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2020年11月06日

お代はお心のままに(十一月三日)



 二年前の夏、サマースクールに向けて必要なものを買い始めた頃から、定期的に服や靴などを買うようにしている。買った時期が違えば、一度に駄目になってまとめ甲斐が必要になると言う事もあるまい。あの時期は、着るもの履くものが一度に必要になって、面倒くさいと思いながら買い物をしていたのだが、行きつけの店を決めてしまえば、定期的に一つ、二つ必要になりそうなものを選んで購入していくのはそれほど苦痛でもない

 それで、ここ二年ほどは、年に二、三回、冬の前後と夏の初めに、まずおっちゃんの店に足を運んで、何かかにか見繕って買っている。今年の夏向けに買ったのは、猛暑に備えて、汗をかいてもすぐ乾くというスポーツウェアの素材で作られたポロシャツだった。おっちゃんは、チェコのゴルフ場で倍以上の値段で売られているのを見たといって笑っていた。そのポロシャツはスウェーデンのものらしい2117という会社のもので、おっちゃんの店についていた看板も、チェコのノルトブランから、その2117のものに変わっていた。
 スポーツシューズの取り扱いも始めたみたいなので、そのうちにあまり派手ではないサイズ39のがないか見に行こうと考えていた。冬も近づいて気温も下がり始めて、そろそろ冬物の服も一枚、二枚買っておいても悪くない。カーディガンほしいし、なんてことを考えていたら、武漢風邪の流行状況が急速に悪化して、再び小売店の閉鎖が決まってしまって、買い物にいけなくなった。

 それと、どちらが先かは覚えていないのだが、いつもはおっちゃんの店の後に足を運ぶピエトロフィリッピのオンラインショップから奇妙な案内が来ていた。「Jak se cítíte, tolik platíte」というキャンペーンを始めるというのである。ようは買う側が、気分に応じて値段を決めてもいいということのようだが、もちろんいくらでもいいというわけではなかった。
 定価を基準にして三つの値段設定がされていて、買う人はその三つの中から気分によって一つをえ選ぶことができるというものだった。最初、意味がよくわからなかったのだが、先行き不安にさいなまれているという人は、定価の半額、調子は上々と感じている人は、定価の2割引、ピエトロフィリッピを支援したいと考えている人は、定価の1割増しの価格で購入するようだ。その代わりに割引の値段のついた商品は姿を消しているようだった。

 支援というなら、1割り増しで買わなくても、商品を購入すること自体が支援になるだろうと考えて、何か買うことにしたのだけど、送料無料になる買い物額が以前より高くなっていてためらっていたら、10月末まではすべて送料無料とか、閉鎖された店舗での受け取り可能とか、次々にメールが届いた。いろいろ変わりすぎである。定期的に観察していればいいのかもしれないけどさ。
 これで送料を気にせず買えるということで、いろいろ見ていると、二日以内に発送という商品と、八日以内に発送という商品があって、カーディガンは八日のほうだった。二日以内ならこちらが午前中うちにいられる月曜から木曜の間に配達されるように調整できそうだけど、八日だと不安である。それで、何枚あっても困らないワイシャツとポロシャツを一枚ずつ注文した。もちろん非常事態宣言のせいで先行き不安の気分は最悪である。

 それが届いたのが昨日の月曜日のことで、商品自体はワイシャツの生産国がマケドニアだったのに何でだよと言いたくなったのを除けば問題はなかったのだが、ワイシャツのほうになぜか店舗で販売する商品につけられている防犯用のICタグが残っていた。どうやって外すんだと、押したり引いたりするけどどうにもならない。破りたくないので無茶なことはしていないけど。
 お店でなら外してもらえるかもしれないと考えて、シャントフカにある店に足を運んだ。それなのに、立ち入り禁止のロープが張ってあって、ネットショップの受け取り窓口としては機能しているはずの店の前までたどり着くことが出来なかった。まだ店舗での受け渡しを始めたばかりで、オロモウツの店での受け取りで買い物をした人がいないからかも知れない。いっそのこと、買うつもりだったけど諦めたカーディガンを店での受け取りで購入してついでに外してもらおうかと考えた。

 いや、その前に、念のためにEショップに問い合わせのメールをする。もしかしたら自分で外す方法があるかもしれない。答は、なかった。お店までもって行けば外してくれるというのだけど、たどり着けるかどうか心配であるという口実を設けて、カーディガンを買ってしまった。受け取りは来週かな。
2020年11月4日21時。





 八日以内発送は店舗での受け取りでも適用されるのかと思ったら、今朝届いたという連絡がお店から来た。火曜日の深夜に購入手続きをしたから、実質1日ちょっとで受け取れるということになる。ワイシャツのICタグも無事に外してもらえたし。言うことはない。ちょっと文句を言いたいのは、カーディガンに、イタリア製と自慢げにタグがついていたことで、ほしいのはチェコ製なんだと叫びたくなった。ネットショップには同じカーディガンの色違いしかなかったから、どれを買ってもイタリア製だったのだろう。男物のカーディガンってあんまり見かけないんだよなあ。11月5日追記。








タグ:買い物

2020年11月05日

スロバキアの状況(十一月二日)



 スロバキアでは、先週末を使って、チェコでも前厚生大臣のプリムラ氏が実施を検討していた、コロナウイルス感染の有無を調べる全国民一括検査が行われ、検査のキャパシティの関係もあって国民のほぼ半数、約250万人の人が検査を受けたという。スロバキアの人の話では、この検査は、名目上は希望者のみということになっていたけど、実際は、検査後は、検査で陰性の結果を得ていない人は、仕事のための外出も禁止されるという実質的には検査を強要するものらしい。
 その一見、希望者を対象にしていながら、実質的には強制となる今回の検査には野党側からやり口が姑息だという批判の声も上がっている。腐敗し果てたとみなされていたフィツォ氏率いるスメル党の政権を倒して、全国民の期待を集めて成立したマトビチ内閣だが、今のところ、期待に応え切れているとはいえない印象である。前の内閣が、前の内閣だけに、前の方がましという声までは出ていないようだけど。

