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陽葵は、ひなたと読みます。仏教が好きな仏教ガールです。一緒に仏教を学びましょう。
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2021年06月06日

無常を観ずるは菩提心の一なり(道元)

その昔、禅宗の道元という人は、
日本史の教科書の中にもよく出てくるけど、
無常を観ずるは菩提心の一なり
という有名な言葉を残しました。

無常というの、続かない、やがて消えてしまうということで、
どんなに大事にしているものでも、やがて消えちゃうよということ。

観ずるということは、
それを見つめていく。

そうすることによって、
変わらない幸せ、本当の幸せ、この世のどこかにないものかと求める心を、
菩提心と言うんですが、
菩提心が起きてくる。

この世のものがすべて滅びるとするならば、滅びざる、
永久に散ることにないまことの幸せってどこかにないのかと
「一切の滅びる中に滅びざるまこと求めてただひたすらに」
と言う言葉もありますが、
そういう本当の幸せを求める心が出てくる第一歩だと。

人間何の為に生まれてきたかといえば、
幸せになるために生まれてきたんで、
永久に輝く、本当の幸せを突き止める第一歩は、
この世の無常をありのままに見つめることなんだよと、
そういうことが分かれば分かるほど、
どこかに崩れない幸せはないかと言うことをハッキリさせる
第一歩になると言う言葉です。

桜の花が散る時に
私達に語りかけてくることも同じということですね。
posted by 陽葵 at 17:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 無常

2021年03月23日

人が多いほど寂しい東京砂漠の孤独

目的がいい加減ということになると、
人間は、
ただ一時だけ、その人と一緒に欲を満たす、
それだけの友達ということになっちゃうんです。

そう言う友達は一過性で、上っ面で、表面的で、
心の中でこいつは使えるかどうかという
利害打算がうごめいていて、
「試験の時にノート科してくれるだろうか」

こういうことで万事つきあいを考えている、
自分が寒い。

しかし誰にも言えないので、国家機密になっている。
そう言う人もあるそうです。

ほんの一時楽しく遊ぶだけなら、すぐにバラバラになってしまう。
そして、愛想笑いを浮かべているのが、どうもむなしく感じる。
そういう人が非常に多いようです。

この大都会、東京の町はものすごくたくさんの人たちが
うごめいていますよね。
東京都は、いうまでもなく、
たくさんの人が集まっているところですよね。

これほど大勢の友達や先輩が良そうなところは他にないよう
に思いますけど、その一方で、
最も多くの人が孤独を感じる町ともいわれます。
だからサハラ砂漠の上を行く、東京砂漠。
オアシスが欲しい。

孤独というのは、普通はひとりぼっちでいて、
誰もそばにいてくれない時に
感じるものと、そうでないものがあります。

誰も友達がいなくて、家族がいなくて、一人で過ごさなければならない。
確かに寂しいです。

しかし、これだけ多くの人に囲まれて、上っ面だけど友達もいて、
多くの人がひしめいているこの町で、どうして多くの人が
孤独を感じるのか。
それは、なかなか分かってくれない心を多くの人が抱えているから。
こう思われます。

孤独については以下の記事に詳しく解説されています。

孤独・ひとりぼっちの由来と仏教に教えられる解消法

どこに向かって生きているか分からずに、
お互いに自分の胸の内をなかなかわ
かってもらえない。
そんな感じが致します。

2021年02月28日

流行歌で歌われる幸せの実際

幸せの実態は流行歌の中に見受けられる。

例えば浜崎あゆみ。
かつて1141万枚売り上げで売り上げベスト1を記録し
ゴールドディスク大賞をとったことがある。

浜崎を支えているファンはみんな歌詞がいいと言う。
浜崎あゆみの歌詞のなかで何がよかったかというアンケートを
ニュースでやっていた。

第3位は「FarAway」。
幸せは指の先からこぼれ落ちていく。
幸せは続かない。

第2位は「TOBE」。
あなたがいるからどんな時も笑っていたよ。

第1位は「Seasons」。

NHKの紅白歌合戦で歌った曲。
「ROCKIN'ONJAPAN」に浜崎あゆみがインタビューを受けていて、
「Seasons」を歌っているときのあゆはあゆを演じていると行っていた。

