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2017年05月03日

メンチンスキ神父の謎(四月卅日)



 ちょっと気になったのでメンチンスキ神父について調べてみることにした。最初は日本二十六聖人の絵葉書と一緒に持って帰ってきたから、その二十六人の中に入っているのだろうと考えて、日本二十六聖人の記念館のホームページを覗いてみた。しかし、二十六人の聖人の中にメンチンスキの名前は見当たらない。二十六聖人が長崎の西坂で死んだのは、江戸時代が始まる前、豊臣秀吉が政権を握っていた時代の1597年のことのようだから、メンチンスキ神父の生まれる前の出来事だということになる。

 それで、あれこれ探したら、「西坂で殉教したキリシタン一覧」という名簿が出てきて、その一番末尾に、他の四人の神父とともに「アルベルト・メチンスキ」という名前が出てきた。ポーランド語で、Mの後ろに来ている文字は、eの下に毛が生えているような文字で、「エン」に近い発音をするようだが、英語表記ではただのeになってしまうので、メチンスキとカタカナで表記されたのだと推測できる。
 この名簿は次代順に並んでおり、メンチンスキ神父らの死が末尾にあるということは、西坂における最後のキリシタンの死であったということなのだろう。イエズス会の所属であったことは記されるが、出身国は書かれていないため、このページからはポーランド人であることはわからない。特に注記がないので、福者にも聖人にも列されてはいないようである。
 考えてみれば、メンチンスキ神父が日本に不法に潜入した1642年というのは、キリスト教への信仰をよりどころにして1637年末から翌年にかけて起こった島原の乱の余韻も冷めないころである。乱の後にはポルトガル人の追放、来航禁止も行われており、日本に行けばこういう結末を迎えることは明白だったろうに……。幕府としても、この時代、他にやりようはなかったのだろうし。

 とまれ、このメチンスキ/メンチンスキ神父がどのぐらい日本で知られているのだろうかと調べてみることにした。
 まず、長崎の日本二十六聖人記念館の表記である「メチンスキ」で検索をかけてみると、記念館以外には、カトリック関係、イエズス会関係のページで使われているが、数が非常に少なかった。姓がメチンスキとなっている場合には、名前はアルベルトが使われていた。

 特に記事の本文は読めなかったが、見出し項目だけ見ることができた研究社の『新カトリック大辞典』で「メチンスキ」で立項され、「Meczinski, Albert」と名前まで記されていたのは注目に値する。
 また、日本のイエズス会が作成したと思しき「西坂で殉教したイエズス会員」の名簿にも、「アルベルト・メチンスキ神父」と表記されている。

 一方、「メンチンスキ」で検索をしてみたら、『世界大百科事典』第二版に項目が立てられていた。百科事典に載るぐらいだから日本でもある程度は一般の人の中にも知られているのだろうと思いながら記事を読みはじめたら、まず、名前が違った。「Albert」ではなく、「Wojciech」になっている。生没年も、没年は1643年で同じだが、生年が1598年になっている。
 名字の同じ別人のことかと読み進めると、「ポーランドのイエズス会神父。長崎で殉教した」と始まる。同じ名字のポーランド人が、同じ長崎で同じ年に殉教したなどという偶然が起こっていれば、もっと話題になってよさそうである。
 末尾には、「7ヵ月の拷問ののち、43年3月25日絶命」とあり、どう読んでもうちのがクラクフで手に入れてきたパンフレットに登場する「アルベルト・メチンスキ」と同じ人物の業績が書かれているとしか思えない。
 他にもポーランド大使館や、ポーランドの歴史を紹介するページなどで、日本との関係を示す際に必ずのように、最初に日本にやってきたポーランド人として、「ヴォイチェフ(ボイチェフ)・メンチンスキ」の名前が挙がっている。

 どちらも貴族出身とされているし、貴族の場合には、名前が三つも四つも付けられている人がいるから、カトリックの世界で使用される名前と、歴史学で使用される名前が違うということも考えられる。いやボイチェフが世俗の貴族としての名前で、アルベルトというのは、イエズス会士としての洗礼名だという可能性もあるのか。
 名前の問題はそれで解決できるにしても、生年に三年のずれがあるのが解決できない。あれこれ調べたら、「西坂で殉教したポーランド人/メンチンスキ神父」と題されたパンフレットは、日本二十六聖人記念館が、1981年にポーランド出身のローマ法王ヨハネ・パウロ二世が来日した際に、作成したものだという情報が出てきた。それを「34年ぶりにリプリントした」というから、2015年のことか。1601年が生年だという記念館の記述が間違いである可能性もなくはないのか。

 いずれにしても、おそらく同じ人物なのだから、百科事典や歴史関係のページのほうに、アルベルトの名でも知られるという注記を付けておいてほしかった。そうすれば、こんなことで頭を悩ませる必要もなかったのに。ポーランドとの国境近く出身の知り合いならポーランド語ができるはずだから、ちょっと調べてみてもらおうかな。
5月1日14時。






posted by olomoučan at 07:02| Comment(3) | TrackBack(0) | 戯言

2017年05月02日

初めて日本にやって来たポーランド人(四月廿九日)



 二泊三日でポーランドのクラクフに出かけていたうちのが、お土産に日本語の書かれたものを持って帰ってきた。

 一つは、日本の絵葉書で、長崎の日本二十六聖人記念碑の写真が使われていた。九州の人間なので、小中学校の修学旅行で長崎には行ったのだが、この記念碑にまで足を伸ばしたかどうかは覚えていない。
 もう一つは、英語とポーランド語の記述もある一枚の紙を三つ折にしたパンフレットみたいなもので、「西坂で殉教したポーランド人/メンチンスキ神父」と題されていた。裏面に「クラクフから西坂へ/日本に初めてやってきたポーランド人」というメンチンスキ神父の簡単な伝記が載せられている。

