2015年11月23日
日常生活の中での法務と税務(19) 経営、税務、法務(2) その3
日常生活の中での法務と税務(19) 経営、税務、法務(2) その3
前回に続き、
大蔵財協 木山泰嗣(弁護士)著 「リーガルマインド 法律に強い税理士になる」
(1851円)を参考に書いてあります。
ご購入をお勧めいたします。
この本は、標題には「税理士」とありますが、「税理士」のことなど殆ど書かれていない、「法律の入門書」になっております。
1裁判官の考え方 法の考え方「法的三段論法」
裁判官が、「判決」をくだすときの思考プロセスであり、
判決文に書く「判決理由」で記される「論理理由」で、記される論理を、「法的三段論法」という。
法的三段論法 (「役割」の面からみると)
@法解釈→A事実認定→B結論
@法解釈・・・(法規)に論理則を当てはめて、(法規範)を定立する。
・・・「裁判所」がする。
A事実認定・・・(証拠)に経験則を当てはめて、(事実)を認定する。
・・・「当事者」が提出した「証拠」を、「裁判所」が認定する。
B結論・・・定立された(法規範)に、認定された(事実)を、当てはめる。
・・・「裁判所」がする。
上記のように、「法的三段論法」に沿った思考過程を、裁判所に提出する書面に丁寧に書くことが求められるということです。
前回のPending事項、
私的考察の結果、民事事件では、判決が、担当裁判官の意向次第のようでした。
従って、「担当裁判官にゴマをすろう」で、書いてみたい。
1
自由心証主義
一方で、民事裁判は、民事訴訟法に基づき、提訴されます。他方で、刑事裁判は、刑事訴訟法に基づいて提訴されます。
「民事訴訟法」では、裁判官は、提出された「証拠」を、民事訴訟法の定めた原則である「自由心証主義」(民事訴訟法247条)の下、一部「法定証拠主義」が適用になる場合を除き、「証拠方法」についての規制がないため、基本的には、全て裁判所の自由な判断で証拠を見て、事実を認定してよい、とされているそうです。
これが、今回のテーマの「結論」です。
すなわち、「又聞きの証拠」、「無断録音された音声データ」であっても、「裁判所が証拠として価値があると判断すれば、証拠になる」ということです。
これのしばりは、「経験則」に違反した証拠の評価や事実の認定をすることが許されないこと、だそうです。 「経験則」とは、一般的に事物の性質から導かれる法則であり、常識や科学的に確立された知見をいうそうです。
自由心証主義とは、@証拠方法の無制限、A証拠力の自由評価、からなるとされております。
@証拠方法の無制限とは、民事訴訟法では、「証拠方法」について規制がありません。
他方で、刑事訴訟法では、「伝聞法則」、「違法収集証拠排除法則」などがあるとされていて、「証拠を、自由にとりあげることはできない」とされている、そうです。
A証拠力の自由評価とは、提出された証拠をどのように評価するかは裁判所の自由であるとされているそうです。
しかしながらです。「証拠」など弱いものです。
例えば、「契約」です。これは、書面でも、口約束でも、有効なことは周知のことです。しかしながら、一所懸命「証拠」を集めても、「公序良俗違反」、または「通謀虚偽表示」だと、指摘・断罪するのは容易なのです。このいずれかを適用すれば、「契約は無効」となるのです。元々、「証拠」というものは、完璧ではないのです。
裁判官の心証次第で、瑕疵を見つけるのは容易です。
なぜなら、我々は、「契約自由の原則」に基づいて、行動しています。これを有効としながらも、裁判官は、「公序良俗違反」、または「通謀虚偽表示」により、「契約は無効」にできるようです。
出資法、利息制限法などの絡みで、「過払い」が、公然と存在することになりました。これも恐らくは、社会的影響も考慮した「自由心証主義」の延長線上にあるのでしょう。
民事訴訟法247条
(自由心証主義)
裁判所は、判決をするに当たり、口頭弁論の全趣旨及び証拠調べの結果をしん酌して、自由な心証により、事実についての主張を真実と認めるべきか否かを判断する。
民法90条
(公序良俗)
公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする。
民法94条
(虚偽表示)
1.相手方と通じてした虚偽の意思表示は、無効とする。
(2.前項の規定による意思表示の無効は、善意の第三者に対抗することができない。)
契約自由の原則
「契約自由の原則」とは、個人の契約関係は、契約当事者の自由な意思に基づいて決定されるべきであり、国家は干渉してはならない、という原則のこと。
