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2018年12月23日

マラソン大会

地元のマラソン大会が行われた。

私の学校では、今年は総勢120余名が、このマラソン大会に参加。生徒のみならず、教職員も走る。

中学生女子は3キロ、高校生女子は5キロ、中学生男子は5キロ、高校生男子は5キロまた10キロを走る。先生たちは5キロか10キロだ。

以前は私自身も10キロや5キロを走ってみたことがある。
その頃は、気が狂ったように、毎日10キロ以上走るトレーニングをしていたのだ。
今月は数百キロ走ったのだの、自画自賛していたし、週に6日は走ろうと決意して、雨が降ろうが、嵐になろうが走っていた。
あるときは、インフルエンザの予防接種日だったので、接種前の早朝に走ったりもした。

だだが、最近はもっぱら写真撮影である。
今はトレーニングしていないし、何より、自分が走ってしまうと、皆の写真が撮れないのである。
こんなにいい素材があるのに、写真を撮らないのはもったいないではないか。

だが、マラソンの写真撮影は難しい。
彼らがいつ通過するか分からないし、刻々と近づいてくる選手にピントを追いながら、撮る。
幸いなことに、私のカメラは連写機能もあるし、私自身、流し撮りのようにカメラを振ることもできるが、それでも満足いく写真はそうそう撮れるものではない。

もちろん通過するメンバー全員の写真はとても撮れるものではないし、良いシャッターチャンスがあっても、ピントがずれていたりすることだってある。

そんな写真撮影をしている折、参加選手の親たちの叫び声が聞こえてきた。
「桃ちゃーん、がんばって!」
母親はたいてい絶叫する。
「いけー、走れ!」
父親の多くは、気合いを入れる。中には伴走する人もいる。
だが、私は叫べない。声も出せない。撮影に必死でそれどころではないのだ。

最近は地元の中学校の校長が、「皆で参加するのだ」と指令を出し、男子中学生の参加は320人を超えた。その上、男子のトップクラスは5キロを15分前後で走る。
ここは、全国レベルの選手もいるマラソンの強い地域なのだ。

終了後全員で記念撮影。
「超広角レンズでないと駄目かな…。」
と、レンズを付け替えたが、結局通常のズームに戻した。先生方が気を遣って、左右を詰めてくれたからである。

通りすがりの人がつぶやく。
「すごーい。あんなにたくさん賞状、取ってる…。」
レベルが高すぎて、男子中学生の入賞は望めないが、高校生は、たとえ招待選手がいようと、結構10位以内に入れる。

ちょっと誇らしげに写真を撮った。

これで私の年内の行事はおしまい。
明日からは高校の冬期講習が始まるが、幸い私は担当しない。

例年になく暖かいマラソン大会がおわり、ふと、二学期を振り返る。
「いろいろあったが、頑張った。」
そう、自分を褒めてあげたくなるような一日になった。








2018年12月22日

祝福の拍手

二学期終業式が行われた。その講話で、校長は三つのいい話を紹介した。

一つ目は、心筋梗塞および心不全で倒れたS先生のこと。
全校生徒の支援の祈りと、二度の手術により、このたび退院の運びとなったこと。
ここで、大きな拍手が起こる。
その拍手が、何とも温かく、とてもいい感じのものだった。
一時は危篤状態まで悪化した病状が、奇跡的に回復し、現場復帰も夢ではなくなったわけだ。

二つ目は、高文連の県大会で最優秀となり、T君の油絵が県代表として、全国大会に出展されることになったこと。
T君は、中学時代は不登校だった。高校から入学して不登校も克服し、好きな絵を描くことで、努力を重ねた。今回の快挙は、「将来はイラストレーターになりたい」、という彼自身の目標の第一ステップとなった。
ここでまた大きな拍手が起こる。
この拍手も、暖かく祝福の波動にあふれるものだった。
この辺りから、私の心にグーと響く。
何だか心が躍るのである。喜びに溢れるのである。
油断すると涙が出てくるくらいの、暖かい祝福の思いに、私自身感動した。

