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2022年09月01日

自宅療養初日

自宅療養期間の開始日は

ガイドラインに従って定められる。

基本的には症状を自覚した日か

病院で陽性の診断がなされた日の

どちらか遅い方が起算日となる。

私の場合、30日に発熱を確認し

病院で受診まで漕ぎ着けようとしましたが

掛かり付けの病院では発熱外来をやって

おらず、他を当たりましたが軒並み閉院。

時間が遅かった。結局翌日の31日に受診

陽性の判定をいただきました。

前日からの高熱と倦怠感がきつく

自家用車の車内で待っている間、ずっと

つらい状況でした。

帰宅するとすぐに昼食を摂り、

処方された薬を服用して横になった。

正直言って食欲なんてありません。

身体中の痛みと、高熱の影響と思います。

ですので療養期間中はしっかりと

食べることを心掛けています。

出された物は残さず完食してます。

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コロナと直接対決開始までの体調経緯

遡ること一週間

体調の変化は始まっていた

口内炎ができたのだ

口内炎が先か免疫力低下が先かわからないが

その後にヘルペスが口の周りに出来ることが

多く、私はそれを警戒していた

対策としては主に睡眠と食事を気遣う

重ねて、ビタミンB群の摂取を意識する。

一般的な栄養ドリンクやデカビタCなどに

ビタミンB群の補給を助けてもらってます。

口内炎が出来ると、体調の微妙な変化を

感じるようになる。

特には怠さだったり軽い倦怠感で

今回もそれだった。

が、しかし、それに加えて喉に違和感が

あって、気になった。

ここで言う違和感とは、鼻腔の奥の

ちょっとしたヒリヒリ感と

喉の奥が乾燥するような症状を感じ

むせ混むような咳が出てしまった。

それもこの時期特有の寒暖差の影響と思った

いや、思いたかったのだろう。

心の片隅に抱くコロナ感染への不安と

背中合わせになっているのが

自分の「それ」は「それ」ではない。

という根拠のない過信。

その過信が正常な判断を鈍らせた。

病院で検査を受けたのは水曜日

発熱を確認したのが火曜日の夕方、

それっぽい症状を感じたのは日曜日、

辿れば辿るほどに謎が深まる感染経路。

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2022年07月21日

コロナ陽性で一家ロックダウン

同居家族にコロナ陽性者が出ると

最早何も出来ない

というと少々大げさだけど

実際身動きは取りにくい

後ろ髪を引かれる思いが一番強いのが

買い物の時である

今までは被害者目線で見てきた景色は

真逆の加害者目線に置き換わり

申し訳無さが先行する

当選仕事にも行けなくなり

一家全員がロックダウンとなった

それでも、3年の月日が経過する中

コロナウィルスのステージは大きく変わり

死への恐怖は大分薄れた

しかし、だからといって

やはり恐怖心は拭えない

感染を食い止める事が出来るか否か

不完全な隔離生活の穴をすり抜けて

攻撃してくるという恐怖に怯えています。

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2022年07月20日

家族がコロナ症状

コロナ時代3年目

誰しもコロナに感染するステージに突入

以前のような行動制限はなく

比較的自由に動ける印象

それは我が家も同様で

リスクと背中合わせだったのは以前の話

現在はリスクと向かい合っている印象

そう感じ始めた矢先に

長女が体調不良を訴え、同時に発熱

明日の検査でハッキリする

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2022年06月15日

母が持っていた偏頭痛

物心ついた頃から

私の母は頭痛と闘っていた。

定期的に、頭が痛い、と言っては

バファリンを服用していた。

そんな母は私にマッサージを求めた。

首、肩、背中のマッサージをせがまれて

小さい頃から母の専属マッサージ師として

うまく調教された。

お蔭様で素人のわりにマッサージが上手い。

そんな幼き頃の私は、母の頭痛の原因は

主に肩こりだと思っていた。

母が他界した今となっては

真実を知ることは出来ないけれど

バファリンを常備薬としていた母の頭痛は

偏頭痛だったのかも知れない。

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2022年03月27日

治る認知症を見逃さない為に

脳内の髄液の流れがスムーズに行かず

脳を圧迫するために起きる障害に

歩行障害

尿失禁

