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2021年04月14日
整理整頓
ベネッセの学力推移調査の試験監督で中3の教室に行ったら、クラス全員の鞄が一列に綺麗に並んでいて感動した。
「鞄が一列に並んでいて、気持ちいね。すごいね。格好いいね…。」
と、褒めてあげれば良かったのだが、マークシートのミスなどの指導をしているうちに忘れてしまった。
指導のたまものなのだが、「揃える」ということに注視すると、さまざまな場面で磁場を整えることができる。
学年の先生の指導のたまものだ。
廊下には、昇降口の下足箱の靴を綺麗に揃えた写真も掲示されていた。
部活動でも、バックや靴、脱いだ服が切れに揃っていると美しい。
その美しさは、「やらされた整頓」から、「自分たちでやった整頓」に変わったとき、さらにその輝きを増す。
チームが強そうに見えるし、一体感があるし、何より、細かな所まで気を配ることができるチームであることの証左だ。
整理整頓はその頂がない。
究極と思うそのさらに上に、もっと究極がある。
最終的には『心』にまで関わってくるからだ。
整理整頓して、綺麗にすることによって、何を得るか、何をつかむか、というところにまで達する。
いずれにせよ、見かけだけではなく、その心の状態まで美しさを求めることで、終わりなき整理整頓の旅が始まるのだ。
美しく整頓された姿は、必ずどこかで誰かが見ているものだ。
逆に、見られているかどうかに関係なく、自然体で行動できれば、ホンモノの「整理整頓」に近づくに違いない。
この際、精一杯褒めてあげよう。
「鞄が一列に並んでいて、気持ちいね。すごいね。格好いいね…。」
と、褒めてあげれば良かったのだが、マークシートのミスなどの指導をしているうちに忘れてしまった。
指導のたまものなのだが、「揃える」ということに注視すると、さまざまな場面で磁場を整えることができる。
学年の先生の指導のたまものだ。
廊下には、昇降口の下足箱の靴を綺麗に揃えた写真も掲示されていた。
部活動でも、バックや靴、脱いだ服が切れに揃っていると美しい。
その美しさは、「やらされた整頓」から、「自分たちでやった整頓」に変わったとき、さらにその輝きを増す。
チームが強そうに見えるし、一体感があるし、何より、細かな所まで気を配ることができるチームであることの証左だ。
整理整頓はその頂がない。
究極と思うそのさらに上に、もっと究極がある。
最終的には『心』にまで関わってくるからだ。
整理整頓して、綺麗にすることによって、何を得るか、何をつかむか、というところにまで達する。
いずれにせよ、見かけだけではなく、その心の状態まで美しさを求めることで、終わりなき整理整頓の旅が始まるのだ。
美しく整頓された姿は、必ずどこかで誰かが見ているものだ。
逆に、見られているかどうかに関係なく、自然体で行動できれば、ホンモノの「整理整頓」に近づくに違いない。
この際、精一杯褒めてあげよう。
2021年04月13日
先生、何年生ですか?
先生、何年生ですか?
このところ高校生からよく、「丹澤先生、何年生ですか?」、と尋ねられる。
要は、何年生担当なのかを聞いてくるのである。
今いる高校生は、皆、私と関わりのある生徒だ。
私が直接教えていない生徒もいるが、私を知らない生徒は誰もいない。
新年度になり、私がどの学年なのか、興味あるのだろう。
高校生は自分が歩んでいた中学校時代と、今の中学生を比較する。
「自分たちのときと比べて、今はどうなのか」が気になるのだ。
だから、しばしば、
「俺らのときと比べて、今の中学生はどうですか?」
と尋ねてくる。
実は、この言葉にはもう一つの意味がある。
高校生にとって、中学生の言動は、あまりに幼く見えるのだ。
自分たちもその時代を経過していたにもかかわらず、そんなことは忘れてしまって、今の姿を見て、悶々とする。
「今年は中1だよ。」
と答えると、「担任ですか? 学年主任ですか?」と聞いてくる。
今までの私のイメージが、担任であったり、学年主任であったりするのだろう。
私にも、そういう口うるさい時代があったのだなぁ、と改めて感じる。
「授業はどこのクラスですか?」
彼等は、習熟度別クラスの私の担当クラスを聞いてくる。
以前の私は、最上位のクラスしか担当しなかった。
私は、そのクラスで、リーダー学を教えた。
「俺は頭悪いから、もう一番上のクラスは担当しないよ。もっと、頭いい先生方ばっかりだから…。」
