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2018年09月14日
紙の話(九月?日)
これもまたちょっと旧聞に属してしまうのだが、マスコミってのは本当にトランプ大統領が嫌いなんだなあと思わされるニュースを読んだ。トランプ大統領の政策に対して云々する気も、その能力もないけれども、こんなことまで大統領のせいにされるというのは、大統領冥利に尽きるというかなんというかである。
話はまたまたリサイクルとかかわるのだが、アメリカとカナダの関税交渉に関して、トランプ大統領がアメリカ国内でダンピングをしているという疑いのもとに、カナダ産の紙に高い関税をかけた結果、新聞用紙のコストが高騰し、新聞社の経営が悪化しているというのだ。特に地方の新聞社の状況がよくないらしく、例として挙げられていた地方紙では、毎週一回だか二回だか発行し無料で配布していた、いわゆるフリーペーパーの発行が財政難からできなくなって、編集者が解雇されたとか言う話だったかな。
この大風が吹けば桶屋が儲かる的な話に、納得してしまいそうにもなるが、よく考えたらいろいろおかしい。そもそも新聞社がフリーペーパーを発行する意味がよくわからない。意味があるとすれば、広告収入をあてにしての発行ということになろうか。その広告による資金集めがうまくいっていれば、たかだか用紙の価格が上がったぐらいで廃刊にすることはないだろうから、今回の件は廃刊の口実に使われたようにも見える。
それ以前に、広告収入に頼った新聞社の経営というのは健全だとは言えまい。日本のマスコミがおかしくなっているのも広告収入に依存しているのが原因の一つとなっているわけだし。それに以前からコンピューターの導入によって、紙の使用量が減れば、森林資源の保護につながるなんて主張があったことを思えば、新聞社が無料のペーパーをばらまくのは、自然破壊につながる行為ではないのか。無料で配布されるものを入念に読む人などいないだろうし、ただの紙の浪費である。
もう一つの疑問は、新聞用紙の価格が上がって採算が合わなくなったのなら、値段の安い紙に切り替えればいいんじゃないのかということである。新聞用紙であれば多少資質が悪くても問題ないはずだし、真っ白である必要もないのだから、再生紙でも完全に漂白されていないもので十分なはずである。そこでさらにもう一つ疑問。新聞にカナダから輸入した紙を使っているということは、アメリカの新聞は再生紙を使用していないということなのだろうか。カナダから輸入しているという新聞用紙が再生紙であるのなら、その事実を自慢げに記すだろうしなあ。
紙は一次使用された後に、回収して再生紙として新聞に使われ、さらに新聞紙を回収してトイレットペーパーやチリ紙に使うという、最低でも三段階の使用がなされるというのが日本にいたときのイメージなのだけど、アメリカやヨーロッパは違うのかね。日本でもチリ紙交換が廃れたなんて話もあるから状況は変わっているかもしれないけれども、新聞や週刊誌なんかに使用されている紙がそれほど高品質のものではなく、漂白も完全にはなされていない再生紙である点は変わっているまい。
そんなことを考えると、紙が100パーセントリサイクルに回っているとはいわないが、日本のリサイクルって実はヨーロッパやアメリカなんかよりもはるかに進んでいるのではないかという気もしてくる。チェコではジュースやビールの空き缶を回収するシステムもないしね。以前は缶ジュースや缶ビールはほとんど見かけなかったから、リサイクルする意味もなかったのだろうけど、最近は結構増えてきているから、リサイクル始めたほうがいいと思うのだけど。
話を紙に戻そう。かつて日本でも「地球に優しい」とかいうとち狂ったとしか思えないスローガンの下に、名刺なんかにまで「再生紙を利用しています」なんてことを印刷するのが流行っていたけれども、あんなのが日本で生まれたものだとは思えなかったので、ヨーロッパやアメリカの流行が日本に流れ込んだものだとと思っていた。だから最低でも日本レベルの紙のリサイクルは行なわれていると思っていたのだが、そうでもないようである。
仮にカナダから輸入しているという新聞用紙が再生紙であったとしても、何故わざわざカナダから、アメリカでも安価なはずの再生紙を輸入する必要があるのかという疑問が残る。プラスチックゴミに関してもそうだけど、最近流行っているらしいフードマイレージという考えを、リサイクルにも適用しようなんてことを言い出す人はいないのかね。そうすると現在のリサイクルのゆがみというか、リサイクルが逆に環境に負荷をかけているなんて事例も出てくるような気がする。
またまた予定外の方向に話が進んでしまったけれども、マスコミも同業者仲間をかばうようなことをして何でもかんでもトランプ大統領のせいにしてしまうところがあるから、大統領があれだけでたらめなことをしても、支持者が減らないんじゃないかな。日本も一部のマスコミは何でもかんでも安倍首相のせいにしてしまうし、報道の中立性なんてものは絵にかいた餅になりつつある。その点、チェコはバビシュ新聞が存在するとは言ってもまだましな状況かな。
