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2016年11月25日

大統領選挙雑感(十一月廿二日)



 政治システムの外側から登場した候補者が、現在の政治を信じることができない、既存の政治家や、政党に絶望した人たちの受け皿となり、予想外の支持を集めて、前任者の指名した後継候補を破って当選したという点で、今回のアメリカ大統領選挙は、1990年代半ばの東京都知事選挙に重なる。あのときは、参議院議員の経験はあったとはいえ、プロの政治家とはいえなかった青島幸男が、前知事が指名しいくつもの政党が相乗りで推薦した候補を破って当選したのだった。
 都庁に長年に亘って君臨し、やりたい放題だった前知事と、都議会議員、都の役人たちに対する反感は非常に強く、政党臭を感じさせない候補として青島幸男氏が選ばれたようなところがあった。腐り果てた都政をぶち壊しにしてくれるという期待があった。青島氏が政治的に無能であったとしても、無能さであれこれ引っ掻き回せば、あちこちにほころびが出て、少しは風通しがよくなるだろうと……。

 結局、青島氏は、たしか都市博とかいう前知事が引退の花道に用意した巨大イベントは中止したものの、それ以外では議会や、役人たちに取り込まれてしまって、都民が青島氏を知事に選んでよかったと思えるようなことはほとんどなかったはずだ。当初高かった支持率は低下していき、再選を目指す選挙には出馬しなかった。期待が大きかった分だけ、裏切られたたという気持ちも大きくなってしまったのだろう。
 同じような当選のしかたをした90年代の大阪府知事の横山ノック氏については、大阪に住んでいなかったこともあって、どんな府政の運営をしたのかとか、どんな辞め方をしたのかなんて全く印象に残っていない。青島氏の場合には、東京都民ではなかったけれども東京都内の大学に通い、都内で仕事をしていたため、情報が入ってきやすかったのだ。

 さて、そうなると、大統領に当選したトランプ氏の課題は、公約をどこまで実現して、ちょっと大げさに言うと政治に対する絶望の果てにトランプ氏に希望を見出した人たちの期待にどこまで応えられるかにある。当選後、選挙期間中の過激な発言はやめ、比較的穏当な発言をしているようだけれども、あまりに既存の政治家たち、政治的な正しさというものに気を使っていると、支持者離れが起こりかねない。
 そして、トランプ氏に投票した人たちの中には、今回期待を裏切られたら、二度と投票なんかしないという人たちもいそうだ。そうなるとこれが、アメリカの政治を変える最後の機会になる。最後ではなくても、今後数十年はこんな機会は出てこないのではないだろうか。だから、不満はありつつも現状維持を支持していた人たちも、トランプ氏に期待を寄せ始めた結果が、現時点では予想外の支持率の高さということになりそうだ。こういうのは、落ちるのも早いから、トランプ氏のお手並み拝見といこう。

 翻って熱心な支持者はいるものの、支持率を落としているチェコの大統領ゼマン氏の今後も気になる。本人や周囲は次の大統領選挙にも出馬して再選する意欲満々のようだが、もううんざりだと考えているチェコ人も多い。
 チェコでも既存政党や、現在の政治への不満は大きく、選挙のたびにその不満の受け皿となるような新しい政党が登場して票を集めて議席を獲得してきた。その最初が緑の党である。緑の党が選挙後与党として大臣などを輩出し能力のなさを露呈して支持を失うと、VV党(公共の福祉党?)が次の選挙で躍進を遂げた。VV党が、旧態政党の権化である市民民主党が仕込んでおいた(とVV党の党首は主張していた)スパイによって崩壊を遂げると、現財務大臣のバビシュ氏率いるANOが台頭した。
 以前のポッと出政党の失敗を見てきたおかげか、現時点ではANOに崩壊の兆しも、支持を失う兆しも見えない。既存の政党はポリュリズムの権化だとして批判しているが、既存政党がだらしなく、支持を集められないから、既存政党を見放した層がANOに向かっているだけだということを理解したくないのだろう。ANOが支持を集めている理由の一つには、全員ではないが自党の大臣として国会議員でも党員でもない本物の専門家を就任させていることにある。政権与党でありながら政治家を拒否しているのである。

 この既存の政治家を忌避する現在の傾向から考えると、チェコでもクラウス氏、ゼマン氏のような政治の世界にどっぷりつかった職業政治家の大統領の時代は終わり、次回の大統領選挙では、アメリカのトランプ氏のような政治経験のない大統領が、ハベル大統領以来久しぶりに誕生するのではないかと期待してしまう。
 問題は、政治家以外に範囲を広げても、チェコ人の多くが納得するような候補者が存在しないことである。反共産主義の闘争のシンボルだったハベル大統領のような人がいればいいのだろうけれども、そんな人物は存在しない。財務大臣のバビシュ氏が立候補したら、アンチは非常に多いけれども、当選に一番近いんじゃないかと思ってしまうような、ある意味絶望的な状況なのである。

 次回の大統領選挙まで一年ちょっと、ゼマン氏に勝てるような非政治家の候補者が登場することと、どんなに間違っても自称日系人政治家のオカムラ氏が当選することのないことを強く祈念して終わりにする。
11月23日12時。


 ここまで書いた後、アンチの多すぎるバビシュ氏より防衛大臣のストロプニツキー氏のほうが、大統領の椅子に近いような気がしてきた。11月24日追記。
posted by olomoučan at 08:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2016年11月23日

政教分離(十一月廿日)



 ヨーロッパに来て思うのは(いや、チェコが典型的なヨーロッパかと言われると何ともいえないところはあるのだけど、少なくともEUの規準の範囲ないであれこれやっているはずだから、ヨーロッパと言ってもいいだろう)、日本の政教分離というものは、非常に厳密なものであったということだ。いや、正確には厳密さを求めてうるさい人が多かったということか。

 日本にいるときにも聞いたことはあったはずだが、チェコやドイツの政党名が気になった。もちろん、キリスト教民主同盟のことである。宗教団体の政治活動は、政党分離の原則でも禁止されているわけではなく、日本にも宗教政党と言える政党はある。しかし、日本では教団名をそのまま政党名に使用することは、政教分離の原則から禁止されているのではなかったか。だから創価学会は、公明党、オウム真理教は、真理党、そして最近の幸福の科学は、幸福実現党などと、教団名とは違う党名を使用することを求めらたのである。
 それが、ヨーロッパではのうのうと一宗教の名称であるキリスト教がそのまま政党名に使用されているのには、日本的な政教分離の考え方に慣れた目には違和感というか、これでいいのかという気持ちを抑えることはできなかった。現実にはKDUなどと略称で表記されることが多いとは言っても、ニュースなどではキリスト教的民主主義者などとキリスト教がそのまま使われている。日本の政教分離にうるさい人たちの話を聞いていると、このキリスト教民主同盟も政教分離の原則に反していると思うのだが、この点について批判した例は寡聞にして知らない。

