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2022年07月04日

じゃがいも

「立派なじゃがいもだね…」

自宅の畑で採れたじゃがいもを、何人かの先生たちに差し上げたら、そんな風に褒められた。昨年は、じゃがいも栽培は失敗して、ピンポン球程度で、しかも日が当たって、緑色に変色したものばかりになって、ついに食べることができなかった。そのリベンジとしての今年だったが、今年はよくできた。やはり「土作り」だろうか。通常、「簡単」と言われるじゃがいも栽培で失敗するくらいなのだから、私の野菜作りの腕は相当低いと言える。

畑作業も今年で四年目になる。さすがに失敗が少なくなってきた。春以降、タマネギもニンニクもそら豆もうまく育てることができた。これらも昨年までは失敗してしまったものだ。昨年までとの違いは、「世話をする」ことと「土作り」、「マルチを敷く」くらいなので、作物を育てるには、ほんの僅かなコツがあるのだろう。

大したことではないのだが、やはり褒められると嬉しいものだ。たとえそれが、社交辞令の延長上にあるとしても、なんだかほっこりする。私としては、自分一人では食べきれないほどの量でもあるので、「うまくできたらお裾分け」の精神で、「喜んでもらえたら嬉しい」という思いで、野菜を育てている。おそらく野菜作りをしている多くの人たちも、同じ思いなのだろう。

私は、職場でも親しくさせて頂いている先生方が非常に少ない。だから、せめて「野菜をくらい差し上げて、挨拶程度の会話をしよう」、と思っているのかも知れない。

自分では寂しがり屋のくせに、「人とのかかわり」が極めて苦手なのだ。
それが、歳をとり、ますます淋しさが増し、さらには偏屈なジジイということで、老害性もまき散らしている。

職員室も、それほど居心地のよいものでもなく、教室で生徒と話をしている方が楽しい。
だが、私のような年齢の教員が生徒と関わっても、生徒はなかなか心を開かないだろう。

私の野菜作りは、コミュニケーション作りなのかも知れない。
そう考えると、何とも情けないが、それが今の私だ…。

実は、このじゃがいも、植え付けには生徒の手を借りている。
というより、植え付けは生徒が行った。私は適当な大きさに切っただけである。
ある程度成長してからの芽かきも、その生徒が行った。
そして収穫も、彼が行ったのである。

「ちょっとは、感動を味わえただろうか」と、ほくそ笑みながら、私は彼が畑仕事をするのを横目に、別の畝の雑草を抜く…。

今回のじゃがいもは、こうして作られたものだ。
MVPはその生徒である。




2022年07月02日

屋外練習

気圧配置はまさに梅雨明け。梅雨前線が北上し、本州のほとんどが太平洋高気圧に覆われ、気温が急上昇。フェーン現象も加わって、各地で35℃越えの激暑となっている。35℃以上の酷暑がもう一週間以上続いている。

学校では、期末考査直前なのだが、今年は、期末考査最終日の翌日が中体連の大会になってしまったので、考査前であろうが、試験中であろうが、部活動の練習をしなくてはならない。それに併せてこの気温。「屋外での運動は禁止」状態なのだろうが、こうした暑さの中でも、大会は行われるわけで、そうした大会を想定した準備が必要なのだ。熱中症対策を完璧にして、短い時間で練習を行う。

ときおり、さっと吹き抜けてゆく風が、暑さの中でもなんとも心地よく、ほっとする。

「声出して!」、キャプテンが叫び続ける。

こんな中でこそ、自らを鼓舞し、アドレナリン全開でなければ、あっという間に熱中症で倒れてしまう。

今年は6月に梅雨明けになり、その後猛暑が続いている…。過酷だ。

まるで、「神さまがコロナ禍でマスクをしている姿をあざ笑うかのように、強制的にマスクを外させようとさせしている」ように見える。

もちろん屋外で運動するときにマスクをすることはないが、だんだん何故マスクをしなくてはいけないのか、とも思ってくる。

私の学校では、校内では体育の授業以外すべてマスク着用である。
幸い全館冷房があるので、なんとか暑さをしのいでいる。

私は練習中、生徒たちのちょっとした動きまでも見逃さない。
野球部のプレーに関することはもちろん、練習前後の動きなども、凝視する。
それに加え、熱中症になりかけていないかも、さらに注視するようになった。