 それによれば、アルベルト・メンチンスキ神父は、江戸時代に入ってキリスト教が禁止されてから、日本に潜入して捕らえられ、長崎の西坂で刑死した人物のようである。
 生まれたのは1601年で、貴族階級の出身だった。ルブリンのイエズス会の学校で日本に関する報告書と出会い日本行きを夢見るようになったという。クラクフの大学で学んだ後、1621年にローマでイエズス会に入会し、貴族家の後継者として引き継いだ膨大な資産はクラクフにイエズス会の学校を設立するために提供したらしい。
 その後、メンチンスキ神父は、紆余曲折を経て1642年にマニラから日本に赴いた。上陸地は九州南端の薩摩国の甑島だったが、すぐに捕らえられて長崎に送られた。7ヶ月にわたる牢獄生活の果てに、1643年3月25日に長崎の西坂の地で、42年の生涯を終えたという。パンフレットの表紙の上部には、「昔から望んでいた殉教が叶えられそうです」という本人の言葉が印刷されているので、この人物が日本に渡ったのは、ある意味死ぬためだったのである。

 日本人でもキリスト教徒なら、この人の物語に感動するのかもしれないが、当時の江戸幕府側からしてみれば、薩摩の島津氏にしてみても、いい迷惑だとしか思えなかったに違いない。キリスト教徒だって、イスラム教徒に負けず劣らず狂信的だったのだ。この手の話を美談にしてしまったのでは、宗教というもの持つ狂気まで肯定することになり、それはイスラム国の肯定につながってしまう。
 どこで読んだ話だったか忘れてしまったが、キリスト教の禁令が出た後で日本にやってきた宣教師の中には、幕府が穏健な対応で国外追放で済ませようとしたら、拷問されることを求め、ほとんど自ら強制するように拷問死を遂げた人物もいるという。殉教者を列聖することが好きなバチカンも、さすがにこの人物に関しては列聖しなかったらしいが、頼まれもしないのによその国に押しかけて、その国の文化にそぐわない宗教を押し付けた挙句に、獲得した信者を道連れに死んだはた迷惑な人間を安易に列聖するから、死ぬために日本へなんて狂信者を生んでしまうのである。キリスト教に改宗して、それを理由に投獄され獄死した日本人信者にはあわれみを感じるけれども。

 それで、どうしてクラクフでこんなものが手に入ったのかというと、イエズス会の大学が存在しているのだと言う。ポーランドはクラクフのイエズス会が、イエズス会士として日本で死んだポーランド人のアルベルト・メンチンスキ神父の業績を顕彰しようとするのは当然なのかもしれない。それに伝記にあるメンチンスキ神父が設立のために資産を提供したという学校の後身がその大学なのかもしれない。
 コメンスキーがモラビアを離れることを余儀なくされたとき、ポーランドのレシュノに滞在できたことが示すように、ポーランドも一時は宗教改革の影響でプロテスタントが優勢になっていたはずである。それが、現在の強固なカトリックの国になったのは、イエズス会の活動によって再カトリック化が進んだからに他ならない。そう考えると、イエズス会の持った影響力は、モラビアの比ではなかったのだろう。
 オロモウツも、かつてはモラビアのイエズス会の活動の中心地で、オロモウツにあるパラツキー大学ももともとはイエズス会の学寮から発展したものだと言われている。しかし、現在でもイエズス会が大々的に活動しているという話は聞いたことがない。パラツキー大学の神学部も、イエズス会との関係を感じさせない、スラブ人にキリスト教をもたらしたツィリルとメトデイの兄弟の名前を冠しているし。それとも、名前だけでイエズス会と関係があるのだろうか。

 余計なことを書いていたら、本題にまでたどり着けなかった。今日の分で、強調しておきたいのは、パンフレットによればメンチンスキ神父の名前がアルベルトであることと、生年が1601年であることである。没したのが1643年3月25日だというのも重要になるかもしれない。
4月30日23時。




posted by olomoučan at 06:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2017年04月08日

てるみくらぶ倒産とチェコの旅行会社(四月五日)



 昨日に続いて、最近目にした日本のニュースで思い出したチェコの出来事についてのお話である。単独だと一本分にならなくても、あわせたらなるかも。いや昨日のはちょっと長すぎたか。

 この社名をひらがなで書く会社は、1998年に創業した格安旅行会社らしい。初めてチェコに来た1993年の時点ではまだ存在していなかったけれども、2000年ごろに二度目、三度目に来た時にはすでに存在していたはずだけど、航空券の手配をするのに業者を探したときに名前を聞いた覚えはない。まだ知る人ぞ知る存在だったのか、ヨーロッパはあまり扱っていなかったのか、アジアや太平洋方面に強い会社だという話も聞くので、情報通の友人も教えてくれなかったのかもしれない。
 1993年は、まだ民主化して間がなかったし、チェコとスロバキアが分離したばかりだったので、共産主義時代からソ連・東欧へ観光客をほそぼそと送り出していた会社に手配を任せた。あの会社も旅行の自由化で大変なんじゃないかと思うけれども、社名を忘れたのでどうなっているか確認できない。そして2000年ごろに使った会社は、エイチ・アイ・エスだったかな。

 それはさておき、今回の旅行会社の倒産で、海外に取り残された人がかなり出たようだ。それに比べればお金を払い込んで出発前だったという人は、まだしもましだったのだ。取り残された人たちには自力で帰ってくるようにという指示が出たみたいだし。
 だから、ホテルだけでなく航空券も自分で手配して戻って来なければならないのかと心配していたら、すでに発券済みの航空券があれば、旅行会社がお金を払っていなくても、飛行機に乗れるということである。日本政府もそこまでひどいことは言わないか。最初の予想ほど、ひどい問題にはならずに済みそうである。それでもまだ千人以上の方が国外にいるらしいので、無事に帰国されることを願っておきたい。