 とまれ、250万人という規模で行われた検査の結果は、陽性者の割合が1パーセントほどというものだった。つまり週末二日かけて2万5千人ほどの新規感染者が確認されたということなのだが、この数字多いと見るべきか、少ないと見るべきか。マトビチ首相は来週末にも第二回の全国的な検査を行い今回検査を受けなかった人たちにも受けさせたいと考えているようだが、実務を担当した地方自治体からは、人的な面で実施は不可能だという声も上がっている。
 また、たかだか100人にひとりの患者を暴き出すのに、これだけの手間をかけるのは、特に感染者の割合が低かった地域で繰り返すのは意味がないと考え、割合の高かった地域だけで、それでもせいぜい3パーセントだったか、5パーセントだったかのレベルなのだが、二度目の検査を行うべきだという意見も専門家の中にはあるようだ。

 スロバキアの結果を見ていると、チェコでも実施してもあまり意味がないようにも思われる。特に最近は、検査数に対する陽性者の数が30パーセントを越えていることが問題にされているが、逆に言えば、保健所や開業医の判断で検査を受けさせる判断が適切で、感染者の多くを検査に送り込めているとも考えられる。全国的な全員検査が行われた自分の検査に行かなければならないから、それが嫌だからこんなことを言うというのもあるのだけどさ。

 空港で検査を受けた知り合いの日本人の話では、めちゃくちゃ痛かった上に、結果が出るまで何時間も待っていなければならいのも辛かったらしい。それなのに、今回検査を受けて陰性だったという知り合いのスロバキア人は、大して痛くもなかった上に、10分ほど待つだけで、検査の結果を受け取ることができたという。いわゆる簡易検査という奴なのだろう。春の流行期にチェコが中国から高額で押し付けられた奴は不良品ばかりでない方がましという代物だったけど、今回のは使い物になるのかな。中国製でなければある程度の信頼性は確保できているのだろうけど。
 それよりも気になったのは、検査を受けに来ていた人たちが、冷たい雨の降る中行列を作っていたことで、これで体調を崩したという人が多数出ても不思議には思わない。また行列の人間距離も奨励されている2メートルを越えているようには見えなかったし、下手をすればこの検査で感染したという人もいかねない。ほとんどみんなちゃんとマスクをしていたから、大丈夫だとは思うけれども。

 もう一つの問題は、今日の検査で陰性だったからといって、明日も陰性とは限らないということをスロバキアの政府がどう考えているのかよくわからないことにある。この手の全員検査は感染症の流行状況の傾向を調べるのには使えても、個々の人の感染の有無を確定させるのには使えない。本気で検査によって陽性者を洗い出し、隔離することで封じ込めを図るのであれば、定期的に検査を行うしかない。
 それこそチェコのサッカー界がやっていたように、最低でも毎週一回試合前に検査を行い陽性者がいたら、いなくなるまで陰性者の再検査を繰り返すという方法である。これなら最終的には、すべての陽性者を洗い出すことは可能だろうけど、全国民を対象にというのは非現実的である。

 とまれ、今週末の第二回全国検査がどうなるか注目しておこう。結果次第ではマトビチ政権が意外と求心力を失っていることが明らかになるかもしれない。
2020年11月3日14時。









2020年11月04日

墓参りの日(十一月朔日)



 日本でお墓参りというと春秋のお彼岸の時期、夏のお盆の時期にするものだが、チェコでは、十一月の初めがお墓参りの季節である。これは、馬鹿どもが馬鹿騒ぎをする日として日本でも定着しつつあるらしいハロウィンと起源を共通にしているのだろう。ただし、チェコではハロウィンはそれほど定着していないので、12月5日のミクラーシュの日とは違って、騒ぎに巻き込まれるようなことはない。プラハでは知らんけど。

 ところで、チェコではプリムラ前厚生大臣が退任前の最後っ屁として導入した規制の適用が始まっている。そのうちの一つは深夜の外出禁止で、夜9時以降、朝5時までは例外を除いて家を出ることが禁止された。例外は仕事の行き帰りと病院に行く場合、それに犬の散歩ということになっている。犬の散歩だけは自宅から500メートル以内の範囲に限るという制限がついているが、夜中に犬の散歩なんて必要な人がいるのかね。
 すでに、ニュースでは、犬のぬいぐるみを小さな台車に乗せて紐で引きずりながら歩いていた人が、警戒中の警察に止められて、犬の散歩中だと主張する様子が流されている。そのせいか、警察では、通勤、もしくは仕事帰りというのもそのまま信用はできないということで、外出禁止の時間帯に通勤のために外に出なければならない人には、会社などの雇用主に証明書を出してもらうよう求めているようである。

 もう一つの規制の強化は、スーパーマーケットなどの現在でも例外的に営業が許可されている店の、日曜日の営業禁止である。例外的に薬局とガソリンスタンドの売店、駅やバスターミナルなどの売店だけは営業が許可されている。日曜日の営業禁止は、他の規制と同様、人々の外出の機会を減らし、家族以外との接触を減らすことを目的としているという。
 しかしこの規制は発表された時点で、その効果が危ぶまれていた。チェコは共稼ぎの家庭が多く、週末にまとめて大きな買い物をするために、郊外の大規模ショッピングセンターに入っているスーパーに買出しに出かける人が多い。その週末の買い物客が、土曜日に集中することで、店内の混雑が激しくなることが予想されたのである。一応、単位面積当たり何人までの入店を認めるという規制はあるが、すべての店で対応できるとも思えない。
 店内が混雑するということは、同じ空間の中にいる人の数が増え、他人と同じ空間の中にいる時間も長くなるということで、これはこれまでの感染症対策に逆行するのではないかという批判の声が上がった。ただでさえ、日々の営業時間も、閉店時間を早めることが求められているため、短縮されているのである。つまり時間当たりの買い物客の数が増えているわけである。

