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2016年04月30日

チェルノブイリ(四月廿七日)



 今年がチェルノブイリの原子力発電所で事故が起こってからちょうど三十年になるせいか、最近、チェルノブイリの現在の、場合によっては番組が制作された当時の、姿をテレビで見ることが多い。数年前の映像だと、うち捨てられた無残なとしか言いようのない姿をさらしているが、現在では新しいシェルターの建設が始まったおかげか、爆発を起こした原子炉周辺も多少見られるようになっているようである。
 以前の映像のうち捨てられた廃墟が、福島の原子力発電所、あるいは廃炉が決定して解体されないまま放置される可能性のある日本のほかの原子力発電所の未来の姿に見えて、暗澹たる気分になってしまったのだが、チェルノブイリですらこうして忘れられずに、新たな対策がとられているということは、日本の原子力発電所の廃炉後の未来も真っ暗ではないと考えていいのだろうか。
 数年前の原子力発電所とその周囲の映像を見たときには、芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」「無残やな甲のしたのきりぎりす」なんて句が頭に思い浮かんでならなかった。放射能の影響で人間の住めない土地になってしまってからも、植物はたくましく生育していたし、原子炉は石棺とかいう建物の下に隠されているらしいし。まあ無駄に文学的な人間の感傷に過ぎないといわれればそれまでなのだけど。

 さて、当時のことを思い返すと、わけがわからないまま見ていたテレビのニュースの特集では、ソ連の原子力発電所は、軽水炉とかいうタイプで、日本の原子力発電で使われているものとは違って、安全性を重視したものではないから、ソ連で事故が起こったからといって日本の原子力発電所が危険だというわけではないとかいう解説が行われていた。もちろん、原子力発電に反対する人たちも声高に危険性を訴えていたわけだけれども、当時から議論がまったくかみ合っていなかったのを思い出す。原子力推進派は、反対派がどんな危険だという「証拠」を持ち出してきても、安全性を主張し、反対派は、推進派が何を言っても、とにかく危険だといって譲らなかった。このときの経験が、現在の推進派にも反対派にもうんざりで付き合いきれないという意見を作り出したのだろう。
 では、お前は原子力発電を続けていくべきだと思うのかと問われたら、信頼できる情報が不足している以上、保留としか答えられない。仮に本当に安全性が確保されるのであれば、少なくとも廃炉にしてしまった後の処理の仕方が決定するまでは、稼動させるのが建設してしまった国の責任であろうとは思う。もちろん逆に十分な安全が確保されないのなら、稼動させずに廃炉にするべきだとは思うが、その場合には早急に廃炉後の処理についての決定が必要である。最悪なのは現状を放置してしまうことである。しかし、現在の議論のかみ合わなさを見る限り、大半の原子炉は何も決まらないまましばらく放置されることになりそうだ。

 チェコ、当時のチェコスロバキアでは、ソ連の影響下にあったので、最初はまったく情報が入ってこなかったらしい。西側のメディアがチェルノブイリの爆発の疑いを報道し始めてから、ソ連の国営メディアが小出しに情報を出していくのに合わせて、チェコでも少しずつ報道がなされたようである。ただしもちろん正確な事実が報道されたわけではなかった。今回ニュースで引用された当時のニュースのアナウンサーが、具体的な内容は聞き取れなかったが、「西側ではこのようなことが言われているけれども、ソ連が発表したように、それはまったく真実ではない」というようなことをコメントしていた。
 チェルノブイリの爆発で大気中に飛び出した放射性物質が、西に向かって流されてチェコのほうに飛んできて降り注いでいた時期にも、チェコ人は何も知らされないままに、外で動き回っていたんだなんてことを言って当時の政権を批判する人たちもいる。問題は、当時のチェコスロバキア政府にソ連から正確な情報が入ってきていたのかどうかである。

 チェルノブイリの事故が起こったのと同じ四月廿六日のニュースでは、チェコに二つある原子力発電所のうち、新しくて大きいほうのテメリン原子力発電所の安全対策についても報道された。原子力の専門家の女性が出てきて、チェルノブイリの安全対策(放射能漏れを防ぐための最低限の壁すらなかったようなことを言っていた)との違い、福島の事故以後に追加された安全対策(停電時に備えて、確か十二系統の独立した電源設備があるのだとか)などを、わかりやすく説明してくれた。地震のない地盤の安定したチェコでここまでやれば安全だろうと安心する一方で、それでも一抹の不安をぬぐいきれないような気がするのは、広島、長崎の記憶を受け継ぐ日本の人間だからだろうか。

 いずれにしても、日本でも福島以前に、チェルノブイリの事故の際に、あるいはその前のスリーマイル島の事故の際に、原子力発電の危険性に気づいて、やめるという選択肢はあったはずなのだ。そのときやめなかった以上、原子力発電は日本人全体が将来にわたって背負い続けていかなければならない重荷なのだ。それが、他の誰でもない我々日本人自身の責任である。

 チェルノブイリの現実ではない側面に目を向けると、犠牲者には申し訳ないが、さまざまなフィクションに登場して楽しませてくれた。事故の原因は原子炉内でダイヤモンドを生成させようとした実験が失敗に終わった結果だったとか、チェルノブイリの事故で放射能に汚染されたヨーロッパを壊滅させるために、テロリストたちが核廃棄物を盗み出しそれを季節風に乗せてヨーロッパ中に拡散させる計画を立てるとか、八十年代後半の日本のフィクションの中で情報のなさを逆用するような形で、さまざまな話が作り上げられていた。中には噴飯物もあったのだろうけど、くだらない話を読んでぼろくそにけなすのも読書の楽しみではあるのだ。
4月28日22時。


タグ:原子力発電
posted by olomoučan at 06:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2016年04月29日

カレル四世(四月廿六日)



 チェコ系の王朝であるプシェミスル王朝が、オロモウツでバーツラフ三世が暗殺されたことで、断絶した後、ボヘミア王の地位を襲ったのは、ドイツ系のルクセンブルク家であった。このルクセンブルク家から出たのが、チェコの歴史上最高の君主とされるカレル四世である。実はこのカレル四世というのは、後に即位した神聖ローマ帝国の皇帝としての名前で、ボヘミア王としてはカレル一世なのだが、チェコでも、ボヘミア王としての名前ではなく、神聖ローマ皇帝としての名前でカレル四世と呼ばれている。これは、非常にありがたい。同じ人物を呼ぶのに立場によって別の数字を使われたのでは、頭が痛くなる。
 問題はこの人物の名前が、日本ではさまざまに書かれることで、チェコ関係者はカレルを使うが、ドイツ系の人は、カールとかカルルとか言いそうで、英語系の人はチャールズにしてくれるのだろう。逆に、チェコ語でルドビーク十四世とか言われて、誰だろうと頭をひねっていたら、フランスのブルボン王朝のルイ十四世のことだったのには、唖然としてしまった。わが敬愛するベートーベンの名前ルートビヒが、翻訳するとルイになるなんて……。
 現代の人物については、名前の翻訳をしないのだから、歴史上の人物についても、何とかしてくれないものかと思う。ただ、何人と決めかねる人の場合に、関係国の間で論争が起こりそうな気もする。その場合、英語で統一となりかねないことを考えると、現状のほうがましなのか。

