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2019年01月31日

立志式の発表練習

昨日の総合的学習の時間では、発表会に向けての代表発表の手直し。
そして、今日の学活では、立志式に向けての発表練習を行った。

一人一分。ホールで、一人ひとり自らの志を発表する。
「原稿を見るな。」
「前を向いて話せ。」
「笑ったごまかすな。」
しかし、そうは言っても、当日は広い会場になるし、親や来客もある。
一番やんちゃな、中学二年生がどんなことを話すのか、田の先生たちも興味津々なのだ。

文句を言うときは、人一倍大きい奴が、いざ発表となると、小さくなって、ぼそぼそとした話せないのでは、あまりに情けない。それは普段の生活は、単なる自己中心的な主張をしていることになってしまう。

などと、余計な注意をしたせいか、まずまずの出来。
いや、それどころか、なかなか良いではないか。

原稿を見ないで頑張っている生徒。
箇条書きにメモしたものを、ちらちらと見ながら、一生懸命みんなを見ながら話している生徒。

発表前の練習だから、そうした部分は今後修正するとして、とにかく話の内容が立派なのである。
もちろん、原稿は事前に見せてもらい、ほんのわずか赤を入れはしたが、どの生徒も。彼らの立志がきちんと一分で凝縮されている。
私自身不覚にも涙が出そうになった発表もある。

隣のクラスの担任にも尋ねてみたところ、やはり同じような状況。
一人一分もまずまずで、この先の練習で本番を迎えられるレベルには達するのではないかと思う。

当日は、保護者も来賓もいるので、今日の教室練習の何倍も緊張するだろうが、彼らの立志の言葉は、必ずや、聞く人の心を揺さぶるに違いない。

全員の発表が終わったあと、私は彼らを讃えた。
「なかなか良かったよ。少し修正して、本番まで頑張ろう。」
と、励ました。

そして、私の夢を語った。
「奨学金を作りたいんだ。今でもあるけど、もっと別の奨学金を作りたい。」

金銭的な理由で学校を去ってしまう人のこと。
卒業式までに学費が入っていないと、卒業すら出来なくなってしまうこと。

こういう悲しい生徒や保護者を一人でも減らしたい。

そう語りながら、またしても泣きそうになった。
だから、多くを語ることなく、終わりの会を終えた。

立式式と総合的学習の発表会まで、あと一週間。

さぁ、プログラムを詰めなくっちゃ…。








2019年01月30日

卒業が近づくと…

センター試験が終わって、登校している高校三年生がほとんど数えるほどになった。
この先、高校三年生が全員揃うのは、卒業式の頃。
場合によっては、卒業式当日にも大学入試があるので、全員が揃わないこともある。

いよいよ高校時代の集大成だ。

私はもっぱら中学校担当で、接点も薄くなっているので、彼らとの別れも怖くない。
卒業式当日も、式に参列できるのは中学三年生まで、中1と中2は、卒業式の様子を教室でモニターを見る。そして、式が終わり、卒業生が式場から退場するとき、花道を作って、彼らを祝福するのである。別れを嫌う私には、ちょうどよい。

それでも、彼らを見送りながら、涙があふれそうになることもあるが、それはぐっとこらえる。

「先生、僕、明日から来ません。」
ある高3から、そんな風に言われた。
一瞬何と答えたるべきか躊躇したのち、
「卒業式には来るんだろ…。」
「もちろんです。」
「まぁ、俺は卒業式には出られないけどね…。」
と、意表をつく。

できたらこんな会話のやりとりはしたくない。
彼らには、すっと卒業してもらって、いろいろな分野で大いに活躍してくれたらいい。
それを、風の便りに知ることができれば、我々教師にとっては、最高の幸せなのだ。

縁あって出会った生徒と三年ないし六年間共に過ごす。
一緒にいる時間が長いから、お互いの性格もすべて分かっての付き合いになる。
こうなってくると、阿吽の呼吸で、多くを語らずとも、コミュニケーションが図れるようになるものだ。