三つ目は、U君のこと。東大オープン模試で、全国一位となったということだ。
中学入学以来、常に学年トップの成績を収めていたが、いよいよ高3になって、さらに本領発揮というところ。もちろん開校依頼初めてのこと。

文系ながら、理系にも強いU君。
以前、「数学のトポロジーの専門書で分からない部分がある」、と質問を受けたことがある。
私の専門がトポロジーであることを知ってのことだが、残念ながら質問には答えてあげることはできなかった。これが高2の頃だったと思う。
「勉強は楽しいからやる。やると楽しくなってまた勉強するのだ」、と豪語する。

U君が紹介されると、今までにないくらいの盛大な拍手が湧いた。まさに拍手喝采である。
その拍手の中には、嫉妬心など微塵も感じない。
あるのは祝福の思いだけである。

この時点で私は涙した。
総勢500名にもおよぶ祝福の思いは、私の心にぐんぐん響く。

祝福は『愛』の思いである。
その愛が、拍手として彼らに向けられる、それがホール全体を包み込む。

その暖かい愛はあふれる心地よい波動に、自然に涙が出てきたのだ。

私自身も拍手をしている。
しかし、拍手をしながら、眼が曇る。

こんな祝福の習慣がある学校って、いいんじゃないかな。

感動するいい終業式になった。








2018年12月21日

褒めることで人は良くなる

「男子の一部は、なんか怖いなって思ってだけど、意外といいところもあって、合唱コンの練習も、一人ひとりがんばっているのが伝わってくる。」

「調理実習で、男子が意外と真面目であることが分かった。」

クラスの女子生徒から、男子生徒に向けて、こんな声がチラホラ聞こえるようになってきた。

二学期は、いろいろな行事でわざと男女混合の班編制にした。
男女仲の悪さを少しでも改善しようと思ったからだ。
教室の座席も、男女が交互になるようにした。

こうした方法が功を奏してから、いくつかの行事を重ねた結果、少し平和なクラスになってきたようだ。

今でも男子は休み時間に大騒ぎ。
妙な嫌らしい雰囲気で集まり、何やら陰口を言っているようにも見え、さらには大暴れして、いろいろなものを壊す。
先生には反抗し、授業中もうるさい…。

これが現実ではあるが、少しずつだが、男子も少しは、
「変わらなきゃ。」
と、思う生徒が増えてきたようである。

今朝は、『いいところ発見カード』を交換し、それらをワークシートに貼り付け、「自分の気づかなかった良い点」を各自確認し合った。

その後、班ごとに共有した。

「自分の気づかないところで、褒めてもらえると、本当に力が湧いてくる。」
ある女子生徒が、そんな感想を書いていた。

大人だって、何気ない一言で、褒められると、ぱっと明るくなる。
嬉しくなって、
「もう少し頑張ろう!」
という気持ちにすらなる。

私自身担任、学年主任として、生徒たちをもっと褒めたらいいのだろうと思う。

併せて教頭や校長も、そんな風に我々下々の者に接してくれれば、もう少しギスギス感がなくなってゆくに違いない。

「粗探しはやめてくれ…。」
と、思うのは生徒も教員も同じのようだ。

褒めることで人は良くなる。

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2018年12月20日

それはスマフォのせいです!

今朝、成績不振による追認考査の連絡で保護者に連絡したとき、母親が
「原因はスマフォだと思うのです。成績が悪いのはスマフォのせいです!」
という。聞けば、
「娘が10Gも使っているので、他の家族が通信できなくなったんです。」
とのこと。

最近は家族でパケットをシェアして、使い回すという契約があるようで、それで家族全体としての通信料を抑えているらしい。確かに家族全員がスマフォを使っていれば、かなり高額な費用がかかる。
だが、こんな風に、娘の使いすぎで家族が利用できなくなることがあることを初めて知った。

