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2021年06月15日

細く薄い関係

最近、Tはサッカーの練習中転倒して手をついた際、骨にヒビが入ってしまい固定していた。

その姿が、あまりに痛々しいので、思わず声を掛けたのだ。

私に声をかけられたTは、以前と変わりなく、会話をしてくれた。

肉体的にも精神的にも疲労が蓄積し、いっぱいいっぱいになると、すべてを拒否したくなる。

ちょうどそんなときに私は彼に過干渉したのだろう。
これですっかり嫌われたようだ。

「もう関わるのはやめよう。Tの幸せだけを祈ろう。」
そう思って、祈り続けてきた、

「このままTが卒業するまで、一言も会話を交わすことなく終わるのかな…。それもありかな。」
そう思って祈り続けた。

だが、一週間で話ができた。

この先も、細く薄い関係になるのだろうが、何となく嬉しかった。

もしかしたら、あの頃の私は、孤独に耐えかねていたのかも知れない。

歳をとるとそういう思いが大きくなるようだ。

以前私は、「担任をやらないなんて、教員生活ではあり得ない」、と考えいた。「もし、担任でなくなったら、淋しくなって死んでしまいそうだ」、とすら思った。

やはり何かに依存していたのかも知れない。

人はさまざまな出会いがあり、そして別れがある。

学校現場では、それがずっと行われ続けている…。




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2021年06月14日

教育のプロ

我々教員は教育のプロである。
長く教員生活をしていれば、中高生期の特徴や、この時期の子育てのヒント等、経験によるかなりの知恵が蓄積されているはずだ。

だから、保護者から相談があれば、少しばかりは参考になることを言えるときもある。

中学生は、思春期始まりの時期。
この頃から、親の言うことを聞かなくなり、自己中心的な行動が多くなる。
成長の一過程なので、それを見守りつつ、あまりに間違った方向に走ったときは、軌道修正をする。
あまりカリカリせず、「いつか反抗期も終わるわ…」、とおおらかな心で子どもを見守っていると、たいていそのようになる。
この時期、これまでと同じか、それ以上の干渉をすると、そのマイナスの記憶ばかりが増幅され、後々になっても、反発心が残ってしまうこともある。

中一のある母親が、精神的にも限界になった。
「もう無理です。育てられません。勘当します。児童相談所に預けます。」
息子の数々の行いに対して、許容量を超えてしまったらしい…。
挙げ句の果てには、「先生、預かってもらえませんか?」と来た。

まずは、母親をなだめ、励まし、これまで育ててきたことへのねぎらいをしなくてはならないだろう。

その上で、気持ちを安定させ、思春期の意味と若干の対処法をお話して差し上げれば、少しは落ち着くかも知れない…。

親の心子知らずの本人にも、母親の言葉は傷跡を残す。
「そんなことするなら警察に連れて行くから…。」
と言われれば、中学一年生くらいでは、「そうか警察、行くのか…」、と心の深くに記憶を残す。

教育のプロとして、学校の先生が、親子共々、助けてあげることが必要だ。

子どもも一人ひとり個性が違う。
たとえ、兄妹で経験があったとしも、弟妹でうまくいくとは限らない。
同じアプローチでは駄目なこともあるし、何も言わずとも、うまくいくこともある。

毎日のように学校から連絡が来ると、親としても参ってしまうだろう…。

そんな中でも、子どもたちは着実に成長している。




2021年06月13日

散髪

A君の髪の毛が長くなってきたのだが、この先なかなか散髪できそうもないので、私が切ってあげた。

だが、これがとても困難だった。
A君はくせ毛のため、櫛が通らないのだ。
ちょっと湿らせたくらいでは、全然だめ。
すきバサミも通らない。
「痛っ、痛っ、痛っ…」、と言ってやらせてもらえない。