 そんな中、規制が始まって最初の土曜日は、予想通り各地のスーパーマーケットは混雑していたようだ。ただ、もともと週末の二日間のうち、土曜日の方が買い物客が多いのだが、その普段の土曜日よりも多少多いぐらいですんだという。一つには、ショッピングセンターに入っているほかのお店が軒並み、Eショップで買ったものの受け取り窓口以外は閉店しており、買い物の間子供を遊ばせておくコーナーや、フードコートも閉鎖中なので、暇つぶしに出かける客が減り、買い物が必要な客も滞在時間が短くなっているからだろう。
 それでも、流行の拡大を防ぐという観点から言えば、一時に入店する客の数が増えすぎないほうが望ましいわけで、そう考えると、日曜日の閉店を強制するよりは、スロバキアでは確か再度導入されているはずのお年寄り専用営業時間を設けたほうがましじゃないかとも思う。チェコの場合には、他の国とは違って当のお年寄りたちがこの制度に不満をぶちまけていたから再導入は難しいのだろうけど。

 そして話は冒頭の墓参りに戻る。チェコの墓参りの日は、本来11月2日なのだが、今年は月曜日のため、政府の慫慂もあって、その前日の日曜日に、つまり今日墓参りに行く人が多かった。墓地の近くには、墓参りの際には献じるお花や、蝋燭を売る店が出るのが普通である。今年は、本来であれば規制の対象となって営業できないはずなのだが、政府が例外を認めて営業していた。ただ、お墓参り用品は形だけ他の商品ばかりという売店もあったみたいだけど。流石チェコである。
2020年10月2日22時。





 日曜日の方が時間の都合がつきやすいので、本当のお墓参りの日である月曜日には、それほどお墓は混雑しないものと思っていたら、お墓の近くで渋滞が起きているというニュースも流れた。







posted by olomoučan at 07:55| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ

2020年11月03日

ちょっと心配な厚生大臣(十月卅一日)



 就任から一ヶ月ほどで辞任に追い込まれたプリムラ氏に代わって、いつ辞任したのか、解任の手続きが行われたのかはわからないが、木曜日に新たな厚生大臣がゼマン大統領によって任命された。新たに厚生大臣になったのは、事前に予想されたとおりブルノのマサリク大学医学部の大学病院で小児病棟の長を務めていたヤン・ブラトニー氏である。
 任命式はラーニの城館に滞在中の大統領の下で行われたのだが、最近腕の骨を折って以来、衰えが目立ち、以前は立って行っていたようなことでも、椅子に座ったまま行うことが増えているような気がする。少なくともニュースの映像によれば、ブラトニー氏の任命の儀式も、椅子に座ったまま任命の証書を手渡す形で行われたようだった。

 そして、新任の厚生大臣であるブラトニー氏に助言をしたのだが、その中身がまた物議を醸した。まず、厚生大臣というのは政治的な役職だということを強調して、おそらく単なる医療の専門家としての意識ではいけないということを言おうとしているのかと思ったら、「ビシェフラットにだけは足を向けるな。危険だから」と、前任のプリムラ氏が辞任に追い込まれた事件にあてこすった。
 マスコミが罠をはって待ち構えているから、スキャンダルの原因になるということだろうか。あの件は、プリムラ人気を恐れたANOの仕掛けだったと言われた方が納得がいくような気もするのだけど。それはともかく、状況が普通なら、ゼマン信者に限らず、こういうマスコミに対する当てこすりを喜ぶ人はいそうである。ただ、現在の流行の拡大が止まらない状況では、そんな余裕のある人は多くはあるまい。

 さて、肝心のブラトニー厚生大臣だが、就任早々、周囲を不安にさせるような事実が判明している。この人、チェコの優秀な医師の例に漏れず国外でも、具体的にはアイルランドだったかな、長年医療活動に従事した経験があり、小児科医として優秀であるのは疑いないのだが、感染症についてどこまで詳しいのだろうかという疑問は残る。
 あるマスコミが、今年の春のこととして報道していたのは、ブラトニー氏が春の武漢風邪流行の際に、これは「重いインフルエンザのようなものだ」と公の場で複数回発言していたという事実である。個人的には、この認識は正しく、世間一般が風邪やインフルエンザを軽視しすぎるのが問題だと考えているのだが、特別な感染症対策が重要なこの時期に、このような発言をした人物を責任者としてすえるのはいかがなものかと考える人がいてもおかしくない。

 そして、就任後のある会見の際に、一人の感染者が何人の患者を新たに感染させるかを示す指数であるR指数について、頓珍漢なことを語ったらしい。本来この指数が1.5の場合には、1000人の新規患者が、さらなる1500人の新規患者を産むということで、合計すれば2500人になることを意味するはずである。それを、1000人が1500人に増えるということだと、一度ならず発言したという。これでは、1000人の患者が500人しか患者を増やさないことになり、最初の1000人の治療が終われば、500人しか残らないのだから、感染者の数は減っていくはずである。
 この辺は、厚生省の専門家が、その中には辞任したプリムラ氏も含まれるけど、新大臣を教育していくことになるのだろうけど、マスコミの人間や、素人でも、これまでの説明を受けて理解していることを、医療の専門家である新大臣が誤解しているというのはなんとも頼りないことである。現時点では規制の強化はしないと断言しているが、それがこの誤解が理由だとしたら、ちょっと心配になる。正直。これ以上の規制は勘弁してほしいと思うけど。

 この二つ以上に、先行き不安になるのは、ブラトニー氏に、バビシュ首相の退陣を求める署名活動に賛同して署名した過去があるという報道だった。この春まで、何度も全国的な反バビシュ首相のデモを主宰してきた「ミリオン・フビレク」という団体が、二年前だったかなに、行った署名活動の際にブラトニー氏も署名したというのだ。
 当初は、他人に名前を使われたなんてことを言っていたような気もするが、最終的には自分自身が署名したことを認めた。署名活動なんて、内容をよく考えずに、知り合いにたのまれたからという理由で署名することも多いのだから、特に気にせず最初から認めればよかったのにと思ってしまう。最終的には、バビシュ首相と、政治的な信条よりも、現在は流行の拡大を阻止することが大切だということで合意したらしい。