 それから、昭和天皇の崩御の際に、葬儀を、具体的には大葬の礼というものを国葬として行なうのは政教分離の原則に違反するという批判があった。その結果、神道に基づいた皇室の私的行事の部分と、公的な国事行為の部分とに二分するというおこの沙汰としか言いようのない案が出てきたのだが、それでも首相を初めとする国家公務員が神道儀式に出席したといって批判する人たちがいた。
 チェコでは、ビロード革命後の最初のチェコスロバキア大統領にして、初代のチェコ大統領バーツラフ・ハベル氏が亡くなったとき、その功績を讃えて、国葬として葬儀が執り行われた。その葬儀は、大統領官邸ともなっているプラハ城内の聖ビート教会で行なわれた。もちろん、プラハの大司教などキリスト教関係者も登場していた。
 実際の葬儀がどこまでキリスト教の儀礼に基づいたものなのかは、正直わからないが、日本の天皇の場合に、神道儀礼によって葬儀が行なわれたのと軌を一にすると考えていいはずだ。しかし、当然のことながら教会で国葬が行われることを批判する人などいなかったし、そもそも問題だと感じた人もいなかったのではなかろうか。日本で昭和天皇の葬儀に異を唱えた人たちが、この事実に対してどんな反応を示すのか聞いてみたいところである。

 また、公共の建物の工事を始める際に、工事の安全を祈って行われる地鎮祭が、自治体の公金を使って宗教行事を行なうのは何事だと批判されることがある。裁判にまでなっているようだけれども、チェコでは、おそらく他のヨーロッパ諸国でも、自治体の公金でクリスマスツリーが街の中心となる場所に設置される。オロモウツでも、毎年近隣の森から適当なものを選んで切り出して、これも市が主催のクリスマスマーケットのシンボルとして設置し、飾り付けをした上で、聖ミクラーシュの日に点灯の儀式を行なう。
 これをキリスト教の儀式に公金をつぎ込んでなどと野暮なことを言う人はいないし、そもそもキリスト教と関係があると考えている人もいないのだろう。それは、日本の工事安全を願う地鎮祭が、近所の神社の神主さんを呼んで来てやってもらうものだとしても、神道の儀式だと考える人がほとんどいないのと同様である。
 神道的なものの痕跡をあげつらって、地鎮祭を批判するのであれば、キリスト教的なものの痕跡から、クリスマスをも批判するべきなのだ。日本だってクリスマスにかこつけて自治体がイベントを行なったり、建物のライトアップをしたりするところは少なくないはずだ。しかし、そんなイベントが政教分離の観点から批判されたという話は聞いたことがない。

 問題は、日本人の多くは生活に根ざした神道を宗教とみなさないことによって政教分離をないがしろにしていると主張している日本の政教分離にうるさい人たちが、キリスト教に起源を持つ商業化した儀式、イベントを宗教と関係があるとみなさない点にある。
 最近目にしたある本には、公共の電波であるテレビのニュースで神社のお祭を取り上げるのもよくないと書かれていた。そんなところまでぎちぎちに政教分離という原則で縛ってしまったら、生きづらい社会になるに違いない。そんな本でも、クリスマスのニュースを放送することについては批判されていないのだから、一方的と言うかなんというか。政教分離にうるさい人たちが、声が大きいわりには支持者を増やせない理由はこんなところにあるのだろう。日本にいるときには、どこがとは言えなかったけれども、どことなく胡散くささを感じていたのだ。
 こんなことを書くからと言って、クリスマスの行事を中止にしろとか、政教分離なんかやめてしまえとか過激なことを言うつもりはない。特定の宗教の布教につながらないような儀式であれば、政教分離、政教分離と目くじらを立てる必要はないのではないかと言いたいのだ。これに限らず、ヨーロッパでもチェコに暮らしていると、細かいところにこだわるのがバカらしくなってしまう。日本的な政教分離の目で見るとそんなバカなと言いたくなることがたくさんあるのだ。
11月21日23時。


 一応戯言に入れておく。チェコではキリスト教関係の宗教団体は、国費で運営されている。だから教会の神父さんなんかも、国から給料をもらう国家公務員とみなせるのである。11月22日追記。

posted by olomoučan at 07:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2016年11月17日

アメリカ大統領選挙雑感(十一月十四日)



 この件に関しても、ちょっと自分の考えをまとめておく必要があるので、つらつらと思いつくままに記してみる。
 先ず、今回の選挙の第一印象は、トランプが勝ったというよりクリントンが、いやクリントン支持層が負けたというものだった。そもそも当初は揶揄の対象でしかなかったトランプに接戦に持ち込まれた時点で、クリントン陣営としては負けだったのだ。最初はどうせクリントンだろうとあきらめていたような連中が、トランプに勝ち目があるということでトランプ側に走った、もしくは棄権しないことを選んだというところだろう。

 トランプの存在は1990年代には知っていた。アメリカの、典型的なアメリカの大金持ちで、決して洗練されているとはいえない、まあ下品な成金おやじという印象だった。おそらくそういう下品な成金という役を演じている部分もあったのだろうけど、このおやじが、大統領選挙に出るだなんて想像もしていなかっただけに驚いた。
 もともと下品な親父だっただけに、大統領選挙への出馬を表明した後に、暴言を繰り返したり、過去の暴言が批判されたりしたことも大したダメージにはならなかったのだろう。トランプを支持していた人たちは、最初からそんな人物であることは百も承知で支持していたのだから。むしろ、支持者から見ればささいな失言を、鬼の首を取ったようにヒステリックに非難するクリントンとその支持者、そしてクリントンを大統領にしたがっていたマスコミ連中に対する嫌悪感が広がったはずである。良識派が聞いてあきれるようなヒステリーは、トランプ支持者だけでなく、選挙に取り立てて関心を持たない層にもこの嫌悪感を広げたと見る。

 今回の選挙の前提として、有権者の多くが既存の政治体制、政治家というものが特権階級と化して、世襲されるものになりつつあり、政治が国民全体のためでなく、一部の特権階級を守るためのものになってしまっている、少なくともそのように認識している人が多いという状況を考えなければならない。それはアメリカだけでなく、ヨーロッパでも日本でも同じことで、選挙の投票率は下がり、雨後のたけのこのように新政党が誕生し消えていく。そして、既成政党の側からポピュリズムだと非難される政治家、政党が支持を伸ばす。
 これは、有権者の既存の政党、政治家への絶望を示しており、その絶望の受け皿となれるような、現在の政治に風穴を開けてくれそうな団体、人物が登場した場合には、すぐにかなりの票を集めて政界に大きな勢力を築くことになる。簡単に、有権者は変化を求めていると言えばよかったのか。
 つまり、今回のアメリカの大統領選挙も、誤解を恐れずに極論すれば、女性であるという一点で大統領候補となったクリントンと、既成の政治家ではないという一点で大統領候補に選ばれたトランプの戦いだった。焦点はどちらが、変化をもたらせるかという点にあったはずだ。