わざわざ過酷な環境で、あえて練習させていて、熱中症で緊急搬送されたら洒落にならない。

その意味では、とても気を遣い、その気疲れがあいまって、私自身が具合が悪くなってしまいそうだ。

それも、「がんばれよ! 中3にとっては最後の大会だよ」、と心の中で励まし続ける…。




2022年06月17日

チャイムが鳴ったので…

この話題はこれまで何度か紹介したことがあるのだが、今日は別の視点から話をしてみたい。

私の学校では、朝の職員打ち合わせの始まりにチャイムが鳴る。それが鳴り終わると、教頭の「おはようございます」の挨拶の後、打ち合わせが始まるのである。

しかし教頭は、チャイムが鳴っている間に、教員同士が会話をすることを許さない。時折、「もうチャイムが鳴っていますので、お静かにお願いします」、と促すのである。

私が思うに、そもそもチャイムが鳴っている時に話をしているというのは、教員たちがギリギリに職員室に入ってきて、いろいろな共有事項を話してしまうからだなのだ。それならば、もっと早く出勤すればいい。そもそも打ち合わせ時間直前に職員室にやってくるから、いろいろな話をしたくなるのだと思う。

「勤務時間の30分前には出勤して…」などというのは、もう過去の話なのだろうか。
概して朝の早い教員ならば、そうした習慣はベテランになっても続いているようには思うが、どうも私の学校では、「早い人は早いが、いつもギリギリの人は同じ人」であるように思える。

念のために断っておくが、朝がギリギリというのは、前日の勤務時間が遅くまで続いているという、私の学校独特の特徴もある。私はどんなに遅くても21時半には退散するが、先生方の中には、日付が変わってもなお、職員室で仕事をしている人もいる。もちろん、早朝、5時過ぎに来て仕事をしている方もいる。私の学校には「〇時間勤務」という発想がそもそもないのだ。

早く仕事が終われば、さっと帰宅したっていい。仕事が残っているなら、自分で時間を確保して終えれば良い。日中だって、休みたければ、途中で中抜けしたっていい…というスタンスなのだ。

そうした観点からすると、朝のギリギリも、多少は多めに見なくてはいけないだろうとは思う。また、私のように、部活後、夕食後に再び職員室に立ち寄るのが週三回という「怠け者」が主張することではないのかも知れない。

それでも、長年染みついた「感覚」は拭えない。

私はやはり、「ギリギリに出勤してしまう方」とは少し距離を置きたいと思う。
世の成功者たちは、皆、朝の時間を活用している。

私がどれだけ朝の時間を活用しているかについては、人様にお話でききる状態ではないが、それでも、今も昔も、「早起きは三文の徳」は変わらないと思うのだが…。




2022年06月16日

若手の先生の研究授業

最近は若手の先生方の授業力のアップが著しい。

やはり「情熱」をもって教育活動にあたると、進歩も早いのだろう。一方で、つねに「どうやったら、最高の授業ができるか」、「どうしたら、最高のクラス、学年になるか」、を常に考え続けている中にこそ、新たな発想は生まれてくるし、その思いの継続が、生徒にも伝わり、歯車がかみ合って、良い方向に進んでゆくのだと思う。

先日、K先生の学活の授業を見た。
情熱的にクラス運営をされている二十代の教員である。卒業生でもある。

私は、同じ学年団であることもあって、写真撮影を頼まれた。グループワークも多いし、保護者参観というわけでもないので、私は、わがもの顔で教室内をうろちょろする。生徒たちも、私が写真を撮ることは入学以来知っているので、ほとんど気にしていない様子だ。

授業は『秀逸』であった。このような授業なら、誰に見せても大丈夫だろう。

私の学校では、折に触れて公開授業が行われている。
各教科は、年一回、学期毎に3教科ずつ行われるほか、初任教諭の授業、そして、授業評価の高かった先生の授業など、けっこうな回数がある。

教頭に、「若手の授業は大分進化しましたね」、と言ったら、「最近、どうしようもない授業はなくなったね。少しレベルアップしているね」、と返された。

私は、あとは「臨機応変さ」というか、『自分の準備した授業路線から外れる発言があった場合の、対処方法と、その意見を聞き、必要があれば瞬時に路線変更する姿勢』を磨く必要があるのだろう。

とかく、計画した授業をなんとかこなそうと、必死になるのが若手教員の姿である。もちろん、計画通りに進めることは大切なのだが、それを強調するあまり、大切な生徒の声をないがしろにして、「とにかく私の準備した結論に引っ張る」という強引さが出てしまいがちだ。

