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2016年10月09日
右と左がわからない1――左利きの叫び(十月六日)
『外国語を学ぶための言語学の考え方』でもそうだが、黒田龍之助師はしばしば、英語で道案内ができなかったからといって英会話教室に発作的に申し込むような日本人のメンタリティを揶揄する。ここで重要なのは、道案内そのものではなく、日本語でできないことが、外国語の会話の練習をしたからと言って、できるようになるわけはないだろうということだ。
日本語とチェコ語の通訳では、専門分野を限定するなんてことはできないので、これまでいろいろな分野で通訳をしてきた。中には日本語でもよくわからない、言葉を知らない分野もあったけれども、仕事を引き受けてから、あるいは仕事をしながら、付け焼刃で知識を増やして何とか対応してきた。ただ、医療関係の仕事だけは引き受けたことがない。付け焼刃の知識で、日本語でも理解できていないことを通訳すると命に関るのではないかという恐れがあって、引き受けられないのである。
そして、もう一つ、こちらは命には関らないし、仕事として引き受けるようなことでもないのだが、道案内もしたくない。日本にいて日本語で日本人に道を聞かれたときですら、時間がないときには知らない振りをし、時間があるときには、言葉で説明できないから、地図を書いたり一緒にその場所まで連れて行くことが多かったのだ。
言葉で道案内ができない理由は、はっきりしている。右と左がとっさに判別できないのだ。うちのの運転する自動車の助手席に座って、地図を見ながらナビゲートする場合に、最初は「右/左」と言っていたのだが、あまりにいい間違いが多く、目的地に着くのに無駄な時間がかかってしまうため、「右/左」を諦め、「そっち(k tobě)/こっち(ke mně)」という指示を使うようになった。そっちは運転席側に曲がって、こっちは助手席側に曲がるという指示である。これなら間違いようがない。
では、なぜ右と左がとっさに判断できないかというと、それはもう左利きだからだとしか言いようがない。右利きの恵まれた人間たちには決して理解のできない左利きならではの苦難の人生がかかわっているのだ。我々は圧倒的多数の右利きの支配する世界に、適応することを強要されているのだ。これは立派な差別である。だから左利き解放同盟を結成して、左利き革命を起こして、せめて左利き自治区ぐらいは作りたいものだと、過激だったころには考えていたのだけど、自分も含めて同志たちは生まれたときから、右利きの世界に順応させられているために、左利き用のハサミとかそんな多少の配慮を見せられるだけで、懐柔されて転向してしまう。人間と言うのは慣れる生き物なのだ。
そもそも、世界を規定するための文字が、右利き向きである。左手で書くには右利きにない苦労をさせられる。最近は減ったが右で書くように矯正されることさえある。今更、文字を左で書きやすいものに変えろというのは、不可能だろうから、左利きに限り鏡文字の使用を許容せよと言いたい。そうすれば、手首を無理やり外側に向けたり、腕全体でノートを抱え込むような無理な姿勢をしたりせずに書けるようになる。
ハサミ、缶きり、自動改札、マウスなどなど、左利きには使いにくいものは枚挙に暇がない(最近の事情を考えるとちょっと大げさかな)。右利き用に作られた缶きりの使い方がわからず、試行錯誤して無理やり左手で切っていたら、変なきり方だと右利きどもに大笑いされたのは、今でも忘れられない。小学校で家庭科の授業が始まり裁ちばさみを使っていたら、裏にしても表にしても手が痛くてまともに使えなかった。右手で使うことが前提になっていたあのハサミは、握りの部分が右手の指が収まりやすいような造形になっていたため、左手で使うと変なところに接触して使うと痛くて仕方がなかったのだ。思うように使えない右手で切るしかなかった。
自動改札だって最近はいちいち定期券を出す必要はなくなったようだが、切符、定期券を通す機械は右側にある。毎日何度も体を無理やりひねって左手で右側にある機械に切符を入れて出てきたのを取るのは、特にラッシュ時の人ごみの中でやるのはなかなか大変だった。落としかねないという不安をこらえて右手を使うこともあったけどね。ある左利きの友人は初めて自動改札を使ったときに、自分の左側にある機械に切符を通してしまい閉じ込められてしまった。
あいつの途方に暮れて立ち尽くしている姿は、同じ左利きの人間として、すまん、大笑いさせてもらった。でもね、同じ左利きに笑われるのは気にならないのだよ。同じ苦難を生きてきたものとして笑い笑われる中で理解しあえるのだから。許せないのは左利きゆえの失敗を馬鹿笑いしやがる右利き人どもである。
我々左利きは、こんな苦難に満ちた生活を送りながら、左利き用のものが発売されたといっては、大喜びで大枚はたいて購入し、右利き人どもの配慮に涙するのだ。最近は、缶詰がほとんどパッカン方式になって缶切りを使う必要がなくなったし、ハサミもどちら側から手を入れても痛くならないような形状のものが増えていて、以前と比べればかなり楽になった。
それから、左利きの人間は、右利き人が右手でしかできないようなことを、左右両手を使ってできることが多い。そうすると右利きの連中は、いかにもうらやましそうに器用だねえとか、言うのだ。我々生まれて以来虐げられるだけだった左利きは、そんなささいなことがむやみに嬉しく、簡単に懐柔されて満足してしまうのである。
それでも、と自動改札とは無縁になった今でも思う。かつて使われていた左利きを指す言葉「ぎっちょ」や、酒飲みを指して「左利き」と言うのは、最近は聞かなくなった。左利きへの差別だとか言い出す人がいて、使用が自粛されるようになったのだろうか。もしそうなら、右利き人どもよ、勘違いもはななだしいぞ。言葉なんぞどうでもいいのだ。「ぎっちょ」に差別的な歴史があったとしても、胸を張って「我ぎっちょなり」と公言しよう。今でも差別されているのは事実なのだから。酒飲みであることは自任しているから、「左利き」が酒飲みの異名になっているのも許容する。しばしば右利きの連中が言う「左利きは変な人が多い」というのも、自分も含めて否定しきれないから、言いたければどんどん言ってくれてかまわない。
ただ、言葉狩りのような無意味な配慮をする代わりに、一箇所でいいから、左利き専用の自動改札を設置してくれないものだろうか。女性専用車両なんて配慮ができるのだから、その何十分の一かの配慮を左利きの人間のためにしてもらえないものか。それが駄目なら、一年に、いや十年に一度でいい。左利きの日として、全国の自動改札を一日だけゲートの左側の機械に切符を入れるように設定する日を設けてほしい。そして、右利き人たちがうまく使えずに、おろおろしているのを尻目に、我々左利きだけが、すんなり通り抜けることができるなんてことになったら、涙を流しながら嘲笑し、これまでの鬱憤が消えて、溜飲が下がることだろう。そうしたら右利きの右利きによる右利きのための世界に、左利きでありながら忠誠を誓ってもいいんだけどなあ。