 トランプは、相変わらず下品な親父を演じ続けることによって、自らが変わらないことによって、腐敗した政界を変える可能性を見せ付けることに成功した。政治的な正しさ、政治的な配慮の名の下に、耳障りのいいことばかり並べ、実は内容は何もなく、行動も伴わないという政治家の空虚な言葉に飽き飽きしていた人にとって、内容の是非はともかくとして、トランプの言動は、新鮮に、政治家らしからぬものに写ったであろう。
 そう考えると、多くの国会議員から批判されたり、所属の(ということになっている)共和党のボスが支持しないなどと発言したりしたのは、多くのマスコミが主張していたトランプへの逆風などではなく、むしろ追い風だったのだろう。既存の政治システムでは自らの支持基盤であるはずの所属党すら分裂に追い込もうとしていたのだから。もし、共和党のボス議員がトランプ支持の一環としてそんな発言をしたのだとしたら、最高の選挙戦略だったと言えるのだろうけど、実際は違うんだろうなあ。
 後から考えると、トランプには、これ以外にクリントンに勝つ手はなかったのだ。クリントン張りにお行儀のいいトランプなんて気持ち悪いだけだし、それによって支持者が減りはしても、増えることはなさそうだ。だから、クリントンがトランプを批判すればするほど、トランプの非政治性が浮き彫りになり、何かが変わるかもしれないという期待が高まっていく一方で、クリントンが大統領になっても何も変わらないという諦念が生まれたのだろう。

 そもそもオバマが大統領になったのも、オバマであれば政治の世界に大きな変革をもたらしてくれるのではないかという大きな期待があったはずだ。しかし現実には議会に根を張る特権階級の利益保護をもっぱらとする勢力との間で妥協をすることも多く、変革を求める期待には応えきれていなかった。その後に出てきたのがクリントンである。
 クリントンはトランプとは対照的に、変わらないことで、クリントンが大統領になってもアメリカの政治は何も変わらないことを露呈させてしまった。自らを政治に見放されたと感じる底辺の人々にとっては、どんなに政治的に正しい発言をしようが支持のしようがなかったことは想像に難くない。そして、旧来の手法で多額の政治資金を集め選挙運動につぎ込み、有名人たちとの親密な関係を強調することで、自らも特権階級に属し、その特権を手放す気がないことを見せつけてしまった。
 ここに貧しい有権者の味方が成金のトランプであるという、金持ちをうらやむはずの貧困層が大金持ちのトランプを支持するという奇妙な構図が出来上がったわけだ。クリントン陣営がこのことに気づいていれば、選挙戦略を立て直して挽回も可能だったのかもしれないが、クリントン支持のマスコミが、クリントン優位を伝え続けていたこともあって気づくことはなかった。それにトランプとトランプ支持者を見下すような態度が垣間見られたから、選挙戦略を変えたとしても、トランプに傾きかけた人々の流れをせき止めることは、難しかっただろう。

 中途半端ではあるが、ひとまずここでお仕舞い。
11月16日14時。



posted by olomoučan at 07:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2016年11月02日

夏時間の終わり(十月卅日)



 毎年、十月末の週末に、夏時間が終わって通常の時間に戻る。夏時間が始まるのが三月末だから、夏時間の期間が七ヶ月で、通常の時間よりも長いのだから、感覚としては今日から五ヶ月の冬時間が始まったという気がする。チェコ人も中央ヨーロッパ標準時ではなくて、冬時間ということが多い気がするし。
 冬時間が始まるのは、土曜日の深夜、もしくは日曜日の早朝で、午前三時に、時計の針が二時に戻るのである。実際に乗ったことはないのだが、夜行列車の場合には、夏時間で出発し、冬時間で到着するために、午前三時前後に到着した駅で、一時間停車して時間調整をするのだという。電車は停車できるからいいけど、遠距離の飛行機の場合は、早着するということになるのだろうか。早朝到着の便だと空港からのバスや電車を一時間余計に待たなければならないということもありそうだ。日本などのサマータイムのないところからの便だと、この日を境に時刻表自体が変わることになるのかな。

 夏時間が始まるときには、逆に午前二時が、三時になってその一時間が消滅するということになるから、夜の時間が一時間短くなるわけで、日曜一日では慣れきれないので、月曜日も休日にしてほしい。一度、サマータイムが始まった日に、午前十時半からハンドボールの試合をやっているのをテレビの中継で見て、選手たちはつらいだろうと思いながら見ていたのだが、つらかったのは自分自身だったような気もする。次の日早起きするから、早寝しようというのは、なかなか寝付けないことが多くて苦手なのだ。だから冬時間の終わる土曜日の夜に、早寝するなんてこともできない。

 夏時間が終わる土曜日はいつも通りに寝るのだから、日曜日の朝はいつも通りに起きて、時計の針を一時間戻して、いつもより早起きだと言いたいところだけど、最近は、起きる時間が冬時間にしていつも通り、夏時間だと一時間遅れになってしまっている。ということは、夏時間が始まるときに夜が短くなったせいで感じるつらさが、なかなか消えないのに、冬時間が始まるときには、一時間夜が延びた喜びは、いや恩恵は一日で消えてしまうのである。
 しかも、ただでさえ平日よりも一時間長く寝る週末に、さらに一時間長く寝てしまうから、寝すぎで一日中頭がボーっとした状態になってしまう。おまけに昼食後に眠くなったら昼寝できてしまうから、夜の寝つきが悪くなってしまって、次の日も頭が……。
 とここまで書いて、自分が何を書きたかったのかを理解する。言い訳なのだよ、言い訳。本日は何も書けそうにない。その言い訳として冬時間の始まりについてごたごた書いてみたけど、いつも以上に筆が進まず、短くなってしまった。

 今朝起きて、冬時間の利点に一つ気づく。明るい。これまで夜の闇の中で目覚めていたのが、すでに明るくなっている。これも一時的なものだし、その分昼過ぎから暗くなるので、どっちがいいともいえないのだけど、午前中だけは少し幸せな気分になれる。
 冬時間が始まって初めて仕事に行く途中、懐中時計を引っ張り出して時間の確認をしたら、肝が冷えた。一時間遅刻だ。慌てて走り出そうとして、懐中時計は冬時間に直していなかったことを思い出し、ほっと一安心。やはり、夏時間なんてやめてしまおう。それがいい。日本でも導入を検討しているところがあるみたいだけど、時計の針を前後に動かすのはやめたほうがいい。やるなら、夏の間だけ始業時間と就業時間を一時間早めるという形だな。これなら希望する組織、個人だけが採用すればいいから。
10月31日10時。



