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2018年12月15日

医学部「不正」入試について(十二月十日)



 東京医大から始まった医学部入試の「不正」問題は、拡大を続け、地方の大学にも飛び火し、地元出身の受験生優遇や、編入試験における自学の卒業生の優遇にまで批判の矛先が向けられるようになっている。理解できないのは管轄官庁である文部省まで、マスコミに踊らされてこれらの事実を適切ではないと批判しているところである。医学部、もしくは医科大学が全国各地に設立された事情を考えれば、地元の受験生優遇というのは、当初は文部省の意を汲んで始められたものではなかったのかという疑念を禁じえない。

 また、医学部の入試以上に批判されるべき不公平な入試を認め導入を推進してきたのは文部省である。80年代の終わりには、すでに大学受験における推薦入試というものが、かなりいびつなものになっていたが、指定校推薦にしても、自己推薦にしても、少なくとも田舎の公立高校の人間から見れば不公平極まりないものだった。大学合格者の数を稼ぎたい高校にしてみれば、推薦入試で合格させるのは、学力優秀な学生ではなく、一般受験では合格の見込めない大学進学を希望する学生の方が都合がいい。ということで、真面目に勉強して好成績を維持していた学生、本来推薦されるべき学生には推薦は回ってこなかったのである。どういう事情で大学が指定校に指定するのかも不明だったし、推薦入試なんて怒りの対象でしかなかった。
 それに、私立大学には、付属校枠というものが存在していた(多分今もあるはず)。高校の成績上位者は推薦で受験なしで合格し、それよりも下の学生は優先入試と称して、入試の際にある程度下駄を履かせるという制度で、その下駄の高さが寄付金の額によって変わるなんて生臭い話もあった。その結果、普通に入試を受けたのでは合格できないような学生が、何人も、いや何十人も合格していたのである。こちらはまだ、附属の私立高校に高い学費を払ったという実績があるから、許せなくもなかったけど、不公平感がなかったわけではない。スポーツ推薦で体育学部以外のスポーツとは何ら関係のない学部に入れるのも、変な話といえば変な話である。

 各地の医学部の入試のあり方を不正だと糾弾するなら、この手の推薦入試、優先入試も批判の対象とするべきであろう。そもそも、文部省が大学入試において、推薦入試、ことに自己推薦だの、一芸入試だの意味不明な推薦制度を導入し推進したのは、単なる学力テストに過ぎない入試では計りきれないものがあるというのが建前ではなかったのか。その計りきれないものの中に、地元出身で地元の医療に貢献する可能性が高いというものが入っていたとしても、浪人せずに現役で合否のボーダーラインまで成績を上げたというのが入っていても、特に非難するには当たるまい。もっとくだらない理由で合否を決めている大学はいくらでもあるのだから。
 こんなことを書いたからと言って、推薦入試そのものを批判するつもりはない。ただ、今回の医学部の入試「不正」に対する批判を見ていると、先に批判されるべきは他にもあるだろうと思ってしまうのである。この医学部の入試を批判する前に、大学入試全体を俯瞰した上で、批判しないと意味のない批判のための批判になってしまう。入試というものが、私学であれば特に、100%「公正」だと評価されるものである必要はないし、100%公正な入試などありえないというのが、一連の報道を見た上での感想である。共通一次の理科で試験後に、結果に基づいて点数の補正を行うような不正が行われた恨みは忘れられない。

 そもそも、これも袋叩きに遭っている愛媛県の獣医学部誘致にしても、地元の獣医師の数が足りないから獣医学部を誘致して地元の子を入学させて卒業後も地元で仕事をしてもらおうというのが、誘致に向かうきっかけだったはずである。補助金を出してまで、もしくは土地の取得で優遇してまで大学を誘致するのは、地元の子供たちをある程度優先的に取ってもらえるという期待があるからだろうし、それがなければ公費を私企業である私立大学に対して支出することもできまい。
 そう考えると、地方の医科大学は、私立大学であれ、地方医療を支える人材を輩出することを期待されているのだから、地元出身で、地元に残る可能性の高い学生を優先的に合格させるのも当然だと言える。いや、そういう配慮をしなかったら、地元の自治体からは大きな反発が出るのではないだろうか。そういう事例が、医学部に限らず、なかったのかどうか、調査して報道してくれるマスコミは、大学叩くことしか考えていないだろうから、ないだろうなあ。

 医学部の入試で男子学生が優先的に合格にされていたというのは、弁護しにくいけれども、一応男性医師の数を確保したい現場の要請という言い訳は用意されているわけである。現在の日本の医療制度を支えるためには仕方がなかったのというのが正しいのであれば、医療現場の医師の過重勤務や、無報酬勤務の問題を放置してきたマスコミや政治家に対しても批判の矛先が向かなければならない。
 現在の日本の医療制度の歪みが目に見える形で端的に表れたのが、今回の入試「不正」だと言えるのだから、医療制度の歪みをただすことなく、入試だけ変更した場合に、医療制度全体が破綻する恐れはないのだろうかと心配になる。その辺まで分析して報道するようなマスコミは……。入試を管轄する文部省は、医療制度がどうなろうと知ったこっちゃないだろうしさ。この問題について厚生省の見解を聞いてみたいものである。

 またまた本題に入る前に分量が尽きてしまった。本題についてはまた明日。
2018年12月10日22時15分。





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posted by olomoučan at 08:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2018年12月14日

ブルノ駅改修工事(十二月九日)



 先日レギオジェットからメールが届いて知ったのだが、今日からブルノの中央駅の大改修工事が始まるらしい。たしか去年か一昨年も春から夏にかけて改修工事が行われ、一部の電車が中央駅まで行かず途中の駅どまりになった結果、大混乱を引き起こしていたが、今回の改修工事はそれを上回る規模で行われ、レギオジェットの電車も、中央駅まで行くのは夜行電車一本だけで、それ以外は郊外のジデニツェ、もしくは中央駅近くのドルニー駅に停車することになるらしい。