 チェコには、プラハのカレル大学やカレル橋をはじめ、カルルシュテイン城、カルロビ・バリの温泉などカレル四世にまつわるものがたくさんある。チェコで初めてワインを造らせたのも、少年時代に半分人質の意味もあってフランス王の宮廷で過ごしたカレル四世だったという話もある。最初に造られたワインを一口飲んで、こんなまずいもの飲めるかと言ったのに、飲み続けて最後にはこんな美味しいワインは飲んだことがないと言い出したとかいう笑い話を、以前師匠がしてくれたんだけど、どこが面白いのかさっぱりわからなかった。チェコ語の出来が悪かったせいで肝心の部分が理解できなかった可能性はあるのだけど、チェコの冗談はわかりにくいものが多いんだよなあ。

 さて、カレル四世の生誕700年に当たるのが、本年2016年なのである。そのため、テレビでも、伝記映画をはじめ、さまざまな特別番組が企画されている。それに先立つ形でニュースで取り上げられたのが、カレル四世の健康状態に関するレポートだった。共産主義の時代に、カレル四世の棺を開けて遺骸の調査を行ったことがあったらしい。祖国の父とまで言われる人物に対してこんなことができたのは、さすが神を恐れぬ共産主義者というべきなのだろうか。今年は生誕700周年とはいえ、棺を開くことはしないそうである。

 とまれ、そのときの調査結果によると、カレル四世は、何度も大きな怪我をしているらしい。中でも頚椎に見られる骨折は、死ななかったのは、強靭な肉体と処置をした医者の腕がよかったおかげだとしか言えないのだという。もちろん幸運も味方したのだろうけど。そして、カレル四世の肖像の中には首を妙にすくめている姿を描き出しているものや、首を少し傾けているものがあるけれども、これは怪我の後遺症で、首をひねって顔を左右に向けることができなくなってしまい、頭だけでなく上半身全体を左右に向ける必要があったカレル四世の姿を見事に捉えているらしい。中世の写実的芸術ということになるのか。
 それから、下あごの骨には、四回の骨折のあとが見られるという。聞くだけでも痛そうな話だが、今回、前回の調査で残された写真などの資料を再調査した結果、肩甲骨が割れていることも判明したらしい。肩甲骨の骨折だなんて、骨折自体の痛みもすごそうだけど、それによってどんな問題が起こるのかも想像できない。

 これらの怪我の原因については、おそらく騎士の馬上試合であろうという。中世を舞台にした映画などで見かけるこの西洋の競技は、日本語で騎馬隊などという言葉からは想像できないほどに野蛮である。重そうな甲冑を身にまとって馬に乗り、手に持った、いや脇に抱え込んだ木製の長い槍を相手に向けて馬を走らせ、ぶつかる瞬間に急所をめがけて槍を動かし、相手を突き落としたほうか勝ちというものだが、いつ死人が出てもおかしくなさそうである。
 カレル四世も、槍の当たり所が悪くて下あごの骨を骨折し、馬から転落した際の落ち方が悪くて、頚椎や肩甲骨を骨折したのだろう。国王になってからは馬上試合なんかできなかったろうから、フランスでの出来事だろうか。驚くべきは、王の後継者であったのに、こんな危険を冒していたことだ。それとも当時は普通だったのだろうか。

 高校時代に勉強したことを思い出してみると、カレル四世は、いわゆる金印勅書を出して、神聖ローマ帝国の皇帝選挙制度を確立した人物である。「選帝侯」なんて栗本薫の『グインサーガ』で知った言葉が実在することを知ったときには、ちょっとした感動を覚えたものだが、チェコにいるとカレル四世の神聖ローマ皇帝としての事跡が見えいにくい嫌いがある。こういう国際的なレベルで活躍した人物の評価が、自国内での事跡に基づいて語られることが多いのはよくあることなのだろうか。ドイツやオーストリアの人たちが、カレル四世についてどのように考えているのか聞いてみたいところではある。

4月27日23時。 


 お、何ともタイミングのいいことにこんなの発見。4月28日追記。

【輸入盤】『13、14世紀プラハの音楽〜カレル4世生誕700周年記念』 スコラ・グレゴリアーナ・プラジェンシス [ Medieval Classical ]


posted by olomoučan at 06:26| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ

2016年04月28日

コメンスキー随想(四月廿五日)



 私如きが、このチェコの生んだ偉大な教育者にして、哲学者、汎知論者について体系的な記述ができるわけもないので、つらつらとコメンスキーに関して知っていること、最近知ったことを書き並べてみようと思う。

 日本にいたころ、コメンスキーと聞いて思い浮かべるのは、漫画家佐藤史生の描き出す宇宙進出後の人類の姿だった。たしか『やどり木』という作品だったと思うが、汎人知協会というのが出てきて、その協会が購入し移民した惑星が舞台となっていた。汎人知協会という言葉を見たときに、コメンスキーの汎知論、もしくはパンソフィアを思い浮かべて、チェコにつながっているなあという感想を持ったのである。佐藤史生が、コメンスキーを意識して、汎人知協会なんて言葉を使ったとは思えないけれども、あのころは、なんでもかんでも無理やりチェコにつなげて悦に入っていたのだ。
 コメンスキーは、チェコの偉人ということになってはいるのだが、チェコで生活していてもコメンスキーの著作はおろか、名前に接することすらそれほど多くない。「チェコの偉人」のアンケートを使った番組を除けば、最近のニュースでコメンスキーの名前を聞いて覚えているのは、次の三つぐらいである。

 一つ目は、テニス選手のペトラ・クビトバーが、ウィンブルドンで優勝したときに、出身地のフルネクという町の名誉市民に認定されたというニュースで、フルネクの名誉市民は、コメンスキーについで二人目だという形で名前が挙がっていた。コメンスキーがいつフルネクの名誉市民に認定されたのかは知らないが、生前ということはないだろう。ちなみにフルネクはオロモウツから東、オストラバに向かう途中にある町である。鉄道の幹線沿いにないので、行ったことはないけれども、山の上になかなか立派なお城があったはずだ。