2018年9月14日0時15分。
2018年09月12日
ストローを見て(九月?日)
先日知り合いの日本語ができるチェコ人と喫茶店に入った。最初はビールでもと誘われたのだが、体調が回復していなかったので、コーヒーにしてもらったのだ。30度は超えていなかったものの、チェコにしては暑い日だったからか、知人はチェコ語で「リモナーダ」というジュースを頼んでいた。ガラスのコップに注がれたジュースには氷がたくさん入っていて、ストローが挿されていた。
そのストローは普通のプラスチックの物ではなく、銀色の恐らく金属製のものだった。それで、そういえば大手のファーストフードのお店がプラスチックのストローをどうこうするなんてことを発表していたなあなんてことを思い出した。あれは、プラスチックから紙のストローに置き換えるとかいう話だっただろうか。
いわゆる環境保護意識の高い人たちは、こういうのに喝采を浴びせるのだろうけど、80年代半ばに環境意識に目覚め、90年代半ばに環境保護論者たちの論理についていけなくなって、環境保護にうるさい連中を信用できなくなった人間としては、賞賛する気になんかなれない。これが、ストローを必要とする商品の販売を中止するとかだったら、また話は別だけど、最近のストロー騒ぎを見るにつけ、90年代のあの不毛極まりなかった割箸撲滅キャンペーンを思い出してしまう。
増え続けるプラスチックゴミを減らすために、先ず隗より始めよで、第一歩として小さなストローを選んだのは理解できなくはないけれども、ストローをプラスチックから別な素材に置き換える前にできることはあるだろうと思ってしまう。恐らくファーストフードのお店では、今でも普通のコーラなんかの飲み物を購入した場合にも、もれなくストローだけではなく、ストロー用に切れ目の入ったプラスチックの蓋もついてくるのだろう。あれ、本当に必要なのか。
個人的には、レギオジェットで紅茶やコーヒーを注文すると紙コップにプラスチックの蓋がついてくるのが邪魔で仕方がない。こぼれないようにというのなら、最初から入れる量を八分目ぐらいにしておけばいい話だし、コーヒーなんか半分ぐらいしか入ってないのに蓋がついているせいで、注文を間違えられたこともある。ミルクなんかいらないと言ったのに……。たまに普通のカップでコーヒーを出してくれることもあって、そっちには蓋なんかついてないんだから、紙コップの場合もなくても問題ないはずである。
まあ、今回のストロー騒動の結果、EUの誇るプラスチックのリサイクルシステムが、実は機能破綻していたということが明らかになっただけでもましなのかもしれない。チェコもそうなのだが、EUではプラスチックゴミの回収率は非常に高くなっている。チェコなどニュースでこれ以上回収率を上げるのは難しいだろうなどと言われていたぐらいである。
問題は回収したプラスチックのゴミを資源としてリサイクルできているかどうかで、今回の騒動の裏には、EU内で回収されたプラスチックゴミのかなりの部分が中国に「資源」として輸出されており、そのEUからのゴミの輸入を中国が停止したという事実があるようである。つまり、EUのリサイクルは中国へのごみの輸出によって支えられていて、それが不可能になったことで破綻の危機を迎えているのである。それで慌ててゴミ削減の方向に舵を切って、スケープゴートにされたのがストローだったということなのだろう。
考えてみれば、EUで販売されるプラスチック製品の多くは中国製である。中国からヨーロッパに輸出されたプラスチック製品がゴミとなって中国に輸出され、再度製品としてヨーロッパに輸出されるというのは、リサイクルとして健全なのだろうか。中国がEU産のゴミの輸入を停止したのも、再度材料として使うのには問題のあるレベルの毒性があったからなんて話もあるから、EUが輸出していたのは資源としてのプラスチックゴミではなく、文字通りプラスチックのごみの山だったのだろう。
この件に関して中国の対応をあれこれ言う人もいるようだけれども、そもそも回収したごみを輸出しなければ成立しないようなサイクルをリサイクルと呼んでいいのだろうか。これでは昔日本が、規制の厳しい日本には建設できない工場を規制の緩いアジアの国に建設して、公害輸出と批判されていたのと大差ない。まあ、EUの中心たるドイツは、かつてドイツ企業がチェコに、ゴミを書類上は資源として輸出して北ボヘミア各地にゴミの山を作り出して放置した責任を放棄するような国だからなあ。気にも留めないのだろう。
環境問題に関してヨーロッパを先進国として崇めたてるところのある日本はどうなんだろう。ヨーロッパほど悪辣なことはせず、リサイクルの資源ゴミに関しては、変な言い方だけど地産地消を実現していると信じたいところである。もしくは、そのまま資源として利用できるところまで処理した上での輸出とかね。ただなあ、環境破壊でしかない畑や森林をつぶしての太陽光発電所の設置につながる電力政策では、日本もEUに追随する愚行を犯しているようだから、ゴミ問題でも同じようなことをしているかもしれない。