「契約自由の原則」は、契約関係を結ぶ相手方選択の自由、契約内容に関する内容の自由、契約方式の自由の3つで構成される。特許のライセンス契約においても、「契約自由の原則」に基づき、当事者間で合意を得ながら契約事項を決定していく。
======
2
事実認定
民事訴訟において、「事実」の認定は、どのように行われるのか。
それは、「弁論主義」が適用され、当事者からの「主張」やそれを裏付ける「証拠」の収集・提出が必要になる、というものです。
(1)「証拠」
@内容的な観点から、3ケある。
・「直接証拠」・・・「主要事実」を直接証明できる証拠のことである。
・「間接証拠」・・・「間接事実」の存在を立証する証拠のことである。
・「補助証拠」・・・「補助事実」の存在を立証する証拠のことである。
A手段(方法)の観点から、2ケある。
・「書証(客観証拠・・・書面(文書)で提出される証拠であり、客観性がある)」
・「人証(供述証拠・・・法廷で人が話した内容(「証人尋問・本人尋問」で、「尋問調書に記録される」)を証拠にするもので、主観的なものである)」
「証拠」はいずれも、当事者(原告または被告)が、自ら(代理弁護士を含む)「探して」きて、自らに有利になると考える証拠を「選定」し、「裁判所に提出」する。
B「事実」には3ケある。
・主要事実・・・「契約書」等で、ある「法律効果」が発生するために必要な「要件事実」のことを言う。
「弁論主義」が適用になる。
・間接事実・・・「通帳に入金なっている」等で、積み重ねることで、「主要事実」があったらしいと、その「主要事実」の存在を推認できるという意味で、弱い事実である。
「弁論主義」が適用にならない。
・補助事実・・・「供述に信用性がある」等で、証拠の証明力に関する事実である。
「弁論主義」が適用にならない。
(2)民事訴訟法における「当事者主義」
裁判官が職権で動いてくれる「職権主義」に対して、裁判における訴訟活動を、当事者(原告、被告)に行わせるという「役割分担」の特性が民事訴訟法にはあるとされております。
民事訴訟法における「当事者主義」は、2ケある。
@「処分権主義」・・・権利の処分は、当事者の自由である、ということになっている。
裁判を起こすかどうか、起こすとしてどこまで起こすのか、あるいは途中で裁判を止めるのかは、当事者の自由である。
A「弁論主義」・・・主張と立証は当事者の責任である、ということになっている。
訴訟での「主張」や「立証」を当事者が行わないと、裁判の判決には反映されない、というものである。「資料の収集と提出」は、当事者の責任であるというものです。
「事実認定」は、当事者が、「主張」、「立証」について責任を負う。これを「主張責任」、「立証責任」という。
つまり、「弁論主義」とは、当事者が自分でやれ、というものです。
3ケ、あります。
第1テーゼ(=命題)・・・「主張責任」
・・・「訴訟」資料の収集・提出をすることである。「主張」を整理した書面(訴状を提出した場合は、「準備書面」という書類になる)を提出することだそうです。
第2テーゼ・・・「裁判上の自白」
・・・裁判所は、当事者間に争いのない事実はそのまま判決の基礎にしなければならない、という考え方です。これは、立証が不要な事実(「不要証」)の一つで、もう一つは誰でも知っているような「裁判所に顕著な事実」があるそうです。
第3テーゼ・・・「立証責任」
・・・「証拠」資料の収集・提出をすることである。主張を「立証」するための証拠を、「証拠説明書」という証拠の内容を整理した書面と共に提出することだそうです。
裁判所は、「こういう主張すれば原告は勝てるのになあ」とか「こういう証拠を出せば勝てるのになあ」と思ったとしても、当事者からその主張がでなければ判決では、「ない」ものとして扱う、当事者からその証拠が出なければ判決では「ない」ものとして扱う、という考え方をするそうです。
しかしながら、あまりにも、「判決が機械的で冷たい、事案の真相が明らかにならない」場合は、裁判所には「釈明権」が認められて、当事者に対し、「・・・を明らかにしなさい」などと立証を促すことが可能だそうです。これを、 「弁論主義の補完」というそうです。
訴訟に臨んだ私の経験では、期待しない方がいいです。
裁判所の判決はあくまで「当事者の主張」があったことに対する判断になっている、という大原則があるそうです。
======
3
判例の射程
これは、ある事件を判断する場合、最高裁判所の判決の判断枠組み(「判例」)の、適用(参照)の可否を決断することです。適用(「判例の射程内」)される場合は、その裁判に勝てることを、予想できることになります。