あれ、左利きの人間が、左右の判別をしにくくなり理由については、どこに行ってしまったのだろう。明日、明日である。
10月6日23時。
一応、本の話がきっかけで書き始めたのだけど、本のカテゴリーに入れるのは無理があるよなあ。10月8日追記。
2016年08月31日
天皇譲位問題(八月廿八日)
今上陛下が、退位の希望をにおわせる発言をしたというニュースは、チェコでもかなり大々的に取り上げられていて、チェコテレビの、取り上げるニュースの数は少ない代わりに、専門家を呼んで深く掘り下げるタイプのニュース番組にも、自称専門家が出てきてあれこれ解説していたけれども、質問役のチェコテレビのアナウンサーの頓珍漢な質問とあいまって、おいおいおいといいたくなるような説明連発で正直聞いていられなかった。まあ、日本でも結構いい加減な言説が見られることを考えると、外国でここまでやれたというのはすごいことなのかもしれないけど。チェコの大統領選挙なんかを正確に伝えられる日本人はほとんどいないだろうし。
それはともかく、今年の夏ひたすら『小右記』の訓読の見直しをしていて頭の中が部分的に平安時代になりかけていると、当時は上皇が存在するのは普通のことなので、状況が許せば譲位して上皇になるのもかまわないと思ってしまう。法律については特に詳しいわけでもないけれども、明治以後も大正天皇の摂政を皇太子だった昭和天皇が務めるなど、江戸時代以前の制度が復活した事例はあるわけだし、上皇、天皇、皇太子(皇太弟になるのかな)と三つの役職に人がいたほうが、個々の負担も減るだろう。
現在復習中の永観二年には、円融天皇が退位して花山天皇が即位するわけだけれども、残念ながら『小右記』はこの年の前半の部分が欠けているため、円融天皇の退位の事情などはよくわからない。しかし、天元五年あたりから、御願寺として円融寺を創建したり、退位後のことを考えてなのか、後院の別当を定めたりはしている。そのようにして、朝廷内の代替わりへの意識を醸成していたと言ってもいいのかもしれない。
永観二年に即位した花山天皇は、その二年後に藤原兼家の陰謀で退位させられたという話で有名である。ただ、いくら寵愛していた女御が亡くなったからと言って、在位中に後先考えずに出家の希望を漏らしてしまうあたり軽率さは否定できない。天元五年の『小右記』には、宮中での儀式の様子を、皇太子時代の花山天皇が隠れてのぞき見していたという記事が出てくるが、そんな奇矯な振る舞いをする人物として見られていたのだろう。後に実資の正妻となる婉子女王は、女御にはなったけれども入内しなかったという話もあり、貴族社会で忌避されていた面もあったのかもしれない。もちろんそこには有力な外戚がいなかったという事情もあるのだろうけど。
かわいそうなのは、花山天皇に引き上げられて、地位はそれほど高くないながら当時の政局を主導していた藤原義懐と藤原惟成で、結局天皇の出家に合わせて出家してしまう。しかも出家による退位のせいで混乱を巻き起こしたというのに、仏道に専心するわけではなく、退位の十年後には、通っていた女性を巡って、時の内大臣藤原伊周と争いになり、伊周、道隆が流罪になり中関白家が没落する一因を引き起こしている。出家したんだから寺で念仏唱えていろよぐらいのことは考えても罰は当たらないだろう。
もう一人、勝手に退位してしまった天皇としては江戸時代初期の後水尾天皇がいる。鎌倉時代以降天皇の退位、即位に関しては武家政権の意向が決定的だった時代に、江戸幕府による制約の強さに嫌気がさしたのか、抗議の意味を込めたのか、内密に譲位の儀式を行なってしまったらしい。その結果公家側も幕府側も大きな混乱に巻き込まれたらしい。いろいろ事情はあったのだろうけれども、周囲の人々にとっていい迷惑であったという点では花山天皇の例と大差ない。
結局、譲位した相手が徳川家の血を引く明正天皇だったおかげか、長い交渉の末、幕府が譲位を無効にするという事態にはならなかったのだけど、奈良時代以来の女性天皇という前例を残すことになった。明正天皇が、確か、まだ十歳にもなっていなかったのに、突然、内親王の地位を与えてそのまま皇位に就かせたので、「俄の譲位」とか言われているのではなかったか。
このときに比べれば、今は皇太子も存在するし、政府の側からの強要でもなければ、天皇の恣意での譲位でもないのだから、生前の退位があっても大きな混乱は起こらないだろう。大正時代のように皇太子を摂政にしたとしても、摂政として天皇の義務をこなす傍らで、皇太子としての義務もこなさなければならず、負担は大きくなる。その場合に皇太子の義務を弟宮に肩代わりさせるのであれば、最初から譲位を行なったほうがましであろう。
法律関係がどうなるのかは、政府に任せて、今上陛下が上皇になられた場合には、ぜひ現在の京都御所を後院として滞在していただきたいと思う。そして、京都御所で、百官は無理にしても、律令時代の官職をある程度任命して、平安時代の儀式を再現するというプロジェクトは実施できないものだろうか。上皇に天皇の役で出御してもらってもいいし、出御のない略儀で儀式を行なってもいいのだから、平安時代の儀式書や、歴史学者の研究成果をもとに、年にいくつかずつ儀式を、実際に摂政、左大臣などを任命して再現(再演のほうがいいかな)していくというのは無理だろうか。
実現したら、蔵人役はちょっと地位が高すぎるので、史なんかの四等官の下の下級官人の役に立候補しようかななどとしょうもないことを考えてしまう。実現はしないだろうけれども、自称平安至上主義者としてはそんな夢を見たくなるのである。
8月30日21時。
2016年08月12日
中国難民(八月九日)
シリアやイラク、アフリカから入国してくる難民に悩まされているヨーロッパだが、チェコには中国からの難民申請者が数十人いることが判明した。難民申請者たちは、いずれもキリスト教徒で、共産党政権によって人権侵害を受けていることを難民、この場合は亡命のほうがいいのかな、申請の理由にしているらしい。
このニュースを聞いたときには、中国からの飛行機の直行便に乗って集団でチェコにやってきたのかと思ったのだが、実は今年の二月ぐらいから、少数のグループで断続的にチェコに入国し、難民申請をしたらしい。現在その審査が行なわれていて、難民収容施設で生活をしているようだが、チェコ政府も対応に苦慮しているというのが正直なところであろう。これは、二重の意味で、中国からチェコ政府に突きつけられた踏み絵である。
認定する、しないのどちらを選んでも非難にさらされるのは明白なので、一番いいのは、審査中で引っ張り続けることだろうが、法律によると申請から六十日以内に結論を出す必要があるという。必要な場合には特別に延期が可能だというけれども、それでも最大百八十日の延期だというから、今年中には、最初の申請者に関して結論を出す必要がある。正規の期間よりも、延長できる期間のほうが長いのが不思議な気はしないでもないけど。