 ボブ・ディランが、結局ノーベル賞をもらうらしい。ちっ、日和やがってと思った人は少なくあるまい。11月1日追記。

posted by olomoučan at 07:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2016年10月29日

つらつらとブログのことなど(十月廿六日)



 暫定的に使っているノートパソコンのタッチパッドの機能を殺せず、カーソルがぴょんぴょんはねるので書きにくいったらありゃしない。誤植が増えていたら、半分ほど(完全にではない)ブラインドタッチで、画面を見ないで入力しているときに、親指の付け根辺りがタッチパッドにあるかなきかの接触をして、変な操作をしてしまったからに決まっている。気がついたらテキストのぜんぜん違う場所で入力していたなんてのは、心臓によくない。

 それはともかく、八月のアクセス数が800に近づき、それまで一日平均で10ちょっとしかなかったのが、平均で25を超え、どうしたのだろうと思っていたら、九月はさらに数が増えて、四桁に突入してしまった。一日三桁の数字を見て我が目を疑ったこともあったなあ。これは九月だけのことだろうと、「九月は変」とかいう題名でブログについての記事を書こうと思っていたら、十月に入っても大きな変化はなく、これは「九月から変」に題名を変える必要があると思ってしまった。
 そういえば、尊敬する知人の、写真を生かした、特に食べ物の写真のおいしそうなブログには、ダイエットねたを書いたら、アクセス数が二桁違ったなんてことが書かれていたけれども、チェコでダイエットねたなんて思いつかない。増やしたいわけじゃないけど。

 せいぜいが、おそらく外国の番組のフォーマットを購入してプリマで制作されたダイエット番組だろうか。番組に応募した素人が栄養学と運動の専門家のサポートを受けて、食生活の改善と運動の習慣を身につけるためのプログラムを渡され、二ヶ月ぐらいかけて目標の数値まで体重を落とすために努力する番組だった。意志の強さを測るような番組で、最初は目新しさから見ていたのだけど、食事に関して、あれもだめこれもだめというのに嫌気が差して、見なくなった。何年か続いて、さすがに飽きられたのか、番組で恥をさらしてまでやせたいという人がいなくなったのか、ここしばらくは新しいシリーズは製作されていないようだ。
 それでも、イギリスやアメリカの同じような、さらに過激な番組を放送していることがあるから、ダイエット番組への需要はあるのだろう。出演者に食生活の改善を指導することで一種の啓蒙番組にもなるから、いや、この手のダイエット番組を見て、塩分を減らそうとか、食品添加物はいけないとか気をつけるようになったチェコ人っているのだろうか。

 それで、肥満の危険を訴えるダイエット番組があるなら、タバコの害が声高に訴えられるようになり、禁煙の場所が増え、タバコのパッケージにはグロテスクなタバコによる疾患の患部の写真を載せなければいけないなんてことになっていることを考えると、禁煙番組があってもよさそうな気がしてきた。禁煙による禁断症状で塗炭の苦しみを味わう喫煙者の姿を見せれば、タバコを吸い始める気にならないのではないか。ただ、結果が一目でわかるダイエットと比べて、禁煙は絵面的においしい素材ではなさそうだ。いや、真っ黒だった肺のレントゲンが、次第に普通の色に戻っていくなんてのがあったら劇的で感動的だけど、そんなに頻繁にレントゲンを撮るわけにもいかないか。劇的な変化があるとも限らないし。
 それに加えて、スポンサーの問題もありそうだ。タバコ会社は落ちぶれたとはいえ、今でも広告のスポンサーとしては大きな力を持っているから、あからさまに禁煙を求める番組はテレビでは放送しづらいのだろう。アルコール依存症や、薬物依存症と戦う人たちの姿を、苦闘する姿を見せつけるような番組もあってよさそうなのだが、こっちはプライバシーの問題とか、人権の問題とかいろいろややこしいことがあるのだろうし、ダイエットほどには受けないのだろう。

 もう一つダイエットで思い出した。まだ九十年代半ばの、ビロード革命や、チェコスロバキア分離の混乱の残っていた時代に、「確実に痩せられる方法を教えます」というダイエットしようと考えている人向けの広告があったらしい。お金を送ったらその方法を教えるというのだが、多分それほど大きな金額ではなかったのだろう。結構、ダメもとで送った人が多く、そんな人たちのもとには後日、小さな封筒が届けられ、その封筒の中に痩せる秘訣があるのかと、開けてみたら、書かれていたのは一言「Neřer!」という言葉だけ。
 日本語に訳すと、「食いすぎるな」とか、「ブタみたいに食うな」となるのかな。確かに食べ過ぎなければ痩せられるということで詐欺にはならないのかもしれない。警察が捜査をしたのかどうかもわからないけれども、そうだよなあ、その通りだよなあで放置されたのではないかという気もする。大して被害額も大きくはなかっただろうし。
 チェコ人はこの手のシャレになるのか、ならないのか微妙なところが好きだよなあと考えていたら、あるスーパーマーケットをめぐるとんでもない事件を思い出してしまった。思い出したけど長くなったので、明日に回そう。

 今日の分は、結構垂れ流しっぽい?
10月27日18時。



posted by olomoučan at 07:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2016年10月28日

つらつらと震災後のことなど(十月廿五日)



 たまに、いや最近は頻繁に何を書けばいいのか、思いつかなくなることがある。前日に書いたものから派生して、話が広がっていくこともあるのだが、間にここで書いておかなければと思いついたことを書いてしまうと、思いついていたアイデアが消えてしまうことも多いし、あれこれ考えているうちに膨らませきれないまま忘却のかなたに落ちていく。もしくは膨らませきらないままに書き始めて、苦労した挙句にぼろぼろの文章になる。

 たまには、何も考えずに、思いついたことを思いついたままにつらつらと書いてみるのも面白いかもしれない。読み直しも構成を考えることもせず、普段からそんなにしているわけではないけれども、文章の向かう方向と着地点だけは多少意識しながら書いているから、それもやめて、よだれの垂れ流し的に文章を書いてみる。いつも以上に読みにくくてわけのわからない文章になってしまうだろうことを、事前に、いるかどうかもわからないいつも駄文を読んでくれている方にお詫びしておく。
 最近、十年ほど前に、通訳の仕事でお世話になった方と久しぶりに、本当に久しぶりに一緒にお酒を飲む機会があった。いやあ懐かしかった。お互いに多少年をとり、白髪の数を増やしたり、体形が微妙に変わったりしていたが、ほかの人とはなかなかできない話のかみ合い方は、特に昔一緒に仕事をしていたころの話をしたわけではないにもかかわらず、気分を過去にさかのぼらせ、若返ったような勘違いをさせてくれた。おかげで、久しぶりに一晩に三杯飲むという偉業を達成してしまい、翌日酒の抜けない体の重さに苦しめられることになった。

