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2016年03月26日

いんちきチェコ語講座(いくつめだっけ) 方向を表す前置詞(三月廿三日)



 以前、場所を表す前置詞に「v」と「na」があって、使い方の区別がややこしいという話を書いた。その後すぐに、方向を表す前置詞「do」と「na」についても書くつもりだったのだが、いつの間にか忘れてしまっていた。
 「do」と「na」の区別は、「v」と「na」の区別と同様である。一言で言うとこれで終わってしまうのだが、具体的に説明していこう。「do」の後に来る名詞は二格になり、「na」の後に来る名詞は四格になる。原則として場所を表すときに「v」を必要とした名詞は、方向を表すのに「do」を使い、場所に「na」を使う名詞は、方向にも「na」を使うのである。だから区別がわからなくて、いちゃもんを付けたくなるものも同じになってしまう。

 そこで、今回はちょっと視点を変えたところからいちゃもんを付けることにする。「do」を付ける名詞と、「na」を付ける名詞は、厳密に区別されるのだが、たまにどちらも使えるものがある。一番最初に習ったのは冷蔵庫だった。動詞の「dát」(本来の意味は「与える」だが、日本語に訳すと、さまざまな動詞に訳せる)を使うときに、「do ledničky」と言うと、冷蔵庫の中に入れるという意味になり、「na ledničku」と言うと、冷蔵庫の上に置くという意味になる。つまり内部に入っていくときには「do」、表面で止まるときには「na」という区別だと考えればいいのだという。
 ということは、「na」を必要とするチェコ語のトイレ(záchod)は、われわれが用を足すあの空間ではなく、その下にある出したものが落ちていく空間を指すということなのだろうか。だから、トイレに行くのに、間違えて「do」を使うと、大笑いされてしまうのか。用を足す空間は、チェコ語のトイレで想定される空間の上面に接していると考えれば、この「do」と「na」の区別は理解できそうだ。

 それなら、人の家に遊びに行くときは、家の中に入るから「do」を使えばいいのかというと、そんなことはない。単純に「do domu」の後に、人名を二格でつければ、「誰々の家に(行く)」となりそうだが、チェコ語では、「家に(行く)」「家で(する)」と言う場合には、特別な副詞的な言葉を使う。だから「do domu」ではなく、「domů」となり、これは名詞ではないので、二格で後からかけることができない。そのため、別な前置詞「k」+人名の三格を使わなければならない。全体で言うと、「k+人名の三格+domů」になるので、それぞれを日本語に直訳すると「誰々のところに、うちに(行く)」と言うことになる。場所を表す場合も同様で、「u+人名の二格+doma」という形で使う。面白いことに、同じスラブ語でもポーランド語は日本語的な「do domu+人名の二格」が使えるらしい。ポーランド語のほうが、チェコ語より日本語に考え方が似ているというのはなんか悔しい。

 それから、もう一つの問題は、場所を表す前置詞を使うのか、方向を表す前置詞を使うのかである。これは動詞によって決定される。「行く」「来る」のような、移動していくことを表す動詞の場合には、全く問題がないのだが、ややこしいものがいくつかある。日本語で「置く」と認識できる動作の場合、チェコ語では前出の「dát」以外にも、「položit」「nechat」などの動詞で表されるのだが、「机の上に置く」であれば、前二つは「na」+四格、最後は「na」+6格を取るのである。日本語に動詞だけ直訳すると、「položit」は「置く」、「nechat」は「残す」と訳し分けられるのだが、日本語ではどちらも助詞「に」を使えばいいので、これはチェコ語の勉強を始めて廿年近く、チェコで生活を始めて十五年ほどたった現在でも間違い続けている。わかっていても間違える問題だから、どうしようもないのである。
 また、「前」を意味する「před」も、場所なのか方向なのかで、七格になる場合と四格になる場合がある。チェコ語を勉強し始めてすぐに覚えたことの一つが、前置詞「před」は七格を取ると言うことだったせいもあって、「před」+四格は今でも使えないことが多い。

 思い返してみると、勉強を始めたころに、同じ「ここ」でも、場所を示す「tady」と、方向を示す「sem」の違いがあるということを繰り返し繰り返し何度も説明されて、完璧にできるようになったとは言えないけど、重点的に勉強した。それなのに、チェコ語の方言の中には、この「tady」と「sem」を逆に使う方言があると言うのだ。それを知っていれば、間違えて怒られたときに、方言なんだよという言い訳が使えたのにと思うと悔しくてならない。師匠に言ったら、それに対して、「ほう、そうか、お前は、モラビアの人間ではなく、シレジアの人間なのか」と返されて、モラビア人でありたい私には反論できなくなりそうだけど。
3月23日18時30分。


2016年03月17日

複数の迷宮(三月十四日)


 チェコ語も、ほかのインド・ヨーロッパ系の言語と同じで、単数と複数をしっかり区別する。人称代名詞でも、私と私たちは別だし、一般の名詞でも単数と複数はそれぞれ別の格変化をする。名詞の前につく形容詞なども単数と複数では違った格変化をする。そして主語が単数か複数かで動詞の活用形も変わる。単数複数の概念があいまいな日本語で生きてきた人間にとっては、その区別をしっかり意識できるようになるだけでも大変だった。
 それでも、双数とか両数とか言われる形のあるスロベニア語に比べれば、ましといえるかもしれない。双数というのは、私、私たち二人、私たち三人以上というように、単数と複数の間に出てくる、二人だけのときの特別な形を言い、動詞の活用形が、チェコ語の六つから三つ増えて九つあるということになるらしい。
 しかし、この双数は、チェコ語にもないわけではない。動詞の活用には影響しないが、人間の体に二つあるもの、つまり目、耳、手、足の格変化に、両目、両手という場合の、「二つ」の特別な形があるのである。ただし、たとえば同じ「oko(=目)」という言葉を使っても、人間の目を指さない場合には、二つでも普通の複数形を使うというからややこしい。しかも、この双数の七格の語尾「-ma」が、口語的な表現では、複数七格の語尾「-mi」や「-y」の代わりに使われるようになっているので、時々どちらが正しいのかわからなくなる。

