどである。大抵は、「与える」という意味の「dát(完了態)」「dávat(不完了態)」のように形が似ているので、おぼえやすいことが多いのだが、中には「取る」という意味の「vzít(完了態)」「brát(不完了態)」なんていう「v」と「b」の発音の区別がつかない日本人に対する嫌がらせとも思えるような組み合わせもある。
 これなど完了態の「vzít」が、なかなか使えるようにならなかった。わかっちゃいるんだけど、とっさに出てこなかったんだよなあ。「vzít」が、一人称単数で「vezmu」になるなんて、反則だろう。まあ、「brát」も「beru」で原形をとどめていないという点では大差ないんだけどさ。

 この基本となる完了態と不完了態の組み合わせを覚えておくことは、実際に使うときには間違えることがあるにしても、非常に大切である。チェコ語では動詞に接頭辞を付けて微妙に異なる意味の新しい動詞を作り出すことが多いのだが、完了態か不完了態ともにつけることができ、元の動詞に基づいて完了態か不完了態かが決まるのである。
 簡単な例を挙げておけば、与えるに「pře」を付けると「předat(完了態)」「předávat(不完了態)」ということになる。意味としてはどちらも「手渡す」ということになる。「převzít(完了態)」「přebrat(不完了態)」は逆に「受け取る」という意味になる。もちろん意味の範囲は日本語の動詞のそれとは微妙に異なるので、別の意味で使われることもあるわけだけど。

 それから、不完了態しかない動詞にも接頭辞はつけられる。一番よく例に挙げられるのが、「(歩いて)行く」という意味の「jít」であるが、接頭辞を付けて「přejít」にすると、「(道を反対側に)渡る」という意味の完了態の動詞が出来上がる。さらに、「jít」の部分を「chodit」が形を変えた「cházet」に代えて、「přecházet」にすると不完了態の出来上がりである。
 外国人にとっては、接頭辞を付けた形の完了態、不完了態のほうが区別しやすい面もあるので、こちらから基になった動詞の完了態、不完了態を判別するという手もあるかもしれない。そして、同じ接頭辞が使われる動詞にはある程度共通の意味が追加されるので、接頭辞自体の意味を知っておくと、見たことのない新しい動詞でも、何とか意味が推測できることもある。大外れになることもあるし、使ってみたらおお笑いされることもあるんだけど、そういうのも語学の醍醐味ってやつである。あえて間違うことを楽しむ姿勢ってのは、語学には欠かせないと思うのである。

 本題の接頭辞の話には入れなかったけれども、以下続くと思う。
8月18日17時。





2017年06月29日

通訳稼業の思い出話2(六月廿六日)



 もう十年以上前のことだが、とある日本の大企業がEU企業と共同でチェコに建設した工場の立ち上げの際に通訳として協力したことがある。共同の工場とは言え、生産を担当するのは日本企業だったので、チェコ語と日本語の通訳が求められていて、その工場で通訳のとりまとめをしていた知人にお前も来いと引っ張られたのだ。
 今でも覚えているのが、日本から指導に来た人たちが、EU企業に対してぶーぶー言っていたことだ。生産に関して丸投げにしているくせに、あれやらこれやらくちばしを挟んできたり、無理難題を押し付けてきたりして、日本側を悩ませていたらしいのだ。「あいつら俺らのこと便利な下請けとしか思ってませんからね」とは、一緒に仕事をさせてもらった方の言葉だけど、自社よりも規模の大きい日本を代表する大企業を下請け扱いして恥じない辺りEU企業ってのは衝撃的なまでに傲慢なんだなあと思った。実は傲慢なのは企業だけではなくてEUそのものもだったのだけど。

 当時は日系企業のチェコ進出ラッシュで、日本語―チェコ語通訳バブルとでもいうべき様相を呈していた。だから通訳初心者にもそれなりのお金で仕事が回ってきたのだけど、仕事をしている通訳のレベルは、本当にピンきりだった。個人的には、1高い金を出してでも雇いたい、2金を出して雇いたい、3安ければ雇ってもいい、4ただなら使ってもいい、5お金をくれるなら使ってもいい、6お金をもらっても使いたくない、というふうに通訳をカテゴリー分けしている。本当の意味で通訳として働いていると言えるのは、1と2であることは言うを俟たない。人手が足りないとかき集めるにしても3ぐらいでとどめておかないとえらいことになる。
 それなのに、当時は3や4はおろか、5、6レベルの連中まで、私は通訳でございとえらそうな顔で仕事をしている振りをしていたのだから悲劇も起こってしまう。一応、通訳のとりまとめをやっていた知人には言ったんだけどね、「こんなレベルの日本語で金取るなんて詐欺だぞ」と。そしたら、重要な仕事はお前らに任せるから、できの悪いのは、日本人の茶飲み話の相手か、笑い話のねたになってくれればいいんだよというものすごく割り切った答えが帰ってきた。人を数集めることを求められていたらしい。
 自分自身のことをいうなら、ぎりぎりで2のレベルにはあると判断したから、通訳として働くことにしたのだが、最初のころは経験不足で、雇ったことを後悔させてしまったこともあるかもしれないと反省する。それでも日本人に対して、日本人の目から見たチェコの情報をあれこれ提供したし、役には立てたはずだと思いたい。

