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2017年10月04日
日本大丈夫か再(十月一日)
日本の政治の現状を、第二次世界大戦前のドイツのナチスの権力掌握と、第二次世界大戦後のチェコスロバキアにおける共産党の権力掌握の時期になぞらえるようなコメントを頂いた。現在の日本に住んでいると、いつの間にか社会が引き返せないところまで行き着いてしまうような不安を、感じてしまうと言うことなのだろうか。
1930年代のドイツの場合には、第一次世界大戦後に成立した世界で最も民主的だとも評価されたワイマール憲法に元ずく所謂ワイマール共和国末期の政治的、経済的な混乱の中からヒトラーの率いるナチスが台頭してきたのだった。当時の閉塞感の中では、暴力的なナチスのやり口も行き詰まりを打破するものとして歓迎されたのだろう。それだけ既存の政治に対する失望、絶望が深かったと言うことも言えそうだ。
最初は一部の熱狂的な支持だったものが、まさかまさかと思っているうちに、ドイツ中に広がって気が付いたときには反対の声も上げられなくなっていたというところか。最後まで熱狂に巻き込まれずに冷静でいられた人々は、どうしようもないという諦念と無力感にさいなまれていたことであろう。ユダヤ人でなくても、亡命を余儀なくされた人たちもいただろうし。
第二次世界大戦直後のチェコスロバキアでは、共産党が勢力を伸ばした。戦前も存在していたとはいえ、与党の一角になるような大きな勢力を誇っていたわけではなく、第二次世界大戦中の抵抗運動の中で存在感を発揮することで、一般の民衆の間の支持を増やし、戦後最初の総選挙では、過半数は取れなかったものの、第一党となったのである。その結果、旧東側諸国の中でも唯一合法的な手段で共産党が政権を握ることになった。ただしこの時点では連立与党の中心として首相を輩出したにとどまる。
当時のチェコスロバキアの人々が共産党を支持した理由は、第二次世界大戦に至る過程で、イギリス、フランスの「裏切り」によって、ミュンヘン協定を飲まされたにもかかわらず、戦争を防ぐことができなかった現実に対する絶望、つまりはイギリスやフランスは頼りにならなかったという意識にあろう。それよりはソ連にすがったほうが国の安全が保てるという共産党の主張はある程度の説得力を持って受け入れられたものと考えられる。
それに、ミュンヘン協定までの課程で、譲歩を重ね、国内的にもズデーテンドイツ人たちの勢力を押さえることに失敗したベネシュ大統領とその取り巻きの政治家たちに対する失望というものも大きな役割を果たしたはずである。マサリク大統領の片腕として活躍し、その後継者として大統領に選出されたとはいえ、マサリク大統領ほどの求心力は持てなかったのである。
そして、第二次世界大戦勃発前の原則として話し合いで国際問題を解決しようという姿勢が、結局はナチスのごね得という形に終わり、戦争の勃発を防げなかったという反省から、1948年に共産党が対話ではなく、実力行使によって独裁的権力を獲得したことを、強く支持した人々も多かったはずである。
ドイツのナチスとチェコスロバキアの共産党の例から言えそうなのは、政権の中枢にいなかった勢力が、社会の閉塞感や行き詰まりを打破してくれるのではないかという民衆の期待と共に、勢力を伸ばして、その伸びが期待通りではなかったときに、暴走して取り返しのつかないところまで事態が進んでしまうことがあるということだろうか。期待通りに支持を延ばして一気に独裁的な権力を握って暴走する可能性もあるし、共産党の場合にはソ連からの指示というものも大きな役割を果たしただろうけどさ。
そうなると、チェコではANOあたりをもっと警戒したほうがいいのかもしれない。ANOに対しては、うさん臭さは感じつつも、既存の政党よりはましだろうという一点において、高めに評価していたのだが、評価を改めたほうがよさそうだ。ANOを支持しないからと言って既存の社会民主党や市民民主党を支持するのもなんだし、チェコの共産党は日本の共産党とは違って必要悪と割り切ってしまうわけにもいかない。チェコの有権者は日本以上に大変だなあ。
現在のチェコの状況が30年代のドイツ、終戦直後のチェコスロバキアと比べてどうなのかはわからないが、ビロード革命で中心となった政治家が次第に姿を消し、大物政治家がいなくなった結果、今後のチェコの政治がどちらに向かうのか状況は混沌としている。それに、EU加盟直後のEUに入りさえすればすべてはよくなるという楽観論が姿を消し、ドイツの主導するEU内にいることに対する閉塞感は確かに存在する。
ANOは例の「コウノトリの巣」事件に絡んで党首のバビシュ氏がEUからも批判されていることもあって、他の党に比べてEUに対しては批判的な面がある。今回の選挙でANOが第一党に躍進し、ゼマン大統領と結びついて、EU離脱なんてことを言い出すのが、最悪のシナリオか。そこまでの暴走はしないと思いたいけれども、暴走というのはしようと思ってするものではなく、してしまうものである。EUが、いや、ドイツがその辺をもう少し考慮してくれればと思うのだけどねえ。
暴走と言えば、現時点でポーランド政府がかなりやらかしているので、チェコの今後を占う上でも目を離せない。その意味ではハンガリーも同様なんだけど、直接の隣国でもなく、スラブ系でもないせいかあまり情報が入ってこないのである。
翻って日本を見ると、今回の解散総選挙で既存の政党で権力を握る自民党が勝ったとしても、暴走というところまでは行くまいということになるのか。逆に、新党が勝ってしまった場合には、舞い上がって暴走する可能性はなくもないような気がする。ただ、あれから情勢が変わって新党も迷走を重ねて失速気味なので、最悪の事態にはならないかな。
10月3日16時。
ジャパンナレッジがお友達優待キャンペーン(ちがうかも)というのをやっているようなので、紹介しておく。
http://japanknowledge.com/camp/mgm/?km=1104867
2017年10月01日
日本大丈夫か(九月廿八日)
野党と一部のマスコミが共同で、緊迫する世界情勢に背を向けるようにして重箱の隅をつつくような攻撃で安倍首相を追い詰めたつもりになっているようだったのも、二重国籍問題に関して二枚舌を責められて野党第一党の党首が辞任に追い込まれたのも、そのあと茶番劇の用や党首選挙が行われ予定調和のように党首が選出され、一部の党員の国会議員が逃走を図ったのも、日本の政治のどうしようもなさを見せつけられてきた身には、日本だからなあこんなこともあるよなと納得できた。
国会議員たちが不倫だなんだで攻撃されているのにも、そんなの政治とは何の関係もなかろうにとあきれると同時に、日本人は自分のことは棚に上げまくって他人を責めるのが好きなんだなあと思わずにはいられなかったが、これもまだ日本的な政治というものの枠内に収まっていたような気がする。
北朝鮮のミサイル実験や核弾頭の開発の継続の問題で、アメリカと北朝鮮の間の対立が高まる状況の中で、安倍首相が衆議院の解散を決めたというニュースには、最初は意外な思いがした。今解散する必要があるのかと、疑念は感じたけれども、安倍支持派の、今なら選挙をやって政府が不在でも何とかなるけれども、北朝鮮とアメリカの対立が深刻化して本当に一触即発の事態にまでなってしまったら選挙なんかできなくなるから、解散なしで来年の任期満了までひっぱったら任期満了で古い議員がいなくなって、新任の議員を選出することができなって国会も内閣も機能しない状態で北朝鮮問題に対峙することになる恐れがあるという説明にちょっと納得してしまった。