「果たして中学生にスマフォは必要なのだろうか。」
個人的な考えだが、私はそう思う。
「通信会社に踊らされているだけなのではないか。」
とも思う。

LINEだの家族無料通話だの、魅力的な機能は多い。
だが、その反面、通信料の増加によって、ガラケー時代の何倍もの費用がかかるようになっているのではないだろうか。

子供たちの興味をそそる様々なコンテンツが、「興味関心の対象を、勉強から刹那的な情報へと向けている」と思われる。

都会の電車では、スマフォを操作していない人を見つける方が難しいと言う。
「あっ、本を読んでいる人がいる…。」
と、珍しがられる状況だ。

そもそも、スマフォの画面を凝視しているのだから、他の人が何をしているのか、などは関心をもつこともあるまい。

今から10年後、スマフォがどのように変わっていくのかは、全く予想できないが、時代の過渡的な流れとしか思えない。

子供にスマフォを与えた親が、子供のスマフォのコントロールができずに、学校に頼ってくる。

「みんな持ってるから…。」
「家族で持てば便利だよ。」
「今の時代、スマフォがないと、友達関係が築けない…。」
などと、子供に説得されて、幼少期からスマフォを与えてしまう親。

「いつでも子供と連絡が取れるから。」
と思うも、結局は、子供がもっと遠い存在になっていくという矛盾に気づいていない…。








2018年12月19日

脅しの教育

職員会議で学力テストの分析を求められたので、
「今の補習のシステムが、勉強嫌いの生徒を増やしてしまった。」
と、問題提起してみた。

「勉強嫌いの生徒を作ってはいけない。」
これが、私の考えである。

「勉強は本来楽しいもの。できるようになることは嬉しいもの。新しく学び、知識を増やすことは、幸せなこと。そして、それが、人生に彩りを与えるもの。」

そういう思いを、教師一人ひとりが持たなくてはならないだろう。

そのためには、教師に感化力が必要だ。生徒が、先生の話を聞き、「なるほど」とか、「やってみるか」、また、「面白そうだな」、「自分もできるようになりたい」、などとそういう思いを抱かせなくてはならないのだ。

多くの場合、この逆を行ってしまう。

「宿題をやっていない人は、居残りだ。」
まぁ、この位は許容範囲だと私も思う。

「○点以下は、成績の『1』をつけるぞ。」
「授業中おしゃべりしていたら、平常点はやらない。」
「先生の指示通りでないノートには特典を与えない。」

などなど、その時折りの教師側の都合(?)で、生徒に『脅し』的な指導をしていないだろうか。
私は、これを『脅しの教育』と呼びたい。

たとえ、新人の先生であっても、成績をつける裁量権を持っている先生は、生徒からは力のある存在だ。だから、この『脅しの教育』は成立してしまう。

生徒をコントロールするために、こうした方法を使っていると、見かけは良い生徒のように見えるだろうが、本質的な勉強をしなくなる。
打算的な勉強の仕方をし始める。
成績だけを意識した勉強をしてしまうようになる。
好きで勉強する気持ちは薄らいでゆき、嫌なことだけど、仕方なく『義務』で勉強をするようになってしまう。

これでは、成績は伸びない。
およそ成績というものは、機械的な訓練でも多少は伸びるが、その先へは、『自発的』な動機付けがなければ、伸びていくことはないのだ。

「補習だ!補習に出なさい。」
と、逃がさないようにブロックしたり、追いかけ回して強制的に教室に来させても、成績は上がっていかないのは、教育の原理からも明らかだ。
私はそのことを間接的に訴えてみた。