 さて、チェコでも何年か前に、同じような事件が起こった。テレビでも広告を流していた大手の旅行会社が倒産して、国外に取り残される人がかなりの数出たのだ。夏のバカンスシーズンが始まったばかりのころで、南ヨーロッパのギリシャ、トルコ、エジプトなんかで不安な日々を過ごす人が多数出た。このときは、政府が特別機を飛ばして被害者をチェコに連れ帰ったような記憶もあるのだが、アラブの春のときのことと混同している可能性もある。
 とまれ、このときの対応では、トミオ・オカムラ氏が、旅行業者の業界団体の代表としてテレビに出てきて、あれこれまくし立てていた。たしか日本人向けの旅行会社を経営していたのである。こんな場面で顔を売って、今では国会議員になってしまったわけだ。来年の大統領選挙出るのかね。
 この時期から、すでにチェコの旅行業界には、旅行会社のための保険が存在したらしい。倒産した場合に、国外に取り残された人を速やかに帰国させたり旅行を完了させたりし、旅行に行けなかった人たちの返金要求に対応するための保険である。当時は義務ではなかったので、加入していない旅行会社もあって、オカムラ氏は、この保険に入っていない業者が倒産したからこうなったのであって、大部分の保険に加入している業者の場合には倒産してもこんな問題は起こらないとか何とか言っていたのかな。

 この事件の後で、旅行会社は保険に加入することが義務付けられ、現在では加入している保険の学によって、販売できる旅行商品の総額が規制されるというところまで来ていたかな。旅行業者は、保険に加入していることを証明する書類を、客に見えるように掲示する義務もできたはずなので、その書類のない旅行会社は避けた方が無難かもしれない。
 ただし、これは自社で旅行を企画販売している会社に義務付けられたもので、他社の商品を売るだけの旅行代理店の場合には不用だったかも知れない。いずれにしても、そんな小さな代理店よりも、自社商品を売れる大きな旅行会社を使う方が安心というものである。かつて国営の旅行会社だったチェドックとかさ。

 いずれにしても、この手の消費者保護の面で、チェコの方が日本よりも先に行っていたというのに驚かされてしまった。問題が起こりすぎて対処せざるを得なかったという可能性も高いのだけど。銀行関連の消費者保護だって以前は、まったくなかったのが、今では銀行が倒産しても預金者はある程度守られるようになっているし。それでも、銀行も大手のつぶれそうにないところを選んだほうがいいと思うけどね。
4月5日23時。



 



posted by olomoučan at 06:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2017年04月07日

森友学園とブルノの工業団地(四月四日)



 知人からメールに、最近の日本の話題として、「森友事件」というものについて書かれていた。日本のニュースも全く追いかけていないわけではないので、事件になっているという話は知っていたけれども、何が問題なのかはよくわかっていなかった。
 そもそも、この学校の名前の読み方がわからなかった。それで、ウィキペディアを見たら、森友(もりとも)さんという人が創設した塚本幼稚園というのが母体になってできた学校法人だった。だから、「もりとも」学園と読むようだ。実は最初にこの校名を見たときには、最近はやりのエコロジーの流れに乗って、「森は友達」的な名前の付け方をしたのかと思ってしまった。音読みで「しんゆう」、訓読みで「もりとも」、ないとは思うけれども、重箱読みで「しんとも」、湯桶読みで「もりゆう」、どれもピンと来なかった。

 この問題の発端は、小学校を設立する予定だった国有地を、安く払い下げてもらったことのようである。しかもその土地にごみが埋められていて、その処理にお金がかかることを安くする理由にしていたというのだけど、いわゆる産業廃棄物でも埋められていたのだろうか。その処理を実際に行ったのかどうかも問題になっているのか。
 国有地であれ、地方公共団体の土地であれ、企業や学校などを誘致するために、土地を象徴的な値段で売却するなんてのは、よくある話で、チェコでも各地に土地を整備して将来的には工業団地にしようとしている地方公共団体は多い。多すぎて買い手市場になってしまっており、1コルナなんて価格でも買い手がつかずに、空き地のままになっているところも多い。よそがうまくいっているからで、無計画にやるからこんなことになるのである。
 工業団地の空いた土地を埋めるために、国や地方が高額の助成金を出してまで誘致することもある。企業の側にとっては、立ち上げの経費が安く抑えられるメリットがあるのと同時に、早期に撤退すると助成金の返却を求められ、撤退しにくくなるという面もある。一昔前に、ある日系企業が、工場も建設されて生産開始を待つばかりになってから撤退したことがある。生産を開始して垂れ流す赤字と、これまでの赤字に返却する助成金を足したものを比べて、撤退したほうが損が少ないという結論になったらしい。

 そして、安く払い下げてもらった土地に、ごみが埋まっていたという話を聞いて思い出したのが、数年前にブルノの知人から聞いた話だ。ある日系企業がブルノに進出しようとして、土地をただ同然の価格で譲ってもらった。しかし、いざ工場の建設を始めようとしたところ、第二次世界大戦中に埋設された地雷が埋まっていることが発覚したらしい。
 企業側は土地の受け取りを拒否し、市側に地雷の除去を求めたらしい。市側は廉価で土地を譲る上に地雷除去の費用まで負担するのは避けたいという意向で、一度は交渉が決裂寸前まで行ったという。最終的に、どちらが負担したのか、詳細は聞いていないけれども、工業団地として整備したときに気づかなかったのかよと言いたくなる。いや、不発弾が爆発しなかったのは、単なる幸運にすぎなかったんじゃないのだろうか。

 森友学園の場合には、事前にごみがあることはわかっていたようだから、このブルノのケースとは違うけれども、国有地を管理する国側が、しっかり調査してごみの処理をしたうえで土地を払い下げることにしていれば、問題なかっただろうにという点では、あまり変わらない。こういう、傷ありの物件の場合には、市場価格なんてあってないようなものだし、払い下げが済んでから発覚して損害賠償を求められるよりはましだったということか。

 その後、政治家が圧力をかけたおかげで安く払い下げを受けられたのではないかという話も出てきて、そこに安倍首相だけでなく、その夫人やら、別の政治家やらの名前が出てき。国会でも野党側も与党側もぼろぼろだったようで、正直意味不明である。こういうのは、やったやらないの水掛け論になりがちだからしかたがないといえば言えるのだろうけど。少なくとも散見した記事からは野党側が舌鋒鋭く首相を追い詰めたという印象は受けなかったし、与党側がうまく追及をかわしたという印象もない。昔はもう少し与野党の議論がかみ合っていたような気がするのは、気のせいだろうか。
 まあ、その点ではチェコもそんなに大きな違いはない。十年ほど前に、知人がある国立公園の管理事務所で働いているというお兄さんから聞いたという話を教えてくれた。時の総理大臣から電話があって、友人が狩猟をしたいと言っているから案内するようにと。管理事務所側がここは禁猟区なので狩猟は認められないと断ろうとしたら、総理大臣の権限だといって強引に押し切られたのだとか。今はここまで露骨なことはないだろうけれども、政治家や関係者が役人に圧力をかけて言うことを聞かせたとされる事例は、いくつもある。それが原因で政権投げ出した総理大臣もいたけど、あれはひどく無責任なやめ方だった。