 現時点ではきれいにまとまってよかったねというところだが、バビシュ首相のことを考えると、この問題はこれでお仕舞いということになるとは思えない。次の厚生大臣が就任するのは年明けぐらいだろうか。
2020年11月1日23時30分。










posted by olomoučan at 08:21| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ

2020年11月02日

チェコの童話2(十月卅日)



 国会図書館のオンライン目録で確認できる二つ目のチェコの童話は、「靴と指輪」の翌年、1925年に日本語に翻訳されている。「王子と王女と不思議な男」という童話で、「チエコスロヴアキア」のものとして、『五色童話集 世界の童話』という本に収められている。著者とされるのは樋口紅陽で、出版社は日本お伽学校出版部。この日本お伽学校は著者が設立したもののようだが詳細は不明。

 この童話集には、著者の創作を含めて、童話と童謡が合わせて14編、牡丹色、藍色、紫色、緑色、セピヤの五色に分類されて収録されている。それが、「五色童話集」という所以のようだが、「五色童話集を あらわすに ついて」と題された序文によれば、童話の内容と色に関係があるわけではないようである。読書の際に目に害を与えないような色を5つ選び、目に与える害が最小になるようにそれぞれの色で刷り分けたというのである。だから、最初に収録されたインドとドイツの童話が牡丹色ですられた後に置かれた、チェコの童話が藍色で刷られているのは、偶然の産物なのだろう。最初に題名を見たときには、色にかかわる童話を集めたのかと期待したのだけどね。
 著者はさらに、同じ緑といわれる色でも、微妙に違った色があるから、将来は数十種類の色で刷り分けが可能になるなんてことを書いて、この刷り分けが世界最初の試みであることを誇っている。追随する出版社があったとも思えないし、著者自身、著者の学校の出版部自体が同じ試みを繰り返したことも確認できない。国会図書館のデジタルライブラリーでは、色の違いもよくわからないし、子供たちの目にどれだけいい影響を与えたのかもわからない。

 この翻訳で注目すべきは「チエコスロヴアキア」という表記が採用されていることである。この時期主流だった「チエツコ」という表記から促音を表す「ツ」が消え、普通は「ヴァ」とかかれるものが「ヴア」となっている。国会図書館のオンライン目録で確認できる範囲では、1925年3月刊のこの本が「チエコ(・)スロヴアキア」の初例の一つである。もう一冊、同年に刊行された書物と、同年3月に刊行された雑誌に見られるのだが、オンラインでは見られないので発行日が確認できず、どれが一番最初に刊行されたか確認できないのである。ただし、「チエコ・スロヴァキア」と「ヴァ」が使われている例はこれ以前に存在する。

 童話の前に1頁使って、チェコスロバキアの紹介が書かれているのだが、1920年代も半ばになって国内外の情勢が安定し始めていたことを反映してか、結構いいことが書かれている。「大層土地が肥えてゐますから穀物がよく穫れます。それにいかにもお伽噺にある様な森が澤山あつて、材木もよいものが出来るし、山からは石炭が出るといふ、小さいがなかなかよい国です」と結ばれている。
 童話のほうは、簡単に言えば王子さまの花嫁探し譚なのだけど、王子が旅に出て出会う不思議な男の名前が、「長一」。これで「ちょういち」と読めば、日本人の名前としてアリかもしれないが、「ながいち」というルビがついている。二人目が「太一」で、「たいち」ではなく、「ふといち」と読ませる。この辺で、チェコ語の原典がわかったような気がするけれども、三人目は名前の付けようがなかったのか、「眼の強い男」と呼ばれている。

 これは、ツィムルマンの劇の元にもなった有名な童話「Dlouhý, Široký a Bystrozraký」だ。題名になっている三人の登場人物のうち「Dlouhý」を「長一」、「Široký」を「太一」と日本語に訳して命名したはいいものの、「Bystrozraký」は訳しようがなくて「眼の強い男」として誤魔化したということだろう。
 この童話、有名だとはいうものの、実は読んだこともなければ、誰が書いたものかも知らないのだった。それでチェコ語版のウィキペディアで調べてみたら、カレル・ヤロミール・エルベンの童話だった。エルベンの『České pohádky』という本に収められているらしい。エルベンは1870年に亡くなっているからクルダの「靴と指輪」よりも、古い作品だということになる。

 それはともかく、エルベンの集めたボヘミアの有名な童話よりも、存在は知らなかったけどクルダの集めたモラビアの童話のほうが先に日本語に翻訳されて紹介されていたという事実は、驚きであると同時に、モラビアに愛着を感じてオロモウツに住んでいる人間にとっては嬉しいことである。この時期にチェコの童話が翻訳されていたこと事態が驚きと言えば驚きだけど、民俗学への感心が外国の民話、童話にも向かったと考えていいのだろうか。
2020年10月31日22時30分。















2020年11月01日

チェコの童話1(十月廿九日)



 国会図書館のオンライン目録で、チェコスロバキアを表す言葉の用例を探していたら、思わぬ発見があった。「靴と指環」というチェコの童話が、すでに1924年に日本語に翻訳され、童話集に収録されていたのだ。1924年といえば、チャペクの作品の最初の日本語訳『人造人間』が刊行されたのが1923年だから、その翌年、現在確認できている中では二番目に古いチェコの作品の日本語訳ということになる。もちろん「チェコ童話」とは書かれておらず、「チエツク童話」とされている。

 この童話が収録されたのは『世界童話名作選集 少年詩人の旅』(日本評論社)という本で、ヨーロッパを中心に9カ国、全15編の童話が日本語に翻訳されて収録されている。アジアからは中国ではなくて、「支那童話」が1編だけ。イギリスとスコットランドが別にされているのが興味を引くが、イギリスが4編、スコットランドが3編とこの二つ、つまりはイギリスだけで全体の約半分を占めている。残りはドイル2、フランス、ベルギー、ロシア、ハンガリー、それにチェコが1編ずつという構成である。
 訳者はプロレタリア文学の評論家だった山内房吉。どのような事情でこれらの作品が選ばれたのかは、「はしがき」にも書かれていないので不明。チェコの童話「靴と指環」は、この時期にチェコ語から翻訳できる人がいたとは思えないので、恐らくは英語かドイツ語、もしくはロシア語版からの重訳であろう。本の構成がイギリス物に偏っていることを考えると、英語版のネタ本があったようにも思われる。