認知症あります。

これら障害は「髄液の流れ」を良くすれば

障害が改善出来る可能性があります。

脳内の水はけが悪化するほどに

脳へのダメージが大きくなるために

「早期発見」「早期治療」が大切です。

治療方法は「手術」です。

脳に溜まった水分を細い管で脳外へ排出する

排出といっても、脳以外の腹部などを

シャントという細い管で繋ぎ、

そちらへ逃がします。

これを「髄液シャント術」と言います。

詳しくはかかりつけ医や専門医に相談して

みてください。

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2021年05月19日

気遣い

闘病中の母の気遣いは

私が気づいている以上にあった。

その全容を明白にすることは出来ない。




私の知らない部分の情報供給先は

妻と姉からの二つのみ。

入院中も退院後も

自分のことで精一杯だったはずなのに。

どんな状況でも、母親は母親なんだなぁ

と感じた。

母の闘病中、私が母を気遣えば気遣うほど

母は私に気遣った。

闘病中の母にとって、

私の気遣いが重荷ではなかった

と、切に願う今日この頃。




2021年03月05日

煩わしいと思っていたのは事実





日々の煩わしかった手間も

長く続けているうちに

もはや習慣となっていて

生活のリズムとなっていた。

それが途絶えた時、

解放された喜びよりも

喪失感が残り

それらが生き甲斐であったことに気づく。

その時、それは無くなっていて、

それが生き甲斐だと感じられぬままに

過ごしてしまった日々は、記憶の中で

繰り返し再生される。

煩わしいと思っていた日々が

今では愛おしいと感じる。

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病院を探していた三年前





食道癌が見つかり

しかも末期で手がつけられない状況の父に

残された時間はなかった。

施設から入院して二ヶ月、

そろそろ転院という流れの中

促されるままに病院を探していた。

ようやく病院が決まり

後は転院手続き待ちとなった頃

父は誤嚥性肺炎を併発し

そのまま数日で他界した。

あの時も、私は母の時と同様に

父がまだ生きると考えていた。

だけに、最期の時間の過ごし方を

間違えていた。



2021年03月03日

介護の理想と現実





母は父の主介護者として

十数年間頑張った。

ただ頑張るだけでは

長期間に及ぶ介護は続かない。

必死だったと、今更ながら感じる。

父は身体の不自由を奪われ

言葉もほとんど奪われた。

そんな父の楽しみは「食」だった。

食材に贅沢は求めない人で

出されたものはすべて平らげる人。

多くのストレスを抱えて生きていた父に

せめて「食」くらいは、と今でも思う。

が、しかし

現実はそうも行かず

食べる量をコントロールせざるを得なかった

その理由は健康維持という観点は勿論だが

それ以上に、介護する側の譲れない都合

があったのです。

それは、体重です。

体重の増加は介護者の負担を増幅させる。

介護のプロから教わった技術で

ある程度の労力は軽減できても

素人覚えには限界とある。

体重40キロ前後の高齢女性に

70キロを超える人間を介護するのは

厳しかった。

そこで母は、父が体重70キロを超えない

ように調整する方法を選択した。

なにもかも、どちらかが譲らねば

長くは続けられない。

そこに、介護の理想と現実がある。




2021年02月19日

出来そうで出来ない介護、 ''必死''には''必至''で応えたかった。





家族の介護や介助には

される側とする側がある。

至って当たり前の事です。

私は介護、介助する側しか

経験がありません。

介護、介助される側の気持ちは

想像出来ても本当の意味では理解出来ない。

私が経験した介護や介助の対象は両親。

父の主介護者だった母の入院を皮切りに

母の介助が始まり、

同時に父の介護を受け継いだ。

結果から申し上げると、

母の介助期間は退院してから亡くなるまでの

約9ヶ月間。

父に至っては約3年間、と言いたいが

実際は施設入所してもらったので

まともな介護は数日間しか経験してません。

母は余命宣告されていたけれど、

介助生活がいつまでも続く気がしていた。

父についてもそうだった。

末期の食道がんが見つかり、

余命宣告を受けた後、すぐに他界するとも

思えなかった。

すべては現実逃避だったのかもしれませんが

何もしてあげられなかった。

いつまでも続くという気持ちが先行し

心に余裕がなかった。

両親が生きる事に''必死''だった期間、

私は介護や介助に''必至''ではなかった。

出来る事は沢山あった。

気持ちはあっても、''そのうちに''