プラスチックのゴミによる海洋汚染がしゃれにならないところまで来ていて、太平洋の真ん中には海流の関係で集まったゴミに覆われた海域があるなんて話は、すでに何年も前から話題になっている。不思議なのはこの集められたゴミを何とかしようという声がほとんど聞こえてこないことで、ゴミの絶対量を減らすことで流出するゴミの量を減らすのと同じぐらい、海洋に漂うゴミを回収して流出したゴミの量を減らすのも従だろうに。技術的に難しいのか、経済的に割が合わないのか。
グリンピースあたりが大々的に資金を集めて、太平洋浄化プロジェクトなんてのを始めてくれたら、最大限言葉を飾っても胡散臭いとしか思えない環境保護系の団体も見直せるのだけどね。チェコからも参加者の多い、東南アジアの海岸でゴミ拾いなんて活動は、小回りの利く現地の小さな組織に任せて、一つ大きなことをやってもらいたいものである。
うーん。久しぶりにこの手の話を書いたら異常に時間がかかってしまった。日付の調整のために書き始めの日付で登録する。覚えてないから「?日」である。
2018年9月12日11時25分。
2018年07月20日
裏口入学(七月十九日)
文部省のお偉いさんが、私立の医科大学に便宜を図る代わりに、息子を入試で合格させるという取引をしたという容疑で逮捕されたらしい。相変わらず文部省の役人はと、あきれたのは当然ながら、これ、どうやって立証するのだろうかと不思議に思った。文書で契約書を残したりメールでやり取りするような間抜けなまねをしていないとは、文部省の役人のやることだから言い切れないけど、普通は口約束で済ませるだろうから、この役人が捕まったのは、大学側のリークがあったからかもしれない。
ただ、この問題は、役人と大学を批判してお仕舞いにすればいいというものでもない。この事件は文部省の大学に関する行政のゆがみを反映したものであって、私立大学が文部省によってがんじがらめにされており、官僚の要求に理不尽であっても従わざるをえなくなっている現状も批判されるべきである。何せ、文部省が推進している大学改革とやらは、たかが一完了の息子の入試合格と引き換えに変更できる程度のものでしかないことが明らかになったわけだし。
いわゆる裏口入学に関しては、国立大学であれば絶対に許されることではないだろうけれども、私立大学だとどうなのだろうか。わけのわからない推薦入試なんてものもあって、どう見ても推薦に値するとは思えないようなのが推薦されていた現実を考えると、一般入試とは別枠で寄付金入試なんてのがあっても、名称以外は悪くないような気もする。少なくとも今回の文部官僚の賢とは違って、ちゃんと自腹を切って対価を払っているわけだから。
今は知らず、かつては私立大学で附属高校の学生の中で推薦に値しないレベルの学生を優先入試と称して、入試の点数に下駄を履かせるなんてことをやっていたわけだが、あれも考えてみれば、高三までにつぎ込んだ学費および寄付金、大学入学後の寄付金(優先入試を使った場合は義務だったと言っていた)で合格を買い取ったようなものである。
それに、日本の大学が批判されていたのは、入学するのにエネルギーを使いすぎるあまり、入学後に勉強しなくなるということなのだから、入り口が表だろうが裏だろうが、大学でちゃんと勉強していさえすれば特に問題はない。むしろ、勉強しない必要な知識を身につけていない学生に対しては単位を与えず、場合によっては退学放校にするという厳しさが必要なはずである。それをアホ文部省が、単位の取得割合が低いとか、留年製が多いとかいって、その内容も意味も考えることなく大学の評価を下げる理由にしてしまうから、卒論を書く能力のない学生を、卒論が書けるように指導するのではなく、変わりに指導の先生が卒論を書いてしまうなんて大学が出てくるのである。
件の医科大学では、裏口入学者のリストを作ったとかいう話もあって、魔女狩りのように裏口から入学した学生たちを大学から追放したがっているようにも見える。不真面目な勉強しない学生なら追放もやむなしだけど、真摯に勉強している学生から学ぶ機会を奪ってはなるまい。三十年ほど前のことだが、とある私立の医学部では中学校レベルの英語の授業についてこられない学生が居るなんて話がまことしやかに流れていたから、裏から入った学生の多くは出るほうも裏から卒業できることを期待していたようである。
私立大学の裏口入学が本気で犯罪だというのなら、この文部官僚と医科大学を摘発して終わりにせずに、徹底的に捜査をして片っ端から摘発するべきであろう。そして、ことは大学への裏口入学に留まらず、企業へのコネ入社も問題にされるべきではないか。広告代理店やらテレビ局やらでは、政治家や財界の大物の子弟が能力にかかわらず一定数採用されるという話もあって、例の電通の過労死事件も、コネ入社の無能な仕事をしない社員の分まで他の社員が働かされていたのも原因のひとつだといわれているぐらいである。対価を払っていない分、金での裏口入学よりもたちが悪いと考えるのは間違っているだろうか。これが私企業の判断だからという理由で許容されるのであれば、私立大学がコネやら金やらで合格させるのも許容範囲ということになりはしまいか。
