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2018年12月16日

海外医学部の話(十二月十一日)



 昨日の話を書き始めたきっかけは、ヤフーの雑誌のところでこんな記事を見かけたことにある。日本の医学部ではなく外国の大学で医者になる勉強をする人が増えていて、中でもハンガリーの人気が高いという記事で、書かれていることはおおむね正しいのだけど、海外で医学を勉強することに対してあまりに楽観的ではあるまいかという疑念を抱いてしまった。海外で英語で医学を勉強しようと考え、それを実行している人たちには頭が下がるけれども、当初の志を貫徹して大学を卒業して医師になれる人は、それほど多くないというのが現実である。
 この記事を読んで数字に驚かされたところが2つある。一つは毎年100人ほどの日本人がハンガリーの大学に入学しているという点で、もう一つは2013年以降ハンガリーの医学部を卒業して日本の医師試験を受けた学生が56人という点で、どちらも意外に多い数字でである。この二つの数字を見比べただけでも、ハンガリーで医学部に入って、毎年100人入学しているのに、2013年以降の6年で卒業までたどり着いたのは50人ちょっとでしかない。それでも海外で医学を学ぶ人たちの実態を知っている人間からすると多いと思えてしまう。それが現実なのである。

 思い返せば2003年か2004年だっただろうか。ハンガリーの大学の医学部に学生を送り出している組織の人から、パラツキー大学について教えてほしいという相談を受けたことがある。確か当時すでにハンガリーでのプロジェクトが動き出していて、第一期生を送り込めたからだったか、軌道に乗ったからだったか、覚えていないけれども、周辺国でも同様のプロジェクトを考えていて、チェコでの候補としてパラツキー大学も上がっているので情報を集めていると言っていた。
 実際に、その数年後にパラツキー大学での日本人学生の受け入れが始まるのだが、その頃、2008年か2009年ごろにはすでにハンガリーの大学では日本人卒業生が出始めていたと聞いている。ただ、その数は、当然入学した学生の数よりはるかに少なかった。

 パラツキー大学の医学部の話をすれば、毎年日本人の入学者はいるが、その数は多くても数人でしかない。これは大学側が、日本まで出向いて入試を行い、英語の能力などかなり厳しく審査した上で合格者を決めているからだと聞く。入試が難しい分、志望者もハンガリーほどは多くないようだが、その分、優秀な外国で医学を勉強する覚悟を決めた学生が集まるといってもいいだろう。
 それなのに、入学してくる学生の過半は、二年生に進級することなく大学を離れてしまう。中には英語の授業に全くついていけず、自ら諦めてしまう人もいるし、二年に進級するための試験に合格できずに退学になる人もいる。学生たちの覚悟が足りなかったとも、努力が足りなかったとも思わない。外国で、医学という日本語で勉強しても大変なものを、外国語である英語で学ぶというのは、それだけ大変なのだ。記事中にも識者のコメントとして「語学のハンディさえ乗り越えて」と書かれているが、そのハンディの山は、我々実際に体験したことのない人間には想像もできないほど大きく高いに違いない。
 以前関係者に、英語で学ぶという問題を除くと、一年生でつまずく原因になっているのは解剖学だという話を聞いたことがある。英語で授業を受けるのには問題なくても、解剖学の単位が取れずに進級できない人もいるらしい。ということは、外国に出る前に。日本で解剖学を学んでおいても悪くないのかもしれない。どこでという問題はあるだろうけど。

 もちろん、英語の能力が必要になるのは言うまでもない。それもいわゆる日常会話レベルのものではなく、専門的な講義を聞いて理解し、理解できない場合には質問するだけの語学力が必要になるわけである。パラツキー大学に来た初期の学生達は、入学前にアメリカかどこかで一年の語学研修を受けた上で、医学部の勉強を始めたと聞いている。それが初期の学生達の過半が二年生に進級し、すでに数人の卒業生を輩出できている理由となっているのだろう。
 最近はその語学研修はなく、中には高卒の現役でやって来る人もいるようだが、苦戦している人が多い印象である。だから、外国の医学部で勉強するためには、日本の大学の医学部の入試に合格するため以上に、英語の能力を上げておく必要がありそうだ。それも試験のための英語ではなく、実際に読み書き、聞き話す能力が大切である。

 パラツキー大学の医学部で日本人学生が勉強を始めて10年ほど、入学者は多くて年に5、6人なので、多く見積もっても入学した学生の総数は50人ほどになる。そのうち半分はまだ終了年限が来ていないのだから、卒業していておかしくない学生の数を半数と見て、25人のうち卒業までたどり着いたのが5人。パラツキー大学のように念入りに入試を行ってさえ、卒業できるのは概算で20パーセントにすぎないのである。実際には入学者の数が少ないはずなので、もう少し確率は上がるだろうが、50%を越えることはありえない。
 日本の医学部の入学した学生が卒業する割合というのはどのくらいなのだろうか。その数字によっては、記事の中の識者のコメントの東欧の大学が大健闘しているというのはむなしいものになってしまう。

 この話もう少し続く。
2018年12月11日23時10分。








posted by olomoučan at 07:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2018年12月15日

医学部「不正」入試について(十二月十日)



 東京医大から始まった医学部入試の「不正」問題は、拡大を続け、地方の大学にも飛び火し、地元出身の受験生優遇や、編入試験における自学の卒業生の優遇にまで批判の矛先が向けられるようになっている。理解できないのは管轄官庁である文部省まで、マスコミに踊らされてこれらの事実を適切ではないと批判しているところである。医学部、もしくは医科大学が全国各地に設立された事情を考えれば、地元の受験生優遇というのは、当初は文部省の意を汲んで始められたものではなかったのかという疑念を禁じえない。

 また、医学部の入試以上に批判されるべき不公平な入試を認め導入を推進してきたのは文部省である。80年代の終わりには、すでに大学受験における推薦入試というものが、かなりいびつなものになっていたが、指定校推薦にしても、自己推薦にしても、少なくとも田舎の公立高校の人間から見れば不公平極まりないものだった。大学合格者の数を稼ぎたい高校にしてみれば、推薦入試で合格させるのは、学力優秀な学生ではなく、一般受験では合格の見込めない大学進学を希望する学生の方が都合がいい。ということで、真面目に勉強して好成績を維持していた学生、本来推薦されるべき学生には推薦は回ってこなかったのである。どういう事情で大学が指定校に指定するのかも不明だったし、推薦入試なんて怒りの対象でしかなかった。
 それに、私立大学には、付属校枠というものが存在していた(多分今もあるはず)。高校の成績上位者は推薦で受験なしで合格し、それよりも下の学生は優先入試と称して、入試の際にある程度下駄を履かせるという制度で、その下駄の高さが寄付金の額によって変わるなんて生臭い話もあった。その結果、普通に入試を受けたのでは合格できないような学生が、何人も、いや何十人も合格していたのである。こちらはまだ、附属の私立高校に高い学費を払ったという実績があるから、許せなくもなかったけど、不公平感がなかったわけではない。スポーツ推薦で体育学部以外のスポーツとは何ら関係のない学部に入れるのも、変な話といえば変な話である。