 夜のニュースによれば、鉄道の時刻表が新しいものに切り替わるこの日に合わせて改修工事を開始したようである。工事の予定期間は1年と言っていたから、来年の時刻表の切り替えに合わせて、改修が終わった中央駅の使用を元通りにするのだろうか。前回の改修の際には、中央駅の代役となった駅はドルニー駅一つで、中央駅まで行く電車もかなりあったのだが、今回はほとんどの電車が中央駅まで行かず、郊外の駅発着に変更されるようである。
 今回も改修工事による発着駅の変更でかなりの混乱が起こっており、ニュースでは朝から情報不足で立ち往生したり、特別に配置された係員に質問する人たちの姿が映し出された。中には説明を聞いてもよくわからなかったり、一度別の駅まで出てきたけど中央駅に戻らなければならなかったりしている人の姿もあった。外国人の観光客が英語で説明を受けた挙句に、確実性を重視してタクシーを呼んでいたのが、この混乱を象徴している。

 代理の発着駅となるのは、ブルノの北部にあるクラーロボ・ポレ駅、東部のジデニツェ駅、南のフルリツェ駅と前回も使われたドルニー駅の四つ。レギオジェットの電車はプラハを出てブルノを経由してブジェツラフのほうに抜けるのだが、ジデニツェを出た後は中央駅を迂回してドルニー駅に停車して、南東のブジェツラフに向かうようである。
 ジデニツェ駅から中央駅まではチェコ鉄道が改修中に特別に走らせる電車が往復していて、所要時間は3分らしい。中央駅からドルニー駅までは、市の交通局が走らせる無料バスが利用できる。61番のバスで10分おきに駅をでて右に行ったところの停留所から出ているらしい。ただ、直線距離で200mほどというから歩いても10〜15分ぐらいか。大きな荷物がなければ歩いてもよさそうである。中央駅の裏側からテスコの前を通って、ショッピングセンターのバニュコフカの中を抜けて、バスターミナルを越えたところにドルニー駅があるらしい。

 個人的に関係がありそうなオロモウツからブルノに向かう便は、ジデニツェに停車した後、クラーロボ・ポレ駅まで向かうことになっている。ジデニツェ止まりにならないのは、駅の規模が小さすぎて始発駅にできないということだろうか。とまれブルノの中心に用があるときには、ジデニツェで降りて、別の特別な電車に乗り換えて中央駅に向かうことになりそうである。
 それなら最初から電車を使うのは諦めて、バスを使った方が、便利で早く、そして値段も安いということになる。ただただでさえ込んでいるレギオジェットのバスはチケットを押さえるのが大変になりそうな気もする。そうするとARRIVAのバスということになるのだけど、この会社実はドイツ鉄道の子会社らしくて、最近のドイツ鉄道の体たらくを知ってしまうと、利用するのをためらう気持ちが起こってしまう。レギオジェットが本数を増やしてくれないかなあ。レギオの方がちょっと高いけど早いしさ。

 プラハからブルノに向かう場合は、ブルノが終点の電車を使うと、中央駅まで行くものがある。それに対して、ブルノを出て、ブジェツラフを経由してウィーン、ブラチスラバなどに向かうものは、チェコ鉄道の電車でも、中央駅は迂回してジデニツェとドルニー駅の二つに停車する。町の中心に行くならドルニー駅の方が便利である。また、幹線ではないビソチナのほうを通る電車を使うと、北部のクラーロボ・ポレ駅が終点となる。
 ということでプラハ発、チェスカー・トシェボバー経由、ブルノ終点の電車に乗るのが一番便利なのだが、ブルノ終点の電車は数が少ないうえに、国内線のため停車駅が多く、時間が3時間以上かかるのが難点である。他の国際線は2時間半程度でブルノのドルニー駅に到着するから、その差をどう判断するかである。オロモウツからのブルノ行きもドルニー駅まで行ってくれれば楽なのだけど。

 ブルノは現在トラムの路線も改修していて、市内交通も結構混乱しているようである。ということは特に必要なことがなければブルノには行かないのが吉だな。
2018年12月10日8時55分。










2018年12月13日

オロモウツのホテル1(十二月八日)



 「オロモウツ」とブログ名につけておきながら、最近オロモウツについての記事を全く書いていなかった。観光案内とか二三回しか書いていないんじゃないだろうか。いずれ再開するつもりはあるのだけどなかなか気がむかないというか、思い切りが付かないというか。ということで、助走代わりにオロモウツのホテルをいくつか紹介することにする。
 booking.comやトリバゴでオロモウツの宿泊施設を検索すると60件以上の宿泊施設が出てくるけど、いくつかダブりもあるし、郊外過ぎて車でもなければ利用しづらいところもある。というよりも存在を知らないところの方が多い。ということで、町の中心、もしくは駅の近くで知り合いが宿泊したことがあって、どんなところか多少はわかっているところをいくつか選ぶことにする。

 先ず最初は、名前だけはすでに何度も登場しているホテル・ブ・ラーイ。以前は日本から知り合いが来ると必ずこのホテルを勧めていた。その理由となっていたレストランが閉店してしまってからは、このホテルを勧める機会もほとんどなくなってしまったが、オロモウツのホテルというとここを一番に挙げてしまうのは変わっていない。
 場所は旧市街の共和国広場から坂を下りた旧市街の中と外の境目に当たるところで、近くには歴史的建造物もあるけれども、このホテルの建物は新しい。チェコ語の「ラーイ」は楽園、天国を意味する言葉だが、ここではどうも聖書のエデンの園を意味させているようで、かつてのレストラン、今はホテルの朝食用の食堂の内装は、芸術的にデフォルメされたアダムとイブがモチーフになっていたと記憶する。