本当は、補習などせずとも、授業で完結できるなら、その方がいい。
授業が楽しく、学びにワクワクできるなら、そのスタイルがいい。

「授業も中途半端、補習は強制」では、学力向上は全く望めないだろう。

授業に自信が持てないなら、「楽しくためになる補習」を目指してもいい。

いずれにせよ、『脅しの教育』ではだめだ。








2018年12月18日

宇宙人とコンタクトしたい

「Yの夢は何?」
「これからは宇宙時代じゃないですか。だから、宇宙人と最初にコンタクトしたいです。」
「言葉が通じないだろうに、どうやって会話するんだ?」
「うーん。テレパシーですかね…。」
「Yはテレパシー使えたっけ?」
「いや、まだ…。」
「ニコニコ笑って友好的に迎えても、もしかしたら、文化が違って、宇宙人にとっては笑うことが怒ることのように感じるかも知れないよ。いきなり攻撃されてしまうかも知れない。」
「バーンって、打たれたら、それで平和が訪れて、ファーストコンタクトのきっかけになれば、それでもいいんです。」

どうやら世界各地にいろいろな宇宙生命体がやってきて、密かに何やらしていることが分かってきた。日本政府はぼーっとしているが、アメリカでもロシアでも中国でも、すでにコンタクトをして、軍事方面への技術協力を受けているらしい…。

数年前は、中国の空港がUFO襲来で閉鎖されたし、宇宙人にアブダクションされて、何やら体内にチップを埋め込まれる事件も、世界各地で起こっている。

奇想天外な話に聞こえるかも知れないが、こうした情報はいくらでも探し出すことはできる。
あの世の世界だの霊の世界だの、そうした目に見えない世界だってあるのだろう。

日本では、文部省から文部科学省に代わって、科学者の考える科学的思考に反することは、すべて否定していく方向に流れ、ますます唯物的な教育になった。

「ところでYよ。そのためには、どんな努力をするんだい?」
「それが問題なんですよ。」
「何をしたらいいですかね。」
「心のコントロールをして、テレパシー能力を磨くとか…、そんな簡単じゃないしなぁ…。」

「ところで先生の夢はなんですか?」
「僕の夢はね…。」

卒業生で高2になるY君と、一緒に風呂に入りながら、たわいのない会話を楽しんだ。

何気ない会話でも、私にとっては至福の時。

「こんな会話がいろいろな卒業生と、ときおりできたら、幸せだなぁ。」

と、叶わぬ夢に思いを馳せる。
高校生になると、大人の会話ができる。
それもまた愉し…。








2018年12月17日

良いところ発見カード

2月に予定している立志式に向けて、さらに学年・クラスの人間関係を深めるために、『良いところ発見カード』を生徒に書いてもらうことになった。

ちょうど合唱コンクールが終わったばかり、「これまでの頑張りを祝福し、お互いを褒め讃えよう」という訳だ。

「できるだけ、具体的に書いて下さいね。キーワードは、『ありがとう』、『すごい』、『エライ』ですよ。」

クラスワークの得意な副担任の先生が説明する。

ほんの15分くらいの時間で、『良いところ発見カード』が次々と書かれることになった。
合唱練習の時のささやかなエピソードから、実際の声など、生徒たちはお互いいろいろな『いいところ』を発見して、カードに記入している。

以前、「不登校生徒に対するメッセージに不適切な表現があって、不登校がさらに長引き、保護者が激怒してしまった」、という苦い経験があるので、カードは、一応私が読んでチェックする。

人は褒められると嬉しい。
あまり褒めないクラス担任であり学年主任でもあるので、いよいよ業を煮やした副担任が、手を入れたというべきだろう。ありがたいことだ。

カードを一枚一枚読んでいると、何だか泣けてくる。
ほんの些細なことなのだが、愛があふれている。

「肉体の眼だけではなく、心の眼でも相手を見て、カードを書いて下さい。」
そうした指示通りになっている。

お互いが褒め合い、自分の存在意義を高め、それによって絆を作り、さらに行事を盛り上げていこうというスタイルには、いつも感服する。

副担の彼女は、いつもさっとワークシートを作って、
「これ、やりませんか?」
と、提案してくる。

本当に有り難い…。

ここ何日かをかけて、カードを完成させようという計画である。
今日だけでも150枚以上は集まっている。

「このクラスでよかった…。」
と、思えるクラス作りが必要だ。

「落ち着いたクラスにして欲しいです。」
「まともな学年にして欲しいです。」
複数の女子生徒からの私への要望である。

道のりはまだまだ遠い…。








2018年12月16日

学期末の恒例作業

いよいよ二学期の終業式まで一週間を切った。
終業式前に毎回時間との闘いでドキドキするのが、成績処理と自分のクラスの通知表の所見。

当初から情報担当になってしまっている私は、学校全体の成績システムを管理している。
つまり、成績システムを動かし、中高全生徒分の成績集計を行い、各種成績を算出させるのである。
当然、システムを動かすためには、相応の準備が必要で、そのチェックやら手配やらで、なかなか木を遣うのである。