 各地の医学部の入試のあり方を不正だと糾弾するなら、この手の推薦入試、優先入試も批判の対象とするべきであろう。そもそも、文部省が大学入試において、推薦入試、ことに自己推薦だの、一芸入試だの意味不明な推薦制度を導入し推進したのは、単なる学力テストに過ぎない入試では計りきれないものがあるというのが建前ではなかったのか。その計りきれないものの中に、地元出身で地元の医療に貢献する可能性が高いというものが入っていたとしても、浪人せずに現役で合否のボーダーラインまで成績を上げたというのが入っていても、特に非難するには当たるまい。もっとくだらない理由で合否を決めている大学はいくらでもあるのだから。
 こんなことを書いたからと言って、推薦入試そのものを批判するつもりはない。ただ、今回の医学部の入試「不正」に対する批判を見ていると、先に批判されるべきは他にもあるだろうと思ってしまうのである。この医学部の入試を批判する前に、大学入試全体を俯瞰した上で、批判しないと意味のない批判のための批判になってしまう。入試というものが、私学であれば特に、100%「公正」だと評価されるものである必要はないし、100%公正な入試などありえないというのが、一連の報道を見た上での感想である。共通一次の理科で試験後に、結果に基づいて点数の補正を行うような不正が行われた恨みは忘れられない。

 そもそも、これも袋叩きに遭っている愛媛県の獣医学部誘致にしても、地元の獣医師の数が足りないから獣医学部を誘致して地元の子を入学させて卒業後も地元で仕事をしてもらおうというのが、誘致に向かうきっかけだったはずである。補助金を出してまで、もしくは土地の取得で優遇してまで大学を誘致するのは、地元の子供たちをある程度優先的に取ってもらえるという期待があるからだろうし、それがなければ公費を私企業である私立大学に対して支出することもできまい。
 そう考えると、地方の医科大学は、私立大学であれ、地方医療を支える人材を輩出することを期待されているのだから、地元出身で、地元に残る可能性の高い学生を優先的に合格させるのも当然だと言える。いや、そういう配慮をしなかったら、地元の自治体からは大きな反発が出るのではないだろうか。そういう事例が、医学部に限らず、なかったのかどうか、調査して報道してくれるマスコミは、大学叩くことしか考えていないだろうから、ないだろうなあ。

 医学部の入試で男子学生が優先的に合格にされていたというのは、弁護しにくいけれども、一応男性医師の数を確保したい現場の要請という言い訳は用意されているわけである。現在の日本の医療制度を支えるためには仕方がなかったのというのが正しいのであれば、医療現場の医師の過重勤務や、無報酬勤務の問題を放置してきたマスコミや政治家に対しても批判の矛先が向かなければならない。
 現在の日本の医療制度の歪みが目に見える形で端的に表れたのが、今回の入試「不正」だと言えるのだから、医療制度の歪みをただすことなく、入試だけ変更した場合に、医療制度全体が破綻する恐れはないのだろうかと心配になる。その辺まで分析して報道するようなマスコミは……。入試を管轄する文部省は、医療制度がどうなろうと知ったこっちゃないだろうしさ。この問題について厚生省の見解を聞いてみたいものである。

 またまた本題に入る前に分量が尽きてしまった。本題についてはまた明日。
2018年12月10日22時15分。





偏差値24でも、中高年でも、お金がなくても、今から医者になれる法










posted by olomoučan at 08:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2018年12月05日

大嘗祭(十一月卅日)



 来年今上陛下が譲位し、皇太子が即位することになるわけだが、新天皇の即位後に行なわれる大嘗祭が政教分離の原則に反していると主張して騒ぐ人たちが、またぞろ出現しているようだ。この問題は、政治と宗教が分離されているかどうかではなく、政教分離の原則をどこまで厳密に適用するかが問題になる。政教分離というものを100パーセント厳密に達成している国など世界のどこにもないのである。
 日本の政教分離にうるさい人たちが考えるのは、恐らくヨーロッパレベルの政教分離であろうが、ヨーロッパの政教分離のレベルは、実はそれほど厳密ではない。政党名に堂々と宗教名キリスト教が入っていて、キリスト教的な価値観を守ることを主張する政党が何の規制もなく活動し、キリスト教会の利権を守るために積極的に動いているのである。日本で神道なんて言葉をつけた政党が存在できるかと考えたら、その緩さも理解できるだろう。

 また、これはチェコの話だが、国家の行事にキリスト教の大司教が登場して演説することもあるし、国葬の会場となるのはプラハ城内のキリスト教の教会で、儀式はプラハの大司教が取り仕切る。そもそも、大統領の官邸たるプラハ城内に、教会が存在、いや建物が存在すること自体は問題ないが、教会組織が管轄管理しているのは政教分離の観点から見ると問題ではないのか。規模が違うとはいえ日本の首相官邸の敷地内に神社があって、そこで国葬が行なわれるようなものである。
 以前読んだ、政教分離にうるさい人の著書では、テレビのニュースで、神道行事や、仏事を取り上げるのにも、また冥福を祈るなどの仏教に起源を持つ言葉が使われるのにもクレームをつけていたが、そんなところまで気をつけてニュースを作成しているテレビ局なんて世界中のどこにもあるまい。チェコだってキリスト教の重要な行事は毎年大々的に報道される。チェコの国家の守護聖人たる聖バーツラフが、キリスト教の聖人となっていて、聖バーツラフの日が国の祝日となっている時点で、政教分離もくそもあったもんじゃない。ビロード革命後のチェコの教会って国費で運営されてきたしさ。