問題は、首相がそのことをちゃんと説明せずに、アリバイ作り的に北朝鮮対策に対する信を問うとか、消費税を上げて福祉とか幼稚園問題に使うという言い訳めいた理由を述べていることで、そんな中途半端なことを言うから大義なき解散とか何とか批判されるのだ。すぐには朝鮮半島での戦争が起こりそうなところまでは来ていない現時点で、総選挙を行って次の選挙まで四年という時間を確保するというのは、ものすごく重要なことで、十分以上に現時点で総選挙を行なう理由になると思うのだけど。
もう一つの問題は、この件に関して、いやこの件だけではないが、日本のマスコミが完全に親安倍と反安倍に分裂していて、痘痕もえくぼ的な、もしくは坊主憎けりゃ袈裟まで憎い的な報道に終始している点で、中庸の穏当な報道があまり見当たらない点である。政権とマスコミの癒着というのはどこでもありそうな話であるけれども、日本では野党とマスコミの癒着というのも普通になっていて、完全に二分されている印象である。それが日本のマスコミが信用を失いつつある理由の一つになっているのだろう。ヨーロッパ的な視点で日本の報道の自由に対する評価が低いのは、全く気にする必要はないが、マスコミ自体が右であれ左であれ、必要以上に政治化しているのは危惧すべきことであろう。
繰り返すけれども、それでも、この辺りまでは、日本で生活し、チェコに来てからも日本の動向をネットを通じて追いかけてきた人間にとっては、日本だしこんなこともあるよねで済んでいたのだ。それが、大きな期待の元に都知事になり、地域政党をでっちあげ都議会選挙に圧勝した人物が、新しい国政政党を立ち上げたという話と、ほぼ同時に新しい党代表が決まったばかりの野党第一党、民進党だったっけ? が、その新しい党(どうせまた名前が変わるから覚える気はない)と合併するというような話を読んだときには、思わずチェコ語で「ティ・ボレ」とか、「イェジュシュ・マーアリア・ヨゼフェ」と言いそうになった。
さらに、合併ではなくて民進党?が解党して、個々の議員、候補予定者が新党に公認を申請する形になるという話には、もう開いた口がふさがらなかった。責任ある野党ってどこに行っちまったんだろうか。何のための党首選だったのだろうか。あの党首選も十分以上に茶番で笑い事でしかなかったけどさ。チェコでもここまで笑うべき事態になったことはないぞ。EU議長国を務めていた時期に首相が退陣に追い込まれて、国会の解散もできずに暫定内閣でしのがざるを得なくなったことで、世界の笑いものになったけれども、日本の今の混乱に比べればかわいいものである。
それに輪をかけてひどいのはこの新党の動きを評価する向きがあることで、正気を疑うレベルである。主義主張が同じだからというわけでもなく、事前に政策についての話し合いを行なって合意に達したというわけでもない状態で二つの政党が事実上合併するというのは最悪のことじゃないのか。共通点はなんとしても国会議員になりたい、議員の座にしがみつきたいという妄執でしかない。
これこそ大儀なき野合と言う奴で、こんな党に、名前が新しいからといって何が期待できるというのか。新しいのはイメージだけで中にいるのはこれまでの政治家がほとんどなのだから、期待できそうな新人がいたとしても、既存の政治家に毒されて同化されてしまうのは目に見えている。それなら、新党としてはチェコの大金持ちが金にあかせて政治未経験の候補者を集めて作ったVV党や、一緒に仕事をした連中を引き込んで結党したバビシュ党ことANOの方がはるかにましに見えてしまう。
野党側と言うか、非自民勢力が、選挙に負けたり支持率を落としたりするたびに、政界再編という美名の下に、理念なき離散集合を繰り返して存在意義を低下させている中で、自民党は選挙に負けて下野しようが、離党者が出て勢力を減らそうが、自民党であり続けているのだから、相対的に評価が高まるわけだ。自民党だけでなく、自民党以外でも政治家なんぞを志す人種が、権力の亡者で国庫に巣食う鼠族の類でしかないことを90年代以降の「政界再編」とやらがすでに証明しているのだから、まだしも自民党の方がましとしか言いようがない。
日本に住んでいたころ、選挙権は必ず行使していた。つまり毎回投票に出かけていたのだが、自民党にも自民党の候補にも投票したことはない。自民党を支持したことはないし、今も自民党を支持しようと言う気にはならない。それでも、かつての社会党よりも醜悪な新政党を支持することなんかできはしない。いやあ、今の日本は自民党嫌いにとっては生き難い時代になったねえ。まともな頭をしていたら、抗議の意味を込めて白票入れるか、必要悪と割り切って共産党に投票するかしかないのだから。緑の党のような環境テロ政党がないところだけはヨーロッパよりましだけどさ。
これで、都知事が辞任して衆議院選挙に出馬して当選し、首相になるなんてことになったら、日本はもうどうしようもない国になってしまったということになる。そんなことになるぐらいだったら安倍首相の方がましだというのが、外国から見ていての感想である。正直、今回の新政党が選挙に勝つようなら、村上龍の『愛と幻想のファシズム』が現実化した方がましな気までしてしまう。いやはや日本も大変である。
2017年9月30日11時。
2017年09月09日
大学無償化追加(九月六日)
もう一点ふれておくべきことがあった。高校や大学の無償化の目的の一つは、学歴によって固定化されつつある富裕層と貧困層の格差を減らそうということであろう。三十年以上も前から、過度の学歴重視というものが、批判され問題視されていながら、改善されたようには見えないし、最近では問題視すらされていないように見える。
問題は、この大卒を重視しすぎる風潮への対策として(対策ではなかったのかもしれないけど)、大学の入口も出口も広げてしまったことにある。その結果、大卒の肩書を持つ人間が増殖し、それにふさわしい知識、能力を身につけていない者がいるという事態が起こってしまった。
すでに三十年ほど前のバブル期に、学生側の売り手市場だったせいで企業が焦って学生の確保に走った結果、使い物にならない新入社員を大量に抱えて困っているなんていう話が学生にまで聞えてきていた。大学の数が今ほど多くなく、大学に入るのも卒業するのも今ほど簡単ではなかった当時にしてこうだったのだから、現在の状況も推測できそうである。
就職活動に関するノウハウが研究され、マニュアル本が大量に刊行され、多くがそれに従って就職活動をするというのも、正直いいことだとは思えない。それに、底辺ランクの大学の学生が就職活動で、上位の大学に伍していけるとも思えない。となれば、大学の数を増やしたことは何の対策にもなっていないことになる。
ならば、文部省、いや国のやるべきことは、大卒という肩書を判断基準に使わないことである。かつての司法試験のように、あらゆる国家試験から学歴条項を取っ払ってしまえばいい。そうすれば、経済的な事情で大学に行けなくても、勉強しようという強い意志さえあれば、官僚にだって医師にだってなれるようになる。実際に独学で医師試験に合格するのは難しかろうが、門前払いになっているよりは、はるかにましである。