畢竟大学というところは、どのように入学したかよりも、入学して何を学んだかのほうがはるかに大切だと思うのだけど、違うのか。裏口入学で集めた資金も、私的に使うのではなく、恵まれない優秀な学生を支援するための資金として使用すれば、裏口で入った学生が真面目だった場合には、一石二鳥である。だから、今のすべてがあいまいでうやむやになってしまう裏口入学はやめて、金銭枠での入試制度を導入するのがいいのでないだろうか。文部省は許可出さないだろうけど。
最初の予定とはぜんぜん違うところに着地してしまった。うーん。この文章、自腹を切らずに息子を入学させた文部官僚を擁護するつもりはまったくない。むしろ日本の大学教育をめちゃくちゃにしてしまった文部省に対する批判のつもりなのだけど……。
2018年7月19日23時59分。
2018年07月11日
政治家と学歴2(七月十日)
ちょっとばかり旧聞に属してしまうが、学歴に関しては小池東京都知事も批判を浴びているようである。何でもカイロ大学首席卒業をうたい文句にしていたのが虚偽の学歴に当たるのではないかということらしい。実は卒業していないという話もあるのかな。この人、もともとはテレビで活躍した人なのだから、学歴もなにもかにもテレビ的にフィクションの経歴を演じ続けていれば十分だったのだろう。カイロ大学なんて言われてもどんな大学なのか知っている視聴者なんてほとんどいなかったはずだから、架空の大学名を使ったとしても大差はなかったに違いない。
疑問なのは、大学で「首席卒業」なんてのが本当にあり得るのだろうかということである。中学、高校までなら、高校だと文系と理系に分かれるから完全に同じテストにはならないけれども、定期テストの結果で常に学内一位を保った人を首席卒業と言ってもおかしくはないような気はする。高校三年生の最後の定期テストだけをもとにすると、大学受験の関係で普段とは違う結果にもなりそうだけど。
しかし、大学の場合には比較的自由なカリキュラムで、必修の科目はあるにしても個人個人で履修科目に大きな差がある。同じ科目名でも担当の教員によって難易度に大きな差があることも珍しくはない。それに、エジプトの大学もヨーロッパ的だという前提のもとに考えれば、ヨーロッパの大学では、ABCの評価の出る科目はそれほど多くなく、単に合格、不合格の区別しかしない科目のほうが多い。そんな状況で何を基準にして比較した結果、首席だの次席だの言えるのだろうか。
卒業試験や卒業論文を基準にするにしても、論文の出来を点数化して順位をつけるなんて無駄なことをする大学があるとは思えない。学生の格卒業論文はともかく、本来論文の評価なんてものは発表されてすぐに固まるものではない。卒業試験にしても、こちらは口答試験だから、ABCなんて成績はつけても、100点満点で点数化することはない。これで序列を作るのも面倒な話である。
成績を比べることで序列を比較的作りやすいケースを考えるなら、学部、学科、専攻、それに所属する研究室まで同じだった場合である。これなら、同期の人数もそれほど多くなく履修した科目にも大差はないだろうし、卒業試験の結果、卒業論文の比較もしやすいから、数値化しなくても序列化できなくはない。ただこのレベルで一番だったというのを、何とか大学首席卒業だなんて言えるのか。そもそも、専攻も学科も学部も異なっている学生たちをひっくるめて、何とか大学首席卒業というのが無茶な話なのである。
それに、日本と違って同期で入学した学生の多くが同時に卒業するわけでもない。チェコだと6月、9月、1月と年に三回卒業試験を受けられ、卒業式は卒業する学生が一定数たまり次第順次行われている。そうすると、同期入学の中で一番最初に卒業したことを首席と言うのは可能であるが、複数人になる可能性も高いし、卒業が早かったことが必ずしも優秀であったことを意味するわけでもない。これでは首席卒業という言葉から想像するものとは大きく隔たってしまう。
ということで、耳ざわりは非常にいいし、書かれているのを目にするとすげえと思ってしまいそうになるけれども、「大学首席卒業」というのは、最初から眉に唾付けるというか、真に受けたりはできない。もしかしたらここに書いたことは大間違いで、各大学で毎年首席卒業というのを認定しているのかもしれないが、本当に優秀な人はそんなことを声高に自慢したりはしないものである。だから、何とか大学首席卒業なんてことを自慢げに著書に記したり、自らインタビューで答えたりする人よりも、著者略歴に「怪奇大学で怠け学を専攻した」なんてことを書いてしまう作家赤城毅のほうを尊敬してしまう。
それにしても、建前だけでも過度に学歴を尊重する社会を批判しているはずのマスコミが、真偽のはっきりしない学歴に振り回されてきた感があるのは滑稽である。憶測だとか知人の誰それの証言なんかではなく、エジプトまで出向いて大学に直接取材するようなことは期待できないのかねえ。それこそ小池氏の卒業論文を閲覧して本当に卒業に値するのかどうか調査するのも一つの手だと思うのだけど。
2018年7月10日23時55分。
2018年06月28日
毎日新聞へのお詫び(六月廿七日)
毎日新聞の校閲室の方、申し訳ありません。いわれのない批判をしてしまいました。