別に指導案通りにできなくたっていいのだ。授業は生き物だから、途中で変わってしまってもいい。大切なのは、生徒たちが「何を学ぶか」ということだ。

「ほら、指導案通りに授業ができましたよ」、という公開授業は、教育実習生の最初の授業くらいでいいだろう。

若手が育ては、私はそろそろお役御免だ。
世代交代、それもまたよし…。




2022年06月15日

部活再開

久しぶりに部活動を再開した。
中間試験前から三週間あまり、コロナのために活動ができなかったのだ。
今回は、高校野球部が練習試合でもらってきたコロナが、一緒に自主練をしていた中学生に伝染し、ほぼ野球部だけで感染が広がってしまったのだ。

中高とも、夏の大会が日々刻々と近づいて来る中、恐らく選手たちも「焦り」、「困惑」したに違いなし。

実際、私が課しメニューは、中3生には一日10キロ近く走ること。学年によって少しずつ走る距離は縮めたが、とにかく体力を落とさないことと、できうるならば、体力アップをも図りたいと思ったのである。

隔離された生徒は別として、活動できなくなってしまった元気な生徒たちは、少なくとも体力を落とすことなく過ごせたであろうと思う。

「三日何もしなければ、一週間遅れる」であろうこの世界の練習スタイルとしては、大変困ったことになった。大会参加も日程的にもギリギリだ。しかも今回の夏の大会は、期末考査の翌日でもある。

私は、久しぶりの練習で、彼等のプレーをじっと見ている。
相変わらずの下手くそ集団だが、それに輪を掛けてレベルが落ちているようにも見えた。唯一の救いは、彼等が楽しそうにプレーしていることだ。下手だって、野球をするのは楽しいのだ。一番のモチベーションは「楽しい」という気持ちなのだ。

野球好きな仲間が集まって、部活をする。
時に試合もする。
大会では、緊張の中に試合をする。もちろん勝てば嬉しい。
その経験が、また次に生きてくる。

そんな貴重な部活動での経験は、顧問の教員に支えられている。
確かに負担は大きいかも知れないが、部活を熱心に指導している先生たちも、それなりの生きがいを感じているし、その指導は、学校全体としての生徒指導にも大きく寄与しているはずだ。

「忙しく」部活をしていれば、放課後ぶらぶらする時間もない。休日も朝早くから出て行くので、「忙しい」のは親も同じかも知れないが、一日部屋に引きこもってゲームやら動画を見ているよりは、健全だし、健康的だ。

私もしばしの休息を終えた感じだ。
さぁ、本格始動しよう。




2022年06月10日

正しさを探す

再度、マスク着用についての文科省通達が来た。
政府のコロナ対策は、まさに混迷の極みといってよい。
これまでどれだけの人が、彼等の愚策によって、職を失い、財産を失い、命を失っただろうか。

今回の通達も、再通達で、「屋外にかかわらず、運動時にマスクを外すよう、徹底指導せよ」というものである。昨今の体育行事時における熱中症による緊急搬送への対処の一つだろう。

あるときは、「マスクを絶対に外すな」と言い、時期が経つと、「マスクを外せ」という。大人でも「おかしい」と思う中、子どもたち、生徒たちの、「大人・社会への不信感」は増すばかりである。

濃厚接触者の定義も、その隔離時期もコロコロ変わった。昨日までの接触者は一週間だったのが、今日からは五日になるという具合である。

今や、何を持って濃厚接触者とするかは、学校現場では校長にその判断が委ねられている。以前は、保健所の強力な介入があり、一時間をも越えるヒアリングの後、「学校名を公表するぞ」という脅しの中で、強権を発動してきたのだ。それからまだ一年ほどしか経っていない。

中国では何ヶ月もの間、上海という大都市をロックダウンさせ、一切の人流を絶った。国家社会主義の国なので、政府の都合の悪いことは報道されないが、恐らくは多くの人が苦しみ、命を断ったのだろうと思う。中国は自ら新型コロナウイルス世界中にまき散らしたのだが、ここにきて、それが再び自国である中国に戻ってきて、中国だけが数多くの感染者を出すに到っている。なんとも興味深い。

さて、学校現場でのマスク着用だが、昨今は「授業中は外させる」という学校もあると聞く。この先どのようになるのか分からないが、オミクロンのあとに、さらに致死率の高いウイルスがやってくる可能性もあり、まだ予断は許さない。

今は、一時期小康状態を保ち、近隣でも修学旅行を実施する方向で準備をしているそうだが、この先はどうなるかも分からない。

まさに、全く先の読めない時代になった。
世界情勢も不安定で、いつどこで何が起きても不思議はない状況だ。

そんな中で、私たちは学校現場で教育活動を行っている。先の見えない世界に、彼等を送り出すのは、非常に心苦しいだが、この先の世界を切り開いていく将来の人材を育てるべく、日々奮闘するしかあるまい。