 部屋のほうもベッドなどの設備は普通のホテルと同じだが、細かいところのデザインが凝っていた。一番記憶に残っているのは、洗面所の水道の蛇口で、どうすれば水が出るのか、しばらく悩んでしまった。一度できてしまえば簡単なのだけど。そういえば以前ここに泊まった人が、暖房の温度の設定変更の仕方がわからなくて苦労したなんてことも言っていたなあ。
 部屋数はそれほど多くなく、予約が一杯で泊まれないこともあるが、泊まった人たちの評価は結構高かった。強いて難点を挙げれば、トラムの停留所のある共和国広場に出るのに急な坂を上らなければならないところか。駅まで大きな荷物がある場合にはタクシーを呼んでもらったほうがいいかもしれない。車でオロモウツに来る場合には、隣の立体駐車場内に宿泊客用の駐車場が確保されていて、ホテルの出入り口のところの裏口から駐車場に直接入れるようになっている。

 以前は自前のHPから宿泊の予約なんかもできるようになっていたのだが、やめてしまってbooking.comを通じての予約になっているようだ。電話や直接の予約も可能だろうけど。数年前に知り合いのために予約したときには、ブ・ラーイのHPで部屋の種類など条件を入れたのに、予約の確定をしようと思ったらbooking.comのページに遷移するようになっていたから、レストランを閉店した後、自前のHPの運営もやめてしまったのだろう。宿泊費は二人部屋で一泊7000円ほどか。オロモウツの中では平均よりちょっと高目というところか。
 booking.comのブ・ラーイのページには、最寄のスポットとかレストラン、マーケットなんかも表示されているのだが、何でこんなのがというものも上がっていて興味深い。普通のスーパーで上がっているのがリードルだけで、シャントフカとオプフーデク・ウ・エビというお店もスーパー扱いになっている。前者はスーパーと呼ぶには大きすぎ、後者は小さすぎる。しかもシャントフカは、近くのトルジュニツェ(青空市場)まで1キロになっているのに、3キロも離れていることになっているし、どうやって情報を引き出しているのか不思議である。

 ブ・ラーイを出て坂を上って共和国広場に出て、左にトラムの通り沿いに緩やかな坂を下りていくと、100メートルほどで次の停留所であるウ・ドームがある。左右の停留所に挟まれた交差点を左に曲がると、ホテル・ウ・ドーム、右に曲がるとペンション・ロイヤルがあるのだけど、実はどちらもあまり知らない。
 ウ・ドームの方が古くからあって、15年以上前に、知り合いが泊まったときにはクレジットカードで支払いができなかったとか言っていたかな。今は多分大丈夫なはず。ここもロケーションは、旧市街の中でも静かなところなので、いいいい場所にあるのだけど、トラム通までがちょっと坂になっているのが、大荷物を持っての移動には不向きかもしれない。ブ・ラーイに比べればはるかにましである。
 ここは中には入ったことがないのだけど、泊まった知り合いは、ペンション風の宿だといっていたから、そういうのが好きな人にはあっているかもしれない。ブ・ラーイとは違って、ぎりぎり旧市街の中だから建物自体もそれなりに古くからあるはずだし。

 ということで一回目はお仕舞い。次がいつになるかはわからないけど、またねたのないころに取り上げることにする。
2018年12月9日23時50分。













2018年12月12日

ゼマン大統領問題発言またまた(十二月七日)



 今年の初め、ゼマン大統領が大統領選挙での当選が決まったとき、喜びに沸くゼマン大統領とその周辺の人々の中に、バランドフというテレビ局のオーナがいたという話は書いたと思う。このバランドフテレビも、放送を始めるまでの期待は大きかったのだけど、ふたを開けてみたらチェコの誇る映画製作スタジオの名前を冠するにふさわしいとは思えなかった。
 このバランドフテレビの特徴の一つに、無駄に、あえて無駄にと言いたくなるほど政治番組が多いことがあげられる。毎日のように、政治家を招いてのインタビュー番組や討論番組が放送され、そのインタビュアー、司会を務めているのがオーナーのソウクプ氏である。そして、ミロシュ・ゼマン大統領もソウクプ氏と組んで「大統領の一週間」とでも訳せる番組を一つ持っている。

 その番組ではあれこれ問題発言を連発しているらしいのだが、その一つがイギリスで起こったロシアの元エージェント暗殺に関して、使用された毒物のノビチョクがチェコで生産されたという発言だっただろうか。軍の化学部隊で実験的にごく少量作成したという話だったのだが、軍事機密に当たるような話をテレビでぺらぺら喋ってしまうような大統領で大丈夫なのかと心配してしまった。大統領に提出された情報部の書類に書かれていたことというのは、公開しないことを前提にしてるのではないのか。
 最終的には、チェコで試作されたノビチョクと暗殺に使われたノビチョクとでは番号が違っていて(よくわからないけど)、別物だったということで、ゼマン大統領の発言はロシアのプーチン大統領を支援するためのものだったのではないかと批判されていた。しかし、問題はロシア云々以上に、大統領以下国の指導者しか触れられないはずの情報を、ぽろぽろと垂れ流してしまうところにある。

 そのゼマン大統領が、またまた国の諜報・防諜機関であるBISについて、バランドフテレビの番組で発言してあちこちから批判を浴びている。ゼマン大統領によると、BISは防諜に関してまったく役に立っていないと言うのだ。具体的にはチェコに入りこんでいるはずの他国の諜報組織も、イスラム国につながるイスラム教の過激派についても存在するはずなのに、まったく摘発されていないというようなことを語っていた。
 それに対して、これまで何度かゼマン大統領の批判を受けても形どおりのコメントを出すだけで沈黙を守っていたBIS側が初めて具体的に反論した。BISによれば、これまでに外務省、大使館関係者に扮してチェコに入りこんでスパイ網を築こうとしていたロシアと中国のエージェントを何人か国外追放にしているし、すでに形成されていたスパイ網も破壊することに成功しているという。また、ノビチョクが使われた按察事件に関してロシアの外交官を二人国外退去処分にしたのもBISの活動の成果らしい。