「今日がとても楽しいと明日もきっと楽しくて、
 そんな日々が続いてくそう思っていたあの頃」

今日がとても幸せだと、明日も幸せになっていってほしいと思っていたけれど、
実際はひどいことや嫌なことがおきてきて続かないと言うことをいっている。

「繰り返していく毎日に少し物足りなさを感じながら、
 不自然な時代のせいだよと先回りして諦めていた」
どこまでも繰り返していく人生に、
代わり映えもしない人生に嫌気がさしていた。

人生はつまらない毎日が続いていく。
しばし自分の心をよろこばせてくれるものを獲ても、
どうせしばらくすると陳腐な者に変わってしまう。

自分がいまだ持ったことのないものを持つと新鮮に感じられるが、
暫くすると元の通りに戻ってしまう。

「Seasons」の最もしびれる歌詞は
「今日がとても悲しくて明日もしも泣いていても、
 そんな日々もあったねと笑える日が来るだろう」。

今日がとても寂しくて、泣いていても、笑える日が来るだろう。
普通は来るだろうと思っていてもそんな日は来ない。

しかし大悲の願船に乗せていただくと、今まで苦しいことがたくさんあった。
しかし笑える日が来る。
それは全部報われた時。
今まで苦しんでいたのはこの身になるためだったとなった時です。

私達は続かない幸せだと、手の先からこぼれ落ちるたびに
悲しい思いをする、寂しい思いをする。
それを身近な話題から話をして、そんな続かない幸せではなくて、
続く幸せはどこにあるのか。

そのことを『歎異抄』の中に
「摂取不捨の利益」と言われている。

歎異抄については、以下のサイトに一番正しく解説されていると思う。

歎異抄.com

2020年10月25日

自分で自分の姿を知る

自分で自分の姿を知ることはできるだろうか。

もちろん自分の中の最大の道徳的良心をもって、
自分のすがたを見てみようということ。
寝るまえに沈思黙考反省する。

これはどうだろう。
自分のすがたを正しく映すだろうか。

人間には欲目ってのがある。
心理学でもあらゆる病気の原因も自己愛ということから見られる。
そういうように欲目ということがある。
自分のこともどれだけ反省してもみれないところがある。

よく親の欲目というのがある。
親ばかといわれる。

子供が万引きして警察から通報されると必ず言うことがある。
「うちの子に限って」
警察はそういうこと言うのは分かっているから
「おたくのお子さんですから。
警察のほうにきてください」という。

そして行ってみると、子供が座っている。
そしてだいたい言うのは
「友達にそそのかされたんです」という。
自分の子供ってのは、自分の産んで育てた子供。
自分のこと。
自分に対する欲目。

posted by 陽葵 at 13:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 罪悪

2020年10月22日

ロンリー・コンプレックス

作家・唯川恵(ゆいかわ・けい)の
『ロンリー・コンプレックス』の「はじめに」に
このように書かれてあります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

もし今「不幸ですか?」と尋ねられたら、すぐに「いいえ」と
首を振ることができます。
でも「満ち足りてますか?」と尋ねられたら、
きっと返事に詰まってしまうでしょう。

【不幸じゃないけど、満ち足りてはいない】

確かに、食べることに困るわけではないし、住むに困ることも
ない、そこそこのお給料をもらい、そこそこの欲求も満たされ
て、それなりの毎日を過ごしています。

それでもやっぱり【何かが足りない】のです。

それが何なのか、自分でもよくわかりません。
だからつい、他人と較べて自分を位置付けてしまう。
あの人には充実した恋がある、心を許し合う友達がいる、暖かい家族がある、
やりがいのある仕事がある、なのに私ときたら・・
そして、ひとりとり残されてゆくような気持ちになってしまうのです。
時には、今を実感できなくて、他人の人生を生きているような
気にさえなってしまいます。
そんな心の奥底を探ってゆくと、これにぶつかりました。

