2012年11月14日
源氏山から北鎌倉へ〜[縁切寺]さだまさし〜
さだまさし の歌詞は、[秋桜]もそうですが、情景をイメージさせてくれます。
中には、ある場所が浮かび上がってくるというようなものもあります。
[主人公]の早稲田の学生街、[檸檬]のお茶の水界隈、[無縁坂]は東大裏手の実在の坂。
そして[縁切寺]では、鎌倉の風景を辿ることができます。
〜〜〜
二人で初めて訪れたのが北鎌倉で、そこで偶然「縁切寺」にさしかかってしまう。
ずーっと一緒にいたいと彼女は思っていたはずなのに、彼女の方から別れを告げてきた。
「縁切寺」では3年修行をすると縁が切れるといわれていて、もうすぐ3年を迎えるという時
街で彼女を見かけて、ふと出逢った頃のことを思い出してしまった。
それで、思わず鎌倉まで出かけてしまい、源氏山から想い出を辿ってみることとした。
〜〜〜
というストーリーです。
この曲は、さだまさし が 吉田正美 と組んでいた グレープ の3枚目となる最後のアルバム
『コミュニケーション』に収録されています。
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<源氏山>
源氏山というのは、平安時代の後三年の役(1083〜1087)の時、
源氏の嫡流である八幡太郎源義家が、陸奥の安倍氏討伐へ向かう際、
この山頂に白旗を立てて勝利を祈願したという伝説から、呼称されるようになりました。
別名として、白旗山や旗立山とも呼ばれています。
源頼朝も高祖父である源義家の先例に倣って、平家追討の折、山頂で源氏の
戦勝祈願をしたといわれており、源頼朝坐像が置かれています。
昭和40年に「源氏山公園」として整備され、鎌倉山と並ぶ花見の名所として
知られていますが、紅葉も見応え十分です。
園内には、鎌倉の七切通しの一つであり、国の史跡でもある「化粧坂」があります。
読み方は「けわいざか」で、「けわい」という古語には“身だしなみを整える”という意味があり、
中世の国府や守護所などの近辺では割合多くみられる地名のようで、
鎌倉に入る前に“身だしなみを整える”処だったのでしょうか。
現在の「けしょう」という読みも、同じような意味合いともいえると思います。
<葛原岡神社(くずはらおかじんじゃ)>
源氏山は「葛原ヶ岡・大仏ハイキングコース」の途中にあり、葛原ヶ岡の方へ向かうと
北鎌倉へと抜けられます。
実際に歩いてみると、源氏山のすぐ近くに「葛原岡神社」があります。
こちらは、後醍醐天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕に活躍した日野俊基を祀る神社です。
後醍醐天皇の倒幕計画の一人として参画していましたが、幕府に察知され
天皇をかばうために捕らわれの身となり、刑場であった葛原岡で処刑されてしまいました。
その後、楠木正成や新田義貞らの活躍により、鎌倉幕府は滅亡し、
後醍醐天皇の悲願は「建武の中興」として達成されます。
時は下り、日野俊基の足跡に対して、明治天皇が「明治維新」の先例として深く追慕しました。
そして、従三位を追贈し、葛原岡に日野俊基を祀る神社を創建することとなりました。
日野俊基という人物が、「建武の中興」への道を開いたことから「開運の神様」、
また、文章博士として優れた能力を発揮していたことから「学問の神様」として、
広く篤く崇敬されています。
<浄智寺(じょうちじ)>
ここからハイキングコースを進み、山を降りると、「浄智寺」に着きます。
こちらは、鎌倉五山第4位にあたる寺院です。
ちなみに「鎌倉五山」とは鎌倉にある禅宗の寺格を指す言葉です。
他に「京都五山」があり、鎌倉時代末期に北条氏が南宋に倣い五山制度を導入し
選定したものです。
いくつか変動があった後、室町時代になって、次のように寺格が固定されました。
・別格上位 南禅寺
・京都…第1位:天龍寺 / 第2位 :相国寺 / 第3位:建仁寺 / 第4位:東福寺 / 第5位:万寿寺
・鎌倉…第1位:建長寺 / 第2位 :円覚寺 / 第3位:寿福寺 / 第4位:浄智寺 / 第5位:浄妙寺
「浄智寺」は、臨済宗円覚寺派の寺院で、山号は金峰山といいます。
鎌倉幕府第5代執権北条時頼の3男である北条宗政の菩提を弔うために創建されました。
開山は宋出身の高僧兀庵普寧(ごったんふねい)と導師大休正念(だいきゅうしょうねん)で、
南州宏海(なんしゅうこうかい)が準開山になっています。
最盛期は七堂伽藍と塔頭11寺院を有していましたが、戦国時代から徐々に荒廃し、
江戸末期には塔頭8院となりました。その後、その大部分は関東大震災で倒壊してしまい、