 また、チェコテレビのニュースによれば、チェコを出てイスラム教徒の過激派として活動している人物に関しても、もともとはBISが目をつけて監視体制を取り、また事情聴取を行うなどした結果、チェコ国内ではほとんど活動できないままに、出国することになったのだとか。BIS側から自らの業績を誇るようなコメントが出てきたり、ニュースで報道されたりしているのもなんだか落ち着かない。
 さらに、共産党以外の政党が、バビシュ氏のANOも含めて、ゼマン大統領の発言に対して否定的で、BISの活動を称賛しているのも腑に落ちない。共産党は大統領が不満を評するということは、何か問題があるに違いないと言っているけれども、問題はそこではなくて、やはり、諜報・防諜期間の活動について政治家がメディアであけっぴろげに語ってしまうところにあるのではないか。
 諜報・防諜活動なんて秘密にすることが大切で、情報公開の時代とはいえ、活動内容を公表してしまえば、問題が起こる可能性も高い。公表するにしても何年もたってからというのが普通で、今回のように事件の概要だけだったとはいえ、防諜活動に付いての情報がメディアをにぎわしたこと自体が、問題だと思うのだが違うのだろうか。

 第一期目のゼマン大統領は、あれこれ問題のある発言はしていたけれども、ここまで軽率な発言はしていなかったような気もする。政府が推薦したBISの長官の階級の昇進をゼマン大統領は何度か拒否しているというから、個人的な確執があるのかもしれない。
2018年11月8日23時55分。




 ゼマン大統領のBIS批判は、仕事を全うしていないだけではなく、中国やロシアのスパイを国外追放したという事実に対しても、無駄な警戒じゃないのかと苦言を呈しているようだ。








2018年12月11日

ačとať〈私的チェコ語辞典〉(十二月六日)



 この二つの言葉は、時々どちらがどちらかわからなくなるというか、「ač」を目にしたり耳にしたりしたときに、「ať」だと思ってしまうことがあるのだが、意味は全然違う。その説明に入る前に、間違いやすい理由を指摘しておくと、チェコ語のカタカナ表記に行きつく。「č」も「ť」も語末では子音だけの発音になり、カタカナで書くときに「チ」もしくは「チュ」と書かれることが多い。日本のチェコ語関係者は、「ť」に「i」を付けた「ti」を、「či」と同様に「チ」で書くべきだと主張しているため、子音のみの「č」と「ť」も同じ表記をされてしまうのである。
 その結果、「ač」も「ať」も、「アチ」「アチュ」と書かれ、同じように発音するようになり、区別できなくなってしまう。これも個人的に「ti」を「チ」と書いたり、「ティ」と書いたりして統一していない理由の一つである。子音のみの「ť」をどう書くかも決めかねているのだけど、「ať」だけでも表記が揺れていれば別物として認識しやすくなる。と言いながら混同することがあるのだから仕方がない。

 この二つのうち、どちらを自分でよく使うかというと、断然「ať」である。日本語で命令形で処理するような、命令ではない表現をこの「ať」で表すことができる。この説明ではよくわからないだろうから、具体的な例を挙げると、「行くにしろ行かないにしろ」の命令形で表されている「にしろ」の部分にあたるのが、「ať」なのである。この場合は「ať půjdu nebo ne」なんて訳せるわけである。文体によっては「であれ」、「にせよ」と訳してもいいだろう。
 だから、同じ命令形を使った「何であれ」「誰であれ」なども、もちろんこの「ať」で表すことができる。それぞれチェコ語では「ať je to cokoliv」「ať je to kdokoli」となる。日本語でもチェコ語でもパターンが確立しているから、一見難しそうに見えて、知っていれば簡単に使える表現である。ということで、使えるようになったばかりの頃は連発していたものだ。

 もちろん、日本語の枠内で考えるなら、むりやり命令形を使って訳す必要はない。「行くにしても、行かないにしても」とか、「行く行かないにかかわらず」なんて訳し方をしても問題はない。問題はないのだけど、命令形で訳したくなるのは、チェコ語の「ať」に命令形的な意味があるからである。命令形とは言っても二人称ではなく三人称の動詞と組み合わせて使うもので、目の前でもたもた仕事をしている人を見て「ať to dělá」と現在変化と合わせて「とっととやれよ」と独り言を言うときなんかに使う。

 それから、「Řekni mu, ať mi píše mail」のように、「あいつにメールくれと伝えてくれ」とか、「メールをくれるように伝えて」なんて、直接話法的に命令形で訳したり、間接的に「ように」を使って訳したりできる文も作れる。二人称の命令と、三人称の命令を同時に使うというなかなか面白い文なので、これも一時期よく使った。文法的に特徴のある文というのは使いたくなるものである。
 この命令的な「ať」が慣用句に使われているものとして、「ať žije」がある。これは日本語の「万歳」と同じような使い方をされる。たとえば「ať žije císař」であれば、直訳すると「皇帝、生きよ」となるのだが、ようは皇帝が長生きすることを祈るもことばなのである。日本の「万歳」も「一万年」つまりは「永久に」生きることを祈るところからきているはずだから、発想は同じである。

 これに対して、「ač」のほうは逆接の接続詞なので、「〜けれども」「〜にもかかわらず」などと訳すことが多い。自分では「ať」との混同を避けるために使わない。使わなくても逆接の表現は、「ale」をはじめとして十分に存在しているから困らないのである。それに、「ač」には「ačkoliv」「ačkoli」という長い形も存在するから、どうしても「ač」を使わなければいけない理由もない。問題は、文章を読んでいて出てきたときなのだけど、「ač」よりも「ačkoli」を見かけることのほうが多いような気もする。

 繰り返しになるが、「ač」を見て「ať」と間違えることはあっても、その逆はない。その差は実際に自分で使っているかどうかである。ついつい自分の知っている、よく使う表現にひきつけて理解、いや誤解してしまうのである。「ač」と「ať」の場合には、最初誤解したとしても、文脈から誤解に気づけるから実害はないのだけどね。
2018年12月7日23時25分。