チェコに住んでいる人間としては、どうしてチェコに来たんだろうと考えずにはいられない。EUの中で中国に擦り寄っているのは、チェコだけではないのだから、ドイツとか、イギリスなんかに行ってもいいだろうに。
ヨーロッパ的価値観、つまりキリスト教に根ざした価値観を標榜する政治家の多いチェコでは、イスラム世界に取り残されたキリスト教徒たちの難民としての受け入れプロジェクトを行なっていた。チェコ側がイラクまで出向いて、キリスト教徒たちの中で、イスラム国に生活を脅かされている人たちの中から、祖国を離れてでもチェコで安全に生活することを希望した人たちを選んで、政府の特別機でチェコまで連れてきていたのだ。
そのプロジェクトは、一部の心ない似非難民に悪用された結果頓挫してしまっているが、このキリスト教徒を救おうというチェコ側の姿勢に、中国のキリスト教徒たちが、難民として受け入れられるかもしれないと希望を抱いたのだろうか。
この状況で、チェコ政府が難民認定を拒否した場合には、国内外のキリスト教関係者から非難を浴びることになるのは間違いない。秘密警察の監視を受け続けているなどの人権侵害を理由としてあげているから、人権団体もうるさいことを言うだろう。そしておそらく、EUやドイツ政府あたりも、他人事だと考えて、人権保護の観点から難民として受け入れることが望ましいとか、非難のコメントを発するのだろう。いっそのこと、認められたらチェコに住まわせることを前提に、決定をEUに投げてしまってもいいのかもしれない。実行不可能なことばかり言いやがるEUの官僚どもに、現場の苦労を味合わせてやるのだ。
その一方で、チェコの判断で受け入れてしまった場合には、今度は中国政府が黙っていないだろう。難民を受け入れるということは、政府が公式に中国で政府による人権侵害が行なわれていることを認定することになるのだから。姉妹都市の協定の中にさえ、中国はひとつしかないことを認定することを押し込んでくるのが中国である。ゼマン大統領が中国に行って結んできた何らかの協定の中に、政府による人権侵害などの内政に関することについては、チェコ政府は関与しないとかいう条項があったとしても不思議ではない。こと中国との関係においては、経済と政治は分けて考えるのが、チェコ政府、ひいてはEUの立場らしいから、そんな条項があっても気にせずサインしてしまうだろうし。
そうすると、ゼマンだかネチャスだか知らないがのおかげで、何とか改善できたらしい中国とチェコの関係が一気に悪化することも考えられる。中国からチェコへの観光客や投資が激減なんてことになったり、チェコから中国への輸出や投資が難しくなったりしたら、国内の企業からの反発は大きいだろう。だから、この観点からも決定をEUに投げちまえと思う。
この手の決定は各国政府の専権事項だというのなら、これを理由に、EUが押し付けようとしている、ドイツ行きを希望しながらドイツで受けいれられない難民の強制的な受け入れを拒否できるし、EUが決めてくれれば、責任をEUに押し付けることができる。EUの方針を決めるばかりで、その実現の仕方や結果に対してまったく責任を持たない姿勢に、辟易しているのはチェコだけではないはずだから、嫌がらせにもちょうどいい。
嫌がらせと言えば、この難民申請自体が、チェコの中国に対する姿勢を確認するための中国政府の秘密警察によるオペレーションだったりしてなんて妄想も頭に浮かばないわけではない。その可能性も含めて、決定はEUに任せてしまおう。
ところで、繰り返しになるがチェコ政府は難民の受け入れを拒否しているわけではない。チェコへの移住を希望する人に対しては、積極的に受け入れている。しかもドイツ何かの自力でたどり着けという傲慢な態度ではなく、チェコ側が難民キャンプにまで出向いて、調査をしたうえで政府の特別機でチェコまでつれてくるのだ。最近もトルコの難民キャンプから数十人の難民を受け入れたというニュースが流れた。
受け入れを前提にチェコまで連れてくるから、申請が認められずに国外退去ということもないし、悪辣な一部を除けばチェコに対する感謝の気持ちを持ってやってくるから、社会に受け入れられようという意欲も強い。EU全体で大々的にやればいいのに。イスラム国の手先が入り込む危険性も減ると思うんだけど。
8月10日18時。
発音の話は一時休憩。8月11日追記。
2016年07月26日
テロリスト?(七月廿三日)
先週の木曜日にフランスのニースで起こった群集に大型のトラックが突っ込むという事件に続いて、ドイツでもミュンヘン市内のマクドナルドとショッピングセンターで客に銃を乱射するという事件が起こった。どちらも実行は単独犯で、日本で言う通り魔事件のように思われた。
フランスの事件では、協力者が逮捕されるなどして、イスラム国と関係のあるテロだったということになりそうである。しかし、この事件、イスラム国だのイスラム過激派だのというのは、自分の残虐な行為を正当化するための口実でしかないような気がする。実際やっていることは、銃を発砲したことを除けば、日本の秋葉原で起こった通り魔事件と大差はない。人生に絶望してフランス社会への復讐として無差別に人を殺そうとしたときに、罪悪感を感じずに済むようにイスラムをお題目にしただけではないのか。
大統領をはじめ、フランス当局としては、事件の直後から、テロと断定したがっているように見えていたが、この手の事件をテロと認定するのは、社会的に危険な気がする。テロとか、テロリズムとか、テロリストだとかいう言葉には、ある種の魔力があって、社会に不満を持っている人間たちを引き寄せてしまう。もしくは社会に不満を持って鬱屈としている人間があこがれてしまう嫌いがある。だから、この事件をテロだと規定してしまうと、後追いの模倣犯が続出しやしないかと恐れるのだ。
本当のテロだったら、武器、爆薬の入手などから、アシが付いて事前に発覚することもあるだろう。2001年のアメリカに対するテロでは、飛行機がテロの道具になることが衝撃をもって受け入れられたが、飛行機をテロに使うためには、飛行機を操縦する能力が必要になる。飛行機を確保するのも困難で、そこからテロの計画が漏れることもありそうだ。
今回のニースでの事件は、車一台あれば、爆弾などなくても、いつでもどこでもテロが実行できることを世界に知らしめてしまった。フランスでの事件がテロに認定されたら、社会に不満を持ちつつも、武器も火薬も手に入れることができず、過激派にも伝のないテロリスト予備軍に、格好の手段を与えてしまうことになりそうな気がする。そうなると計画を実行に移す前に阻止することは不可能に近い。
日本だと、薬物依存症の果ての通り魔や、やくざまがいの地上げ屋の手口、もしくは老人が運転を誤って引き起こす事故としてのイメージが強いから、テロに無意味にあこがれる若者がこの手口を真似ることはないと思いたいけれども、実際にはどんな犯罪者にも、崇拝者はいるのだろう。それでも、テロリズムの一環として認識された場合よりは、はるかに少ないはずである。