 二つ目は、チェコの義務教育で勉強する筆記体が難しすぎるので、簡単で書きやすい筆記体を導入しようとしているグループのニュースだった。チェコ語の筆記体は、英語の筆記体とは微妙に違っているが、慣れると英語のよりも書きやすいし、この程度を覚えるのが大変とか言うのなら、勉強なんかやめてしまったほうがましだと正直思う。ただ、癖のある筆記体で書かれた文字は読みにくいこともあるので、そこを解消したいというのであれば、消極的な賛成はできるけれども、癖のない書き方を教えるほうがはるかに甲斐ある仕事であろう。
 このちょっとだけ手書き風のフォントとしか言いようのないものを、筆記体だというのも信じられないのだが、よく見たら、中学のときに活字体とかブロック体として習った手書き文字とほとんど変わらないじゃないか。こんなんで書いても書くスピードは上がらなそうである。さらに信じられないのが、この似非筆記体にコメンスキーの名前を付けて、コメニア・スクリプトという名前で広めようとしていることだ。コメンスキーは絶対にこんな書き方はしていなかったと思うのだけど、いいのかね、こんな名前を付けてしまって。

 三つ目は、プラハにあるコメンスキー大学が、いろいろ問題があって認可を取り消されるのではないかというニュースだ。チェコ、スロバキア関係者にとって、コメンスキー大学と言えば、スロバキアのブラチスラバにある大学のことなのだが、分離独立して別の国になったからか、プラハに設立された私立大学にコメンスキーの名前を付けることを教育省が許可してしまったのだ。その大学はアメリカの大学との協定があって協力関係を結んでいることを売り物に、チェコのレベルでは高い学費を取って学生を集めていたらしい。それが、教育省の監査で教員数が足りないなどの問題が発覚してしまったのだ。誰だ、こんないい加減な大学に、コメンスキーの名前を冠することを許したのは。
 チェコの大学は、日本の大学と違って人名を冠しているところが多い。いや、一般に人名を冠した学校自体が多いのだ。オロモウツにある国立大学は、ビロード革命の後に歴史学者で民族の父とあだ名されることもあるフランティシェク・パラツキーの名前を取ってパラツキー大学と改名された。プラハの大学が、カレル四世によって創設されたことから、カレル大学と呼ばれることを知っている人も多いだろう。ブルノの大学は89年以前は、チェコの有名な生理学者であったプルキニェの名前を取っていたのだが、革命後南モラビア出身のチェコスロバキア初代大統領の名前から、マサリク大学と改名された。プルキニェの名前はチェコの大学から消えたのではなく、ウスティー・ナド・ラベムの大学に引き取られることになった。日本でも知られている遺伝学のメンデルは、ブルノにある農業大学の名前となっている。

 それから、もう一つ重要なものがあった。毎年一回行われているチェコでもっともすぐれた先生に与えられる賞の名前が、「黄金のアーモス」なのだ。これが、ヤン・アーモス・コメンスキーのアーモスからとられていることは言うまでもない。ただ、この賞が単なる人気投票なのか、専門家の評価を経ての賞なのかは、確認していない。

 昨年の今頃だっただろうか。オロモウツで日本とコメンスキーの関係について話を聞く機会があった。その話によると、コメンスキーと日本が出会ったのは、いや、日本人がコメンスキーと初めて出会ったのは、ロシアのサンクトペテルブルクでのことだったという。江戸時代に漂流してロシアに流れついた漁民がサンクトペテルブルクに連れてこられ、日本語の教師として仕事をする中で、コメンスキーの著作と出会い翻訳を試みたらしい。
 しかし、この漂流民は、薩摩藩の漁師であったため、日本語訳は日本語訳でも、薩摩方言訳となっているため、今の日本人が読んでもさっぱりわからないそうだ。江戸時代の薩摩は隠密対策として、方言を強化していたからなあ。今でも鹿児島方言はわかりにくいのだから、当時の薩摩方言はなおさらであろう。それでも、ロシア語を一から身につけて、コメンスキーの著作を訳せるまでになったというのはすごいことである。

 この漂流民は、コメンスキーの翻訳だけでなく、日本語の辞書も作ったという話なのだが、それで思い出したことがある。大学時代に鹿児島出身の後輩が、大学の歴史関係の授業のレポートで日ロ関係について調べていたら、薩摩の漁師がロシアに渡ったことがわかったと大騒ぎをしていたのだ。たしかその時に薩摩方言の辞書だったか教科書だったかを書いたらしいと言っていなかったか。当時は、「鹿児島の人間がロシアですよ。すごいでしょ、すごいでしょ」とか言われて、ちょっとうんざりして、ちゃんと聞いていなかったのだが、この手の日本人的愛郷心というのは、最近すごく理解できるようになってきた。それはともかく、当時は、チェコに来るなんて思ってもみなかったし、コメンスキーのコの字も知らなかったけど、実は意外と近いところにいたことに気づいて、なんだかうれしいような悔しいような不思議な気分になってしまった。
4月26日15時。




地上の迷宮と心の楽園/J.A.コメニウス/藤田輝夫【2500円以上送料無料】




2016年04月27日

日本ちょっと変(四月廿四日)



 昨年の秋ぐらいから、マスコミをにぎわしているスポーツ選手の違法賭博問題だけれども、インターネット上での報道を見ていると少し気になる点がある。

 本人たちがあれこれ処罰を受けているのは、当然だろう。不本意かもしれないが、こんな形で発覚し処罰を受けた以上は、違法賭博からは足を洗うことになり、関係者とも絶縁することになるだろうから、本人たちにとってはトータルで見るとよかったのかもしれない。しかし、本当にやめられるのだろうか。
 知り合いに誘われてなどの事情はあるにしても、違法であることがわかる賭博に手を出し、続けてしまうということは、賭け事依存症と言ってもいいのではなかろうか。少なくとも依存症になりかけの状態ではあるはずである。だから、永久追放で二度とこのスポーツにかかわるなというのではない限り、処罰をといて復帰させる条件としては、年数の経過ではなく、依存症の治療を受けることを条件にするべきだろう。そうでなければまた同じ問題を繰り返す可能性は高い。
 依存症というと、どうしてもアルコールや薬物への依存症を思い浮かべてしまい、賭け事への依存症は過小評価される傾向にあるけれども、厄介さでは勝るとも劣らない。依存症であることが看過されてしまって、気づくのは手遅れになってからということもありそうだ。とまれ、依存症を抱えているスポーツ選手選手の成績というものは、不安定で活躍が長続きせず、才能を十分に発揮できないままに消えていくことが多い。