2018年12月10日

気になる日本語(十二月五日)



 日本語には時制に関して特殊な使い方をする動詞がいくつかある。一番わかりやすいのは「知る」だろうか。現在の肯定形では必ず「知っている」を使うのに対して、否定形の場合には「知らない」を使う。過去だと、肯定形は、意味によって「知った」「知っていた」のどちらも使うことができるが、否定の場合には「知らなかった」を使い、「知っていなかった」なんて形を使うのは例外中の例外である。例外と言えば、作家の池波正太郎は、現在形でも「知っていない」を使用していたが、あれは池波正太郎だからこそ許された表現で、新人作家などが使用したら、校正の段階でゲラに赤字が入るはずである。
 「知る」だけでなく、「わかる」も、「わかる」「わかっている」「わからない」「わかっていない」の使い分けが特殊だが、最近気になる使い方をされているのは「思う」である。現在形の「思う」と「思っている」の使い分けについて、おかしいと思うことが増えている。もちろんこの二つの表現の境目は結構微妙だから、どちらがいいとも言いかねるような場合も多い。しかし、最近明らかに「思う」を使うべきところに「思っている」を使う例が散見されるのである。

 一般に、自分の意見、考え、印象などを表明する場合に「思う」を使い、認識を表明するのには「思っている」を使う。だから「今後はこのようなことはないようにしたいと思います」だし、「あの人のことは友達だと思っています」というふうに使い分ける。境目になるのは、「これは大きな問題だと思います」と「これは大きな問題だと思っています」のような場合で、これは状況に応じて使い分けるはずである。どう思うか意見を聞かれたときには前者で、自分がどう認識しているかを述べるときには後者という具合に。
 もちろん、ある程度の期間ずっと思い続けていることを強調するために、「思っている」を使うことはあるから、すべての「思っている」が気になるというわけではないのだが、以前はここまで「思っている」は使われていなかったと思う。ってこんなところで「思っている」を見かけたりもするのである。「思う」で十分なところにも、「考えている」でいいじゃないかと思えるようなところにも、「思っている」が使われていて、四六時中思い続けているのかと言いたくなる。


 もう一つ気になるのが、やり・もらい動詞の「頂く」と「下さる」を混同している文である。正確には、この二つの動詞と助詞の組み合わせが、おかしいと思う場面が増えている。最初に気づいたのは安倍首相が演説で「有権者の皆様が御支援いただいた」とか言うのを聞いたときだったのだが、最近、スポーツ選手のインタビューで、「応援していただいた」とある前に、記者がわざわざ「(ファンが)」と注記を入れているのを発見した。
 話している時に、文末に「下さる」を使うつもりで「ファンが」を使ったあとで、「いただく」と言ってしまうのはわからなくはない。しかし、編集の段階で、文章のプロである編集者がこういう間違いを付け加えるのはいただけない。それとも、最近では日本語のやり・もらい動詞の使い方が変わったとでも言うのだろうか。

 それはともかく、安倍総理大臣の「有権者が〜いただく」というのは、有権者を動作主として謙譲語を使っているわけだから、有権者を見下している証拠だとか何とか、揚げ足取りが大好きな野党が批判するかと期待していたのだが、野党の揚げ足取りに選ばれたのは、「そもそも」だった。そもそもをめぐる野党の批判も愚かなもので、首相だけでなく、野党側もその意味、用法をちゃんと理解できていないことが明らかだったから、補助動詞としての「いただく」も首相同様まともに使えないのかもしれない。
 念のために書いておくと、「有権者の皆様が御支援いただいた」は、「有権者の皆様に御支援いただいた」か「有権者の皆様が御支援くださった」となるべきものである。日本語の中でも重要な一部をなす、やり・もらい動詞の敬語形を、首相も新聞記者もちゃんと使えないというのは、嘆くべきことであろう。首相をはじめとする政治家たちも、敬語ではない「くれる」と「もらう」に関しては間違えないことを祈っておこう。そうか、政治家たちは自分たちは偉いと思い込んでいて、他人に対して敬語を使わない生活をしているから、まともに使えないのかもしれない。問題は、やり・もらい動詞ではなく、敬語だったのか。
 有権者に敬意を払えない政治家、そんなの選ぶなよ。
2018年12月6日9時30分。









posted by olomoučan at 07:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本語

2018年12月09日

ハンドボール女子ヨーロッパ選手権(十二月四日)



 毎年、十二月初めにはハンドボールの女子の大きな大会が行われる。今年はフランスで行われるヨーロッパ選手権である。昨年の世界選手権ではチェコ代表は前評判を覆して、準々決勝にまで進出したから、今年のヨーロッパ選手権でも上位進出を期待したいところなのだけど……。抽選の結果、ものすごく厳しいグループに入ってしまった。

 同じ組になったのは、前回の優勝チームで昨年の世界選手権準優勝のノルウェー、ベスト16に進出したドイツとルーマニアの3チーム。ルーマニアには去年の世界選手権は勝っているけど、大きな番狂わせと言われた試合だった。グループステージで4位のチェコが、別組の1位のルーマニアに勝ったのだから、そんな扱いも当然といえば言える。強いて言えば、ドイツが、伝統的に強豪国だとはいえ近年の成績はそれほどよくないので、一番勝てそうな相手だというのが、個人的な大会前の予想だった。
 去年の世界選手権は放送してくれたチェコテレビだが、今年は同時期にプラハで開催されているフロアボールの世界選手権の中継が優先されるためか、テレビでの中継は行われないようである。一月の男子のヨーロッパ選手権も放送されなかったから、ハンドボールは世界選手権しか放送しないことになっているのかもしれない。

