Holiday in Cancún
マヤのピラミッドで有名なチチェン・イッツァへ 〜 Pre-Historical City of Chichen Itza
欧米の人たちに大人気のカリブ海リゾートのカンクンから、車で約2時間ちょっといくと、あの古代文明のマヤの神殿がある場所につきます・・・そこには、マヤのピラミッド、チチェン・イッツァもあります。1988年に世界遺産に登録されたメキシコのマヤ文明の遺跡です。
最上階にあるのは生贄の祭壇・・・
聞いた事がありますか?
生きたまま心臓をナイフで取り出されるとかなんとかいう話。
昔の人は凄く残酷だなー
こわい・・・
まあ、これも宗教がからんでいるのですが・・・
マヤの最高神ククルカンは、羽毛のあるヘビの姿をした神です。
このピラミッドは、その神様を祀るピラミッド。
春分の日と秋分の日の夕暮れ、ピラミッドの北側の階段に、沈む太陽がヘビのような影を投げかけるのだとか。
最高神ククルカンの降臨だ!!と昔の人々は信じた事でしょうね。
しかし、そのような神が本当に存在するかもしれませんね。
それほどに、このピラミッド、いやこの地域一体は不思議でした。
本当に人間が作ったの?今の人間でもこんなのが作れる?
それも1000年以上前の人間が作れるのか・・・?
そう、このピラミッドは1000年以上前に古代マヤ文明によって建てられたのです。
基底55.3メートル四方、高さ24メートル(頂上の神殿部分は6メートル)。
カスティーヨともよばれており、はスペイン語で城塞の意味。
また、「ククルカンのピラミッド」、「ククルカンの神殿」とも呼ばれています。
大きな9段の階層からなり、4面に各91段の急な階段が配されていて、最上段には真四角な神殿(生贄の祭壇もここに・・・)があります。ピラミッドの階段は、4面の91段を合計すると364段で、最上段の神殿の1段を足すと、ちょうど365段。1面の階層9段は階段で分断されているので合計18段となり、これらはマヤ暦の1年(18か月5日)を表す。このことから「暦のピラミッド」とも呼ばれています。
内部には初期のトルテカ=マヤ方式のピラミッドが内蔵されており、この神殿にはジャガーをかたどった玉座や生贄の心臓を太陽へ捧げたチャクモール像が置かれています。
どれぐらいの人たちが生贄になったんだろう・・・
てか呪われてないか、ここ?
さて、生贄を決めるさいにスポーツが絡んでいるんだとか。
これは初耳でした。
ガイドに教えてもらいました。
球戯場もあります。ゴムで作られた重いボールを腰で打って相手側のコートに入れるスポーツ。
試合が盛り上がるほど雨が降り豊作になると信じられていたそうです。
そして、負けたら生贄になって斬首されるとか・・・
しかし、一説では勝った方が生贄にもなるといわれています。
現在でもはっきりしていないそうですが、いずれにせよ、残酷で恐いですね。
生贄の血が、流れ込むようの、井戸もあるんです・・・
この遺跡は100年以上にわたって探検家や考古学者に調査されてきたが、その謎はいまだ解かれていないそうです。ピラミッドの下には地下水路が存在するのか、建造物の中心には隠し部屋があるのか。
ここらへんは昔、エイリアンに支配された場所なのかっもしれないとガイドのおじさんが冗談を交えながら話してくれました。
また、チチェン・イッツァ周辺には川や湖沼がないそうです。地下水が露呈した天然の湖セノーテが唯一の水源だったとの事。700年頃から宗教儀礼に用いられるようになり、雨が降らない時や豊作を願う時、雨と嵐と稲妻の神チャークの予言を伺うために、財宝や生贄の人間が投げ込まれたといいます。ここででも生贄の儀式が・・・のちに、この湖の中で人骨やたくさんの財宝が発見されたそうです・・・
2018年08月03日
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現場の空気感が伝わってきます、流石です。
この手の宗教遺跡で感じるのはその、「信念」と言うか「執念」と言うか、強烈な断固たる意志ですね。
硬い石を切る事も、高いピラミッドを作る事も、人手と時間をかければ技術的にはできます。
暦の役割を持たせ、影に意味を持たせる設定思想や技術力も凄いと思います。
問題は、そこまでして成し遂げたいと言うモチベーションが何なのか?
威光を示すため、敵対する相手への威嚇、力の誇示、あるいは疫病や天災への恐れ、いずれにせよ何か狂気を感じる部分もあります。
日本の大仏、伏見稲荷の鳥居等の神社仏閣もそうですが、大きい物、数の多い物は特にそれを感じます。
そして、数多くの人々の必死の、切羽詰まった、他に頼る事のできない祈りを、何百年も聞いてきた(叶えて来たかは別)神様ですから。
自分の声を届けるにはどれだけ力を込めて願えば届くのか。
きっと、生半可な祈りでは通じない気がします。