ということで、ことは数日前に書いた「ロナルド」と「ロナウド」の標記の問題についてなのだが、時間のない中、毎日新聞の記事も読まずに引用された結論のみに基づいて、批判をしてしまった。ようやく時間ができたので下記事を確認したら、毎日新聞ではポルトガル語における根拠があって、「ロナルド」という表記を採用していることがわかった。「エドバーグ」を「エドベリ」と表記していた毎日新聞の見識は健在ということだろうか。
日本の新聞記事におけるチェコの人名表記がいい加減すぎることに対する憤懣がこんな形で爆発してしまった。今後は爆発する前に、もう少し事情を確認することにする。いや、時間や精神的な余裕がないときには批判の記事は書かないほうがいいなあ。毎日新聞がチェコの人名表記にも、「ロナルド」と同じぐらい気を使っていてくれればいいのだけど、少なくともスポーツ選手の名前で、英語とは違った読み方をするものについて、こちらが許容できる表記を見かけたことはない。毎日新聞で確認してみよう。でも、「コレル」なんか「コラー」と書かれているんだろうなあ。
ただ毎日新聞への批判と専門誌の対応に対する推測を除けば、あの記事に書いたことは大きく間違ってはいないと思う。チェコテレビの現地の発音にこだわるアナウンサーたちは「ロナウド」に近い発音をしているのである。近い発音というのは、耳がよくないせいで、普通の「L」の発音ではないのはわかるのだが、それが完全に「U」になっているかといわれると確信が持てないからである。
毎日新聞の方が書いている「L」の発音が「U」に近づくというのは、スラブ語にも見られる現象で、チェコ語だとスロバキアとの国境地帯の山間部に住む人たちの方言が、「L」が「U」になるため、非常に聞き取りにくいらしい。外国人に対してはできるだけ正しい発音で話そうとしてくれる人が多いので、個人的には困ったことはない。むしろプラハ方言の語末の「L」を省略する発音のほうが、奴らは外国人に対する配慮なんてしないから、大変である。
もう一つ、「L」と「U」についてあげるなら、ポーランド語がいいだろう。かつて、付属記号を取り去った英語表記から、「ワレサ」と表記されていた連帯のボスは、ポーランド語の発音に近い形で「ワウェンサ」とかかれることが増えている。ポーランド語の表記は「L」そのものではないし、発音も「U」そのものではないが、「L」から「U」へと発音が推移していくさまが見て取れる。
ここでポルトガル語に戻ると、毎日新聞校閲部の方が、引用した本には、「L」の発音について、ポルトガル方言よりもブラジル方言のほうが「U」に近いというようなことが書かれている。気になるのは、ブラジルの「L」の発音と、ポルトガルの「L」の発音が日本人の耳にどう聞こえるのかということである。日本語の「ル」に近いのか、「ウ」に近いのか
日本では英語教育で強調されすぎるせいで、「R」は難しいけれども「L」は簡単だという思い込みがある。しかし現実には、少なくともチェコ語においては、「L」のほうが難しい。「R」は、巻き舌にはできなくても日本語の「ラリルレロ」をちょっと硬く、舌の動きを強めに発音すればそれなりの「R」といっても問題ない音が出せる。「L」は、軟らかく舌の動きも緩やかにして発音しなければならないのだが、これをやりすぎると「U」に聞こえるような発音になってしまう。最悪なのは音としての「L」と「U」の境目が判然としないことである。それに「L」を発音したつもりなのに「R」と聞かれてしまうことも多いし。チェコ人と日本人では「R」「L」「U」に対する耳の設定が異なっているのだ。
だから、ポルトガルにおけるポルトガル語の「L」の発音、特に人名の「Ronaldo」の「L」の発音が、毎日新聞は一般紙だから、ポルトガル語など知らない一般の日本人にどう聞こえるのか、具体的には「ル」に聞こえるのか、「ウ」に聞こえるのか、調査してくれないかなあ。個人的には語中の「L」の発音は軟らかすぎて日本語の「ル」には聞こえないのではないかと、チェコテレビのアナウンサーたちの発音から推測している。
それでも、「ロナルド」「ロナウド」はまだいいのだ。同じ人名だとわからなくはないのだから。それよりもクロイツィグルが「クルージガー」になり、ベルコベツが「バーコベック」になるチェコの人名を何とかしてほしい。
2018年6月27日23時44分
2018年06月26日
ジャパンっていうのやめない?(六月廿六日)
すでにして旧聞に属してしまうし、ハンドボールになんか関心のない大半の人々にとってはどうでもいいことかもしれないが、ハンドボールの男子日本代表チームの愛称が「何とかジャパン」に決まったというニュースを読んで、げんなりしてしまった。愛称なんぞ決める前に他にやることがあるだろうとは言うまい。そもそも、愛称なんぞ決める必要があるのか、そしてこの手の愛称にお約束のようについてくる「ジャパン」というのは必要なのか、実資風に言うなら「如何、如何」である。
ハンドボールに限らず、代表チームにつけられたこの手の愛称、愛称だけではなく監督の名前に「ジャパン」を付ける呼び方に対して、熱狂的に日本代表を応援する人たちはどう考えているのだろうか。恐らく民族主義的な傾向があると考えられるこの人たちにとって、日本代表を英語起源のカタカナ表記で「ジャパン」と呼ぶのは、受け入れにくいのではないかと想像するのだけど。