大体この時期になると、教頭から、
「丹澤先生、どうですか?」
などと、間接的に進捗状況を尋ねられる。
さりげないプレッシャーだ。

今日は日曜日だが、このシステム稼働のために、私は学校のサーバーに遠隔操作をして、処理を行っている。成績入力の期限は先週の金曜日の夕方だったから、さすがに入力をしていない先生はいないだろう。ただ、成績入力の場所が間違っていたり、何かしらの不備があったりすると、私の作業は振り出しに戻る。

もう一つが、通知表の所見である。
私の場合、一気に文章を作る。本当はまだまだ余裕のあるうちに作っておけばいいのだろうが、どうしてもギリギリになる。少なくとも前日までには、作り上げるが、先生の中には終業式前日に夜なべをして完成させる人もいる。本当は、一週間前には完成させたいのが、怠け者の私には、とてもそうした芸当はできない。幸いなことに、管理職チェックはないので、こうした一夜漬けが可能な訳だ。

私の場合、余りパソコンの前に向かって所見うんうん考えることはない。
以前にも紹介したことがあるが、始終考えておくのである。
たとえ歩きながらだろうが、テレビを見ているときであろうと、読書をしているときであろうが、ふと思ったとき、自分の中にインプットしておく。不安ならメモしておけばよいのだろうが、私の場合は、そういうことはしない。ずっとずっと考えていて、「いざ、パソコンに向かって入力する時には、よどみなくさーっと文章を入力しておしまい」、というスタイルである。

おそらくこの方法を真似できる人は余りいないだろうが、私は長い教員生活の中で、ずっとこの方法で所見を作っている。

時々、
「丹澤先生は、作るのが早いからいいですよね。」
などと、うらやましがられるが、本当はそうではない。
ずっと考える続け、構想を練っているからこそ、いざ入力の時には、時間短縮ができるのだ。
だいたい、パソコンの画面に向かっていて、アイデアが出てくるとは思えない。
あくまで文書入力ツールだ。

という訳で、少し前からこの『考える』ことは始まっていて、それがコップ一杯になってこぼれそうになった頃、さっと入力を始める。
それは、たとえ早朝でも深夜でも、やると決めたら、さっとやる。
時間制限があるので、一応今日のうちに10人とか、人数を決めてはいるが、たいてい上手くいく。








2018年12月15日

ああ合唱コンクール

昨年よりもさらにグレードアップして、特に中3は格段にレベルが上がった。
聞きに来て下さった保護者の方々も、恐らくは十分満足されたに違いない。

まずはじめに中2が歌い、次に中1、そして中3が歌った。
やる気が出なくて、声も小さく、本当にまとまりのない私のクラスは、プログラム最初の演奏。

「まぁ、練習の成果は出てるな…。こんなもんだろう。」
というのは、率直な私の感想。
まとまりがないのは、すべて担任である私の責任。
コンクール当日まで、練習中に注意される男子生徒がいるような状態で、上位進出など望めない。

生徒たちは、他のクラス、他の学年の合唱を聴いて、何を思ったのだろうか。

中2は、中だるみ、反抗、やる気のなさ、自己コントロールの喪失の時期だと言われている。
今年の中2も、例外になることなく、こうした時期を迎えた。
そんな中での合唱練習。
結局、私の見ていない所では遊ぶ。ふざける。真面目にやらない。歌わない。口を開けない。つまらなそうにする。練習の邪魔をする。
本当に、リーダーたちは大変だっただろう。