 チェコにエゴン・ブーフというサッカー選手がいる。現在はプゼニュの選手でレンタル先のリベレツでプレーしているが、期待の若手としてガンブリヌスリーガでデビューして活躍し始めたのはテプリツェでのことだった。U21の代表でも活躍し、将来はA代表に呼ばれるだろうと思われていたのに、いつの間にか名前を聞かなくなっていた。出場はしていたのかもしれないが、ニュースで取り上げられるほどではなかったのだろう。
 それが、久しぶりに名前を聞いたと思ったら、サッカーではなく、八百長疑惑に関してだった。当時各地で発覚したアジアのギャングが主導したといわれる八百長事件で、八百長に誘われたことを警察に通報して、それがチェコにおける八百長疑惑の発覚のきっかけの一つになったというのだ。当時のブーフは私生活が荒れていたらしく、それでAチームでなかなか活躍できずBチームでくすぶっていることもあったらしいのだが、そこで目を付けられたらしい。ブーフの私生活の問題がギャンブル依存症だったのかどうかはわからない。しかし八百長に誘う側としたら、ギャンブルにおぼれている選手のほうが誘いやすいだろう。
 ブーフが偉かったのは、その誘いを跳ね除けて警察に行ったことだ。これをバネにしたのか、ブーフは復活を遂げて、ここ数年のチェコ最強チームプルゼニュへの移籍を勝ち取った。しかし、プルゼニュでは活躍はおろか、出場機会を得ることもほとんどなかった。それはサッカーそのものではなく、再び私生活が荒れてしまったのが原因だという。一度、そういう方向に流れてしまうと、完全に全うな生活に戻るのは難しいということなのだろう。幸いにしてプルゼニュからリベレツにレンタルされたことで再び目を覚まし、レギュラーとして活躍できるようになった。ただ、また私生活の問題で、活躍できなくなるのではないかという危惧は拭い去れない。

 もう一つの疑問点は、マスコミが賭け事関係で問題を起こした選手たちは袋叩きにする一方で、違法賭博の胴元や闇カジノとか言われるものの経営者については、特に批判することなく放置というか、そういうものが存在することは当然であるかのような報道をしていることだ。闇カジノに出入りした人間と、その経営者を比較したら社会的に問題が大きいのは、後者であるのは当然だと思うのだが。日本のマスコミにとって重要なものが、話題性でしかないというのは、嘆かわしいことである。

 薬物関係の報道にしてもそうだ。大きく取り上げられて、面白おかしく袋叩きにされるのは、薬物使用が発覚した人だけで、問題の根本である薬物の製造者に関して追求しようという姿勢はまったく見えない。
 賭け事や薬物におぼれてしまった人を擁護する気はない。処罰を受けたことをきっかけに、依存症の治療を受けて、いつか復帰できたらいいねと思うだけである。ただ、同時に、たかだか薬物使用者について報道するだけで、鬼の首を取ったように大はしゃぎをしているマスコミには幻滅しか感じない。いつの日にか、マスコミ報道がきっかけで、覚醒剤の大規模製造施設が発見されて警察が捜索に踏み切るなどということが起こらないものだろうか。そうしたら多少羽目を外して大騒ぎをしても、許そうという気になれそうなのだけど。
4月25日23時。


posted by olomoučan at 06:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2016年04月26日

筆の進まない日(四月廿三日)



 正月の一日から始めた毎日文章を書く、ではなく、毎日文章を書き上げるプロジェクトも、四ヶ月を越えようとしている。自分でも信じられないぐらい書き続けられてきたのは、何故だろう。
 習慣化してしまったからと思いたいのだけど、書き始める時間も、書き終わる時間も一定していないので、習慣化とは言いにくいような気がする。当初の予定では午後十一時になったら書き始めて、十二時過ぎに書き上げるのを習慣化するはずだったのだ。それが、その時間になっても前日文を書いていることがあるのは、文章が長すぎる弊害だとしても、前日分が終わっていても、書き始めないことがある。
 大抵は、何について書くか決めかねて、うじうじ悩んでいるうちに時間が過ぎてしまって、とりあえず題名と日付だけ書いて記事自体は翌日回しということさえある。これでは目標通りとは言えないので、ぱっとテーマを決めて、ささっと文章を書き上げたいのだけど、ままならないものである。それにテーマを決めて、書き始めても思ったように筆が進んでくれないこともある。幸いなことに、一度テーマを決めて書き始めた後に、変えなければならない事態になったことはないが、話が予想外の方向に流れていったり、無駄に長くなったりして、題名を変える破目になったことは何度もある。

 そもそも、文章を書き始めるのと、ある程度話を膨らませていくのは何とかなっていたのだ。膨らませた話をどうやって畳んでいってけりをつけるという部分が苦手で、畳みにかかるところで、中断して放置してある書きかけの文章が非常に多い。そこを訓練するために、あまりうまく行っていないけど、毎日無理やりにでも終わらせて、翌々日、実際には書き上げた翌日に、ブログに乗せているのだけれど、ここ数日書き出しと、話を広げる部分でつまづいてしまって、余計な時間がかかってしまっている。

 問題の一つは、書いた文章の数が100を越え、何を書いたか覚えていないことにもある。自業自得なのだが、題名とは直接関係ない話をぐだぐた書き込んでしまう癖があるので、題名を見ても、何を書いたのかすべてはわからない。ちょっと書きかけてどこかに書いた気がするけれども、読み返すのも面倒だよなあとか考えたり、あそこに書いたと思うんだけどと、確認をしたりしているうちに、何を書くつもりだったのか忘れてしまう。
 そして、最近頻発しているのが、「以前も書いたけど」とかいう表現で、これは書いたと思うけど、どこにあるか思い出せないし確認もしたくないということを現している。それに同じことを書いてしまう言い訳にもなっているなあ。考えてみれば、こんな駄文の山を、全部読もうなんて人はいないだろうから、一つの一つの文章にまとまりをつけることを優先して、繰り返しを恐れる必要はないのかもしれない。
 以前、読んだある作家のエッセイで、その作家は北杜夫氏のファンで、著作を全部読んだら、結構同じことが繰り返される部分があったので、北氏に文句を言うと、私なんかの本を全部読むのが悪いなんて答が返ってきたとか書いてあったし。それはともかく、こんな駄文読んでも、内容が頭に残るとは思えないから、同じことがちょっとぐらい繰り返されていても、気付かない可能性もあるよな、うん。

 そうだった。筆の進まない日について書くつもりだったのだった。仕事で疲れて眠くてたまらない日、体調が悪くて頭が重い日なんかが進まないのだけど、それは当然と言われれば当然。でも、目標としては、眠くても熱があっても、とにかく書くという習慣と、能力を身に付けようと考えていたのだ。だから、いつも以上に文章がめちゃくちゃなときには、体調不良なんだと思ってもらえるとありがたい。ちょうど今、こうして書いている文章のように。
4月24日11時。



 今、読み返して思う。愚痴を垂れ流してどうするんだと。でも、書いてしまったし、これを投稿しないと毎日投稿が途切れてしまうので、細かいことは気にせず、投稿する。4月25日追記。