テロリストグループと直接の関係の見出せない犯人の犯した無差別殺人については、下手にテロ扱いしないほうがいいような気がする。テロリスト扱いされるのは、犯人の望むところだろうし、テロなどではなく、人生に望みを失った人間の絶望から生まれた卑劣な犯罪として扱ったほうが模倣犯を生みにくいだろうし。テロと認定することで、社会の怒りをかき立てることはできるだろうが、同時に多くの崇拝者、模倣犯予備軍を生み出してしまいそうである。
一方、ドイツでの事件では、当初はテロの可能性が云々されていたが、警察も政治家も非常に慎重だった。現時点では、精神的に病んで薬を飲んでいた若者が、薬物、またはアルコールの影響下で錯乱を起こして凶行に及んだものだということになっている。これなら、崇拝者もそれほどは現れなさそうだ。
この手の、精神を病んで病院に通っていた人たちが起こす事件というのは、非常にやるせないものがある。殺人事件を起こすほどに病んでいたのに、どうして病院を退院できたのだろうかという疑いを消すことができない。チェコでも精神を病んで病院に入院していた患者が、退院して人を殺すという事件が、最近二件起こっている。嘗ての患者の人権など、完全に無視して監獄のようだった精神病院に戻すわけには行かないのだろうけど、社会に危害を与えそうな人間を野放しにするのもどうかと思う。どのぐらい危険なのかを見極めるのが一番大切なのだろうけど。
7月24日22時30分。
何かうまくまとまらない。まとまらないけど締め切りだから仕方がない。7月25日追記。
2016年07月18日
世はなべてカメラマン、もしくはナルシスト(七月十五日)
かつて日本人の観光客はどこに行くにもカメラを首にぶら下げて、自分の目で観光しないで写真ばっかり取っていることで、世界の笑いものになっていた。チェコに来たばかりの頃、カメラは持っていたけど、あまり持ち歩かなかったので、日本人らしくないなどと言われたこともある。
カメラというものには憧れのようなものがあって、いずれは一眼レフなるものに手を出してみたいと思っていたのだが、いつの間にかデジタルカメラの時代になっていて、手を出すタイミングを失ってしまった。オートフォーカスじゃなくて、手でレンズの焦点を合わせるとかやってみたかったのだけど、実現しなかった。
チェコに来ると決めたときに、チェコ語で取扱説明書は読みたくなかったので、一応デジタルカメラを一台とフィルムカメラを一台日本で買った。どちらもコンパクトカメラだったが、ものすごく時間をかけて選んだ。特にフィルムカメラは、わざわざ新宿の中古を扱っている店まで出かけて発見したコンタックスのT2を結構なお金を出して購入した。
昔、どこかの内戦でカメラマンが銃撃を受けたときに、セカンドカメラとして腰につけてあったチタン製のT2のおかげで命拾いをしたという記事を読んで以来カメラを買うならこれだと思っていたのだ。まあそれまでせいぜい「写るんです」ぐらいしか使ったことがなかったので、猫に小判、豚に真珠の類に終わるのは目に見えていたけれども、ほしかったからいいのだ。コンパクトカメラとは思えないボディの質感と重みは、フィルムを買うのが面倒で、あまり使わなかったが、所有欲を十分以上に満たしてくれた。
カメラは持っていても、写真を撮るためだけに出かけたりはしないし、どこに行くのでもカメラ片手なんてこともない人間の目から見ると、最近の世界は不思議に見える。日本人だけでなく、誰でも彼でも、どこでもここでもスマホを構えて、写真だか動画だかの撮影をしている。以前、何かのスポーツイベントの客席の様子を映したビデオを見て、観客がほとんど全員、目の前にスマホをかざしている様子に愕然としたことがある。
目の前の光景を自分の目に焼き付けるほうが、ディスプレイ越しに見て、それを後で見返すよりもずっとずっと印象に残るとは思わないのだろうか。それにそんなにたくさん撮影して本当に見返すのかという疑問もある。ハードディスクの肥やしになるのが関の山じゃなかろうか。そうか、ネット上に載せるという可能性もあるのか。それにしても、みんながみんな撮影する必要はなかろうというものだ。
そしてさらに理解できないのが、自撮りとかセルフとか言われる奴である。ちなみにチェコ語でもセルフォバットという動詞ができるくらいには一般化している。手前の写真なんざ撮影して何が嬉しいんだ? 自分で自分の写真を撮るなんて、よほど自分の容姿に自身があるのか、救いがたいナルシストなのか。自分で自分の写真を撮ってうっとりと眺めているような人間は知り合いにいないと信じたい。
これも、ネットにあげるということなのかと考えるとさらにうんざりする。何を好き好んで世界の人に自分が何をしたか知らせる必要があるのだろうか。ブログなんてことをやっている人間が言うのは、天に唾するような行為かもしれないが、そこまで自己顕示欲が強い人間が増えているというのは、社会的に問題があるんじゃなかろうか。誰かに見てもらっているという実感を必要としていて、見てもらうためのものが必要だということなのだろうか。
子供の頃なら、親に写真を取ってもらえるのは嬉しかったかもしれない。でも、高校生ぐらいになると、写真に写るのは、できれば避けたいわずらわしいことで、記念写真なんかでも仕方なく写ることが多くなかったか。自分で写真を撮るときは、風景の写真を撮るのが第一で、自分の写真を撮ろうなんて考えたこともなかった。カメラの性能の面で難しかったというのもあるのかもしれないが、需要があればその手のことを可能にする製品なり、補助具が開発されていたはずだから、当時は本気で自分で自分を撮影使用なんて人はいなかったのだろう。冗談でやって変な写真を撮ったことのある人は多いだろうけど。
ついつい見入ってしまうツール・ド・フランスの中継でも、沿道のファンの中に普通のカメラならまだしも、スマホを体の前に構えている人が一定数いるのに気づく。隣の人の構えた腕が邪魔にならないように前に出すぎて、選手の邪魔になっている場面も一度や二度ではなかった。こういうのを見ると技術が発展して便利になったのがよかったのかどうか懐疑的になってしまう。
それに、無駄にバイクに乗ったカメラマンが多すぎて選手たちの邪魔になっているのも気になる。数年前にバイクが自転車に乗った選手を跳ね飛ばすという事件があって以来、バイクの動きが多少大人しくなったような印象はあったが、今年は選手の自転車ぎりぎりをすり抜けて追い抜いたり、バイクがたまって通行の邪魔になっていたりする場面が目立つ。レースの、選手たちの邪魔をしてまで撮る甲斐のある写真が一体どのくらいあるのだろうか。
自分で自分の写真を撮って悦に入るぐらいなら、写真を撮られたら魂を抜かれると考える田舎者でいいや。
7月17日18時。
前半はわりと楽に書けたのだけど、着地点を見失ってしまった。ユーチューバーになりたいって子供が山ほどいるなんて話も聞くから、仕方ないのかね。7月17日追記。