 念のために言っておくが、このヨーロッパ、チェコの状況を批判する気は全くない。こんなことを、いちいち批判するのが野暮というものであって、政教分離の原則で規制されなければならないレベルのものではない。だから政教分離がヨーロッパのレベルでいいのであれば、日本で、大嘗祭だろうが、これもしばしば裁判がおこわれる地鎮祭だろうが、公費を費やして行ってもまったく問題がないという結論が出る。
 以前もどこかに書いたが、日本の政教分離を主張する人たちは、神道的なものだけを政教分離の対象にしていて、キリスト教的なものには無頓着である。だから、キリスト教の行事であるクリスマスのイベントを行政が主催してもだれも裁判を起こさない。もしくはヨーロッパのやっていることは盲目的に正しいと考えているだけだろうか。チェコの政治家なんかヨーロッパ的民主主義はキリスト教的な価値観に基づいているとか発言してしまうのだから、これが正しいのであれば民主主義自体が、厳密に言えば政教分離の原則に反していることになる。それを批判する人はいないし、批判すべきでもなかろう。

 また、大嘗祭に関しては、皇室の中からも、秋篠宮が国費で行なうのはどうかと疑問を呈されたらしい。大嘗祭に宗教性があるというのは確かで、それを否定するつもりはないが、流行の世界規準から言えば十分に許容範囲である。日本基準の政教分離を確立するというなら、それはそれでかまわないけれども、その場合には、キリスト教的なものについても対象にして批判したり裁判を起こしたりしてもらわないと話にならない。
 正直今回の秋篠宮の発言にはがっかりなのだが、これも戦後の民主的であろうと努力してきた皇室のあり方からすると仕方がないのだろう。できれば、皇室の私的行事なのだから国は金も口も出すなという面からの批判を聞きたかったものである。そうすれば、現在のゆがんだところのある皇室の位置づけを議論するきっかけになったと思うのだが……。
 公と私の境目があいまいで、私がないようにも見えながら、同時に秘密主義的でもある皇室のあり方は、決して健全ではあるまい。この機会に、今後も天皇制を続けていくのなら、どのような位置づけを皇室に与えるのかについても議論されるべきであろう。いや、今の日本には建設的な議論自体が期待できないから秋篠宮の発言自体はこれでよかったのかもしれない。
2018年12月1日10時50分。






日本人はなぜ無宗教なのか (ちくま新書)






posted by olomoučan at 07:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2018年11月05日

自己責任問題其の三(十一月一日)



 また、どこまで本当かは確認していないが、今回解放された人は、以前も中東で武装組織に誘拐なり拘留なりされた経験があるという。仮にこれが事実であれば、取材に出かけたこと自体も批判されるべきである。一度失敗していながら、何の根拠があったのか次は大丈夫だからと再び出かけたのだから。イラクであれトルコであれ、この手の反政府の武装勢力というものは、つながっているものだから、カモがネギ背負ってやってきたと思われた可能性もある。
 誘拐なんてものは、どんなに入念に準備して対策を練っていたとしても、遭うときには、いや遭う人は遭ってしまうもので、多少対策が足りなくても遭わない人は遭わないものである。誘拐でなくても、例えば悪名高いプラハのスリでも、すられる人はどんなに警戒していても何度もすられるし、すられない人は特に警戒なんぞしていなくてもすりには遭わないものである。一日に二度、朝は財布を取られて、午後は携帯をとられたなんて人もいたなあ。だから、一度戦場取材で被害にあった時点で、次は大丈夫などと考えずに、紛争の現場での取材からは手を引くべきだったのだ。それなのに、手を引かずに再びのこのこと紛争地帯に入って誘拐されることで、次なる日本人が誘拐組織に狙われる可能性を高めた責任は大きい。

 こう考えると、解放されたジャーナリストが果たすべき責任は二つである。一つは、国に対する責任で、国の反対を押し切って、しかもジャーナリストであることを振りかざして取材に向かったというのだから、何もなしというのはありえないだろう。誰かが登山で遭難したときと同じ扱いでいいんじゃないのとコメントしていたが悪くない。
 ジャーナリスト側は、またぞろ登山と取材は違うとか言い出すのだろうが、そんな特別扱いはしてはならない。ただでさえ勘違いしたマスコミをますます付け上がらせるだけである。山とは違って、渡航の禁止が出ている場合で職業がジャーナリストかマスコミ関係者に限るということにしておけば、一般の観光客や普通の仕事で外国に出なければならない人たちには実害はあるまい。

 もう一つの責任は、国民全体を危険にさらしたことである。今回の件で国外の日本人が狙われる可能性が僅かとはいえ上昇したのは間違いない。おまけに記者会見で日本政府には身代金を払う用意があったなんて事をばらしてしまった。国としてはあれでよかったのかね。誘拐組織における日本のカモ度が上がっていなければいいのだけど。
 こちらはヨーロッパでもチェコという比較的安全なところに住んでいるから、そこまでテロだの誘拐だのに対して危機感を持っているわけではないけれども、日本にいた頃に比べれば、テロのあるなしにかかわらず慎重に暮らしているつもりである。それは日本語の通じない、日本とは制度の違う外国に暮らしていれば当然といえば当然なのだけど、だからこそその慎重さを台無しにしてくれるような行動には、過敏に反応してしまう。チェコに住んでいる人間でもこうなのである。紛争地域の近くで仕事をし、生活をしている人たちは今回の件をどう考えているのだろうか。
 仮にジャーナリストが取材のために特別扱いをされるべきだとしても、その行動で他の人の安全を脅かしていいことにはなるまい。捕まるのが一回目というなら、まだ許容できるけど、一度誘拐された人間が反省することなく再び取材と称して出て行くのは、やめてもらいたい。現地からの報道の大切さというのはわかっているつもりなので、紛争地帯での取材を禁止しろと言う気はない。国の禁止を振り切っていくのもいいだろう。ただ、誘拐されるなどの失態を犯した場合には、きっぱりと現地取材からは手を引くのが責任の取り方ってもんじゃないのかと考えるのである。

 国全体を巻き込むようなリスクにふさわしい取材ができているのかどうかはまた別の話だけれども、日本の戦地からの報道を知らない人間には評価しようがない。
2018年11月4日20時55分。











タグ:マスコミ
posted by olomoučan at 19:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2018年11月04日

自己責任問題其の二(十月卅一日)