 そして、更に厄介なのが、数詞が加わった場合である。たとえば五人の男の人がいて、それを数を示さないで、「男たちがいる」と言えば、名詞は男の複数一格、動詞は三人称複数の形を使うことになる。これはいい。しかし、「五人の男がいる」と言おうとすると、名詞は男の複数二格、動詞は三人称単数の形を使わなければならないのだ。そして過去形にすると、動詞は中性の単数の過去形を使うことになる。
 チェコ語では、数詞がついた名詞は、一の場合はもちろん単数、二から四までは複数の扱いになり、性は名詞の本来の性で使う。しかし数が五以上の場合、それから「たくさん」という意味の言葉が付く場合には、名詞は複数二格となり、単数、名詞の本来の性が男性でも女性でも、中性扱いとなる。「五人の男がいる」と名詞の前に数詞が出てくる場合だけでなく、「男が五人いる」と後から数が出てくる場合にも、名詞を複数二格で使わなければならないので、数を使う場合には、事前に決めておかなければならないのである。
 この問題を解決するために、いや頭に叩き込むために、一時期は日本語で話すときでも、「一コルナ」「二コルニ」「三コルニ」「四コルニ」「五コルン」「六コルン」……と、チェコでの形に合わせて使っていた。日本語でチェコ語のまま使える名詞としては通貨ぐらいしかなかったので、あまり練習にはならなかったのだけど。
 この五以上が、複数二格で中性単数の扱いになるというのを覚えても、それで終わりではない。一格、二格、四格で使う場合には、名詞は複数二格でいいのだが、それ以外は複数の本来の格で使わなければいけない。これには苦しめられた。いや、今でも苦しめられている。五以上は複数二格という意識が強すぎて、数詞の格変化はできても、名詞を正しい格で使えないことが多いのだ。これは、いつまでたっても完璧にはできるようにならない予感もある。諦めたらそれでおしまいなのだけど。

 他にも、単数と複数で性が変わる名詞「dítě(=子供)」や、単数が存在せずに複数でしか使わない名詞「toalety(=トイレ)」などもあって、複数には悩まされ続けているのである。複数の各変化は、単数ほど書き込んでいないので、覚えきれていないというのも、原因の一つではあると思うのだけど。
 これからも、名詞の複数は間違えながら使っていくことになるのだろう。あーあ。
3月15日10時。



 このよた記事よりは、この本の方が役に立つと思う。3月16日追記。

チェコ語の隙間 [ 黒田竜之助 ]


2016年03月06日

チェコ語の目標(三月三日)



 昨日の記事は、読む人にはあまり意味のないものだっただろう。しかし、私にとっては書くべきことを思い出させてくれたという意味で有用な記事であった。その筆頭が、我がチェコ語におけるアイドルである。アイドルと書くとあれだから、題名は目標にしたが、会いに行ったりすることは考えず、遠くから聞いて、わあすごいと喜んでいるだけなのだからアイドルのほうがいいような気もする。

 かつて、といっても、まだ十年ほど前の話だが、アメリカのライス国務長官が、チェコに来たときには、中東欧の安全保障が専門でチェコ語もできるらしいといううわさが流れ、記者会見などでチェコ語で話してくれるのではないかという期待が巻き起こった。
 アメリカの国務長官といえば、オルブライトがチェコ語で話した記憶も新しく、今回もという期待があったのだ。オルブライトは、そもそもプラハで生まれ、ナチスの迫害を逃れて、戦後アメリカに亡命した人物なのだから、チェコ語ができて当然なのだ。真偽は確認していないが、ハベル大統領が生前、後継者の一人として擬していたという話もあったぐらいである。だから、ライス国務長官のチェコ語がどうであったか、結果についてはあえて書くまい。ずっと以前に日本の総理大臣が連れてきた本田技研のロボット、アシモのほうが評判を呼んだとだけ言っておこう。

 アメリカ人のチェコ語の研究者には、面白い人がいて、チェコ語で複数形を作る際に男性形と女性形があって、女性形を使うのは女性しかいない場合で、男性が一人でも入ってしまうと男性の複数形を使うことについて、男尊女卑的な言葉だと批判している。その論拠が、女性百人と男性名詞である蚊が一匹の場合でも、男性形を使うというものなのだが、「女性百人と蚊が一匹〜しました」なんていう状況を想定できるのだろうか。他にもプラハに一年以上も住んでいたのに、ネクタイという意味の「クラバタ」という言葉を知らずにいて、それに気づいた後で、どうしてチェコ人は「バーザンカ」というチェコ語起源の言葉を使わないんだと憤慨している人もいた。同一人物だったかもしれない。とまれ、どちらも冗談だと思いたい話ではある。
 だからアメリカ人は、という話ではなくて、アメリカ人でもこちらがびっくりするぐらいチェコ語ができる人はいる。時々チェコテレビに出て来て解説をしているアメリカ人記者のチェコ語は、一つ二つあれっと思う発音はあるけれども、非常にわかりやすくい外国人離れしたチェコ語で、自分もこのぐらい上手になりたいと思わせてくれる物であった。しかし、目標は高いほうがいい。では、誰を目標とするかというと、カンボジアの現国王陛下である。

 日本では父親のシアヌーク殿下(長いこと、この呼称が使われていたよなあ)のほうがはるかに有名であまり知名度が高くないようだが、シアヌークの息子に当たる現国王は、かつてプラハで勉強をしていたこともあって、信じられないほどにチェコ語が流暢である。歓迎の記念セレモニーで、「私は感激しております」だったか、「私のとってこの場に立てることは光栄なことであります」だったか、チェコ語であいさつを始めたとき、チェコ人は狂喜の渦に巻き込まれた。ハプスブルク家以後、王を持たないこの国に、外国からこの国の言葉、チェコ語で話せる王様がやってきたのだ。外国人排斥論者の連中も喜んだのではないかとみている。
 国王の次に話した当時の大統領バーツラフ・クラウスのしゃべり方が、いつもののらりくらりというか、のんべんだらりというか、締まりのないだらしないものだったこともあって、カンボジア国王のチェコ語のほうが綺麗なんじゃないかと思ってしまった。そして、勝手ながら我がチェコ語の目標、最近は勉強していないからアイドルとして認定させていただいたのである。この時期、この件について、各方面に吹聴して回って、顰蹙を買ってしまったかもしれない。申し訳ない。

 陛下は、1962年から十年以上プラハで勉強したが、特に当時のチェコスロバキアでの勉強を希望していたわけではないらしい。十歳になる前にプラハで勉強したいと言える子供はいないだろう。実は、社会主義的な政策を取っていたシアヌーク殿下が東欧各国の大使館に打診したところ、ちゃんと返事が返ってきたのがチェコスロバキア大使館だけだったらしい。その結果、政府からの奨学金をもらって、プラハで初等教育の段階から高等教育まで勉強し続けることになったわけだが、こういう話を聞くと、旧共産圏、東側諸国の政策というのも完全に一枚岩ではなかったのだということと、チェコスロバキアという国の懐の深さを感じさせられる。
 当初は、プラハのカンボジア大使館から学校に通っていたが、1970年に、芸術専門高校に通っていたころ、クーデターでシアヌーク殿下が失脚すると、大使館に住めなくなってしまい、最初に通っていた小学校の校長先生の家に下宿させてもらうことになったらしい。芸術大学での勉強を終えた1975年に、一か月の予定でカンボジアに一時帰国した際に、政権を握ったクメール・ルージュにとらえられ水田での強制労働に従事させられたという。芸術大学の卒業式を理由に何とかカンボジアを出る許可を取って、プラハに戻ってきたものの、北朝鮮に向かうことになり、三度、チェコに戻ってくるまでには三十年以上の月日を閲しなければならなかったのである。