恐らく、ほとんどのマスコミ報道は、正しい報道ではないのだろう。

世の中の流れは、誰にも分からないが、どこかに真実があるのだろう。
その一条の光を探すべく、歩んでいきたいと思う。




2022年06月09日

仕事に愛を込める

「やっつけ仕事では駄目なんです。そういう仕事は必ずといっていいほど、保護者のクレームになるのです」

教頭が職員会議で訴えた。
確かに、「真心を込めて、丁寧に仕事をすること」はとても大切なことだ。忙しい中であっても、「手を抜かず」、誠心誠意行うことは、ミスも防ぎ、また他の人への配慮にもなる。

このことは別の言葉で言えば、「仕事に愛を込める」ということでもある。「愛」とはもちろん男女の愛ではない。相手の立場に立ち、その仕事が、光を放つよう、心を込めて行うということである。時間の切り売りではなく、その仕事が多くの人に役立ち、また幸福をももたらすもの、という意味である。

これが本来の仕事の姿なのだが、人はどうしても怠けてしまうので、職場にはたいてい何人かは、仕事をさぼりがちな人が現れる。意識してか無意識下はわからないが、傍目からは、仕事をしていないように見えるのだ。だが、じつはよくよく観察してみると、そんな人でも、見えないところで結構仕事をしていることもある。まさに、人は見かけによらない。

一方、ひどく疲れている時には、どうしても手を抜いてしまったり、やっつけ仕事になってしまうこともあるのだろう。だが、そうした事態をできる限り、自らの心身の健康状態を保つということも、仕事をする上での大切なポイントになるはずだ。

一日二十四時間の三分の一の八時間程度、人は仕事に従事する。その仕事がレイバーなのかワークなのかも問題だ。世の中、どれだけ仕事に生きがいを感じている人がいるのだろう。われわれ学校現場で働いている人間は、たいていそれなりの「やりがい」を感じているという人が多いだろうが、実際いろいろな仕事現場ではどうなのだろうと思う。

その意味では、前述の教頭の言葉に対しては、「でもね…」と言いたくなる人もいるだろう。しかし、「可能な限り、奮闘して仕事に努めるべきである」という考えは、誰にも否定できまい。

さて、果たしては私自身は、「仕事に愛を込められている」だろうか。
やはり、けっこう手抜きをしているのではないかな。
給料の分だけ働けばいいと、思っているかも知れないな。
とてもじゃないけど、「仕事に命をかけている」とは言いにくいな。

少し自らを振り返るきっかけにはなった…。

2022年06月06日

学校を辞めるということ

また一人、生徒が去っていくことになった。
どうしても私立学校では、親の都合や、生徒指導関連で学校を去る生徒が発生する。

おそらく担任は断腸の思いだろう。

親の都合は、たいてい金銭的な問題だ。
私立学校は公立学校と比べて教育にかかる費用が高いので、親の収入が減ってしまった時などは、公立学校への転校等を余儀なくされる場合や、就職して稼ぎ元になって欲しい、という親の要望も生じる。

中学は義務教育だから別だが、高校生ともなれば、ある程度の自立を促すことは、世の常でもある。以前私が努めていた学校の先生で、ある地学の先生は、息子に対して「高校からは援助しない」と宣言し、可能な限り自ら生計を立てることを求めていた、そうした環境下で、高校に通い、学業を行うことは、他の人と比較すれば極めて困難には違いないが、「自立」という観点からすると、大変ユニークで、「子どもを思った」教育方針ではないかと思う。

一方、生活指導上のペナルティで学校を去る場合は、なかなか複雑だ。
だいたいにして私立から公立への転校は嫌われる。公立の先生からは、「自分たちで指導できないから追い出した」と思い、「問題生徒を押しつけている」と感じるはずである。特に中学校三年生での転校は、先方にも多大な迷惑がかかる。

また、当事者と関係する生徒が、転校を免れ、学校に残った場合には、心のケアも必要になる。合わせて、いろいろな噂話も飛び交い、けっこう苦しい環境下での学校生活になるだろう。そうした中で、学校生活を過ごすことが、ある意味、新生のための課題であり、乗り越えなければいけない試練なのだろう。

私は、これまでたくさんの生徒と関わってきたが、振り返ってみると、何人もの生徒を転校させてしまった。不登校になり進路変更した生徒、生徒指導上で学校にいられなくなった生徒、保護者の収入が絶たれ、やむなく去っていった生徒。