医師資格について言えば、現在パラツキー大学の医学部で勉強している学生たちは、大学を卒業して、チェコで医師として働けるという登録が許可されてからでないと、日本の国家医師試験を受けられないことになっている。問題はその日本側が求める資格、書類が、チェコ側のどれに当たるのかがわからないことで、卒業してチェコの医師会に登録をしたはいいものの日本の医師試験を受けられるのかどうか不安がっている人もいた。
そこで、学歴条項を取っ払ってしまえば、パラツキー大学の医学部を卒業した時点で、いや、卒業する以前にも国家医師試験を受験することができるようになる。合格するかどうかは、ただただ本人の努力次第である。
パラツキー大学もそうだが、外国の医学部に通うという決断をした人たちの多くは、経済的な理由による。日本の医学部に支払わなければならない金額を貯めるのは不可能だったから、日本に比べれば廉価に済むチェコの大学に来ているのだ。こういう経済的な問題を抱えながらも、自分の意志で勉強しようと考えるだけでなく、実行している人たちにこそ支援は与えられるべきである。
学歴による規制をなくすという支援が行われれば、無理して大学に、場合によっては日本の大学に行く必要はなくなる。大学で四年間みっちり勉強した人のレベルに、独学で到達するのは至難の業であろうが、学生という身分を盾に遊び暮らした連中を追い抜くぐらいなら、仕事をしながらでも大して難しいことではあるまい。もちろんちゃんと意欲を以て独学できる人に限るわけだけれども。
そうなると、将来的には、一般企業の採用からも大卒の条件を外したほうがよさそうだ。現在は大卒というのが一つのフィルターになって、応募者の数を減らしている面があることを考えると、共通一次的な就職のための試験を導入してもいいかもしれない。一般教養と外国語、それに専門的な知識を問う専門分野別の試験を準備して、受験生は必要な物だけ受ければいいということにする。企業の側は志望者に対して、この分野でこれ以上の成績の人の中から選抜するなんてことにすればいい。分野は一つにしないで組み合わせてもいいし、大学入試で使われた傾斜配点なんてのをやってもいいだろう。そうすれば、膨大な数の学生が押し寄せる現状よりはましにはなるまいか。
問題は、文学とか実際の企業での仕事には役に立たない専攻の人気がますますなくなることだろうか。まあ、文学なんてものは、昔っから何の役にも立たないごくつぶしのやる贅沢だと決まっているのだし、就職を棒に振ってでも文学やりたいっていう酔狂な輩はどんな時代にも一定数いるものだ。そんな連中は、いい会社に就職したいなんてことは考えもしないから、まともな就職ができなくても実害はない。
本気で貧困と、貧富の格差の固定を何とかしようと考えているのなら、学歴がその原因になっているというのなら、これぐらいのことはしてほしいものである。コネしかない無能な学生を排除することもできそうだし、そんなのは親の金を食いつぶしていけばいいわけだしさ。政治の世界でも二世議員、三世議員には、能力をチェックするための試験を課すぐらいのことはしてもよさそうだなあ。
以上、所詮は異国の地からの妄言の類ではあるけれども、久しぶりに日本語で日本について頭を使って書いたので疲れてしまった。
9月8日13時。
2017年09月08日
大学無償化(九月五日)
知らないうちに、進学率が上がりほとんど義務教育と化した高校の無償化が進んでいるらしい。県立高校だったので大した学の学費を払ったわけではないし親が払ってくれたからお金が架かるという実感はなかった。それでも高校に上がったときには、それまで無料で配布されていた教科書が有料になり、英語などの辞書の購入も求められたことで、義務ではなく自分の意志で勉強を続けるのにはお金が必要なんだということは理解できた。
だから、高校で真面目に勉強するようになったというつもりはない。小学校、中学校を通じて自宅でも勉強することが習慣になっていたからこそ、高校でもそれが継続できたのだし、受験勉強が本格化した後も、徹夜で勉強なんて無茶なことはしなくても、それなりのレベルの大学にも合格することができたのだ。もう30年近く前の話だから、偏差値も変わっているだろうけれども、実際に選んで入った大学は、模試なんかで出る自分の偏差値よりは下のレベルの私立大学だった。
大学を選ぶのに偏差値で選ぶというのに反感を抱いていたし、田舎の国立至上主義にもイラついていたので、勉強したいことの学べるその大学のその学部を選んで進学したのだった。お金は親に出してもらったけど、大学でも大学の授業だけではなく、学内の研究会にも所属して勉強したし、学会に参加したこともある。アルバイトもしたけれども、手に入れたお金の大半は酒代と本代に消えていた。
自分が大学であれこれ勉強したことを自慢するつもりはない。当時の大学生というのは、勉強しない学生もいたけれども、多かれ少なかれ、これを勉強したいという目的意識を持って大学に入った学生も多かったので、勉強する学生は自分で勉強の場を見つけて、カリキュラム以上の勉強をするのが普通だったのだ。
さて、そこで考える。現在の政権では大学の国費負担による実質的な無償化を検討しているらしいが、高校の完全無償化も含めて、それは本当に必要なことなのだろうか。高校の無償化に関しては、学費の安い公立の高校に入れる子供の多くが、あるていど裕福な家庭の子供たちばかりになっていて、経済的に問題のある家庭の子供が学費の高い私立高校に行かざるをえなくなり、さらに経済的に苦しくなっているという現状があるらしい。
その結果として、大学も貧しい家庭の子供が通えるのは、学費が高い私立大学しかないという面があるらしく、以前、どこぞの新聞のネット上の記事でお涙ちょうだいの貧しい家庭の子供にも学ぶ権利を与えるべきだとかいう記事を読んだ記憶がある。その記事に対してコメントは避けるが、大学の無差別の無償化は絶対にやめたほうがいい。ただでさえ文部省手動の元、教育という名のビジネスになっている私立大学、とくにレベルの低い私立大学が、新たな貧困ビジネスとしなるのは目に見えている。
教育において、貧困家庭(これが正しい言葉なのかどうかはわからないが)に対して支援するべきなのは、高校でも大学でもない。小学校、中学校である。小学校で毎日自宅で予習復習をして翌日の授業に臨むという習慣を身につけられた子供であれば、塾なんぞに通わなくても公立の高校に合格できる程度の学力はつけられるはずだし、高校でも習慣のように勉強していれば、東大は難しいにしても、地方の国立大学ぐらいなら楽に合格できるはずだ。こういう学生に対してであれば、高校大学の学費を完全に国費で負担するのに反対する気はない。同世代で最高のレベルとまではいえなくても、自ら勉強する能力があるわけだから、大学での学習を実のあるものにしてくれることが期待できる。
しかし、試験などあって無きが如しといわれる底辺の大学にしか入れないような学生に対して税金をつぎ込むのは無駄以外の何物でもない。その手の大学にしか合格できないということは、小学校から高校までの12年間、まともに勉強していないということである。そんな人間が、大学に入ったからといって人が変わったように勉強し始めるとも思えない。高校でも同様である。
だから、もし本気で、経済的に問題のある家庭の子供が、それが理由で進学できないという問題を解消するのであれば、繰り返しになるが、お金をつぎ込むべきは初等教育である。公立の小学校の先生の数を最低でも倍にし、一クラスあたりの生徒の数を減らすか、クラス担任を二人にするかして、勉強ができない、成績が悪いという意味ではなく、勉強しようとしない子供に勉強する習慣をつけさせる指導をする必要がある。