恐らく、彼等には自虐的に聞こえるに違いない。
だが、このことは真実でもあるのだ。
結局、この人生、この部分をクリアすることなく終えるような気がする。
努力で挽回できる部分もあるのだろうが、もともとの頭の悪さは、いかんともしがたい…。
私が、他の先生とは違う、「何か」を持っていることは事実だ。
良いことも悪いことも、それが、じわじわっと彼等に染みこんで、彼等は私を慕ってくれる。
私は、そうやって教員人生を生きてきたのだ。
このところ高校生からよく、「丹澤先生、何年生ですか?」、と尋ねられる。
要は、何年生担当なのかを聞いてくるのである。
今いる高校生は、皆、私と関わりのある生徒だ。
私が直接教えていない生徒もいるが、私を知らない生徒は誰もいない。
新年度になり、私がどの学年なのか、興味あるのだろう。
高校生は自分が歩んでいた中学校時代と、今の中学生を比較する。
「自分たちのときと比べて、今はどうなのか」が気になるのだ。
だから、しばしば、
「俺らのときと比べて、今の中学生はどうですか?」
と尋ねてくる。
実は、この言葉にはもう一つの意味がある。
高校生にとって、中学生の言動は、あまりに幼く見えるのだ。
自分たちもその時代を経過していたにもかかわらず、そんなことは忘れてしまって、今の姿を見て、悶々とする。
「今年は中1だよ。」
と答えると、「担任ですか? 学年主任ですか?」と聞いてくる。
今までの私のイメージが、担任であったり、学年主任であったりするのだろう。
私にも、そういう口うるさい時代があったのだなぁ、と改めて感じる。
「授業はどこのクラスですか?」
彼等は、習熟度別クラスの私の担当クラスを聞いてくる。
以前の私は、最上位のクラスしか担当しなかった。
私は、そのクラスで、リーダー学を教えた。
「俺は頭悪いから、もう一番上のクラスは担当しないよ。もっと、頭いい先生方ばっかりだから…。」
恐らく、彼等には自虐的に聞こえるに違いない。
だが、このことは真実でもあるのだ。
結局、この人生、この部分をクリアすることなく終えるような気がする。
努力で挽回できる部分もあるのだろうが、もともとの頭の悪さは、いかんともしがたい…。
私が、他の先生とは違う、「何か」を持っていることは事実だ。
良いことも悪いことも、それが、じわじわっと彼等に染みこんで、彼等は私を慕ってくれる。
私は、そうやって教員人生を生きてきたのだ。
2021年04月12日
やりがい
同年代のM先生に声を掛けられた。
「俺はずっと副担だけど、丹澤先生はさ、ずっと担任やってきたのに、担任がなくなって淋しいって言うか、やりがいがなくなった、ってことないの?」
見ている人は見ているのだ。
ここ数年の私はおとな人しい。
職員会議などでも、激しく発言することもない。
加えて、静かに淡々と生きている。
ここ何年か、静養期間のように過ごしてきた。
「やりがいがなくなったってことはないですね。ここ数年、傷ついた心を癒やす期間にしているんです。最後の担任のとき、結構傷ついたので…。」
「へー、そうなんだ。知らなかった。てっきり、担任外されて、やりがいが無くなってしまったのかと思っていたよ…。」
「まあ、学年所属でも、居候ですから…。」
「なんか、淋しくない?」
M先生は、これまで一度も担任になったことがないので、淋しいのだろう。
だから、私のことを挙げて、そんな風に聞いたに違いない。
「陰で支えられれば、それでいいんです。密かに生徒指導の手を打っていますよ。誰にお言わないことも多いですが…。」
「ありがとう! 勉強になった…。」
そういってM先生は去って行った。
「やりがい、か…。」
私は、小雨に濡れながら考える。
一つ、言えることは、未だに、「担任をやりたい」という気持ちが湧かないことだ。
若くないので、もう子どもたちと一緒に行動するのが難しいということもある。
だが、最大の理由は、「また傷つくのが嫌だ」という、傷心のままに生きている私のわがままなのだろう。
「俺はずっと副担だけど、丹澤先生はさ、ずっと担任やってきたのに、担任がなくなって淋しいって言うか、やりがいがなくなった、ってことないの?」
見ている人は見ているのだ。
ここ数年の私はおとな人しい。
職員会議などでも、激しく発言することもない。
加えて、静かに淡々と生きている。
ここ何年か、静養期間のように過ごしてきた。