 さて、或る日、その会社に通訳の仕事に行くと、「聞いてくださいよ、あいつ、ひどいんですよ」と、日本から来た方に泣きつかれた。聞いてみると、日本語もおぼつかないチェコ人通訳に、「あなたの日本語は変です」と言われてしまったらしいのである。何とかしてくださいよと言われても、そいつに日本語教えたの俺じゃないしと答えるしかなかった。
 当時のチェコの日本語ができる人というのは、たいてい大学で勉強して日本語を身に付けていた。そして自分は日本語の全てを身につけたと思い込んでいる人が多かった。いや、本当にできる人は、自分ができる日本語は、日本語の一部でしかないことをよく知っていて、自分に理解できない表現が出てきたときには、恥ずかしがらずに日本人に質問することができていたのだが、中途半端にできる人が、なぜか自分の日本語は正しいと思い込んでいて、自分が理解できないのは、理解してもらえないのは、相手、つまり日本人が悪いと思い為す傾向があった。大学で学んだことを100パーセント覚えていたら、そんな醜態をさらすこともなかったのだろうけれども、できない人ほど、全部覚えているつもりになっていたわけでね。

 それから、常にチェコで発行された日本語・チェコ語辞典を持ち歩いていて、知らない言葉が出てくると、辞書を引いて、辞書になかったら、「ごめん、わからない」と言うチェコ人通訳もいたらしい。いや、こんなの通訳なんて呼んじゃいけねえ。お前のその体の一番上についている丸いものは飾りか、とこの話を聞いたときには憤ってしまった。
 自分の知らない言葉、辞書に載っていないような言葉でも、通訳するために、文脈から状況からある程度理解した上で、確認の質問をする。それが機械ではなく人間が通訳をする理由である。個々の言葉の意味を訳すだけだったら、膨大なデータベースの中から瞬時に検索できるコンピューターに勝てるわけがないのである。言葉の辞書的な意味ではなく、言葉にこめられた意図を訳すというのが人間の通訳の仕事じゃないのか。自分でも100パーセントできているとは思えないが、それが目標である。

 それから通訳が必要な通訳ってのもいたなあ。こちらも自分の日本語は完璧だと思っている人で、日本人にわからないと言われてもかたくなに、同じ理解しようのない日本語の言葉(文にはなっていない)を繰り返すだけだった。こけの一念、岩をも通ずではないけれども、そんな妙ちくりんな日本語もどきをある程度理解できる日本人が現れたらしい。
 その結果、チェコ人が話したことを、チェコ人通訳が変な日本語に訳し、日本人がちゃんとした日本語に訳すという珍妙な状況が発生していたという。これでチェコ語から日本語は何とかなったのだけど、日本語からチェコ語のほうは、対して改善されなかったことは言うまでもない。当時はこんなんでもチェコにしては高給がもらえていたのだよ。半分は理解してくれた日本人に差し出すべきなのだろうけど、そんなことを思いつけるぐらいだったら、あの日本語で通訳しようなんてことは考えられないはずである。

 あれから十年以上のときを経て、日本語チェコ語通訳を巡る状況は大幅に改善されている。かつてたまに見かけた日本語でちゃんと挨拶できたら拍手したくなるようなレベルの通訳は、もう見かけることはなくなった。自然に淘汰されていったのである。こんなことを書いたからと言って自分がそんな大層な通訳だと言うわけではないのだけど、ここに挙げた事例を反面教師にして通訳稼業をやってきた。
 先週の金曜日の飲み屋での話しに出てきた現場力なんて言葉を使えば、我が通訳の現場力の源泉は臨機応変にある。されど其を行き当たりばったりとも称せりなのである。
6月26日10時。



 通訳の分類としては他にも、1是非いてほしい、2いてもいいかな、3どっちでもいい、4いないほうがいい、5いたら困る、というのもある。6月28日追記。





2017年03月19日

カタカナの罪(三月十六日)