 土曜日に行なわれたチェコ代表の初戦の相手は、ルーマニアだった。去年は準々決勝進出をかけた試合であたり、チェコが大方の予想をひっくり返して1点差で勝利したのだが、そのとき終了間際に勝ち越しのゴールを決めたフルプコバーは、今年の大会には怪我からの快復途中で出場できないのが不安である。ルズモバーと並ぶ攻撃の中心選手が欠場するのである。
 今回もライブスポーツで、得点経過だけを追いかけたのだが、前半の立ち上がりに1点取った後、得点できない時間帯が続き、一気に1−6と5点差つけられてしまった。その後は互角の試合で、最大で7点差つけられたが、前半終了時には、11−17と6点差になっていた。後半も立ち上がりによくない時間帯があり、13−22と9点差にまで点差を広げられた。その後盛り返して一時は2点差にまで詰め寄ったのだが、最終的には28−31と3点差の敗戦だった。

 ルーマニアに負けても、次のノルウェーには確実に負けるだろうけれども、最後のドイツとの試合で勝つことさえできれば、上位三チームが進出する次のステージに進めるという計算だった。しかし、ノルウェーが初戦でまだ全力を出していなかったのか、ドイツが急に強くなったのか、ドイツが勝ってしまったのである。これで話がややこしくなってしまった。ドイツに勝たなければならないのは変わらないが、他の試合の結果次第では、ドイツに勝っても4位に沈む可能性が出てきたのだ。

 ということで、ノルウェーとの試合は勝てないにしても僅差で負けることが期待されたのだが、儚い期待だった。前半途中までは健闘したものの、そこから一気に突き放されて、10−20の10点差で前半が終わった。後半守備は多少改善されたのか、ノルウェーが控え選手中心の布陣になったのかは知らないが、失点は11に抑えたものの、攻撃が前半以上に壊滅的で7点しか取れず、合計17−31と14点という大差で負けてしまった。攻撃に関しては、フルプコバーがいないことでルズモバーにかかる負担が大きくなっているのかなあ。

 もう一試合のほうは、ルーマニアがドイツを5点差で破って、次のステージへの進出を決めた。得失点差から言えばノルウェーもほぼ確定なのだが、チェコとしてはグループ最後のノルウェー対ルーマニアの試合では何としてもノルウェーに勝ってもらわなければならなくなった。ノルウェーが負けた場合、チェコ、ノルウェー、ドイツの勝ち点が並び、当該国の対戦成績も1勝1敗で並ぶため、得失点差で順位が決まることになる。ノルウェーはチェコ、ドイツとの試合を終了して+13、ドイツは+1、チェコは−14である。ノルウェーを逆転するのは無理だし、ドイツとの差をひっくり返すのにも8点差以上での勝利が必要になる。これは厳しい。

 明日はまずチェコ−ドイツの試合があって、試合の時点では勝っても勝ち抜けは決まらないのだが、とにかく勝って終わってほしいものである。
2018年12月5日9時25分。









2018年12月08日

チェコ鉄道の不思議な料金体系(十二月三日)



 オロモウツとプラハを結ぶ私鉄のレギオジェットと、レオエキスプレスの料金は流動的で、電車の走る時間帯によって値段が変わるし、同じ電車でも季節や曜日によって上下する。レギオに関しては、何回も使っているうちに、どの程度の幅で値段が上下に変化していくのかわかってきたし、変化のある程度の傾向も見えてきた。とはいえ、ここhttps://www.regiojet.cz/で検索してみないと、実際の値段はわからないというのは、予定をたてる際にはちょっと厄介である。検索してみたら予想よりも200コルナ以上高いなんてことあったし。

 それに対して、チェコ鉄道の料金は距離を基に決まっていて変動しないから、オロモウツ―プラハなら、220コルナ、ペンドリーノを使うと250だったか、290だったかで安定している。そして、ブルノに行くなら100コルナだと思い込んでいた。今回所要があって早朝から(といっても7時発だけど)ブルノに出向かなければならない事情があって、前日にネット上のチェコ鉄道のE-shop https://www.cd.cz/eshop/でチケットを買おうと、検索をかけたら、違う金額のチケットが表示された。
 そういえば、以前、プラハからオロモウツに来た人に、特定の電車にしか乗れないチケットで廉価に販売されているものがあるという話を聞いたことがあった。あのときには、プラハ−オロモウツは、私鉄が3社も乗り入れていて競争が激しいし、私鉄のチケットはすべて全席予約だから、チェコ鉄道もそれに合わせて、乗る便を指定することで安くするチケットを導入したのだろうと考えていた。普通のチェコ鉄道のチケットは路線だけが指定されていて、どの電車に乗ってもかまわないものである。

 ブルノ―オロモウツは私鉄も走っていないし、バスとは競合するけれども、かかる時間では完全にバスに負けているから、特に値下げをして対抗したりはしないだろうと考えていた。その考えは間違えていて、この路線についても、乗車便指定で価格を下げるチケットを導入したようである。その理由を考えると、今年の夏前に、政府が人気取り政策のひとつとして、政府負担で、26歳以下の学生と、年金生活者に対する鉄道運賃の値引きの幅を大きく拡大したことが考えられる。
 これによって、鉄道の乗車率が大きく高まったらしいのだが、同じ時間帯に乗客が集中することもあって、便によっては立ちっぱなしということも増えていた。それを緩和するために、乗車率の低い便の運賃を値下げすることで、乗客を誘導し乗車率の均衡化を図っているのではなかろうか。そう考えると、こんかいちょっと調べた結果、便によって割引運賃があったりなかったり、その値段も何段階かに分かれている理由が理解できる気がする。以前からこの手の割引チケットがあった可能性もないわけではないけどね。
 ちなみに、国費で鉄道運賃の値下げ分を負担する政策は、またまたスロバキアの制度の真似で、スロバキアでは学生と高齢者に関しては運賃が無料になっている。スロバキアでも野党から批判を浴びている政策を、ちょっと形を変えてチェコでも導入したわけだ。ただ、一概にただの人気取りで、批判されるべき政策というわけでもなく、公共交通機関の利用を促進することで、個人個人の自動車の利用を抑制するという効果はある程度あるはずである。