ラグビーファンの場合には、日本代表よりもラグビーそのものに対する忠誠心が高い人が多いから、ラグビーの祖国であるイギリスの言葉を使って「ジャパン」と呼ぶのに抵抗はないのだろうけれども、サッカーをはじめとする他のスポーツの代表を応援する人たちにとっては日本代表であることこそが重要であるはずだとかんがえると、わざわざカタカナ英語を使う意味はないような気がする。
この辺、何というか、カタカナを使って英語っぽい表記にしたほうがかっこよく見えるとか、口にする際にもかっこよく響くとかいうレベルの考えじゃないのかと思えてしまう。そうすると、この手の「何とかジャパン」ってのは、ネット上でしばしば揶揄される「中二病」ってやつと根っこは同じではないかという疑いが生まれてくる。
それは、自らの代表である日本代表を形容するのに「サムライ」とカタカナで書いてしまうところにも感じる。日本代表やその選手たちをサムライという言葉で評価するのは、外国のメディアに任せればいいことで、自国のメディアが誇らしげに書くようなことではないだろう。
いわゆる「中二病」って奴も一人で発症すれば揶揄の対象になり、馬鹿にされることになるけれども、メディアが旗を振って皆で陶酔すれば、さめている人間の方が異端となる。ここにも例の「赤信号皆でわたれば」精神が生きているわけか。日本人の性ってのも業が深いねえ。
個人的には、日本代表に関しては「代表」の一語で済ませるのが潔くていいと思うんだけどね。どのスポーツなのかは前後の文脈でわかるだろうし。まあ、日本代表よりもチェコ代表のほうに親近感を感じて応援してしまうような人間にはどうでもいいと言えばいいのだけど、日本語至上主義者としては、気に入らない現実である。美しい日本とか、美しい日本語とかいうのが流行っているようだけれども、「何とかジャパン」という呼称は美しい日本語ではありえない。
相変わらずの日本ハンドボール界の愚行に、愚にもつかない文章を書いてしまった。
2018年6月25日23時55分。
2018年06月08日
デジカメ復活(六月七日)
十年ほど前にデジカメを最後に使ったときも、その前に長い中断期間があったような記憶がある。あまりにも長く放置してしまったため充電池が充電しなくなってしまって、普通の乾電池を放り込んで使った。この充電池も海外でも使えるというのと充電できる回数が多いということで選んだのだが、たいして使わないうちに放電状態で長期間放置したために充電しなくなったということなのだろう。充電器で長時間充電しても赤いランプがついたままで充電終了を示す緑にはならなくなっていたし、その状態で機械に放り込んでも当然使えなかったのである。
デジカメを購入したときには、普通の乾電池を使うなら、その中でもこのタイプを選べと指定されたような気もするのだけど、そんなのは覚えているわけもなく、適当に買ったのを入れたら、問題なく写真の撮影はできた。それがまたすぐ使わなくなって、今回確認したら一枚しか写真を撮っていなかった。何のためだったのだろう。自分でもわからない。
さて、今回は、ブログの中断期間の前に記事が書けそうになかったときに、古い写真をひっぱりだしたのだが、このオリンパスのデジカメで撮ったはずの写真が見当たらなかったのである。写真をデジカメからハードディスクにコピーした昔使っていたパソコンはお釈迦になって久しく、その後継機にコピーしたかどうかは覚えていない。こちらも不調でお蔵入りしているので、できれば引っ張り出さずに済ませたい。
もしかしたらカメラのメモリーか、カードに保存したままかもしれないと考えて、デジカメからカードを引っ張り出したのだけど、SDカードのような汎用のものではなく、どうも独自規格のもののようで、パソコンに入れるところがない。仕方なくデジカメの電源を入れてモニターで確認しようとしたら、今度は電源が入らない。電池ボックスを開けると液漏れを起こしていた。これで一度気落ちしてあきらめかけたのだけど、しばらく放置したあと、気を取り直して再度挑戦するために乾電池を買ってきた。
液漏れの酷いところをできるだけきれいになるように掃除して、乾電池を入れて電源ボタンを押したら、意外とあっさり電源が入った。ズームも普通に使えるし、写真撮影も問題なくできた。撮ったのは自宅の窓から見えるしょうもない景色なんだけど大事なのは撮影できたことである。今更新しいデジカメを買う気にはならないし、携帯電話、もしくはスマホとやらで撮影なんて似合わないことはしたくない。20年近く前の製品がいまだに使えるなんて、我ながら物持ちがいいなあ。物持ちがいいのはカメラだけでなく、服なんかでも同じころに買ったのを未だに着続けていたりもする。成長していないのだよ。
問題はカメラの使い方を覚えていなかったことで、保存された写真を見るためにしばらく試行錯誤する羽目になってしまった。保存された写真が一枚しかないのに、またまたやる気を失ってしまった。これでまた放置したら液漏れして今度こそ故障して使えなくなるのが関の山なので、持ち歩いてオロモウツの写真を撮ろうと考えた。考えたのだけど、メガネをかけているせいで、ファインダーだけでなく、液晶のモニターも見づらくて撮影しにくい。老眼が始まったのかなあ。カメラ持ち歩くときには眼鏡をはずすことにしよう。