 幼稚園で『教育勅語』を素読させるという教育のやり方も批判されていたが、問題は『教育勅語』なのか、素読なのか。素読なんて意味がわからないままに念仏のように唱えるわけだから、内容は何でもいいといえばいい。ただ、もっと他にあるだろうとは言いたくなる。『論語』の一節でも、読ませておけばここまで批判されることはなかっただろうに。漢文の素読をすることで、そのリズムになれ、古文の語彙にも親しむというのは、内容が理解できなくても将来の役には立つだろう。ただ、幼稚園児にというのは早すぎるような気もする。英語を教えるよりはましか。
 このいわゆるグロバリゼーションのなかで、国際化とか、国際規格とかいうものを押し付けられるのに嫌気がさした人たちが、右傾化、右傾化というよりは民族主義的な方向に走ってしまう気持ちはわからなくはない。外国に長く住んでいるからか、グローバル化の美名の元に自分の根っこのようなものが、侵食されていくような不安を感じることがある。こういう揺り返しが起こっているのは日本だけでもないだろうし。
 だからと言って自分では『教育勅語』も『論語』も読もうとは思わないし、読ませたいとも思わない。そうだねえ、読ませるなら白居易陶淵明(恥ずかしすぎる間違いをしでかしてしまった。4月18日修正)の「帰去来の辞」なんかいいんじゃないかな。あの冒頭の「帰りなんいざ」なんて、訓読は芸術的なまでに見事だし。ただ、これが学校法人の教育モットーに使えるかどうかは知らない。

 どうでもいいっちゃどうでもいいのだけど、今後はこの事件すこし注目して追いかけてみようかと思う。
4月5日9時。









posted by olomoučan at 07:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2017年03月15日

スリに注意(三月十二日)



 日本から来た方とお酒を飲んでいたら、その人が数年前にウィーンで遭ったクレジットカードの盗難の話になった。
 当時は、中東からの難民が問題になり始めたころで、ちょうどウィーンでも難民受け入れ反対のデモが行なわれていて、街中には警察官の姿が多かった。浮浪者のような男に付きまとわれているところに、警察官が現れて助けてくれたのだが、確認のためにと言われて財布を渡してしまったのが運のつきだった。警察官はちゃんと制服を着て、警官であることを証明する身分証明書を見せ、ドイツ語で書かれた一見ちゃんとしたものだったので、本物だと信じてしまったらしい。ドイツ語がわかったからこそ、信じてしまったという面もあるのかもしれない。
 警察の制服を着た男は財布の中身を確認した後に、返してきたから安心したけれども、実はその警官が偽警官だったようだ。財布が戻ってきてからしばらくして、なんだか不安になって中身を確認したら、紙幣が何枚か抜かれていて、クレジットカードが一枚だけ消えていたらしい。全部抜かないあたりが、用意周到な犯罪であることを思わせる。財布が空っぽになっていれば、その場で気づいたはずである。どうも浮浪者風の男とぐるで、証拠を手元に残さないように、抜いた札とカードはこっそり浮浪者風の男に渡してしまったのではないかと推測していた。それだとその場で気づいていても対応が難しかっただろう。

 現金はともかくクレジットカードは止めなければいけないということで、そのとき向かっていた施設についてすぐに電話を使わせてもらって、カード会社に電話をかけたら、ニューヨークに電話しろと言われて時間がかかって大変だったという。それでもカードを盗られてから一時間内外でカードを止める手続きはできたのだが、すでに三十万円引き出されているとカード会社から宣告されたらしい。
 保険の関係もあって、その後警察に出頭して被害届を出したら、「こいつだろ」と写真を見せられて、うなずいたら、「こいつは捕まらないから諦めなさい」と言われてあきれるしかなかったのだとか。この辺りの各国の警察の制服と証明書を、偽物だけど本物らしく見えるものを持っていて、一仕事したら別の町、別の国に移動するという形で仕事をする、言い方は変だが本物のプロらしい。

 そういえば、プラハにもルーマニア人のスリ集団が出稼ぎに来ているという話を何度か聞いたことがある。シェンゲン領域というものが出来上がって自由に移動できるようになったことは、領域内の人々にとってだけでなく、ヨーロッパを観光で訪れる人々にとってもありがたいことなのだろうが、自由に移動できるのは労働者や観光客だけではないのである。
 もちろん、プラハにいるスリがみな外国人だというつもりはない。ただ西に行くほど経済状態のよくなるこの地域では、プロのすりであれば、地元で稼ぐよりも割りのいい西に向かうのが続出するのは想像に難くない。チェコからも西に出ているスリ集団はいるだろうし、ルーマニアから来た連中だってプラハどまりではなく、ドイツ辺りまでは足を伸ばしているに違いない。大きな経済格差のある中で、国境を開いてしまえばこういう事態が起こるのは当然である。

 自分自身ではこの手の被害にあったことはないが、プラハの駅でちょっと荷物から手と目を離した瞬間に取られたとか、電車に乗り込むときに荷物を引き上げるのを手伝おうと申し出られて信用して持ち上げてもらったらそのまま持ち逃げされたとか、地下鉄で背広のうちポケットに入れておいたパスポートと財布をすられたとか、この手の被害に関する話は枚挙に暇がない。
 そしてウィーンの警察と同じように、チェコの警察もどうせ犯人は捕まらないし、盗られたものは戻ってこないから諦めろという非常にありがたいアドバイスをしてくれるらしい。人によっては、時間もなく、そんな聞きたくもない答えが返ってくるのがわかりきっているから、届出すらしない場合もある。ただ保険に入っていると被害届を出して、その証明をもらわないと保険が下りないので、予定を変更してでも警察に行くという人もいる、そしてその警察の対応に腹を立てて、チェコなんかこなければよかったという感想を持って日本に帰る人もいる。
 注意したからといって完全に防げるものではないのだろうが、盗られるときには油断と思い込みが原因であることが多いので、チェコに来るときには十分以上に気を張っていてほしいものだ。スリに物を取られたことが原因でチェコが嫌いになるというのはできれば避けたい。いやチェコの手続きの煩雑さとか、サービスの悪さとかそういうもののせいで嫌いになるというのなら仕方がないかとあきらめもつくのだけど。
3月12日23時30分。


posted by olomoučan at 07:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2017年03月06日