学校の授業を集中して聞くのは当然だが、自宅でも自主的に勉強する子供を育てる必要がある。経済的に問題があるなら、他にすることがないから勉強をするという方向に持っていけると思うのだけど。その自宅で勉強するための教材を提供すればいい。もしくは放課後に学校に残って勉強する許可を与えればいい。教員の数が増えれば監督することもできるはずである。
現在の日本の教育内容であれば、小学校の一年生から勉強する習慣をつけていければ、塾なんぞに通う必要はない。そして、そんな子供たちであれば、高校受験で底辺の私立にしか入れないということはないだろうし、大学受験でもかつて駅弁大学と揶揄された地方の国立大学ぐらいだったら余裕で合格できるだろう。そのレベルに到達できないのなら、わざわざ大学に進学する必要もあるまい。
こうすれば、所謂貧困家庭の子供たちであっても、裕福な家庭の子度たちと同じ土俵で勝負できる。その結果、一定レベル以上の高校大学に入った子供たちに、親の年収によって奨学金を出せば、効果的な国費の使い方ということになる。今の一律誰にでもどこにでも垂れ流すように金を出そうというのは、どぶに捨てるようなものである。
文部省が、本当に日本の大学のレベルの全体的な上昇を狙っているのであれば、天下り先の確保のために認可した底辺の私立大学をすべて廃校にして、大学生の数を減らすことだ。何の競争もなく、大した苦労もせずに入った大学であれば、しかも学費も国が負担してくれるとなれば、辞めるのにも抵抗はないだろうし、勉強しなくても卒業できてしまうのだから、大学生と呼ぶにふさわしい知識の持ち主が生まれてくるとは思えない。
まあ、天下り先にはなりそうもない小学校に己のことしか考えていない文部官僚が、天下り先の大学へ以上にお金を出すとは思えないけど、大学の無償化はこれ以上ないレベルでの愚策だと断言しておく。
9月7日23時。
2017年09月06日
くたばれドイツ礼賛(九月三日)
九月一日の金曜日にプラハで行われたサッカーのチェコ代表とドイツ代表の試合で、ドイツ人どもがあれこれやらかしてくれた。日本ではドイツを無批判に称賛する傾向があるけれども、ここ数年のメルケル首相の言動も含めて、そろそろ目を覚ましてまっとうに評価するようにした方がいい。今年の選挙でもまたメルケル首相ということになりそうで、EU内の弱小国チェコに住む身としては、正直な話、うんざりである。これで、イギリスのEU離脱とフランスの新大統領の誕生によって生じたEUがまともな道に立ち戻るという希望は、ほぼ消えたと言っていい。
最大の問題は、メルケル首相もその支持者も、自らの正義に陶酔するあまり、周辺に対する配慮が欠けていることである。それが、特に旧共産圏諸国に広がりつつある反EU、反ドイツ意識の原因である。権力者が自己の正義に陶酔してそれに国民を巻き込んでいくというのは、一国の権力を掌握するという点では、きわめて有効な手法である。権力者自身は覚めていて、民衆を陶酔させるという手もあるか。
その国民を正義に酔わせる政治手法の芸術的なまでの例がヒトラーのナチス・ドイツであることを考えると、 主義主張がどうあれ、どこぞの国の権力者が国民を自らの正義に陶酔させるのは、他国にとっては多大なる迷惑でしかない。第二次世界大戦時の日本も、大東亜共栄圏とかアジアの開放とか耳ざわりの言い正義を叫んで、国民を戦争へと送り込んでいったのだったなあ。宗教的正義に陶酔して中東に惨劇をもたらした十字軍なんて存在もある。
またまた枕が、無駄に長くなってしまったが、サッカーの試合で問題を起こしたのは、メルケル一派とは、主義主張が全く違い自己陶酔度もうえをいくネオナチの集団である。この試合、開始前になくなったばかりのチェコのサッカー協会関係者を追悼するための黙祷が行なわれたのだが、連中はそれを無視して騒ぎ続けていた。
それだけではなく、試合中にナチス式の敬礼をして「ジーク・ハイル」と叫んだり、ネオナチの人種差別的な内容を含む歌を歌ったりしていたという。これに対してドイツの選手たちは、抗議の意味で、普通試合後にチームのファンの前で行う感謝の儀式?をボイコットした。その理由としては、ネオナチだけではなくて、ライプツィヒ所属のウェルネルが得点を挙げたのにブーイングにさらされたというのもあるのかもしれない。
このネオナチのグループは、ドレスデンのサッカーチームのファンだったことが判明している。200人ほどでプラハまで出かけてくるなんてはた迷惑な奴らである。ドレスデンのある旧東ドイツでは、統一後も西側のとの経済格差がなくならず、ネオナチの人種差別的な排斥思想がはびこっているという話は知っていたし、なぜかチェコにも存在するネオナチのグループと親交を結んでいるという話もある。それがサッカーの試合でここまで表に出てくるとは思わなかった。
今回の件では警察で、カメラの映像をもとに個人を特定して拘束する予定だという。すでに十人以上が捕まったといっていたかな。ということは、いつもは判別されないように顔を隠そうとかぶっている覆面を外していたということだろうか。外国だったので油断があったのかもしれない。
ここまでは、よくある過激派の暴走だったのだが、この件に対するドイツのサッカー協会の関係者のコメントが最悪だった。それによるとこんな事件が起こったのは、チェコのチケットの売り方が悪かったからなのだそうだ。ドイツだったらこいつらに入場券が販売されることはなかっただろうというのである。ドイツ国内で販売した分は、ドイツのサッカー協会が管理して販売したのでネオナチの手に入った可能性はないが、チェコではドイツでスタジアムに入ることが禁じられているような連中でもチケットが買えるのだとか。
ドイツ人がチェコに出かけてやらかした迷惑行為の責任がチェコ側にあるなんてことを主張するのが今のドイツなのである。仮にドイツでこいつらにチケットを販売しないと言うのが本当なのだとしたら、スタジアムに入れない連中のリストがあるはずである。では、では、どうしてそのブラックリストに載っている危険なファンの情報をチェコ側に提供しなかったのだろうか。いや、チェコでやっているようにスタジアムでの観戦を禁じられたファンに対して、試合時間中に警察に出頭するように命令しておけばよかったのだ。ドイツとプラハの両方にいることはできないのだから。
この試合、実はもう一つ大きな問題を起こしていて、それは入場のチェックが厳重すぎて当初の予定よりもはるかに時間がかかってしまい、試合開始に間に合わなかった観客が多数出てしまったのだ。これだけ厳重なチェックが行われるということは、身分証明書の提示なんかをも求められていたはずだし、ドイツ側がブラックリストを提出していれば、販売のところでは止められなくても、入場の時点ではじき出すことができたはずである。
最近の無責任ドイツというか、よその国に責任を押し付けるのが得意なドイツの面目躍如と言ったところか。こんな連中のまねをしたところで日本がマシになるとは思えない。ドイツを無条件に礼賛してきた連中は恥を知るがいい。
9月5日24時。
寝ぼけた頭で書いているので支離滅裂になっているかもしれない。9月5日追記。
2017年08月03日
飲而語、語而復飲(七月卅一日)