【孤独】です。

文字にすると、ちょっと重くて、イメージ的には部屋の片隅で
膝を抱えている図を頭に浮かべてしまうかもしれません。
でも、今、私が感じているのは、それとは少し違っています。

【同じ孤独でも、みんなで集まってワイワイ騒いでいる中で、
ふっと異次元に足を滑らせてしまったような孤独です】

そんな経験はありませんか。
【楽しいのに、みんながそばにいるのに、どうしようもなく孤独
に陥ってしまうことが】
私にはあります。
そして、それは毎日の生活そのものにも言えることではないか
と思うのです。
それなりの快適な暮らしをしている中での孤独。
いいえ、【それなりの快適な暮らしだからこそ感じる孤独】

それは放っておいたら消えてくれるというわけではなさそうです。
逆に、これからもっと付き合う時間は長くなってゆくでしょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「う〜ん分かるなー」という人が多い文章じゃないですかねー。
【孤独な群衆】という言葉もありますが、孤独は友達に囲まれ、
衣食住がそろっていても感じる、いえ、余計に感じるもの
ではないでしょうか。
「東京砂漠」とか言われますものね。

孤独】を恐れている人ばかり。

それは「放っておいて消えるもの」ではありません。

孤独な心を抱えたままでは幸福になれません。
人生の意義、目的が分からない人生も孤独な一生になります。



タグ:孤独

2020年10月18日

孤独な人が分かってもらえる幸せ

大無量寿経
独生独死独去独来」という言葉があるそうです。
これはあのブッダのいわれたことだそうです。

1人で生まれてきたんだから、
1人で死んでいかねばならない。
1人で去っていくんだから、
1人でやってくる。

生まれてから死ぬまで一人ぼっちという事らしいです。
そんな事ないよ、私には友達も両親もいるじゃない。
どこが1人なのという人もいるかもしれませんが、
心が一人ぼっちという事らしいです。

考えてみれば、そういう風に感じる事ってあるんですよね。
友人に勇気を振り絞って、悩みを打ち明けてみた。
すると、何でそんな事悩んでんの、
って深刻さも分かってもらえなかった時とか、

趣味の合うはずの彼女と、お互いに好きな映画を見にいった。
ところが、自分が大感動したシーンに彼女はまったく興味無し。
そんな時に、分かり合うって難しいなー、って感じます。

分かり合える、といっても、
結局、分かる所までしか分かって
もらえない感じがするんだよね。

反対に誰かに相談されたとき、
分かってあげたいけど
実際に相手の心を理解できるかというと
難しいことが多いです。

結局心がひちりぼっちなんですね。
そういう寂しい心を抱えている事を
「独生独死独去独来」
っていうそうです。

ということは、もしそうなら、
どんなところで誰とすごしても、
結局寂しい心は癒されないってことになってしまう。

だけど、そんな寂しい毎日を送りたいって人はいないんじゃないよね。
きっと、明るい楽しい安心できるほっとできる、ここが私
の居場所だって言えるような毎日を送りたいって思ってるんじゃないかな。

いってみれば、本当の私の姿を、誰も知らない、
自分でさえも分からないような本当の私の姿を、
隅の隅まで知り抜いて、
そんなあなたが好き、と言われたような幸せ、
になりたいと思ってるんじゃないでしょうか。

じゃあどうしたらそんな幸せあるのか、といえば、
ある哲学者は
「一人いて一人喜べる幸せ」と言っています。

哲学者と言えば、日本では西田幾多郎、田辺元、三木清が日本の三哲と言われて有名です。
中でも西田幾多郎は、西田哲学、と言われるほど、
独自の哲学を打ちたてた人として世界的に知られています。

その西田幾多郎は、その幸せの事を
「絶対矛盾的自己同一」と呼んでいます。

歎異抄という古典では、それを「無碍の一道」と言われているそうです。
本当の私を見抜いて、そんな私が好きと言われたような幸せです
から、こんな事を思ってちゃ、とか、こんな事やってるのに、
といったような、さわり、悩みが問題にならない幸せ、
ということらしいです。