何じゃそれ(三月三日)



 大学に入って、学校の週五日制にむけて、公立の学校では土曜日を月一で休みにすると聞いたときには耳を疑ったし、週五日制が実現されたことを知ったときにはふざけるなと思った。俺なんざ、大学でも土曜日に授業があったのにという嫉妬めいた気持ちがあったのは否めないが、我々のときですら、質が落ちた量が減ったと言われていた高校までの教育内容を、これ以上減らしてどうするのだろうと思ったのだ。
 その後、円周率の計算に、3.14ではなくて、3を使うようになったという話を漏れ聞いたときには、笑うしかなかったというか、日本はこれで大丈夫なのかと思ってしまった。授業について行けない、いわゆる落ちこぼれが存在するのは、確かに由々しき問題であるけれども、落ちこぼれをなくすために、勉強の内容を簡単にするというのは本末転倒というか何というか、中国の緑化活動が岩に緑色のペンキを塗って完成というのに通じるものを感じてしまった。

 自分たちの生活にかかわりかねないことで、政府のやっていることがどうしようもなく馬鹿だなあと思ってしまうようなことはいくつもあって、ハッピーマンデー制度なんてのが始まったときにも、考え出した奴の正気を疑ってしまった。月曜日が休みになれば三連休になるから、ちょっとした旅行やリゾートに出かける人が増えるだろうなんて短絡的なことを考えるのは、想像力が欠落しているに違いない。そんなのに出かける人間は、出かける余裕のある人間は、連休なんぞになっていなくても、有休とってでも出かけるものだし、休みになろうが出かけない人間は出かけないのだ。
 仮に、最初は国がそんなことを言っているからとわざわざ出かけるにしても、同じ時に休みが重なるから、日本中から集まった人ごみに嫌気がさして、二度と行くまいということにもなりかねない。休みが重なったときの日本人の特定の場所への集中ぶりなんてのは、ゴールデンウィークの過剰な混雑を見るまでもなく理解できるだろうに。ただの週末であっても、人の多さに辟易させられるのだから、三連休なんてことになれば、推して知るべしである。
 その結果の一つとして、大学なんかでは月曜日の授業は回数が減りすぎて科目として成立しないため、休日だけれども授業をしたり、土曜日に代替の授業を行ったりしているという話も聞いた。ということは、ハッピーマンデーのハッピーには学生を含め大学関係者は含まれていないようだ。それともそんな休日の授業はサボっちまえというのだろうか。休日であっても仕事をしなければならない人たちにとっては、休日勤務で給料が増えるというなら話は別だけど、何の意味もないどうでもいい制度だろう。この制度が導入されてよかったと考えている人たちはいるのだろうか。

 そして、今回、プレミアムフライデーとかいうのが始まったらしい。カタカナで書けば効果がありそうに見えると考えているのだろうか、安直なネーミングで、プレ金なんて略し方には、かつての花金、花木と重なるものを感じる。あれは政府が言い出したことではなかったが、マスコミが使うのに踊らされている人たちを他人事のように見ていた点では変わりはない。今回の制度の趣旨も具体的な内容もよくわからないけれども、結局意味のないものに終わってしまうような気はする。

 チェコに来てよく考えてあるなと思ったのが、小学校から高校までの一週間の春休み(二月なので時期的には冬休みだけど、クリスマス前後を冬休みと考えて春休みにしておく)が地域によって異なっている点である。地方単位で異なるのではなく、同じ地方内でも都市によって、プラハなど市区によっていつ春休みになるかが異なっている。
 これは同じ時期に春休みにしてしまうと、スキー場などに一度に子供たちが集中して対応しきれなくなるので、休みの時期をずらすことによって分散するようにしているらしい。スキー場を訪れる客にとっても、スキー場にとってもありがたいシステムである。親が子供の休みに合わせて休暇をとるにしても、大企業であれば全員一度にということにはならないから、企業にとってもありがたい制度なのかもしれない。
 日本もこれに習って、地域別の休日とか決めてしまえばいいのに。県単位、市町村単位で休日がずれるようなことにすれば、多少は人の集まりを緩和することができるはずだ。固定の祝日ならともかく、移動する祝日なんて、その日でなければならない理由は失われているわけだから、学校ごとにどの日を休みにするか決めさせるのも悪くない。そうすれば授業の回数が足りないから、本当は休みだけど授業なんて、何のために祝日を移動させることにしたのかわからなくなるような事態は避けられるはずである。

 プレミアムフライデーとやらも、金曜日にはこだわらないで、別の曜日でもいいことにしてしまえば、少しはましじゃなかろうかとも思うのだけど、決めた連中が何を求めているかがよくわからないので、何とも言えんなあ。またまたなんじゃそりゃという内容になってしまった。
3月3日20時。


posted by olomoučan at 08:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2017年03月05日

警察馬(三月二日)



 自分で書いておきながら、本日の題名をどう読むのがいいかなやんでしまう。「けいさつうま」「けいさつま」「けいさつば」、どれも音読みだから、「けいさつけん」を考えると悪くないのだろうけど、ピンと来ない。
 とまれ、チェコに来てパトカーには乗せてもらったことがある。サイレンは鳴らしてもらえなかったけど。救急車で運ばれたこともある。このときは痛みで死に掛けていたから覚えていないけど、急患として病院に運び込まれたからサイレンは鳴らしていたはずだ。だから後は消防車に乗ってしまえば満足だと思っていたし、そう公言してきた。