コンタックスを選んだ理由のひとつはこのマンガかも知れない。
2016年07月10日
いじめられるチェコ(七月七日)
フランスで行われているサッカーのヨーロッパ選手権も日曜日の決勝を残すだけとなったが、大会序盤で大きな話題の一つになったのは、会場の芝の状態の悪さだった。実は、これもチェコ人にとっては腹立ちの原因となっている。
芝の状態が悪くて踏ん張りがきかず、こけてしまう選手が続出していたからチェコ代表が負けたとか、ロシツキーが怪我をしたとか言いたいわけではない。フランスだからあんな芝の状態でも、大会を行うことを認められたのだと、ヨーロッパのサッカー協会の連中もろくにチェックしなかったに違いないと言いたいのだ。これがチェコでの開催だったら事前に、重箱の隅をつつくようなチェックを受けて、いい加減にしろと言いたくなるような修正要求を受けていたはずである。
被害妄想、いやいや、そんなことはない。実例があるのだから。昨年チェコでU21のヨーロッパ選手権が行われた。会場となったのはプラハの二つのスタジアムと、モラビアのオロモウツとウヘルスケー・フラディシュテのスタジアムだった。このうち、ウケルスケー・フラディシュテのスタジアムの芝の状態にクレームが付けられ、リーグ戦の最中であったにもかかわらず、芝の張替えを余儀なくされたのだ。
チェコのサッカースタジアムの芝の状態は、二千年代の初頭は、特に冬の芝が育ちにくい時期にはひどいものだった。ゴール前の芝が剥げて砂が投入されて、ビーチサッカーかと言いたくなるような状態でも試合が行われていた。当時はまだ雪の多い冬が多かったので、雪が積もった後の試合は特にひどかった。
それが何度かの協会主導のプロジェクトを経てスタジアムの改修が進み(強制されたというほうが正しいか)、現在では照明設備も芝の融雪設備も整い、収容人数を除けば、どこに出しても恥ずかしくないレベルのスタジアムばかりである。逆に言えば一部リーグに参戦する条件として、スタジアムの整備が課されているため、一部昇格を目指すチームはスタジアムを事前に改修するか、改修することを約束した上で、改修が済むまでよそのチームの本拠地に間借りすることになる。
だから、ウヘルスケー・フラディシュテのスタジアムの芝の状態もそんなにひどいものではなかったのだ。このスタジアムを本拠地とするスロバーツコの試合を見ても特に問題があるようには見えなかったし、少なくとも今回フランスで会場となれたいくつかのスタジアムよりは明らかにましだった。それなのに、チェックに来たUEFAの人間によって芝の状態に不備があることにされ、シーズン中にもかかわらず、芝の張替えを要求されたのだ。その結果、スロバーツコは芝の張替えの期間、よそでの試合を強要された。
これがフランスでもUEFAの人間が入念にチェックをして芝の張替えを命じたという話だったら納得できるのだけど、実際はチェックが入ったのかどうかすらわからないという状態で、テレビ中継のときに解説者が不満をぶちまけていた。
以前、アイスホッケーでも似たようなことがあった。チェコで世界選手権が行われたときに、世界アイスホッケー協会の連中が、スタジアムの確認に来たときに、本当にどうでもいいような細かいところにまでクレームを付けた上で、無事に大会が開催できるのかどうか不安だとか無駄な心配を表明するなど、大会が始まるまではチェコ側の運営能力を疑う発言を繰り返していた。その後、運営の面では何の問題もなく大会は終了し、関係者は途中から手のひらを反す発言をし始めるのだが、うっぷんの原因はそこにはない。
翌年だったか、翌々年だったかに今度はオーストリアで世界選手権が開催された。このときも事前にスタジアムのチェックが行われたはずだが、問題がありそうだというコメントはどこからも聞こえてこなかった。それなのに、実際に大会が始まると、ゴール前の氷が解けて水たまりができるなど、会場となったスタジアムに問題が続出し、お前ら事前にチェックをしたんじゃないのかと言いたくなってしまった。チェコのときにはあれだけ細かくクレームをつけてきたのに、オーストリアの場合には、すべて放置されていたのだから、信じられない話だし文句の一つも言いたくなる。
アイスホッケーという競技に関しては、チェコは世界のトップの一つで、オーストリアはその他大多数の国の一つである。だからチェコでの開催には信頼を寄せて、オーストリアでの開催に不安を感じるというのならよくわかるのだが、実際には完全に逆になっているのである。(この一文7月11日追加)
ただチェコだからという理由で疑念をもたれ、必要以上のチェックを受け、フランスだからオーストリアだからという理由で、根拠のない信頼を寄せられる。この手の差別もしくは偏見というものは、本人は差別だと意識しない上に、時に善意の形を取って現れるだけにたちが悪い。これは、ヨーロッパ人だからというわけではなく、日本人でも知らず知らずのうちにやらかしてしまうものなので、批判の言葉であると同時に自戒の言葉でもある。
7月9日14時30分。
2016年07月02日
クレジットカードじゃないの?(六月廿九日)
ジャパンナレッジに入るかどうか悩んでいたのだが、あれこれ考えてやはり入ろう決めた。入会手続きを始めたら、支払のところでつまづいてしまった。クレジットカードでしか会費を払えないようになっているのだ。
日本を出てくるときに銀行の人に、外国では身分証明の代わりにも使えるとかで、作ることを勧められたのだが、いらないと答えてしまった。クレジットカードで買い物をすることにいいイメージを持っていなかったし、銀行の口座残高を超えてまで買い物をする危険は冒したくなかったというのがその理由である。正直に言えば、現金がなくても買い物ができるという便利さが、浪費につながるような気がして、現金払いでさえ、本などついつい本当に必要ではないものまで購入してしまうことが多い自分のことを考えると、自制できる自信はなかったのだ。
もっとも、学生時代には、学生専用のキャッシュカードにクレジット機能がついているのを持っていたのに、たったの一度しか使わなかったことを考えると、乱用するかもというのは杞憂でしかなかったのだろうが、初めての海外での長期滞在、危険はできるだけ排除しておきたかった。そして、こちらに来て数年、電子書籍の存在を知ってクレジットカードがあれば買えることがわかったときに、杞憂が杞憂ではなかったことを知った。ウェブマネーのようなややこしい手続きのいらないクレジットカードを持っていたら、実際の購入したものの何倍、いや何十倍もの本を購入して、銀行口座の残高を大きく減らしていたに違いない。
チェコのビザを新規で申請するときと同じように、延長の申請をするときにも銀行の残高証明を求められる。日本の銀行に英語で書類を出してもらって翻訳を法廷通訳の資格を持つ人にお願いするのは手間なので、チェコの銀行に口座を開くことにした。そしたら、キャッシュカードにVISAのマークがついていた。クレジットカードだと思っていたのだ。今日までは。