 自己責任論でジャーナリストを批判する人たちを批判している人たちには、同業のジャーナリストやらマスコミ関係者やらが多いようであるのだが、その擁護の論理もなかなか醜悪である。大抵は、現地取材の重要性を訴え、国民の知る権利を満たすための取材での出来事だったのだから批判されてはならないというようなことが主張されている。この論理に、自分たちが国民の知る権利を代表しているのだから、取材のためだったら何をしてもいいというマスコミ、ジャーナリスト達の思い上がりを感じる人も多いはずである。
 この中国や韓国の反日無罪に通じるような、いわば取材無罪という考え方は、現在世界中で既存のマスコミが読者の信頼を失いつつある原因にもなっている。マスコミは、行政、司法、立法にづく、第四の権力を自任して特権化した時点で、存在意義を失ったと言ってもいいのかもしれない。それを端的に象徴するのが、この取材無罪的な考え方であり、災害が起こったときに呼ばれもしないのに被災地に出かけて、知る権利とやらをのもとに、心ない質問をして被災者を激怒させたり、苦しめたりするテレビのくそレポーターどもである。
 仮に、取材に出かけたことについては批判できないにしても、国の制止を押し切ってのことであったらしいことを考えると、取材に失敗して誘拐されたことについては強く批判されるべきであろう。そこをも批判しないのであれば、マスコミ、ジャーナリストと呼ばれる連中が身内の失敗はかばうとして強く批判している警察と大差ないということになってしまう。

 もう少し深く考えるなら、外国のマスコミが取材と称して紛争地帯に入ることが、現地の社会にどんな影響を与えているのかまで視野に入れなければならない。取材のためにコーディネーターと称する人物やら護衛やらを雇い、現地の感覚から言えば大枚の謝礼を払うことになるはずである。もちろんそのお金で家族が生き延びられたなんていい話も発生するだろうけれども、何度も繰り返されれば謝礼金を巡る対立を現地社会に巻き起こすことになりはすまいか。それに武装勢力の勢力範囲での活動を許されているということは、コーディネーターとやらも護衛も、武装勢力と何らかのつながりを持っている可能性が高く、謝礼の一部が武装勢力の資金になっている恐れもある。
 この手の外国からやってきた連中が金ばら撒いて現地社会に悪影響を与えた例としては、パリダカの例を挙げておけば十分だろう。パリダカについては主催者や取材陣を金ずるにしていた非合法組織が、手に入れた金で武装を整え、さらに儲けの大きい誘拐やら、キャンプ地の襲撃をねたにした脅迫を繰り返すことになったために、アフリカから撤退せざるをえなくなったという話を聞いたことがある。自業自得ではあるけれども、同様のことが取材と称する連中が集まる紛争地帯で起こっていないとは言えまい。

 それに、ジャーナリストと招する連中がどんな取材をしているのかという問題もある。かつて北アフリカの難民キャンプに仕事で出向いた人から、ボランティアやジャーナリストと称して滞在してた連中の話を聞いたことがある。やつらは早朝の一、二時間申し訳程度に仕事の振りをするだけで、残りの時間は、難民キャンプの近くの町の超高級ホテルでバカンス生活をしていたらしい。一日の宿泊費でそれこそ数千人の難民の一日の食費がまかなえるようなホテルで快適な生活をし、水不足で難民たちが苦しむその近くで、日がなプールで優雅に泳いでいたというのだから、ボランティアも取材も詐欺みたいなものである。
 これはヨーロッパの事例だけど、日本のマスコミ、ジャーナリストたちも、タリバン騒動で呼ばれもしないのに押しかけたパキスタンでは、ホテルから一歩も出ないで取材していたという話もあるから、こっちのほうがひどいか。それに日本のジャーナリストが、事前にコーディネーターや通訳に約束していた謝礼を踏み倒したり、全額払わなかったりして、差額を懐に入れたなんて話も踏み倒された側から聞いたことがある。えせ取材旅行に家族を連れてきていたなんてのもいたから、最初から謝礼を払ったことにして踏み倒し、家族の旅費に当てるつもりだったのは明白である。その取材とやらの結果でてくる記事を、どこまで信用していいものやらである。本人が書いたものであるのかどうかすら怪しいのだしさ。
 ジャーナリストと称する人たちが、みんながみんなこうだというつもりはないけれども、マスコミやジャーナリストの存在価値を貶めているのは、マスコミ自体、ジャーナリスト自身であることは否定できまい。取材だから、報道のためだからなどという論理ですべてを正当化することはできないし、許されるべきではない。

 今回解放された人へのバッシングをマスコミが非難しているけれども、これまでの弱ったものは袋叩きにし、溺れる犬はさらに棒で叩くというのを実践してきた連中に非難されても、お前らが言うなという反応が返ってきて終わりである。調子のいい間は散々持ち上げて提灯記事を書いておきながら、失敗すると寄ってたかってあることないこと書き散らして、それまでの賞賛をなかったことにしてしまうのがマスコミの常套手段ではなかったのか。それをなかったことにしてバッシング批判をしても、説得力はない。
 ネット上でのバッシングにしても、子供たちの間のいじめ問題にしても、弱ったものは袋叩きにしてしまうマスコミの報道姿勢が影響を与えているとは考えないのだろうか。そんな想像力があれば、報道のためなら何をしてもいいなんて思い上がったりはしないのだろうけどさ。
 予定とは違う方向に筆が進んだので、この件、もう一回。
2018年11月2日20時15分。










タグ:マスコミ
posted by olomoučan at 19:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2018年11月03日

自己責任問題(十月卅日)



 シリアの紛争地帯に取材に出かけて誘拐され、監禁され続けてきた日本人ジャーナリストが三年ぶりに解放されたことで、あれこれ議論が噴出しているようである。一つは例の、国の渡航禁止命令や勧告を無視して戦争地帯に向かった人間に関しては、危険を承知した上で自らの意志で出かけたのだから、誘拐されようが殺害されようが国は動く必要はないという、いわゆる自己責任論という奴である。それに対して、マスコミやジャーナリストの関係者を中心に、戦場に出向いて取材活動をすることの重要性を説き、ジャーナリストの行動を擁護しているグループもあるようである。
 この二つの議論が全くかみ合っていないのは、最近の日本におけるこの手の議論の例に漏れない。この場合のかみ合わない理由は簡単で、国家の責任と個人の責任という本来同じレベルで議論してはならないものを一緒くたに扱っているからである。この二つは別々に議論し、それぞれの責任について問われなければならないはずなのに、ごちゃまぜにするから、読んでもどこか歯切れの悪い納得のできない議論に終始してしまうのである。