 ちょっとチェコ人の前であれこれしゃべらされる機会があったので、準備せずにしゃべれること、あまり考えなくても口から出まかせでしゃべれることということで、日本人の変なチェコ語について、いや正確には自分の変なチェコ語についてくっちゃべって来た。
 このブログにも散々書き散らしているチェコ語の発音の難しいところ、文法的に理解できないところに対する憤懣を、思いつく先から口に出していたら予定の時間が過ぎていたという感じである。なんだかんだで90分近くくっちゃべったかな。それでも、まだまだ言いそびれてしまったことはいくつもあるのだ。チェコ語ってものも業が深いねえ。

 さて、今までチェコ語の発音自体の難しさについて、ルールの難解さについては書いてきたけれども、これは日本人に限った問題ではない。日本人独特の問題があるとすれば、それはカタカナ表記である。チェコ語に限らず語学の教科書には必ずと言っていいほど、アルファベットの上にカタカナ表記で読み方が書かれている。一見便利なそのカタカナでの発音表記が、日本人が外国語の発音があまりうまくならない原因の一つになっている。
 最近は、チェコ語の教科書なんかを見ても、それぞれに工夫を凝らして、RとLをひらがなとカタカナで書き分けるなんてこともしているのだけど、ついついそのまま日本語風の発音で読んでしまうというのが実情であろう。かつてドイツ語のゲーテを「ギョエテ」と書いていたのも、普通の「ゲー」ではないことを示そうとした苦心の表記なのだろうけど、ドイツ語の発音ではなくカタカナで書かれたとおりに呼んでしまうのは当然である。

 Vだって、最近は日本語の文章中に氾濫しているせいで、ヴァヴィヴヴェヴォと書かれていても、ほとんど自動的にBで読んでしまうことが多いのではなかろうか。日本語で書かれた文章でヴァをバで読んでしまえば、語学のテキストを使っているときでも、気を抜くとヴァがバになってしまうのは仕方がない気がする。
 中学時代に初めて使った英語の教科書には、単語の後に発音記号が付けられていた。あれのおかげで発音が正しくできるようになったとは言わないが、カタカナで書くと同じになる音でも、発音記号の違いで別な音であることが意識できていたような気がする。そのおかげで、正しいかどうかはともかく、カタカナでは書けない発音をしていたんじゃなかったか。それとも、役に立ったのは、テストの発音の問題だけだったかな。耳で聞いてもわからなくても、発音記号を覚えていれば点は取れたのだ。

 チェコ語でカタカナのせいで発音が、ちょっと変になっているものとしては、tiとdiが第一に挙げられる。チェコ語関係者が、tiはティではなくチだと必要以上に喧伝してしまったために、本来ティでもチでもないtiをチで発音してしまう日本人のチェコ語学習者は多い。しかも、かつてはティという音すら、直音化させてチと表記してきた日本人である。ティさえもチで発音してしまう人もいかねないのである。
 diのほうも事情は同じでジと発音してしまう人が多い。中にはヂと表記して区別しようとする人もいるが、カタカナではヂ、ヅは使わないのが原則だし、ダ行で書いても発音がジ、ズになってしまうのは言うまでもない。むしろ問題は、チェコ人の耳には、日本人の発音するジがチェコ語のジとは微妙に違って聞こえるらしいことだ。正直説明されても聞き取れないのだが、ジの前にD音を発音しているように聞こえるのだという。その場合、そのジの音がチェコ語のdiの音に近づくのか、遠のくのかはわからない。
 外国語の学習をするときに、発音のカタカナ表記が付いているのは一見便利なのだけど、カタカナ発音が一度定着してしまうと、なかなか矯正は難しい。

 だから自分では、チェコ語でVの音を発音するときに、意識して発音しているときはともかく、疲れたり酔っ払ったりしていい加減に発音しているときは、適当にBで代用しているものだと思っていた。そんなことを、日本人はみんなそうなんだよと、自分のことを例にあげて説明をしたら、怪訝な顔をされてしまった。どうも自分ではVと発音できていないと思っているのに、実際には発音できているらしい。うーん、どういうこっちゃ。自分でもわからん。
 だからと言って、V発音に問題がないわけではない。意識的にであれ、無意識にであれ正しく発音できるのは、つづりをしっかり覚えている言葉だけなのだ。自分の発音すら正確に聞き取れない人間が、正しい、いや類似した音を区別して発音するためには、それぞれの言葉のつづりを覚えるしかないのである。いつまでもカタカナ表記に頼っていると、カタカナでは言えるけれどもつづりは書けないということになりかねない。さて、それに気づいてチェコ語で話すときにはカタカナを忘れるようにしはじめたのは、いつだったのだろうか。やはりこちらに来てからということになりそうだ。
 十年以上のときを経て、Vの発音ができるようになっていたのは嬉しい。しかし、耳がいつまでたっても聞き取れるようにならないのは悔しい。悔しいけれどもこれはもうしかたがないと諦めている。口や舌の動きは、チェコ語に合わせて何とか訓練できても、耳はいつまでたっても日本語耳のままである。
3月18日11時。