土曜日の三人での宴は、当然酔郷に及んだのであるが、自邸での饗宴ではなかったので着ているものを脱いで与えるには至らなかった。当然の話ではあるし、こんな『小右記』を読んでいる人にしか通用しない冗談から始めてしまうのは、どこから書き始めていいのかわからないからである。断片的な話の内容に取り囲まれて、どちらに進んでいけば出口の光が見えてくるのかもわからない、迷宮の中にいる気分である。
とりあえず、土曜日にいろいろ話をしたなかで考えたことを、思いつくままに記してみようと思う。まずは世界に恥を撒き散らしつつある政治の話だが、二人とも政治的には特に支持する政党があるというわけではなさそうだった。ネット上で読む新聞などの政治記事は、個々のマスコミのフィルターがかかっていて、日本で普通に暮らしている政治的に右でも左でもない人たちの考えというものが見えてこない。だから日本を離れて長い人間にとっては、貴重な機会でもある。
マスコミが客観性を失って自らの正義に陶酔してしまっては、存在意義を失うことになると思うのだが、日本のマスコミにはそれに対する危機感さえないようである。自己の正義に陶酔することが許されるのは、せいぜい宗教家と革命家ぐらいのものだ。ただしこの二つに現代の社会で存在意義があるかというとそれはまた別問題であるが。
とまれ、二人とも現在国会で行なわれているらしい茶番劇にはうんざりしているようで、ほかに重要な議論されるべきテーマがいくらでもあるはずなのに、それらをすべて放り出して、よく言っても針小棒大としか言えない疑惑を元に、延々と無意味な追及を続ける野党側は評価のしようもないと言っていた。だからと言って、首相の側を評価するかというと、そんなことは全くなく、ここまで議論が紛糾してしまった原因は首相の不用意な言動、特に周囲にお友達ばかりを集めた政権運営に問題があると批判していた。
与党の支持が下がっても、野党の支持が上がらず、その反対にもならないとなると、新政党の出番だと言いたいところだが、都議選で躍進した東京都の新しい地域政党ももぐりこんだ旧来の政治家に牛耳られ始めているようで、与党に対しても野党に対しても期待できなくなってしまった層の受け皿にはなれそうもない。
そうなると、旧態依然のそしりは免れないだろうが、自民党内の権力闘争の中から、新たな首相が誕生して日本の政治が正常化(チェコ的にはあまりいい意味で使われる言葉ではないが)されるのを期待するしかない。ということで、安倍首相の次の首相候補の話になったのだが、何人か名前の挙がった候補は、年齢や能力などの面で、それぞれ一長一短というところだった。
ただ、二人の意見が一致したのは、小泉進次郎氏が将来の有力な首相候補となりつつあるということだ。次の首相というには若すぎ経験不足を否めないが、このまま経験をつめば待望論が出てくるのは間違いないと言う。何でも農協改革に力を入れていて、若さに似合わぬ老獪さで成果を挙げつつあるらしい。
正直な話、親の七光り以外にとりえのない典型的な世襲議員だと思っていたのだが、それは偏見だったようだ。父の小泉首相が自民党の支持基盤の一つであった郵便局を解体したのに続いて、自民党の大票田を解体しようというのだからなかなかのものである。
世襲議員が増えるのはよくない。女性の政治家の数が少なすぎるから女性の政界進出を支援しなければいけない。どちらも正しく、二世議員を制限し、女性の候補者を増やすのは必要なことである。ただそれを教条主義的に適用してはいけないということなのだろう。世襲議員の中にも本当に能力のある人はいるし、女性だからという理由で能力を超える地位を与えてしまえば失敗するのである。
その失敗した女性政治家の象徴とも言うべき二人が、同日にそれぞれの役職を辞任したわけだけど、その差が三時間しかなかったという話を聞いて笑うしかなかった。野党の党首のほうは、かつて無責任に政権批判しておけば、一定の顧客のニーズを満たせるテレビのコメンテーターを務めていたという話で、コメンテーター的に批判のための批判に終始したのでは共産党の党首は務まっても、政権奪取を狙う野党の党首は務まらない。二重国籍の問題がなくても、遅かれ早かれ辞任に追い込まれたであろうことは想像に難くない。
防衛大臣のほうは、安倍首相のお友達内閣の象徴らしい。辞任のきっかけとなった出来事自体は、本人の責任というよりは、法的な位置づけのはっきりしない自衛隊を、法的にはっきりしない任務に送り出さざるを得ない状況を作り出したまま放置した政治家全体の責任であろうが、能力の欠如を批判されても仕方のない言動を繰り返していたようである。できるだけ話題になりにくいように、野党の党首の辞任直後に辞任したという姑息さは本人のものなのだろうか。首相の指示という可能性もあるのか。
問題が発生したことを貴貨として、自衛隊の海外派遣の条件、任務についての法律の見直しと整備を訴えるぐらいの芸は見せてほしかった。今の自衛隊の国外任務のあり方は、国際的に見ても国内的に見ても健全なものではあるまい。今のままでは、黙って死んできてくれと言って任務に送り出すことになりかねないのである。
この二人以外にも女性政治家の不始末が相次いでいて、女性の政治家の比率を上げるための優遇が、かえって女性のさらなる政界進出の妨げになっている。男性にも世襲議員を中心に、不始末を起こした女性議員以上に無能なポンコツ議員はいるはずだから、本当に政治的に有能な女性を見出してふさわしい地位につけていくだけでいいはずなのに、与党も野党も有権者受けがいい見た目のよさで女性を評価するからこんなことになるのだ。
かつて、小泉首相が、自民党をぶっ壊すとか何とか言って、派閥や当選回数などそれまで重視されていた選抜の基準を無視視して、閣僚の任命を行なった。あれが、実力主義の選抜だったのかも、あれによって自民党がどこまで変わったのかも、よくわからないが、今の自民党は、小泉以前の自民党と大差ないようにも見える。野党のほうも社会党並みだから自民党が勝っているという面もありそうだけど、自民党の窮状を救うとして期待されているのが、かつての自民党的にあとを継いだその息子だというのも、皮肉なものである。
うーん。酔郷の迷宮から光にたどり着くところまではいけなかったなあ。酔いの残った頭で考えていたときは、光をたどって楽園にまでたどり着いた気がして、コメンスキーとお酒の関係について考えた説を証明できそうだと考えていたのだけど。酔っ払いの頭の働きなんて所詮そんなものってことか。
8月1日12時。
2017年07月25日
二重国籍の問題3(七月廿二日)
承前(あんまりつながってないけど)
今回の件で、理解不能なのが、件の野党の党首を筆頭に、一部のマスコミ、国会議員の中に、この二重国籍の問題を差別とつなげようとする向きがあることである。過去に外国籍を売り物にしていたことがあり、自らの存在を党の多様性の象徴だと主張する人物の出自を云々することが、どうして差別につながるのだろうか。
仮に、帰化したことを隠して議員になった人の出自をあれこれ憶測して、あることないこと記事にしたりするのであれば差別と言ってもよさそうだし、対立候補の出自を攻撃の材料にするなんてもの差別的だといっていい。ただ、その場合でも、選挙に立候補する以上は、自らの経歴を出自も含めて明かすべきではないかとも思う。
去年だっただろうか、どこぞのテレビのコメンテーターが、発表していた経歴が嘘ばかりだったということで袋叩きにあっていた。テレビのコメンテーターなんて、そこに嘘があったとしても、経歴も含めて、エンターテイメントであるはずである。それを、鬼の首を取ったように、マスコミがぼろくそに批判していたことを思い出すと、今回の野党の党首が二重国籍を隠していたことを批判する声が小さいのは理解できない。