タグ:愚痴
posted by olomoučan at 06:38| Comment(0) | TrackBack(0) | ブログ

2016年04月25日

フローラ(四月廿二日)



 以前は、定期券を買ってトラムで職場まで通っていたのでいたのだが、数年前に医者に行ったら高血圧だと言われ、薬を毎朝飲むようになって以来、歩くことが多くなった。運動不足どうこうというのもあるのだけれど、トラム停での待ち時間を考えると、歩きでも大差がないことがわかってしまったのも大きい。いや、目と鼻の先でトラムに乗り遅れた場合には、歩いたほうが早いことさえある。

 オロモウツの旧市街の周囲には、たくさんの木が植えられた公園が広がっている。オロモウツの城壁の直下、ムリーンスキー川との間に川沿いに曲がりくねっているのが、ベズルチ公園で、小川の対岸には植物園や、バラ園などもある。あまり知られていないが、南スラブ兵士の廟があって、第一次世界大戦で命を落とした旧ユーゴスラビアに当たる地域出身の1188人にのぼる兵士たちの遺体が葬られているらしい。ただ神殿風のこの建物は長年にわたって放置されてきたため、崩壊寸前の姿を見せている。
 先日たまたまTVモラバで、クロアチアだったかセルビアだったかの外交官が、この廟を訪れたというニュースを見た。第一次世界大戦でなくなった先祖の遺体がこんなところに眠っていることを知っている遺族はいないのではないかと言っていた。改修の計画はあるようだけれども、それがいつから始まるのか、具体的なことはまだ決まっていないようである。

 ベズルチ公園から、青空市場とバスの発着所を越えると、スメタナ公園に入る。ビアホールのモリツの近くにも入り口があって、このスメタナ公園を通るのが毎日の通勤路になっている。それが、今週は木曜日と金曜日は通勤に使えなかった。スメタナ公園内にあるフローラという展示会場で、フローラというイベントが日曜日まで行われているため、午前八時から午後六時までは、入場券なしには、公園内に入れなくなってしまっているのだ。
 チェコ語で書かれたオロモウツについての文章には、必ずこのフローラについて言及されているので、何だかよくわからないけど、ものすごいイベントなのだろうと考えていた時期がある。実際には、園芸関係の見本市で、チェコの各地から業者が集まってきて商品を展示即売するイベントだった。カレル・チャペックが『園芸家の十二ヶ月』なんて本を書いてしまったことからもわかるように、チェコ人には園芸家が多い。自宅の庭でさまざまな果物を育てたり、花を植えて美しく飾り立てたりすることを趣味にしているのである。共産主義政権は、政権への不満をそらすための政策のひとつとして、都市部に住む住民に、田舎にある庭付きの別荘や、都市郊外に小さな個人用の菜園(ちなみにこれもザフラートカと呼ばれる)を提供していたと言われることからも、チェコ人の園芸好きは察せられる。

 だから、このフローラというイベントは、チェコ人にとっては非常に重要で魅力的なイベントなのだろう。チェコ各地からたくさんの人が集まってきて、駐車場が足りないために、会場周囲の道路に路上駐車された車があふれることになる。また、貸切のバスでやってくる団体さんたちもいて、公園の入り口には、オロモウツらしからぬ人だかりができている。チェコスロバキア時代の名残か、国境を越えてスロバキアからやってくる人たちもいるようだ。
 では、このイベントが、外国人観光客を引き寄せられるほどに魅力的かというと、首をひねるしかない。メインのパビリオンの中には、その年のテーマに基づいて、花や木などを植えて作り出した絵や何かの像が展示されるのだが、すごいねとしかいえないし、園芸にそれほど興味がなく、植物を植える庭も持たない人間には、買うべきものもない。園芸や庭弄りが趣味という人だったら楽しめるのだろうけど、それが目的で海外旅行しようなんて人はほとんどいるまい。

 一番の問題は、クリスマスやイースターのマーケットにも言えることなのだけれど、特にイベントと関係のないものまで売られていることだ。最近は少しはましになったけど、クリスマスのマーケットで、青空マーケットの靴屋や服屋と同じような品揃えの店をいくつも見つけたときには、期待しただけにがっかりしたし、最近はプンチというお酒を出す店の多さに辟易する。もう少し考えて出店させる店を選んでほしいものである。
 フローラでも、以前うちのと話の種に出かけたときに買ったのは、なぜかお店が出ていた調味料だけだった。最初は何か鉢植えでも買おうかと言っていたのだが、野菜を材料にした調味料だったから植物関係と言うことだったのかなあ。それはともかく、毎年春だけではなく、夏や秋も含めて何回か行われるこのイベント、オロモウツでは珍しい定期的に客を呼べるものなのである。
4月23日22時。


2016年04月24日

ザフラートカ(四月廿一日)



 四月に入り気温が廿度近くまで上がる日が増えて、あちこちのレストランで、「ザフラートカ」の準備が始まっている。すでに営業を開始しているところも何軒かある。「ザフラートカ」というのは、室内ではなく屋外にテーブルと椅子を置いて、ビーチパラソルのような大きな日よけの傘を使って日陰にした座席で、食事などを提供するものを言う。夏になると、いや日本人の感覚では春が本格的になると、室内よりも屋外で食べたり飲んだりする人が出始める。
 この言葉は、庭を表すチェコ語「ザフラダ」の指小形なので、ビールを飲ませる場合には、ビアガーデンと言ってもいいだろう。レストランが入っている建物に中庭がある場合には、中庭を使うことが多し、レストランの前の歩道や、広場にある場合には広場の一部を占拠して(許可は取っていると思うけど)、「ザフラートカ」を出すお店もある。大きな道路の歩道のザフラートカは、車の交通量の多い場合には、空気がよくないので避けたほうが無難かもしれない。
 ただし、ビールを飲ませるレストランだけでなく、喫茶店やケーキ屋さんなどでも、このザフラートカを出す場合があるので、ザフラートカ=ビアガーデンというわけにもいかないのである。喫茶店でもビールを飲める場合が多いけれども、例えばホルニー広場の喫茶店マーラーのザフラートカでは、冷たいアイスクリームを食べて、コーヒーかジュースを飲んでいる人が圧倒的に多いのである。