 当時の記憶と、チェコ語版ウィキペディアの記載を参考に書いてみたけど、これ以上詳しいことは私には無理なので、誰かカンボジア研究者が、このあたりを研究して日本語で発表してくれるとうれしい。一度謁見の栄を賜り、チェコ語でお話させていただきたいという夢はあるけれども、自らのチェコ語を磨くためにも、夢は夢のままにしておきたい。
3月3日14時。



 恐れ多いことではあるが、陛下のご尊顔を。3月5日追記。


カンボジア 500 riels ノロドム・シハモニ国王/つばさ橋(ネアックルン橋)と絆橋(日本国旗あり) 2014年


2016年02月24日

名字の迷宮(二月廿一日)



 ブリュックナー、ワーグナー、シューベルト、シュバルツ、シュタイナー、シュルツ、思いつくままに挙げてみたが、これは、ドイツ人ではなく、チェコ人の名字である。ドイツ語の表記そのままの場合もあれば、チェコ語風に表記が改まっているものも、両方が混じっているものもあるのだが、チェコには、ドイツ語の名字を持つ人の数が非常に多い。シュタイナーがシュタイネルとなるなど、微妙に読み方が変わっている場合もある。チェコ語の復興に尽力したユングマンもそうだったように、十九世紀以前のチェコの都市部でははドイツ化が進んでおり、ドイツ人の割合が高く、チェコ人の中にもドイツ語で生活をしている人たちは多かったのだ。
 逆に、オーストリアには、チェコ語の名字を持つ人も結構いて、その多くはハプスブルクの時代に、ウィーンに出稼ぎに出てそのまま残った人たちの子孫だと言う。以前、オーストリアのテレビドラマを見ていたら、Kuceraという名字の人物が出てきて、チェコ語の名字であることに気づいた人が「クチェラさん」と呼びかけたら、「クツェラです」と訂正していた。そこに自分はチェコ人ではないという意識を見てもあながち間違いではないだろう。その一方で、ウィーンには共産主義の時代に亡命して定着した人々もいるので、街中の看板にチェコ語、チェコ語のチャールカ(´)やハーチェク(ˇ)のついた名字を見ることがあって楽しいのだが、この人たちはおそらく自らをまだチェコ人とみなしているのだろう。
 最近は遺伝子分析で、チェコ人はスラブ人なのか、ゲルマン人なのか、ケルト人なのかなんて研究も行われているみたいであるが、多くの民族が行き来したこのチェコの地で、遺伝子的にも文化的にも民族というものを規定するのは難しいことである。第一次世界大戦後の民族自決という考え方は、非常に美しい理想ではあったけれども、現実には実現の困難な机上の空論に近かったのだと、かなりの反省と共に実感させられている。

 ところで、チェコ人の名字には、外国人を指す言葉が使われているものがある。言葉が使えない者という意味であったらしいニェメツは、言葉の通じない隣人のドイツ人をさす言葉になっているが、名字としても使われるのである。皮肉なのは、チェコを代表する作家でチェコの民衆の間に残る民話を集める仕事もしたボジェナ・ニェムツォバーの名字がドイツ人であることだ。他にもポラーク(ポーランド人)、スロバーク(スロバキア人)、ラクシャン(オーストリア人)、スルプ(セルビア人)など近隣の民族名を名字にする人たちもいる。ハンガリー人は、一般的なマジャルだけでなく、古い呼び名のウヘルという形の名字も存在している。それから、フランツォウス(フランス人)、シュパニェル(スペイン人)という少し離れた国の人が名字になっているのは、ナポレオン戦争のときに、フランス軍の一員としてチェコにやってきてそのまま定着してしまった人たちの子孫だろうか。
 そういえば、ハンガリーの水泳の選手にチェフという名字の選手がいた。チェコにいるチェフ(チェコ人)と書き方は違うが、これもおそらく民族名を基にした名字ということになるのだろう。以前、小説でスペインだか、ポルトガルだかには、日本という意味の言葉を名字とする日本人の子孫だと伝えられている人たちがいるという話を読んだことがある。現在ではそんな名字の付け方はしないのだろうが、出身国や民族を識別のために名字のように使用するというのは、かつては一般的だったのかもしれない。古代日本でも渡来人の「秦氏」は、中国の秦王朝の生き残りだという話があったなあ。

 また、本来は名前として使われるものが名字になっている人もいる。その結果、パバル・パベルとか、ペトル・パベルとか、ヤン・ヤヌー(ヤンの複数二格)とか、不思議な名前が出来上がってしまう。日本だと「玉木環」さんとかいそうだけれども、漢字のおかげで読む限りにおいてはそれほど違和感を感じずにすむが、この手のチェコ人の名前がローマ字やカタカナで書かれているとセカンドネームなのかななどと考えてしまう。
 チェコの典型的な名字の一つに、モラビアに多いと言われている動詞の過去形がそのまま名字になったものがある。テニス選手のナブラーティロバーも、男性形はナブラーティルで、「L」でおわる動詞の過去分詞形ということになる。ちなみに動詞ナブラーティットは、「元に戻す」という意味である。他にもビスコチル、ネイェドル、ポスピーシルなどなど。どういう事情でそんな名字が出来上がったのか、物語の一つでもありそうである。
 二つ以上の言葉を組み合わせて作られた名字も紹介しておこう。以前オロモウツの中央駅の切符売り場に、ビータームバーソバーさんという方がいた。窓口に表示されている名前を見ただけで話したことなどはないのだが、この方の名字の男性形はビータームバースで、日本語に訳すと「ようこそ」とか、「みなさまを歓迎します」という意味になってしまう。ネイェスフレバさんは、「パンは食べるな」という意味になるし、スコチドポレさんは、「畑に跳びこめ」という意味になるのである。これも名字の起源について調べたら面白そうである。