 まず、国の責任という点から考えてみよう。これはもう、議論の余地もなく、動かなければならない。拉致されたのが犯罪者であろうと、国家にとって都合の悪い人物であろうと、日本人である以上は、日本という国が責任をもって対応し、解放に向けて動かなければならない。それは日本という国が、現時点では自国民と他国民を峻別して、自国民を守るべき国民国家という形態をとっている以上、当然のことである。窮地に陥った際には国家が支援するという前提があるから、国民は義務を受け入れるのである。これが個々の国民に対する責任。

 それから、外国に対する責任というものもある。国民国家とはいいながら、日本に住む外国人も、外国に住む日本人も増えている。長期的に住みはしなくても、留学や国外赴任で数年程度外国に居住する人も多いし、国外を旅行する日本人も多い。そんな日本人が問題なく受け入れてもらえるのは、個別の人から受ける差別はあっても、日本人だからという理由で差別されて不当な扱いを受けることがないのは、日本という国に対する信頼があるからである。その信頼は、経済的な豊かさだとか軍事力だとかいう即物的なものに依存しているのではなく、日本人が問題を起こした場合には、最終的には日本政府が責任を取ってくれるという信頼である。日本のパスポートを持っていれば、ビザなしで入国できる国が多いのもその信頼に基づいているはずである。
 チェコでは、以前イギリスの入国管理局が飛行場に出張してきて、イギリス行きの飛行機のチケットを持つ人たちのパスポートのチェックをし、飛行機に乗せる乗せないを決めていたことがある。これは完全な内政干渉だったけれども、原因は、チェコの政府がイギリスに入国したチェコ国籍の人が起こした問題についてちゃんと責任をもって対応するとは思われていなかったことにある。当時、イギリスに出国するチェコ国籍のロマ人が多く、ほとんど拒絶されていたけれども、差別を理由に難民申請をしようとしていたのだったか。チェコ政府がそのイギリスに出たロマ人について責任ある対応を取らなかったことが、イギリス政府が内政干渉を行った原因だった。同じような事態がカナダとの間でも発生していたような記憶もある。とまれチェコ政府は、信用されていなかったのである。
 話を日本に戻せば、これまで外遊でやってきた国会議員の醜態から、パスポートや財布をすられた観光客に至るまで、日本が、正確には大使館の職員たちが、問題の解決のために頑張ってきたからこそ、日本は信頼されており、日本人は世界各地で観光したり仕事したりできるわけである。よきも悪しきも、世界中のどこであっても日本人が起こした出来事の最終的な責任は日本という国のものであって、今回だけではないけれども、日本人が紛争地帯にのこのこ出かけて行って誘拐されるという失態を起こした場合にも、日本政府は責任をもって解決にあたらなければならない。これを怠り続ければ、日本に対する信頼は失せ、国外における日本人、日系企業の活動は制約が今まで以上に大きくなってしまうだろう。これは個人的にも困る。

 最後に考えなければいけないのは、国民全体への責任である。日本という国は、個々の日本人を守ると同時に、日本人全体の安全も守らなければならない。だから、日本人が誘拐され政府が交渉の場に立たされたときに、誘拐犯の言いなりになって、犯罪者を釈放したり身代金を払ったりすることは許されない。この手の武装勢力、犯罪組織は、情報の交換をしているに決まっているのである。日本はカモだと認識されてしまえば、日本人誘拐が続発するのは目に見えている。政府は、正確には担当者は、誘拐された人の解放を目指しつつ、日本人を誘拐するのは割に合わないと思わせるような交渉をしなければならないのだから、その苦労は想像するにあまりある。

 その交渉の役に立つという観点から言えば、誘拐されたことが明らかになった時点で(こういう情報が表に出るのもあまり望ましいことではないのだろうが、最近は誘拐した側が交渉の一環として公開してしまうから仕方がない)、自己責任論が出てきて、国は何もするなとか、身代金は払うなとかいう方向に世論が向かうのは、悪いことではないだろう。交渉の材料として、誘拐犯の要求に応じられない口実として使用できるのだから(この辺は「マスター・キートン」からの想像である)。ただ、誘拐されて監禁されていた人が解放された後で、つまり交渉の必要がなくなった後で、こんな議論が出てくるのは健康的ではない。国にとって日本人の失態をしりぬぐいするのは義務なのであって、これを誘拐されたジャーナリストへの批判に結びつけるのは間違っている。
 実際にどの程度の動きだったのかは確認していないが、誘拐されて交渉が長引くと、関係者や野党などから、交渉に全力を尽くせとか、国は十分なことをしていないとか、国に対する批判が出てくるものだが、これは、実際に交渉を担当した人からすれば、ただの害悪でしかなかろう。誘拐組織側の条件交渉のネタになってしまうのだから、ぎりぎりの綱渡りをしているところを後ろから背中を押されるようなものである。 

 繰り返しになるが、日本人が外国で、それが紛争地帯であれ、誘拐などの犯罪に巻き込まれたとき、国が動くのは当然の義務であって、それを批判するのは天に唾するようなものである。現在は国の威信をかけて解決に尽力しているものが、一度自己責任を口実に国が義務を果たさないことを許してしまえば、自己責任の範囲が拡大されて、そのうち旅行者がパスポートや財布をすられた際にも、自己責任で大使館が何もしてくれなくなるかもしれないのだから。
 と、まあ以上がこの件について国の責任という観点から見た場合の考えである。だからといって解放されたジャーナリストを批判するなという気はない。ただし、これに関しては、個人の責任という観点から、国の責任とは切り離した形で批判されるべきである。
2018年11月1日23時。












タグ:マスコミ
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2018年10月09日

寒いから迷走中(十月五日)



承前
 幸いなことにチェコはドイツあたりのトチ狂った環境先進国とは違って、原子力発電を継続することを決めている。しかも発電所が二つあるので、基礎の電力の供給源としては非常に安定している。その上に各地に大き目の火力発電所があり、地域に熱湯をパイプラインで供給するための熱湯生産施設でも発電をしている。水力も大きなダムに設置された大きな発電所だけでなく、川の水流を利用した発電量の小さな発電所も各地にあって、電源の種類も多いので、冬場にブラックアウトが起こることはほぼありえない。雪で電線が切れての地域的な停電はよく起こるけれども、起こりやすい地域では、暖炉があったり、薪を使用する旧型のボイラーが残してあったりと対策をとっているところが多いようである。