 あれからずっとチェコにいたと思っていたのが、一度日本に戻って仕事をしていたらしい。その時期に、2011年の震災と福島の原子力発電所の事故に遭遇し、本人は西日本で仕事をしていたから、直接の被害は受けていないが、ヨーロッパとの仕事の上では、ヨーロッパ人たちの無知蒙昧さに苦労させられたと言っていた。あいつら地図読めねえとは、本人の弁。
 福島から何百キロも離れたところの工場で作っている製品に対して、放射能汚染された製品を輸出するとは何事かなどとクレームをつけてくる会社がありやがって、対応に苦慮したらしい。最終的には、ガイガーカウンターでの測定値をつけて出荷したり、その様子をビデオに収めて、ビデオは加工していないという記述をつけて取引先に見せたりしなければならなかったという。特にドイツのヒステリーじみた反応がひどかったらしい。

 チェコでは原子力専門家が、テレビなどで非常に正確な説明をしていたので、いわゆる風評被害は起こっていないだろうと思っていたのだが、実はそうではなかったのかもしれない。2011年の震災後、オロモウツで太陽光発電用のパネルの組み立てをやっていた日系企業が工場をたたんだ。当時聴いた話では、反原子力で、太陽光発電に過剰な補助金を出す愚策が導入されてブームが起こった結果、質よりも量で、もともと廉価だった上に、大量の販売と引き換えにさらなる値下げをするようになった中国企業との争えなくなったという話だった。
 考えてみれば、この工場では、日本から持ってきた太陽電池本体に、さまざまな部品をつけて太陽光発電用のパネルを組み立てる工場だった。日本から輸出された太陽電池は放射能汚染されていると短絡的に考える顧客がいてもおかしくない。インターネットで不確かな情報があたかも確実な情報であるかのように拡散して信じ込まれてしまう時代である。政府が発表する公式のデータは捏造されているから信用できないなんてことを言う人たちがいて、それを信じる人たちがいたら、否定して正しいことを理解させるのは大変だろう。

 日本側がいくら否定しても、競争相手の中国企業にそんな話を流されたら、ただでさえ価格で負けているのだから、勝ち目はなかったと言ってしまえそうだ。日本でも、未だに福島やその周辺の産物に対する忌避感は残っているというから、福島だろうが、そこから遠く離れた関西地方だろうが、九州、沖縄だろうが、日本であるという一点で同一視してしまうのだろう。
 チェコのオロモウツから遠く離れた町のレストランで拳銃による無差別発砲事件が起こって数人の人が亡くなったときも、プラハを中心とするボヘミア地方で洪水が起こったときにも、日本から心配するメールや、電話が次々にくるなんてぼやいている日本人はいたし、パリや、ブリュッセルでテロが起こっただけで、同じヨーロッパのチェコも危ないと思ってしまう人もいそうだ。

 まあ、チェコがどこにあるか知らなければ、そんな心配もしないのだろうけど、中途半端に知っているから、杞憂というものに囚われてしまうのだろう。人種差別の原因を無知に求める人がいるが、そもそも完全な無知であれば、差別さえできまい。そう考えると中途半端に過ぎる知識というのは危険である。だから、もう年だし、いまさら新しいことを勉強し始めても中途半端にも届かないから、何も新しいことはしないと怠ける言い訳に使ってしまう。怠け者なのだよ、我が本質は。一日中コタツでごろごろしていたいのだけど、チェコにはコタツがないし、寒空のもと今日も今日とていやいや仕事に向かう。
10月26日22時30分。

 書き方を変えたつもりなのに、結果はいつもと変わらないという不思議。うーん。


posted by olomoučan at 05:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2016年10月27日

ノーベル文学賞に思う2(十月廿四日)



 ノーベル文学賞にボブ・ディランが選ばれたとき、日本のネット上には、村上春樹に関するニュースがいくつも流れた。長年候補と言われつつ受賞に至らない村上春樹について、どうして受賞できないのかなんて記事が多かったかな。ノーベル文学賞自体が、最近はあまり信用できるものではなくなっていることを自ら露呈しつつあるし、受賞できないことが作家の価値を変えるということもないのだろうけど、日本人てのは、オリンピックもそうだけど、この手のイベントが好きな民族である。

 その受賞できなかった理由を考察する記事を読んでいて、あれっと思うところも少なくなかった。例えば、通俗的過ぎて文学性が低く評価されたのではないかとかいった意見を見かけたけれども、通俗性が問題になるのであれば、実際に受賞した川端康成だってNHKの連続テレビドラマの原作を書いているわけだし、自殺していなければ受賞していたとまで言われる三島由紀夫の『潮騒』とか、『豊饒の海』とか、通俗もいいところだと思うけどなあ。昔は、純文学と大衆文学の間に、中間文学なんてものがあって、純文学の作家が売り上げを求めて書くときの口実に使われていたから、この辺の作品もその中に入るのかもしれないけどね。
 海外文学に関して、純文学だの大衆文学だの言うのは聞いたことがないから、日本で言う大衆文学的な通俗的な作品が、文学作品として高く評価されてもおかしくなかろう。通俗的な売り上げの多い作品の例として、『ハリー・ポッター』シリーズが挙げられていたけれども、あれは児童文学であって比較するのはちょっと違うような気がする。

 むしろ、村上春樹の作品に、日本の土着的なものや、ノーベル賞が好む政治的なものが欠けているのではないかという指摘のほうが納得がいく。政治的な発言に関しては知らないが、日本的なものの希薄さは確かに感じた。現在形ではなく、過去形なのは、村上春樹を読んだのは、高校時代の一時期、いわゆる純文学に淫していた時代だけだからだ。当時、もどかしさというか、空虚さというか、何とも言い得ない不満を抱えて読んでいたのだが、それが日本的なものの欠如、日本の作家の本を読んでいるのに、翻訳小説の舞台だけを日本に移し変えたような印象だったのかもしれない。
 考えてみれば、作品の文学性や、文学的価値というものについては評価する能はないので、純粋に日本人として、日本の読者として、日本を代表する作家を上げろといわれたときに、村上春樹の名前は出しにくい。何か違うのである。これも同じ理由だろうか。
 当時は、村上春樹だけでなく、村上龍や、三田誠広、島田雅彦なんかの作品を読み漁ったけれども、一番感動というか、衝撃というかを受けたのは、土俗的な怨念の世界を描いた(少なくとも田舎の高校生にはそう思えた)中上健次の作品だった。戦後の日本のいわゆる純文学の作品で『千年の愉楽』を超えるものはないと、どんな話だったかは覚えていないにもかかわらず、根拠はまったくないが強く確信している。