 以前、チェコテレビのニュースのリポーターに、バコバーさんという人がいた。友人達と男性形は「バク」か「バカ」か「バコ」のどれなのだろうという話をしていたら、調べてくれた人がいて、どうも「バカ」さんらしい。さらに「バカ」という村があることまで判明して、なんだか申し訳ないような気持ちになった。関係者には日本人と関わらないことを勧めておこう。そして、昔チェコ語を勉強していたころに同じ授業に出ていたシャシンコバー(シャシンカの女性形)さんには、ぜひ兄弟に日本語を勉強させて、日本でカメラマンとして仕事をさせて欲しいところである。
2月22日12時30分。



 チェコにもこの手の本、辞書があったりするのだろうか。読んでみたいような、みなくないような。2月23日追記。


全国名字大辞典 [ 森岡浩 ]


タグ:名詞 名字 人名

2016年02月12日

我がチェコ語学習の記(二月九日)



 二十年以上も前の話になるが、初めてチェコ語を勉強しようと思って購入した教科書は、旧版の『エクスプレスチェコ語』だった。著者は日本のチェコ語界では並ぶものがないぐらい高く評価された方だったが、この教科書は外国語アレルギーのある私にはまったく合わなかった。ものすごく早い段階で、時制の問題、未来形などが出てきて、英語も時制でつまづいた私にはついていけなかった。日本語、特に古文、漢文に関しては、文法オタクの毛があって国語文法の範囲内なら、どんな文法用語がでてきても楽しめるのだが、外国語の文法用語は日本語で書いてあってもお手上げ状態だったのだ。
 それで、この教科書は本棚の肥やしとなり、数年間省みられることはなかったのだが、ある日チェコ語を勉強しようという意欲が高まり、せっかく教科書があるのだから使おう、読んでもよくわからないから耳から入ろうということで附属のカセットテープ(CDにあらず)を注文した。すると、届いたのは新版のほうのカセットテープで、新版が出版されていることを知って、慌てて書店に向かったのだった。新版は、文法事項の配列がきわめて穏当なものだったので、何とか私にも使えそうだった。

 チェコ語の勉強を始めるに当たって考えたのは、中学校で英語を勉強し始めたときのことを反面教師にすることだった。小学校や中学校であまり勉強しなくてもそれなりの成績を残せていたので、自分は頭がいいんだという誤解をしてしまった。その結果、基礎よりも応用を求め、最小限の努力で最大の効果を求めるという勉強の仕方をするようになってしまったのだ。英語以外は小学校からの蓄積があったおかげで、それでも何とがごまかせていたのだが、英語だけはごまかせず、成績は下降線をたどり、平均点を取れるか取れないかというあたりに落ち着いてしまった。その結果、高校に入ってからも、大学入試でも非常に苦労させられ、大学に入ったときにはもう顔も見たくないと思うほどだった。
 だから、チェコ語を勉強するために、とにかく基礎は覚える。無理やりにでも頭に詰め込む。読むだけでは覚えても忘れそうだから、全部書く、繰り返し書くというのを自分に課すことにした。名詞や形容詞の格変化も、動詞の活用も、覚えたと確信できるまで繰り返し書いた。覚えた後も確認のために何度か書いてみて、間違えた部分があったらまた何度も書いた。一番たくさん書いたのは、男性名詞不活動体の硬変化hrad(城)の単数の変化だろう。複数が出てきたときも念のために単数の変化を書いてから複数の変化を書いたし。そのおかげでこれだけは間違えないという自信がある。一方、書いた回数が比較的少ない中性名詞の特殊変化などは、今でもあやふやになることがあって、ときどき教科書や辞書で確認する必要がある。いや、しないことも多いけど。
 そのやり方でじっくりと時間をかけて、エクスプレスを20課まで終わらせたのだが、答の得られない疑問点が山のように出てきてしまった。これは、できるだけ簡潔に易しくという教科書のコンセプト上仕方がないことなのだろう。

 そこで、『チェコ語初級』に移行したのだが、こちらはもう、例外事項まで事細かに説明がされていて、一課から順番に疑問点を解消しながら、同じようにひたすら書くことで勉強を進めていった。
 エクスプレスにもお世話になったのは確かであるが、やはり我がチェコ語の基礎は『チェコ語初級』によって築かれたと言いたい。エクスプレスはなくても何とかなったと思えるが、『チェコ語初級』がなかったら、私のチェコ語はものにならなかったと断言できる。新しい言葉の勉強を始めやすいように、内容も量も絞って、簡単さを強調する教科書が巷にあふれている中、これだけ内容も説明も濃厚な教科書が出版されたと言うだけでも偉業である。著者と出版社に感謝を捧げておきたい。
 その後、友人が発見して教えてくれた出版社の大学書林がやっている語学学校に通って、チェコ人の先生と日本人の先生に直接習い、質問することで、さらなる疑問点を解決することができたし、チェコ語のサマースクールに対して、日本のチェコ大使館が奨学金を出していることも知ることができた。運よくサマースクール用の奨学金がもらえることになって、チェコ移住への第一歩を踏み出すことになったのである。サマースクール以後のことは、長くなったし、またいずれということにしよう。

 思い返してみると、基本的な知識を何度も繰り返して書くことで頭に詰め込む勉強をしたのは、中学時代のことだった。毎年夏休みの宿題に、国語の教科書に出てくる新出漢字、新出語彙をノート一冊分書くと言う課題が出ていた。当時はいやいややっていたのだが、そのおかげできれいに書けるかどうかはともかく、漢字の読み書きで苦労したことはない。いやいやながらも毎年やり遂げていたのだから合った勉強法ではあったのだろう。それにもかかわらず、英語の勉強にこの方法を取り入れなかったのは、その効果に気づいたのが大学に入ってからだったからだ。高校時代に面倒くさいと抵抗しながらもいつの間にか頭に詰め込んでいた、古典文法の活用も、漢文の訓読の基礎も大学での勉強に非常に役に立ったし、詰め込み式の勉強はよくないという、どこで身に付けたのかも思い出せない固定観念は完全に払拭されていた。
 大学では、英語教育がいい加減だったのと今更勉強する気にもなれなかったのとで、英語を一から詰め込み勉強なんてことはしなかったが、チェコ語を勉強しようと決意したときに、勉強法として詰め込み法を選んだのは、必然だった。
 時々、英語もチェコ語のように勉強していたらできるようになっていただろうかと考えることがあるのだが、どうだろう。英語とは相性が悪かったからなあ。とまれ、英語ができるようになっていたら、チェコ語の勉強を始めることはなかっただろうから、どちらもできるようになるという結果には絶対になっていないはずだ。どちらかを選ぶのなら、断然チェコ語なので、英語ができるようにならなかったのは私にとっては、幸運で幸せなことであったのだ。
2月10日23時。