すれ違い時に、「ニコ」って笑うだけでも、何となく気持ちが通じ合う。
調子の良し悪しなど、一発で分かる。

逆に生徒から、
「先生大丈夫ですか?」
などと、プロとしては情けないことを尋ねられることもあるが、ここで見栄を張ってもしょうがない。
正直に答えた方が、よほど気が楽だし、ある意味、彼らに甘えることだってできる。

国公立入試ともなれば、卒業式には進路は決まらない。
それでも、高校は卒業し、何とも中途半端な立場になる。

だが、その中で彼らは入試の関門を乗り越えようとする。
もう、手助けはできない。
あとは、自分で歩んでゆくだけだ。

そんな彼らの姿を思うと、何とも頼もしく、この仕事を誇らしく思えるものだ。








2019年01月28日

全校集会にて

今朝の全校集会のテーマは、『健康維持』。
生徒会長がインタビュアーを務め、元気な高1女子Hさんと元気な高2男子N君に質問する。

「今日は、いつも元気なお二方にお話を伺うことにしました。」
と、木訥な生徒会長が尋ねる。
「元気の秘訣はなんですか。」

「笑顔を絶やさないことです。」
と、H君。確かにいつも笑顔だ。彼の笑顔は、周りの人までも元気にする…。

続いてHさんは、
「健康は自分のものではないと思うことです。」
と訴えた。
「私は、チアダンス部に所属しています。チアダンスでは、一人が掛けても、フォーメーションが崩れるし、一体感がなくなってしまうんです。だから、私の健康は、チアの健康。チアのためにも、私は健康を維持する義務と、責任があるのです。そういう強い意志で、健康管理に気をつけています。」

そして続ける。
「私の健康を維持するもう一つの方法は『感謝の気持ちを持つこと』です。」

これには参った。
彼女はこう続ける…。

「『感謝の気持ち』を持って、人に接すると、身体がぽかぽか温かくなるんです。そして、元気になるんです。だから、もしちょっと調子が悪いな、と感じたら、ああ、感謝の気持ちが足りないんだな、と思って、ますます感謝の気持ちを強く持つようにしているんです。」

なるほど、これがHさんの元気の秘訣か…。

人は体調が悪くなると、概して自己中心的になる。
自分のことしか考えられなくなる。
それが普通だ。だが、そこで思いとどまって、
「自分中心になっていないか。自分が今、生きていられるのは、多くの人たちのおかげ。だから、そうした人たちへの感謝の気持ちを持とう。そして、それを大きくしよう。」
という、マインドセットができれば、確かに病など吹っ飛んでしまいだろう。

他の人第一に考えている人に、もはや自らの悩みなどないからだ。

私は、高校一年の生徒から、そういう主張が全校生徒になされた、という驚きよりも、自らの生き方の恥ずかしさを感じた。

週初めから、人生のいいヒントをもらった感じがする。

N君のHさんのあとに、イベントの責任者が、なにやら皆に訴えていたが、そんな話は、彼女の話の後では、まったく印象に残らない…。

「そう言えば、『感謝の気持ち』、最近ちょっと少なくなっているな…」

こんな自問自答の末に、自己反省が始まる。

いい、全校集会だった。








2019年01月26日

補習に人が集まらない

「丹澤先生、補習に誰も来ないので、学年として何とかできませんか。」
英語の先生から、そういう声がかかった。

強制参加の補習から、自主参加の補習に切り替えたら、補習に参加する生徒がいなくなったというのだ。
「それは、補習に魅力がないからでしょう…。」
と、言いかけて、口をつぐんだ。
確かに、魅力があれば人は集まるはずだが、私としても手立てを売っていないという負い目もある。

以前のように習熟度の一番下のクラスの生徒を強制的に参加させる方式から切り換えてみたのだが、今度は、参加者が集まらない、という訳だ。。

どう考えても、私は補習に魅力がないのだと思う。
参加したいとき気持ちが沸かないし、補習で何をやっているか分からない。補習に出ると、どういうメリットがあるかも分からない。もっと言えば、先生に魅力がないのだ。