素人の私には、濡れた髪の毛は切りにくい。

本来、生徒の髪を切ってあげることは滅多にないが、時に親代わりの部分もあり、時々はこうした機会が訪れる。

ハサミだけで、大分きれいに整えられるようにはなったのだが、残念ながら今回はうまくいかなかった。

「私、失敗しないので…」、とはいかず、結局再度、バリカンでやり直すことになった。

最初からバリカンを使えば良かったのだが、高3が、この先受験勉強に打ち込むために、多数、坊主頭にしたいと、バリカンを貸していたのだ。

だが、A君のやり直しのため、もう一度バリカンを奪い返し、再度調整。

「この頭って坊主ですよね。坊主はちょっと…。」
とA君。
「13mmは坊主じゃない。」

「うーん、みんなに笑われるな…。」
「笑われない!」
「スポーツ刈りが良かったな…。」
「こっちの方が格好いい!」

と無理矢理納得させる。
逆に、まんざらでもなさそうだ。
以前にも、このくらいの長さの髪型はある。

「次もまた、切らしてね」、と言うと、元気な声で「はい!」と返ってきた。

もう少し散髪の技術を上げなければ…。




2021年06月12日

裏庭の蛍

今年も蛍のシーズンがやってきた。
この辺りは、近くに蛍スポットが何カ所もある。

そのうちの一つが、私の隠れ家の裏手。
川から田んぼに引いた用水路にゲンジボタルが自生し、毎年蛍が暗闇の中に星と見間違うほどの光を放つ。

数日前に、見に行ったときは、夕暮れ直後で、まだ微かに薄明るかった時間帯でもあったが、何と一匹も飛んでおらず落胆したのだが、今日は違った。

自転車でものの数十秒。
このあたりは電灯は一カ所もなく、歩いて行くと足下すら見えない真っ暗闇である。
前から人が来ても分からないし、その輪郭すら見えない。

「おっ、飛んでるな…。」
一年ぶりの対面に、心の中で小躍りする。
このスポットは、川縁ではなく、かなり高い所に飛んでいる。
だから、一瞬、星と見間違うほどなのだ。

「これなら裏にも飛んでくるかな」、とふと自宅(隠れ家)の裏庭を見ると、一匹の蛍が飛んでいる。

家に戻り、真っ暗闇の裏庭に行くと、蛍が二匹飛んでいた。

「裏庭で蛍を愛でることができるなんて、なんて幸せな所に住んでいるのだろう…。」

ささやかな幸せを感じたひとときだ。

「丹澤先生、蛍って何のために生きているんでしょうか…。」

生徒にそんなことを聞かれたことがある。
虫そのもの人生に、どんな意味があり、価値があるのかについて、疑問に思った中学生からの質問だ。

「闇に光る神秘さと共に、その光を放つ期間の短さにより、人生のはかなさを象徴しているんじゃないかな…。その姿を見て、人間も何かしら振り返るべきところがあることを、教えているんじゃないかな…。」

これが私の答えだ。

ささやかな幸せは、人間の生き方をも教えてくれる…。

2021年06月11日

続・担任の仕事

前回、「担任の仕事」というタイトルをつけたが、内容にまったく触れていなかったので、もう一度、語ってみたいと思う。

要は、「担任をすることに、生きがいを感じられないならば、担任の仕事はできない」ということである。

だから、「無理矢理担任にさせられた」、とか、「いやいや担任をやっている」というのでは、仕事にならない。それに、先生も生徒も、お互い不幸である。

担任は、クラス全員を統括する立場にある。
先生風を吹かせて、大人の不条理な論理で、強制的に従わせることもできるが、生徒たちが、管理されていることを感じないような、上手なアプローチの仕方もある。