 こんなカバーではなかったと思うのだけど、お世話になりました。私が使ったのには結構誤植があったので、直っていることを期待したい。2月11日追記。


ニューエクスプレスチェコ語 [ 保川亜矢子 ]



2016年02月06日

いんちきチェコ語講座(四) 場所を表す前置詞



 まだ名詞について書いておきたいこともあるのだが、うまくまとまらないので、先に書きやすそうな、いちゃもんを付けたいことが山ほどあるこのテーマから書いてしまうことにする。いや考え方によっては、この問題も名詞の問題だといえるのである。

 日本語において場所を表すのに、助詞の「で」を使う場合と、「に」を使う場合があるように、チェコ語でも前置詞の「v」を使う場合と、「na」を使う場合がある。どちらも後に来る名詞は六格をとる。
 日本語の場合、「で」と「に」のどちらを使うかを決めるのは動詞である。動作のある動詞は「で」で、動作でなく存在を表す動詞には「に」を使うなどと言われるが、ちょっと考えただけでも、そんな説明で割り切れるものではないことはわかるだろう。
 チェコ語の場合に、決定権を持つのは前置詞の後にくる名詞である。全体的に見ると「v」をとるものの方が多い印象だが、「na」を使うものにも重要な場所がたくさんあり、しっかり覚えなければならない。例えば、普通の名詞であれば、広場、郵便局、駅、トイレ、小学校、高校、大学、島など、地名ではスロバキア、ウクライナ、マルタ、モラビア、ハナー地方などが、「na」を取る名詞となる。
 チェコ語を勉強して身につけた外国人の目には、そこに何らかのルールがあるようには見えないのだが、チェコ人は、わが師匠も含めてルールがあると言う。壁があって屋根があるような場所、つまり建物の中の場合には「v」を使って、そうではない開放的な場所の場合には「na」なのだそうだ。
 なるほど、広場は建物に囲まれてはいても屋根はないから「na」なのだといわれると、通りや道も屋根がないから「na」なのかなと想像できなくはない。アーケードのある商店街はどうなんだと聞きたくなったが、チェコには日本的なアーケードがないので我慢した。郵便局は、今では建物の中で作業しているけど、以前は中庭のような屋根のないところで郵便物の仕分けをしていたから「na」で、駅は昔は駅舎なんかなくて、線路とホームがあっただけだから「na」なのだと言われると納得してしまいそうになる。
 しかし、そんなのはみんな後付けの理由なのだから、納得してはいけない。この論理で行くのなら、その昔チェコのトイレは、建物の中にはなく野ざらしだったことになるのだから。シベリアほどではないにしても、このチェコの冬の寒さでそれはありえないだろう。師匠は女性なので、こんな尾篭なネタで反論するわけにもいかず、野ざらしというのがチェコ語で言えなかったというのもあるけど、反撃には、別の言葉を使うことにした。
 基礎学校(小中学校が一緒になったようなもの)、高校、大学が「na」を取るのだと聞けば、それらをまとめた学校も「na」をとると思うのが普通であろう。しかし、学校の前に来る前置詞は「v」なのだ。同じ学校なのにどうして違うのか質問をすると、学校という言葉には建物を感じるけど、高校などには感じないというのだ。そんなチェコ人にしか感じられないようなものをルールにされても、外国人としては困るしかない。
 しかし、日本人もあまりチェコ人のことを悪くは言えない。助詞の「で」と「に」の区別に関しては、何かのルールに基づいてというよりは、感覚で判断しているはずである。「外国で勉強する」なのに、「外国に留学する」である理由は、文法的なルールではない。あえて言えば、「留学」の「留」は、訓読みでは「とどまる」で、とどまるが「に」を取るから「留学する」も「に」を取るとは言えるが、ではなぜ「とどまる」は、「に」なのかと聞かれたらうまく答えられない。
 「で」と「に」、「v」と「na」の使い分けに、明確なルールが存在しないことを非難するつもりは毛頭ない。理論が先にあって言葉が作られたのではなく、実際に使われている言葉を元に、文法的なルールが帰納的に導きだされるものであることを考えると、ルール化できない、四の五の言わずに覚えるしかない部分が存在するのは当然である。やめてくれといいたいのは、例外だらけでルールにならないものをルールだと言い張ることである。師匠は外国人に教えた経験も豊富な優秀な先生だったが、それでも「v」と「na」の違いは所与のルールであるかのように説明していたからなあ。あれこれ質問を繰り返して、師匠の言うルールが外国人には受け入れづらいものであることは納得してもらえたけど、その過程で、「v」と「na」の使い分けの間違いが激減したのは確かだから、師匠の手のひらの上で踊っていただけなのかもしれない。

 ついでなので、他の納得できない例も挙げておくと、例えばウクライナやスロバキアが、「na」を取る理由として、両国は歴史上独立国ではなく、別な国の一部であった期間が長いからだと説明される。その証拠として、チェコの一部であるモラビアも、「na」を取るでしょと話が続くのだが、実はこれも駄目な説明である。なぜなら同じチェコの一部であるチェヒ(=ボヘミア)とシレジアは「v」を取るのだから。おそらくは歴史上、王国であったとか、公国であったとか、伯爵領であったとか、そういうことが関係しているのだろうとは思う。しかし高々、前置詞の使い分けを覚えるために、複雑怪奇きわまる近代以前のヨーロッパの歴史、しかも個々の地域の歴史なんか勉強する気にはなれない。
 それから、マルタが「na」を取る理由は、同じく「na」を取る島でできた国だからといわれる。アイスランドやグリーンランドが「na」なのも同じ理由だという。しかし、待たれたい。日本やイギリスだって立派な島国だが、前置詞は「v」なのである。そして師匠自信が認めていたのが、アメリカの州で、それぞれに「v」か「na」か決まっているらしいのだが、そこに何かの規則性を見出すのは、師匠にもできないという。それならハナっから、そういうものだから覚えろと言われたほうがはるかにましである。
 チェコ語の「v」と「na」で困っている人は、上に挙げた例を使って先生に質問してみて欲しい。勝てることは請け合いである。もっとも勝てたからといって、それがチェコ語の能力の向上にはつながらないのだけど。

2月4日23時30分。




 こういう基礎を教える本で、すべての場所を示す名詞に、「v」を取るのか、「na」を取るのか明記してくれると、楽なんだけど。いや「na」を取るものだけ注記すればそれでいいのかな。それにしてもチェコ語の教材が増えているのにびっくり。いい時代になったものだ。2月5日追記。



チェコ語の基本 [ 金指久美子 ]


2016年01月30日

あだ名の罠(一月廿七日)