という後回し感情が強かったと感じる。

私のように意志の弱い人間に有りがちな

''出来そうで出来ない介護''は、

後に''後悔''となって重くのし掛かってくる。




2021年02月03日

治療と療養





療養と治療って

何が違うんだろう

調べてみたけど

字だけ見ると同じような意味にとれるが、

''治療''は字の如く、病気または怪我の

治癒、完治などを目的とした

医療行為のようです。

対して''療養''は治療に伴う行為?

と受け止めれば良いのか

''治療の為に身体を休めること''、とある。

なので、治療と療養は常にセットで

考えるのが自然なのかなぁ、と考えます。

ということは、

スポーツ選手がたまにやる行為で

日々治療しながら痛みを堪えてプレーを

続ける行為は治療のみであって

その期間において療養は含まれない。

という解釈にて着地しました。



2021年01月25日

家族





家族ってなんだろう

過去、こんな事を考えた記憶はない。

母が他界した時も、父が他界した時も…

そんな事を考える事はなかった。

ただ、唐突に思った。



2020年06月15日

後ろ姿と母親





大きな窓から見える雄大な景色

通いはじめて半年以上経つけど

いつ見ても素晴らしい。

しいて注文をつけるなら、

そこが病院だということ。

妻の付き添いは昨年の10月末から始まり

今年3月に手術を受けた後

術後の経過観察のための提供通院として

今日まで月一度のペースで通院。

ただでさえ激動の半年だったのに

新型コロナウイルスという恐怖も重なった。

院内状況もすっかり変わり 

コロナ対策一色である。

待ち時間は長いけど、妻との何気ない会話は

十分に時間潰しになる。

一人で待っている時間はスマホを見たり

人間ウォッチングをしている。

今日は後者だった。

車椅子に座る高齢の男性の後ろ姿は

やはり父親を思い出す。

さらにその車椅子を押している女性、

見た目年齢は高齢男性よりも若い…

妻か…娘か…

そう考えた時、よみがえった記憶。

それは母が父の介護をしていた時期

同じように車椅子に座る父を押していたのは

昔から年齢よりも若く見られる母だった。

その母がよく言っていた。

外で車椅子の父を連れていると

父親と娘に間違えられてしまう…と。

母親はその事を決して嬉しそうには

言わなかった。

むしろ少し悲しそうにも見えた。

あの日の母親の色んな苦悩と共に

思い出が次々と浮かんだ。

何気ない病院での一時、

車椅子に座る高齢男性の後ろ姿

付き添いの女性

その2つのキーワードが

両親の思い出を引き出してくれる。






2020年05月27日

酒と謝罪と感謝





元気してる?

そんな一言でラインが始まる時の

ほとんどは酔っている。

酒好きで大酒呑みな所は父親譲り?