彼等はその後、幸福になったのだろうか。今はどんな人生を歩んでいるのだろうか。

手がかかり、保護者からも無理な要望が来ると、学校からいなくなって「ほっとした」という気持ちも湧いてしまうのかも知れない。

しかしそれは、逆に言えば、学年や担任としての「指導力不足」であり、教員としての「努力不足」であり、学校全体としても、「個別対応不足」である。

必ずやその経験を、次に生かさなくてはなるまい…。

2022年05月22日

運動会

今年も運動会が終わった。
毎年のことながら、光輝く生徒たちの姿に感動する。

中1から高3までが、4団に分かれて競技を行う。
どれも真剣勝負だから、勝ったときの喜びはひとしおだ。
だからといって、たとえ負けたとしても、勝った団を祝福する。
勝っても、負けても、学びは多いのだ。

保護者をはじめとして、多くの観客もやってきた。
コロナ禍の中、運動会中は、お互い行き来はできないよう制限を設けた。食事場所もトイレも別である。だから、かつてのように、親子で会話しながらお昼を食べる、という姿は、もはやない。しかし、このように通常開催に近い形で、運動会が実施できることが、何年かぶりでもあり、ありがたいことなのだろう。

高2から、各団のリーダーが後輩たちを導く。
中学時代に彼等を教えている私は、「こんなにも成長したのか…」と感動する。
また高3の演舞も、彼等の中1、中2時代を知っている私は、感無量である。

「丹澤先生にお世話になった学年ですよ。どうでしたか?」
高3担当の先生が、私に畳みかける。
演舞が終わってからもなお、生徒が私に聞いてきた。
「どうでしたか?」
彼等としでも自信のあるものだったのだろう。
演舞では、これまでの学校生活や、ここまで育ててもらった両親への感謝の言葉に溢れていた。

この先、高3は一切の行事がなくなり、受験勉強一色になる。

例年どおり、団毎の応援合戦もある。
制限時間内に、ダンスや演舞、決意を発表する。

どの団も秀逸だ。
特に私はその中でも、白団に感動した。

いつも通りというか、私は、涙を流しながらシャッターを切り続ける…。

大した写真が撮れるわけでないが、いかにも撮影している姿をアピールしながら、心は大きく揺さぶられている。

生徒たちの姿は眩しい。
この先の世界を担っていく若者たちだ。

2022年05月14日

やっぱり最後は金か!?

「やっぱり金だよね。人は金で動くんだ。」
大会当日、近隣の先生がそう語った。

「部活手当が減ったから問題なんだよ。以前のように支給されれば、責任感も増すだろうから、その分一生懸命仕事をしなくてはいかなくなる。支給が減っているから、皆がやる気が減って、それでいて、部活指導もきつく感じるようになってしまう。部活を一生懸命やっている人が白い目で見られることもなくなるだろ? 金をもらってるんだから、やって当然だってことになるんだから…。」

私は、公立の先生はこんな風に考えているのだと改めて思った。幸か不幸か、私の学校では部活はもちろん、出張時にも一切の手当は出ない、そんな風に考えることはないだ。だが、公立の先生たちと話をすると、けっこう「お金」に対してシビアなことが分かる。

確かに仕事であるので、その対価としての給与が支払われ、それをもとに生活が成り立っているので、仕方のない面はある。本当は単にそうではあってはいけないと思うが、「お金でしか人が動かない」と考えるのは少し悲しい。

この辺りが、教員を聖職者と見るか、労働者と見るかの境目にもなるのだろう。

世の中にはたとえ給料が安くとも、「やりがい」を感じ、天職として仕事をしている人もいる。一方で、つねに不平不満に満ち、本来は恵まれた仕事であるにも関わらず、「こんな仕事なんか続けられるか」と叫ぶ人もいる。

私は少なくとも、教員はあるていど「天職としての仕事」と考え、「やりがい」を感じられないと、勤め上げることは苦しいだろうと思う。

もちろん、努めている中でいろいろな事は起こり、悩み苦しみ、仕事を続けるかを迷うこともあるだろう。だが、やはり「子どもが好き」で、「教えることが好き」で、「学校が好き」でないならば、教師という仕事は難しいだろうと思う。

「好きでなくて、部活動指導なんてやってられない」、というのも分かる。
きっとたくさんの時間を割き、時に家族を犠牲にしての部活指導だろう。

私が見ている野球部の先生たちは、皆情熱的で、皆が生き生きとしている。
彼等の姿を見ると、私も元気が出てくる。

「若いっていいな…」なんて本気で考えてしまう。

一方で、「やっぱり最後は金だよね」、と納得してしまう若者がこわい…。
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