情報公開、情報公開というお題目の元に、何でそんなことまでという情報を垂れ流すことを求められるの現代の社会なのだ。政治家になろうというのなら、そのぐらいの情報を表に出すことは覚悟の上であるべきだし、他人に知られたくないのであれば、政治家なんぞにならなければいいだけである。
それに、今回の野党党首の問題は、疑惑が浮かび上がったときに真摯に対応していれば、ここまでこじれることもなく戸籍謄本を公開する羽目にはならなかったはずである。今回の会見にしても、記事を読む限り、仕方なく謝罪をしているようにしか、もしくは悪いと思っているわけではないのに、ただ単に党の支持率がこれ以上下がるのを防ぐために謝罪のふりをしているようにしか見えない。
この辺、執拗に批判している首相を含めた与党の政治家たちと大差ないと言うか、これが日本の政治家という人種なのだろう。与党も野党も、こんな体たらくなのだから、チェコみたいに政治と関係のないところから、政治の現状にうんざりしている人たちの受け皿になるような政党が出てくることを期待したいところだけど、日本の場合に中途半端に既存の政治家を巻き込んでしまうから、すぐに既存の政党と大差なくなってしまうんだよなあ。日本の有権者も大変である。何でも反対する野党であることにしか存在意義のない共産党に政権を取らせるわけにもいかないし。
ところで、日本の左翼、左翼系のマスコミってのはいつの間にここまで落ちぶれたのだろう。昔はもう少しまともなことを主張していた気がするのだけど。
かつてこんな話を聞いたことがある。学生運動華やかなりしころの話である。金田だったか、金子だったか、とにかく金のつく名字の学生が、バリケードの中で仲間の活動家に、ここでは在日であることを隠す必要はないんだと言われた。自分は在日ではないと答えると、お前は仲間が信じられないのか、ここには在日だからといって差別するような人間はいないと言う。
そんな説得というか、脅迫というかが、本人が在日であることを認めるまで延々と続けられたらしい。ただ、問題はその金田さんだか、金子さんが、本人が最初に主張したように在日の人ではなかったという点である。
どこかで、在日の人で本名の名字が金の人は、日本名として金子とか金田という名字を使っているという話を聞いてきた学生活動家が、そういう名字の人はみな在日の人だと短絡した結果だったという。当時の左翼の活動家の視野の狭さ、愚かさを笑うのにしばしば使われる挿話なのだが、今回の二重国籍問題を差別と結びつける人たちに比べればはるかにましである。
同和問題、在日問題のないところに生まれ育ったので、差別の実態は知らない。しかし、差別が存在する以上、差別されることを恐れて、自らの出自を隠してしまうのは仕方がないことだろう。問題は、そんな社会をよしとするかどうかである。一般人として生活をしていくのであれば、現状を受け入れてそれに対処していくだけでいいのだろうが、政治家や、普段から偉そうなことをこいているマスコミがそれでいいなんてことはあるまい。
言い換えれば、今回の件を差別につながると主張する連中は、現状の出自によっての差別はあるけれども、隠せば差別されない今の日本社会を肯定しているのだ。その点、かつての左翼の活動家達は、出自を明かしても差別されない社会を目指していたわけだから、どちらが真面目に差別問題について考えているかは、明白である。
今回の二重国籍問題を軽視していた野党党首本人の対応や、それを肯定するマスコミの報道は、二重国籍について真面目に考えている人たちや、二重国籍を解消するためにどちらかの国籍を選んだ人たち、そして、何らかの事情で二重国籍状態を解消しないで、もしくは解消できないで密かに生活している人たちをバカにしているように見える。
それに、ささいなことを差別だ差別だとヒステリックに叫ぶのは、差別を助長することはあっても、差別の解消につながることはあるまい。何でもかんでも差別だと言ったほうが勝ちという面のある現状は差別解消にとってもいいものだとは思えない。この場合、差別だと言うのであれば、二重国籍者に対する差別の実態が語るべきなのだ。それなら、支持のしようもあったのだけど、自らを被害者の立場にしようとする足掻きにしか読めなかった。
与党第一党の党首があれで、野党第一党の党首がこれって、日本もチェコを笑えんよなあ。どっちがマシか。チェコ政治家の方がマシに思えてしまうのだけど、チェコ語だと政治家の発言の細かいニュアンスまで理解できないからだという可能性もある。マスコミも何だか腰の引けた報道ばかりで、読むに値する記事を発信していたのはほとんど「アゴラ」だけだったというのもお粗末である。チェコの新聞は、バビシュ傘下の新聞でも、バビシュ批判を書くこともあるぞ。
7月24日10時。
2017年07月24日
二重国籍の問題2(七月廿一日)
承前
さて、今回の二重国籍の問題で、争点の一つになっているのが、二重国籍で国会議員になれるのかということだろう。報道を見る限りでは、可能なようだ。前例として元ペルー大統領のフジモリ氏が国政選挙に立候補した際に、認められたことがあるという。
このことの是非を語るだけの知識はないが、日本のマスコミであまり大きく取り上げられておらず、この件に関して自らの考えを述べる人が少ないのも不満である。成人後も二つの国籍を持ち続けるのは法律で禁止されているというのだから、公職に就くのも禁止されていると考えるのが普通であろう。それが、なぜ禁止されていないのか、今後禁止するべきなのかというのは、スキャンダルをただのスキャンダルに終わらせずに、建設的に活用するためにも、この機会に議論されてしかるべきだと思うのだが、そんな意見はほとんど見られない。
オーストラリアで二重国籍だったのが発覚して、議員が辞職し議員報酬の返還を求められているというニュースを報道しているところもあった。あの国この辺は白豪主義の時代から厳しいのだよ。知人の大学の先生が、昔オーストラリアで大学教授に就任したときに、オーストラリアの国籍の取得と、日本国籍からの離脱を求められたと言っていたし。個人的には、この議員の件については、禁止しているのなら立候補のときに確認しろよと思っただけである。
それはともかく、このオーストラリアの件をどう評価するのかという部分が見えてこない。報道したマスコミは、日本もそうあるべきだと考え、無視した側は、二重国籍の国会議員を認めてもいいと考えているのかもしれないが、それなら互いにそう主張して、かみ合った議論をしてほしい。無視した側は、自分たちの主張に都合が悪いから無視したという可能性もあるわけだけど。
与党、野党で、それぞれこの件について試案みたいなものを作ったことはあるらしいが、そこからは一歩も先に進まなかったという。正直な話、どこぞの大学の認可がどうこういう話よりも、はるかに重要で、日本の将来にかかわる問題であろう。グローバル化なんてのが果てしなく進んでいる現代において、二重国籍を有する人たちの数が増えることはあっても減ることはあるまい。
もう一つの問題が、批判にさらされている野党の党首が、二重国籍状態にあったことを知っていたのかどうかという点だけど、見苦しい言い訳だよね。