 チェコの人は、もちろん本名はあるのだが、日常生活、つまり友人同士、家族内では、戸籍上の本名ではなくあだ名のようなものを使っていることが多い。チェコ人に言わせるとそのあだ名は、名前からある程度規則的に作られると言うのだが、その規則的と言うのは日本の場合の名前や名字の最初の二文字をとって、それにちゃんだの何だのをつけるという意味での規則性ではなく、それぞれの名前には、あだ名として使えるものがいくつかあって、その結びつきを無視してあだ名にすることはできないと言う意味での規則性なので、知らない人には想像もつかないあだ名になることがある。これに関しては特別な辞書もあるという話なので、一般的に使われるものを除けば、チェコ人にとってもすべてを把握できているものではないようだ。
 例えば、アナからアニチカ、カミラからカムチャなどというのは、少なくとも最初の部分は同じなので、まだ想像がつくというか、言われれば納得するのだが、言われても納得できないものもあるのである。
 昔まだ真面目にチェコ語の勉強をしていたころ、こんなことがあった。図書館で勉強という名目でチェコ語の新聞を読んでいると、知り合いの女の子に、「そういえば、イジーから聞いたんだけど」と言われたのだが、知り合いにはイジーなんて男はいなかったので、誰のことかまったく思い浮かばなかった。大して重要な人名ではないだろうからと、とりあえずそのままにして話を続けたのだが、その後も「イジーが、イジーが」と、さもこちらが知っているのは当然といわんばかりにその名前を連呼するので、たまりかねて質問した。
「ごめん、そのイジーって誰? まったくわからないんだけど」
 彼女は一瞬驚いたような顔をして笑いながら説明をしてくれた。イジーというのは正式な名前で、もしかしたらあだ名で「イルカ」とか「ユラ」とか名乗っているかもしれないというのだ。どちらも正式な名前だと思っていたのと、日本語の感覚で考えていて「イ」と「ユ」が同じ子音だという意識も、「ル」と「ジ(ŘI)」が関連する子音だいう意識も持てなかったせいで、イジーとイルカ、イジーとユラはもちろん、イルカとユラにも関連があるとは想像もできなかったのだ。今から考えると元凶はあだ名をさも本名であるかのように伝えたイジー本人に他ならないのだが。
 この手の厄介なあだ名で一番有名なのは、ヤンのあだ名がホンザになることだろうか。これは更に指小形となって、ホンジーク、ホンジーチェクと形を変えるのだが、どうしてホンザになるのかと聞くと、ドイツ語からきているのだと答えが返ってくる。ドイツ語のヤンに当たる名前は、ハンスでそのハンスからホンザが生まれたというのだが、それでは一体なぜ、わざわざドイツ語からあだ名を取り入れる必要があったのかという質問には答が返ってこない。それに、ドイツ語にはヨハネスという名前もあるけど、これはヤンと関係ないのだろうか。以前のローマ法王のヨハネ・パウロ二世は、チェコではヤン・パベル二世になったはずだから、関係はありそうである。
 イタリア語を起源とすると言われるあだ名もある。ペパというのは、ヨゼフのあだ名のバリエーションの一つなのだが、これがなぜかイタリア語から来たものだと言うのである。ほかにも、ペピン、ペピーノ、ぺピークなどなど、すべてイタリア語起源らしいヨゼフのあだ名なのである。ちなみにアメリカ産のアニメ、ほうれん草を食べて力を出すポパイは、チェコ語ではぺピークになる。ということは、ポパイの本名は、ヨゼフ、いや英語読みのジョーゼフになるのだろうか。なんだかイメージに合わない。
 以前、お酒を飲んでいるときに、突然「おい、カレル」と呼びかけられて、自分が呼ばれているとは思えなくて反応できなかったことがある。その前から酔っ払って呂律の怪しくなった連中が日本語の発音ができなくなって、カレルのあだ名である「カーヤ」と言いはじめていたのには気づいていた。しかしそこからさかのぼって「カレル」と呼ばれるとは……。本名は、ものすごく発音をしそこなえば、カーヤになることも万が一にはあるかもしれないねというものなのだが、「カレル」と呼ばれるのも、「カーヤ」と呼ばれるのも、辞退申し上げる。何が悲しくて、「神のカーヤ」と呼ばれる、おば様方の永遠のアイドル、カレル・ゴットと同じあだ名で呼ばれなければならないのだろうか。そんなのは恐れ多くて……。
 最近は、私の前で使う名前を、あだ名でも本名でもどっちでもいいから、一つ決めろと周囲に要求しているのと、こちらがあだ名の状況を把握したのとで、問題は起こらなくなったが、こうして考えるとチェコ語というのは初心者にはつらい言葉なのかもしれない。人の名前一つでこれなのだから。壁を乗り越えると楽になるのだが、そこまで行くのが大変なのだ。

1月27日0時30分




 この本には名前についての説明もあるかな? 1月29日追記。


チェコ語の基本 [ 金指久美子 ]


2016年01月21日

いんちきチェコ語講座(三) 名詞の格変化(一月十八日)