ということで、今後は、コメンスキー研究者のS先生のブログほどではないだろうけど、ときどきオロモウツの写真が登場するかもしれない。確定ではないけどね。写真撮るのがなんだか気恥ずかしいというのはいまだに残ってはいるし。
2018年6月7日23時。
このシリーズだと思うけど、これよりはかなり大きい。
2018年06月07日
デジカメ復活前史(六月六日)
思えば20年近く前、チェコに来ることを決めたときにカメラを二つ準備した。一つは以前もどこかに書いたけれども、フィルムカメラでコンタックスのT2。新宿のカメラ屋、中古だったか新古品だったかを購入した。もう一つ、時代はデジタルに向かいつつあるということでデジタルカメラを買うことにした。あれこれいろいろなメーカーから出ていたのだけど、購入する候補として考えたのはあまりなかった。
最初に買おうと考えたのはソニーのデジカメだった。理由はコンタックスと同じでカールツァイスのレンズを使用していることを謳い文句にしていたこと。ただし、雑誌の記事でドイツのカールツァイスで生産したレンズではなく、ソニーがブランドの名称使用権を獲得して自社製のレンズをカールツァイスにしてしまったものであることが判明して、即座に候補から外した。
この辺りもソニーの悪い面が出たのだと思うのだが、カールツァイスなんて名称にこだわりがあるのは、よほどのカメラ好きか、カメラ好きではないけれども薀蓄は山ほど溜め込んでいるという人間ぐらいのはずである。そんな連中がソニーで作ったカールツァイスレンズなんてものに魅力を感じるとは思えない。それに、一般の人々にとっては、カールツァイスというブランドよりも、ドイツ製であることの方がアピールするはずである。
結局、ソニーのカールツァイスレンズがどれだけの売り上げを記録したのかは知らないが、なんとも中途半端なことをするものだと当時感じたのを覚えている。ソニーの自社製のレンズがカールツァイスに匹敵するぐらい優れたものであるのなら、自社ブランドで売ればよかったのに。90年代の終わりは本家のカールツァイスも完全に落ち目だったから、ソニーが出す金に飛びついたのだろうけど、それで経営が再建されたりしたのだろうか。権利ビジネスの対象となって、中国辺りの何の関係もない会社がブランドの使用権を持っているという落ちのような気もする。
ソニーを候補から外した後は、パナソニックも考えたのだけど、最終的にはカメラメーカーの方がよかろうということでオリンパスの製品を選んだ。コンタックスがズーム機能のない、結構大きくてボディがチタンのせいで重かったけど、コンパクトカメラだったから、一眼レフタイプとは言わないまでもズーム機能のついたものということで10倍ズームとかいうののついたのを買ったんだったかな。
お店で勧められて充電器と充電池も購入した。チェコで乾電池が簡単に手に入るのかどうかわからなかったし、充電池の方が経済的でもありそうだった。まあ、この考えは完全に杞憂に終わったのだけど、それは乾電池が問題なく買えたという意味ではなく、経済性を云々しなければならないほどカメラを使わなかったという意味である。世界に冠たる写真好きの日本人にあるまじきとは言わば言え、せいぜい写るんですぐらいしか使ったことのなかった人間には、カメラを首にぶら下げて歩くのも、必要になるたびに鞄から取り出すのもちょっとハードルが高かった。
あまりカメラを使わなくなった理由の一つは、眼鏡をかけていると使いにくいと言う点だった。デジカメなのだから小さな液晶のディスプレイもついていたのだけど、それを頼りに撮影するのはなんだか負けたような気がして、ファインダーを覗こうとして眼鏡のレンズをカメラにぶつけていた。
それでもチェコに来た当初は、あちこちで書けた際に写真を撮っていたのだけどだんだん使用する回数が減ってしまって、最後にデジカメで写真を撮ったのは今から十年も前のことだったのである。というところで以下また明日。
2018年6月6日23時40分。
ここまで高くはなかったと思うのだけど……。T2は京セラが作ってたのね。
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2018年05月04日
出仮文(五月一日)
五月
一日、依有所労、不能書日紀、出仮文、明日又不能書者、可尋前例、
一日、依有所労、不能書日紀、出仮文、明日又不能書者、可尋前例、
2018年04月11日
潅仏会(四月八日)
旧暦ではないとはいえ卯月八日である。卯月八日はお釈迦様の誕生日で、古来潅仏会の行われてきた日である。平安時代には、宮中行事の一つとして毎年行われており、実資の『小右記』にもしばしば登場する。ただし、有力神社の祭日とかさなり祭使の発遣の儀式が行われる場合には、神事を優先して仏事である潅仏会は中止されることもあった。宮中だけでなく、中宮や貴族が自邸で行うこともあったのは他の宮廷行事と同じである。