 さて、著作権処理も終えてインターネット公開されているから、全文引用しても問題なかろうとも思ったのだが、いざ始めてみると思った以上に厄介で、あらすじを紹介するにとどめる。中途半端な歴史的仮名遣いで書かれているのがいけない。自分で歴史的仮名遣いで文章を書こうとは思わないけど、歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに直すのはしたくない。

 主人公は鍛冶屋の息子のハインクで、年老いた両親を残して、自分に合った仕事を探すために旅に出る。二日目に、父親の遺した三つのものを巡って争う三人の兄弟と出会う。一つは履くと「一足で十里も行く」ことが出来る靴、二つ目は着るとどんな遠いところにもどんな高い場所にも飛んでいける外套、最後は被ると姿が見えなくなる帽子だった。ハインクは三人を仲裁するといって三つのものを預ってトンずらする。
 外套を着て空を飛んで休憩のために降りた場所で、切株の下に大きな洞穴があるのに気づく。その洞穴に入っていくと、人は誰も居ないが、御馳走がおいてあったので、食べてしまった。そうすると老婆が出てきて、この洞穴に泊めてもらうことになる。三晩続けてハインクが幽霊の出てくる試練を乗り越えると、老婆はこれで魔法の国が助かったという。
 魔法の国の王女が出てきて、ハインクに自分とともに国の跡継ぎとなるように求めて金の指輪を渡す。そして二人は洞穴を出て魔法の国の王様の城に向かい滞在する。あるときハインクは両親のことを思い出し、王女との結婚式に招待したいと思うようになる。王女は金の指輪が、指の上で一回まわすとどんな遠いところにでも1分で行けることを教えて、迎えに行くように勧める。
 しかし、ハインクはその途中で金の指輪をなくしてしまう。魔法の国にも両親のところにも戻れなくなったハインクは、魔法の外套を使って太陽と月と風のもとを訪れ、最後は風の助けで魔法の国に戻ってくることに成功する。それは魔法の国で王女の結婚式が行われようとしているときだった。結局ハインクの代わりに婿となる予定だった男の勧めもあって、王女はハインクと結婚する。
 二人でハインクの両親を訪ねて、魔法の国の宮殿に迎え入れ、途中で三人の兄弟に盗んだ靴と外套と帽子を返す。最後はまだ二人が生きているなら、魔法の国で幸福に暮らしているだろうという形で終わる。

 チェコの童話をそれほどたくさん知っているわけではなく、この童話の原典がチェコのどの作品なのもわからなかった。それで知り合いに調査の協力をお願いしたら、あっさり答がわかってしまった。モラビアの民話や民謡を収集して刊行していた民俗学者(と呼びたい)のベネシュ・メトット・クルダの「Boty, plášť, klobouk a prsten」という民話だろうというのである。チェコ語の題名を直訳すると「靴と外套と帽子と指輪」ということになり、民話に登場するものが並べられている。邦題は最初と最後の二つをとったと考えればよさそうだ。
 クルダは1820年に生まれ1903年に亡くなっているが、カトリックの教会の司祭として活動する傍らで、モラビア各地の民話を集めて書物としてまとめて刊行したようだ。チェコ語版のウィキペディアには『Moravské národní pohádky, pověsti, obyčeje a pověry』という1874年に刊行された大部の本の書名が上がっているが、協力してくれた知人の話では、『Valašské pohádky』という本で読んだというので、モラビア全体の民話集の中から、バラシュスコ地方の民話だけを抜き出して刊行した版も存在したのかもしれない。

 ドイツのグリム兄弟の影響を受けて、チェコで民話を収集してまとめたり、再話したりして刊行した人物というと、まずエルベンの名前が浮かび、それにニェムツォバーが続くのだが、二人とも語へミアが中心である。モラビアにはこのクルダがいたというなのだろうが、今までその存在を知らなかった。恐らくモラビアの一地方の民話をもとにして書かれた童話が、チェコスロバキア独立から数年で日本語に翻訳されて紹介されたというのは、それが他言語版からの重訳だったとしても、信じ難い思いがする。あれ、モラビアの童話に「チエツク童話」とつけられているのはどういうことなんだろう。チェコスロバキアの童話というのを短縮しただけかな。
2020年10月30日16時。












2020年10月31日

百二回目の建国記念日(十月廿八日)



 チェコスロバキアが独立したのは、第一次世界大戦直後の1918年のことだった。ただ、独立したといっても当時のチェコの人たちがどこまで実感を持って受け止められたのかは、いささか心もとない。戦争が発生した時点ではオーストリアの一部だったチェコスロバキアは、マサリク大統領たちの国外での活動によって、最終的には戦勝国側に立ったとはいえ、本来は敗戦国で、国土は荒廃し、食料などさまざまな物資の欠乏に悩まされていたという。1918年からの二年は、世界をスペイン風邪の流行が席巻した時代である。現在とは違って医療技術も保険制度も整っていなかったから、感染した場合にしにいたる危険度ははるかに高かったはずだ。

 そして、独立は決まったものの、ポーランド、ハンガリーとの国境が完全に確定しておらず、ポーランドとはチェシーン地方を巡る紛争、いわゆる七日間戦争をおこしているし、ハンガリーとも何度か軍事的な衝突が起こっていたはずである。建国されたチェコスロバキアの国境がほぼ確定するのは1920年になってからのことだったと記憶する。その一方で、チェコスロバキアに取り込まれることがほぼ確定していたドイツ系の住民が、不満を高めていた。国際的にも国内的にも情勢は不穏だったのである。
 さらに、独立の立役者のマサリク大統領も、スロバキアの英雄シュテファーニクも国外から帰国しておらず、主役を欠いた独立の祝典が、どれだけ盛り上がったのだろうか。マサリク大統領のお国入り、つまり独立を達成して初めて帰国し、鉄道でプラハに到着したときの様子は、一昨日紹介したマサリク大統領の伝記にも記されているが、ある意味で、このマサリク大統領のプラハと帰還が、建国時の最大のイベントだったのではないかとも思われる。