 しかし、もう一つ乗ってみたい、いや乗るためには訓練が必要で、そんなことはしたくないから、乗せてもらいたいものがあったのを思い出した。それが表題の警察馬なのである。普通の乗馬にはあまり惹かれないし、競走馬に乗るなんてもってのほかだけど、警察の人が乗っている馬にはちょっと惹かれる。子供だったら警察のイベントで乗せてもらえるのかな。
 日本の警察にもいるのかどうかは知らないけれども、チェコの警察では犬だけでなく、馬も仕事をしている。初めて目にしたのは、ファン同士の対立があって危険があるとみなされるサッカーの試合の際に、よその町から電車でやってきたファンたちを警察が取り囲んで駅からスタジアムまで護送しているのを目にしたときだった。馬に乗ってファンたちと一緒に移動している警察官が何人かいたのである。

 何で馬を使っているのだろうと不思議に思ったのだけど、最近プラハの警察の馬部隊に新しい馬が三頭加わったというニュースでその理由がわかった。一つは、馬に乗っている警察官は高い位置から周囲を見下ろすことができることらしい。つまり集団の外側だけでなく、内部、そして反対側で何が起こっているかまで見通せるので、緊急事態に対処しやすくなるということだ。
 もう一つが、群衆を分散させるのに使いやすいということだ。自動車などを使うと、人間にぶつかった場合に、どうしても怪我人、場合によっては死人が出てしまう恐れがあるが、馬であればその危険も少ない。人間の警察官だけでは、警棒を奮っても群衆が分かれることはないが、馬の巨体が近づいてくるとついつい横に動いて避けてしまうものだという。それに動き出したり、止まったりするのが、自動車よりも急にできるというのもありそうだ。

 1989年のビロード革命のときの映像を見ると、デモ行進を押しとどめようとして警官隊が、プラスチックの片手で盾を持って、警棒を振り回してデモの参加者を殴り倒しているシーンがしばしば出てくるけれども、あの時も馬が使われていれば、流血の事態は避けられたのかもしれない。いや、あそこまで集団が大きくなると馬でもダメだったのかな。当時チェコの警察で馬を使っていたのかどうか情報がないのが残念である。
 サッカーのフーリガンだけでなく、移民排斥を求める右翼のデモ、それに反対する無政府主義者のデモなど、近年警察の馬部隊が活躍する場面が増えているような気がする。そんなニュースを見たときに、馬の上からデモの様子を眺めてみたいなと思ったのである。建物の上の同じ場所から見るのではなく、馬に乗ってデモと一緒に動きながら見るというのをやってみたいなと。実現はしないだろうけどさ。
3月2日


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2017年01月18日

悩み多きものよ(正月十五日)



 この題名で、時代は変わってしまったということについて書こうというのは、無理があるのは重々承知しているけれども、「時代は変わっている」と言うと、中島みゆきではなく、斉藤哲夫の「悩み多きものよ」が頭に浮かんでしまうのである。またまた、読み手を選ぶ書き出しで申し訳ない。
 先日会った日本の方が、若いのに「トルコ」という言葉を、昭和の終わりに使われなくなった特殊な意味で使用しているのを聞いて、いくつなんだろうと不思議に思ったのだけど、人のことはいえないのである。同時代よりも、一昔前の音楽や文学に惹かれることが多かったのだ。ああ、だから再放送だらけの、七十年代、八十年代の音楽やドラマ、映画が繰り返されるチェコが心地いいのか。

 それはともかく、最近停滞気味の『小右記』関係であれこれ史料を漁っている。日本から本を取り寄せるようなお金はないので、ネット上で手に入るものを探すと、本文はすでに書いたように東京大学資料編纂所が、『大日本古記録』の各ページの画像データを提供しており、しかも裏にテキスト化されたものがあるようで、検索をかけて必要な記事を探せるようにもなっている。学生時代に、思い切って大枚はたいて、『大日本古記録小右記』全十一巻を購入したんだけど、今の学生はそんな必要もないということか。あの時は購入してからかなり経って、最終巻に大きな印刷ミスがあるのに気づいて、岩波書店まで交換をお願いしに行ったのだったなあ。
 この『大日本古記録』については、かなり前から知っていたのだが、気がついたら『大日本史料』も同じようにデータベース化されて、画像データが提供されていた。これは学生時代には、こちらが見たい年代の編集が終わっておらず、まだかまだかと思っていたのを思い出す。今でも完全には編集は終了していないのだろうが、以前は存在しなかった、年代の分冊も刊行、いやネット上に公開されていてうらやましくなってしまう。

 知らない人にちょっとだけ解説すると、『大日本史料』は、歴史上の出来事について、典拠となる史料の関係ある記述を引用して、まとめた史料集である。体裁としてまず日付があって、その日に起こった出来事が項目として立てられ、その後に史料の引用が続く。一つの件に複数の史料が引用されていることも多い。『扶桑略記』のような私撰の歴史書から、『大鏡』のような歴史物語、『小右記』のような個人の日記、それにどこで読めるかもわからないような史料からの引用もあって非常に重宝する。日付がはっきりしない出来事に関しては月ごとにまとめて月の末尾に掲載されているんだったかな。対象となる時期は、六国史以後なので、平安時代の宇多天皇の時代からということになる。
 学生時代には、この『大日本史料』よりも、『史料綜覧』を利用することが多かった。こちらは引用の本文はなかったが、出典が上がっているので自分で記事を探す際の参考にできたのだ。とはいえ、こんなものを個人で自宅に持っていても仕方がなく、出典となる史料を確認できる大学などの図書館でなければ使う意味はあまりなかった。

 しかし、今や『小右記』もネット上で閲覧できる時代である。『大日本史料』とは違って本文の確認はできないが、手元においても損はないような気がしてきた。もちろん、ネット上で使用できるのならである。そこで、もしかしたらと、国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で検索を掛けてみたら出てきてしまった。それどころか、『大日本史料』うち刊行年代が古いものも閲覧できるようになっている。画像の表示に時間がかかるのが玉に瑕だけど、チェコから閲覧できることのありがたさを考えたら、贅沢は言えない。
 閲覧だけでなく、書く見開きページを画像としてダウンロードして保存することもできた。だけど、何百ページもあるものを、見開きだから半分になるとは言っても、一枚一枚落としていくのは面倒で、何か方法はないかと探したら、印刷ボタンで、PDFファイルを作成できることに気づいた。一度にPDFにできるのは最大五十ページなので、いくつかに分割する必要はあったが、一枚一枚ちまちまやっていくのに比べたら、雲泥の差である。