この人は、八十年代半ばの法律の改正で、母親が日本人で父親が外国人という場合にも、日本国籍が与えられることになり、その手続きをしたことを、「帰化」とか「日本国籍取得」とか言っていたらしいが、この時点では、十代後半で未成年だったらしいので、どちらの国籍を選ぶのか選択は迫られなかったはずである。しかし、過剰に親切な日本の役所のことだから、二十歳を過ぎたら二年以内に国籍の選択の手続きをしなければならないことを説明し念を押したものと思われる。
そう考えると、知らなかったとか、勘違いしていたとかいうのは、到底信じられない。繰り返すが二重国籍状態を放置していたことを批判する気は全くない。意図的に無視していたのならいたで、それにふさわしい行動をとるべきなのだ。無視していたのには何らかの主張が、それが消極的なものであったにしても、あったはずなのだから、国会議員に立候補した時点で、二重国籍のことを問題にして、将来に向けて日本が二重国籍を認めるべきなのか、禁止し続けるべきなのかの議論を巻き起こすべきだったのだ。それをしないのなら、二重国籍の人がわざわざ発覚するリスクを冒してまで、立候補する意味はない。
個人的には、二重国籍を合法にするにしても、何らかの制限はあったほうがいいと思う。例えば選挙権は認めるけれども被選挙権は認めないとか。考えてみれば、二つの国の国籍を持っていて、両方の国で被選挙権を有しているとすれば、理論上は同時に二つの国で国会議員になれるのである。同時にではないにしても、ある国の首相をやめた後に別の国で首相をやれたりするわけである。それはさすがに問題があるだろう。
被選挙権なんて選挙に出て政治家になろうなんて考える奇特な人たち以外には、不要なものなのである。多少の制限があったところで問題はあるまい。政治家や官僚なんぞになろうという人は、要は国の体制の中に入ろうという人たちなのだから、政治家としての特権を求めるなら二重国籍の特権を捨てろというのは、無茶な話でもあるまい。それに、そうしないと、国籍を一つしか持たない人たちに対して不公平である。片や、二つの国のどちらに住んでいても、選挙権、被選挙権を行使でき、片やどちらもひとつの国でしか行使できないということになるのだから。
仮に、世界中でどこに移住しても、選挙権、被選挙権を含めてその国の国民と同じ権利を持てるような世界にするというのであれば、話は別である。昔の未来SFによくあった地球連合だか連邦だか、そんな世界統一国家みたいなものになるわけだから、国籍そのものの意味が、現在の本籍地と大差ないものになってしまう。そうすれば二重国籍もくそもなくなってしまうわけである。
しかし、現実には、主権者=国民=国籍を有するものであるという国民国家の枠組みが維持されているわけで、地球国家みたいなものは影も形もない。おそらく、二重国籍の問題は、このグローバル化が進んでいく世界で、国家の枠組みをどうするのかという問題と結びついている。そこをちゃんと考えないままに議論を進めても、場当たり的な妥協、もしくは水掛け論に終わってしまう。現在のEUの問題も、そこに端を発している部分がある。EUが国民国家的な枠組みを、なし崩しにしようとする政策に、反発の声が高まっているのだと考えていい。
とまれ、もう少し続く。
7月22日22時。
2017年07月23日
二重国籍の問題1(七月廿日)
日本の野党の女性党首が、二重国籍状態であったのを隠して、国会議員になっていたというのが問題になっているようである。あれこれマスコミの記事を読んでもよくわからないところもあるし、外国に住む日本人として、思いついたことをまとめてみよう。
日本の法律では、成人の二重国籍は禁止されているはずである。日本人と外国人の両親の間に生まれた子供の場合には、成人するまでは二重国籍の状態が認められているが、二十歳になったら、どちらか片方の国籍を選択する必要があるというのが、これまで認識していた日本の二重国籍に関するルールである。
今回の一連の報道で知ることができたのは、二十歳になってから二年間の猶予があり二十二歳までに国籍の選択をしなければいけないことと、その際に日本の国籍を選ぶだけではなくもう一つの国の国籍から離脱しなければいけないということである。
二重国籍の状態であるからといって犯罪になったり罰を受けたりすることはないというのは知っていた。その辺の事情に詳しい知り合いが、日本とチェコの二重国籍状態の若いチェコ人に、大使館では国籍を選ぶようにいわれるけど、知らない振りをしてその状態を続けるのが一番いいと助言しているのを聞いたことがある。その人は、日本人として日本に滞在して語学学校に通って日本語を勉強して帰国した後、チェコ人として日本政府が奨学金を支給する国費留学生に選ばれて日本に留学したんだったかな。
それを見てあんまりいい気持ちがしなかったのは否定できない。サマースクールに来ていた同級生の中にもパスポートを二つ持っているのがいて、どんな得があるのか自慢げに語るのを聞かされたこともある。こちらは、もうむかついたとしか言いようがない。うらやましいと思わなかったといえば嘘になるが、むしろずるいと思う気持ちのほうが強かった。
パスポートを二つ持つということは、ある意味アイデンティティを二つ持てるということである。スパイものや、ハードボイルドなんかで苦労して偽造したり、大金を積んで手に入れたりする二つ目のパスポートが苦労することもなく手に入るのである。しかも両方のパスポートで名前を変えられたりしたら最高である。これをずるいと言わずして、何をずるいというのか。
二重国籍でパスポートを二つ持つこと自体を否定する気はない。法律で片方を選ぶように決められているからといって、絶対にそれを遵守しなければならないと言う気もない。二重国籍ならではの特権を享受するのもよかろう。ただその特権を当然のように考え、パスポートを一つしか持たない人間に自慢するのはやめてほしい。
そもそも、二つパスポートを持っていることが周知の事実になってしまったら、いざというときに役に立たないではないか。それなのに浅はかにも自慢するなんてのはもう、アマチュアの仕事だとしか言いようがない。法律に違反しているのを自覚した上で、ひっそりこっそり二つのパスポートを使い分けるか、二つ目のパスポートは肝心なときまで秘蔵しておくべきものである。
俺だって、今でこそ、もう二十年近く前の話だから、時効だとして自慢げに話してしまうこともあるけど、一度は支払った国民年金の掛け金の支払いを拒否していた頃は、自分から口にすることはなかったし、聞かれてもごまかすことが多かったぞ。年金への加入を強制ではなく任意にするように主張して政治活動でもしていれば、声高に叫んでいたかもしれないが、政治活動なんてものに時間をかけられるほど暇でもなければ、能天気でもなかったしさ。一応、年金がもらえるようになる年まで生きるつもりのない人間から金を巻き上げるのは不当だという主張はあったんだけれどもね。
とまれ、本題に入る前の枕がまた長くなりすぎたので、今日の分は本題に入らないことにして、チェコの話をしておくと、2014年に法律が改正されるまでは、成人してからの二重国籍は原則として禁止されていた。しかし、日本と同様に二重国籍の状態を解消せずに、放置している人もかなりの数いたはずである。
原則としてというのは、共産主義時代に亡命を余儀なくされた人たちが、亡命先の国籍を取っていた場合に、チェコに帰国してチェコの国籍の回復をした結果、二重国籍になるのは、帰国を促す意味でも求められていたと聞いたことがあるからである。もちろん亡命先の国が二重国籍を認めていることが前提であるけれども。