 そんなチェコでも、一度電気会社がブラックアウトの恐れがある、ブラックアウトじゃなくてホワイトアウトだったかもしれないけれども、と発表したことがある。それは、福島の原子力発電所の事故にパニックを起こしたドイツ政府の、太陽光発電の推進のために異常に高額な買い取り価格を導入するという失策にチェコ政府が愚かにも追随してしまったときのことである。
 現在の交流の電力提供では発電量と使用量が一致しなければならないなどとまことしやかに語られることが多いが、それは完全な正解とは言いきれまい。随時変わり続ける使用量に合わせて常時発電量を変えて完全に一致させるなどというのはどう考えても不可能なのだから、電力の供給網にはある程度の冗長性が持たされているはずである。その許容量を越える差が発生し、許容時間を越えて継続したときに送電網全体がダウンしてしまう恐れがあるらしい。

 これは発電量が少なすぎる場合だけでなく、大きすぎる場合も同様で、チェコで問題になったのは雨後のたけのこのように増えていた太陽光発電所の電力供給の不安定さで、天候次第で発電量がころころ変わる太陽光発電は、発電量が少ないうちは、その変動を電力網の冗長性で吸収することが可能だったが、総発電可能量が大きくなりすぎて、吸収しきれない恐れが出てきての非常事態宣言だったようだ。
 幸いにして最悪の事態は発生せず、その後宣言が繰り返されることもないので、送電網のゆとりを大きくすることができたのか、例の欧州電気市場というやつに結びついて、国外に送電することで対処できるようになったのか、とにかく大きくなりすぎた太陽光発電に対する対策はできたようである。それでも、買取のコストを電気の小売価格に載せているわけだから、消費者にしてみればそこまでする必要があったのかという気持ちは禁じえない。

 一度は、ドイツなどの熱狂に巻き込まれて、同時に恐らくは政治家たちのクライアントたちからの要求で、太陽光で発電された電力の高額買取を決めて電力会社に押し付けたものの、夜中に電気をつけて発電させると使用する電気料よりも買い取り価格のほうが高いとか、チェコ国内で最も肥沃だと言われる畑がつぶされて太陽光発電所が設置されるとか、あれこれ問題が発生した結果、政府は太陽光発電で得た収入に対して特別税を課すという挙に出た。お金は約束通り支払うけど、税金を取るから、その結果実質的な買い取り額はそれほど高くなくなるという姑息な手段を選んだわけである。
 当然のように太陽光発電で一儲けを狙った連中に裁判を起こされて敗訴し、当初の約束通りの買取額が適用され税金は課されないことになったのだが、この一連の税金を課すとか課さないとかの交渉自体が、有権者に向けたポーズで、最初から結末の決まっている茶番劇でしかないようにも見えた。最終的には、太陽光発電所の認可された年によって買取価格が下がっていくことになったのかな。その価格の下がる境目のぎりぎりで間に合う間に合わないのところで、わいろをもらって早めの日付で認可したとかいう汚職事件も起こっている。真相は今に至っても明らかではないけれども。

 現在野党の市民民主党やTOP09辺りは、ANOのバビシュ政権のやっていることはひどいと非難するが、太陽光発電をめぐる迷走を思い出すと、当時の政府のめちゃくちゃぶりも今の政府に劣るものではないと思われてくる。特にこのころ外国人いじめの諸政策が始まったことを考えると、外国人としてはあの頃のほうがマシだったとは口が裂けても言えない。

 外国人いじめの政策というのは、一つはすでに何度もいちゃもんを付けているEU圏外から送られてきた荷物を税関で止めて開封し、消費税を課すという例のあれ。二つ目は、すでに廃止されたが、長期滞在ビザは最長で半年しか認めないという制度。一年留学予定の学生は期間中に延長することを余儀なくされていた。いつの間にか何のアナウンスもなく一年貰えるようになっていたのは朗報ではあるが、制度が変わったときの混乱の責任は、ソボトカ内閣のホバネツ内相にあるのかな。最後がチェコのビザを受け取るためには、ビザの期間中を通じてチェコ国内の保険会社が提供する保険に入っていなければならないというルール。それまでは、留学生は日本の留学保険で何の問題もなかったし、延長の場合にはそれも不要だったのだが、チェコの保険会社が提供している外国人向けの保険に入らなければならなくなった。
 これらはどれもこれも外国人からできるだけ金を搾り取ろうという発想のもとに制定された法律である。少なくともそう確信している。外国人と言いながら、EU市民は対象外になっているし、当時は日本や韓国などのアジアからの投資が盛んだったから、実質的にはアジア人を狙い撃ちにした政策だったと言える。アジア人から搾り取っても大した額にはならないと思うのだが、当時は財政赤字垂れ流し状態だったからなあ、少しでもというのがあったのだろう。とはいえそれを許せるかと言えば断じて否で、バビシュ政権がこの悪法をすべて撤廃してくれたら、犯罪者だろうだ何だろうが両手を挙げて支持する。まあ外国人の支持を集めても何にもならないんだけどね。だからこそカロウセクもこんな政策を導入できたんだろうしさ。
 今回の迷走はここまで。
2018年10月7日23時。










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2018年10月08日

寒い?回目(十月四日)



 寒い暑いは、子供のいうこと。それでも、やっぱり寒いと言いたい。すでに何度も寒さについては愚痴をこぼしているわけだけど、今年の愚痴はちょっとばかり違う。気温自体はそれほど低くないのだ。最低気温が5度以下で、最高気温が10度ちょっとというのは、九州の人間にとっては完全に冬の気温だが、チェコの十月初めだと考えればそれほど低いものではない。
 問題は、気温の上下動の激しさで、つい最近まで30度近くまで気温が上がっていたのが、突然15度以上も落ちてしまったのだから、体が反応しきれないのも当然である。この気温の変化の激しさについても、すでに何度か愚痴ったかな。

 今年は、それに加えて夏が暑かった。暑かっただけではなく長かった。八月が終わり九月に入ってもなかなか気温が下がらず、チェコらしからぬゆっくりとした気温の下がり方だったのに安心してしまったのがよくなかった。日本を離れて十何年にもなろうというのに、何となく日本の夏と秋の狭間にいるような錯覚をしていたのだろう。寒くなるという情報は得ていて、頭ではわかっていたのに、体が付いてこなかったというか、ついつい、ちょっとだけしか厚着をしなかったというか……。
 とまれ、うちのが風邪を引いたのに続いて、こちらも引いてしまった。前回の八月の終わりの場合はこっちが先だったから順番が逆になった形である。二人して風邪を引いた原因の一つは、住んでいる建物のボイラーは給湯はできているから故障はしていないのだろうけれども、お湯が暖房に回ってこず、室内の気温も低下したことだった。気温が下がってすぐは、夏の暑さを建物が取り込んでいたのか、それほど気にならなかったのだが、二三日すると、堪えられなくなり、電熱線を使った暖房器具を引っ張り出して、スイッチを入れてしまった。