チェコで発行されたクレジットカードでは、日本の電子書籍販売店では使用することはできなかったし、パピレスで国外発行のクレジットカードでも購入可能だということを知ったときには、新しいコンピューターを購入したせいで、すでにモニター上で日本の電子書籍を読む魅力はほとんどなくなっていたので、クレジットカード=浪費の罠に陥ることはなかった。
だから、ジャパンナレッジの年会費を支払うのが、チェコで作ったクレジットカードの使い初めということになる。慎重に必要事項を記入して支払いのボタンを押したのだが、無情にもこのカードは使えませんという宣告が画面に浮かんだ。これが今月半ば、二週間ほど前のことである。原因として真っ先に思いついたのが、カードの有効期限が2016年6月、つまり今月になっていたことだ。
そういえば、銀行から新しいカードの発行が済んだから発送するという連絡を受けていたのだ。それで、新しいカードを受け取ってから再度挑戦することにして、このときカードが使えなかった原因については、深くは考えなかった。カードが届いてからも、一回お店かATMで使わないと、有効にならないということだったので、忙しさにかまけて後回しにしてしまい、本日ようやく再挑戦という次第である。
再挑戦に当たって、ジャパンナレッジの前に、パピレスでポイントを購入してみることにした。ここで買うことができれば、ジャパンナレッジでうまくいかなかったのは、カードの有効期限が原因だという仮説の蓋然性が高まる。絶対に行けると思っていたのだよ。だから試すことにしたのに。
パピレスでポイントの購入の手続きをして、カードの情報を入れて支払いのボタンを押したら、チェコの銀行のマークのついたページが出てきたので、これは成功するだろうと思ったのだ。それなのに、しばらくして出てきたメッセージは、このカードは使えませんだった。
ここで初めて、カードをしっかり見たのだが、VISAのマークの下に書かれていたのは、「Debit」だった。そういえばニュースでデビットカードがどうしたとかこうしたとか言っていたのを思い出して、あれこれ調べてみたら、クレジットカードとは別物らしい。機能としては、口座にある以上の金額の買い物はできないらしいから、こちらのほうが利用者にやさしいと思うのだけど、日本ではデビットカードはクレジットカードほど普及していないという。ということは、海外発行のクレジットカードで支払えると書いてあっても、デビットカードでは支払いはできないということだろうか。
とりあえず、七月になったら、新しいカードでジャパンナレッジの年会費の支払いを試してみようと思う。ダメだったら、どうしよう。あきらめてクレジットカードを作りに銀行に行くしかないのか。いや、その前に、ジャパンナレッジ関係で仕事をしたことがあると言っていた友人に泣きついてみよう。
6月30日15時30分。
2016年06月29日
イギリス、EU脱退(六月廿六日)
ついに来るべきものが来た、起こるべきことが起こったというのが正直な感想である。現在のEUという組織の運営を見ていると、遅かれ早かれ、中心から疎外されているどこかの国が脱退することになるのは、予想されることであった。その最初の脱退国がイギリスであることは、EUにとっては幸いなことである。イギリスでの国民投票の結果を突き付けられて初めて、EUが、EUの中心国家であるドイツとフランスが、改革の必要性を口にするようになったのだから。これが、チェコやハンガリーのような数合わせとしてしか考えられていない国だったら、EUが改革に向けて舵を切るようなことにはならなかっただろう。
今回のイギリスの脱退の原因は、一言で言えば、EUが、ドイツとフランスが、他の加盟国の意見を聞かず、他の加盟国の置かれた状況に全く配慮せず、EU的正義に基づいた法律や、ルールの導入を強要してくることにある。そのくせドイツやフランスには様々な例外が認められている(少なくともそう思われている)。それにうんざりしていたのは何もイギリスだけではない。そのために新しい加盟国、特に旧共産圏の諸国では、どこでも反EU的な風潮を押さえるのに苦労している。今のところは反EUを主導しているのが極右の過激派なので、そちらに対する嫌悪感から、反EUの声はそれほど高まっていないが、何かをきっかけにして社会の空気が一気に反EUに向かう可能性は高い。
それが、イギリスでの騒動のおかげで、ヨーロッパ基準というものの導入を、これまでの強制から、各国の事情に応じて弾力的に行える方向に変えようということで、EU主要国家の意見がまとまりつつあるようである。これが実現されれば、しばらくは反EUを抑えて、EUの中で改革を訴えようという考えが主流になるだろうから、親EU派は一安心というところだろう。
ただ、理解できないのは、このEUの方針の変更は、これまでもイギリスや弱小諸国が何度も訴えてきたことなのに、ここまで無視されてきたことである。そして、イギリス脱退に、ドイツ、フランスが危機感を感じた瞬間に、取り上げられるのだからふざけた話である。
ちょっとカッコつけた言い方をすれば、本来主権を持つ国家が集まってEUという連合体を形成していたはずなのに、いつの間にかEUの主権のもとにそれぞれの国家が存在するという方向に向かい始めたのが問題なのだ。だから、かつての大英帝国の末裔が耐えられなかったのは当然だし、他国の主権のもとに存在するのに慣れているスコットランドや北アイルランドで、EU残留の票が多かったのも当然なのだろう。
今回のEUの危機を受けて、一つのヨーロッパとか、統一されたヨーロッパなんて言説がしばしば聞かれるが、そんなもん嘘である。嘘でなければ「チェコスロバキア人」並みの幻影である。地理的にヨーロッパが一つなのは、イギリスがEUから脱退しようがしまいが変わらない。そしてEU=ヨーロッパだと、傲慢にも言うのなら、EUの内部は一つではなく、いくつかのグループに分かれている。
イギリスの国民投票の結果への対応が、図らずも露呈させてしまったが、まずEUの意思決定に決定的にかかわっているのがドイツとフランスである。EC時代の初期加盟国が二つ目のグーループを作る。さらに元西側で遅れて加盟した諸国と、旧共産圏諸国がそれぞれ、第三、第四のグループとなって、EU内での扱いには大きな差別がある。イギリスの場合には、ドイツと、フランスに並ぶ大国でありながら、第三グループにいるという微妙な立場に置かれていたのである。
こんな状況で、ドイツやフランスの政治家が、EUは一つだとか、加盟国は平等だとか言うのであれば、それは大きな嘘であり、チェコなどの国の政治家が言う場合には、それは願望であって理想だということになる。政治家には嘘つきの能力も必要なのだろうけど。