と思いつつも、
「まずは宣伝しましょうよ。ポスターを作ってみるとか、出たくなるような、宣伝なり、彼らのメリットを挙げて、くすぐってみましょうよ。」

担当の先生は、以前と同じ補習のスタイルをイメージしていたので、今いる生徒を引きだそうとしていたのだが、私はちょっと違う。

当面、以前のメンバーは、そっとして傷を癒やす期間を与えて、その上位苦のクラスのメンバーがどんどん集まってくるように仕向けたらどうか、とアドバイスしてみた。
その姿を見て、「やっぱり参加しようかな」、と以前のメンバーが感じてくれたら、しめたもの。

勉強は「自分からやろう」というモチベーションがなにより大切なのだから、そういう気持ちを持っていかなくてはいけない。

もちろん、参加を促すための『飴』の部分を用意してもよいが、結局は、「補習に出て良かった」と思えなければ、一回だけで終わってしまう。

先日、国語の先生が図書館運営のセミナーに参加してきたので、「何か収穫はありましたか?」、と尋ねてみた。
すると、高校生の読書は離れが深刻で、「図書館で本を借りると、お菓子がもらえる」、という学校まである、と報告して下さった。

物で釣るのは、好ましくないが、おそらくは先生方の苦肉の策なのだろう。

教員のスキルはいろいろあるが、
「やる気を引き出す」、コーチングが必要になってきている。

「熱く語れば、理解してくれる…」、という時代は、終わりかけているのかも知れない。

黙って聞いていた新人の数学の先生へ、
「数学の補習も、魅力あるようにして人を集めるんだよ…。」
と、プレッシャーをかける。

来週は実力テストだ。








2019年01月24日

叱り方の違い

「丹澤先生、また中2が窓からサンダル、投げていますよ。」
階下の理科室にいた、U先生があわてて職員室に飛び込んできた。

私は、高校入試の願書を入力中、
「どうせ、Kたちでしょ…。」
と、淡々と答えたものだから、U先生は自ら注意に行かれた。

何でも、つげ口のように報告しなくても、まずは自分で指導すべきだろう。
指導が終わった後に、「注意しておきましたよ 」、の一言でいい。

私も歳をとったのか、多少の生徒の行動には、目くじらを立てなくなった。
だいたいのイタズラは、ほとんどが私の中で想定内であり、「いい加減にせい」、と叱って終わり。
もちろん、繰り返しの注意となれば、雷が落ちる。

昼の掃除のために、教室に行くと、U先生が指導中であった。
しかし、残念ながら指導にはなっていなかった。
どうも、お互いの信頼関係が構築できていないらしい。

叱る側の教師と、叱られる側の生徒との信頼関係が成り立っていないのだ。

「U先生嫌い…。」
以前、ある生徒からそんな言葉を聞いたことがある。
「どうして?」
と、尋ねると、「しつこいから」、と返ってきた。

正義感の強い、熱心な先生だが、生徒指導上では、生徒との関わりが上手くいっていないように見える。U先生の言葉が、生徒たちに響かないのだ。

さすがに生徒たちも、あからさまに反発することはないので、嵐の過ぎるのを待つかの如く、じっとしているが、聞き流しているだけなのだろう。

「そんなことしたら、迷惑になるだろう?」
ここまではいい。
「前にも、駄目だって言ったろう?」
この辺りも大丈夫。
「同じ事を繰り返すのは、子どもだぞ?」
この辺りから、多少の反発心が湧いてきて、
「だめじゃないか。」
この言葉には、残念ながら心がこもっているように聞こえないのだ。

注意をしなければいけないから「注意する」ように見えるのだろう。

部活に来なかった生徒も、担任経由で呼び出し、叱り続ける。
言葉は荒々しくはないが、生徒たちからはネチネチ感があるようだ。

私は面倒くさがり屋なので、一気に叱って、はいおしまい、という具合に、そのあと後腐れないのだが、U先生は、生徒たちにはそうは見えないようなのだ。

若手という年齢でもないので、少し残念だ。

叱ったあとでも、またすれ違ったならば、ニコって挨拶できるくらいがいい…。

それが自然にできるかどうかも、教師の仕事の醍醐味であろう。








2019年01月23日

代表発表選考会

総合学習の発表会が近づいてきたので、グループ毎の発表選考会を行った。
私のグループは、『大東亜戦争』をテーマにしたグループで6チームある。
各チーム10分の持ち時間で、グループ発表を行う。
それを、私とグループメンバーで評価する。この中から、代表発表チームを決め、パワポで発表。
それ以外のチームは、ポスターセッションとして発表する。