下級審(地裁、高裁)は、過去に判例がある場合には、その判例の規範を適用(参照)しないで、自分で判断するのは自由です。しかし、判例の変更でもない限り、最高裁までいくと、「過去の判例が適用されることが予測できる」ため、判例に反抗してまで別の考え方を示すことはしない、というのが、下級審の裁判官の自然な考え方となる、そうです。
(1)判例と裁判例
@判例・・・最高裁の判決
A裁判例・・・下級審(地裁、高裁)の判決
「判例」とは、最高裁判所が判事した規範的理由づけであり、最高裁判所の判決であるものをいうそうです。
(2)判例で大事な個所
最高裁判決には、主論(レイシオ・デシデンダイ)と、傍論(オビタ・ディクタム)がある、ということです。
主論の部分が、規範となり、先例として、他の事件にも適用される一般論(判断枠組み・基準)となるのです。
(3)判例の事実上の拘束力
@「判例」の使われ方
最高裁(上告審)・・・予想される判決(=平成10年判例)
↑
高裁(控訴審)
↑
地裁(第1審)・・・事実上の拘束力がある。・・・「裁判官」は、最高裁を見上げ、予測して考え、「平成10年判決」を使います。
A「最高裁の判決」は2種類
自判・・・すべて最高裁が判断し、結論を出す。
差戻し・・・法的枠組み(基準)のみ示し、それを前提とした「事実」の真理と結論は、
高裁・下級審に判断し直させる。
すなわち、最高裁の判決が、自らすべてを判断(「自判」という)せずに、法的な判断枠組み(基準)だけ示して、あとはその枠組みを前提に、事実は高裁でもう一度調べてください、とするものだそうです。
B法律審と事実審
最高裁(上告審)・・・法律審
高裁(控訴審)、地裁(第1審)・・・事実審
最高裁は、「法律審」とされており、法的な判断(法解釈や法の適用)は行いますが、証拠を調べて「事実」を認定するという作業は行わないものとされている、ということです。
=======
今回を含め、3回、参考になりましたでしょうか。
いつの時代でも、必要に迫られ勉強すると成果が出るもので、
勉強のための勉強は、お勧めいたしません。お互い、人生は、短い。
しかしながら、常に、「なぜ」、が必要な世界に、身を置きたいものです。
それでは、また。
前回に続き、
大蔵財協 木山泰嗣(弁護士)著 「リーガルマインド 法律に強い税理士になる」
(1851円)を参考に書いてあります。
ご購入をお勧めいたします。
この本は、標題には「税理士」とありますが、「税理士」のことなど殆ど書かれていない、「法律の入門書」になっております。
1裁判官の考え方 法の考え方「法的三段論法」
裁判官が、「判決」をくだすときの思考プロセスであり、
判決文に書く「判決理由」で記される「論理理由」で、記される論理を、「法的三段論法」という。
法的三段論法 (「役割」の面からみると)
@法解釈→A事実認定→B結論
@法解釈・・・(法規)に論理則を当てはめて、(法規範)を定立する。
・・・「裁判所」がする。
A事実認定・・・(証拠)に経験則を当てはめて、(事実)を認定する。
・・・「当事者」が提出した「証拠」を、「裁判所」が認定する。
B結論・・・定立された(法規範)に、認定された(事実)を、当てはめる。
・・・「裁判所」がする。
上記のように、「法的三段論法」に沿った思考過程を、裁判所に提出する書面に丁寧に書くことが求められるということです。
前回のPending事項、
私的考察の結果、民事事件では、判決が、担当裁判官の意向次第のようでした。
従って、「担当裁判官にゴマをすろう」で、書いてみたい。
1
自由心証主義
一方で、民事裁判は、民事訴訟法に基づき、提訴されます。他方で、刑事裁判は、刑事訴訟法に基づいて提訴されます。
「民事訴訟法」では、裁判官は、提出された「証拠」を、民事訴訟法の定めた原則である「自由心証主義」(民事訴訟法247条)の下、一部「法定証拠主義」が適用になる場合を除き、「証拠方法」についての規制がないため、基本的には、全て裁判所の自由な判断で証拠を見て、事実を認定してよい、とされているそうです。
これが、今回のテーマの「結論」です。
すなわち、「又聞きの証拠」、「無断録音された音声データ」であっても、「裁判所が証拠として価値があると判断すれば、証拠になる」ということです。
これのしばりは、「経験則」に違反した証拠の評価や事実の認定をすることが許されないこと、だそうです。 「経験則」とは、一般的に事物の性質から導かれる法則であり、常識や科学的に確立された知見をいうそうです。
自由心証主義とは、@証拠方法の無制限、A証拠力の自由評価、からなるとされております。