それが、2014年の法律改正で、公式に二重国籍を合法として認めるようになり、ロシア人などで元の国籍を残したままチェコの国籍をとる人が増えたらしい。同時にチェコの国籍を取るための条件が厳しくなり、求められるチェコのの能力のレベルが上がったりしたんだったかな。
元チェコスロバキア国籍だった人は、分離後どちらか片方を選択してチェコ国籍かスロバキア国籍かになっていたはずである。猶予期間はあっただろうけれども、チェコとスロバキアの二重国籍という人はすでにいなくなっているものと思われる。ビロード離婚とまで言われた分離の際の協定で、EU加盟以前から、普通の生活をしている限りはチェコの国籍でもスロバキアの国籍でも大差ない状態になっていたのだ。ただ選挙権、被選挙権は、また別問題なので、スロバキア出身のバビシュ元財相も現在の国籍は、チェコのはずである。
こんな認識をもとに、今回日本で問題になっていたことについて考えてみようというのであるけど、以下次回。
7月21日13時。
2017年07月03日
ウクライナ問題あれこれ(六月卅日)
1
民族主義的な傾向を強めて、ポーランドと対立を深めているウクライナだが、このたびEUとの間でビザなしで入国できるという協定を結んだらしい。将来のNATO加盟、EU加盟に一歩近づいたということなのだろうけれども、EUはどうしてこんなに急ぐのだろうか。
チェコテレビのニュースによると、ウクライナではEUに入るための加盟国のビザは、犯罪組織の資金源になっているらしい。どのEU加盟国の大使館も領事館も、無制限に申請を受け付けることができるわけではなく、順番取りのために行列ができる。行列ができないように整理券を配っているところもあるかもしれないが、順番取りと整理券を抑えているのが組織の連中で、申請者がお金を出せば順番が早くなり、出さなければ順番が回ってこないということらしい。
ウクライナ政府が、この状況にどんな対応をしているのかは知らないけれども、ニュースでは何もいっていなかったし、領事館の人が敷地内で起こることには手を出せるけれども、外で起こることには手を出せないと悔しそうに言っていたことを考えると、対策など何もしていないようだ。この手の組織は、あちこちに鼻薬を嗅がせているものだから、ウクライナでも役人が黙認していると考えるのが自然であろう。
そんな状況で、ビザなしでのEUへの入国が可能になったのだけれども、その理由のひとつは犯罪組織の資金源を断つというものではなかったかと疑ってしまう。何せ同様の理由で、麻薬を合法化することを検討するのがヨーロッパ的思考なのだから。ただし、就労のためのビザは必要なため、犯罪組織の資金源を完全に断ち切れたわけではないようだ。チェコの領事館では、現在普通に申請しようとすると来年の三月に受付ということになるが、ある組織にお金を払えば、即時に手続きが進むらしい。チェコテレビのレポーターが正体を隠してコンタクトを取るというレポートが放送されていた。
かつて同じような状況になっていたのが、プラハの外国人警察で、ビザや滞在許可の延長の申請をしにきた人たちからお金を巻き上げる組織があった。これもウクライナ人が関係しているとか言われていたかな。その後、あれこれ対策をとっていたので状況は改善されていると思うけれども、オロモウツのかつての外国人警察や、現在のプシェロフの内務省の役所の親切さには到底及ぶまい。
2
現在のウクライナとロシアの対立の発端は、エネルギー問題である。ロシアからヨーロッパ全域に石油や天然ガスを供給しているパイプラインの主要ルートはウクライナを通っている。旧ソ連時代から、ウクライナには安価に提供されていたのだが、ロシア側が一方的に値上げを通告したのが対立の原因だと考えられているようだけど、旧ソ連圏の問題がそんなに一面的で単純なわけがない。
パイプラインというものは、確かに効率のいい輸送方法ではあるのだけど、どんなに万全を期したところで全く漏れないということはないらしい。だからロシアの国境を越えてウクライナに入ったパイプラインの石油や天然ガスが、ウクライナを出るときには、大きく目減りしていたとしても、仕方がない面はある。ウクライナが正規に購入した分もあるわけだし。
しかし、ウクライナが購入した分以外の目減り量が、ウクライナの経済の悪化に伴ってどんどん増えていったらしい。漏れていたのではなく、漏らして回収していたのだ。いやそんな手順すら踏んで入るまい。長大なパイプラインを管理しているのがウクライナ側であることを悪用して、必要なだけ抜いていたのである。この辺は、共産主義の時代に蔓延した役得で盗めるものは盗めるときに盗んでおかないと後で後悔するという考え方を国家レベルで適用したものだと言える。
ロシア側としても、ある程度の抜き取りは、おそらくソ連時代からあったはずだし、計算に入れて黙認していたのだろう。抜き取りの寮が黙認できないぐらいにまで膨れ上がったことで、ロシア側が抜き取りをやめるか、抜き取った分も支払うように要求したところが、抜き取りというのは言いがかりだとウクライナが認めなかったため、売却価格を上げたということのようである。
そこにEUがくちばしを突っ込んだために、これはロシアからウクライナを経由して提供されていたガス、石油がヨーロッパに届かなくなるという懸念から仕方がなかった部分はあるが、ウクライナが反ロシアと、親ロシアに分裂する理由を与えることになったのは否定できない。親ロシア派は、ウクライナ東部に居住していたロシア系の住民が中心だったのだろうが、ロシア系の住民が高まるウクライナ民族主義に同調することはできなかったのだろう。
3
高校の世界史の資料集の地図を思い出してみよう。第二次世界大戦終結後、敗戦国のドイツは東方の領土を大きく削られた。その部分はポーランド領となるのだが、そのポーランドも領土を広げたのではなく、西方に領土が広がった分、東方の領土をソ連に譲ることになった。現在のウクライナ西部は、本来ポーランド領だったのである。
同様に、チェコスロバキア領だったポトカルパツカー・ルス地方も、それまではポーランドとハンガリーの間にささる楔だったのが、北側がウクライナ領となったことでソ連領に打ち込まれた楔となることが嫌われ、こちらもソ連領とされた。かの地のルシン人は、ウクライナ人だということにされてしまった。このあたりの民族というのは、政治的なものに過ぎないのである。
また、ウクライナ東部のクリミア半島を含むロシア人居住地域は、ソ連時代にロシアからウクライナに所属が変えられている。ウクライナ人のフルシチョフが、地元にいい顔をするために実行したとも言われているけれども、今となってみれば、余計なことをしやがったとしか言えない。この所属の変更がなされていなければ、現在ウクライナ東部で起こっている内戦も、2014年のロシアによるクリミア半島併合も起こりようがなかったのだから。
ウクライナ問題に関しては、本当はキエフ公国とモスクワ大公国の関係辺りから考える必要があるのだろうけど、そこまでは手に負えないから、最低でもロシア革命後の歴史的な経緯も踏まえて考える必要があるのだと言っておく。
7月1日23時。
本日の記事はいつも以上に脈絡のないものになってしまった。見切り発車でどうつなげるかを考えていなかったせいである。仕方がないので番号をつけて分割してみた。7月2日追記。