いずれにせよ、「真の担任」とは、常にクラスの生徒のことを考えている立場にいる教員のことである。

たとえ生徒が家庭に戻ったとしても、担任はその生徒のことを気にかけ、善導したいと思い、次なるアプローチを探るべく、考え続ける…。

そうした毎日の連続を過ごしているのが、担任である。

そうした思いは、必ずや生徒たちに届き、いつしか信頼される担任になっていく。
その信頼感が親たちをも納得させ、「この担任なら安心」、という思いを抱かせる。

たとえ厳しい指導をすることがあっても、「〇〇先生が担任の先生で良かった…」、と思われるようでないと、ホンモノではない。

確かに生徒たちには担任は選べないが、「うちの担任、なかなかやるじゃん」、と思わせる、スパイスが必要なのだ。

「このクラスで良かった」、と思う生徒は、「この担任の先生でよかった」という思いときわめて近い。

もちろん、生徒全員に好かれる担任はめったにいないだろう。
だが、筋を通し、生徒を愛している姿は、誰もが安心感を持ち、納得する…。

「〇〇先生と会いたい」、と週初めに生徒が思うような、そんな喜びを、担任は意識して欲しいと思う。

若い先生たち、頑張れよ! 今なら、何でもチャレンジできるぞ。

2021年06月10日

担任の仕事

欧米には仕事は苦役であるという文化があるという。
おそらくその原点はキリスト教思想なのだろうが、日本人の仕事観とは大分違う。

しかし、昨今は日本人でも、仕事に対して、「無理強いされるもの」という意識が大きくなってしまったようにも思える。

嫌な仕事でもやらなくてはならない。
やる気がなくても、やらなくてはならない。
無理にでも、やらなくてはならない。

しかし、こうした発想のなかで仕事をしている中に、創造性や付加価値は生まれない。
反論する人がいることを覚悟して言うが、本来、仕事は、「楽しく、喜んで」行うべきものだ。

だから、学校の仕事だって、いやいややっているようでは、その思いは必ず生徒や保護者に通じ、いわゆる「いい」仕事にはならないはずだ。

たとえ、その仕事を与えられたことが不本意であったとしても、自らの思いを変えて、ポジティブにその業務にあたろうと、努力しなくてはならないだろう。

ほとんどの場合、「この仕事はやりたくありません」、とは言えないが、少なくとも自分自身の心が吹っ切れていなければ、仕事としては成立しない。恐らくはその仕事ぶりに、同僚や上司は落胆し、時に叱責を受けることになるだろう。

一方、自分自身で、ネガティブ思想からポジティブ思想に変えられないこともある。
何年もそうした状況が続いたり、自身で「違うな」と思うときは、静かにその職場を去るべき時なのだろう。

コロナ禍で、不本意ながら、生活のために別の仕事を就いている方もいるのだろうが、そうした方であっても、その仕事に「生きがい」を感じなければ、おそらく社会的環境が変化したときに、また、その仕事を去らなくてはならない時期がやってくると思われる。

要は、「あなたがいなくてはこの仕事が成り立たない」、と言われるくらいの熱意で、仕事に当たらなくてはいけないということだ。

担任も同じだ。

私立学校では、「この人には担任は任せられない」というレッテルを貼られた人は、ずっと担任にはなれないこともある。

学校現場だろうが、会社だろうが、結局は、仕事に対するマインドの問題。

一日の三分の一以上を占める仕事に、意味を見いだせないのであれば、それはそれで、人生がつまらないものに感じられないだろうか…。




2021年06月09日

疎遠

「丹澤先生は、高校の担任とか、高校生の授業担当とか、やらないんですか?」
中3の授業中、ある生徒にそんな風に尋ねられた。

私が、「高校になると、だんだん疎遠になってしまうんだよ…」、と言ったことに対しての反応である。

私はそうした声に、
「高校の担任や授業を持つと、卒業するとき淋しくて淋しくて、耐えられなくなるんだ…。だから、やらないんだよ。」
と、こたえる。

もちろん、どの学年を担当するかは、自分の希望というより、校長が決めることなのだろうが、このことは私の本心でもある。

「私が一番耐えることが苦しいのが、『愛別離苦』なんだ。君たちは、『五蘊盛苦』だろうけど…。」

中3の数学の授業とは思えないほど、高度な仏教用語が飛び交う。

「丹澤先生、僕たちと別れるの悲しいですか?」
「そりゃ、悲しいよ。淋しいよ。泣いちゃうよ…。だから、卒業したら、少しずつ関係が薄くなって、高校卒業するときには、ものすごく細くなって、消えるように高校を卒業してくれたら嬉しい。私も、そうやって消えるから…。」

中学卒業後、自然に疎遠になることもあるが、急激に関係が薄れることもある。
彼等からすると、「俺ら、もう高校生だから…」、という自負のようなものがあるのだろう。「中学の時のように、丹澤先生とは関わらないぞ…」、という意図も見え隠れする。

たいていの場合、急激に私と疎遠になるのは、何か合った場合である。
私に顔向けできない何か、今は、先生と話をしたくないという思い…。
そんな気持ちが交錯して、私には近寄らなくなる。

本当は助けて欲しいはずなのだろうが、こちらから干渉すると、逃げてしまうから、私は、少し落ちた彼等の幸福を祈るばかりである。

自ら成長しようとしている彼等を、遠くから見守ることも、一つの愛の形なのだろう。

「淋しくなるね…。」
「まだ中学卒業まで、しばらくありますよ。先生、そんなに寂しがらないでください。」

また一つ、生徒の愛を感じた…。




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