2016年03月06日
救急車のサイレン音で母を思い出す
最初の搬送
母が救急車で搬送されたのは3回。
仕事先で倒れた時と、
転院した時と、
自宅で動けなくなったとき。
そのすべてに私は同乗しました。
母の仕事先から一報があった時は、すぐに仕事を終了して
駆け付けた。
その間に、デイサービスから帰宅する予定の父を受け入れる
人員の確保と、そのまま別施設にて宿泊の手配をしてもらえるように
ケアマネージャーさんに相談をしました。
その傍らで、私の嫁と娘・・・そして姉を自宅に召集し、
父の外泊に必要な着替えや血圧の薬など、もろもろの準備
を並行してお願いしていた。
母の仕事先のから連絡をくれた社員の方も、救急車を呼ぶのか
私が母を直接引き取るのかがわからない様子でした。
私は電話で聞いた母の容態から、脳梗塞か脳出血を予測し、
すぐに救急車の手配をお願いした。
救急車の窓カーテンの隙間から見える見慣れた街並みは、
何かいつもと違って見えました。
その日に入院することとなった母が肺がんであることを知らされた
のは、2週間以上後のことでした。
転院搬送
転院先の某大学医学部付属病院で
全身検査をしたことで明らかとなりました。
病院から病院へ、救急車で運ばれる母。
同乗した私は、またも窓カーテンの隙間から垣間見える
見慣れた景色を目で追いながら、母にも見せたいと
心で思った。
特に自宅の目の前を通過するときは何とも言えない
感情が湧き上がったことを思い出します。
母が行きたいのは、病院ではなく自宅なのだろう・・・
いち早く自宅に帰りたいに違いない・・・。
最期の搬送
出来ることなら自分の車で送り出してあげたかった。
もっと言うなら・・・自宅で、自分の布団で逝かせてあげたかった。
そんなにすぐに逝ってしまうなんて思いもしなかった。
弱り切った母をいつまで見過ごせば良いかの判断が
つけられないところまで来てしまったのでした。
何も出来なくなったしまった母は、ベッドで横になること
すらできない・・・椅子に座り、むくんだ脚を高い位置に置き、
意識が遠くなる母は、私たちには見えない葛藤が続いていたに
違いない。
お迎えに来た救急車に載せられて、見る見るうちに容態が
変わっていく様は、今でも思い出します。
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