 ここでふと、この前の地震で完全に停電したという北海道のことを思い出した。大規模な停電が起こって電気が使えなくなった場合、暖房も使えなくなると書かれていたが、チェコで完全に停電して電気が使えなくなった場合、今回程度の気温なら、最低でも0度まではいかなかったから寒さで亡くなるってことはないだろう。しかし、こちらの家庭の多くは、ガスコンロは持っておらず、お湯を沸かすのにも電気を使うしかないから、ものすごく不便な生活を強いられることは間違いない。
 そして、これが真冬だったらと考えると、うちの建物に入っているボイラーは安全のためにあれこれセンサー何かの機器がついているはずだから、電気が通じていなければ自動的に停止するはずである。発電所兼熱湯生産施設からパイプラインで給湯されているところも多いはずだけれども、所謂ブラックアウトが起こった場合に、給湯し続けられるのだろうか。室内は屋外ほど気温は下がらないとはいえ、外が氷点下の日が続けば、いずれは室内も同じような温度になってしまう。そうなると寒さに弱い九州の人間に堪えられるとは思えない。

 一度建物が冷えてしまったら、暖房が復旧してもしばらくは寒さに悩まされることになる。以前、今とは別なところ、古めの石造りの建物に住んでいたときに、しばらく部屋を空けるというので、暖房をできるだけ弱めて出たことがある。久しぶりに戻ってきて外と変わらない部屋の寒さにはそれほど驚かなかったが、暖房を強めても全く暖かくならないのには閉口した。いや、その日だけでなく、それからしばらくは部屋の中で凍えることになったし、昼間は仕事に出ていたからまだましだったけど、二度と体験したくないと思うぐらいには辛かった。
 こちらの暖房は、ストーブのように火を焚いて直接空気を暖めるのではなく、部屋の中のラジエーターに熱湯を通すことで空気を暖める方式だからか、部屋自体が冷え切っているとなかなか室温が上がらないようのである。暖房用の強弱の調整はしないほうがいいのである。暖房が効きすぎて暑くかんじるようなときには、換気をかねて窓を開ければ室内の温度を下げることができる。室内では思い切り薄着をするなんて手もあるんだけどね。

 だから、北海道の人たちの今回のような大停電が真冬に起こったらという不安はよくわかる。そして、何万年に一度来るか来ないかの大地震のリスクと、100パーセントやってくる冬のリスクを比較して、原子力発電所の再稼動を求めているのもものすごく理解できる。理解できないのは、政府も、一部を除けばマスコミもその声を無視しているように見えるところで、原子力発電所の再稼動を推し進めてきた政府としてはここが推しどころだろうになどと考えてしまう。
 長くなったので一旦切る。こんな話になるはずじゃなかったのに。
2018年10月6日23時。











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2018年09月23日

プラスチックゴミ再び(九月廿日)



 ストローからの連想でプラスチックのリサイクルについて記事をでっちあげたのは今月の初めのことだった。それが、あそこに書いたことが前提から間違っていたことを最近知った。ソースはニューズウィークの七月の末の記事
 中国に輸出されたプラスチックのゴミは、リサイクルされて新たに原料として生まれ変わるのではなく、コミとしてゴミ捨て場に捨てられるのだという。掲載されている写真を見るとおぞましささえ感じてしまう。こんなところで餌を探すカモメが、餌と一緒に、もしくは餌と間違えてプラスチックを食べてしまう恐れが高いのは想像に難くない。それに放置されたプラスチックゴミがさまざまな要因でゴミ捨て場の外に出て、汚染の原因になっているというのもありそうである。東京のゴミ捨て場兼埋立地だった通称「夢の島」もこんな感じだったのだろうか。

 そしてこの記事によれば、ゴミとして分別回収されたプラスチックのうち、本当にリサイクルされるのは14パーセントでしかないらしい。ゴミの分別さ盛んでプラスチックゴミの回収率の高いいわゆる先進国で集められたプラスチックゴミは、中国などに輸出され、ゴミ捨て場に野ざらしで放り出される。これが、プラスチックのリサイクルの実態だったのである。これはもう詐欺としか言いようがない。
 我々が面倒だと思いつつもプラスチックゴミを分別して処理しているのは、これがリサイクルされて新たなプラスチック製品の材料になると信じているからであって、中国に輸出されてゴミ捨て場に放置されるという現実に、何のために分別しているのだろうと言いたくなる。中国で野ざらしにされたゴミは、さまざまな形で日本の環境に悪影響を与えることになるだろうし。

 今年に入って、マクドナルドなどがプラスチックのストローを廃止するとか言い出したときに、日本はゴミはゴミ箱にという文化があってプラスチックのストローもちゃんとプラスチックのゴミ用のゴミ箱に入れるからあまり関係ないとか、プラスチックのストローはプラスチックのリサイクルに乗りにくいから、ストローの使用量を減らそうというのは理にかなっているとかいう意見を目にしたものだが、どれもこれも、この回収されたプラスチックゴミの処理の現実の前では的外れだったというしかない。
 ストローがプラスチックのゴミとして回収されたとしても、中国のゴミ捨て場から外に流れ出して環境汚染の一因となる可能性は高いのである。そもそもプラスチックのゴミを放置するゴミ捨て場の存在自体が環境汚染だともいえる。汚染を一地域に押し込めているのだという言い訳は成立するにしても、プラスチックゴミを分別して回収することが、絶対的に環境汚染の防止につながるとはいえないだろう。
 そう考えると、プラスチックのストロー廃止の動きも、世界のゴミ捨て場となっていた中国が、プラスチックゴミの輸入を停止したため、捨て場のなくなった回収されたゴミが国内にあふれかえるのを防ぐためのゴミ削減の一環だと考えられそうである。その第一歩として廃止しても反対の少なそうなストローが選ばれたということか。