 とまあ、ここまでは割引運賃の話、オロモウツ―ブルノは、便によっては89コルナと1割引になっていた。帰りは、ちょうどいい直行便がなかったので、プシェロフ経由で戻ってくることにした。以前このルートを使ったときに、ブルノ―プシェロフ、プシェロフ―オロモウツと分けて買った方が安かったような記憶があるので、別々に購入してみた。ちなみにまとめて買うと、161コルナである。ただし窓口で買ったときと同じかどうかは不明。
 ブルノ―プシェロフは、定価で131コルナ、便指定の割引で99コルナというのが出てきた。後で調べたら89コルナというのもあるから、この路線も、いくつかの割引があるようである。プシェロフ―オロモウツのほうは、定価が41コルナで割引のチケットは出てこなかった。距離が短いからだろうか。さらにオロモウツ―ブルノをプシェロフ乗り換えでまとめて買う場合にも、便は少ないが割引運賃が存在していて、なんと半額に近い89コルナになっていた。うーん。今回使った接続は全く割引がなかったので、プシェロフまで割引で買った方が、20コルナほど安かったのだが、なんとも釈然としない。プシェロフからブルノに行くより、オロモウツからプシェロフを通ってブルノに行く方が安いのである。

 さらによくわからないのが、正規運賃の体系で、オロモウツ―プラハは250キロで220コルナ、オロモウツ―プシェロフは22キロで41コルナ、オロモウツ―ブルノ(直通)は、100キロで100コルナだから、利用する距離が長くなればなるほど、1キロあたりの運賃は下がるものだと思っていた。しかし、今回購入したブルノ―プシェロフ間の営業距離は88キロなのである。つまり、ブルノからプシェロフに行く方が、オロモウツに行くより距離は短いのに、運賃は高いのである。さらにブルノからブジェツラフ周りでオロモウツまで来ると、距離は181キロで、運賃はたしか250コルナを越えたはずである。プラハへ行くよりも距離が短いのに、運賃は高いのだ。
 理由として思いつくのは、やはり各地方が地方内の路線に対して出している補助金の額が違うのではないかということだ。地方とチェコ鉄道の間で補助金の額を巡って交渉が行われているというニュースは毎年のように聞かされている。それに、幹線に対しては国が出している補助金もあるのかもしれない。特にプラハ−オロモウツ−オストラバとつながる部分は、高速道路の利用を抑制するためにも鉄道にお金を投入していそうだし。

 ということで、乗る電車が完全に確定している場合には、チェコ鉄道のEショップで割引チケットを購入するのも悪くない。プラハ−オロモウツだとレギオの一番安いのに匹敵する値段のものもあるかもしれない。ただ、窓口で勝ったものとは違い、ネットで買ったチケットは人に譲ることはできず、検札の際に身分証明書の提示を求められることがある。
 さて、次に電車で出かけるのは、恐らくプラハになるのだが、チェコ鉄道の安いチケットを試してみるべきか、否か、悩むところである。
2018年12月4日10時15分。









2018年12月07日

abで始まる厄介な言葉たち〈私的チェコ語辞典〉(十二月二日)



 この前取り上げた「abeceda」も語頭に「ab」が出てきたが、「b」は後ろに母音が続いていたので濁音で読まれた。それに対して今回取り上げるのは、語頭の「ab」を「アプ」と清音、もとい無声子音として発音する言葉である。この中に、なかなか覚えられない厄介な言葉がいくつかあるのだ。

 まず、簡単なのから行くと、「absolvent」「absolventka」は、それぞれ、卒業生の男性形と女性形である。日本で名前を聞いたことのあるアメリカ映画「卒業」は、たしかチェコ語では「absolvent」という題名になっていたと思う。原題がどうなっているのかは知らないが、日本語だと「卒業生」よりも、「卒業」のほうが題名にはふさわしい。チェコ語にも同様の事情があるのだろう。
 どちらが派生語になるのかは知らないが、卒業の動詞形は「absolvovat」で、その名詞形(いわゆる動名詞ってやつ)は「absolvovaní」ということになる。学校の卒業だけでなく研修の修了なんかもこの言葉で表せるのかな。形容詞としては、「absolvující(卒業しようとしている)」「absolvovaný(卒業した)」というのが動詞から作られる。
 では名詞から作られる形容詞はというと、「absolvent」からできた「absolventský」ぐらいしか思いつかない。ただしこれは「卒業生の」という意味で、「卒業の」という意味にはならない。実は、昔、最初に見たときにこの「卒業の」ではないかと勘違いした言葉がある。それが「absolutní」なのだけど、本当に「absolutně」お馬鹿な勘違いだった。

 形容詞の「absolutní」は「絶対的な」という意味で、副詞の「absolutně」は、「完全に」という意味でも使われる。そして、しばしばこれと混同してしまうのが、「absurdní(ばかばかしい)」である。意味がぜんぜん違うじゃないかとは言うなかれ、発音が似ている言葉で、かつ耳で覚えた言葉で、つづりがしっかり頭の中に入っていないために、区別がつきにくいのだ。どちらも恐らくラテン語起源の言葉で、ほかの印欧語ができれば、ありえない間違いのかもしれない。でも、英語でこの言葉は、勉強したかもしれないけど、その記憶はない。
 ということで上の「absolutněお馬鹿な勘違い」は、「absolutně absurdní勘違い」と言い換えられるのだけど、並べて発音すると、音の響きがとても「absurdní」である。