 チェコの人は、日本人よりもはるかに寒さに強い、若しくは暑さに弱いので、ちょっと気温が上がると外で食べたり飲んだりするほうがいいと考えるようである。だから日中の最高気温が20度にならないうちから準備を始めて、夏が終わった後も、肌寒いと感じるようになっても、ザフラートカでの営業を続けてしまうのだろう。チェコ人と飲みに行くと、こっちがちょっと寒いから中のほうがいいかなあと思っていても、多数決で外で飲み食いすることが多い。
 この点で、チェコ人に近いのが北海道の人である。数年前の九月の初めだっただろうか、秋も深まりと言いたくなるような涼しい日の夕方、チェコ人の友達から、日本でお世話になっている人と飲んでいるから出て来いと呼ばれて、飲み屋に向かった。すでに日は沈み急に気温が下がり始めていて、寒いと思いながらその店に行くと、友人たちは、店の中ではなくザフラートカで飲んでいたのである。
 寒さに震えて冷たいビールを飲みながら、日本の人にとってこの寒さの中でビールを飲むのはつらいですよねと聞いたら、その日本からオロモウツに来た方は、にっこり笑ってそんなことはないと答えた。北海道の出身だから寒さには強いんですよと付け加えられて、北海道はチェコに似ていると言われることがあるのを思い出した。真冬でもサンダルで近所の飲み屋に行ってしまうのだとか。これではチェコ人以上である。

 チェコは四季があると言われるとはいえ、一部の年中行事を除くと季節感を感じさせるものはそれほど多くない。九月の終わりや、五月の初めに降る雪に、冬を感じていいものなのかわからないし、気温が三十度を越えてしまう年もあるので、五月を春というべきなのか悩んでしまう。そんなチェコで、夏という季節を強く感じさせるのが、サフラートカである。特にビアガーデンとなっているザフラートカで大声でしゃべりながらビールを傾けている姿を見ると、多少肌寒い天気でも、夏が来たのだと思わされることがある。
 先日の肌寒い小雨のぱらついた日には、ドルニー広場のザフラートカで、備え付けの毛布を被って震えながら食事をしているのを見かけてしまった。そこまでして外で食べたいのかなあ。ザフラートカの出ている間は、強い雨の降らない限り意地でも外で食べるという人もいるみたいである。夏の短い、ときに本当の夏の存在しない年もあるチェコでは、ザフラートカで飲み食いをすることで、夏なのだと自分に言い聞かせているのかもしれない。うがった見方ではあるけれども、ザフラートカへのこだわりの中には、チェコ人なりの季節感が隠れているに違いない。

 時々、偉そうに季節感というものは日本人にしか理解できないと主張する人がいるが、そんなことはない。チェコ人にもチェコ人なりの季節感はあって、その発露の仕方が日本人にはわかりにくいだけである。

4月22日23時。




園芸家の一年 [ カレル・チャペック ]


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2016年04月23日

オロモウツ噴水巡り(四月廿日)



 オロモウツの旧市街には、全部で七つの噴水がある。そのうちの六つは、十七世紀末から十八世紀の初めに設置されたバロック様式の石像の噴水で、最後の一つだけが十年ほど前に設置されたブロンズ像の噴水である。簡単に紹介してみることにする。

 まずは、共和国広場のトリトンの噴水から。トリトンというと、手塚治の漫画や、それを原作にした子供向けのアニメーションの影響で、海神ポセイドンの息子というイメージがある。もちろんトリトンは一人だと思っていた。しかし、トリトンというのは複数いるという神話もあるらしく、オロモウツのトリトンの噴水もその複数説に基づいている。
 この石像のトリトンは、一番上に立っている少年ではない。下で貝殻を肩に乗せて支えている二人の男がトリトンなのである。最近までそのことを知らずに少年をトリトンだと思い込んでいたのは、やはり漫画やアニメの影響だろう。この噴水は、ローマにある「フォンタナ・デル・トリトーネ」という噴水をモチーフにしているらしい。ローマの噴水がどんなものなのか知らないので、なんともコメントのしようがないのだけれども。

 共和国広場からトラムの線路に沿って、道なりに街の中心に向かうと、左側に聖モジツ教会が現れる。ここの塔は、特に管理人がいるわけでもないので、昼間の時間であれば、適当な寄付金を箱に入れれば登れるようになっている。オロモウツでは一番高い登れる塔のはずである。結構高いし、唐の上に出るところにあるドアが結構あれで、怖い思いをすることもあるけど、高いところが好きな人にはお勧めの場所である。
 その聖モジツ教会の先には、以前は社会主義時代の典型的なデパート(のようなもの)だったプリオールがあったのだが、今では完全に改装されて、ガレリエ・モジツという小さなショッピングセンターになってしまっている。昔のプリオールも旧市街の雰囲気にはあっていなかったけれども、小じゃれて近代的になった現在の姿も、旧市街に溶け込んでいるとは言いがたい。

 ガレリエ・モジツの脇のトラムの停留所を超えたところにあるのが、メルクリウスの噴水である。ローマ神話のメルクリウスは、ギリシャ神話のヘルメスと同一視された神で、かんがみの伝令役を勤めたといわれる。水星の名前の起源になったとはいえ、あまり有名ではないこの神が噴水の像として選ばれたのは、道路、交通の神でもあったらしいので、このあたりの交易の中心だったオロモウツにとっては大切な神だとみなされたからかもしれない。
 メルクリウスの噴水のある道を通ってホルニー広場に出たところには、ヘラクレスの噴水がある。このヘラクレスの像は、オロモウツの町のシンボルである市松模様の鷲を、七つの頭のあるヒュドラから守っているらしい。

 ヘラクレスの噴水から、市庁舎天文時計の前を通って、喫茶店マーラーのほうへ向かうと、カエサルの噴水がある。馬に乗ったカエサルは、以前も書いたように伝説上のオロモウツの町の創設者である。背中を市庁舎に向けて、顔は聖ミハル教会のある丘のほうを見ているが、これはここに古代ローマ時代の軍隊の駐屯地が置かれていたからだという。馬の足元に横たわる二人の男は、モラバ川とドナウ川を象徴し、座っている犬はオロモウツの町の領主に対する忠誠を示しているのだという。そんなことを言われても、西洋美術の象徴だのアレゴリーだのというのはよくわからないものである。
 カエサルによってオロモウツが建設されたという伝説はともかく、ローマ時代の軍の駐屯地の遺跡はオロモウツで発掘されているらしい。高校時代に世界史で勉強した古代ローマ帝国とゲルマン人の領域の境界線がこのあたりにあったようである。

 カエサルの噴水からモラビア劇場のほうに市庁舎の裏側を通っていくと、オロモウツでは最も新しいアリオンの噴水にぶつかる。噴水の数が六つというのは縁起がよくないので、七つにしようという計画は、十八世紀からあり、一度はマリアテレジアによって、許可も出されていたらしいのだが、ちょうど戦争が始まったために、中止せざるを得なくなったと言う。その計画が百年以上の時を経て実現したのが、二千年代の初めのことである。
 モチーフになっているのは、ギリシア神話のアリオンの伝説で、詩人で音楽家でもあったアリオンは、海で遭難したときに歌を歌い、その歌を聴いたイルカによって命を救われたのだという。噴水の脇にはカメの像もあって、噴水ができたころには名前を募集視しているという話もあったのだが、名前が付けられたという話は聞いていないので、決められなかったのかもしれない。