 この近代デジタルライブラリーでは、『公卿補任』『尊卑分脈』、史料大成版の『小右記』、それに『北山抄』も、発見できてしまった。儀式書の『北山抄』なんか、詠む機会はないだろうなあとおもいつつ、小野宮流の公任の著作だし、実頼の『水心記』の逸文もありそうだよなあとか考えて、せっかくだからダウンロードしてしまった。貧乏性である。『北山抄』は、この手の蔵書の豊富だったうちの大学の図書館でも閲覧できなかったんじゃなかったかな。『西宮記』があればいいと考えて探しもしなかった可能性もあるけど。

 とまれ、ジャパンナレッジのおかげで、『新編古典日本文学全集』『日本国語大辞典』『国史大辞典』なんかも、ネット上で使用できるようになっているのである。ということは、今の国史国文の大学生って、一部の史料の版が古いことを気にしなければ、大学の図書館にこもる必要はないってことじゃないか。図書館の閲覧室の机の上に史料を積み上げていた昔が懐かしいぜ。
 あとは、『平安時代史事典』と『大漢和』、『漢文大系』あたりがネット上で使用できるようになるところまで時代が変わることを期待しよう。
1月16日22時30分。

 クリスマス休みには、PDF化した『公卿補任』を、ソニーのリーダーに放り込んで眺めていた。あれこれ発見があってなかなか楽しかった。ちょっと時代遅れが回復できた気分である。1月17日追記。


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2017年01月17日

平成の終焉(正月十四日)



 この日、ここ何年か恒例になっているオロモウツ在住の日本人の新年会のようなものが行なわれたので、比較的暖かい、とは言ってもマイナスだとは思うけど、雪のちらつく空の下、えっちらおっちら歩いて、会場の聖バーツラフ醸造所の飲み屋に出かけた。日系企業関係者や、留学生など、欠席者もかなりいたのに、二十人以上の日本人が集まっていて、オロモウツの日本人も増えたなあと感慨深いものがある。
 いろいろな方々とさまざまな話をさせていただいたのだが、一番驚いたのが、平成が三十年で終わりそうだという話だった。昨年の今上陛下のビデオメッセージを受けて、政府で譲位と即位、そして改元についての話し合いを始めていることは知っていたが、いつものことで、何かの進展があるまでには、まだまだ時間がかかると考えていた。何せ、保守系の論客たちさえ現状では譲位は難しいのではないかという発言をしていたようだし。

 話によると、2019年の一月一日に新天皇が即位し、改元も行なわれるということのようだ。ということは平成は、三十年の十二月晦日までで、新元号の元年が一月一日から始まるということになる。平成元年のように、一年が二つの元号にまたがるというのを避けるためなのだろう。そうなると、日本人にとっては未だに重要で在り続けている年賀状などのために、新元号は早めに発表されることになりそうだ。
 昭和に生まれ、昭和に人格形成期を送ったので、平成という年号にはあまり思い入れはない。当時の元号の発表の際、官房長官の発音が何か変でちゃんと聞き取れなかったのも一因かもしれない。それに、昭和までは、元号を使用するのが一般的だったのに、平成に入って次第に西暦を使用するのが一般的になっていったのも、それから、日本以外での生活の方が長くなってしまったのもその理由になっているか。

 それでも、次の元号が何になるのかは気になる。とっさに候補となりそうな言葉が頭に浮かぶほど、中国の古典に詳しいわけではないし、過去の元号をすべて覚えているわけでもないので、これがとは言えないのだが、「和」の字は使ってほしい気がする。平成の「平」は、地の平らかならんことを、つまり平和を祈念しての使用であったであろうことを考えると、すでに昭和で遣われて入るけれども、次は「和」を使う番かなと。
 兵革のことにかかわりそうな、「武」の字は避けた方がよさそうだ。現行の制度では、年号が、崩御の後の諡号として使われることは確実だが、象徴天皇に天武、桓武など、武断派で強権を発揮したイメージのある天皇とつながる諡号はそぐわない気がする。鎌倉幕府を倒したものの好き勝手やって南北朝、観応の擾乱の引き金を引いた後醍醐の選んだ年号が建武だったのも縁起が悪い。

 まあ、素人の一般人があれこれ想像してもあたることはないだろうから、いわゆる識者達の発言を待つとしよう。近年の流行に流されて、公募するとか、候補をいくつか挙げて一般の人に投票させて決定するなどというのは絶対にやめてほしい。あの手の一見民意とやらを尊重しているらしいやり方は、単なる責任の放棄に過ぎない。ここは本物の有識者、古典に詳しい人たちに厳密な審議をして、今上陛下、および新天皇の意向もくんだ上で、有象無象どもの雑音を排し断固とした態度で新年号を決めてもらいたい。どんな元号が選ばれたところで、いちゃもんをつける輩は出てくるものだし、最初のうちは違和感を感じてしまうものだ。平成も慣れるまでに時間がかかったし。

 思い返せば、昭和六十三年の後半、日本社会は天皇不予とそれに伴う自粛の嵐に翻弄されていた。テレビも軒並み特別番組で、東京の人に言わせると、テレビ東京が普通の番組を放送していたというのだけど、民放が二局しかない田舎を舐めちゃいけない。両方とも延々特別番組を流していた。
 当時はテレビ東京なんて存在も知らなかったし、そもそも地方局にチャンネルを合わせているわけで、番組が東京のどのテレビ局で制作されたものなのかなんて、意識したこともなかった。受験勉強を口実に、家族と一緒にテレビを見ることも少なくなっていたから、テレビの内容はあまり気にしていなかったようなきもする。
 それよりも心配は、天皇の崩御と入試の日程が重なったらどうなるのだろうというもので、高校の先生たちがあれこれ対策を考えていたのではなかろうか。平成の終焉は、このような混乱とは無縁のものになりそうだけれども、その後の来るべき上皇の崩御の際に、どのような対応をとるのか、今回の譲位改元に関する議論の中で、ある程度の合意を形成しておいたほうがいいのではないだろうか。ただ、今回だけの特別の事例にしようとする政府側の意図が見え隠れしていることを考えると、場当たり的な対応に終始して、昭和末年ほどまでは行かなくても、自粛ブームが再現されて社会に混乱を巻き起こすのではないかという懸念が拭い去れない。