無碍の一道とは、どんな幸せなのか。

posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 信心

2020年10月15日

幸せは指先からこぼれ落ちていく

せっかく幸せを掴んでもそれが色あせていく。
浜崎あゆみ大先生にうかがっても幸せを口にすると
指先からこぼれ落ちると教えてくれる。

絵を楽しんで描いていたピカソは筆を置くと不機嫌になった。

そういう幸せだったら、
今まで幸せだったのが余計に惨めに悲しくなる。
それが幸せなら。
私達が本当に求めている幸せは薄らいだり崩れたりしないで
永遠に変わらない幸せだと教えている古典がある

それが『歎異抄』。
その『歎異抄』に人生の目的は摂取不捨の利益になることで、
それは永遠に変わらない幸福なんだよと教えられている
ということです。

タグ:歎異抄 幸せ
posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 無常

2020年10月12日

苦しみの人生を抜け出すには

大学の食堂や、空き教室、外のベンチで戯れている中から聞こえてくるのは
「おい、何かおもしろいことないか」
「だり〜、もう帰るわ」
大学生だけでなく、人生というものは、
どうもうんざり、
つまらない、
虚しいということが多い。

例えば、子門真人が歌った泳げたい焼きくん。
「毎日毎日僕らは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃうよ」
サザンの歌うTSUNAMIをも寄せ付けない
シングル売り上げ史上第1位を記録した。
1ヶ月で200万枚、
年間440万枚の大ヒットだった。

お陰で、当時たいやき屋さんばかりか、
家庭用たいやき器まで大売れ。

女子バレーボールチームが背中から反転して体が裏返しになるという
新しいレシーブ法を導入すると、たいやきレシーブなどといわれた。

それほど、時代はたいやきブーム。
それがリニューアルバージョンで出ている。

このたいやきくんの歌詞に共感する人が多いということ。

毎日毎日嫌になっちゃう。
つまらない毎日にうんざり。
毎日毎日、机にかじりついて勉強して嫌になっちゃう。
満員電車に揺られて上司にどなられてコピーとって

それでも、うんざりした日々は今日までで、未来にはうれしい楽しい大好きな日が
きっと待っていると期待している。

「明日がある、明日がある、明日があるさ」

ウルフルズから吉本が歌い、これまた大ヒットの予感。
しかし、果たしてどこまでいったらそんなうれしい楽しい未来が待っているのだろうか。

ツルゲーネフは、
「ああ人は、どんな幸せを未来に待つのであろうか。
明日こそは、明日こそはと、人はそれを慰める。
この明日が彼を墓場に送り込むその日まで」
結局、人生はうんざりするようなことばかりで
うれしいたのしい大好きな日々なんてないんだといっている。

だから、人生は苦なりといわれる。
人間は生きて苦しむための動物かもしれない(夏目漱石)
人生は楽なりというのは子供か気違いのいうことだ(芥川竜之介)

2020年10月08日

仏法聞き難し今すでに聞く・仏教の聞きがたさのたとえ

人身受け難し、今已に受く。
仏法聞き難し、今已に聞く。
この身今生に向って度せずんば、
さらにいずれの生に向ってか、この身を度せん。
(仏陀)

ブッダのお言葉ですね。

人身とは、人の身に生まれる。
これは難しい。
その中、私達生まれることができた。
人身受け難し今すでに受く。

釈尊は人間に生まれたことを感謝しなさいとおっしゃる。
親に感謝しなさいと。

仏法聞き難しというのは、
仏法聞かせていただくこともたいへん難しいこと。
感謝しなければならない。
仏法をいやいや聞くのと感謝して聞くのとは
当然結果が違ってきます。