 ホルニー広場を出てドルニー広場に入ると、まずネプチューンの噴水がある。ギリシャ神話のポセイドンに当たるこの神の像は、三叉の矛を下に向けて持っているが、支配下にある水、つまり川を穏やかにさせるという意味を持つらしい。もっとも、1997年にモラビア全体を襲った大洪水のときには、機能しなかったようだけど。
 そして最後の一つが、ドルニー広場の奥にあるユピテルの噴水。ギリシャ神話の主神ゼウスに当たる神様が、一番目立たないところに置かれているのは、何か意味があるのだろうか。

 アリオンの噴水ができたときに、七という数は縁起がいいと言っていたので、八つ目の噴水が追加されることはないのだろう。八が末広がりで縁起がいいというのは、漢字文化圏の我々にしか理解できないことだ。このほかにも噴水と呼べるものがないわけではないのだけれども、歴史的な記念物としてのオロモウツの噴水群というと、今回取り上げた七つ、いや歴史的なのはアリオンをのぞいた六つなのである。
4月21日0時30分。


2016年04月22日

チェコ人も知らないチェコ語 いんちきチェコ語講座(四月十九日)



 チェコのレストランで、何を選ぶか考えたくないときに、メニューにあれば選ぶ料理がある。一つは、オンドラーシュと呼ばれる料理で、ブランボラークの生地で鶏肉か豚肉を包んであげた料理である。ブランボラークは、名前にブランボラとついていることからもわかるように、ジャガイモを使った料理で、ポテトパンケーキとか言われてもイメージがわかないだろうから、摩り下ろしたジャガイモに小麦粉と卵、調味料、場合によっては牛乳を加えて作った生地を、フライパンで油で焼いて、もしくは揚げて作る、もしくは、お好み焼きの具を全部ジャガイモにして、特別な調味料香辛料の類を加えて焼いたものと説明しておこう。
 昔は街中のスタンドで売られていて立ち食い、歩き食いをしている人を見かけたもののだけれど、最近はファーストフードに駆逐されたのか、クリスマスやイースターなどのマーケットのときぐらいしか外では食べられない。ビールのつまみとしては、ブランボラークが大好きなのだが、食事となると一緒に食べるものを考えなくてもいいので、オンドラーシュのほうがいい。
 そして、もう一つがスマジェニー・シールである。かつてサマースクールのイベントで、スラフコフの城館と、アウステルリッツの古戦場を見学に出かけたとき、大挙して入ったレストランの人に、出発までに時間がないようだから、皆同じ料理にしてくれないと間に合わないと言われ、全員一致で選ばれたのがこの料理だった。料理自体は、チーズにパン粉の衣を付けてあげたチーズカツとか、チーズフライとか言いたくなる料理で、チーズ嫌いでもない限り口に合わないとは言わないはずである。そのスマジェニー・シールと一緒に食べるのは、たいていフライドポテトである。

 このフライドポテト、チェコ語では複数形で「フラノルキ」という。一本単位で注文する人なんかいないから、複数形で問題はないのだろう。でも、これが男性名詞なのか、女性名詞なのかは、一格、四格以外の格では重要である。特に料理を注文するときには、メインの料理の名前を言った後に、「s+七格」を使う。だから、男性名詞として「ス・フラノルキ」と言うのが正しいのか、女性名詞として「ス・フラノルカミ」と言うのが正しいのかは、チェコ語を学ぶ外国人にとっては、重要なことである。
 それなのに、チェコ人に聞くと、たいてい「ス・フラノルカマ」だという答が返ってくる。これは、典型的な話し言葉表現の七格で、女性名詞には、そのまま「マ」をつけ、男性名詞には「アマ」をつけるため、男性名詞でも、女性名詞でも複数七格の語尾は同じである。例えば、学生の複数七格は、男だったら「ストゥデンタマ」、女性だけだったら「ストゥデントカマ」となる。

 仕方がないので、授業時に師匠に質問したところ、「フラノルキ」は男性名詞だから、「ス・フラノルキ」が正しいと答えてくれた。ただ、チェコ人の中には、話し言葉の複数七格の語尾の「マ」を「ミ」に変えれば、文法的に正しい表現になると思っている人が多いから、そういう説明をする人には、チェコ語に関する質問はしないほうがいいとも言われた。複数七格の語尾の「マ」は、本来は手や足など二つセットで人間の体についているものに使われるいわゆる双数の七格が、他の名詞の複数七格に転用されてしまったものらしい。
 男性名詞なら、「フラノルキ」の単数一格は「フラノレク」だということになる。師匠の説明によれば、それは細長い角柱を意味する「フラノル」の指小形だという。「フラノル」という言葉で、表されるものとしては、鉄道の線路の下に敷かれているコンクリート製の枕木を挙げてくれた。なるほど、フライドポテトの形状から、枕木を小さくしたものを想定したということか。すんなり納得できてしまった。
 最後に師匠は、チェコ人でも「フラノルキ」の単数一格が「フラノレク」であることを知らない人は多いから、いろんな人に質問してみるように付け加えた。実際に、あちこちで質問してみると、同じチェコ人でも意見が合わずに、質問したこちらをそっちのけで議論を始めてしまうこともあって、なかなか楽しかった。チェコ語を勉強するに当たって、こういう師匠に出会えたことは、本当に幸せなことであった。

 他にも男性名詞か女性名詞かわからないものはいくつかあって、例えば、ジャガイモの単数一格が「ブランボル」なのか、「ブランボラ」なのか、キュウリは「オクルカ」なのか、「オクレク」なのかで、いつも悩むのである。
4月20日14時。


 なんか尻切れトンボと言うか、落ちがないと言うかうまくおさまりがつかなかった。本当はこの後「トルハーク」という言葉の意味についての話を書くつもりだったのだけど、長くなってしまいそうだったので次回回しにした。4月21日追記。






2016年04月21日

チェキアってどこ?(四月十八日)



 日本語で、チェコ共和国といい、チェコと言う。チェコ共和国が正式名称で、チェコが略称ということになる。チェコではここしばらく、この略称チェコにあたる言葉をどうするかで議論がかまびすしい。どうも、日本語のチェコにあたる言葉がないわけではないけれども、公式には認定されていないらしい。こんなの「にほん」と「にっぽん」の違いと同じで、特に公認する必要もないし、公認されたところで、それを実際に使うかどうかはまた別問題だと思うのだが、チェコでは微妙に事情が違うようだ。
 日本では、恐らく外務省によって決められた公式の名称は、チェコではなく「チェッコ共和国」である。しかし、日本でその呼称を、略称である「チェッコ」も含めて使う人はいないし、外務省自身も、元首の公式訪問などの場でもない限り使用することはないはずである。このあたりの日本のいい意味でのいい加減さは失われてほしくない。