現在の伽藍は昭和になってからの復興されたものです。
境内は樹木豊かで起伏があり、江ノ島鎌倉七福神の一つ布袋の石像を祀る洞窟もあります。
境内入り口にある湧き水は鎌倉十井の一つ「甘露の井」と呼ばれているものです。
<東慶寺(とうけいじ)>
浄智寺から少し北鎌倉駅の方に進んでいくと、「縁切寺」にたどりつきます。「縁切寺」とは
「東慶寺」という寺院の通り名です。
♪突然に泣き出し♪た山門がこちらです。
この画像は、「東慶寺」ホームページから借用しました。
江戸時代、離縁は夫の側にしか認められていなかったため、縁を切りたいという女性は、3年間修行をすれば離婚が認められるという「縁切寺法」という制度があり、
それを認められていたのが、群馬の満徳寺と鎌倉の東慶寺で、「駆け込み寺」とも
呼ばれていました。
「東慶寺」は、臨済宗円覚寺派の寺院で、山号は松岡山で寺号は東慶総持禅寺といいます。
鎌倉幕府第9代執権の北条貞時が、父である北条時宗の死去の翌年に建立したもので、
開山は覚山尼(かくさんに)という北条時宗の夫人であり貞時の母にあたる人物です。
代々尼寺であり、尼五山の第2位の寺でしたが、現在は男僧の寺となっています。
<明月院(めいげついん)>
歌詞の中に“紫陽花までは まだ間があるから”とありますが、北鎌倉には「あじさい寺」として
有名な「明月院」があり、こちらは「浄智寺」の向かいにある路地を入った先にあります。
「明月院」は、臨済宗建長寺派の寺院で、山号は福源山です。
もとは禅興寺という寺の塔頭でしたが、明治初めに廃絶してしまい、今は「明月院」のみが
残っています。その昔、鎌倉幕府5代執権北条時頼が別邸に持仏堂を造営し、最明寺と
名付けましたが、時頼の死後は廃絶してしまい、その後、息子の8代執権北条時宗が、
蘭渓道隆(らんけい どうりゅう)を開山として再興した際に、禅興寺と改名しました。
そして室町時代に入り、関東管領上杉憲方が、密室守厳(みっしつしゅごん)を開山として、
「明月院」を開創しました。
現在、アジサイの名所として知られており、「あじさい寺」の通称がありますが、
アジサイを植えたのはさほど古い事ではなく、“手入れが比較的楽だから”という理由で
第二次大戦後に植えたものが次第に有名になっていったとのことです。
アジサイの他にも、紅葉でも知られており、冬は蝋梅、春は梅と桜が咲き誇る寺院です。
また、鎌倉十井の一つ「瓶(つるべ)の井」があります。
(「甕(かめ)の井」とも呼ばれているそうです)
源氏山から北鎌倉まで散策をした後は、和テイストのお店に立ち寄って、一休みしましょう。
<鉢の木>
浄智寺の向かいに、日本料理「鉢の木」というのがあります。
この屋号は、「謡曲:鉢の木」に由来しているとのことです。
「謡曲:鉢の木」というのは、次のような話です。
---
隠居した鎌倉幕府5代執権北条時頼が旅僧の姿となり、諸国を巡っていた際、
ある大雪の夜、上野国佐野荘のあばら家をたどりつき、一夜の宿を求めます。
寒さをしのぐため、囲炉裏に火をくべていましたが、途中で薪が無くなってしまい、
大切にしていた鉢植えの梅・松・桜を薪の代わりとし、精一杯のもてなしをしました。
旅僧が素性をきくと、もとは佐野荘の領主だった佐野源左衛門尉常世と名乗り
一族に土地を奪われ、今はこのように落ちぶれているが、“いざ鎌倉!”となれば
いち早く鎌倉に馳せ参じ忠勤を励む所存である、と語ります。
その後、鎌倉から動員令が発せられ、常世は急ぎ鎌倉に馳せ参じました。
大雪の夜の旅僧であった北条時頼が姿を現し、常世に対し、その忠を労って、
佐野荘の所領を安堵した上で、時頼のために薪として使った鉢の木にちなみ、
上野国松井田荘、越中国桜井荘、加賀国梅田荘を与えたということです。
---
「鉢の木」は、主人の常世が旅人である時頼に対し、ささやかな食事であっても
それを少しでも美味しく食べてもらおうと、大切な鉢の木を使い温めて提供した
ということから、“質素だが精一杯のもてなし”という気持ちでお客様に接したい
との思いを込めて屋号にしたということのようです。
1964年に開店し、そろそろ50年を迎え、鎌倉に3店舗を構えるようになりました。
現在は創業当時とは異なり、いろんな味を取り揃えた精進料理や会席料理で、
質素というのではなく、どちらかといえば北条執権家の食事の趣きでしょうか。
<ブラセリー梅宮>
東慶寺と浄智寺の間にある北鎌倉横丁の一番奥に「ブラセリー梅宮」があります。
店主は、梅宮捷雄という方で、お兄さんは料理や釣りで有名な梅宮辰夫です。