 なかなか覚えられない言葉としては「abstinent」も挙げておかねばなるまい。この言葉、酒抜きとか、お酒を飲まない、飲んでいないことを意味するのだけど、アルコール度数の高いお酒のアプサン(absint)とつづりと発音が似ているのである。アプサンはもともとフランスのお酒で、フランスの言葉というのはその通りだが、つづりもチェコ語化しているし、チェコ人よく飲むし、チェコ人がよく飲むお酒とよく似た言葉が、お酒を飲まないことを意味するというのが理解できなくて、
 酔っ払っていないことを示す形容詞「střízlivý」もなかなか覚えられず、使えないから、問題は別のところにあるのかもしれない。反対の意味の「opilý(酔っ払った)」は何の問題もなく覚えて使えるようになったのだから。最近お酒の量が減ったとはいえ、ことはすべて酔境に及ぶべしなのである。

 所定の分量に達しないので、もう一つだけ言葉を付け加えるとすれば、「abstraktní」であろうか。この言葉は抽象的なという意味を持つ形容詞である。反対の具体的なという意味の「konkrétní」は、すぐに使えるようになったのだが、抽象的なものというのは、それを現す形容詞自体も覚えにくいということだろうか。思い返すと「konkrétní」も最初は「コンクリートの」という意味の形容詞だと勘違いしたのだった。コンクリートの硬いイメージが具体的と妙にマッチしたのか、それ以来問題なく使えるようになったのだった。問題はいつも「l」か「r」かで悩むぐらいである。

 今回取り上げた言葉のほとんどは、チェコ語起源の言葉ではなく、外来語である。やはりその言葉の体系からは外れるところのある外来語ってのは覚えにくいよなあというのを結論にして、無理やり今回の文章を締めることにする。
2018年12月2日23時35分。




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2018年12月06日

ale〈私的チェコ語辞典〉(十二月一日)



 もう少し「a」で始まる言葉を続けよう。ということで「a」と並んでよく使われると思われる典型的なチェコ語の逆接の接続詞の「ale」である。
 この言葉は原則として、日本語の「しかし」と同じような使い方をすると考えておけばいいのだが、文中で二つの文をつないで一文にすることもあるので、そんなときは接続助詞の「が」で訳すことが多い。間違えてはいけないのは、「,」は、「ale」の前に置かなければならないことである。これはチェコ語のできる日本人よりも、日本語のできるチェコ人が注意すべきことかな。
 日本語の「しかし」も、「それは、しかし実現しなかった」というように、文頭に来ないこともあるが、チェコ語でも同様に可能である。その場合、「ale」の前に「,」は不要である。個人的にはこの使い方が苦手で、前の文を逆説で受けるときには、「ale」は文頭で使うようにしている。

 ここにつらつら書いている文章をちょっと読んでもらえばわかると思うが、接続詞の「しかし」はあまり使わない。しかし、逆接であれこれつないで文を長くする傾向はある。それは当然チェコ語で文章を書く際にも現れ、師匠に「ale」の使いすぎだと指摘されたことがある。師匠は「ale」の代わりとして「však」という言葉を教えらてくれたのだが、実際に使ってみたら違うと指摘された。「však」は文頭、節の最初には使えないと言うのである。
 文頭以外でこの手の言葉を使うのは苦手だというと、さらに「však」の前に「a」をつけた「avšak」という言葉を教えられた。これなら前の文を逆接で受けるときに、文頭に使っても問題ないらしい。とはいえ、たったの一文字違いで、使い分けを間違えることも多く、教えてもらった当初はしばしば意識して使っていたのだが、次第に使わなくなった。人間諦めが肝心な部分はあるのである。それで、最近は、言葉の置き換えではなく、むしろ、文章をいじることで、逆接の「ale」が多くなりすぎないように調整している。

 この「ale」は、日本語の「〜だけでなく〜も」という文を訳すのにも使える。これは一見難しそうに見えるが、実は簡単なので、初学のころには濫用していた。使うと自分のチェコ語のレベルが上がったような気になることができたのだ。使い方は、「Včera jsem jel nejen do Brna, ale i do Prahy(昨日はブルノだけでなく、プラハにも行った)」と、「ne」「jen」「ale」「i」という四つの言葉を組み合わせるだけである。「i」の代わりに「také」を使ってもかまわないし、「ne」は「jen」ではなく、動詞につけて否定形にしてもいい。注意するとしたら、文中ではあるけれども、「ale」の前に「,」を打つのを忘れないことだろうか。

 それから、「a」のところでは書き忘れたが、「a」と「ale」は語順を決めるときの要素にはならないというのも忘れてはならない。つまり「ale」が文頭にあっても0番目として、1番目とは数えないのである。どこにでも出てきて、単純接続でほとんど意味のない「a」に関しては、すぐに無視して語順を整えることができるようになったが、逆接の意味を持つ「ale」を数えずに語順を決められるようになるまでには、かなりの時間を要した。
 それで、問題になるのが、「ale」と同じような逆接の接続詞なのだが、「přesto」「i když」なんかは、1番目として数えるのである。では「avšak」はというと、0番目にはならいだろうとしか言えない。自分で意識して使っていないとこんなもんである。その点、「však」は、文頭に来ないから、つまり1番目にも0番目にもなりえないから、語順を考えるときには楽である。じゃあ文中のどこにおくんだということになると、これもよくわからん。動詞の前と言いたいけど、動詞で始める文も多いし。

 この「ale」は、チェコ語を勉強し始めたばかりのころに最初に口癖になる言葉かもしれない。何も考えずにとりあえず「ale」が口から出てしまうのである。少し話すのに慣れてくると今度は「jako」を頻用してしまうことになる。これが間投詞的に使われる「vlastně」「přece」あたりになると、チェコ人的な口癖といってもいいのだけど、そこまでたどり着くのは大変である。でも「vlastně」が口癖とか、そんな人にはなりたくないなあ。
 若者の使う「vole」「ty vole」あたりは、外国人としては避けたほうがいいだろうし、英語と組み合わせた「sorry jako」もやめておこう。これはバビシュ首相の口癖として揶揄の対象になっているのである。
2018年12月2日7時35分。











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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



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