「やりがいがなくなったってことはないですね。ここ数年、傷ついた心を癒やす期間にしているんです。最後の担任のとき、結構傷ついたので…。」
「へー、そうなんだ。知らなかった。てっきり、担任外されて、やりがいが無くなってしまったのかと思っていたよ…。」
「まあ、学年所属でも、居候ですから…。」
「なんか、淋しくない?」
M先生は、これまで一度も担任になったことがないので、淋しいのだろう。
だから、私のことを挙げて、そんな風に聞いたに違いない。
「陰で支えられれば、それでいいんです。密かに生徒指導の手を打っていますよ。誰にお言わないことも多いですが…。」
「ありがとう! 勉強になった…。」
そういってM先生は去って行った。
「やりがい、か…。」
私は、小雨に濡れながら考える。
一つ、言えることは、未だに、「担任をやりたい」という気持ちが湧かないことだ。
若くないので、もう子どもたちと一緒に行動するのが難しいということもある。
だが、最大の理由は、「また傷つくのが嫌だ」という、傷心のままに生きている私のわがままなのだろう。
2021年04月11日
言葉の重み
元プロ野球選手で、監督までつとめたMさんが来校した。
先日来校した同じく元プロ野球選手のYさんが、「すごい学校だぞ」と紹介したようだ。
高野連の関係で、いろいろ制約は多かったが、選手たちにはいろいろなヒントが得られただろう。
中学生も一緒に話を聞いたが、少ない人数の野球部員たち、どれほど恵まれているのかが、分かっているのだろうか。
本来ならば、自分たちでお金を払ってもなお、来てもらえるかどうか分からないことなのだ。
恵まれたことが当たり前に感じるようになると、人は天狗になる。
そして、いつしか慢心してしまう。
恐ろしいのは、自分が慢心していることに気づかないうちに、いつの間にか、他の人と距離が離れてしまっている、ということだ。
人は慢心している人とは距離を取る。
孤独になった、その人は、ますます慢心する。
かのプロ野球選手たちも、恐らくはこうした経験を経て、生き残り、現役を引退しのだろう。
あまたの可能性のある選手の中で、プロ野球選手になれるのは、ほんの一握り。
その中で、プロとして活躍できるのも、ごくわずか。
どんな世界でも同じことだろうが、そうした経験を経た人の話を聞くことは、それこそ人生訓としても、とても参考になるはずなのだ。
恐らくは、若さゆえの慢心だろうが、貪欲なくらいに学ぼうという気持ちがないと、大切な話もすり抜けていく。
Mさんが、投手にアドバイスしているとき、
「どうせ忘れてしまうだろう…。いいんだ、忘れたって、また思い出せばいい…。」
そんな言葉を何度も耳にした。
何となく、彼自身の人生を伺うようで、感慨深い。
人は経験に裏付けられた言葉に感銘を受けるのだ。
先日来校した同じく元プロ野球選手のYさんが、「すごい学校だぞ」と紹介したようだ。
高野連の関係で、いろいろ制約は多かったが、選手たちにはいろいろなヒントが得られただろう。
中学生も一緒に話を聞いたが、少ない人数の野球部員たち、どれほど恵まれているのかが、分かっているのだろうか。
本来ならば、自分たちでお金を払ってもなお、来てもらえるかどうか分からないことなのだ。
恵まれたことが当たり前に感じるようになると、人は天狗になる。
そして、いつしか慢心してしまう。
恐ろしいのは、自分が慢心していることに気づかないうちに、いつの間にか、他の人と距離が離れてしまっている、ということだ。
人は慢心している人とは距離を取る。
孤独になった、その人は、ますます慢心する。
かのプロ野球選手たちも、恐らくはこうした経験を経て、生き残り、現役を引退しのだろう。
あまたの可能性のある選手の中で、プロ野球選手になれるのは、ほんの一握り。
その中で、プロとして活躍できるのも、ごくわずか。
どんな世界でも同じことだろうが、そうした経験を経た人の話を聞くことは、それこそ人生訓としても、とても参考になるはずなのだ。
恐らくは、若さゆえの慢心だろうが、貪欲なくらいに学ぼうという気持ちがないと、大切な話もすり抜けていく。
Mさんが、投手にアドバイスしているとき、
「どうせ忘れてしまうだろう…。いいんだ、忘れたって、また思い出せばいい…。」
そんな言葉を何度も耳にした。
何となく、彼自身の人生を伺うようで、感慨深い。
人は経験に裏付けられた言葉に感銘を受けるのだ。
2021年04月10日
愛のかたち
子のために 作った夜食を 朝に食べ
こんな詩がラジオで紹介された。