店主も釣りと素潜りの名人とのことで、店名と店構えはフレンチ風なのですが、
洋+和のオリジナル料理を出す処です。ちょっと隠れ家風で、あまり人には
教えたくない、という感じのお店なので、ちょこっとだけ紹介してみました。
<鳩サブレ>
鎌倉土産として、手ごろなのは「鳩サブレ」でしょうか。
豊島屋が製造しているお菓子で、鶴岡八幡宮に参詣した人の土産として
有名になりましたが、今では神奈川県を代表する銘菓といえるものでしょう。
明治時代末期の発売当初には「鳩三郎」とも呼ばれていたのですが、
この菓子を開発した初代店主が最初に「サブレー」と言う耳慣れない単語を
聞いた時に「サブレー」=「三郎」と連想したためで、一般的にも「サブレー」
という外来語よりも「鳩三郎」という愛称の方が馴染みやすかったとのことです。
鳩の形は、初代が鶴岡八幡宮を崇敬しており、本宮の掲額の八が
鳩の向き合わせであり、宮鳩もいるところからモチーフとして採用した
と伝わっています。
本店は、鶴岡八幡宮も参道である段葛(だんかずら)の中ほどにありますが、
北鎌倉の駅前にも直営店があります。
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浄智寺の向かいに、日本料理「鉢の木」というのがあります。
この屋号は、「謡曲:鉢の木」に由来しているとのことです。
「謡曲:鉢の木」というのは、次のような話です。
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隠居した鎌倉幕府5代執権北条時頼が旅僧の姿となり、諸国を巡っていた際、
ある大雪の夜、上野国佐野荘のあばら家をたどりつき、一夜の宿を求めます。
寒さをしのぐため、囲炉裏に火をくべていましたが、途中で薪が無くなってしまい、
大切にしていた鉢植えの梅・松・桜を薪の代わりとし、精一杯のもてなしをしました。
旅僧が素性をきくと、もとは佐野荘の領主だった佐野源左衛門尉常世と名乗り
一族に土地を奪われ、今はこのように落ちぶれているが、“いざ鎌倉!”となれば
いち早く鎌倉に馳せ参じ忠勤を励む所存である、と語ります。
その後、鎌倉から動員令が発せられ、常世は急ぎ鎌倉に馳せ参じました。
大雪の夜の旅僧であった北条時頼が姿を現し、常世に対し、その忠を労って、
佐野荘の所領を安堵した上で、時頼のために薪として使った鉢の木にちなみ、
上野国松井田荘、越中国桜井荘、加賀国梅田荘を与えたということです。
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「鉢の木」は、主人の常世が旅人である時頼に対し、ささやかな食事であっても
それを少しでも美味しく食べてもらおうと、大切な鉢の木を使い温めて提供した
ということから、“質素だが精一杯のもてなし”という気持ちでお客様に接したい
との思いを込めて屋号にしたということのようです。
1964年に開店し、そろそろ50年を迎え、鎌倉に3店舗を構えるようになりました。
現在は創業当時とは異なり、いろんな味を取り揃えた精進料理や会席料理で、
質素というのではなく、どちらかといえば北条執権家の食事の趣きでしょうか。
<ブラセリー梅宮>
東慶寺と浄智寺の間にある北鎌倉横丁の一番奥に「ブラセリー梅宮」があります。
店主は、梅宮捷雄という方で、お兄さんは料理や釣りで有名な梅宮辰夫です。
店主も釣りと素潜りの名人とのことで、店名と店構えはフレンチ風なのですが、
洋+和のオリジナル料理を出す処です。ちょっと隠れ家風で、あまり人には
教えたくない、という感じのお店なので、ちょこっとだけ紹介してみました。
<鳩サブレ>
鎌倉土産として、手ごろなのは「鳩サブレ」でしょうか。
豊島屋が製造しているお菓子で、鶴岡八幡宮に参詣した人の土産として
有名になりましたが、今では神奈川県を代表する銘菓といえるものでしょう。
明治時代末期の発売当初には「鳩三郎」とも呼ばれていたのですが、
この菓子を開発した初代店主が最初に「サブレー」と言う耳慣れない単語を
聞いた時に「サブレー」=「三郎」と連想したためで、一般的にも「サブレー」
という外来語よりも「鳩三郎」という愛称の方が馴染みやすかったとのことです。
鳩の形は、初代が鶴岡八幡宮を崇敬しており、本宮の掲額の八が
鳩の向き合わせであり、宮鳩もいるところからモチーフとして採用した
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タグ:鎌倉
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