@証拠方法の無制限とは、民事訴訟法では、「証拠方法」について規制がありません。
他方で、刑事訴訟法では、「伝聞法則」、「違法収集証拠排除法則」などがあるとされていて、「証拠を、自由にとりあげることはできない」とされている、そうです。
A証拠力の自由評価とは、提出された証拠をどのように評価するかは裁判所の自由であるとされているそうです。
しかしながらです。「証拠」など弱いものです。
例えば、「契約」です。これは、書面でも、口約束でも、有効なことは周知のことです。しかしながら、一所懸命「証拠」を集めても、「公序良俗違反」、または「通謀虚偽表示」だと、指摘・断罪するのは容易なのです。このいずれかを適用すれば、「契約は無効」となるのです。元々、「証拠」というものは、完璧ではないのです。
裁判官の心証次第で、瑕疵を見つけるのは容易です。
なぜなら、我々は、「契約自由の原則」に基づいて、行動しています。これを有効としながらも、裁判官は、「公序良俗違反」、または「通謀虚偽表示」により、「契約は無効」にできるようです。
出資法、利息制限法などの絡みで、「過払い」が、公然と存在することになりました。これも恐らくは、社会的影響も考慮した「自由心証主義」の延長線上にあるのでしょう。
民事訴訟法247条
(自由心証主義)
裁判所は、判決をするに当たり、口頭弁論の全趣旨及び証拠調べの結果をしん酌して、自由な心証により、事実についての主張を真実と認めるべきか否かを判断する。
民法90条
(公序良俗)
公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする。
民法94条
(虚偽表示)
1.相手方と通じてした虚偽の意思表示は、無効とする。
(2.前項の規定による意思表示の無効は、善意の第三者に対抗することができない。)
契約自由の原則
「契約自由の原則」とは、個人の契約関係は、契約当事者の自由な意思に基づいて決定されるべきであり、国家は干渉してはならない、という原則のこと。
「契約自由の原則」は、契約関係を結ぶ相手方選択の自由、契約内容に関する内容の自由、契約方式の自由の3つで構成される。特許のライセンス契約においても、「契約自由の原則」に基づき、当事者間で合意を得ながら契約事項を決定していく。
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事実認定
民事訴訟において、「事実」の認定は、どのように行われるのか。
それは、「弁論主義」が適用され、当事者からの「主張」やそれを裏付ける「証拠」の収集・提出が必要になる、というものです。
(1)「証拠」
@内容的な観点から、3ケある。
・「直接証拠」・・・「主要事実」を直接証明できる証拠のことである。
・「間接証拠」・・・「間接事実」の存在を立証する証拠のことである。
・「補助証拠」・・・「補助事実」の存在を立証する証拠のことである。
A手段(方法)の観点から、2ケある。
・「書証(客観証拠・・・書面(文書)で提出される証拠であり、客観性がある)」
・「人証(供述証拠・・・法廷で人が話した内容(「証人尋問・本人尋問」で、「尋問調書に記録される」)を証拠にするもので、主観的なものである)」
「証拠」はいずれも、当事者(原告または被告)が、自ら(代理弁護士を含む)「探して」きて、自らに有利になると考える証拠を「選定」し、「裁判所に提出」する。
B「事実」には3ケある。
・主要事実・・・「契約書」等で、ある「法律効果」が発生するために必要な「要件事実」のことを言う。
「弁論主義」が適用になる。
・間接事実・・・「通帳に入金なっている」等で、積み重ねることで、「主要事実」があったらしいと、その「主要事実」の存在を推認できるという意味で、弱い事実である。
「弁論主義」が適用にならない。
・補助事実・・・「供述に信用性がある」等で、証拠の証明力に関する事実である。
「弁論主義」が適用にならない。
(2)民事訴訟法における「当事者主義」
裁判官が職権で動いてくれる「職権主義」に対して、裁判における訴訟活動を、当事者(原告、被告)に行わせるという「役割分担」の特性が民事訴訟法にはあるとされております。
民事訴訟法における「当事者主義」は、2ケある。
@「処分権主義」・・・権利の処分は、当事者の自由である、ということになっている。
裁判を起こすかどうか、起こすとしてどこまで起こすのか、あるいは途中で裁判を止めるのかは、当事者の自由である。
A「弁論主義」・・・主張と立証は当事者の責任である、ということになっている。
訴訟での「主張」や「立証」を当事者が行わないと、裁判の判決には反映されない、というものである。「資料の収集と提出」は、当事者の責任であるというものです。