 大学で勉強したドイツ語の名詞の格変化は四つだったが、チェコ語は七つもある。単数と複数の違いもあるので、十四種類も覚えなければならない。いや物によっては双数という二つの時にだけ使う特別な形もある。しかも格変化の種類がいくつもあって、それぞれの種類ごとに覚えなければならない。こんなことを書くと、チェコ語を勉強する人の気が知れないと思う人もいるかもしれない。チェコ語を勉強しようと決める前の私でも、同じようなことを感じただろう。しかし、格変化を大体覚えてしまった現在では、格変化があるのは幸せなことだと思う。
 以前にもどこかに書いたが、格変化は日本語の助詞のようなものだと考えればいいのである。1格は「は」か「が」、2格は語順は変わるけど「の」、3格は「に」、4格は「を」、5格は古めかしいけど「よ」、6格は前置詞と一緒に使うから省略して、7格は「で」をつけるようなものだと考えれば、日本人には抵抗なく使えるのではないだろうか。
 日本語が助詞の存在によって、語順が比較的自由で、文節を入れかえることでさまざまなニュアンスを表現できるように、チェコ語も格変化のおかげで比較的語順が自由なので、ある程度までは考えた順番に話していくことができる。一度、連体修飾節も含めてできる限りの手を尽くして、日本語とほぼ同じ語順になるように作文をして師匠に見てもらったら、十九世紀のチェコ語っぽいなあと笑われたことがある。そのものではなく、「っぽい」というところがあれではあるが。いずれにせよ、英語を勉強していたころの、語順に気を使うあまり自分が何を話しているか、書いているかわからなくなってしまうという心配はしなくていいのである。
 それに、単複合わせて14、双数形のあるものは21の変化形を覚えなければならないとは言っても、格変化の種類によっては単数の1格と4格が同じだったり、3格と6格が同じだったりするし、また複数はどの変化でも1格、4格と5格が同じ形になるので、ひとつの格変化について14の変化形を覚えなければならないというわけではない。
 問題なのは、日本語の場合には名詞がどんな名詞であっても、つける助詞は変わらないが、チェコ語の場合には名詞の種類によって付けるものが変わり、同じものをつけても同じ格にはならないことがある点である。何もつけない場合や、末尾の母音を取ってから別の母音を付ける場合もあるのだけれども。例えば、語尾に「u」をつけると、男性名詞の不活動体硬変化の場合には、単数の2格、3格、6格になるのに対して、女性名詞硬変化の場合には単数4格、中性名詞硬変化の場合には単数の3格と6格を表すことになる。これだけ「u」を使う変化形が多いと言うことは、名詞の性にかかわらず硬変化の名詞が一番多いのだから、何をつけていいかわからなくなったら、とりあえず「u」をつけておけば当たる可能性が高いと言うことでもあるのだ。だから、合言葉は、困ったときの「u」なのである。
 自分が使うときには、それでいいのだが、理解しなければいけないときにちょっと困ってしまう。大抵は前についている形容詞の形、使われている動詞などからわかるのだが、一度とんでもない勘違いをしたことがある。スメタナの『我が祖国』は、チェコ語にすると「Má vlast」である。まだ初学の頃の話だが、「vlast」が女性名詞の特殊変化で1格と4格が同じだということがわかったとき、私は正直勝ったと思ったのだ。でも「má」がわからない。当時知っていた「má」は持つと言う意味の動詞の三人称単数の形だけで、文法的には「vlast」を4格で理解すれば、「彼は祖国を持つ」と訳せなくはないけれども、そこからどうすれば『我が祖国』にたどり着けるのかさっぱりわからなかった。実はこの「má」は、「私の」という意味の「můj」が女性名詞の単数につくときの1格の古い形で、「vlast」はもちろん、4格なんかではなく、1格だったのだ。畜生ということで、それからは、「můj」を女性名詞の前で使うときには、一般的な「moje」ではなく、「má」を使うようになってしまった。

 格変化で私が一番苦労させられたのは、ここまで数字を使って1格、2格と書いてきたことからも想像できるかもしれないが、それぞれの格の名称である。初めてチェコ語のサマースクールに参加する前に、当時日本で教わっていたチェコ語の先生に、1格から7格までの順序数詞を使った言い方を教えてもらってはいたのだ。しかし、サマースクールで先生たちはそんな簡単な表現は使ってくれなかった。日本語でも主格、生格などと言うこともあるように、ノミナティフ、ゲネティフ、ダティフ、アクザティフ、ヴォカティフ、ロカール、インストゥルメンタール(全部書いてしまった)というそれまで見たことも聞いたこともなかった言葉が、先生の口から出てきてもう大変。同級生達はそれをさも当然のように受け入れいているし、さらには疑問詞の「何」、「誰」の格変化を使って、動詞の後に来る形の確認をする学生達も出てきて、疑問詞の格変化なんか覚えていなかった私は、心の中でやめてくれーと叫びながら、必死で辞書(もちろん日本語のもの)の格変化のページを開いて、何格なのかの確認をしていたのだった。
 疑問詞の格変化も、ノミナティフ以下も覚えてしまった今となっては、笑って済ませられるいい思い出だけれども、当時は泣きたくなるぐらい苦しかったのを思い出す。これだけ苦労して勉強したんだからできるはずだとか、これだけ勉強してもできないのはチェコ語が悪いんだとか、開き直れるようになったので、チェコ語を使う際には大いに役に立っている。どんな言葉でも、やはり語学と言うのは、苦しんで身につけるものなのだ。英語? 英語ではここまで必死に勉強したことはないから、できなくても当然で、できないのは自分が悪いのだ。多分。

1月19日10時




 この本が日本語で読めるようになったのは、幸せなことである。1月20日追記。


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タグ:名詞 格変化

2016年01月20日

日本語におけるチェコ人の人名表記について(一月十七日)


 かつて、チャースラフスカーはチャスラフスカで、ナブラーチロバーはナブラチロワ、ドボジャークはドボルザークだった。アメリカ以外の外国の情報がほとんどなく、どこの国の人であれ、とりあえず英語での読み方をまねしておけばよかった時代ならこれでもよかったのだろうが、そんな時代はとっくに終わり、日本にもチェコ語ができる人がいて、チェコに旅行する日本人も多くなった現在、チェコ人の人名のカタカナ表記にもう少し気を使ってもらえないものだろうか。確かに、100パーセントチェコ語と同じ発音になるような表記ができる名前は少ないが、見ても聞いても誰のことだかわからないような表記を使って平然としているのは、プロとして犯罪的であるだろう。
 チェコはそれほど有力な国家ではないので、政治や経済のニュースでチェコ人の名前が日本の紙面を飾ることは滅多になく、またそういう記事の場合にはチェコに関係する人たちが書くことが多いので、それほど変な表記を見た記憶はない。一番問題なのは、チェコ人が世界各地で活躍しているスポーツ関係である。
 世界最大のスポーツであるサッカーは比較的まともである。以前はペトル・チェフが「ツェフ」と書かれているのを散見したものだが、最近は見かけないし、リバプールで活躍し「スミチェル」と書かれることの多かったシュミツルは引退して表に出てこなくなって変な表記のしようがなくなったし、せいぜい音引きの有無が問題になるぐらいで、おおむね許容範囲にあると言っていい。もしかしたら、最近はチェコの選手がヨーロッパの有力リーグで活躍していないために、チェコ人の名前そのものが日本の新聞記事に出る回数が減っているからかもしれないのだが。そういえば、以前オロモウツを「オロムーチ」とか誤記した雑誌の記事を見て憤慨したことがあったけど、最近うちのチームは、チェコリーグでもぱっとしないので日本の新聞に載ることなんてないだろうし。
 それに対して、テニスは酷い。比較的まともな男子選手から行くと「ベルディハ」と書かれることのある選手だが、この人の名字の最後の子音は、日本語の「ヒ」の子音とほぼ同じなので「ベルディヒ」か、子音単独の音の場合にはウ段の音で表記することの多い日本語の特性を考えて「ベルディフ」と書くのがいいと思うのだが。もっとも、英語風の発音をそのまま写した「バーディッチ」とか「ベルディッチ」に比べれば「ベルディハ」でもはるかにマシなのだが、「ベルディッチ」なんて書くところないよね。
 それから、「ジリ・ベズリ」という名前を見て、ぎょっとしたことがある。チェコ語のJはヤ行の音であることを知っている私は、ちょっと考えて、これはイジー・ベセリーのことだと気づいたのだが、そんな人はほとんどいないだろう。
 女子選手の場合はもっとひどい。チェコ人の女性の名字は「オバー」(表記の仕方によっては「オヴァー」)で終わることが多いのだが、一時期「ワ」で終わる表記をしばしば見かけた。これではロシア人の名字である。酷いものになると同じ記事中で、同じチェコ人なのに「ワ」でおわるのと「バ」で終わるのが混在しているのまであった。
 そして、ある選手名一覧の記事で「ルーシー・サファロワ」という選手の名前を見て、横にチェコの国旗がついているのが間違いで、ロシアの選手だろうと思ってしまったことがある。実際はルツィエ・シャファージョバーのことだったのだが、こういう表記をされると、その媒体そのものが信用できなくなるし、記事を読む気も失せるのである。
 もう一人、自転車のロードレースの記事で「クルージガー」という名前を見たときにも、目を疑った。ドイツ語起源のこのチェコの名字は、クロイツィグルと書くのが一番チェコ語での読みに近いのだが、せめて他の雑誌が使っていた「クロイツィゲル」にしてほしかった。その前に、「クルージガー」と「クロイツィゲル」の二つの表記をみて、同じ名字だとわかる人はいるのだろうか。
 テニスや自転車レースは、若年世代から国外に出て活動することが多いため、選手達も英語風に名前を読まれてしまうことに慣れていて、いちいち目くじらを立てないのかもしれないが、雑誌や新聞で取材をする記者がそれに甘えていいのだろうか。サッカーのワールドカップのときなど、チェコテレビのアナウンサーたちは、アジアや南米などの名前の読み方がよくわからない国のテレビ局から来ている取材班のところに出かけていって、一つ一つ確認したと言っていた。日本のメディアに、それを期待するのは無理な話なのだろうか。それができなくても、チェコ語なら東京外大のチェコ語の先生に問い合わせるぐらいのことはしても罰は当たらないだろうに。2020年に行われるらしい東京オリンピックでは、チェコ人の名前がチェコ語風に読まれ書かれることを望みたいものである。