「子どものために作った夜食の残りを、自分は朝になって食べた」
などという解釈をしていたが、私は違うと思う。
「子どものために夜食を作って置いておいたが、そのまま手がつけられることなく、朝までそのままになっていた。だから、もったいないので、私自身で食べた。」
ということだと思う。
温め直したのか、あるいは味が変わってしまっているのか、そこまでは分からないが、何とも言えない苦みのような味わいで、それを朝になってから食べたのであろう。
子どものために、と作った食事。
「何よ、食べないの?」
と、そのまま残飯として捨ててしまう親もいる。
「作ったんだから、何とかしなさい!」
と、声を荒げる親もいる。
だが、何も語らず、じっと耐え、残された食事を食べる、この詩のような親もいる。
食べるか食べないか分からない夫の夕食を作る妻の思いとは、少し違う。
手がつかずに、朝まで食卓に残っていた夕食を見る妻の気持ちには違いが、どこか違う。
相手は子どもなのだ。
与えきりの愛。
子どもには徹底的につくす。
見返りを求めず。ただただ与え続ける行為。
そんな思いが親の愛にはある。
それを知りつつ、教員として子どもたちと関わらなくてはなるまい…。
悔しい思いを、直接伝えることなくとも、心の中で悶々としているならば、それは伝えてさっぱりした方が良いだろう。
だが、世の中には、そうした感情を抱かない人もいる。
ただただ与えきりの人だ…。
こんな詩がラジオで紹介された。
「子どものために作った夜食の残りを、自分は朝になって食べた」
などという解釈をしていたが、私は違うと思う。
「子どものために夜食を作って置いておいたが、そのまま手がつけられることなく、朝までそのままになっていた。だから、もったいないので、私自身で食べた。」
ということだと思う。
温め直したのか、あるいは味が変わってしまっているのか、そこまでは分からないが、何とも言えない苦みのような味わいで、それを朝になってから食べたのであろう。
子どものために、と作った食事。
「何よ、食べないの?」
と、そのまま残飯として捨ててしまう親もいる。
「作ったんだから、何とかしなさい!」
と、声を荒げる親もいる。
だが、何も語らず、じっと耐え、残された食事を食べる、この詩のような親もいる。
食べるか食べないか分からない夫の夕食を作る妻の思いとは、少し違う。
手がつかずに、朝まで食卓に残っていた夕食を見る妻の気持ちには違いが、どこか違う。
相手は子どもなのだ。
与えきりの愛。
子どもには徹底的につくす。
見返りを求めず。ただただ与え続ける行為。
そんな思いが親の愛にはある。
それを知りつつ、教員として子どもたちと関わらなくてはなるまい…。
悔しい思いを、直接伝えることなくとも、心の中で悶々としているならば、それは伝えてさっぱりした方が良いだろう。
だが、世の中には、そうした感情を抱かない人もいる。
ただただ与えきりの人だ…。
2021年04月09日
苦手な先生
どうしてもW先生が苦手なのです。
嫌いなのです。
好きになるなんて、とんでもないです。
あの先生の、一言ひとことが、胸に刺さるのです。
心が揺さぶられるのです。
私は、あの先生の言葉が、どうしても納得できないのです。
反発心しか湧かないのです
どうしてあの先生そんなことを言うのだろう、という疑問と、意味不明ないやらしさと、嫌悪感しか湧かないのです。
だから私は素直になれません。
あの先生の言葉を受け入れられません。
言葉を聞くだけで、心がワサワサします。
心がドキドキします。
何だか分からない、怒りのような感情が湧き上がってきます。
丹澤先生、どうしたらいいんでしょうか。
W先生を好きになることなんて、私にはできません。
こんな訴えがあった。
「人の嫌な部分を見つけたら、その三倍、十倍、いいところを見つけたらいいんだよ。」
などという黄金律は、彼女には通用しなそうだ。
「どうして反発してしまうのか、冷静になって分析してごらん。」
なんてことも、思春期まっさりの今は無理だろう。
「今は、できるだけ距離をとって、あまり関わらないようにしてみたら…。」
友達ならまだしも、授業を担当している先生ともなれば、なかなかそうもいくまい。
人の嫌な部分が目につくときは、その嫌な部分を、自分自身が持っているからであるとも言う。
そうした分析は、大人になってからのことだ。
さて、どうしたものか…。
嫌いなのです。
好きになるなんて、とんでもないです。