そして、政治的に統一されたヨーロッパというものは、これまで存在しなかったし、現在も存在しない。イギリスの誰かが言っていたように、ヨーロッパ統一というのはナポレオンの夢であり、ヒトラーの妄想でもあった。そう考えると、現在の覇権を求めるEUを主導するのがフランスとドイツであり、その構想がウクライナ、ロシアに手を出したことで頓挫に向かい、イギリスによって止めを刺されたという事実は、なかなかに象徴的である。
これをきっかけに、EUが各国の多様性を尊重した連合体というかつての姿を取り戻してくれることを願ってやまない。そうなれば、チェコなどの弱小国家もEU内で呼吸しやすくなるし、イギリスも国民投票まで行って脱退を可決した甲斐があるというものだ。
日本のネット上でも、チェコのテレビでも、イギリスの脱退によってどんな問題が発生しうるかについての議論がやかましいが、典型的なためにする議論である。即時にイギリスがEUから脱退するわけでもないし、脱退したからといって、EU諸国とイギリスとの関係が急速に変わるとも思えない。
両者が理性を持って脱退後の条件について話し合いを行えば、大部分、特に経済的な面に関してはほぼ現状維持ということになるはずだ。EU諸国にとってイギリスが、イギリスにとってEU諸国が、重要な貿易相手であるという点では、脱退しようがしまいが変わらないのだし、現在の関係が両者にとって都合のいいものであれば特に変える必要もない。ただ、EU側が、加盟国の大半の意向を無視して、脱退したイギリスに対する報復の意味で、厳しい条件を課しかねないという不安はあるが、そんな組織だったらとっとと崩壊したほうがましというものだ。
おそらく、現在から大きく変わるのは、これまでEUに追随することを強制されてきた移民政策や、ヨーロッパからの労働力の受け入れという部分だろうが、これも現在イギリスで仕事えて働いて生活の基盤を築いている人を、EUを脱退したからという理由で追放するようなことはするまい。新たにイギリスに行って仕事を得るのは難しくなりそうだが、そこは脱退の直接の原因の一つとなった部分だけに、イギリスとしても譲れないところだろう。
結局、イギリスの脱退可決は、EUという組織そのものには大きな衝撃で、加盟各国の政府にとっても大きなショックだっただろうが、一般の市民にはそれほど大きな影響はないはずだ。むしろ、EUの強権的な態度が改まる可能性があるのだから、いい結果をもたらす可能性も高い。現在のマスコミの論調は、イギリスの決定を批判する風潮を作り出したがっているEU側か、経済的な混乱を引き起こして、そのどさくさにぼろ儲けをしようとたくらんでいる連中の差し金であるに違いない。
6月28日0時30分。
2016年06月11日
オーストリア大統領選挙(六月八日)
すでに旧聞に属してしまうが、先日チェコの隣国オーストリアで大統領選挙が行われた。第一回投票へ向けての選挙活動は特に注目されておらず報道もされていなかったので、誰がどんな主張をしていたのかなんてことはまったく知らない。ただ、決選投票に進みそうなのが、緑の党関係者と、極右政党の関係者だということを聞いて、ヨーロッパの状況もここまで深刻化したかと嘆息するしかなかった。今回はオーストリアではあるが、大なり小なり外の国でも同じような状況に近づきつつあるはずである。
議会制民主主義を標榜する国の例に漏れず、チェコにもさまざまな政党や政治団体が存在する。極右から極左まで幅広い主義主張が存在して、それぞれの立場から議論が行われるのは、主義主張の正当性はともかくとして、悪いことではない。ただ、他者の意見を聞かない、自分の考えだけが正しいと何の根拠もなく主張するような連中が存在すると、議論にならなくなる。
独善的で議論にならないと言う点での双璧が、緑の党と極右である。この二つが、国会に議席を持っていないという点だけでも、特別な法律のおかげかもしれないが、チェコの社会はドイツやオーストリアなどよりもはるかに健全である。
この二人の中からひとりを選ばなければならないオーストリア人も大変だなと思いながら、ニュースを眺めていたら、決選投票に進めなかった候補者の属する政党が、次々に緑の党の候補者に投票するように支持者に指示を出し始めた。一説によると政府与党の影響力の強い国営放送までもが、情報操作の形でその動きに協力したらしい。選挙の際の主義主張はとりあえずうっちゃっておいて、極右の大統領が誕生するのだけは防ごうということになったようだ。
この手の選挙協力というものは、どうも好きになれない。普段はお互いに批判し合っている政党が、議席を確保するためだけに、手を結び、選挙が終わったらまたののしりあいを始める。政策や主義、主張について話し合って、合意に達した上でと言うのなら話は別だが、いや、合意に達していても選挙後に手のひらを返すから、同じことか。
それに、自党で候補者を立てられない場合に、支持者に、主義主張が同じわけでもない他党の候補者に投票するように指示するのにも納得がいかない。ここは有権者個々の判断に任せるべきであろう。それなのに他の政党と談合して、ここではうちが協力するから、あっちではそっちが協力してくれなどという合意を結んで、支持者を使った取引をするのは、支持者というものを、自らの勢力を拡大するための道具としてしか見ていないように感じられる。結局、政治家にとって、有権者というものは、個々の人間の集合体などではなく、数に過ぎないということなのだろう。
だから、こういうのを見ていると、EU型の民主主義というのは、議論がどうこう言う以前に数の暴力なのだと思わされる。それにEUがチェコなどに、移民の強制受け入れを拒否するならさまざまな助成金をカットし、受け入れるならその分金を出すといっているのを考え合わせると、経済力の暴力でもある。票なんて、合法非合法はともかく、金で買えるわけだし、実際に選挙をめぐる汚職というものは後を絶たないのだから。
結局オーストリアの大統領選挙は、即日開票の分では決着がつかず、郵送で投票が行われた分を合わせて、緑の党が勝利した。ただ、即日開票の分では極右が勝っていたのに、郵送の分で逆転が起こったので、極右側が郵送分の開票の際に恣意的な操作が行われたと言い出すだろうと思っていたら、案の定だった。実際のところどうだったのかはともかく、極右以外の政治勢力がなりふり構わず極右の大統領選出阻止に動いた結果、疑われる余地を残してしまったのは確かである。
オーストリアの政局についてはくわしいわけではないが、おそらく、このような主義主張をそっちのけにした数取りゲームに走ってしまった既存政党に対する失望、いや絶望が緑の党と極右の台頭を促したのだろう。緑の党や極右勢力の台頭には、必ず原因があるはずであり、政治家が何を言おうと、それは社会に問題がある証拠である。その問題がある状態を、この二党が大統領選挙の決選投票に進出するところまで放置したのだから、オーストリアの政治家の怠慢もたいがいなものである。この二つの勢力の台頭は、あくまで結果であって、社会不安の原因ではないのだから。