仏法聞き難し。
仏法聞かせていただけると
言うことは、ちょっとやそっとのご縁じゃない。
それを釈尊はまた、このような譬えでもおっしゃっていますね。

ヒマラヤ山の頂上から糸をたらしたと。
その山の下には針を持った一人の人がいる。
その糸を針に通すことがあるだろうか。

そんな頂上からふもとの人の針の穴に入る。
阿難は「そんなことありえません」と言った。
釈尊が「絶対無いか」
と尋ねたところ
「絶対とは言えません」と言った。

私たちが仏法聞けたということはこれよりも難しいこと。

ブッダは
「人間に生まれてきたのは、仏法を聞き、絶対の幸福になることだ」
と教えられているのがこのお言葉。

人身受け難し、今已に受く。
仏法聞き難し、今已に聞く。
この身今生に向って度せずんば、
さらにいずれの生に向ってか、この身を度せん。
(仏陀)

posted by 陽葵 at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2020年10月05日

天上天下唯我独尊の意味とその続き(三界皆苦吾当安此)

天上天下唯我独尊
三界皆苦吾当安此
(ブッダ)

というのは、

人生の目的はたった一つのものであるぞ、と道破なされたブッダのお言葉。
道破、喝破と言うのは言い切るということ。
きっぱりと言い切る、誤りを打ち破る。
みんな間違った考えを持っている。
多くの人は、万人共通とは思えない。
人それぞれと思う。
人生の目的と趣味と間違えている。
私たちの考えを打ち破っておられる。

天の上にも天の下にも、たった一つであるぞ、
三界は皆苦である。
その中で、吾、まさにここに安んずべし、
または吾まさにここを安んずべし、
とブッダはおっしゃっています。
これはたくさんのお経に出ている。

天の上にも天の下にもというのは、大宇宙広しといえども。
唯我独尊は、
唯我一人尊い、世間では、まるでブッダが威張られたように思っているが、
ブッダそんなことおっしゃるはずない。
ブッダは世界最高の偉人。
実際、世間でも偉い人ほど頭が低い。

「実るほど頭の下がる稲穂かな」
といわれる。

私たちは稲穂にならなければならない。
ミノルタの社長はここからとった。
私たちも人に尊敬されればされるほど謙虚にならなければならない。
また自分の姿が知らされるほど謙虚になってくる。

他にも
「下がるほど人の見上げる藤の花」
藤の花というのは、下がってくる。
花が咲いて下がったら人は綺麗だな、と見上げるんです。
頭が低いほど、人は尊敬するんです。

ブッダは自分だけが尊いんだ、とこうおっしゃっているのではありません。
唯我独尊の「我」というのは、正しい意味は、ブッダだけのことじゃない。
その後のお言葉で分かる。
ブッダは、ご自身のことを言われるときは「吾」とおっしゃっている。
「我」とは我々全人類を言われている。
だから私たちはたった一つそれぞれが果たさねば成らない尊い使命を持って生を受けた。
私たち人間は、たった一つの尊い使命を持って生まれてきたということ。

一人一人が独尊なんですよ。
ブッダは弥陀の本願一つ説くために現れられた。
私たちは弥陀の本願聞くために生まれてきた。
ここで一致するんですね。

大宇宙広しといえどもたった一つなんだぞ、
といわれているんです。

三界とは苦しみ悩みの世界。
私たちが住んでいる世界は苦しみが充満している。
人生は苦なり。

後半の「吾当安此」は、二つの読み方ができる。
「吾、当にここに安んずべし」と
「吾、当にここを安んずべし」。
「ここに」と
「ここを」。

「ここに」と読むと、ブッダは、
この苦しみの世界にありながら安らかなところに出られたと。
「ここ」とは三界。
ここに安らかな楽しい世界に出ることができた、とおっしゃっている。

また、ブッダの目的は私たちを救うこと。
「ここを安んずべし」とも読める。

二通り読むことができる。
私たち自身のこととしても味わえる。

三界の苦しみの中にありながら安らかな楽しい世界がある。
一切の人々は、この無碍の世界に出る為に生まれてきたのだ。
万人共通唯一の、出世の本懐を教示なされたブッダの言葉

大宇宙広しといえども
三界は皆苦しみ。
信心決定するとこの苦しみの世界にいながら安らかな楽しい世界に出れる。
そして、また、たくさんの人が苦しんでいる、
私と同じ世界に出てもらいたいと
ご恩報謝の活動をせずにおれなくなります。

非常に深い御心がこめられているブッダのお言葉