あの先生の、一言ひとことが、胸に刺さるのです。
心が揺さぶられるのです。
私は、あの先生の言葉が、どうしても納得できないのです。
反発心しか湧かないのです
どうしてあの先生そんなことを言うのだろう、という疑問と、意味不明ないやらしさと、嫌悪感しか湧かないのです。
だから私は素直になれません。
あの先生の言葉を受け入れられません。
言葉を聞くだけで、心がワサワサします。
心がドキドキします。
何だか分からない、怒りのような感情が湧き上がってきます。
丹澤先生、どうしたらいいんでしょうか。
W先生を好きになることなんて、私にはできません。
こんな訴えがあった。
「人の嫌な部分を見つけたら、その三倍、十倍、いいところを見つけたらいいんだよ。」
などという黄金律は、彼女には通用しなそうだ。
「どうして反発してしまうのか、冷静になって分析してごらん。」
なんてことも、思春期まっさりの今は無理だろう。
「今は、できるだけ距離をとって、あまり関わらないようにしてみたら…。」
友達ならまだしも、授業を担当している先生ともなれば、なかなかそうもいくまい。
人の嫌な部分が目につくときは、その嫌な部分を、自分自身が持っているからであるとも言う。
そうした分析は、大人になってからのことだ。
さて、どうしたものか…。
2021年04月08日
若手の先生たち
若手の先生たちが熱い。
今年度新たに担任になった先生方、その誰もが意欲的で情熱的だ。
「校長は、これを見越して担任につけたのか…」、と思う。
私たち老人たちは、時にハラハラしながら見守っているが、大方はうまくいっているようである。
何かトラブルが起こりそうだったり、いざ、というときには、もちろん全面的にで助けをする。
このあふれんばかりの情熱には、思い出がある。
私が初めて教員になるべく教育実習に行ったとき、今は亡き恩師のH先生は、「若いときは情熱しかないんだ。それでやっていくしかないんだ…」、と仰った。
若さを当たり前としていた当時には、その真意は100%分からなかったが、今なら分かる。
経験少ない教員が、生徒と全力でぶつかっていくには、やはり『情熱』しかないのだろうな、と思う。
情熱さえあれば、多少失敗だって、挽回できる。
うまく指示できなくても、上手に教えられなくても、時に間違ってしまっても、情熱はそれを打ち消すに十分すぎるパワーを持つ。
そう考え、自らを振り返ってみると、「あの頃の情熱は薄らいでいるな…」、と改めて思う。
だからこそ、担任をやっていはいけないのだろうし、重要なポジションについてはいけないのだろう。
「サラリーマン教員は嫌だ」、と、あれほど思っていたのに、やっていることはサラリーマンになっているかも知れない…。
若手の先生には、要所要所でコツをアドバイスする。
彼らの経験値が上がってゆけば、いつかは大きな戦力になる。
こうして、時代は流れてゆくのだろう…。
情熱的な若手の先生方、がんばれ!
今年度新たに担任になった先生方、その誰もが意欲的で情熱的だ。
「校長は、これを見越して担任につけたのか…」、と思う。
私たち老人たちは、時にハラハラしながら見守っているが、大方はうまくいっているようである。
何かトラブルが起こりそうだったり、いざ、というときには、もちろん全面的にで助けをする。
このあふれんばかりの情熱には、思い出がある。
私が初めて教員になるべく教育実習に行ったとき、今は亡き恩師のH先生は、「若いときは情熱しかないんだ。それでやっていくしかないんだ…」、と仰った。
若さを当たり前としていた当時には、その真意は100%分からなかったが、今なら分かる。
経験少ない教員が、生徒と全力でぶつかっていくには、やはり『情熱』しかないのだろうな、と思う。
情熱さえあれば、多少失敗だって、挽回できる。
うまく指示できなくても、上手に教えられなくても、時に間違ってしまっても、情熱はそれを打ち消すに十分すぎるパワーを持つ。
そう考え、自らを振り返ってみると、「あの頃の情熱は薄らいでいるな…」、と改めて思う。
だからこそ、担任をやっていはいけないのだろうし、重要なポジションについてはいけないのだろう。
「サラリーマン教員は嫌だ」、と、あれほど思っていたのに、やっていることはサラリーマンになっているかも知れない…。
若手の先生には、要所要所でコツをアドバイスする。
彼らの経験値が上がってゆけば、いつかは大きな戦力になる。
こうして、時代は流れてゆくのだろう…。
情熱的な若手の先生方、がんばれ!