2017年02月08日

命令と禁止の話(二月五日)



 チェコ語のややこしさの話だったらいくらでもできる。英語やドイツ語の場合には、いちゃもんを付けることはできるけれども、ちゃんと理解していないから説明を加えた文章にすることはできない。そう考えると、わがチェコ語もなかなかなものである。こんなチェコ語についての、重箱の隅をつつくような話を読みたいという人がいるかどうかはわからないが、ネタもないし、行ってしまう。

 多少繰り返しになるけれども、前提となる話からということで、チェコ語の動詞は、動作が完了することを意識する完了態と、完了することではなく動作が行われることを意識する不完了態という二つの種類に分けられる。不完了態は、継続を意識する形と言われることもあるのだが、それだけでは説明しきれないところがあるような気がする。日本語使用者に限ってのことかも知れないけど。
 重要なのは、基本となる動詞は、原則として不完了態の動詞で、その動詞に接頭辞を付けることで、完了態の動詞が作られるということだ。そして、接頭辞によって微妙に意味が異なる完了態が出来上がるため、完全に意味の対応する不完了態が完了態から作り出される。

 例えば、先日も取り上げた「jet」の場合には、「při」「do」「od」「vy」「v」などの接頭辞をつけて、完了態の動詞が作られる。「přijet」は、「来る」だという人もいるが、「行く」「来る」どちらでも使える。ある人のところに、またはある場所まで行くことを表している。だから場合によっては「到着する」なんて訳した方が日本語として自然になる場合もある。これに対応する不完了態の動詞は、「přijíždět」であるが、使い分けについては、駅に行って構内放送を聴くといい。
 電車が駅に近づいていることを告げる放送では、「přijet」を使って、もうすぐ到着する、もしくはホームに入ってくることを告げ、電車がすでに構内に入って停車しようとしている状態では、「přijíždět」ですでに到着しようとしていることを告げるのである。なので、「přijede」なら、まだ少し余裕があってホームに走る必要はないが、「přijíždí」の場合には急いだほうがいい。同様に「odjede」はこれから出発することを、「odjíždí」は出発しようとしてすでに動き出そうとしていることを示すのである。

 この完了態と不完了態の違いは、命令形にも反映される。同じ動詞だとあれなので、別の動詞を使うと、食べる「jíst」には、「sníst」「dojíst」「najíst se」などの完了態が存在する。お客さんに食べ物を出して、「食べてください」という場合には、食べてしまうことを意識しない「jíst」の命令形を使わなければならない。全部食べずに残してもいいわけだから。
 「sníst」を使うと「全部食べてください」という意味になり、「dojíst」だと「残っているものを全部食べてください」になってしまって客に言うには不適切になってしまう。親が子供に言うのであれば問題ないのだろうけど。「najíst se」の場合には「おなかが一杯になるまで食べる」だから、使える状況はありそうだ。

 では、逆に禁止する場合を考えると、「sníst」は「全部は食べるな」で、「dojíst」は「残りは食べないでおけ」となり、食べてしまうことを禁止することになる。「najíst se」の場合には「おなかが一杯になるまでは食べるな」だから、まだ次の料理が出てくるときに、ほどほどにしておけよという場合に使えるかな。いずれにしても。完了態を使った場合には、食べること自体を禁止するのではなく、食べることが完了することを禁止することになる。
 だから、毒が入っているから食べるなとか、俺のものを食うんじゃねえとか言いたい場合には、不完了態の「jíst」の禁止形を使って食べること自体を禁止しなければならないのである。一般的に禁止の場合には、不完了態を使うことが多いといわれるのは、動作そのものを禁止することになるからである。