現在では仏教の宗派を問わず、各寺院で花祭りとして行われ、年中行事の一つになっている。この手の年中行事は都会よりも田舎のほうで維持されているような印象が強いが、初めで花祭の存在を知ったのは東京に出てからであった。六月晦日の茅の輪くぐりもそうだが、田舎の中途半端な新興住宅地では、伝統的な年中行事に触れる機会は、1980年代には極めて少なかったのである。
地方都市は、近代化に力を入れて田舎であることからの脱却を目指していたから、大きな祭りならともかく、伝統行事は軽視される傾向にあった。その点では、これ以上の近代化など必要のない大都市の昔から続く住宅地のほうが、民俗的な伝統を保持しようとする傾向が強かったといえる。茅の輪くぐりをしたのは、渋谷の繁華街の近くとは思えない静かな住宅街のなかにひっそりと隠れるように建っていた神社の境内だったし、花祭に実際に出かけたのは本郷の大通りからは存在することも気付けないような小さな寺院だった。
民俗学を多少かじって花祭の存在を知ってからも、どこの寺院で行われているのか知らず、なかなか出かける機会がなかったのだが、そんな話をしたら知人がじゃあ行こうといって、職場の近くの小さな寺に連れて行ってくれた。宣伝してないから知らない人も多いけど、たいていどこ寺でもやってるよというのは、知人の弁。寺の近くの住民は言われなくても知っているから毎年参拝するし、観光客を集めるような行事ではないから、わざわざ宣伝することもないということのようだった。
住宅街の民家に囲まれえた小さな寺は、寺門も本堂も長い歴史を感じさせるようなものではなかったのだが、本堂の入り口に地元の人たちが行列を作っていた。順番が回ってきてはじめて見る釈迦の誕生仏のささやかさに驚きながら、柄杓で茶色い液体をくんで誕生仏にかけた。甘茶の入った器の真ん中に誕生仏が立っていたんだったかな。
その後は、集会にでも使われていそうな部屋で、茶碗に注がれた甘茶をいただいた。初めて飲む甘茶の甘さは、何とも言いがたい微妙な味で、知人にどう? と聞かれたときにうまく反応を返せなくて、知人だけでなくその辺にいた地元の人たちにも笑われてしまった。
口々に、そんな美味しいものではないとか、縁起ものだから味は二の次だとか、遠まわしにおいしくないと言われて、自分も正直に感想を言えばよかった。正直、二度と飲みたくないとまでは思わなかったけれども、お代わりいるかと聞かれたら即座にいらないと答えるレベルの味だった。慣れればこの味が病みつきになると言う知人と違って、あの微妙な甘さに慣れることはなかった。年に一回飲むかどうかでは慣れようもなかったし、病み付きになるといっていた知人も普段から甘茶を飲んでいるというわけでもなかったのだ。
甘茶というのは健康飲料として一時流行したアマチャヅルから作られるお茶かと思っていたのだが、そうではなくアジサイと似た甘茶の木というのがあって、その葉から作られたお茶の可能性もあるらしい。花祭りで飲んだ甘茶がどちらの甘茶だったのかは今となっては知る由もない。もう一つ気になるのは、甜茶というのを見かけたことがあることで、甜は砂糖大根こと甜菜の甜だから、これも甘いお茶であるに違いない。これも甘茶の一種ということになるのだろうか。
チェコでもいろいろな植物の葉を材料にしたハーブティーを飲むことができる。以前はいろいろ試したものだが、甘茶のような甘いものは飲んだことがない。ハーブティー自体も当たり外れが大きく、ミントのお茶ぐらいしか飲まなくなって久しいから、探せばあるのかもしれない。問題は探してまで飲みたいようなものではないというところにある。
話を潅仏会に戻そう。森雅裕が薀蓄を傾けた小説の中で、「お釈迦になる」という言葉の起源について書いていた。お釈迦様の誕生日の四月八日、ひらがなで書くと「しがつようか」が、「ひがつよかった」に通じることから生まれた表現だというのである。つまり刀鍛冶の世界で、火が強すぎた場合に、作りかけた刀がだめになることからできた言葉らしい。これが正しければ、四月八日の潅仏会は、現在でも日本語の中に生きていることになる。あれ、お釈迦になるなんて使う人はもうあまりいないかなあ。
往生するとか、お陀仏だとか、昔はよく使われた仏教起源の言葉は最近見かけなくなったような鳴きもする。ことの良し悪しはともかく、日本語の豊かさというものが失われつつあるのは確かなことだろう。右翼の民族主義者が、本気で日本のすばらしさを信じているのだすれば、日本語の豊かさをこそ守るべきである。それは日本語は美しいと声高に叫ぶことではなく、自らが豊かな表現を駆使した正しい日本語を使用することによってなされなければならない。
だから、ら抜き言葉を使うような右翼の活動家、政治家は信用できないし、日本語が怪しい右翼の政治家も支持できない。野党の政治家も日本語のでたらめっぷりでは劣らないから、日本語至上主義者にとっては、選挙は苦行であるに違いない。これもまた、在外選挙制度を利用しない理由の一つである。話が愚だ愚だになってきたので、お釈迦になる前にこの辺でおしまいにしよう。書き始めたときは結構いいことが書ける気がしたのだけど、途中で大往生してしまった。お陀仏にならなかっただけよしとする。
4月8日23時。