 九十年代の初めに川崎市に住み始めたときに、ゴミの分別がまったく求められていないのに驚いた記憶がある。瓶や缶は別になっていたかもしれないが、当時田舎では当然だった燃えるものと燃えないものの分別も不要だったのである。川崎市では市民に分別という余計な手間をかけさせるのは行政サービスの衰退だとど主張し、同時にゴミ処理場の焼却能力が高いのでプラスチックなどを焼却しても有害物質が発生することはないと自慢していた。その市の姿勢は、環境意識の高い人たちによって強く批判されており、90年代の後半には、ゴミの量が焼却炉の能力を超える恐れが出てきたという理由をつけて、ゴミの分別収集を導入したのだが、実際には批判のうるささに耐えられなくなったというのが真相ではなかっただろうか。
 しかし、今回のプラスチックゴミをめぐる騒ぎから考えると、正しかったのは環境保護にうるさい連中ではなく川崎市のほうだったようだ。高性能の焼却炉でプラスチックゴミを燃やして、発電や発熱に利用すれば、プラスチックが環境に流れ出すこともなく、発電の燃料費も抑制できるはずである。それに、中国などに輸出するための輸送にかかる燃料なども減らせるから、ゴミとして中国に輸出してリサイクルしたふりをするよりははるかに環境にかかる負荷が小さくなる。

 現在の状況は、自然環境保護のための手段であったはずのプラスチックの分別回収が、目的と化してしまった結果、プラスチックの回収率は上ったのに、リサイクルによる再生産は増えず、リサイクルできないゴミが増え続けているというところだろうか。仮に中国のゴミ輸入の停止がなくても、早晩この見た目だけのプラスチックリサイクルが破綻していたであろうことは想像に難くない。
 いま必要なのは、回収したリサイクルには回せないプラスチックゴミをどう処理するかの対策であるはずなのだが、その対策がプラスチックのストローの禁止というのでは貧弱に過ぎる。ゴミを減らそうという試みとしては評価できるが、どんなに削減に努力したところでリサイクル可能なレベルである現在のゴミの量の14パーセントにまで削減するのは、無理な話である。可能であるとすれば、法律で強制的にプラスチックの使用を禁止するぐらいか。
 ならば、プラスチックゴミは、プラスチックを燃やしても有毒物質の出ない設備を備えた発電所で燃料として使用するしかないのではないか。ゴミを焼却処分するというとイメージが悪いけど、プラスチックゴミ発電と名前を変えたら、ちょっと環境によさそうに響かないかな。環境保護論者なら飛びつきそうな気もする。少なくとも森林や田畑を破壊しての太陽光発電よりは、現実にも環境への負荷は少なくなるわけだし。
2018年9月21日18時。







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2018年09月16日

サマータイムの終焉(九月十三日)



 思わず「フラー」と声をあげそうになったのは、来年からサマータイムが廃止されるというニュースを聞いたときのことである。ここ数年、廃止を求める人の声も高まっており、EUでも廃止を検討しているという話だったから、期待していたのだけど、ついに決定されたようである。各国でサマータイムを使いかどうかを決めるのではなくて、EUで決めるというのには多少違和感も感じたが、一部の国だけ使うとか使わないとか、開始時期がずれるとかなると不便極まりないから仕方がないのだろう。
 かつてのEUの良心がまだ残っていないわけではないのを感じさせたのが、夏時間と冬時間どちらを標準時として採用するかは各国の判断に任せるということで、EU圏内が完全に一つの標準時を使っているわけではないことを考えると、ここで統一してもしかたがないと言うことなのかな。だから、サマータイムの廃止と書いたけれども、正確には標準時である冬時間と一時間時計の針を進める夏時間の交替がなくなるというのが正確で、国によってはサマータイム採用時の時間を標準時とすることになるようである。
 チェコはどうなのだろう。ニュースでは冬時間(現在の標準時)と夏時間を通年使ったときの冬至や夏至の日の日の出の時間なんかを紹介していたが、夏時間を冬も採用すると、日の出の時間が9時ごろになるようで、うちのはこれは堪えられないと言っていた。これがチェコ人の一般的な感情かどうかはともかく、チェコでは現在の標準時、つまり冬時間を通年使うことになるのではないかと期待している。同じ標準時を採用している国の中ではチェコは東のほうにあるわけだし。いや、逆か。東にある国の方がサマータイムの恩恵を受けるのか。

 ニュースではサマータイムの歴史についても紹介していて、もともとは第二次世界大戦中、それから終戦直後に光熱費を削減するための対策の一つとして試験的に導入されたものだという。その後紆余曲折を経て現在の形で定着したのが1979年のことだと言っていたかな。サマータイムというとヨーロッパではずっと昔から使われていたものだと思っていただけに、最初に聞いたときには意外に短い歴史に驚いてしまった。
 また、光熱費の削減というサマータイムによる経済効果は現在ではまったくないに等しく、経済的な面からはサマータイムを維持する理由は全くないらしい。むしろ年に二回、強制的に時間が変えられることによる健康被害の大きさが問題になっているようだ。時間が切り替わった直後は、特にサマータイムが始まった直後は、病院に行くほどではないとはいえ体調がよくないことが多いから、個人的にもこの見解には納得できる。自分の意思で一時間早く起きるのと、時計上の時間の変更で望む望まないにかかわらず強制的に一時間早く起きざるを得ないのとでは、体の対応力に大きな差が出るのである。
 今年はまた十月に冬時間への移行が待っているけれども、これは今までどおりの生活をしていれば自然に早寝早起きになる時間の変更で、時間をかけて体を慣らしていけるからそれほど大きな問題はない。願わくは、来年の春にチェコが時間の変更をせず、冬時間をそのまま使い続けんことを。サマータイムが終わると決まってなお、一時間早起きを強制される方向での時間の推移には堪えられそうにない。

 そういえば、日本では東京オリンピックに向けてサマータイムを導入しようという動きがあるようだが、正直正気を疑う。何十年も続けてきてなれているはずのチェコ人でさえ、時間の変更によって体調を壊す人が出るのである。日本でやったら、しかも一時間ではなく二時間時計を進めようという話もあるというから、チェコ以上に体調を壊す人が続出するに違いない。そんな状態でオリンピックの準備、開催なんてできるのかね。できはするかもしれないけれども終わった後の反動がえらいことになりそうである。
 仮に夏の日の光を活用するためにサマータイムを導入したいというのなら、時計の針を動かすのではなく、始業時間と終業時間を一時間早めてやればいいのだ。最初はどうしても普段どおりの時間まで仕事をしてしまって残業が増えるなどの弊害はあるだろうけれども、何年かたって慣れていけば状況は改善されるはずである。少なくとも何年たっても慣れようのない時計の針を動かすサマータイムよりははるかにましなはずである。

 サマータイムの廃止、より正確には夏時間と冬時間の二つの時間の使用をやめるというのは、近年まれに見る高く評価すべきEUの決定である。二度と再開されないことを願ってやまない。
2019年9月15日23時55分。




 



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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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