今日の選考会では、なかなか面白いチームが多かった。

各チームとも、『大東亜戦争は侵略戦争ではなかった』と主張する。
戦後のプロパガンダによって、戦勝国を中心として、歴史がねつ造された証拠をピックアップし、現在日本人に流れている、『自虐史観』そのものも、意図的に仕組まれたことであると発表した。

確かに、南京大虐殺についても、アイリスチャンの著作によって世界中に広められたが、政治的に圧力を受け、ねつ造された合成、修正写真によって、あたかも真実かのように宣伝された事実無根の事件である。

東京大空襲や二度の原爆投下によって、世界各国から人道的非難を受けそうになった米国が、アイリスチャンを利用して、「日本人は、我々よりもっとひどいことをしたのだ」、と広め、これが東京裁判での証拠として扱われることになる。後に、朝日新聞系の報道により中国の政治利用にも使われ、教科書問題にもなった。当時30万人に満たなかった南京が、日本軍駐留後に人口が増えているのに、30万人を虐殺したことになってしまった。それに対して、日本の政治家たちは、謝罪までして、虚実を真実に変えてしまった。

こうした一連の出来事により、日本の教育はゆがめられ、「日本人は悪いことをした」という意識を日本人に植え付け続けてしまっている。

GHQの日本弱体化政策の一つが、のちに覇権国家を目指す中国に利用されることになった。

「日本人は、正しい歴史認識に目覚めるべき。」
「大東亜戦争には武士道精神が浸透していた。」
などと、生徒たちは結んでいるが、別に戦争礼賛でも、戦争美化ではない。

そういう主張こそ、日本の国体を弱体化させ、中国の侵略を招く恐れがあるのだ。
中国には、日本を東と西に二分活して、中国の省として統治する計画書まである。
実際に、工作員が沖縄に入り、基地反対を先導し、米軍の基地を撤去させようと躍起になっている。

戦後、アジア諸国は、欧米の植民地から解放され独立した。日本人の戦いぶりと行動を見て、「自分たちも立ち上がることができる」、と確信したのである。

訪米諸国は、黄色人種である日本人が、正義の戦いをすることを許したくなかった。
日米開戦も、アメリカに仕組まれたのことだ。

彼らが研究すればするほど、日本の政治家たちが、いかに日本の誇りを失っていたかがよく分かる。

日本国憲法にしても、正しい日本語になっていない。
侵略をもくろむ国家が、すぐ隣にあるというのに、「私たちの国をどうぞ…」、と宣言している憲法など、平和憲法ではない。








2019年01月22日

N君の誤魔化し

「あいつ、最悪ですよ。最後まで誤魔化そうとしおった…。」
数学担当のF先生がそう訴えてきた。
校長の息子のN君のことだ。

英語の授業時間、数学の宿題をやっていたM君が、注意をされ、宿題を没収された。
その宿題が担任経由で、F先生に渡り、数学の授業でN君を追及したのだ。

「N君宿題どうしたの?」
「保健室に忘れました。」

確かに、N君は昨日は体調不良だった。

「保健室に行けば、N君の宿題があるの?」
「分かりません。」
「全部解いたのか?」
「覚えていません。」

「ここに君の宿題があるんだけど…。」
「知りません。」
「この宿題はどうしてここにあるか、分かるか?」
「分かりません。」
「英語の時間にやっていて、没収されたものではないのか?」
「違います。」
「では、どうしたものだ?」
「保健室のものです。」
「これは、君が英語の時間に宿題をやっていて、没収されたものだろ。」
「違います。」