 村上春樹の作品では、80年代に大ベストセラーになった『ノルウェイの森』が、初めて出版と同時に読もうと思えば読めた作品だった。だったのだが、読まなかった。理由としては『羊をめぐる冒険』などのそれまでの作品を読んで、これで十分だと感じたというのもあるのだけど、ベストセラーになったというのも大きい。普段は本など読みもしない連中が、ベストセラーだからという理由で購入しているのを見たら、とても読む気にはなれなかった。友人の一人は、上記の理由で購入し、一応最後まで通読して、お前に似た変人が登場するから読んでみろよと、失礼なことをほざいていたが、同様の理由で購入した人たちのうち、どのぐらいの人が通読したのだろうか。教養というものがまだ、無意識にせよ重視されていた時代、百科事典や広辞苑を本棚の肥やしとして購入する家庭が多かったが、村上春樹の作品も同じような扱いを受けていたんじゃないかと考えてしまう。それは、本にとって、作者にとっては不幸なことなのだろう。
 チェコに来て、村上春樹の作品が、次々に翻訳出版されていくのを見て、なぜこんなに需要があるのだろうかと考えてしまう。やはり、ダライラマ人気につながるところがあるのかな。日本人がヨーロッパ的な価値観で書いた作品、もしくはヨーロッパ人が期待する日本の作品の姿にかなっているから、文化的な軋轢もなく受け入れられるのだろうか。

 そんなことを考えつつ、別に村上春樹を含めて日本の作家がノーベル賞を取れなくてもいいじゃないかと思う。ノーベル賞は、そのうちテレビや映画の脚本、果てはネット上のブログなんかまで文学賞の対象にしかねないしね。ノーベル賞が、日本文学が世界で認められた証だというなら、答えは、無理して世界で認められる必要などないである。世界的であるために日本的なものが消えていくのならば、文学に限らず世界的になどなる必要はない。
 近年は世界基準から外れた日本独自のものを、ガラパゴスなどと批判したり揶揄したりする傾向にあるけれども、日本独自でいいじゃないか。日本独自というのが嫌なのなら、日本独自を世界に広めて世界基準にしてしまえばいいだけだ。ってな気概を日本に住んで日本的な生活をしている人たちにはもってほしいのだけど。外国にいるとそんなことは難しいから。せいぜいが、お酒を飲みに行ったときに、みんなで頼んでみんなで食べて飲んで、みんなでお金を払う(誰かが出してくれることもあるけど)日本の居酒屋割り勘方式を広めるぐらいである。
10月25日23時30分。



 どうしてこうなったと言いたくなるぐらいぐちゃぐちゃになってしまった。村上春樹の作品はあまり好みに合わないのだけど、ノーベル賞受賞できなかったぐらいで、何であんなに大騒ぎするのか理解できない。10月26日追記。


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2016年10月26日

ノーベル文学賞に思う1(十月廿三日)



 同時代の音楽に背を向けて、七十年代のフォークだのロックだのを九十年代に聴いていた人間にとって、ボブ・ディランの名前は親しい。ただ、九十年代は、我が英語アレルギーの最盛期だったので、さまざまな日本の音楽関係者に影響を与えているという話は聴いていたが、あえてオリジナルを聴こうとは思わなかった。洋楽なんて忌野清志郎のCOVERSで十分だったし。うん。

 だから、ボブ・ディラン本人に特に思い入れはないし、ノーベル文学賞に選ばれたという話を聴いたときも、特に反対する気にも、両手を挙げて賛同する気にもなれなかった。ただ、素直に受賞を受け入れるのかねとは思った。ビートルズは女王陛下から勲章をもらったらしいけど、少なくともそんな歌を吉田拓郎が歌っていたけれども、ディランはどうだったのだろう。反戦を旗印にしたプロテストソングの旗手には勲章なんて似合わないような気もするけれども、年をとってそういうものを受け入れるようになっていてもおかしくないかもしれない。
 受賞が決まった日の翌日ぐらいからだっただろうか、ノーベル賞授与団体側が、ディラン氏と連絡が取れないとか言い始めたのは。ということは、前者でノーベル賞の受賞を拒否する意向だということなのだろう。ノーベル賞の中でも、文学賞と平和賞はいろいろ問題のある賞だから、受賞が必ずしもプラスになるとは限らないし、ボブ・ディランほどの金持ちであれば、賞金のために受賞を受け入れる必要もあるまい。

 理解できないのは、ノーベル賞側がディラン氏の対応を失礼だとか言っていることで、賞を与えると言えば誰でも尻尾を振ってありがたがると思っている傲慢さが垣間見える。確かにディラン氏側の対応も褒められたものではないだろうけど、もともとが既存の権威などというものを認めず、そんなものに無視していた人物だったはずである。受賞拒否ぐらいは予想に入れてしかるべきであろう。それでも賞を与えたかったのなら、事前に受け取る気があるかどうかの確認ぐらいはするべきだったのだ。
 いや、事前に候補者を発表してもいいくらいだ。そうすれば、受賞を受け入れる気のない候補者は辞退するだろうから、今回のような事態は防げる。どうせ事前に有力候補の名前は一部メディアをにぎわすのだ。公式の候補者リストと候補として挙げられて理由を発表しても罰は当たるまい。文学に関心を持つ人々の間の議論も活発になり、それが最近かつてほどの意味をもてなくなっている文学そのものの再発見、再生にもつながるだろう。

 ただ、驚きを演出するために、事前の候補者の発表もせず、受賞を受け入れるかどうかも確認せずに勝手に賞を与えることを発表する。ディラン氏の態度よりもこのノーベル賞側の態度のほうがはるかに無礼である。あのノーベル賞なんだから受賞を拒否する奴なんかいないだろうという傲慢さに加えて、今回はさらにノーベル賞が歌詞を文学と認めてやるんだからありがたく賞を受け取れという権威を笠に着た態度も見え隠れして、ディラン氏ならずとも、不快に感じることはありそうだ。
 仮に、ノーベル賞側が、事前にディラン氏に意向を尋ねて拒否はしないという答えを得ていたとしても、状況はそんなに変わらない。ノーベル賞という権威を最初からコケにしようとしていたということで、文学の世界から音楽の世界にまで手を広げようとするノーベル賞側に対する反撃だと考えてもよかろう。いずれにしても、これまで権威に胡坐をかいて、文学性よりも政治的な意味合いに重点を置いて恣意的に、文学と名のつく賞を出してきた流れが、今回限界を超えたということか。まあ自業自得の類である。