「事実認定」は、当事者が、「主張」、「立証」について責任を負う。これを「主張責任」、「立証責任」という。
つまり、「弁論主義」とは、当事者が自分でやれ、というものです。
3ケ、あります。
第1テーゼ(=命題)・・・「主張責任」
・・・「訴訟」資料の収集・提出をすることである。「主張」を整理した書面(訴状を提出した場合は、「準備書面」という書類になる)を提出することだそうです。
第2テーゼ・・・「裁判上の自白」
・・・裁判所は、当事者間に争いのない事実はそのまま判決の基礎にしなければならない、という考え方です。これは、立証が不要な事実(「不要証」)の一つで、もう一つは誰でも知っているような「裁判所に顕著な事実」があるそうです。
第3テーゼ・・・「立証責任」
・・・「証拠」資料の収集・提出をすることである。主張を「立証」するための証拠を、「証拠説明書」という証拠の内容を整理した書面と共に提出することだそうです。
裁判所は、「こういう主張すれば原告は勝てるのになあ」とか「こういう証拠を出せば勝てるのになあ」と思ったとしても、当事者からその主張がでなければ判決では、「ない」ものとして扱う、当事者からその証拠が出なければ判決では「ない」ものとして扱う、という考え方をするそうです。
しかしながら、あまりにも、「判決が機械的で冷たい、事案の真相が明らかにならない」場合は、裁判所には「釈明権」が認められて、当事者に対し、「・・・を明らかにしなさい」などと立証を促すことが可能だそうです。これを、 「弁論主義の補完」というそうです。
訴訟に臨んだ私の経験では、期待しない方がいいです。
裁判所の判決はあくまで「当事者の主張」があったことに対する判断になっている、という大原則があるそうです。
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3
判例の射程
これは、ある事件を判断する場合、最高裁判所の判決の判断枠組み(「判例」)の、適用(参照)の可否を決断することです。適用(「判例の射程内」)される場合は、その裁判に勝てることを、予想できることになります。
下級審(地裁、高裁)は、過去に判例がある場合には、その判例の規範を適用(参照)しないで、自分で判断するのは自由です。しかし、判例の変更でもない限り、最高裁までいくと、「過去の判例が適用されることが予測できる」ため、判例に反抗してまで別の考え方を示すことはしない、というのが、下級審の裁判官の自然な考え方となる、そうです。
(1)判例と裁判例
@判例・・・最高裁の判決
A裁判例・・・下級審(地裁、高裁)の判決
「判例」とは、最高裁判所が判事した規範的理由づけであり、最高裁判所の判決であるものをいうそうです。
(2)判例で大事な個所
最高裁判決には、主論(レイシオ・デシデンダイ)と、傍論(オビタ・ディクタム)がある、ということです。
主論の部分が、規範となり、先例として、他の事件にも適用される一般論(判断枠組み・基準)となるのです。
(3)判例の事実上の拘束力
@「判例」の使われ方
最高裁(上告審)・・・予想される判決(=平成10年判例)
↑
高裁(控訴審)
↑
地裁(第1審)・・・事実上の拘束力がある。・・・「裁判官」は、最高裁を見上げ、予測して考え、「平成10年判決」を使います。
A「最高裁の判決」は2種類
自判・・・すべて最高裁が判断し、結論を出す。
差戻し・・・法的枠組み(基準)のみ示し、それを前提とした「事実」の真理と結論は、
高裁・下級審に判断し直させる。
すなわち、最高裁の判決が、自らすべてを判断(「自判」という)せずに、法的な判断枠組み(基準)だけ示して、あとはその枠組みを前提に、事実は高裁でもう一度調べてください、とするものだそうです。
B法律審と事実審
最高裁(上告審)・・・法律審
高裁(控訴審)、地裁(第1審)・・・事実審
最高裁は、「法律審」とされており、法的な判断(法解釈や法の適用)は行いますが、証拠を調べて「事実」を認定するという作業は行わないものとされている、ということです。
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今回を含め、3回、参考になりましたでしょうか。
いつの時代でも、必要に迫られ勉強すると成果が出るもので、
勉強のための勉強は、お勧めいたしません。お互い、人生は、短い。
しかしながら、常に、「なぜ」、が必要な世界に、身を置きたいものです。
それでは、また。
投稿者:日常生活に役立つ税務・法務、経営について|11:32