クラス内に失笑が起こる。

N君が校長の息子でなければ、ここまで注目されないのかも知れない。

「Nは、親の言うことは聞かないんですよ。」
以前校長からそう言われたことがある。

「親の言うことを聞かないで、教師の言うことは聞きません。」
そう反駁したこともある。

「親が校長だと、君を見る目は厳しいよ。いろいろなところで、いろいろなことを見ているよ。良いことをしても当たり前だと思われる。それに、失敗したことは、ものすごく責められる。」
以前N君にそう語ったことがある。

「宿題を出せって言っている校長の息子が、宿題、出さないのですか?」
先輩たちから、こんな風に苦情を言われたこともある。

N君の厳しい生活は、まだまだ続きそうだ。








2019年01月21日

中学入試の採点

今日は、中学試験の採点日。
ほとんどの学校の入試の採点は入試当日。試験が終わるたびに、答案用紙が採点場所に運ばれ、主として教科単位で採点する。マンモス校では、事務職員までも動員されての採点にもなる。これが私立学校の姿だ。

私が初めて勤めた学校では、採点場所には、いろいろな「お菓子」が並べられ、楽しく採点ができた。
私立学校にとっては、入学試験は大切な収入源。そういう意味もあって、「お菓子」が提供されたのかどうかは分からないが、とにかく、お茶だの、お菓子が食べ放題状態で採点できたものだ。
血眼になって、プレッシャがかかり、高ストレスの中での採点では、ミスも多発するだろうから、多少のリフレッシュは必要だろう。

「先生方、根詰めてやらないで、適度に休憩しながらやってくださいね。早さよりもミスがない方が大事ですから…。」
と、言われたことを思い出す。

もしかしたら入試経費の中に、「お茶菓子代」が含まれていたのかも知れない。

受験生たちは、まさかお菓子をバリバリ食べながら採点しているとは、夢にも思ってはいないだろうが、そういう学校だってあるのだ。
その後、私もいつくつも学校を巡ったが、この時のような採点風景は、二度となかった。

何でもそれが当たり前になると、単段感覚が狂ってくる。
「今年はお菓子が少ないな。もっと出してよ。」
とか、
「このお菓子は好かん。」
などと、わがまま放題言う先生方も現れ、それはそれで、醜い世界になる。

採点業務は、だいたいが分業だろう。割り当てられた問題を、淡々と採点していく。正誤に迷う答案は、その都度、採点責任者の裁量を仰ぐ。
一つの問題で、概ね3回はチェックし、合計点についても、そのようなシステムで、慎重の上に慎重を期す。

もちろん点数は非公開であるし、私立学校の場合、合否は「総合判定」という大変便利な方法がある。
たくさんの寄付をいただいている方のご子息は、何とか入学させなくてはならないし、あまりに学校生活が困難な場合は、「総合判定」として、お断りしなければならない。

少子化の波により、選抜できない入学試験になりつつあるのも事実。
入試もなんだかセレモニー化しつつある。

以前は合格発表も、掲示が当たり前だったが、今はかなり少ない。
どれだけの受験者があって、どれだけ不合格になったかが、あまりに明らかになりすぎるからだろう。
だいたいはインターネット上で発表させるが、こちらも、全体の一覧ではなく、各人がパスワードを入れると、「合否が分かる」というものだ。

これなら、隣の子が受かったが落ちたかどうかは分からない。
秘匿性もあるので、いらぬ倍率だの、定員割れだのを暗に告知するような、不要な気を遣うこともないというわけだ。

小学生にとっては、中学入試は少し酷だ。
それを乗り越えてあまりある価値がなければ、私自身だってあまりお勧めしない。

「他の人を蹴落としででも、自分が成功への道を上っていきたい」、という生徒を育てるのなら、やはり間違っている。
親の見栄だけで私立中学校に通わせるというのも、賛同できない。

我々は教育活動をしているのだ。
営利目的だけの、事業ではない…。








2019年01月20日

入試業務

中学入試当日。ほとんどの先生方は、全国の試験会場で入試業務をしている中、私は、職員室で明日の採点そして審議に向けての資料作り。

とは言っても、先週末から極度の体調不良に陥ってる。
昨日そして今日と、部活動を予定していたが、外部のグランドへ連れて行くこともなく、高校生のコーチに見ていてくれ、と学校内で遊ばせる程度が精一杯。