私の姉は普段こそお茶らけているが

とても優しい人間で繊細だ。

傷つき易い上に抱え込む所がある。

だからそうやって少しずつ放電している。

そう理解している。

酒の量が一定量入ると、心の闇に入り込み

母親と父親に対するたくさんの後悔と

溢れるほどのありがとうが押し寄せる。

ラインの文面もふざけているけど、

画面の向こう側では

涙がこぼれ落ちていることだろう。

思い返せば思い返すほど

きりがない。

遺影となった父親も母親も笑っている。

その笑顔が心地よく感じることも

悲しく感じることもある。

いつも自分の心次第。

姉は繰り返す。

たくさんのありがとう…と

ごめんね…を。

酒が進み

悔やみは募る。




謝罪の念に覆われつつ

感謝で溢れる。

姉がどれ程の愛情に包まれていたのか

客観的に見ているとよくわかる。


2020年04月17日

介護経験





父親の介護に少しだけ携わった。

母親の癌闘病をきっかけに

父親の下の世話までしていた。

あの経験は

あらゆる場面で役に立つとともに

自分自身の発言にまで影響している。

うまく言えないけれど、

自分よりもご年配の方でも

介護経験のあるなしで

発言に大きな違いが見られる。

考え方の正解不正解ではなく 

考え方が違くなるようだ。

私にとっては

中途半端な介護であったとしても

父親の介護経験は人生に役立っている。



2019年01月25日

入院と体力の低下

仕事関係の知人が癌治療で退院して一ヶ月ほどが経った。

その間、二度ほど顔を見る機会があったが

見た目には特段変わった様子もなく

相変わらずの元気のよいおじさんのままである。

抗がん剤治療と、陽子線治療の両方を定期的に受けている。

副作用は思っていたほど酷くはなかったと語ってくれた。

当初から仕事に復帰する予定で治療に専念していたが

予想以上に低下してしまった体力と筋力に驚くと共に

今後続く予定の治療(通院と入院)を考えると

仕事をしながらではなく

治療に専念することが最善と考え、引退を決めた。

これで、もう彼と仕事をすることが無いと思うと

とても寂しい。

御年67歳での肺がん治療で入院・・・体力の低下・・・仕事引退、

このフレーズは母の時と同じである。

母も自らの体力の低下を危惧していた。

入院中も院内をウォーキングするなどして努力していたが

治療を重ねるごとに・・・時を重ねるごとに

母は衰弱して行った。

膝に力が入らない・・・

踏ん張りがきかない・・・

おじさんも全く同じことを言っていた。

癌が、治療が、働くための体力と気力を奪うのか?


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2018年08月21日

父も母も悲しんでいるだろう

父が家族以外で会いたがった人

他界する二週間ほど前に会うことが出来た

病室に会いに来てもらった

もう永くはないことと

昨年秋に父がその人に会いたいと私に言った

かろうじて聴きとることのできる父の声

左半身麻痺は言葉をも遮った

片言の単語でしか聴きとれず

その単語も限られていた

今でも思うが

その名前を聴きとれたのは奇跡に近かったのかもしれない

病気発覚後の末期症状での再会となってしまったことは申し訳ないが・・・

あれから4ヶ月後に

あの方が父と同じ症状に侵されたことに何かしらの縁を感じた

初期症状としては父よりも重症だ

父と母が知ったらどんなに悲しむことか

自分の子供の事のように悲しんだに違いない

父と母は向こうからどんな思いで見ていることだろう・・・


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2018年07月05日

父の頻尿と母の寝不足

母の体調に著しい変化が現れた時が

いつだったのかがわからない

もう辿ることも出来ないだろう

ただ

思い当る節は沢山ある

だからその一つ一つを辿っていく

父の頻尿はその中の一つ

父のトイレが近くなったことを気にし始めたのは

当時通っていたデイサービスからの連絡からだった

父のトイレが近くて回数も増えてきたため

医師の診断を勧められたのだ

それからすぐに泌尿器科に係り

薬の処方に至ったのだが

あまり改善は見られなかった

それから間もなく

母は夜な夜な起こされるようになった

問題を大きくした要因に

父がオムツに排尿しなかったことが大きかった

慣れるまでに時間が掛かるらしい

とにかく辛そうだった母

あれほどに弱音を吐く母を目の前にして

危機感を感じなかった自分が悲しすぎる


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2018年06月27日

あっという間の3年

3年前の今頃は母が闘病中だった

丁度退院して3か月

放射線治療と抗がん剤の副作用に悩まされていたが

それでも想像していたよりは元気に過ごしてくれていた

あれから3年の月日が経った今

母だけでなく

父もこの世を去ってしまった

更に追討ちをかけるようにして

父親代わりのように慕っていたこともある人までもが

先日この世を去った

死因は聞かされていない

訳ありで・・・葬儀にも参列できなかった

高校生の頃は色んな所へ連れて行ってもらった

皆いなくなってしまった

あっという間の3年


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緊急入院した母が,非小細胞肺がん(腺癌)「ステージ4」を宣告され、1年後に他界・・・母の闘病中の記録や、がんに関することを中心に記事にしているブログです。
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