 実現まであと二年、外つ国から気楽に眺めさせてもらうことにする。
1月15日15時。


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2016年12月16日

全面禁煙(十二月十二日)



 日本では、2020年の東京オリンピックに向けて、外国から応援に来た人たちが不快に感じないように、飲食店の全面禁煙の導入を目指しているらしい。これ、正直やめたほうがいいと思う。非喫煙者が一番不快に思うのは、煙草が吸えるとわかっている飲食店での煙草ではないのだ。

 もちろん、禁煙の店が少ないのは問題だから、完全禁煙の店を増やすことに反対する気はない。ただ、全飲食店が禁煙になってしまうと、今でもちょっと見苦しいレストランや、飲み屋の入り口にたむろして煙草を吸っている集団が増えるのではないかと心配である。特に冬場は、入り口のできるだけ近くで吸おうとするので、出入りの際に邪魔になることもあるし、店の前を通るときにたばこの煙に包まれて不快な気分になることもある。そして、喫煙者のマナーの悪さを反映して、営業時間外に店の前を通ると、たばこの吸い殻がいくつも落ちている。
 日本だと飲食店だけではなくて、コンビニの前で煙草を吸っているのも目に付くことになりそうだ。特に深夜二十四時間営業の店舗の前に誘蛾灯に誘い寄せられた餓のように、煙草を吸うために寄り集まってくる人々の姿は、外国人の目には奇異に写るに違いない。そして、その集団が入り口をふさぐように煙草を吸っていたら、出入りの邪魔になるだけでなく、出入りの際に煙草の煙をかがされることになって、不快感を感じることもあろう。

 そう考えると、外だから煙草を吸えるようにするのではなく、特に道路に面したところ、人通りのあるところでは煙草を吸えないようにした方が、景観上も、他人にタバコの煙を吸わせないという面でもよさそうだ。もちろん歩き煙草なんてもってのほかである。あれは不快なだけではなく危険でもある。
 だから、やはり喫煙は屋内で、屋内の決められた空調設備の整った場所でさせるに限る。下手に飲食店是面禁煙なんてことにすると、喫煙者が路上に出るようになるだけである。それは、決して現在の状況を改善することにはならないだろう。ならば、調理師から従業員まで全員喫煙者の飲食店で、空調設備も最高のものが整ったお店にだけ、喫煙の飲食店としての営業を許可するというのはどうだろう。そして客も基本的に喫煙者だけにしてしまうのだ。

 考えてみれば、オリンピックで日本に来る外国人だって、全員が全員非喫煙者ということはあるまい。飲食店を全面禁煙にしてしまうと、外国から来た喫煙者が不満に思うかもしれない。それに日本で、外国から来た大男達が店の前で煙草を吸っていたら、その店には近づきたくないと感じてしまう人も多いだろう。店の中で座って食事なり飲酒なりしていれば、また感じ方が違うのだろうけど。
 正直な話、飲食店の全面禁煙は、路上の状況を悪化させるだけだろう。禁煙の店が増えることはいいことではあろう。しかし一定数は喫煙できるお店を残しておいたほうがいい。それを認可制にすると、新たな利権ということになりそうなのが問題なのだが……。

 飲食店よりも完全禁煙にしてほしいものがある。それはホテルである。以前、日本に帰ったときに、禁煙の部屋を頼んでいたはずなのに、数が足りないとかで普通の部屋にまわされたことがある。空調設備はもちろんあったので、煙草の煙が残っていて臭いが不快というほどではなかったのだが、内装に染み付いたものがあったのだろう。なんだか鼻の奥にぴりぴりと感じるものがあって、滞在中体調があまりよくなかった。一緒に行ったうちのは、そういうのに敏感なので体調を崩して、二日三日の東京滞在中、ほとんどずっとホテルで寝てすごすという二重の苦痛を味わわされたのだった。
 飲食店なんてせいぜい、数時間しか過ごさないようなところよりも、下手すれば一日の半分を過ごしかねないホテルの部屋の方が、本気で喫煙による不快感を減らしたいと考えているのなら、早急に対策されるべきものであろう。煙草の煙は、その場でかがされるものよりも、染み付いて残ったものの方が不快である。健康被害についてはしらないけれども。

 いや、本気で煙草による健康への害をなくそう、医療費への負担を減らそうと考えているのなら、他にやるべきことはあるだろう。本当に喫煙が喫煙者の健康を損ない、排出された煙が非喫煙者の健康を損なっており、その分、健康保険に負担がかかっているのであれば、喫煙者の保険を別枠にして保険料を上げてしまえばいいのだ。そして、喫煙者用の保険に入っている人にだけ煙草を販売するようにすればいい。生命保険ではおそらくすでにそうなっているはずだから、それを健康保険に導入するだけである。いや、逆に非喫煙者の保険料を下げるという形にした方が反発が少ないか。

 ついでに、飛行機の運賃を体重が軽い人には割引するようなシステム、もしくは、平均体重より少ない分、荷物の重量を増やしてくれるようなサービスを導入してくれないものか。飛行機の運行経費の多くを占める燃料費なんて、重量に比例するのだから。我々チビで体格もよくない人間は、人生において背が高くて体格もいい連中に比べたら、大きな不利を背負って生きているのだ。それぐらいの役得があってもいいじゃないか。バスや電車で座れないときに手すりを掴むのに背伸びし、靴を買いにいけば、サイズがないので女物や子供物の靴を買わされる小さな男の僻みである。
12月12日23時。


 チェコでも飲食店全面禁煙の法律が可決されたらしい。しかし、歩き煙草については特に気にかけてもいないようである。12月15日追記。


posted by olomoučan at 08:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言
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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



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