この先、熱が出ることはあるまいが、土曜、日曜とかなりの時間ゴロゴロしていた。
そんな中でも、授業のネタを仕入れることは怠らず、ずっとTVerをつけっぱなし。
時々、眠りに落ちているので、真剣に見ているわけではないが、火曜日からの週明けの授業には、とりあえず、こと欠かないだけの話題は入手している。

ただ、しゃべることが苦痛なので、授業になるかどうかは甚だ不安だ。

今日は少しは調子が良くなったので、「午後からは、外部のグランドへ出掛けでもいいかな、指導は高校生コーチに任せて、自分はたき火にでも当たっていようかな」、とも思ったが、公用車が出払っていて、使える車が一台もなかった。

「それでは仕方ない」、とばかり、私はまたしても休養。

問題なのは、この数日ほとんど何も食べていないこと。これで体重は少しは減るだろうかと思ったが、昨日の入浴時にはほとんど変わっていなかった。正月太りが効いているのだろう。さて、今夜はどうだろう。

そんな夕暮れ、教頭から電話があり、
「入試の資料を一部手直してしてくれ。」
とのこと。学校のPCリモートで制御できるので、これから学校へ行く必要はなさそうだが、いつもながら、絶妙なタイミングで連絡がくる。

今日はセンター二日目。
理系の強者たちが、受験会場へと大型バスで向かった。
明日早速自己採点して、予備校に判定してもらう。

昼に、野球部の一年生とすれ違い、
「先生、体調どうですか?」
と、声を掛けられた。
私はおどけて、
「隊長(快調)。」
と、腕を上げたら、引かれてしまった。

こんなやりとりが、私の普段の学校生活でもある。

若い生徒たちと関わっていると、歳を取りにくい理由も、こういうところにあるのかも知れない。








2019年01月19日

センター試験

「受験票を見せなさい。受験票、持ったか?」

早朝、バスに乗り込む高3を先生たちが見送る。
今日は、センター試験の第一日目。私の学校からは、近隣の大学へ、大型バス2台で生徒たち送った。

中学一年生から高校2年生、はたまたセンター試験を受けない高校3年生皆で見送る。

全校生徒で生徒会が作った横断幕を生徒会メンバーが掲げる。
彼らは、バスが見えなくなるまで、高く持ち続けた。

中高一貫の六年間の生活は重い。
高3ともなれば、真剣に受験勉強をする姿を相まって、後輩たちからは尊敬の眼差しで見られる。

見送る在校生たちは、多くを語らない。
「先輩、頑張ってください。」
などと、口に出すまでもなく、全員がそうした思いで、高3の姿を見ているのだ。

校長は、見送りにはいなかった。
すでに現地に入り、彼ら高3のバスを、旗を振って迎える…。

件からの要請で、自校で入学試験をしてはいけないために、明日の入試に向けて、多くの先生方が不在だが、学校に残っている人は全員が、高3を讃えた。

夕方、センター試験から戻ってきた高3に声を掛けた。
「楽しかったか…。」
「…楽しくはなかったですけど、…疲れました。」

センター試験は明日も続く。
「明日の試験の方が重要なんです。
そうだ、明日は理系の科目だ。

中学に入学した頃の実力テストの時間は45分。
高校生になり、鍛えられた、いつしか80分とも100分もの長い試験時間に耐えられるようになった。

『勉強も心の修行である』、と、入学以来、教育している。
『「君たちが勉強することで、ある程度の自己実現はできるだろうが、それは社会に貢献するものではなくてはならない』、とも教え込んでいる。

『勉強できる人が、自己中心的な生活をするのではなく、騎士道精神で社会に役に立つ人材になろう』、と諭しているのだ。

だから、「誰かを蹴落として」、という姿は、私の学校では皆無だ。

成績優秀者は、全校生徒全員で祝福する。
嫉妬心がないわけではなかろうが、ありすぎでもだめだ。

彼らの健闘を祈ろう…。

センター試験が終わると、彼らとの別れが、いよいよカウントダウンに突入する。








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