チェコでは、幸いなことに、緑の党は国会で議席を失い、極右勢力も国会に議席を有していない。ただ、これは全国で5パーセント以上の得票がないと、ある選挙区でどんなにたくさんの得票があっても、議席を獲得できないという下院選挙の特別ルールのおかげもあるので、このままの状態が続くと、ある日突然、極右勢力が5パーセントの壁を越えて、一気に大量の議席を獲得して、かつての緑の党のように、連立与党になってしまうかもしれない。そんな日の来ないことを祈りつつ筆をおく。
6月10日21時30分。
何か妙に歯切れが悪いなあ。キリスト教も嫌い、緑の党も嫌い。両者の信者の少ないチェコは住みやすいのである。6月10日追記。
2016年06月06日
宗教嫌い(六月三日)
チェコテレビのニュースによると、ロシアの一部でスターリンを崇拝するグループが支持を増やしているらしい。確かに強いソ連を象徴した人物かもしれないが、実はロシア人ではなくグルジア人である。だから、ロシア人たちに互して共産党内で出世し、ロシア人(だけじゃないけど)を殺しまくったスターリンがグルジアで崇拝されているのなら、理解できる気はする。レーニンなら意外でも何でもないのだけど、ロシアでスターリンというのは意外だった。
でも、旧ソ連の時代にロシア人以外で権力を握って、ロシアやロシア人に不利な決定を下した人物は、スターリンだけではない。西側では緊張緩和の立役者として評価も高いウクライナ出身のフルシチョフがいる。フルシチョフは、スターリンの死後権力を握ると、ロシアの領土を削ってウクライナに与えた。単に故郷にいい顔をしたかったのか、政治的な理由があったのかはわからないが、住民にとってはロシアであれ、ウクライナであれ、ソ連であることには変わりないのだから、特に大きな変化はなかったのだろう。
当時ウクライナに帰属が変更された地域が、ロシアが占領して国際世論を敵に回したクリミア半島と、親ロシア派の組織が占拠して内戦を起こしているロシア人居住地域である。だから、この問題を攻め込んだロシア(公式には否定しているけど)が悪いなんて解説で済ませてしまうのは、まったく意味がない。そんな批判はロシアには痛くも痒くもないだろうし、悪いことをしているという意識はなく、ウクライナに預けておいたものを返してもらうんだぐらいの意識しかないんじゃなかろうか。EUがウクライナにちょっかい出すまでは、直接の武力行使はしなかったわけだし。
スターリン崇拝の話を聞いて、ちょっと考えてしまった。何とかの自由、かんとかの自由で、自由にうるさいヨーロッパだけど、ヒトラーの著作の出版を禁止しているドイツと、スターリン崇拝が放置されるロシアとどちらが自由の名にふさわしいのだろう。もちろん、ドイツにはドイツの事情があってのことであることは重々承知しているし、仕方のない処置だというのはわかった上で、他国の事情も省みずEU的民主化というものを押し付けようとする傲慢さをみると、こんなことを考えずにはいられなくなる。
他国の事情を無視して自分たちの考えを押し付けていくという意味では、EUの民主主義というのは、宗教に似ている。そうすると、イスラム世界の人々にとっては、EU的民主主義はキリスト教が形を変えたものに見えるのかもしれない。ならば、イスラム国はイスラム教徒にとっての十字軍というところか。そして、周辺のイスラム諸国は、十字軍に巻き込まれて多大なる迷惑を被ったビザンチン帝国になるわけだ。イスラム風にジハードなどと言われても、いまいちイメージがわかないが、こうたとえてみると、状況がわかりやすくなったような気がする。
これでわかりやすくなるということは、日本の学校の世界史教育もヨーロッパ的価値観で記述されていることの証明になるのだろう。最初は、日本的に一向一揆にたとえようと考えたのだけど、周辺のイスラム国家に対応させるものが思い浮かばなかった。当時は他の仏教の宗派も武装して好き勝手やってたから、一向宗が特にひどかっただけで、目くそ鼻くその違いでしかないし、被害者と言うのはおこがましすぎる。
ところで、十字軍という評価を褒め言葉として感じた人がいたとしたら、ヨーロッパ的、キリスト教的価値観に毒されている証拠である。ヨーロッパ的な価値観の中では浪漫あふれるものとして記述されることもある十字軍は、実際には人類史上最大の蛮行の一つで、これに比べたら現在のイスラム国など可愛いものだと言っても過言ではない。時代が時代だったから仕方がないと言う言い訳は通用しない。同時代のイスラム側の指導者たちと比べて出さえ、キリスト教側の君主たちの行動の残虐さは目にあまるのだから。異教徒との約束は守る必要などないし、異教徒は殺してしまうべきだという十字軍、つまりはキリスト教の思想はその後も、ヨーロッパ人たちの異民族に対する態度であり続ける。
ヨーロッパとしては、十字軍のおかげで、先進のイスラム世界からさまざまなものを略奪し、それがその後の発展につながったのから肯定的に評価したくなるのだろうが、最先進の地域であったイスラム社会の発展を阻害し、混乱に陥れたという意味では、人類史に於ける犯罪である。そして、その後もキリスト教関係者が、世界中で現地の人々を殺し、奴隷にし、文化を破壊し続けたことを考え合わせると、イスラム教よりもキリスト教のほうが、はるかに危険な宗教であると言わざるを得ない。
現在のキリスト教関係者は、時にすべての宗教は平等でなどという立派なことを言うことがあるが、それは建前で、実際は、キリスト教以外の宗教は、キリスト教徒違って間違っているという点で平等だなどと考えているに違いない。そもそも他の宗教についても詳しいキリスト教関係者なんて稀有な存在であろう。
だから、イスラム教は危険だと叫ぶヨーロッパ人よ、恥を知れ。まず、キリスト教を、その後イスラム教を解体するというのが、平和な世界を実現するための正しい手順なのだ。
そう考えると、宗教を禁止しようとした点では、共産主義というのは正しかったのかもしれない。しかし、キリスト教会を秘密警察の手先として活用したことと、共産主義自体が宗教的な存在になってしまうことで、宗教禁止の構想は無意味なものになってしまった。
宗教嫌いとは言っても、神社やお寺、教会やモスクなどに、信者がお参りや、お祈りに出かけることまで批判する気はない。むしろその手の素朴な信仰心の発露には共感さえ覚える。許せないのは、その信仰心を悪用し、自らの権力や財産の拡大に悪用する連中である。残念ながら、長い人類の歴史の中でこの手の連中が欠けたことはない。
願わくは、腐敗し果てし宗教なるものの不要なる世界の訪れんことを。
6月5日14時。
6月5日14時。
誤植の確認のために、この日の記事を表示させて絶句。あまりの間違いの多さと、いい加減な書きぶりに、これではいけないと、かなり修正を加えた。先週の木曜日からの忙しさで、押せ押せで時間的な余裕がなかったのと、疲れで頭が働かなかったのが原因である。しかし、目標は疲れていても時間がなくてもそれなりのものを書くことなのだから、それを言い訳にしてはいけない。だから今後も書くのみである。6月6日修正後追記。