 個人的には、戦争を始めてもおかしくない人間が戦争をしないからとか、自国民に繊細の苦しみを与えた責任者に勲章を与えたとか言う理由で、表向きの理由は違うかもしれないけれども、与えられる平和賞ともども、文学賞はなくしてしまってもいいのではないか。文学賞なんて、新人を支援するための登竜門的な賞、たとえば芥川賞、直木賞のようなものには存在価値もあるだろうけど、押しも押されぬ大作家に与える功労賞的な賞は無用である。日本にもその手の賞はいろいろあるけれども、関係者以外の注目を集めることはないわけだし。

 今後の展開としては、ボブ・ディランが、ノーベル賞のアンチテーゼとも言おうと思えば言えなくもない、イグ・ノーベル賞を受賞してそれを受け入れることを期待しておこう。あれ、イグ・ノーベル文学賞なんかあったっけ? こっちのほうが見識高そうだなあ。
10月25日10時。


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2016年10月24日

秋葉原で思い出したこと(十月廿一日)



 秋葉原についてあれこれ書いていたら、大学時代に購入して聞いていたとあるCDで、「秋葉原まで」というのを、明確に「あきばはらまで」と歌っていたのを思い出した。強烈に響いたので今でも思い出せるのだが、歌っていた人は秋葉原近辺の出身で、「あきはばら」と言われるのに抵抗があったのだろうか。その曲の名前は覚えていないけれども、どうしてそのCDを買うことになったのかは、多少のあやふやさはあるけれども、よく覚えている。

 大学時代を通して、川崎市の南武線沿いのある街に住んでいた。最寄の駅近くの商店街のはずれにチェーン店ではない小さな本屋が存在した。ただの本屋だったら、家とは駅の反対側だったから、頻繁に通うなんてことはしなかったのだろうが、品揃えが非常にユニークでついつい手にとって、ついつい購入したくなるような本が多く、毎週の書店めぐりは地元のこの本屋から始めていた。
 もちろん売れ筋の漫画や雑誌、文庫なども置かれていたが、それは経営のためで、店主の趣味で普通なら紀伊国屋や書泉、三省堂なんかの大規模書店に行かなければ手に入らないような本も、かなり偏りはあったけれども置いてあったので、その手の本を探すときにも、まずその本屋に寄って、ないことを確認してから大規模書店めぐりを始めたものだ。

 それから、売れ残りは返品できる再販制度で保護された出版業界の中で、返品を許さない、いわゆる買いきりで書店に本を卸している岩波書店の岩波文庫が大量に置かれていたのも、小規模書店では珍しいことだった。岩波文庫は一度一定数を印刷して出荷した後は、市場に飢餓感を演出するために、なかなか増刷をしないので、大規模書店に在庫がない場合には、出版社に連絡をしても手に入らないことが多い。ただ書店から返品されないので、絶版の本でも、品切れ重版未定の本でも、あるところにはあるのである。
 そんな岩波文庫の宝の山が眠っていたのもこの書店で、古典文学の黄帯を中心にかなりの数、購入したし、この書店の存在を知る前に、定価よりも高額で古書店で購入したものを発見して地団太踏むこともあった。うちに遊びに来るたびに、この本屋に寄って岩波文庫のコレクションを充実させている友人もいた。

 ある日、この店で、店主が書いた自伝的な本を発見して、こういうユニークな書店を開業した人の人生はどんなものなのだろうと購入して読んでみた。読んでびっくり、60年代末から70年代初めにかけての日本のロック、フォークの黎明期に活躍した知る人ぞ知る伝説のミュージシャンであったのだ。それが、音楽業界に嫌気が差して足を洗って、川崎のひなびたところに引っ込んで書店を始めたらしい。
 そんな人物の本屋だと知った以上は、聞いてみたくなるのが人情ってもんだろ。時代がよかったのだと思う。90年代の初めぐらいから、レコード会社が過去の音源のCD化を積極的に進めており、すぐにだったか、しばらくたってだったか覚えていないが、復刻版CDで無事に店主の歌を聞くことができた。何とも言えない暗いそして粘るような、歌詞に曲に歌い方、心が弾むようなものでも、感動するようなものでもなかったが、奇妙に魅力的だった。歌の暗さが、心の中の闇を照らし出したとでも言えばいいのだろうか。当時はあれこれ抱えて鬱屈していたからなあ。

 ご当人のデビューと同時に解散したようなグループのアルバムだけでなく、解散後にかかわったらしいURC(アングラ・レコード・クラブ)という会員制のフォーク、ロックのレコード制作販売グループから出されたアルバムにまで手を出すようになり、もともとほとんど聞いていなかったけれども、同時代の音楽に完全に背を向けて、70年代以前のものばかり聞くようになってしまった。
 細野晴臣のいたはっぴいえんどとか、放送禁止の多い岡林信康なんかの有名どころはもちろん、高田渡、友部正人(この二人も知っている人は知っているだろうけど)なんかにまで手を出すようになってしまった。アルバイトをしていたとはいえ資金的には潤沢ではなかったので、一度に大量に買うなんてことはできず、買うときは結構悩んだんだよなあ。

 そんな中で一番衝撃的だったのは、「歌う哲学者」とか言われていたらしい斉藤哲夫だった。この人のアルバムの『君は英雄なんかじゃない』には、タイトルからして何も言えなかったし、収録されていた「悩み多きものよ」には、感動して震えるしかなかった。そうしたら、ソニーが70年代のアルバムを廉価版で復刻するなんてことを始めちゃったもんだから、ついつい『バイバイグッドバイサラバイ』『グッド・タイム・ミュージック』『僕の古い友達』まで手に入れてしまった。
 この人に関しての最大の衝撃は、実は80年代に宮崎美子が出演して人気を呼んだTVコマーシャルに使われていた「いまのキミはピカピカに光って」を歌っていたという事実だった。あの歌も耳に残って忘れられない歌声だったが、「悩み多きものよ」も「バイバイグッドバイサラバイ」も、耳にこびりついているからなあ。そうだったかあと納得したのだった。

 さて、秋葉原に戻ると、音楽業界を離れて久しかった行きつけの本屋のおやじさんが、こちらの印象からすると突然復帰してアルバムを発表したのだ。それが90年代の半ばのことで、当然のように応援する気持ちもあって購入した。そのアルバムに収録されていた曲の一節に、「あきばはらまで」というフレーズが出てきたのだった。
 さて、この記事に出てきた本屋のおやじさんが誰かわかる人がいるだろうか。かつてジャックスというバンドを率いた早川義夫という人である。直接話したことはないけど、お店で見かけたことはあるので、つい親近感を抱いてしまう。現在も音楽活動は続けているようなので、遠くチェコから聞きに行くことはできないけど、応援はしている。
10月21日23時30分。