それも今日で終わりだ。
とりあえず歌い切った。
練習通りにはできた。
これでよいのだろう…。

お隣のクラスは入賞できて大喜び。
私のクラスの何倍も頑張ったから、そのご褒美でもある。

帰りの会で、伴奏者、指揮者、パートリーダーを皆で祝福した。
私もピアノを弾くが、伴奏は孤独と不安に耐えて練習を重ねなくてはならないからだ。
ミスすれば、口には出せれずとも責められる。あるいは自分自身で責める。
上手くいて当たり前。もっと言えば、伴奏者の力量によって選曲が変わることだってある。

指揮者だって大変だ。一人だけ客席に背中を見て、全体をコントロールする。
上手くできないと、「指揮者だろ」、と責められ、圧力をかけすぎると、皆がついてこない。

パートリーダーだって、遊んだりふざけたりしている奴らを、時に激しく、時に優しくなだめながら、なんとか輪の中に入れようとする。

いろいろ考えれば、良いところもたくさんあった。
一部ソロになったソプラノのOさんも秀逸だったし、なにより3パートのバランスがいい。
美しいハーモニーなのだ。

だが、泣けなかった。
今まで担任をしていて、自分のクラスの合唱に泣けなかったのは、今回が初めてだ。

おそらくは、私自信がめていたのだろう。
私自身の思い入れが足りなかったのだろう。

「よくここまで上手くなりましたね…。」
終了後、隣席の音楽の先生が言葉を掛けてくれた。
正確に言うと、私の方から、
「お疲れ様でした。」
と、振ったのだが、格別の賛辞をくださった。

すべては私の力不足。
いろいろ考えさせられる、初体験ばかりの合唱コンクールになった。








2018年12月14日

欠点は誰がつける?

「S君、欠点(赤点)にしようと思うんですけど…。」

朝一番で、英語の先生が、そう私に言ってきた。
聞けば、
「学年最下位のY君を欠点(五段階評価の1)にするので、そのすぐ上にいるS君も欠点にしようと思うんです。」
と言う。

英語科で算出した成績一覧表では、二人とも赤点にはなっていなかったので、私はちょっと突っついてみた。

「英語科で話し合いはしていないのですか?」
「話し合ったんですけど、意見がまとまらなかったので…。」
「意見がまとまらなかったから担任に相談するのは、ちょっと変だと思いますよ。」

私の学校では、自分の教科で欠点を出すときは、担任に相談する習慣がある。
中学校でありながら、「欠点が一定数を超えると進級させない」、という高校と同じ内規で動いているので、担任は生徒の欠点の個数を気にする。
だから、担任から、
「すいません。この欠点、何とかなりませんか?」
などという、極めておかしなお願いを、教科担当にすることもある。
私は基本的に、教科担当者がつけた点数を尊重する。

ただ、今回の場合は、その逆である。「赤点をつけさせてもらえないか」、というのだ。

授業担当は責任を持って評価をしなければならない。
担任に忖度しなくてはならない成績のつけ方では駄目だ。
たとえ欠点を出すなら、根拠となる点数と、相応の材料を持ち、保護者からどんな問い合わせがあったとしても、毅然とした態度で、自信を持って説明できなければならない。

学年の成績一覧表にしてみて初めて、赤点に気づいたり、そのリストの最下位にいるから、赤点をつけようとしたりする態度は間違いであると思う。

定期考査はもちろん、普段の授業で、そうした成績がつかないような工夫もいる。

中学生のうちから、「赤点(欠点)になるぞ」、などと脅しを含めた指導の仕方も駄目だ。

本来、「勉強の好きな生徒を育てる」べきで、そのためのありとあらゆる努力を教員がしなくてはならないと思う。

「やったら結構おもしろいな。」
「やればできるから楽しい。」
などという思いを生徒に思わせるのが、教師としての仕事でもある。

自信をもって評価できることも、教師として一人前になるための条件でもあろう。








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