 何故こんなことを考えるかというと、今年の建国記念日が、例年とはまったく違って、チェコ各地で行われる式典のほとんどが中止に追い込まれた結果、非常にさびしいものになってしまったからである。大きなものでは、プラハ城前の広場で行なわれる軍の新人の入隊式典も、城内で行われる大統領による勲章授与の式典も、特に後者はゼマン大統領が最後まで実施しようと頑張っていたが、最終的には政府の勧告を受け入れて中止されることになった。この勧告が厚生大臣としてのプリムラ氏の最後の仕事だったのかもしれない。

 中止された授与式の代わりに、ゼマン大統領はテレビで演説をしたのだが、受勲予定者とその家族に対して、式典を中止せざるをえなかったことを謝っていた。ただ、勲章を授与されるような功績を挙げた人は、高齢者であることが多いから、式典が開催されていたとしても、出席できない人もかなりの数に上ったに違いない。その家族も感染させる危険性を考えて出席を回避する可能性も高いし、関係者の中にも開催を望まない人が多かったに違いない。
 今年の受勲対象者については、名前を発表するだけで、実際の授与式典は来年、来年の分の受勲者と同時に開催されることが決まった。その名簿の発表がまた、物議を醸した。ネット上で名簿を公開しただけで、報道機関の中にはその名簿を入手しようとして大統領府の広報部門に連絡したのに、拒否されたなんてところもあるらしい。個人的には、ゼマン大統領の演説の代わりに、テレビで名前と業績を紹介すればよかったのに。最近のゼマン大統領の話って、同じことの繰り返しばかりで聞いていても全く面白くないのである。

 毎年の建国記念日のイベント、勲章の授与式を楽しみにしているなどという気はないが、最近規制ばかりで息が詰まる。スポーツにしても式典にしても、何かのイベントがどこかで行なわれているという事実が、参加しなくてもニュースで目にすることで、精神的な安定をもたらし、安寧な生活を送らせてくれるということに改めて気づかされた。
 来年は、無事に建国記念日の式典が、授与式だけでなく、チェコ各地で行われる小さな式典も含めて問題なく開催されることを願っておく。スペイン風邪の流行が二年続いたことを考えると、来年はまだ難しいかなあ。ワクチンに期待とは言っても、そんなに短期間に作れるものでも、作っていいものでもないから、再来年ということになるかもしれない。
2020年10月29日23時。



どう決着をつければいいのかわからないレベルで大失敗。うーん。






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2020年10月30日

戦前のマサリク大統領(十月廿七日)



 戦前に刊行された単行本としてのマサリク大統領の伝記は、国会図書館で確認できる限り昨日紹介した二冊だけだが、国会図書館のオンライン検索で、当時の一般的な表記である「マサリツク」で検索すると、意外なほど多くのマサリク大統領に関する雑誌の記事や、単行本に収められた文章などが出てくる。残念なのは、インターネット公開されているのは、そのうちの一部の単行本だけで、大半はデジタル化はされているものの、チェコからは中身を確認できないことである。

 最古の確認できる記事は、「マサリックヘ授ノ露國革命評――(一九一七年六月五日倫敦「タイムス」所載)」(人名に付された「」は省略)というもので、外務省政務局が編集発行していた「外事彙報」第9号に掲載されている。この号の発行日が目録に記載されていないため正確なことは不明だが、おそらく原典の発表された1917年中には出されたのではないかと思われる。
 共産主義やロシア革命に批判的な立場を取っていたことが、日本の外務省の注意を引いたのかもしれない。これが、日本のシベリア出兵につながったなんて考えると話はできすぎなのだが、どうだろう。シベリアで活動中だったチェコ軍団への援助と帰国の支援の交渉のために、マサリク大統領が日本を訪れたのは1918年のことである。

 その後第一次世界大戦終戦直後のベルサイユ講和会議の期間中に、チェコ軍団や新独立国チェコスロバキアとのかかわりでマサリク大統領に関する記事もいくつか雑誌に登場する。写真を表紙に使った「新公論」の1918年の9月号や、独立宣言とマサリク大統領の書いた「チェック・スロヴァック民族」の翻訳を載せた「外交時報」の同年11月15日号などである。この二つの記事の存在についてはすでに紹介した。
 人物伝としては、これも紹介済みだが、橋口西彦 編『ヴェルサイユ講和会議列国代表の各名士』(一橋閣、1919)がある。イギリスのロイド・ジョージやアメリカのウィルソン、日本の西園寺公望など全部で20人の世界中の有力政治家に混じって、マサリク大統領についての章が立てられているのである。ポーランドやハンガリーなどのドイツとソ連の間の中東欧の新規、もしくは再独立国の多かった地域からは他には誰も取り上げられていないことを考えると、評価の高さが見えてくる。

 1920年代になると、戦後の世界情勢を解説する書物の中で、チェコスロバキアを取り上げるなかで、マサリク大統領にもふれるようなタイプのものと、現代の偉人伝、もしくは立志伝的な記事が増えるように見える。
 前者としては、1923年に実業之日本社から刊行された井上秀子『婦人の眼に映じたる世界の新潮流』(「チエツク・スロワキアの部」が立てられ「新建國チエツク・スロワキア」と「マサリツク大統領」という二本の文章が収録)や、1927年に政治教育協会から「政治ライブラリー」の第一巻として刊行された『欧米政界の新潮流』(「チエツコ・スロヴアキア國」という章に、「新興のチエツコ共和國」「マサリツク大統領とベネーシユ外相」「チエツコ・スロヴアキア國の國民的運動とソコル團」が収録)などがあげられる。
 後者としては、「日本及日本人」の1926年12月15日号に掲載された鷺城學人「マサリツク博士――人物評論」や、1928年に中西書房から刊行された早坂二郎『歴史を創る人々』に収められた「チエツクの建國者マサリツク」、大阪で刊行されていた雑誌「公民講座」第43号(1928年)に発表された新井誠夫「【偉人の面影】致國獨立の偉人 終身大統領マサリツク」などが挙げられる。最後の例はチェコスロバキアを「致國」と表記している点でも興味深い。