1月17日22時30分

 こんなことを書いた後に、テニスの全豪オープンの記事で「クヴィトバ」という表記を発見して開いた口がふさがらなかった。自社でVの音を、「バビブべボ」で書くことになっているのか、「ヴァヴィヴヴェヴォ」を使うことになっているのかぐらい確認しろよ。ちなみに、チェコ語ではKvitováである。1月19日追記



 ためしに大き目のを。1月19日追記。






2016年01月18日

いんちきチェコ語講座(二) 名詞(一月十五日)


 これから書くのは、チェコ語を勉強していて間違えたときの言い訳にはなりそうだけれども、チェコ語の勉強の役には立ちそうもない与太話なので、発音について書いたときとは題名を変えることにする。ただ続きではあるので「二」である。
 日本人がチェコ語を勉強するときに、一番最初にぶつかる山が、語彙の山である。英語と違って日本語に外来語として取り入れられた言葉がほとんどないチェコ語は、見ても聞いても想像もつかない言葉ばかりである。ただこれは、英語であっても最終的には覚えなければならない言葉は山のように出てくるのだから、何語を学ぶのであれ語学には、避けて通れない道である。
 昔、大学でドイツ語をちょっとだけかじったときに、名詞には性があって格変化というものが存在することを知って、どうしてこんな言葉を選んだんだろうと後悔したのだが(他の選択できた言葉、中国語、フランス語を選んでいたとしても別の理由で後悔していたに決まっているが)、チェコ語の名詞には、男性、女性、中性の区別があるのみならず、男性名詞はさらに、生きているもの、いわゆる活動体と、生きていない不活動体に区別されるのである。かつて活動体と不活動体の間違いを何度も指摘されて、自分が悪いのはわかっていながら、「どうして女性名詞には活動体がないの? 女性は生きていないってことなの」などと八つ当たり気味に師匠に質問して、困らせてしまったことがある。
 それからよくわからないのが、厳密に男性名詞、女性名詞を区別するのに、本来女性名詞であるはずの名詞が男性の姓として使われることである。有名どころを例としてあげておくと、交響詩『我が祖国』で有名なベドジフ・スメタナの姓、スメタナは本来、クリームを意味する女性名詞である。師匠の話では、まだ名字をもつことが一般的ではなかった時代に、その家で生産している物、売っている物を同名の人物の識別に使ったのが始まりではないかと言う。それで、師匠に、女性形がスメタナだったら、男性形はスメタンじゃないのと聞いたら、アホと怒られてしまった。
 もちろん、女性の名字は、原則として「オバー(ová)」で終わることは、チェコ語の勉強を始めてすぐに説明されるのでわかってはいるのである。しかし、これは男性、これは女性と、必死になって名詞の性を覚えようとしているところに、典型的な女性名詞の特徴であるア段でおわる名字が出てきたら、これは女性名詞だから、この人も女性だろうと思うのも無理はないと思う。私自身も、今でこそこんな間違いはしなくなったが、初学のころは名字だけ知らされた人のことをとっさに女性扱いして何度も笑われたものである。男性名詞、女性名詞を厳格に区別するのだったら、女性名詞を男性の名字にするときに、男性形を作り出してくれれば、私のような外国人が苦労せずにすんだのに。
 反対の例もある。ボレスラフというのは男の名前である。一番有名なのは、聖バーツラフを暗殺した弟のボレスラフであるが、この人物にちなんで名前の付けられた(と聞いたような気がする)暗殺の地スタラー・ボレスラフも、自動車会社シュコダの工場があるムラダー・ボレスラフも前に付けられた形容詞の形からわかるように女性名詞になっているのである。男性の名前が、地名になると女性名詞になる。何とも不思議な話である。

 そして、名詞の性、活動体、不活動体が判別できたからといって、格変化ができるわけではない。それぞれに硬変化、軟変化、特殊変化などいくつかの各変化の種類があって、さらに単数複数の区別があったり、複数でしか使われない名詞というのもあったりして、なかなかに大変なのである。ただ、格変化自体は、日本語で名詞に「てにをは」をつけるようなものだと思えば、それほど抵抗は感じない。覚えるのが大変だという事実が残るだけなのだが、これについては、稿を改めることにする。

1月16日12時





 せっかくやり方を覚えたので再度挑戦。この教科書、十課以降まで独学できた人は、学校に通ってチェコ語の勉強を刷る甲斐があると思う。イメージがないのが残念だけど、どうせチェコ語を勉強するなら、この教科書が一番いい。1月18日追記




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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



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