 さて、以上のような、肯定の命令形、否定の命令形(つまりは禁止)と完了態、不完了態の関係をある程度(完全にとは口が裂けてもいえない)理解した上で、なお理解できない命令形の使い方がある。それは、寝ている人を起こそうとして「起きろ」という場合である。目を覚ましてベッドから出て起き上がることで、起きるという動作を完了させる必要があるから、完了態の「vstát」の命令形を使うのが正しいと思うのだけど、なぜか不完了態「vstávat」が使われるのである。
 納得がいかないので、いつものように、なぜ、なぜと訊いて回ったけれども、納得の行く答えは誰からも返ってこなかった。日本語でも、「待ってください」と「待っていてください」の使い分けはできても、その理由を説明できるかと言われると困ってしまうから、チェコ語ばかりを責めるわけにはいかないのである。
2月5日22時30分。




2017年02月06日

困ったチェコ語(二月三日)



 日本語とチェコ語の相違点の中には、日本語を深く考えるのには全く役に立たないものも、もちろんある。そしてそういうのに限って、間違えてしまうというか、なかなか正確に使えるようにならないので困り者なのである。

 日本語では、自分の足で歩こうが、車に乗ろうが、電車を使おうが、「行く」という動詞一つで済ますことができるが、チェコ語の場合には歩いていく場合は「jít」で、乗り物を使う場合には「jet」と、使用する動詞が違う。今でこそ、意識して使い分けできるようになっているが、チェコ語を使い始めた当初は、トラムやバスで移動する場合にも、「jít」ばかり使って、うちのの顔をしかめさせていたものだ。
 問題になるのは、乗り物の範疇である。自動車や電車がそこに含まれるのはいい。馬車も自転車もタイヤがあるから乗り物と考えてよかろう。馬に乗る場合も自分の足ではないから、「jet」のはずである。では、馬が自分の脚で歩いていく場合には、うーん、これも人間じゃないから「jet」かなあ。いや、でもペットの犬が歩いてくるのには、「jít」を使っていたような気もする。
 人間が足に特別なものをつけて移動する場合、つまりスキー、スケートの場合には、自分の足を使うので、「jít」だろうと思っていたら、実は「jet」が正しかった。歩くときの足の上げ下げがないからだろうか。ただし、同じ上げ下げがない状態でもすり足で歩く場合には、「jít」を使うはずである。でも、立っているときに足が滑っていくのにも、歩いていてついた足が滑って前にずれていくのにも「jet」を使うことを考えると、すり足も「jet」かな。いや自分の意思で足を動かしているから、やはり「jít」かなどと、いくら考えても結論が出ないし、質問して答をもらってもすぐに忘れてしまうのである。

 もう一つ、この「行く」を表すチェコ語で困るのは、これから行くと言いたいときに、特別な形を使わなければならないことだ。歩いて行く「jít」の場合には一人称単数で「půjdu」、乗り物を使う「jet」は同じく「pojedu」となる。前に付く接頭辞が違うのも厄介なのだが、変化形しか存在せず、「půjít」「pojet」という原形を想定しないというのが納得できない。実際に使用するしないはともかく、設定はしてもかまわないと思うのだけど。
 ちなみに、「jít」の接頭辞を間違えて、「pojít」にしてしまうと、原形は存在するけれども、意味が全く違ったものになってしまう。この動詞、死ぬという意味になるのだけど、人間ではなくて動物があの世に行くという意味で使われる。行くという言葉の一つの展開と言えば言えなくもないのかな。

 日本語の「行く」に相当する「jít」には、日本語の「行ける」と同じような使い方もある。日本語に訳すときは、「これでいい」とか「これで大丈夫」と訳したほうが自然かもしれないが、例えば、チェコ語であれこれ文を考えて、正しいかどうか確認したいときに、「jít」の三人称単数を使って、「Jde to?」なんて聞いてしまうわけである。「この表現行ける?」ということである。
 それから、「元気?」とか聞かれて、元気とは言いたくないけど、死ぬほど状態が悪いわけでもないと答えたいときに使う「ujde to」も「jít」の派生表現である。強いて日本語に訳せば、「何とか行けてる」となるだろうか。この辺は、日本人には比較的わかりやすくて使いやすいのではないかと思う。

 自分の足で運ぶ場合と、乗り物を使う場合の区別で、さらに困るのは、「行く」だけではなく、「運ぶ」にも、があることなのだが、こちらに関してはもう完全に諦めて、「nést」しか使わない。車で運ぶにせよ、電車を使うにせよ、交通機関に乗り込むまで、降りてからは自分の足で運ぶわけだから、あながち間違いとは言えないじゃないかと開き直るのである。外国語で話すのは、ただでさえ大変なんだから、そこまで気を遣ってなんかいられない。こんな適当さだから、最近、チェコ語の能力が落ち気味なんだな。昔は真面目に勉強していたのに……。
2月4日23時。



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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



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