 他にも共産主義とのかかわりでマサリク大統領を取り上げたものなどもあるが、他のどれよりも読んでみたいと思うのが「チェツコ・スロバキヤ大統領マサリツク閣下より日本の少年へ」という「少年倶樂部」の1931年7月号に掲載された記事である。出版社は大日本雄辯會講談社。どういう伝手でマサリク大統領まで話を持っていったのかは知らないが、この会社、本当にたまにいい仕事するんだよなあ。国会図書館が雑誌も古いものはオンラインで公開してくれるようになると最高なのだけど。

 こうしてみると、マサリク大統領は日本では、現在よりも、1920年代から30年代にかけての方が、有名だったようである。考えてみれば大戦間期のチェコスロバキアは、世界有数の工業国だったわけだから、その国の建国の父とされる人物が注目を集めたのは当然だったのかもしれない。
 ところで、最近は見かけなくなった「マサリツク」、もしくは「マサリック」という表記は、1980年代ぐらいまでは使用されていたようである。
2020年10月28日20時。












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2020年10月29日

マサリク大統領伝記(十月廿六日)



 職場でオンライン会議の合間のポッカリ開いた時間に、例の国会図書館のオンライン目録で遊んでいたら、マサリク大統領の伝記を発見してしまった。書名は『トーマス・マサリツク』、著者は岡田忠一、出版社は金星堂、刊行年は昭和5年、つまり1930年である。幸い国会図書館のインターネット公開の対象になっているので、全文PDF化して手に入れた。デジタルコレクションへのリンクはここ
 このマサリクの伝記は、「世界巨人叢書」という一瞬目を疑うような叢書の第三編として刊行されているが、この叢書は三冊で終了している。ちなみに第一編は『蒋介石』、第二編は『ロイド・ヂヨージ』というラインナップになっている。出版社の金星堂は、1924年にチャペクの『ロボツト』(鈴木善太郎訳)を刊行した出版社で、ウィキペディアによればチェコスロバキアの独立と同じ1918年の創業。戦前は文芸出版に力を入れていたが、現在は語学教科書の刊行で知られているらしい。

 さて、この『トーマス・マサリツク』には、当時の駐日チェコスロバキア公使のK.ハラという人の英文の序文とその日本語訳が掲げられている。その後にある著者本人の序文によれば、金星堂の社主のマサリクの伝記を刊行しようという意図を公使に伝えたところ、大喜びで、さまざまな資料を提供してくれたらしい。中にはチェコ語のものを英訳してくれたものもあるという。著者自身はチェコ語は「うんともすんとも判らぬ」と書いている。
 序文には他にも日本通のポーランド人の仲介でチェコスロバキア関係者と友誼を結ぶようになったことが書かれ、特に建築家たちと親交が深かったようで、「レモンド」(レーモンド)、「ファーレンシユタイン」(フォイエルシュタイン)という日本で活躍したチェコ系の建築家の名前が挙がっている。それどころか、フォイエルシュタインの担当した「舞台装置」の写真をまとめて『ファーレンシユタインの舞台建築』という本まで自費出版してしまったという。残念ながら国会図書館の目録では発見できなかった。チェコの外務省が数十部買い上げたという記述もあるから、日本のチェコ大使館に今でも所蔵されている可能性もある。
 建築家二人は、誰だか同定できたのだが、もう一人序文に固有名詞で登場するシモンという画家が見つけられなかった。シモンというと普通は名前を思い浮かべるのだが、チェコ語の場合には、本来名前として使われるものが、名字としても使われることが多いので、どちらか確定はしにくい。建築家とは違って、チェコの画家には詳しくないのが一番の問題か。

 本の内容は、建国後10年ちょっとで日本ではまだそれほど知られていなかったであろうチェコスロバキアという国についての概説から始まる。チェコスロバキアについて知らなければ、マサリク大統領を知ったことにはならないという著者の判断は正しい。地理的な情報から、産業、文化などについて簡潔にまとめられているが、歴史的な記述が紙数の関係でなされていないのが残念である。
 序文でもそうだったが、気になるのは「チエツコスロバツキア」という想定よりも「ツ」が一つ多い表記と、しばしば、「チエツコ国」「チエツコ共和国」などと後半のスロバキアを省略した表記が登場することである。やはり「チエツコスロバツキア」というのは、繰り返し何度も使用するには長すぎるのだろう。

 本編とも言うべきマサリク大統領の伝記は、「ホドニン」(ホドニーン)で生まれたところから、第一次世界大戦後に独立を達成して、1918年12月に大統領として帰国しプラハで民衆の歓声に迎えられるところまでが描かれている。著者は「結語」で大統領就任後の政策などについても書くべきだがこれも紙数の関係で出来なかったと記しているが、未だその任にあったマサリク大統領の伝記を、大統領就任の時点で終わらせるのは正しいと思う。刊行当時、79歳で大統領として三期目を務めているところであった。
 本の発行日は昭和5年1月20日、二ヶ月ほど刊行を遅らせればマサリク大統領の80歳の誕生日ということになったのだが、金星堂では、世界巨人叢書の続編を計画していたようで、巻末の目録に、第四編として、トルコの『ケマルパシャ』と、ドイツの『ヒンデンブルク』が近刊予定として掲げられている。この二冊は刊行されなかったようで、国会図書館のオンライン目録では存在を確認できない。

 マサリク大統領の伝記の単行本としては、昭和10年に日本社の刊行していた「偉人伝記文庫」の第45号として『マサリツク』が出ている。残念ながらインタネット公開には至っていないので読むことはできない。「偉人伝記文庫」の国会図書館の目録で確認できる最終巻は80巻で、すべて著者は中川重、刊行年は昭和10年というとんでもないシリーズである。
2020年10月27日20時。