 しかし、考えてみると、日本語の「チェコ」という名称にも問題がないわけではない。1993年のいわゆるビロード離婚以前は、チェコスロバキアという国であった。チェコ語、スロバキア語では、チェスコスロベンスコと呼ばれていたこの国の、英語名からカタカナ化して日本語として使っていたわけだ。そして、チェコスロバキアという名前が一口に言うには長すぎるため、「チェコ」のみで、チェコスロバキアを表すこともあった。かつて、日本の人がスポーツなどでチェコスロバキアを応援するときに、「チェコ」としか言わないのに、微妙な気分になるというスロバキアの人の話を聞いたことがある。それに今でも年配の日本人の中には、「チェコ」と言えば、チェコスロバキアの略だと思っている人もいる。
 その本来チェコスロバキアを指す略称であった「チェコ」が、チェコとスロバキアが分離したときに、現在のチェコの部分のみをさすように使い方が変わったのである。その際、チェコでは問題となったモラビア、シレジアはどこに行ったのかという疑問は、日本語では必要なかった。なぜなら、チェコ語で「チェヒ」と呼ばれる部分はボヘミアというため、チェコ全体を指す「チェコ」との類似性が発生しないからである。

 1993年にチェコとスロバキアが分離したときにも、この問題が議論の対象となり、「チェスコスロベンスコ」の前半「チェスコ」を、チェコ共和国(「チェスカー・レプブリカ」)の略称として使おうという意見があったらしい。しかしチェコでは、ボヘミア地方を「チェヒ」といい、それから派生した形容詞「チェスキー」、それが別の形容詞につながるときの形である「チェスコ」という言葉にには、ボヘミア臭が強すぎて、モラビアやシレジアの存在が消えてしまうという人がいるのである。その大半は、モラビア、シレジアの人であろうが、ハベル大統領もチェスコを公式の名称にするのは抵抗があると言って反対していたようである。
 このボヘミア、モラビアの地域間の対立は、最近は和らいでいるような気がする。チェコのサッカー協会は、以前は、ボヘミア・モラビアサッカー協会が正式名称だったが、数年前にチェコ共和国サッカー協会に改称された。2000年ごろには、それこそ、ボヘミア協会とモラビア協会に分離して、リーグ戦だけ、共同で開催するようにしようかという案もあったのである。ただ、協会が分かれた場合には、代表チームも別々に組織しなければいけないということが発覚して撤回されたけれども。
 スロバキアとの分離独立から四半世紀近くたった現在では、さまざまなメディアで「チェスコ」という表現が、所与のものであるかのように使われるようになった結果、「チェスコ」に反対する人は、減っている。それでも、反対という人はいて、「チェスコモラフスコ」はどうだなんて声もあるのだけど、それでも、シレジアはどこに行ったのかという批判には答えられないし、長すぎて略称がほしいという点では変わらない。

 さらに問題をややこしくしているのが、この際英語での略称も決めようという主張である。英語には「チェコ共和国」という正式名称しか存在しないために、ビジネスの話をするときに苦労するなんて話には、あほらしいとしか思えなかったが、長野オリンピックの時のホッケー代表のユニフォームに、煩雑さを避けるために「チェック(Czech)」としか書かれていなかったという話には、英語でも略称があったほうがいいのかなとは思わされた。いや、正直に言えば、世界が画一化していくことを嫌う私にしてみれば、多様性を保つためにも、英語じゃなくてチェコ語で書けばいいだけの話じゃないかというところなのだけど。
 その議論のなかで、「チェスコ」の英語バージョンとして推す人が多いのが「チェキア(Czechia)」である。上記の「チェスコ」と同じ理由での反対とは別に、問題が一つある。それは発音がわからないという点である。提案している人たちは、明確に「チェキア」と発音し、そのように読ませたいらしいのだが、意見を述べている人たちの中には、チェコ語風に「チェヒア」と読んでしまう人もいたし、何も知らない日本人だったら、「チェチア」とか読んでしまいそうである。
 英語の名称では、ポーランドの例に習って、「チェックランズ」というのはどうだろうかという意見があった。複数形にすることで、ボヘミア以外の領域があることも主張できるということらしい。うーん、英語は使わないからどうでもいいと言えばいいのだけど、どちらもさして魅力的に響かない。どちらかを選べと言われたら、「チェックランズ」のほうがいいかなあ。ちょっと長いけど。

 ここ一週間ほどの間に、何度もテレビのニュースで取り上げられ、特別番組の中で専門家たちの議論が行われているのだが、どうも国会で審議するらしい。国の略称なんて、それこそ定着途中の「チェスコ」と同じように、使用されているうちに自然に定着するものなのではないのだろうか。
 現在チェコの外務省が焦って国定の英語における略称を決めようとしているのは、それを国連の加盟国の名称一覧に登録するためらしい。他の国は、例えばスロバキア共和国が正式名称ではあっても、スロバキアという呼び名も登録されているため、正式に国名としてスロバキアも使えるが、チェコは登録された略称がないため、つねにチェコ共和国を使用しなければならないのが負担なのだそうだ。

 チェコの国会も暇なのかねえ。不法移民問題など審議しなければならないことは山のようにあるはずなのだけど。仮にこの提案が可決されて、英語での正式の略称が「チェキア」になった場合、チェコ政府は、すでに定着した表現を持つらしいフランス語、ドイツ語以外の言葉で「チェキア」を使うように求めるのだろうか。グルジアが「ジョージア」と呼ばれることを求めた例もあるし。
 日本人の適当さを考えれば、求められて日本政府がそれを受け入れたとしても、私も含めて大半の日本人は「チェコ」を使い続けるだろう。「チェキア」なんて魅力的に響かない名称が、定着して久しい「チェコ」を押しのけうるとは思えない。いや、いっそのこと、英語での正式の略称も「チェコ」にしてしまえばいいのだ。「チェコスロバキア」の前半部分という点では、英語も日本語も変わらないのだから。
 それがだめなら、現地の呼称を優先するという近年の傾向に則って、英語でも「チェスコ」でいいじゃないか。それなら、日本語でも使ってもいいと思えるし、同じ場所なのに、使用言語によって呼び方が違うというのは、いい加減やめてもらいたい。チェコ語でコリーンと言われて、プラハの近くのトヨタの工場のある町だと思ったら、実はドイツのケルンだったなんてのを、そろそろどうにかしてくれないものだろうか。今の状況が歴史的な経緯の中から生まれてきたものだということは、重々承知しているのだけれども。
4月19日18時30分。





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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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