 チェコに来て日本語を勉強しているチェコ人に、アメリカ映画を見ていたら日本語の曲が流れたんだけど、知らないかと聞かれたことがある。サウンドトラックで聴かされたら、何と懐かしいはぴいえんどの「風をあつめて」だった。こんなのぱっと聴いてわかった人がどのぐらいいたのだろうか。我が懐古趣味が珍しく役に立ったのだった。10月23日追記。


 これは70年代初頭にURCから出したソロアルバム。

かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう [ 早川義夫 ]





 せっかくなのでこちらも。こんなジャケットデザインだったかなあ。90年代の復刻版がオリジナルじゃなかったのかな。

君は英雄なんかじゃない 3 [ 斉藤哲夫 ]


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2016年10月10日

右と左がわからない2――ある左利きの半生(十月七日)



 一体に文目もわかぬ稚いガキにとって、「右/左」の区別は、観念的なものではなく、即物的である。即ち、鉛筆を持って字を書いたり絵を描いたりする手、ボールを投げたり食べるときに箸を持ったりする手、それが右手である。だから左利きの子供が頭の中で右手だと思う手は、現実には左手である。
 左利きの子供にそうではないことを教えようとする良心的な保育園、幼稚園もあるかもしれないが、自分一人だけが他と異なることを恐れる子供の心情を考えると、違うと言われても、違わないと主張する子供が出てくるのではなかろうか。また異物をいじめがちな子供の世界のこと考えて、あえて指摘しないという考え方もあるだろう。この辺は、我がたわごとの守備範囲から大きく外れるので、教育関係者の話を聞いてみたいところであるが、左利きの人間にとっては、「右/左」問題との格闘は幼少期から始まるのである。

 近年は、右手で字を書くように矯正することは減り、左利きの子供には左手で書かせているようだが、我がガキの頃にはまだ、右に矯正するという考え方が主流だったので、右で書くように強制され、小学校に通い始めるぐらいから、字が汚いからという理由で書道塾に通わされることになった。実際には、鉛筆で書く字が書道のおかげで綺麗になるなんてこともなく、筆で書く字と鉛筆で書く字の差の大きさに親を嘆かせるようになるのだが、効果が出たのは書道を始めてから、何年もたった後のことだった。今でも丁寧に書こうと思えば、綺麗な字を書くことができるのは、このときの書道のおかげである。
 この右手で字を書き始めた時点が、「右手=字を書く手」で実際に書くのも右手という一致を見たので、我が生涯のうちで、右と左を一番正確に判別できていた時期かもしれない。しかし、それも小学校五年の或る日悲劇が起こるまでのことだった。

 何の授業だったかは覚えていないが、当てられてせっせと答を板書していたら、後から頭を小突かれた。
「お前は、何で左手で書いているんだ?」
「えっ、何言ってるんですが、右で書いてますよ」
 と言ってチョークを持つ手を振り回したのだが、どうも左手だったらしい。このあたりで笑い始めている同級生もいたようだ。
「お前は小学校の高学年にもなって右と左もわからないのか。しょうがない奴だなあ」
 先生に罵られて同級生に大笑いされて、この右利きのくそ先公め、と当時ドラマか何かの影響ではやっていた汚い言葉まで使って心の中で叫んだ。この恨みは一生忘れないぞと心に復讐を誓ったのだった。この文章を書き始めるまではすっかり忘れていたけど。
 この事件以来、あれこれ調査した結果、机の上のノートなど水平面に書く場合には、右手を使うほうが自然で、黒板などの垂直面に書く場合には、左手で書くのが自然だということが確認できた。水平面に左で書くのはできなくはないが、少し窮屈で油断すると鏡文字になるのだった。垂直面に右で書くのは問題なくできたが、左で書くのに比べると、手が震えて線が真っ直ぐにならないという傾向があった。ついつい書道的な書き方をしてしまったのがいけないのかな。
 つまり、それぞれに得手不得手はあっても、両手で字が書けるようになってしまった、これが右と左の判別がすぐに付けられなくなった理由なのである。今でも右、左と言われると、とっさに手を見てしまう。そして、判別がつかず、訣別したはずの文学趣味が頭をもたげてきて、ついつい石川啄木になってしまう。

   かんがへど、かんがへど
   なほ、みぎひだり、わくをもえざり
   ぢつとてをみる
               たくほく(偽)

 右でも左でも字が書けるようになると、器用だなどと言って褒められたりうらやましがられたりするのだが、両手が使えるという意味での器用であって、それぞれの手が本当の意味で器用なのではないのだ。それに、なりたいと思ってできるようになったわけではなく必要に迫られてできるようになったに過ぎないのだ。左手でノートを抱え込むような姿勢で字を書ける左利きは器用だと左利きの人間が見ても思うが、あれとて試行錯誤の末にたどり着いた左手で字を書く方法であろう。我々は苦労しているのだよ。
 字を書く以外の普通の人が右と左を使い分けるものについて、自分がどちらを使うか見ていくと、絵を描くときに色を塗るのは左手だった。細かい線を引くようなところは右、色を塗るのは左と無意識に使い分けていた。食事のときの箸は、幸いに矯正されなかったので左手だが、希少価値を考えるとガキのころに練習しておけばよかったと思わなくもない。

 洋食でスプーンは当然左手を使う。右でも食べられなくはないけれども、あくまで緊急避難的な使い方しかしない。ナイフとフォークはナイフが右手でフォークが左手である。日本では滅多に使わなかったし、まったく意識していなかったのだが、どうもこれは右利きの人と同じらしい。こちらに来て、左利きなのにどうして右聞きと同じもち方なのと指摘されて自分でもびっくりしてしまった。何故なんだろう。いろいろ試した結果、左手でナイフを使うのが苦手であるようだ。包丁は左手で持つのに、我ながら不思議な話である。
 足の場合には、どちらを使っても下手糞であることは同じと言う意味で両利きである。いや、利き足はないといったほうがいいのか。ただサッカーなんかで確実にボールに当てたいときには右足、当たれば儲け物で蹴るときには左足を使っていた。右で蹴ると確実に当たるけど、ひょろっと力なく飛んでいくだけで、左で蹴ろうとすると十回に一回ぐらいしか当たらないけど、当たるうちの十回に一回つまり百回に一回ぐらいは強烈なボールを蹴ることができた。思ったところに飛んでいくのはさらに確率が下がるので、どっちでけっても下手糞という点では大差なかった。
 目は、片目で見るときにつぶるのは左目だから、右目で見ることになるのか。利き目は見るほうの目だったっけ、つぶるほうの目だったっけ。あまり覚えていないけれども、こうやって並べ上げてみると自分でもややこしい右と左の使い分けをしていると思う。だから、右と左の判別がつかないのは仕方がないのだ。右と左の判別がつかない人間に言葉で道案内ができるわけがないのだ。だから、道を教えるために英会話になんて通う必要はない。と、ようやく、発端に戻ってくることができた。
10月8日12時。


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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



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