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2020年10月28日

ボヘミアの研究2(十月廿五日)



 昨日の続きである。国会図書館のオンライン検索で発見した1910年代に入ってからのボヘミアの用例を紹介する。

 1912年に大阪で刊行された石河武稚訳『世界国歌集 : 翻訳』(七成館)に「ボヘミヤ國歌」なるものが掲載されている。当時はまだチェコスロバキア独立以前で、最初は国もないのに国歌とはこれ如何にと思ったのだが、今のチェコの国歌は、独立以前からチェコの人たちに歌い継がれていた民族の歌とでも言うべきもので、独立直後にマサリク大統領の意向で新たに国歌を制定しようとして失敗した結果、国歌として、国歌の前半として採用されたものだと聞いているから、「Kde domov můj(いずくんぞ我が祖国)」かと思ったら違った。
 楽譜があって、英語の歌詞が記され、その下にカタカナで読み仮名が振られているのだが、余った部分に「意訳」とする翻訳がついている。「いざわれらに美しき望を起さしめよ、/荒れし野山もゆたかにみのらせて」と始まる歌詞はどう見ても今の国歌とは違う。途中に「聖きウェンツエスラレスよ我がボヘミヤの尊き君よ」なんて部分があるから、聖バーツラフ伝説に基づいた歌のようである。戦いに向かうときの歌に見えるから、ブラニークの騎士の伝説の歌かもしれない。チェコでは聞いたことはないけど、そんなに民俗音楽は聞かないからなあ。それに聞いても歌詞が聞き取れないことが多いし。

 日本語のウィキペディアには、「聖バーツラフ」と関連して、「ウェンセスラスはよき王様」という歌が立項されているので、もしかしたらと思って覗いてみたが、ぜんぜん違う歌詞だった。説明を読んでも、何でチェコの守護聖人がイギリスでクリスマス・キャロルの題材になっているのか、さっぱりわからなかったけれども、「ウェンセスラス」とか、「ウェンツエスラレス」とか書かれてもバーツラフだとは思えないのが辛いところである。

 1914年には再び「外交時報」の9月1日付けの第236号に「ボヘミヤの民族鬩爭」という記事が掲載されている。第一次世界大戦の始まったこの年、オーストリアの一部であったボヘミアにおけるチェコ人とドイツ人の民族対立について書くとは目の付け所がいい。この時期にはすでに戦後のチェコスロバキア独立の種は蒔かれていたのである。

 翌1915年には岡島狂花『現代の西洋絵画』(丙午出版社)が「ボヘミヤの絵画」という章を立てている。著者の岡島狂花は詳細不明だが、著作権の処理が済んでいないとかで、国会図書館ではオンラインでの公開を行っていないため中が読めないのが残念である。それにしても誰が取り上げられているのだろう。クプカとかムハかな。チェスキー・クルムロフ関連でシーレなんて可能性もあるのかな。

 また同年の農商務省鉱山局がまとめた『海外諸国炭礦瓦斯炭塵爆発ノ予防規則』の中に、「プラーグ鑛山監督署管内ベーメンニ於ケル石炭礦ノ瓦斯及炭塵爆發豫防ニ關スル鑛業警察規則」(地名の「」は省略)という、恐らく当時のオーストリアの規則の翻訳が収められている。オーストリアの公用語はドイツ語なので、「ベーメン」という名称が使われているのだろう。

 続いて二冊の音楽関係の本がボヘミアを取り上げている。一冊目は1915年に刊行された田辺尚雄『通俗西洋音楽講話』(岩波書店)で「ボヘミア」と「ボヘミア楽派」の二章が立てられている。前者は概説的で、後者ではスメタナとドボジャークが重点的に取り上げられている。ズクとフィビッヒという作曲家も現在の作曲家として名前だけは挙げられている。ドボジャークが「ヅボルシャク」と書かれているのは、時代を考えると仕方がないかな。通俗というがいわゆるクラシック音楽の概説書であるのは間違いない。著者の田辺尚雄は、ウィキペディアによれば、東大で物理学を学んで音楽研究に進んだという人物である。

 翌1916年には、富尾木知佳『西洋音楽史綱』が、「独乙及ボヘミアの音楽」という章を立て、その末尾にスメタナとドボジャークを紹介している。人名は原則としてドイツ語で表記されており、日本語で書かれる場合にはひらがなが使われている。著者について詳しいことはわからないが、国会図書館の出版社のところに著者名が書かれていることを考えると、私費出版だったのかもしれない。
 この二冊の内容で気づくことは、チェコ第三の作曲家であるヤナーチェクの名前がないことである。この時期にはすでに国内では作曲家としての名声は高めていたはずだが、国外まではそれほど知られていなかったということなのか、モラビアの作曲家なのでボヘミアには入れなかったのか、どちらであろうか。

 注目すべきは大戦も終わる1918年の雑誌「新公論」9月号であろう。「マサリツク博士」の写真を表紙に使った上で、「ボヘミヤ志士の首領」という文章を掲載しているのである。著者は長醒子とあるが、どうも編集者か誰かの変名のように思われる。それはともかく記事の題名が……、マサリク大統領山賊の親分扱いされているのか。オーストリアの官憲から見ると、不逞の志士だったというのは確かなのだろうけど、これでは幕末の京都ではないか。状況は似ているのか?

 最後に1919年のものになるが、「官報」にも触れておく。この時期、チェコスロバキアがオーストリアから分離したため、郵便物などの扱いをどうするかという告示が、逓信省の名で何度か、「官報」に発表されている。面白いのは内容が郵便物にかかわる場合には「ボヘーム」「モラヴィー」という表記が使われ(第616号、5月9日付けなど)、電報にかかわるものは「ボヘミア」「モラビア」という表記になっていること(第628号、5月21日付け)である。国際条約の原文が何語かによる表記の違いだろうか。
2020年10月26日23時。










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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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